サンポート高松は、県が香川の中枢管理機能の浮沈をかけて取り組んでいる再開発事業だ。ここに、なぜ巨費を投入して新しい街をつくるのか。ベースは「海陸の交通の結節点」という地理的、歴史的優位性にある。ところが、である。JR、琴電とも新駅を隣接して造るのに、駅舎の一体化や駅ビルの連携を検討した気配が全くない。旅客の利便性の向上に欠かせない「乗り継ぎへの配慮」は、今や都市部では常識の範ちゅう。なぜ、このような基本的問題が抜け落ちていたのか。今回は、サンポート高松における「鉄道2駅の連携」の方向を考える。

新駅の距離
「えっ、更地にJRと私鉄が新駅を造るのに、同一駅舎への乗り入れも検討した気配がないんですか。不思議ですね。そういう条件なら、今じゃ、別々に構想を進めているケースを探す方が、難しいですよ」
JR東日本の担当者は、サンポートと同様のケースを探す追跡班の質問に、電話口でこう答えた。事業体は異なっても、隣接の駅をどう一体化し、乗客の利便性をどう向上させるかは、今や鉄道事業者にとって必須の命題なのだ。
ところが、わがサンポート高松には、そうした思想がほとんど欠落している。
ガラス越しのキス
将来的なJR高松駅と琴電築港駅の位置は、別図のように南北に隣接する計画だ。両駅から駅前広場に出れば、北側にバスターミナル、その先に旅客フェリーのターミナルビルと続く。
「鉄道、バス、船。主なターミナルがほぼ100メートル置きに一直線に並び、利便性は飛躍的に向上します」(泉浩二県高松港頭地区開発局長)。これが開発側のうたい文句だ。
確かに、核となる鉄道2駅間の距離も、JRの仮駅舎ができるまでの130メートルから、数10メートルにまで縮まる。しかし、問題は「せっかくここまで近づけたのに、関係機関が乗り継ぎの利便性について、検討した気配が全くない」点に尽きる。
現行のままでは、旅客はいったん駅前広場に出るしかない。都市部では常識のホームを渡るだけ、或いは駅構内での乗り継ぎなどはまるで見えてこない。乗客にとっては“ガラス越しのキス”とでも呼びたい、中途半端な接近計画なのだ。
タイムラグ
「正直言って、乗り継ぎの利便性までは視野になかったな。琴電に鉄道の高架と同時に、現築港駅をJRの側に移すことを納得してもらうのがやっとだったからね」。琴電高架化実現のため奔走した元高松市幹部は、この間の事情をこう語る。
琴電の連続立体交差計画は、駅舎や線形は現行の位置でを原則にスタートした経緯もあり、琴電にとっては本社機能の移転や玉藻城脇の景観を手放すことになるサンポートへの“首振り”は、簡単にうなずけるものではなかったというわけだ。
「JRへの隣接実現だけで、ほっとしたのは確かだね」。関係者は声をそろえる。その安ど感を打破し、同一駅構想など、次のステップに向かうのを阻んだ最大の要素は、JRと琴電の事業のタイムラグだった。
基盤整備の絡みで12年度内の完成を目指すJR新駅に対し、8年度に事業採択された琴電の連続立体交差は、順調でも都市計画決定がこの夏という段階。完了は事業採択から14、5年が先例というから、ほぼ10年の時間差がある。
さらに、JRは平面なのに琴電は3階が想定される10メートルもの高さの乗り入れであること、互いの線路の方向も調整しにくいことなど、構造上の問題も影を落とす要素となった。
空白地を生かす
ただ、県や高松市は「利便性向上策はこれから」と口をそろえる。両駅間にある空白地を生かせば、一体的な駅舎づくりが可能との判断からだ。この土地は「琴電本社などの代替用地に」(同市)との含みで、市土地開発公社が押さえており、確かに琴電が取得すれば、ビル内での連絡の可能性は十分だ。
が、肝心の琴電は「あの土地は狭いし、形も悪い。まだ社内で検討もしていない」(千田穣一専務)と冷ややか。先行きの不透明さに加え、JRは11年度には具体的設計に入る予定で、「両駅間の連絡を考えるなら、同年度早々が対応のタイムリミット」(半井真司港頭地区開発室長)という状況。
両社の意思疎通が急がれるところだが、「都市計画決定後、速やかに話し合いのテーブルを設置したい」という県に対し、「もちろん応じる」(半井室長)とするJRと「数年は慎重に状況を見極めたい」(千田専務)という琴電の反応は対照的。タイムラグ同様の温度差がくっきりとある。
もっと大胆に
「ポイントの交通結節点でしょ。なぜ、そんなところで行き詰まるのか。高松なら、もっと踏み込んだ結び方が可能なはずですよ」と指摘するのは、北九州市の小倉駅にモノレールを受け入れたJR九州小倉駅ビル開発の大村一郎次長。
JR四国がマリンライナーの発着ホームを現在の北端から南2本目まで下げることも踏まえ、「琴電のホームをマリンライナーのホーム上まで、延ばせばいい。空間を生かせば、直接ホームを結ぶこともそう難しくはないはず」とアドバイスする。
「より速く、快適に」は、高齢化社会の都市づくりに欠かせないテーマだ。単に福祉的意味合いにとどまらず、個人の動きを速めることは、限定された人口、年齢構成の中で、都市の生産性を高める最後の手段ともいわれる。
「もっと大胆に」との北九州からの提言は、こうした背景を踏まえてのこと。サンポートの鉄道2駅の連携に対する県内関係機関の姿勢は、香川に交通の「青写真」や「企画力」はあるのかを知る、格好の材料となろう。

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モノレールの軌道をのみ込む新小倉駅ビル。モノレールと一体となった全国初の駅ビルは100万都市の新しい顔になる
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北九州市の試み
九州の玄関口、北九州市小倉に100万都市の「新しい顔」が全ぼうを現した。地上14階、地下3階のJR新小倉駅ビル−。JR九州最大の駅ビルは2−5階部分の真ん中がぽっかりと開いた一風変わった空洞構造が目を引く。地上から約20メートル。この4月、そこにモノレールが乗り入れる。JRなどの駅ビルにモノレールが直接乗り入れるのは全国初の試み。「もう乗り換えのために歩かなくてもいい」。モノレール開業から14年、北九州市の悲願はようやく実現した。
不便生んだ400メートル
北九州都市モノレール小倉線(北九州高速鉄道、小倉−企救丘間8・4キロ)の開業は昭和60年1月。都心部と郊外住宅地を結ぶ通勤、通学の足として定着しているものの、利用者数は伸び悩み、累積赤字は年ごとに膨らむ一方。
その一因と指摘されてきたのがアクセスの悪さ。これまでの停留場はJR小倉駅と400メートルも離れていた。市の当初計画では、JR駅に近接するはずだったが、駅前商店街の猛反対を受けて、南に後退させざるを得なかった。
「雨の日には乗り換えでぬれてしまう」「日によっては乗り遅れてしまうことも・・・・」。JR線との乗り換えの不便さを訴える声は募るばかり。乗り継ぎ客には、何とも納得のいかない距離が残った。
400メートルが生んだ不便。北九州市にとっても都心の交通機能強化のためには、モノレールの延伸とJR駅への乗り入れは緊急課題だった。
道路法改正が契機
JR駅への乗り入れ計画が持ち上がったのは昭和63年。その翌年には道路法の改正により立体道路制度が創設され、計画はぐっと現実味を帯びてくる。
「北九州のモノレールは法律上では“道路”なんですよ」とは市モノレール建設室の兼重修係長。モノレール建設促進法に基づき、モノレールの軌道など主要構造物を道路の一部とみなして建設したためだ。
「道路の上下空間には建築物が建てられないという道路法の制約のため、法が改正されるまでは駅ビルへの乗り入れは事実上、不可能だった」。法改正が計画推進の契機となった。
一方、市から「乗り入れたい」との打診を受けたJR九州は、モノレールと一体となった駅ビルの新築を検討。築40年を迎える旧駅ビルの老朽化も考慮した上で、平成5年に市と基本合意に達した。ここに100万都市の顔づくりが本格的にスタートする。
初物づくしの開発
モノレール開業から2年後、初当選した末吉興一現市長は「公共交通機関は連結してこそ意味がある」との強い思いから計画を強く推進する。前例のない「直接乗り入れ」だけに、その道のりは険しかった。
開発を担当したJR九州の大村一郎小倉駅ビル開発次長も初物づくしの事業を振り返りこうこぼした。
「東京モノレールの浜松町駅は一見、JR駅と同一構造のようにみえるが、あれは独立構造。小倉の場合は実際にモノレールを駅ビルが支える『一体建物』になっている。加えてホテルや200に及ぶテナント店を併設しているため、振動や騒音にも配慮しなければならず、設計や建設は困難を極めた」と。
さらに、ビル内に別の経営主体が同居するため、管理、権利面などで数え切れないほどの協議を繰り返してきた。「何とか実現したい」。手探り状態の中、双方の熱意だけが頼りだったという。
鉄道復権への投資
利便性の向上。新駅ビル関係者らの共通コンセプトだ。駅内にも随所に工夫の跡がみえる。改札口を3階に集めたのもその一つ。新幹線、在来線、モノレールの各ホームが複雑に入り込むため、乗り換え易くしようとしたものだ。
「鉄道が競い合う時代は既に終わった。自動車との競争に勝つために、これからは各鉄道を連結させることが重要」と大村次長。北九州高速鉄道の坂田満洲男総務課長も思いは同じ。両者とも今回の連結による急激な乗客増や売上増は見込んでいない。「それより1日1万人弱の乗り継ぎ客の利便性を最優先に考えている」と口をそろえる。
その言葉の中には、行き過ぎた車社会の次にやってくる「鉄道復権の時代」に合わせた先行投資との意識が感じられる。それはパーク・アンド・ライド・システムや排ガス抑制などに対応する21世紀の交通インフラを意味する。北九州市では現在、その整備が着々と進められている。
メモ
北九州高速鉄道 北九州都市モノレール小倉線を運営する第3セクター。北九州市のほか、新日鉄、西鉄など16社が出資。小倉−企救丘間8・4キロを18分で結ぶ。運転本数は平日で103往復。1日の輸送人員は約3万1000人。
山田明広、山下淳二が担当しました。
(1998年2月2日四国新聞掲載) |