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シリーズ復興 渋谷昶子監督インタビュー 前編

大連から引き揚げ:今だから言えること

渋谷昶子監督インタビュー      聞き手:関口祐加

2011年5月2日   渋谷宅にて

 

fukkousibuya01.jpg

 

 

関口:渋谷昶子監督は、日本の敗

戦後、大連からの引き揚げを経験さ

れました。まずは、その辺りからお話

しを伺っていこうと思います。

最初からお年をお伺いしては、失礼

と思いつつ、渋谷監督は、1932年の

お生まれで・・

渋谷:はい、はい、そうです。この3

月で満79歳になりました。

関口:大連生まれで、引き揚げてい

らっしゃったのは、皆さんよくご存知

だと思いますが、敗戦の頃で、ちょう

ど13歳位ですか。とても多感な年頃

だったと思うのですが、まずは、その

頃のお話しを聞かせて下さい。

 

渋谷:折角のご要望なんですけれど、私は、大連で生まれて、引き揚げなければならない時ま

で、平平凡凡で、むしろ幸せ過ぎる位の環境でしたね。というのも、父が大連で食料関係の工

場の工場長だったので、敗戦後も大連に留まり、優遇されていたんです。ただ、父が、鹿児島

の自分の父親にどうしても会いたい、ということで最後の引き揚げ船に乗ることになったんです

が、そこからが、天国と地獄のようでしたけれど。

関口:最後の引き揚げと言うと、何年になるんでしょうか。

渋谷:敗戦から2年後、1947年です。

関口:敗戦から2年間の大連も大変だったのでは、ないですか?所謂中国の過渡期の頃です

ね。

渋谷:そうですね。ロシアの侵攻もありましたし、日本の企業は、もちろんつぶれ、また、満蒙

開拓団の人達も大連に集まり、引き揚げを待つ、という日本人としては、とても厳しい状況で

した。ただ、父は、ピーナッツや大豆を加工する工場の工場長だったので、比較的あまり変わ

りのない生活が、出来ていました。

関口:工場は、どの位大きかったんですか?

渋谷:日本にも工場があった日清製粉が、一番大きくて、父の工場は、大連では、3番目に大

きかったんですね。敗戦後は、苦労をした日本人が、多かった中で、父が、いないと工場が稼

働出来ないということで、逆に優遇されました。

労働者は、ほとんどが、中国人だったんですが、とてもいい関係にあったんです。そして、家に

は、所謂中国人の下男さんと言うと、本当に失礼なんですけれど、私のことをとても可愛がって

くれていたんですよ。でも、その人が、終戦後、人民軍の将校になったんですよ。とってもイケメ

ンさんで・・・

関口:へえええ~そうだったんですか。

渋谷:それで、前畠さん(渋谷さんの本名)一家には、お世話になったので、お守りします、って

言って下さってー。それは、もう、すごくドラマチックでしたね。だって、工場の中に中国共産党の

アジトがあったんですから。父は、そんなこと知りませんでしたし、私なんか、もちろん知らない。

それで、敗戦後は、その将校だった下男さんが、家にいると危ないかも知れないから、アジトに

行って下さいって、言うの。そっちの方が、安全だからって。

関口:本当にドラマのようですね!工場では、どの位の人数の人が、働いていたんですか?

渋谷:200人位だったと思います。

 

関口:それでは、前畠昶子さんとしては、比較的に恵まれた13、14才だった、ということでしょう

か。

渋谷:ただ、その頃は、結核が流行りまして、私も結核になり、肋膜も併発したので、ひょろひょ

ろには、なっていましたね。そんな状態で引き揚げて来たんです。

関口:話しは、ちょっと前後しますが、映画がらみでは、例えば、大連では、映画をご覧になった

り出来たんでしょうか?

渋谷:父は、出かけることに厳しかった人ですが、母が、映画が大好きだったので、こっそり見に

出かけて、夕食の時間に間に合うように、二人で走って帰ってきたこともありました。

関口:当時は、どんな映画を大連でご覧になったんですか?

渋谷:「男の花道」が、印象に残っていますね。長谷川一夫、古川ロッパ、それに水谷八重子が、

出ている映画とかね。他には、家で過ごすことが、多かったので、音楽、レコードをよく聞いていま

した。

fukkousibuya02.jpg関口:そんなに豊かで素晴らしい大連の生活に別れを告げるのは、やはりお父様が、鹿児島に

いらっしゃるお父様に何としても会いたい、ということが大きかったんですかそれとも段々いづらく

なってきた、とかー。

渋谷:いや、いづらくなるということは、全然なかったですよ。ただ、事件があったんです。父が、

当時のソ連に目を付けられた、というか。つまり、父のような技術者をソ連が、欲しがったのね。

ある日、突然にソ連の将校が来て、父のことをモスクワに連れて行きたいって言うんです。

関口:ええええ~っ!

渋谷:私たちは、女3人だったんですね。母と母方の祖母と私。で、3人は、すぐに乗り気になっ

て、喜んじゃって、即ロシア語を勉強したりしたんです。ところが、父は、何かを感じたのかしら、

どうしても鹿児島にいる自分の父親、つまり、祖父に会いたいから行きたくないって言い張った

んです。それで、ようやく我々の引き揚げが、決まったんですね。その前にも鹿児島の班の引き

揚げ船が、あったんですが、ロシアに行くかも知れないということで、乗り遅れていたんです。仕

方がないから、お金を使ってよその県の人達と一緒に、逃げるように引き揚げ船に乗船した。

朝ご飯を食べて、すうっと、家を出てね。

関口:えっ、じゃあ、見張られていたか何かしたんですか?

渋谷:いえいえ、見張られてはいないけれど、きちんと挨拶して「さようなら」なんて中国の人にも

ロシアの人にも言えない訳ですよ。ちょっといい身なりは、していたものの、着のみ着のまま、フ

ワ~っと1人ずつ、家を出たんですね。

関口:本当にそんな感じだったんですか!で、どこどこで会いましょう、ということですか?

渋谷:そうそう。引き揚げ船が停泊している港の集結場があったんで、そこで、会いましょうという

ことになっていました。

関口:まるで、映画のようですね・・・それは、お父様は、日本に帰国するということが、言えなか

ったという状況だった訳ですね?

渋谷:それは、やっぱり言えなかったんじゃない?だって、中国の人たちが働いている工場を言

わば、見捨てて日本に引き揚げる、ということでしたからね。

関口:そうですか・・・(渋谷さんは)どんな気持ちだったんでしょうか?

渋谷:私?女3人(母と祖母と本人)は、ロシアに行きたかった訳ですから。で、私は、モスクワか

ら「日本の皆様?」とかやろうと思っていたんですよ。

関口「東京ローズ」のロシア版!「モスクワ・ローズ」みたいな感じで・・・

渋谷:そう、そう。でも、もし、行っていたら、大変だったわね。戦後、大変な粛正に合っている訳

だから。きっと、シベリア辺りで死んでいたでしょうね。

関口:そうですよね~(苦笑)

渋谷:だから、人間の運命なんて、ホント、分からないわよね。

 

関口:それで、そんな思いで引き揚げ船に乗船されて、その引き揚げ船は、鹿児島行きだったん

でしょうか。

渋谷:いえ、引き揚げ船は、全部佐世保行きだったんですね。

関口:ああ、そうですか。

渋谷:ですから、どこの県の方達も一旦は、佐世保に上陸したと思います。大連から佐世保の港

が、一番近かったから。

関口:なるほど。で、初めてご覧になる日本は、いかがでしたか?すでに、終戦から2年たってい

る訳ですよね。

渋谷:引き揚げ船と言っても、貨物船でしたね。皆船底に入れられて。甲板までもの凄い梯子を上

らないと行けないんですよ。で、その船底にゴザだけ敷いてね。まるで、今の被災地の方達と同じ

ような状況でしたねえ。食べ物と言えば、バケツのような容器に雑炊のみ。柄杓でお椀に注いでも

らってー。もう、天と地ぐらいの差でしたね。

関口:何日位、かかったんですか?

渋谷:3日間位ですかね。

 

fukkousibuya03.jpg関口:お嬢様のような生活か

ら、突然のそんな船の中へ放

り込まれて、いかがでしたか?

渋谷:まあ、当時は、そんなこ

と、考える余裕は、あまりなか

ったですよね。こっちは、結核

上がりだった訳ですし。まだ、

熱もあったりして、ね。

関口:で、ようやく日本が、見

えて来た時は?

 

 

渋谷:日本が見えるぞ、ということで、父と一つ一つ階段を上って、甲板に一緒に出たんです。

ずうっとこんなこと言うまい、と思っていたんですが、もう66年経ったからいいかな、と思って言い

ますけれど、緑は、きれいでした。あっ、緑だ!って思いましたよ。

関口:あっ、そうですね、大連には、何にもなかったんですよね?

渋谷:そう。平たくて、海だったし・・・そして、佐世保には、点々といっぱい小屋があることに気が

付いたんです。それで父に「日本の方って、皆犬を飼っているのね。」って言ったんです。つまり、

犬小屋だと思ったんですよね。(笑)そうしたら、父が、周囲を気にして、こうやって、私の口をひね

ったんです。黙りなさい!って言いながら・・・他にもたくさんの人が、甲板に上がっていた訳です

し。

関口:まさか、人が住んでいる小屋だとは、思わなかったんですね。

渋谷:そうですね。あの時の印象だけは、今も忘れませんねえ。

佐世保に上陸後、今度は、鹿児島に向かう列車に乗ったんですが、もうスゴイ人、人、人だらけ

で、私は、網棚に乗って、そこで眠りましたよ。一番、気の毒だったのは、妊婦さんでね。とにか

く人だらけの寿司詰め状態だったので、トイレにも行けない。

関口:それでは、どう・・・したんですか?

渋谷:大変な時は、皆助け合うんですよね。バケツを回して、そこでオシッコをして、窓からパーっ

と捨てたんです。

関口:わあ~・・・

渋谷:そう。そんなことを目撃したりしたんで、列車の時間の方が、長く感じましたよ。鹿児島ま

でどの位、かかったんでしょうかね。今となっては、思い出せないんですけれど。

 

関口:そんな思いをしながら、お父様のお父様、つまり、お爺様のところへ、行かれた訳ですね?

渋谷:それが、また、大変だったんですよ。というのも、終戦の8月15日にウチのお爺さん、もう

死んでいたんですね。

関口:えっ!

渋谷:鹿児島から電報を大連に向けて打ったらしいんですけれど、もう終戦のドサクサで、電報

なんて届かなかったんです。そりゃ、そうですよね。8月15日だもの、電報なんて届く訳ないです

よ。つまり、その電報が、大連に届いていたら、父も大連から離れるとは、言わなかったんじゃな

いかって思うの。

関口:いやあ、スゴイ運命の分かれ目ですね~

渋谷:電報が、届いていなかったばっかりに、まだお爺さんは、生きていると思って、引き揚げて

来たわけね。

関口:本当にドラマチックですね!それで、お父様の実家に帰られて、どうなったんですか?

渋谷:父の家は、鹿児島で百姓をしていたんです。鹿児島の最南端ですよ。文化が、果つる村

って感じで。そんなこと言ったら、失礼なんですけれど(笑)。

指宿は、有名ですが、そこから延々と歩いて2時間位の村です。関門岳って富士山に似た山の、

そこの裾野の村でした。全戸が、お百姓の村ですよ。辿り着いたら、村の人達が、牛車で迎えに

来てくれていました。ひょろひょろしている私だけは、乗せてもらって、村に帰ったんです。

関口:遂に、お父様のご実家に帰られたんですね?

渋谷:そうです。ところが、こんな所に村が、あるの、というようなところだったのに、父の家だけ

が、焼けていたのよ。

関口:焼けていた???

渋谷:何でもアメリカの爆撃機が、帰る途中、爆弾が一つ残っていたらしく、落としたところが、

父の実家だったんですよ。

関口:ええええ~、信じられないような話しですね!

渋谷:村に空襲に来た訳ではなかったらしいのよ。父の村には、1回も空襲なんてなかったんで

すよ。だから、わざわざ村に来る訳、ないでしょう。それで、日本のどこかの町を空襲して、残った

爆弾1機をヒョイと落としたら、父の家に見事に当たっちゃって・・・

関口:大連から苦労して引き揚げられて、お爺ちゃんにお会いになれるかと思ったら、すでに亡く

なっていて、実家に帰れば、唯一アメリカ軍の爆弾で焼かれてしまっていた・・・

渋谷:50戸ぐらいしかない村の話しですからね。村から迎えに来て下さった人達から聞いて、父

は、相当しょげたと思いますよ。

父の母は、すでに亡くなっていて、お爺ちゃんは、後妻をもらっていたんですね。まあ、お婆ちゃん

になる訳ですが、その人が、もう庵のような、堀建て小屋と言ったらいいのか、私には、原始人が

住むような家に見えましたねえ。(笑)そんなところに住んでいたんですよ。ああ、また、船底と同

じような環境になるんだなあ、と思いましたよ。

関口:へえええええええ~(絶句)その時は、さすがにビックリされましたよね?

渋谷:いや、もうビックリ以上でしたねえ・・・

それで、私は、娘一人だったので、母が、着物は持って帰れなかったけれど、反物だけは、結構

持って帰ってきていたんですね。それが、10反ぐらいあったのね。で、その反物をすぐに売って、

そこの場所に家を建てたんですよ。結構、大きな家をわりかし早く建てましたね。

関口:そうですか・・・

 

渋谷:当時は、本当に色々なことが、運命のように重なり合って、そこで何が幸せになるか、不

幸になるのか、全く分からなかったですよね。

関口:いやあ、紙一重だったんですね。人生ってその時々の選択って言いますけれど、どう転ん

で、どんな結果になるのか、お話しを伺っていると本当に分からないですねえ。

 

                                                  つづく