シリーズ復興 渋谷昶子監督インタビュー 後編
私たちは、1人じゃない
渋谷昶子監督インタビュー 聞き手:関口祐加
2011年5月2日 渋谷宅にて
◎その後、渋谷監督は、鹿児島市の鶴丸高校2年生に転入し、卒業後、中央大学の法学部に入学し、弁護士を志した。それは、鹿児島市に住んでいた時に、母親が、ドメスティック•バイオレンスの犠牲になった妻たちの面倒をよくみているのを目撃し、そういう女性たちを守りたい、という気持ちからだったと言う。無事に東京に編入し、大学に通い始める。引揚者で毛沢東に心酔していた知り合いの家族に言われ、社会科学研究会(社研)に直行し、ビラ配りを始める。 ---------------
関口:それって、左翼寄りっていうことですよね?
渋谷:そう。完璧に左翼でしたよ。社研のほとんどの人が、共産党員でしたね。女子大生は、珍しかったので、先輩たちは、とても可愛がってくれましたが、私は、どちらかと言うと、ミーハー左翼だったんです。何と言うか、党に入ってがんじがらめになるのが嫌だったと言ったらいいのか。一生懸命やるのが嫌だったんですよ。中途半端にやって、遊びたかったということもあったしー。
関口:宗教みたいになって、盲信するというのが、ダメだったんですね。
渋谷:そう、そう。全くそうならなかったですね。
関口:でも、法学部では、勉強をされたんですよね?
渋谷:それが、ね、弁護士は、司法試験に受からなければダメで、先輩たちを見ると、ねじりハチマキをして、幽霊みたいになって勉強しているわけ。それを見て、司法試験を受けるには、人生を棒に振らなきゃなれないって思ったんです。青春も、酒も男もナシ。もうビックリして、早々に諦めたというか、 弁護士になるのは、止めたんです。大学2年ぐらいでしたね。
関口:それで、どうされたんですか?
渋谷:3年生になった時に、丁度毎日新聞の見開き1面に<3S時代>って出たんですよ。それは、何かと言うと、女性の職業のことで、スチュワーデス、セクレタリー、そしてスクリプターね。現場の写真入りだったのを覚えています。
関口:へええええ・・・
渋谷:女性が、お金を稼げる職業って書いてあったんです。今、注目の女性の仕事、とか書いてあったと思いますね。それで、スチュワーデスは、背が高くて、美人じゃなきゃいけないし、セクレタリーも美人の方が、いいじゃない。で、消去法で残ったのが、スクリプターだったんですよ。
関口:それは、その時は、大学を辞めようと思って、お仕事を探されていたということですか?
渋谷:いえ、いえ、その時は、まだ社研をやって、演劇もかじったりして、ただ遊んでいたんですよ。それで、たまたま、広告を見て考え始めたっていうことですかね。
関口:大学時代は、映画なんて見たりされたんですか?
渋谷:いや、社研ですからね。社研の隣りは、映研でしたけれど、映研に入っていれば、映画界への道筋も通ったと思いますけれど、いかんせん、我々は、毛沢東ですからね。ただ、演劇をちょっとやった時に、演出助手の人が、山本薩夫監督の下で働いていて、そこを頼って、スクリプターのコネをね、つけてもらったんですね。細い糸ですよ、芥川龍之介のクモの糸みたいなもんね。(笑)それで、山本薩夫さんのスクリプターに紹介してもらったんです。それで、当時*東宝争議という大事件があったんですけれど、まあ、レッド•パージですね。そこから出た人達が、自由映画人連合会という組織を作ったのね。演出部、撮影、照明、録音、美術、そして、スクリプターが、所属し、その中にスクリプター協会が、あったんです。そこに、確か7人かな、いらして、そこに紹介してもらったんですよ。
関口:なるほど・・・
渋谷:延々と1年待って、大学3年の3月でしたね、「あなたをスクリプターの見習いとして採用することに決定しました。」という手紙をもらったんです。最初のスクリプター見習いの仕事が、家城巳代治さんの「ともしび」、これは、松竹の配給作品でしたね。これで、大学には、さっさと退学届を出して、辞めました。
関口:スクリプター見習いに採用、という時点で大学は、退学されたということですね。
渋谷:そうです、潔く辞めました。
関口:初めてスクリプター助手をやられて、いかがでしたか?
渋谷:とてもいい先輩が、いて、よく教えてもらいましたよ。この1本で仕事は、覚えましたね。ずうっとロケだったので、朝も晩も同じ部屋で一緒にいましたからね。それで、後半は、私が全部スクリプトをとっていいよ、ということで、やらせてもらいました。
関口:それでは、すぐに一本立ちですか?
渋谷:いや、きちんと見習い期間を終了して、最初についたのが、山本薩夫さんだったんです。この映画は、喜劇でね。
関口:あ〜そうですか。
渋谷:「台風騒動記」っていう映画でした。これは、もう、ゴキゲンに面白かったでわね。その後に五所平之助さんの作品につきました。五所さんは、日本のトーキーを最初にやられた監督ですよ。
関口:無声映画からトーキーに入った時ですね。
渋谷:そうです。その五所平之助さんの「挽歌」という作品についたんです。それからまた山本さんの「赤い陣羽織」というのもやりましたね。
関口:ちょうど、スクリプターをやられた時というのは、日本映画の隆盛の頃ですね。
渋谷:そうです、そうです。特に独立プロの作品が、一番面白かった時代でしたね。
関口:とても力強い作品が、多かった時代ですよね。
渋谷:とても力のある時でした。それから、今井正さんの「キクとイサム」ですね。
関口:あああ〜(興奮して)「キクとイサム」につかれたんですか!この作品は、大傑作ですよねえ。
渋谷:それから「にっぽんのおばあちゃん」ですね。でもね、だんだんスクリプターなんかやってられるかって思うようになったんです。
関口:大監督につかれて、可愛がられていたのに、どうしてそんな風に思われたんですか?
渋谷:だって、現場は、監督のものですもの。いくら、私が、監督のために色々な事を考えて、ここは、こういう台詞が、いいんじゃないんですかって言っても、一度も採用されないし。身を尽くして、お尽くし申し上げるんだけど、監督は、全然聞く耳持たず、ですからね!
関口:あははは〜
渋谷:五所監督には、さすがに何も言えなかったんですけれど、さっちゃん先生(山本薩夫監督)や、今井監督に申し上げると、「いいねえ。」とか言って下さっても、一回も採用してくれなかったですよ。まあ、そんなの当たり前なんですけれどね。それで、自分が考えた台詞や絵コンテを使いたいなら、自分で監督するしかないなって思った訳。映画って、やはり監督のものですからね。
関口:そうですよねえ!
渋谷:ただ、さっちゃん先生にしても今井監督にしても、これは、本当にありがたかったですが、色々なことを教えて下さいましたよね。待ちの時間に、手持ち無沙汰になると、隣りにいる私に「ここは、どうしてこうなるか分かる?」と聞かれたり、「こういうことだったから、こうしたんだよ。」とかね。本当にありがたかったですよねえ。
関口:一流の監督さんたちにねえ・・・羨ましいです。
渋谷:その代わり、何にも採用されなかったけれどね。(笑)ただ、ギャラは、よかったですよ。チーフのカメラマンと同じくらいでしたよ。
関口:スクリプターは、合計で何年やられたんですか?
渋谷:6年じゃないかしら。23歳から始めて29歳で辞めましたからね。
関口:第1回監督作品って、それぞれ思入れが、あるんだと思いますが、そのようなことは、ありましたか?
渋谷:何にもないです。スクリプターをとにかく、辞めなきゃって、思っていただけですからね。監督だって言わなかったら、仕事が、出来ないじゃないですか。
関口:ウーム・・・まさしく、猪突猛進ですね!
渋谷:そうです、そうです、猪突猛進。その頃、ストップ•ウオッチが、高かったんですけれど、しかも父が買ってくれたのに、これを持っている限りスクリプターは、辞められないと思って、踏んづけて壊しちゃったんですよ。「辞めた!」って言いながらー。
関口:カッコイイですねえ!!
渋谷:それで、今井さんに「私、監督になろうと思います。」って言ったんですね。そうしたら、タバコを吹かしながら、「そーう?いいんじゃない。」って言われたの。このシナリオで、プロデューサーを紹介するからっておっしゃってくれるかなあ、と思ったんですよ、だって、劇映画をやりたかったんですから。
関口:はい、はい。
渋谷:なにをや、ですよ。全然、そんなことは、なし。もう、笑っちゃったわね。
関口:何にも手助けをして下さらなかったんですか?
渋谷:「いいんじゃない。」って励ましてくれただけですよ〜
関口:ひえええ、それだけだったんですか!
しかし、その後、渋谷監督は、電通を通してCMやPRの仕事をするようになり、1964年に、日紡貝塚バレーチームの映画「挑戦」をカンヌ国際映画祭に出品し、短編部門でグランプリを受賞したのは、あまりにも有名。この「挑戦」は、大松監督から1週間だけ、と言われ、7台のカメラを回して35ミリで撮り切った。
関口:ここら辺りで、復興の話しに持っていきたいのですが、渋谷監督のお話しを今まで伺ってきて、色々なところで人生のターニング•ポイントが、あったと思うんです。今までよかったのに、突然に状況が悪くなる。それは、今回のような自然災害、あるいは、原発のような人災、または、ご病気ということもあるでしょう。そういった時の心の持ち方のようなことは、ありますか?
渋谷:そういう時って、ああ、悪くなったなという風に思う余裕は、きっとないですよね。生き延びようというと言うと、ちょっとオーバーだけれども、人間誰しもそこに順応するというか、そんな力が出るんだと思うんですよね。今回、被災された方たちを見てもそんな生きることへの力強さ、どん欲さを感じます。それで、少し、落ち着いてくると、こうしたい、ああしたいという欲求や、どうやって生きようかということを考えるんだと思いますね。
関口:なるほど・・・
渋谷:だって、村に帰った時に、生まれて初めて犬小屋よりヒドイと思った庵の土の上での生活を強いられたんだけれども、それしかないと思うと何とかなるもんですよ。
関口:人間って最悪な状況下では、そんな強靭な精神が、引き出されるものなのでしょうか。
渋谷:それと1人ではないということは、大きいと思いますよ。
関口:あ〜、そうですよねえ。
渋谷:人と人のつながりですよね。それが、あれば、人間は、生きていけると思います。
関口:そろそろこのインタビューも終わりになりますが、今回、日本国未曾有の国難と言われるような大震災と原発事故という状況下にある中で、我々映画人としては、何が出来るのか、ということに関しては、どのようにお考えになりますか?
渋谷:そうですね。映画人として、今、現地に入って撮影をされている女性監督が、いらっしゃいますよね?
関口:海南監督のことですね?
渋谷:そうです。そうです。そういう風に即、現地入りして撮影することも大事だと思います。ただ、私は、きっと被災地に行っても何も出来ないだろうなあ、と自覚しているので、(私は)行かれないですよね。じゃあ、何をしたらいいのか。私は、きっとこのことを考え続け、いつか自分が作りたい映画の1本として企画する、そんな風にしたいと考えています。66年間戦争がなく、平和だったこの国にこんなことが起こる。これは、被災された方は、もちろん、そうでない私たちにも大きな影響があるのは、当然のことです。私は、長崎、広島の原爆のシノプシスも書いていますし、そういうことを映画人としてやり続けなければいけないと考えています。
関口:後世に残していく作品を作る、ということですね。
渋谷:そうです。色々な角度から検証しなければいけないですよね、例えば、原発の問題にしても。政治の問題も含めてね。
関口:常に木だけではなく、森林を見るということですね。最後に被災地で頑張っていらっしゃる方たちに何かメッセージがあれば、と思うのですが。
渋谷:いや、もう恥ずかしくて何も言えないです。無力感でいっぱいです。ただただ、ひたすら申し訳ないと思って、生活をしています。
関口:分かりました・・・ありがとうございました。
東宝争議(とうほうそうぎ)は、1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は、警察およびアメリカ軍の介入によって解決されたが、一労働運動に軍が介入したことが後に波紋を広げた。(ウィキペディアより)
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