家康が生まれた「岡崎城」は、現在「岡崎公園」として人々の憩いの場となっている。公園内には今も残る「家康産湯の井戸」。当時の「北曲輪門」が額田郡の民家に、「北門(二の門)」は「宿縁寺」(西尾市)に、「念沸堂赤門」が「謁播(あつわ)神社」(岡崎市)に、それぞれ移築され現存している。この家康始まりの地に、今もビジネスマンの多くが訪れているとか。
岡崎城 |
今川の人質時代や大御所時代、そして最期の時など、人生の大きな局面をこの城で過ごした。今は「駿府公園」となり、「東御門」「巽櫓(たつみやぐら)」が復元され、園内には家康像や「家康公お手植のミカン」などがあり、その木の大きさが、その年月を物語る。家康が「故郷のようなものだ」と語った「駿府城」には、戦からはなれて心休める、癒しの空気が今も流れている。
駿府公園 |
今川の人質として、太原崇孚の教育を受けた寺の一つ。太原崇孚は寺の経営者として腕をふるい、勅許を受けて駿河の勅願寺へと寺格を昇格させたほか、今川義元の政治・軍事・外交の軍師としても活躍した。今も当時の姿を残す同寺を訪ねると、国の重要文化財に指定されている本堂や山門を自由に拝観することができる。
臨済寺 |
家康にとって大きな転機をもたらした寺、松平家の菩提寺。初代親氏をはじめ、八代広忠までの廟所が二代将軍・秀忠により再建された。家康の遺命により、歴代将軍の位牌は同寺に納められており、それぞれの将軍の等身大のサイズで造られた位牌が並ぶ様は圧巻。また、大河ドラマでおなじみの「江」と「秀忠」の位牌も仲むつまじく並んでいる。
大樹寺 |
1570年、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、家康は三方ヶ原台地に浜松城を築城。29~45歳までの17年間をこの城で過ごした。姉川・三方ヶ原・長篠・小牧長久手などの幾多の戦いを迎えた浜松時代を経て、天下統一を果たしたことから“出世城”と呼ばれる縁起の地。歴代城主には幕府の要職に登用された者も多く、“出世城パワー”のおかげかも?!
浜松城 |
尾張を東海道防衛の要と考えた家康は、「清州城」に変わり拠点となる「名古屋城」を築城することを決意。後に家康が溺愛していたといわれる九男・徳川義直が初代尾張藩主となり、家康の遺命を守り続けた。現在、2018年の完成を目指して本丸御殿の復元工事が進められており、義直の居城として、あるいは上洛する将軍の宿舎として利用された往年の姿を見る日も近い。
名古屋城総合事務所 |
最期の時を迎えた家康は、「亡骸を久能山へ埋葬するように」と遺命を残した。西には朝廷や豊臣系の大名が虎視眈々と狙っている。死してなお、西方に睨みを利かせるために、家康はこの地を選んだとか。社殿は国宝指定を受け、二代将軍・秀忠の思いをそのままに今も鎮座している。家康が眠る神廟は西向きに建てられ、平和な世を見守っている。
久能山東照宮 |