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「一老政治家の回想」(いち−ろうせいじか−の−かいそう)
古島一雄の回想録。昭和二十五(1950)年の「中央公論」五月号から緒方竹虎が対手となって談話速記をまとめたものを「一老政治家の回想」の題で連載したもの。昭和二十七年に古島は亡くなっているから、その内容はほぼ彼の全生涯をカバーすることになったといっていい。昭和五十(1975)年、中公文庫から刊行。
古島一雄は但馬豊岡(兵庫県)の人で、陸羯南、正岡子規などが健筆を揮った新聞「日本」の記者から、政友の犬養毅や頭山満、佐々木蒙古らの右翼系大陸浪人に推されて衆議院議員に出馬、当選した。その後は犬養とともに政界で活躍した。しかし、古島はほとんど政府入りをせず、唯一護憲三派内閣において逓信政務次官となったのが唯一の政府役員となったものであった。彼はほぼ一貫して党人として政治生活を送ったのである。その後、犬養の革新倶楽部が政友会に合同するに際して、犬養と共に古島は連袂して議員を辞した。犬養支持者がそうしたように、むりやり担ぎ上げて投票し、当選させるという動きは古島の支持者の中にもあったが、彼はこれを固辞した。それでも無欲恬淡、政治的色気のないの古島の門を叩く政治家は多く、のちに吉田茂も彼の門を叩いたり、幣原退陣・鳩山追放のあとで誰を後継首相にすべきかという相談も受けたりしている。
「入江相政日記」(いりえ−すけまさ−にっき)
昭和九(1934)年、学習院教授から侍従となり、昭和44(1969)年より侍従長となった入江相政が、母(柳原前光長女・信子)の勧めで、昭和十(1935)年元旦から急性心不全による急逝の前日まで克明につけていた日記。入江は晩年、息子の為年に、「日記の取り扱いは朝日に任せることにしたよ」と語り、侍従長退官後はこの日記の整理に当たる意欲を示していながらの急逝であった。
そして残された膨大な日記は、朝日新聞社の論説委員岸田英夫ほかによって編纂され、入江為年の監修を経て出版された。なかには、皇室の秘事も記録されている。
たとえば皇后(久邇宮)良子と皇太子妃(正田)美智子間の亀裂、皇后が「魔女」と侍従連に呼ばれていた新興宗教の熱心な信者である女官を重用したことなどは、その最たる例であろう。
しかし、この「入江日記」の重要な点は、戦前の「統治権の総覧者」が戦後の「象徴」とされたことにより、宮中がどのように変化したか、それを天皇のセクレタリーである侍従が、ほぼ五十年という長期間にわたって(入江本人ですら、この日記に関して「読み返すだけでもおおごと」と言っていた)宮中を内側から記録した、という点がきわめて重要なのである。
なお、入江はエッセイストとしても名高い。彼が「天皇の語り部」と言われた所以である。その著書には、処女作「侍従とパイプ」のほか、「天皇さまの還暦」などである。