ジャーナリズムの基本原則が日本でも徹底されるために (上杉 隆)
加瀬さんは、なかば呆れながらも、私の奇妙なお願いを許してくれた唯一の出版オーナーであった。
そこまで私が「訂正」と「引用」などにこだわるのは、それを日本のジャーナリズムに根付かせたいという願いがあったからだ。
ところが今回、あろうことか、読売新聞記事の盗用疑惑のネット上での騒動の中で、かつての担当者のひとりが、私の盗用を疑うようなことを言い出したのだ。
他の無責任な、過去の経緯も知らない池田信夫氏や江川紹子氏がそういうことを言っているのは仕方ないと思っていた。
だが、かつての編集者がそう思っていることで、私は正直、驚くとともに悲しくなってしまったのだ。
なにしろ、参照や引用を忘れがちなその元担当編集者に、クレジット明記の必要性を説き続けたのは、10年前の私自身だったからだ。
いや、こうした人心の変異は、3.11以降、なんとはなしに実感していた。
そもそも、私が日本のメディアにきちんと関わり始めた12年ほど前から、そこではずっと「ミス」や「訂正」を認めない無謬主義がはびこっていたのだ。
そして日本のメディアの「ミス」や「訂正」自体を悪とみなすそうした風潮が蔓延することで、そこで情報を発信するジャーナリストたちは無意味な圧力と戦わなくてはならなくなったのだ。
その結果、フレンチ氏が言うような健全なジャーナリズムの精神は、記事を書く度に、日本のメディアに特有の官僚主義的な空気とぶつかることになる。
ひとりを除けば、かつての私の担当編集者ならば知っているだろう。
私がどの編集部に対しても、共通に訴えてきたことは「署名」「訂正」「引用」の3つをきちんと明記することだった。
悪意と作為に満ちた記事は 放置自体が「罪」と気付いた
今回、私は絶対に看過できない記事をみるにつけ、放置自体が「罪」であり、日本の言論空間、なにより福島の被災者をはじめ、日本のためにならないことにやっと気付いた。
そう、「BLOGOS」と「アゴラ」の悪意と作為に満ちた劣悪な記事やその筆者である池田信夫氏の言論を多様性を根拠に放置することは、百害あって一利なしだったのだ。
彼らは、訂正も取材者に当てることもせずに記事を作っている。そしてその記事をまともなジャーナリズムであるかのように扱う他の知識人もいる。
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加泰龍
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加泰龍
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