スクーリンの前の広い壇上には、大輪の紫陽花の花で飾られていた。紫、薄紫、白、鮮や
かなピンクが競いあい、コートダジュールの海はコバルトブールーで五月の陽光のなかで、
輝いていた。
一九六四年のカンヌ国際映画祭の開幕の日である。
カンヌ国際映画祭は、あらかじめ選ばれた二五カ国から、長篇劇映画、短編映画それぞれ一
本が出品される。ほかに招待作品一本が、グランプリを競うのである。その年の日本からの
参加作品は、劇映画は「太平洋ひとりぼっち」市川崑監督作品、(主演・石原裕次郎)短編
は、わたしの「挑戦」。招待作品は手使河原宏監督の「砂の女」である。
わたしが、パリから夜行列車で、早朝のカンヌに着き、指定のホテルマルチネーズにチェ
ックインした時は、すでに到着されていた手使河原監督、石原裕次郎夫妻はテラスで朝食の
最中だった。
案内された広い部屋は、あたかもアラビヤナイトの王女の部屋のように、ベッドは、部屋の
真ん中にあり、天井から薄いカーテンでおおわれていた。招待者は、宿泊費、そして食費、
なにを飲んでも無料なのである。わたしの十二日間のカンヌがはじまった

「挑戦」は、一九六四年の東京オリンピックの金メダル候補として、全国民から期待され
ていた、「日紡貝塚バレーチーム」の練習風景を描いた作品である。わたしが、脚本、監督
をすることになったのは、偶然という他はない。
当時、大阪在住だったわたしは、電通の傘下にあった電通映画社で、企業の広報映画、コマ
ーシャル、よみうりテレビのドキュメンタリー映画などの、企画、脚本、監督の仕事をして
いた。
ある日、電通の廊下を歩いているとドアの開いている会議室があり、何やら始まる気配が感
じられた。デスクに戻ると間もなく、さきほどの会議室へくるようにとのことだった。
議題は、東京オリンピックが終了した時点での選手の引退は決まっていた。そのためにも
、記念になるような映像を残そうではないか、しかしすでに一六ミリフイルム(モノクロ)
で、撮ったものがあるので、なにか違った視点で撮ることは、出来ないだろうかと言うこと
であった。
たまたま、正面の席にいられた日紡の広報課長が、電通には珍しく女性が歩いているけど、
何をする人ですか?ということで、ああ、あの人は監督ですということになり、女性のチー
ムを女性の監督が撮れば、何か違ったものができるかも知れないと言う、全くイージーな白
羽の矢である。
わたしは、なにがなにやら判らぬまま、ボストンバックひとつ提げて、大阪府下堺市の日紡
貝塚の工場に向かった。
大松博文監督に紹介される。鬼の監督と名だたる人であることも、わたしは知らなかった
。わたしにとっては、最後まで、温厚ではあるが、凛々しい、男性であった。
四時に体育館に行くと、すでに練習が始まっていた。なぜかコートには、六人しかいない。
九人制しか知らないほどのスポーツ音痴のわたしである。それから二週間、選手と起居を共
にする。始めは、ボール拾いを手伝ったが、またたくうちに、全身痣だらけになったので、
そうそうに中止。夜食のおにぎりむすびを手伝うことになる。
四時から、休憩なしで十二時までの練習、夜食を食べ、お風呂に入り洗濯をし、そのあとひ
としきりのお喋り、就寝午前二時。選手たちは事務職であるが、八時には出社する。これが
、一年三百六十四日の毎日である。
選手と共に、行動し、お風呂では背中のながしあい、おしゃべりが出来たことは、やはり女
性の特権であった。
文字どおり血のにじむ練習を観ていて、すでにわたしのタイトルだけは決定していた。
「挑戦」である。
貝塚から、帰って一ヶ月、出来上がった脚本を、まず大松監督に読んで頂く。
寡黙な監督から「よく出来てるね」といわれ、そして、一週間を撮影のために、わたしに堤
供すると言われた。オリンピックを一年後に迎える一九六三年、一秒も惜しい五月のことで
ある。

カメラマンは、関口敏夫さん、照明は秋山清幸さんに決まる。
演出部長の田中嘉次さんは、「何にも、力になれないけど、フイルムだけは、いくらまわし
てもいいよ、僕が責任をもつから」と言ってくださった。
カメラ七台、スタッフ三十名による、撮影開始である。
体育館の両側にイントレという台が並び、その上に大きなライトにライトマンがついて、体
育館は煌々と照らしだされた。三五ミリイーストマンフイルムが使用された。
わたしは、カメラマンからの準備オーケーのサインをうけて、「ヨーイスタート」と大きな
声で号令した。最初のカットの撮影が始まるはずであった。
その途端「なーんだ、監督、女か」という声が飛んだと思ったら、ライトが一勢に消されて
しまった。
暗くなった体育館は、静寂につつまれた。大松さんも選手たちも、指定された位置に立って
いる。スタッフも、それぞれのポジションについていた。
わたしは床に正座し、何も言わず、座りつづけた。どのぐらいの時間がたつたのか、覚えて
いない。ライトマンの秋山さんが交渉して下さったのだろう、ライトが、一つ二つとつきは
じめ二十のライトが再び体育館を照らし出した。
わたしは、立ちあがり「ヨーイスタート」と、いうと、何ごともなかったように、カメラは
まわり、大松さんも選手もいつもどおりの練習が開始された。
「挑戦」の初日の出来事であった。その夜、宿の廊下を歩いていると、後ろからすりよって
きた若い男性が「あねさん、月夜の夜ばかりはありませんで」と京都弁でいわれたときには
、さすが冷や汗がでた。その頃体重四五キロふけば飛ぶような女性監督であった。
その後は、七台のカメラはまわりつづけ、渋谷は、フイルムを食べているのではないかとい
われるほど、フイルムがまわった。
毎夜、綿密に組み上げた、撮影のフォーマットのもとに、大松さんも選手達もわたしの指示
どおりに動いてくださった。
しかし、ガラスの上でジャンプするカットを撮る時、選手は尻込みしてなかなかやつてもら
えない。万一割れたら大怪我間違いなし、わたし自身もガラス会社の保証は得てはいるもの
の、不安が無いといえば、嘘になる。しかし、脚本の段階から、どうしても撮りたいとイメ
ージしていたカットなのだ。
そのとき、河西キャプテンが「何やっているの」とつかつかときて、さっとガラスの上にの
り、力強くジャンプをした。その後、つぎつぎ 選手たちは、高く飛びつづけた。
河西キャプテンは、大松監督の片腕であり、又、名トーサーといわれていた。
ちなみにわたしと同年である。



予定どおり、七日間の撮影が終了した。
厖大なフイルムは、東京雑司ヶ谷の倉庫のような編集室に運ばれ、編集助手には、電通映画
社、入社間もない、泉聖子さんがついてくれた。
編集に一ヶ月かかつた。
日紡関係者、電通、電通映画社、そして、バレーボール協会の責任者の方達による試写が行
われた。
結果、好評を得る。特にバレーボール協会の方達からは、ハウツウものとしても、バレーボ
ールの指導に役立つと喜ばれた。
終了後、ひとりになり、なじみのバー「学校」に行く。「学校」は、詩人の草野心平さんが
開いている、新宿御苑前にある小さな店である。
ママさんは、心平さんの恋人の麗人山田久代さんである。客のいない店に入りドアのそばの
椅子に座ったとたん、大粒の涙が溢れてきた。山田さんはカウンターにもたれて、何も言わ
ず、わたしをみている。しゃくりあげていた声がだんだん大きくなり、大声をあげ泣き、涙
も拭わず泣きつづけた。
あの「挑戦」は違う。あれはわたしの「挑戦」ではない。どうしてあんなものを創ったのだ
ろう。自分自身に対しての怒りで泣きつづけた。
二時間泣きつづけるわたしに、何も聞かず、ただ黙って山田さんはカウンターの横に立ち尽
くしていた。
翌朝、腫れあがった瞼で一睡もしないわたしは、電通映画社に行き、田中演出部長の出社を
待った。ただごとでないわたしの顔を見た田中さんは、近くの喫茶店に連れていかれた。
向き合ってすぐにわたしは、編集を全部やり直したいと申し出た。
ヘビースモーカーの田中さんは、たてつづけに五本吸いおわると、「何日でできるの?」と
聞かれた。「二週間で仕上げます」と即答する。総べての責任を田中さんが引き受けてくだ
さったのである。
二週間はほとんど徹夜の仕事になる。泉聖子さんは黙々として協力してくれた。わたしは、
その時フイルムの整理というのも、論理的な仕事だということを、身をもって体得し、その
後の仕事に大いに役立つことになった。
わたしの「挑戦」が完成した。
試写は、大阪電通試写室で行われた。わたしの目の前の席に、日紡の副社長が座られた。終
わった途端、副社長は立ち上がるなり「こんな芸術作品はいりません」と帰られてしまった
。わたしにとって当然と言える結果である。
作戦としてわたしが行方不明になってしまうことを、大阪電通映画社、本多精課長と秘かに
練った。
親友加藤洋子さんの家にお世話になる。静岡県新居町、浜名湖湖畔の静かな町である。わ
たしはノイローゼということになった。居場所を知っていたのは、本多さんだけである。
夏の浜名湖で、わたしは毎日釣りを楽しんだ。罪悪感など毛頭なく、わたしの「挑戦」を守
るために当然と思い、激烈なる練習を日夜続ける選手達へのオマージュの為でもあった。
一ヶ月が経った。朗報がきた。日紡側がしびれをきらして、監督の好きなようにやって下さ
い。ということである。
ここに、至るまで、日紡の担当者の方、電通の方、本多課長などの陰のご努力があったこと
は、言うまでもない。
わたしも、一ヶ月間、釣りばかりしていたわけではない。
音楽担当の池野成さん、効果担当の淺沼幸一さんとしばしば会って、仕上げの打ち合わせを
重ねていた。音楽が池野さんに決まるまでのいきさつは、当初武満徹さんにお願いに行くと
快く引き受けて下さった。赤ちゃんが生まれて間もなくの頃で、打ち合わせの最中に、おし
めを替えたりなさったことが印象深かった。しかし、羽仁進さんの作品が急拠仕上げが早ま
ったということで、松村禎さんを紹介して下さったが、松村さんは頭を坊主にして、交響曲
にとりかかったばかりの時で丁重に断られた。そして池野さんを紹介して下さった。
人との出逢いは計り知れない縁で結ばれている。
音の構成は、大きく分けることにした。音楽だけで十分、効果音だけで十分と交互に構成す
る。
効果の淺沼さんは、コートを端から端まで走る選手を追って酸欠になり倒れるほどの執念で
収録され、見事選手の心臓の鼓動をとらえた。浅野さんはドキュメンタリーの世界で信頼さ
れている効果マンである。
わたしは撮影、照明、音楽、効果と素晴らしいスタッフに恵まれた。
映画はひとりでは創れない。多くのスタッフによる協同作業である。そして、面白いのは、
「偶然」という女神が微笑むかどうかにかかわっている。だから映画創りは止められない。
池野成さんは、オーケストラ、七十人編成の音楽を創られた。収録は大きなスクーリンを前
に七十人の演奏者が並び、池野さんがタクトを振られ、まるで音楽会にいる雰囲気である。
ナレーションは、民芸の宇野重吉さん、台本の段階から、宇野さんを想定して、ナレーショ
ンを書いた。若気の至りで気障な表現をしながらも、宇野さんなら読んで下さるという確信
があった。
宇野さんは台本を読んで、快諾して下さり、わたしのイメージどおりに表現された。いわゆ
る宇野節である。最初の一行から、だれでもが、ああ、宇野さんと思わせるあの語り口であ
る。
一九六三年十一月二四日、東京五反田の東洋現像所(現イマジカ)の試写室で、スタッフ試
写が行われた。世界はケネデイ暗殺事件で騒然としていた。
大阪での試写には、呼ばれなかった。本多さんはじめ、電通の方達の配慮の結果であった。
しかし、大阪でのプレス試写には、呼ばれ、広い会場一杯に集まった記者たちの矢面に立た
された。
開口一番、「女の監督が、撮ったものとは、思えない」「おんならしくない」「選手がおん
なであることを無視している」「大松さんと選手との関係が描けていない」「選手の日常生
活、たとえば、編み物をしているとか、お喋りをしているとか、どうして、そんなシーンが
ないのか」などであった。
わたしは最後に、一言、「そんなことは、凡百の映画と小説の世界で描かれていることで、
日紡貝塚バレーチームには、全く必要無く、厳しい、日夜の練習こそがテーマです。」と答
える 。
わたしは、自分の作品がカンヌに行くのだから、当然わたしも行くべきと思い、あら朝家
人に話すと一笑されてしまった。当時、海外に行くことは、夢のまた夢、五百ドルしか持ち
だせず、一ドル三六五円の時代であった。
それで、東和映画社副社長の川喜多かしこ夫人にご相談することにした。
わたしが「挑戦」と一諸にカンヌに行きたいむねを申しあげると、即座に「それは、本当に
いいことよ、劇映画の方達は、皆さんカンヌに行かれるけど、短編では、誰も行かないこと
を、寂しく思っていました。ぜひ、行きましょう」と言われた。
わたしと、かしこ夫人とのご縁は、お嬢さんの和子さんとの、おつき合いから始まる。ポー
ランドとの合作映画「海彦山彦」―伊丹一三、ミッキーカーチス主演―の時、和子さんが通
訳、わたしがスクリプターにつき、長崎の宿でご一諸に過ごしたことから、東京の家が近か
ったせいもあり、時々伺っては、大勢のお客たちと一三さんが発明したゴム鉄砲遊びなどを
して遊んでいた。折りにふれ伊丹御夫妻とご一諸にかしこ夫人に築地でおすしをご馳走にな
ったりしていて面識をいただいていたのだ。
かしこ夫人は「着物は、訪問着を最低三枚、もちろんそれに‘見合う帯び三本、足袋も三足、
昼間用は、ドレス三着、」などこまかく教えて下さった。そして、わたしが、正式に招待さ
れるように、フランスの映画祭事務局に交渉して下さり、宿泊費が招待ということになった
のだ。
しかし、訪問着、帯び、下着など、ずっしり重く二十キロをはるかに、オーバーし、遂に、
二十キロのトランクが二っになってしまった。オーバーチャージの料金は高い。そこで、わ
たしは日比谷にあったエールフランスにのりこんだ。直接、支社長に面会を申し込み、「わ
たしは、貴方のお國の映画祭に招待され、わたしの映画が上映されることになった。ついて
は、荷物が多くなったので、オーバーチャージ分はサービスして頂きたい、」図々しく、な
んという勝手な言い分だろうか。その時は、当然というつもりで出かけたのだ。フランス人
の典型のようなハンサムな支社長は、優雅な笑顔で話しを聞いて下さり、聞き終わるや否や
、「ウイ!」と応え「貴女の映画のご成功を!」と祝福していただいた。
わたしは、着物は着られるけど、帯びは、ひとりでは結べない。
母は、惜し気も無く帯びを胴の部分とお太鼓の部分とに切って、お太鼓をつくり、ひとりで
着られるようにしてくれた。話しが具体的になっていき、漸く両親も現実のものとして、受
け止めるハメになる。渡航費用を両親に借りるわけだから無理もない。また、大阪の友人、
電通映画社に勤務していた三木宏さんが、いつでもいいからと、百万円を貸して下さる。ど
ろ船から、おお船にのった気持ちになっていった。
その後、映画プロダクションの社長、小谷映一氏の一万円のカンパが始まると多くの友人が
つぎつぎにカンパをして下さった。当時の一万円は非常に貴重であった。後年、ある人から
、わたしがカンヌに行く費用は全部電通が出した。
とほとんどの人が、そう思っているよ、と言われた時は愕然とした。世の中それ程、甘くは
ない。
フランス語版の作成にとりかかる。ナレーションは、抒情的な表現は一切排除し、客間的
な説明だけにする。日本語版のナレーションは、宇野重吉さんだからこその表現で情感たっ
ぷりに、読んで頂いたが、異国の人にとっては、情感は必要ない。若いフランス人のニュー
ス専門の方にお願いする。
フランス語版のタイトルは「勝利への道」となった。
「LE PRIX DE LA VICTOIRE」
ある日、かしこ夫人から、東和映画社の試写室へくるように、連絡があった。
試写室で、ジョルジュ・サドウールご夫妻に紹介される。ジョルジュ・サドウール氏は、フ
ランスの著名な映画評論家である。ご夫妻とかしこ夫人とわたしの5四人で、「勝利への道
」を観て下さるというのだ。サドウールさんとかしこ夫人の間にすわって、暗い試写室で、
手にじんわりと汗がでてきた。
明るくなった試写室で、サドウールさんが立ち上がり、しっかりとわたしの汗の手を握りし
め「モンタージュがすばらしい」と、言われた。「ノブコ、カンヌデマッテイルヨ」と肩を
抱いて下さった。
羽田空港からの出発は、家人、友人、知人の多くの人に見送られた。ジーンズに、ひじに
当て布のあるヂャンパーの出で立ちである。わたしとしては、精一杯の、おしゃれのつもり
であったが、若い青年がつかつかときて「無銭旅行ですか」といわれてしまった。
当時、海外旅行は、着飾って出かける時代だった。
エールフランスからは、花束が贈られ、タラップの上で、思いもかけずフラシュがたかれ、
写真を写して下さった。あのハンサムなエールフランスの支社長の計らいであったのだ。
アンカレッジの空港は、吹雪きであった。給油のため、機外に出たときは、わたしの「無銭
旅行」の服装が功をそうした。ドレスアップし、ハイヒールのご夫人が、わたしにしがみつ
いて、待ち合い室まですべりながら、到着した。その後、わたしが旅なれていると思われて
、大いに頼りにされてしまう。
パリのオルリー空港は、肌寒くコートが必要であった。わたしは機内で知りあったパリ在住
の画家の方に、通り道だからと。オデオン座近くの小さいホテルまで送って頂いた。
パリでは、ルモンド新聞社の極東通の主筆ギランさんの、お宅にお世話になることになって
いた。ギラン夫人は日本の女性で東京で面識を得ていて、映画祭開催までギラン家で過ごさ
せて頂く約束だった。
ホテルまで、ギラン夫人が迎えに来て下さることになっていたが、待てども待てども、お見
えにならない。電話をかけることなど出来ない。一歩も外に出ることも出来ない。小さい部
屋の写真を撮ったり、道を歩くフランスの人を撮ったりして夜を迎える。お腹がグーグーな
りはじめる。
持参した梅干しと塩昆布と水道の水で漸くおさまる。以後わたしの海外ロケには、梅干しと
塩昆布は必須携帯品になる。
翌朝、パンを買いに出かけ、近くの公園で食べたパンのなんと美味しかったことか。
部屋に戻り、新書版の「万葉集」を読みながら、ひたすらギラン夫人を待つ。
午後三時、ブールーのコートのなつかしい夫人が現われた。まさしく女神の到来である、一
日違いの勘違いであった。
ギラン家は、パリ郊外で近くに林の公園のある閑静な所にあった。
ギラン家の一週間は、小さい息子さんと娘さんと仲良くなり、林を散歩したり楽しい時間を
過ごしたが、ギランご夫妻からは、フランスの行儀、作法を厳しく教えて頂いた。なかでも
コーヒーとスープを、音をたてずに飲むのは、なかなか難しかった。冷えてから飲まずに熱
いうちに頂くコツは吸うのではなく飲むという感じで頂くと、音がたたないことが判った。
写真を写す時は必ず、片膝はついて写すこと、バックは、テーブルに置かず足もとにおくな
ど、こまごまと、お教え受ける。
そして、いよいよ出発の夜がきた。ギラン夫人が駅まで送ってくださる。
夜行列車は一睡も出来なかった。到着の時刻は判っているものの、乗りすごしたら一大事で
ある。
デッキにトランク二個を持ち出し、今か今かと待っていると、到着したホームから「キャン
ヌ、キャンヌ」と連呼するアナウンスが聞こえる。「カンヌ」ではなく「キャンヌ」なのだ
。一人いる赤帽さんにタクシー乗り場に運ばれ、あとは「ホテルマルチネーズ、ホテルマル
チネーズ」とくりかえし叫びつづけて、漸く到着する。かくして、わたしのカンヌ映画祭の
十二日が始まる。
ホテルには、かしこ夫人が紹介して下さった、山口芙美子さんが待っていて下さった。音楽
関係のマネージメントをしていられるフランス語の堪能の方で、和服がよく似合われる初老
の女性である。山口さんから、わたしの招待期間は七日間で、「挑戦」の上映は最終日の十
一目であることを聞かされる。
わたしは、それはおかしい、「挑戦」の上映日まで招待にすべきであると思い、そのむね山
口夫人にお話すると、賛同して下さり早速交渉して下さる。
事務局は快よく承諾してくれた。かくして、十一日のわたしの華麗なアラビヤナイトの日々
が始まった。
連日、昼も夜も川喜多夫妻について、映画を観る。
ある夜、山口夫人と街の中華料理を食べに行く。前菜に白く太いアスパラにソースがそえ
られて出された。ナイフがないので不思議に思っていると、山口夫人から、これは、手で先
の方から頂くのよと教えて頂く。
翌日の夜、主催者の日本のスタッフ招待の正式な晩餐会が開かれた。
わたしは正面のメーンテ―ブルに両側はフランスのお歴々、わたしの向かいが手使河原監督
である。
静々とまず運ばれてきたのが、なんと昨夜のオードブル白いアスパラなのだ。わたしが初め
に手をつけないと並みいる方々は手をつけない。わたしは、おもむろに、手でソースをつけ
て頂く。向かいの手使河原監督は、びっくりして目を丸くしていた。
「砂の女」に事件が起こった。途中の十分が何故か英語のスーパーが入っていることが事務
局のチェックで判ったのだ。急遽その箇所だけフランス語のフイルムを送るように手配され
た。わたしの出番がきた。何故かわたしは編集用の和鋏と白い手袋を持参していた。
広く清潔な編集室が提供された。そこには医者のような白い上着をきた温厚そうな編集者が
いた。わたしはフランス語の一番音の小さくなっているところを探した(映画用語ではモジ
レーションという)二本のフイルムを平行にする。これは、シンクロナイザーという機器に
並べてかける。わたしのそうした作業中、手使河原監督は編集室うろうろと熊のように動き
まわるので、じっとしていて下さいとお願いする。心を決めて、二本のフイルムを和鋏で切
る、そして接着剤でつなぐ。フランス人の編集者は掛けていた眼鏡をはずして、目を丸くし
ていた。その後、三角パンチを使いつなぎの音が聴こえ無いようにして終了する。
「砂の女」上映の時は生きた心地はしなかった。フイルムが切れたら?つなぎの音が聴こえ
たら?と目を閉じていた。大拍手のなかで上映は終わる。その夜のビールは美味しかった。
いよいよ、「挑戦」の上映の夜が来た。山口夫人にご足労願って、映写技士の方に、こけ
しのおみやげをもって挨拶に行く。スクーリンの重いカーテンも次ぎの薄いカーテンも、ゆ
っくりと開けて下さい。終了後もまた映像が終わってから、充分な余韻をもってスクーリン
を閉めて下さいと。初老の映写技士は「ウイウイ」と大きな手で握手をしてくれた。
「挑戦」上映の時のことは、余り覚えていない。ただ上映前に二階正面の前列で川喜多夫妻
の真中に立ち、観衆に一礼したことは記憶にある。
翌十二日目は、グランプリ受賞式である。そして、わたしがアラビヤナイトの部屋を追放さ
れる日でもある。余程もう帰ろうかとも思ったが、華やかであろう受賞式を観るのも、おみ
やげばなしになると考え、プレス関係の方達が泊まっていられたホテルの小さなシングルル
ームに移る。
午前中山口夫人が、雨傘を買いたいと言われるので散歩方々おつきあいする。
海岸通りで、サドーウル夫妻と、お逢いする。「ノブコ、グランプリダヨ」と囁かれるが、
何かの間違いだろうと、お別れし、その後は小さい部屋のベットに寝転んで、この十一日間
の出来事など思い返していた。
電話が鳴る。出ると日本から来たフリーの女性記者である。「渋谷さん、グランプリよ」と
言われるが、わたしは、この手の人は信用しないので、電話を切る。
五分後、電話が鳴る。「昶子さん、グランプリよ、すぐお支度なさって」とかしこ夫人から
の電話だった。廊下に物音がするので、出てみるとズラリと鉢植えの花が並んでいた。わた
しがカンヌで知り合った新しい友人達からだった。
劇映画のグランプリはジャック・ドウミ監督の「シェルブールの雨傘」審査員特別大賞は手
使川原監督の「砂の女」短編部門の入賞は日本で始めてであった。
壇上に黒一色のシンプルなドレスの女優アヌークエイメに導かれて、紹介される。モーニン
グの川喜多長政社長、それに羽織り袴の手使川原監督、和服のわたしとが並ぶと、司会者が
「今夜は日本の息子と娘と二人の受賞おめでとう」と祝福してくださる。
トロフイはジャンコクトー制作の小さな可愛いものである。賞金無し、いかにもフランスら
しい。
その夜の、日本側主催の祝賀パーテイは、海に花火もあがり大いに盛り上がる。なかでも石
原裕次郎さんが、大きな手を一杯にひろげてわたしを軽々と抱き上げて喜んで下さったのは
、忘れられない。
その後、パリに行き、ギラン夫妻にご報告する。心から喜んで下さった。
帰国すると、待ちかまえていたスタッフに羽田から、赤坂離宮の「東京オリンピック制作
本部」に連れていかれ、総監督市川崑の下で「バレーボール」と「女子ハードル」の監督を
担当することになる。
三十才までに、監督として、社会的に認知されなければ、監督稼業を止めようと思っていた
のに、長々と監督を続ける発端となった。
週間朝日一九六四年五月二九号の「週間試写室」荻昌弘氏による「記録映画」の記事に「
檜舞台で実力証明*「挑戦」グランプリ受賞*」がある。
「カンヌ映画祭で「砂の女」が審査員特別賞をもらった。日本でも騒がれたあの作品は、結
局世界的な視野から眺めても、この時点の映像芸術の最先端をいくものだった、ということ
が、檜舞台で証明されたわけである。めでたいことだし、卒直にいえば、とびぬけた映画芸
術がいかに減ったかということである。この受賞にもまして注目しなければならないのは、
電通映画社の記録映画「挑戦」が同映画祭短編部門で日本初のグランプリを獲得したことで
ある
すでにこの欄でも紹介したニチボー貝塚バレー・チームの猛練習記録だが、あの迫力がつい
に各國の芸術短編を圧倒したのかと思うと、私は涙がでるほどうれしい。じつは、今年から
日本自転車振興会が年約七百万を寄進して日本の短編映画を世界の各映画祭へ積極的に出品
する計画がはじまった。
その出品を割り振る七人の選定委員会で、「挑戦」のカンヌ出品は議決されたのである。電
通やニチボーは、最初これをどこかのスポーツ映画祭に出す意向だったらしいが、あれだけ
の出来は堂々と一級映画祭に問うべきだ、という意見が強く生まれたのだ。
しかし、世間にはどこかのアナがせまい向きもあるものだ。この出品決定に、やれ「アマ規
定に触れまいか」の、「貝塚チームの技巧が外国に盗まれはしまいか」の笑止な異議が、か
なり出もしたのである。ついにそれを押しきって今回のホームランを飛ばしたスポンサー、
メーカー、バレーボール協会などの決断にくらべて、実際一部のオリンピック狂の「憂国の
至情」は度し難いものに思える。」と掲載されている。
グランプリのトロフイの後日談がある。当初電通映画社の社長室の大きなガラスケースに
飾られていたが、映画社から電通プロックス、電通テックと名前が変わるたびに、転々とし
十年程前から、行方が判らなくなった。「挑戦」の撮影助手についてくれた杉浦勉さんが「
僕が絶対探しだす」と川崎の倉庫に通いダンボールを一つづつ探したけど出てこない。諦め
かけてふと外をみると、積まれた粗大ゴミ扱いのダンボールが目に止まった。何となく予感
のようなものに、ひかれて、そのダンボールを一つ一つ調べると、遂に発見した。翌日破棄
されるところだったのだ。
トロフイはもともと監督に与えられるものである。発見以来わたしの手元にある。


渋谷昶子