5月3日、4日の両日、宮城県の被災地の様子を視察しました。民主党の有志議員4人と一緒でした。また5月10日には参議院環境委員会の視察で宮城県に行ってきました。
最初の視察では、仙台市、名取市、石巻市が中心で、後の視察は仙台市の瓦礫処理が中心でした。
5月3、4日の視察
(仙台東土地改良区)
仙台市若林区荒井にある仙台東土地改良区へ向かう途中、既に津波による甚大な被害を受けた住宅地や農地が広がっていました。仙台市若林区荒井は、海岸から約4キロメートル離れているのですが、ここにも津波が押し寄せ、約2キロメートル東側を通る東部有料道路(海岸から約2キロメートル)が堤防の役割を果たしたため、この道路の東側(海側)と西側とでは被害状況が明らかに異なっていました。仙台東土地改良区へ到着し、佐藤稔理事長らから説明、要望を受けました。
仙台東土地改良区においては、約2300ヘクタールの農地へ用排水事業を続けていますが、排水設備が壊滅していました。藤塚排水場近くの五柱地区には約100所帯の住宅地であったと説明を受けたものの、やはり壊滅していました。佐藤理事長の長女(31歳)も津波から逃げようとして自動車に乗ったものの逃げ切れず死亡したとのことで、辛い中での説明をお聞きしました。「9日目に見つけることができたから、顔もきれいなままでよかった」とおっしゃって、私も涙が溢れました。気丈な佐藤理事長は、現在も地区の中学校の避難所で生活しておられ、食事は最近弁当に変わったが、入浴は週2日とのことでした。辛い思いをこらえながらの佐藤理事長に心から敬意を表したいと思います。
(わかば幼稚園)
その後、名取市閖上(ゆりあげ)地区にある、わかば幼稚園に到着しました。わかば幼稚園の佐々木洋事務長(なお、同人は佐々木一十郎名取市長の長男)、全日本私立幼稚園連合会の高橋良行事務局長、宮城県私立幼稚園連合会の村山十五理事長らより説明を受けました。佐々木事務長は、津波について「がれきの壁が押し寄せてきた」ので、幼稚園に隣接する自ら経営する酒蔵の屋上に逃れて一命を取り留めたものの、「津波が引いた後は地獄だった。自分たちしか生きていないのかと思った。命の匂いがしなかった」と述べておられました。約600所帯あった閖上地区も壊滅状態です。佐々木さんも悲しみに包まれているはずですが、気丈な方だと胸を打たれました。
(本願寺別院)
仙台市青葉区で本願寺仙台別院(浄土真宗西本願寺派)を訪問しました。本堂には、全国1万ヵ寺の末寺から届いた支援物資が集められており、ボランティアによって仕分けされた後、必要とされる場所へ提供を続けておられました。この日も龍谷大学の学生を含む約50人がボランティアとして働いておられました。
(石巻市長ら)
石巻市役所市長室において、亀山紘市長、阿部政昭市議会議長ら約20名から説明、要請を受け、岡田幹事長(民主党東日本大震災復旧・復興検討委員会委員長)宛の要望書を預かりました。
石巻市は宮城県の中でも特に被害がひどいところで、人口約16万3000人のうち2933人が死亡し、4月4日時点での行方不明者が2770人に達するという惨状です(混乱のため現時点での行方不明者は判明していない)。
避難所は市内に108ヶ所あり、約9700人が現在も避難所で不自由な暮らしを続けているとのこです。市長からも「石巻市だけではとても対処できないので、国の支援をお願いしたい。製造業(日本製紙等)の復興に港の復旧が不可欠である。水産業、水産加工業の復興には漁港の復旧が不可欠である。」等の発言がありました。
確かに、東日本大震災においては、被災地の基礎自治体の大半が小規模であり、阪神淡路大震災における神戸市と比較するならば、人的、財政的余力も乏しい。財政支援はもちろん重要ですが、現に石巻市の職員数は、1800名であり、現業職等を除くと約1000名です。石巻市長らの要望は、専ら財政支援であるが、膨大な復旧、復興行政事務を石巻市だけで担えるのか、「地方主権」の大方針は堅持しつつも、冷静な検討は必要であると思われました。
(石巻工業港)
石巻港(石巻工業港)へ移動し、進藤光司港湾事務所長ら4名から説明を受けました。港内には新造船のタンカーも座礁しており、津波の大きさに改めてビックリした次第です。
(鹿妻小学校)
石巻港を出て、門脇地区、南浜地区を視察した後に北上川を渡り、湊地区、さらに鹿妻(かずま)地区を視察した後、正午過ぎ、鹿妻小学校避難所を訪問し、浅野仁美(ひとみ)本部長、清元吉行校長先生からお話しを伺いました。
鹿妻地区はおよそ200所帯であるものの、震災直後、この鹿妻小学校の避難所には、周辺地区の住民も含めて約1700人が生活していたようです。本避難所に入ることができなかった人々が、本避難所の周辺に自動車を止めて、その中で生活する等しており、居住者に加えて、彼らも食事や物資を求めたため、その人数はピーク時の3月24日時点で約3400人に達したとのことです。
その後、県外等の親戚等を頼ったり、4月15日、16日頃、避難所周辺は電気、水道が復旧したため、住宅の損壊が一部に留まった者らが避難所を出たため、現在の居住者は約300人、150所帯とのことです。周辺地域は、未だガスが復旧していないため、1日500〜600食の食事も提供しているが、その炊事は自衛隊が担っているとのことです。
現時点の居住者約300人は、その大半が自宅に戻ることが不可能で仮設住宅を待っている人々です。早期に必要数の仮設住宅を建設することが重要だと実感をしました。本避難所の運営は、前記の通り、震災直後には教職員が取り仕切り、大学生らのボランティアがこれを手伝っていたが、震災の1週間後から徐々に居住者らに委ねられたとのことです。浅野本部長も居住者であり、市職員等ではなく、子どもが鹿妻小学校に通っており、教職員らと顔見知りであったことから、教職員らの運営を手伝ううちに、グループの世話役となり、本避難所の運営を担うに至ったとのことですが、とてもしっかりとした方でした。浅野本部長によると「大きな支援拠点よりも、小さな支援拠点が多い方が助かる。気配りのある支援をお願いしたい」とのことでした。被災住宅に関しても、浅野本部長の自宅は津波に襲われたものの2階部分は損壊していない。しかし、1階の玄関が壊れているし、玄関が壊れているから、恐ろしくて戻ることができないようです。
(石巻漁港)
石巻漁港に赴き、水産業、水産加工業、魚市場の各代表、市職員から説明を受けました。石巻漁港は、今回の地震で地盤が約1メートル沈下してしまい、満潮時には冠水してしまう。したがって嵩上げ工事をしなければ、魚市場や水産加工場を再建することができません。実際にお話を聞いている間にも段々と海水が溜まり始めていました。水産加工業者からは「二重ローン」に関する訴えもありました。建物が損壊し、リース物件も流失してしまったが、建物のローンやリース等、「旧債務」はそのまま残っており、作業所を復旧、復興したなら、従前のローン、リース債務に加えて、新たな建物建設費、機械、備品等のローン、リース等「新債務」を二重に負担せざるを得ず、復興の際の大きな足かせとなっているようです。これはなかなか難しい問題ですが、立法を含め政治が取り組まなければなりません。
(仙台市における瓦礫処理)
5月10日には参議院環境委員会の視察で宮城県仙台市などに行きましたが、仙台市はさすがに東北地方の中心都市ですから人員体制も整っていて瓦礫処理はキチンとされているようです。瓦礫の仮置き場を設置していましたが、その場所はもともと運動公園でした。この運動公園に柵などを設置して、キチンと瓦礫の分別もしてあって、電化製品、車、畳などそれぞれ山積みにされて、次々に搬入のためにダンプカーも出入りしていました。仮置き場の場所を確保しているので、とりあえずは此処に運び込むことができますが、これを例えばそれぞれのリサイクル法に従って適切に処理しなければならないとのことで、この処理に相当長期間かかるようです。正直言って、こうした震災時だから厳密に適正処理ばかりを言うのではなく、ある程度は柔軟に運用しても良いのではないかとの思いもありますが、日本人は生真面目だなあとの実感も深くした次第です。
仙台市だけで推計の震災廃棄物は約103万トンとのことで、膨大な時間と人手がいることが一目で分かります。仙台市としては一応3年を目途に処理したいとの意向ですが、容易ではありません。廃棄物処理は基本的には市町村の業務ですが、小さな市町村ではとても処理できず、県や国の支援は必要です。とりわけ国からは財政的な支援をお願いしたいとの要請を強く受けた次第です。
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