Joji Yamamoto
山本 譲司
1962年、北海道生まれ、佐賀県育ち。早稲田大学教育学部卒。衆議院議員2期目を迎えた2000年9月、秘書給与流用事件で逮捕。2001年6月、一審での実刑判決に従い服役。出所後の現在、東京都内の知的障害者更生施設に支援スタッフとして通うかたわら、全国各地での講演活動も積極的に行なう。
山本 譲司 さん(元衆議院議員)
政策秘書給与の詐取で逮捕された山本さんが刑務所で出会ったのは、障害児のわが子を心配する父、介護に疲れて妻を殺した老人、そして身元引受人もいない障害者達だった。そんな受刑者が集まる中、山本さんは彼らの世話係の役を与えられていた。心身に障害のある受刑者の排泄物の始末から福祉の相談まで行なった。そうした経験から見えたものとは何だったのだろう。
入所後いきなり、年齢がひと回りも下の刑務官にいきなり「オイ、山本」「こらっ、山本」と怒鳴られながら素っ裸にされ、肛門まで検査されるのですから、その時、屈辱感を覚えたのは確かです。「こうしてプライドが一枚一枚剥がされていくんだな」と思いました。刑務所では、居室である房内でも足を伸ばしたり頬杖をついたりすることも許されません。見つかったら懲罰房に入れられ、その結果、仮釈放の日も遠のいていきます。まさに一挙手一投足まで、自分の行動を監視されているんです。刑務所での暮らしに一応の覚悟はできていたつもりでしたが、やはり、はじめは身体がなじめませんでした。
寮内工場には身体・知的障害者が多く、他には痴呆老人、自殺未遂常習者、それに薬物の後遺症を抱えた受刑者などがいました。関東なら八王子に医療刑務所があるので、障害のある受刑者はそこに移送されているものだとばかり思っていたのですが、そうではなかった。しかも彼らは「処遇困難者」という位置付けで集められているので、福祉的な視点で扱われることはなく、医療面でのケアは全くありませんでした。
彼らの仕事は、色のついたロウソクの欠片を色別に仕分けしたり、両端を結んであるビニール紐をほどくといった程度のおよそ生産労働とは言えない内容でした。分けられたロウソクは、またごちゃ混ぜにして次の日の作業に回しますし、ほどかれた紐もまた結び直して次の日へ。その繰り返しです。自分がどこにいるのかすら理解できていない人もいましたから、悲しいかな、とても生産的作業はこなせないんです。
だから、彼らがどんな裁判を受けてきたのか非常に不思議でした。出所後、調べたんですが、字が書けない人が取調べ中、「自分がやりました」と書き、それが証拠書類となって実刑判決を受けている。そんな例もありました。無理矢理書かされたとしか思えません。また、公判中、心神耗弱状態になり、被告人席で素っ裸になってわめいていた人が長期の懲役刑を受けている。当然、罪を犯した者には罰が必要ですが、果たして裁判官は懲役刑を務めることができる人間かどうかを真剣に見定めているのか。この点については、強い疑問を持っています。刑確定後の罰のあり方も考える必要がありますね。
刑務官の補佐をする指導補助という役割を命じられていました。実際のところは障害のある受刑者の世話係で、作業の振り分け、それに彼らが失禁したり漏便した時の後始末、さらには食事・入浴の介助など生活面でのケアをしていました。
矯正統計年報によると、現在、年間3万人くらい新たな受刑者が入ってきていますが、そのうち4人に1人が知的障害者と認定されるIQ70以下の人達です。黒羽刑務所寮内工場には、私と同じ詐欺罪で服役している人が多かった。が、私のような狡猾な犯罪ではなく、無賃乗車や無銭飲食といった軽微な犯罪がほとんどです。刑法39条によって「心神喪失者は罰せられない」という誤った考えが流布していますが、実はそれは極めて稀有な例です。心神耗弱状態の障害者もどんどん実刑判決を受けています。皮肉っぽく言えば、ある意味、司法の場では一般社会よりもずっとノーマライゼーションの考えが進んでいるんです。
厳罰化を求める世の中の声に後押しされ、そうなっているのかもしれません。バブル経済崩壊以降、犯罪が激増しているといわれていますが、実は検挙人数そのものは横ばい状態で、増えているのは送検人数なんです。そんな中、障害者は健常者よりも執行猶予がつく率が低く、自転車泥棒やパンを万引きしたぐらいで実刑になって刑務所に入ってきているんです。
ここで誤解のないように言っておきますが、障害者の特質として彼らが犯罪をおかしやすいという因果関係は決してありません。これは健常者もそうですが、罪を犯した人というのは、貧困だとか家庭環境だとか、いろんな悪条件がたまたま重なることで、不幸にも犯罪に結びついてしまうケースが多いんです。よって障害者の場合、より劣悪な生活環境におかれることが多い。そのことを証明しているようなものではないでしょうか。
さらに言うと、司法の場が障害者を「執行猶予をつけ社会の中で暮らさせるより、刑務所にぶち込んでおけ」と考えている節がある。障害者に対する偏見と差別ですね。ただ、裁判の過程で、彼らは、公には障害者として認められていませんから、医療刑務所ではなく、一般刑務所に服役することになるわけです。
ある肢体不自由の受刑者が出所を前に「また刑務所に戻って来たい」と言っていました。「僕ら障害者は生まれながらに罰を受けているんだ。例えて言えば、生まれた時に右手切断の刑を言い渡されたようなものだ。だから罰を受けるのは一般社会でも刑務所でもどちらだっていい」。さらに「塀の外よりも刑務所の方がずっと暮らしやすかった」と真顔で語るんです。そう言われたときは、本当にショックでした。自由も尊厳もない刑務所の方が、外の社会より暮らしやすいとは。永田町から見ていた福祉がいかに表面的なものだったかと思い、自分自身が情けなくなりました。
政治家を目指したというより、小学生の頃から、自分のまわりの社会に矛盾を感じることが多かったので、政治には興味を持ちながら育ってきました。まず疑問に思ったのは、被差別部落の問題です。 私は子供の頃、九州の片田舎で暮らしていたんですが、同年の友人でも母親が被差別部落出身者だと、友達の家でも表玄関から入れないとか、お年玉の額が違うとか。そういう不条理が悲しかったし、憤りを感じていました。
そうしたいまの社会をつくっている大人はどういう人達なんだ?と思っていたらロッキード事件(注1)が起き、政治家3人が逮捕された。社会のルールをつくる政治家の犯罪だったので、まわりの友達から異常だと指摘したくらい義憤を感じました。
その自分が政治家になって、刑事事件を起こしたのですから噴飯物ですよね。
なにがなんでも政治家という思いはなかったですね。選択肢の一つとして漠然とは考えていましたが、それよりもジャーナリストを目指していました。大学時代も人権問題に興味を持ち続け、水俣病(注2)や山谷の問題(注3)に関わっていましたし、インドのカースト制度(注4)を体で味わおうと、寝袋一つでアウトカーストの部落に3週間くらい泊まり込んだりもしました。帰国してからは山谷に住み着いてドヤ街で肉体労働をしながら、日雇い労働者の福祉の向上を目指す運動をしていました。
当時、東京で社会労働委員会(現厚生労働委員会)に所属していた国会議員は、社民連にいた菅直人代議士で、菅さんにも山谷の問題を取り上げてもらいたくアプローチしようと思っていたとき、ちょうど菅直人事務所の秘書募集広告が出ていた。そこで試験を受けて、菅さんの事務所に政策スタッフとして入ったわけです。
後に秘書給与の詐取事件を起こしたのも、そのへんに事情がないとはいえない。あまりにも順風満帆で、もっといろいろな経験をした方がよかったのではないかと思っています。
あまり人様のことには言及したくないんですが、多くの議員が窮余の策として行なっていたことは確かです。当時の私は、このような趣旨に反する秘書制度の運用実態を知り、やはりおかしいんじゃないかと考えていましたし、周囲にも疑問をぶつけていました。でも永田町でそういうことを言うと「何を青臭いことを!」とたしなめられる。永田町とは、そういう世界でした。でも永田町の中で、自分自身の感覚も麻痺していったんですね。
やはり政治家は立法にかかわるわけだから、法に抵触することをやってはいけない。だから清濁合わせ飲むというのは通用しないと思います。実は私は逮捕されたから政治家を辞めたというよりも、一部の週刊誌で私の疑惑が取り上げられた時、かねて後ろ暗い思いはあったので、すぱっと辞めようと思いました。法に触れるような行為をしていながら、一方で法律をつくることはできませんからね。
また、元秘書という身内からの暴露で事件が表沙汰になったことが一番のショックで、自分の存在そのものを否定されたような気がした。そうなったのもすべて自分自身の傲慢さが招いた必然的結果なんですがね。
したがって私にとっての秘書給与詐取事件とは、単に法律を破ったというだけの問題ではなく、私の人生そのものに対する警鐘だったと思っています。
障害者と深く濃く接する機会を与えていただいた経験から、議員在職時よりもさらに、福祉の問題に興味を持つようになりました。そこで私は出所後、とにかく福祉関係の資格を取得しようと考えていました。しかし本来、福祉というのは、はじめに制度ありきでそれに基づいて仕事をするのではなく、ニーズがあるからこそ、それに応えるために福祉活動を行なうわけです。まだまだ福祉の分野では法律が未整備なところも多々あります。資格の枠内でいろいろ考え何かやろうとするよりも、いまの福祉のニーズは何かを探るため、身体でいろいろ体験したい。そう考えるようになり、出所後、様々な施設に行きました。いまは刑務所内で知り合った受刑者が入所前にいた施設に週2、3回ほど、支援スタッフとして通っています。
例えば、宮城県の浅野知事が提案しているような、障害者施設を解体し、地域の中で生活させようという、措置から支援への流れがあります。その方向は正しいと思いますが、そこにあてはまらない行動障害のある人もたくさんいます。そのことに行政は気づいていないし、当然、支援制度もできていない。施設解体はいいけど、施設を再生する必要もあると考えています。そこでいま私は、障害を抱えた身寄りのない受刑者を受け入れるための施設や制度をつくりたいと考えて活動しています。
専門的な知識を得るのは必要。でも資格が先と考えるより、どんどん現場に出て行ってほしい。現場はまだまだマンパワー不足。現場の中でやりたい道を見つけられると思います。資格を持つことも必要だが、世の中に向かって、新しい制度をつくるために働きかける方がよほど面白い。法律は金科玉条ではないのだから、いろいろな体験をして、その経験を踏まえて法律を変えてやるぐらいの意気込みで福祉活動に取り組んでほしい。
過去に罪を犯した私などがメッセージというのもおこがましいとは思いますが、そんな失敗をした経験から考えたことをあえて言わせていただきます。
秘書給与詐取事件については、国民のみなさんに対して本当に申し訳なかったと考えていますし、結果として実刑になってよかったと思っています。
私は吉田松陰が好きなんですが、彼は23歳で密出国の罪で牢獄に入りました。その牢獄内での処遇は士農工商という身分制度は関係なく、それまで士族としか付き合ってなかった彼にはとても新鮮な体験だったようです。その後、『草莽崛起』という考えを世に示したわけですが、在野から日本を変える必要性に牢獄で気づいたんですね。
国会というのは世の中が見えていそうで、実はなかなかその本質が見えないところです。高速道路を走っているようなものでしたね。いろんな地点を通過して多くの景色は見ているが、細かい中身は見えていない。一方、刑務所はというと、そこは閉鎖された世界であるけれど、奥行きの深い人間社会を見ることができたと思っています。私自身、塀の中で、あらためて初心にかえることができたと総括しています。
そういう経験も踏まえて言えるのは、人生いつもスタートラインだということです。人間いくつになっても「これまでの人生はこれからの人生の準備期間だ」と思えばいい。ちなみに私の父は、現在74歳で癌を発病し、そんな体で車椅子生活の母を介助していますが、最近、福祉関係のNPO法人をつくったりして、まだまだ将来への夢を語っています。その姿に接すると、私までも力が湧いてきます。
人生には蹉跌がつきものです。そんな時、「もう駄目だ」とつい落とし穴の思考にはまりがちですが、挫折感から逃れようと短絡的に答えを出さないことが大切だと思います。自分をとことん疑ってかかることが必要です。その方が自分というものが分かり、自信が生まれてくることもありますから。だから高校の頃に進路を決めないといけないとか、無理に考える必要はないと思います。終身雇用制も崩れてきているし、いつだって新しいことを始められる世の中になっているのですから。真剣に考え抜いた上での行動に対しては、それを受け入れる社会の土壌・環境はいくらでもあると思います。絶えず将来のことを考えながらも、あせらず、てらわずってことですね。
(注1)アメリカのロッキード社が航空機売込みの際、日本の政界に多額の賄賂を贈ったとされる件で、その年のアメリカ上院外交委員会で発覚し、1976年、田中角栄前首相らが逮捕された。
(注2)チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を36年間水俣湾に流し、魚介類を食べた人々に発生した大規模な有機水銀中毒事件。
(注3)山谷とは台東・荒川区にまたがって広がる簡易宿泊所、通称「ドヤ」が分布する地区。60年代に全国有数の「寄せ場」(日雇い労働市場)に成長。都市基盤の建設に山谷の日雇い労働者は不可欠だったが、高度経済成長の終焉とともに深刻な求職難に陥り、現在は高年齢化と失業の常態が問題となっている。
(注4)ヒンドゥー教に基づく身分制度。現在は法的な制度ではないが、社会的、心理的に根強く残る。バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの4つからなる。それ以外にアウトカースト、不可触賤民といわれるアチュートが1億人いると言われ、差別的な扱いを受けている。
Joji Yamamoto
山本 譲司
1962年、北海道生まれ、佐賀県育ち。早稲田大学教育学部卒。菅直人代議士の公設秘書を務め、都議会議員を経て国政の場へ。衆議院議員2期目を迎えた2000年9月、秘書給与流用事件で逮捕。2001年6月、一審での実刑判決に従い服役。出所後の現在、東京都内の知的障害者更生施設に支援スタッフとして通うかたわら、全国各地での講演活動も積極的に行なう。また、弁護士グループや福祉関係者とともに、「障害のある受刑者達の出所後の受け入れ施設」づくりに取り組む。
【山本 譲司さんの本】
『獄窓記』