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2013.01.02

「再配分連盟」と「合理的な無関心」

 古い話題だとばかり思っていたが、「再配分連盟」と「合理的な無関心」は意外と今後の日本の政治に重要な視点かもしれないと思い直したので、少し補足的に書いてみよう。話の元はピーター・タスカ『JAPAN2020 不機嫌な時代』(参照)である。

「再配分連盟」とはなにか
 「再配分連盟」は、ごく簡単に言えば、利権集団と言ってもよいだろう。ただし、ややこしくなるが、学術概念でもあるので、もう少し丁寧に見てみたい。
 「再配分連盟」は"redistributional coalition"の訳語だが、訳語としてこなれているとも思えない。定訳語なのかもしれないが、この概念を提出したマンサー・オルソン(Mancur Olson, Jr.)の、邦訳書『国家興亡論―「集合行為論」からみた盛衰の科学』(参照)のオリジナル"The Rise and Decline of Nations"をネット上のリソースで検索すると、"distributional coalitions"として含まれていた。この邦訳書では「配分連盟」とされているのかもしれない。後日確かめてみたい。また、邦訳書のなかでは主著的に見える『集合行為論―公共財と集団理論』(参照)のオリジナル"he Logic of Collective Action"もテーマ的には同一で、これにも含まれているかもしれない。これも同様、後日の課題に。
 "redistributional coalition"と"distributional coalition"の概念に差があるのか、ざっとネット上のリソースを見る限りでは、判然としない。基本的に同一と見てよさそうな印象がある。
 タスカの同書の孫引きになるが、彼は「再配分連盟」を次のように「利害団体」として捉えている。


一つの社会構造が長くつづくほど利害団体の数が増え、発言力も大きくなり、イノベーションを妨害して、経済のなかのフローを自分たちの懐に移転する

 以下引用中の「彼」はオルソンである。なお、ここでの労働組合は、直接的には日本的企業別組合を指しているわけではない。日本論ではないからである。

古典的な再配分同盟の例が労働組合だが、労働組合以上に大きな力を持っているのは業界団体である。補助金、関税、特別減税、あるいは新規参入を妨害するさまざまな規制によってメリットを受けている業界、団体はすべて再配分同盟の一種と彼は定義している。
 典型的な例は医療業界である。(中略)
 弁護士もまったく同じだ。(後略)

 再配分同盟が形成されるのは、長期間の安定した国家における、とも指摘されている。

重要な点は、再配分同盟をつくるのは簡単ではないということである。かなり長期間の繁栄と安定を必要とする。したがって、戦争、侵略、革命といった混乱を経験した国は、こうした連盟は少なく、発言力も弱い。

 ではどうしたらよいか。つまり、どうしたら「効率的でフェアなシステム」が構築できるか? 答えは無理。

こうしたグループは小さくなるほど、メンバー一人当たりのメリットが大きくなって、政治に対する圧力と意識も高くなっていくからだ。

 これに関連して、次の概念「合理的な無関心」が重要になる。

「合理的な無関心」とはなにか
 「合理的な無関心」とは、合理的に選挙民が政治問題に無関心になることだ。オルソンの概念なのかについては、不明。タスカの枠組みかもしれない。原語も不明。"Rational Indifference"という用語は一般的ではありそうだが。
 選挙民が政治問題に無関心であることが、合理的な状態だとも言える。なぜそのようなことが起こるのか。
 この問いは、「再配分同盟」が維持されてしまうのはなぜか、に関連する。「再配分同盟」のプレーヤーに対して。


 このように共通の利害を持っているプレーヤーたちは、自分たちの利益を守るために早い段階で強固な連盟を作ってしまうのだ。
 一方、大規模グループの代表者、一般消費者、預金者、サラリーマン、患者を代表するグループは、連盟、団体といったものを組織化しにくい。組織を作ったとしても、一人当たりが受けるメリットが小さいために、政治の場で自分たちの権利を声高に主張することがほとんどないからだ。

 「再配分同盟」が国家の富を偏在させても、大衆は合理的に無関心になる。

なぜなら、それぞれの問題の解決がもたらす一人当たりの得は、一人当たりの損をかなり下回るからだ。問題解決に労力を使って得が大きいならともかく、それがわずかでしかないならば、人々は死んだふりを決め込んでしまうのである。

 基本構図は以上の通りだが、原理的に見るなら、「再配分同盟」が国家の富を偏在させる傾向が、大衆の「合理的な無関心」を刺激する閾値のようなものは想定されるかもしれない。つまり、「再配分同盟」の利得があまりに公共の利益を毀損するか、不合理な利益を得ている場合である。
 こうした原理図からすると、その閾値がどこにあるのかが、問われているとも言える。

「車検制度」の事例
 「再配分連盟」と「合理的な無関心」の事例として、タスカは、「車検制度」を挙げている。


 たとえば、現在の日本の車検制度でメリットを受けているグループ、自動車業界および関連業界の一人当たりの得は、デメリットを受けているグループ、すなわち一般消費者の一人当たりの損をはるかに越えている。
 一般のユーザーにしてみれば、車検は二~三年(初回車検は三年)に一度なので、それほど重要な問題ではない。しかし、整備業者にとって、車検をなくすことは即座に死活問題となる。その結果、この問題を政治の場で一番議論するのは、車検でメリットを受ける修理工場業者という再配分同盟なのである。

 車検については他にも再配分同盟がありそうにも思えるが、基本構図はこれと同じだろう。
 タスカは別所でも指摘しているが、この再配分同盟が官僚の天下り先とシステム的に融合しているのが日本の大きなシステム上の問題でもある。

農業の事例
 日本の農業分野も再配分同盟とタスカは見ている。


 グループが小さくなるほど、一人当たりのメリットが大きくなるのは、農業分野を見ればよくわかる。日本では、農業は年々減少する一方だが、農協という農業団体は政治的にますます力を持つようになってきている。日本は農家が政治活動から受ける一人当たりのメリットは、本当の農業社会よりはるかに大きいにちがいない。

 農業についてはこの程度の言及しかないが、実態はさらに複雑だとも言える。農協は基本的に金融機関であることも自体を複雑にしている。それでも、農業、ここでは、補助金農業が、補助金農家を束ねる農協にとっては死活問題であることは確かで、これが大きな政治力を持っている限り、TPP推進などできるわけもないのだが、これはちょっと別枠で考えてみたい。

原発問題の例と今日的課題
 タスカの書籍を読み返して、原発についての言及が興味深かった。原発事故がない時代は普通に読み過ごしていた部分である。


 たとえば、原発が本当に安全であるかどうか。すべての国民がその問題を勉強したとしても、一人当たりが受けるメリットは低い。メリット、デメリットの比較でいえば、勉強するのは、原発がある、または原発建設予定地がある地域に住んでいる人々と業界だけだ。したがって、対立構造は業界対その地域の人々であり、その他の一般の国民にはあまり関心のない政治問題となる。

 原発事故が発生し、またそれを課題とする政党が乱立する総選挙が実施された時点で、この問題を再考すると、1997年時点のタスカの考察は誰もが不十分であると思うだろう。
 原発における「再配分連盟」が誰であるか、事故以前はそう明瞭ではなかった。
 明瞭に見えるのは、通称「原子力村」と呼ばれている「再配分連盟」である。これに対して、原発のデメリットが事故によって可視化されたかに見えた大衆・選挙民はどう行動したか。やはり、「合理的な無関心」だったのである。なぜか?
 おそらく、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、それ自体が「再配分連盟」に、大衆・選挙民から見えたせいではないか。
 つまり、「再配分連盟A」対「再配分連盟B」の対決の構図のなかで、大衆・選挙民のメリットがデメリットを上回ることなく、「合理的な無関心」に移行してしまった。
 この構図で言うなら、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が、なぜ、大衆・選挙民のメリットに寄り添うことができなかったのか、という課題にもなる。

「再配分同盟」とマスコミ・Web運動の限界
 原発問題の例をさらに見ていこう。
 構図は、反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団それ自体が「再配分連盟」に転換したかに見えたが、これが旧来からある「原子力村」という再配分同盟に敗退した、と見ることも可能だ。概ね、反原発、脱原発、卒原発の「再配分同盟」側は、そのように了解しているだろう。その憎悪ともいえる敵対感情からしても、これは一概に否定できない。
 実際のところ、「原子力村」は農業における農協のように、長く強固な政治勢力を維持しているため、新参の「再配分同盟」が排除されてしまうということはある。
 しかし、ここまで反原発、脱原発、卒原発を標榜する政治集団が総選挙で突出したのは、民主党政権登場の成功事例を踏襲したためではないか?
 つまり、マスコミやWeb運動を使って、対抗する「再配分同盟」を、罵倒し威嚇することで得た勝利の味に酔ってしまって、今回は、「合理的な無関心」によって押しつぶされたと見ることもできるだろう。
 この場合の再配分同盟の戦略は、(1)罵倒・愚弄・上から目線・啓蒙、(2)社会恐怖による恐喝、という2つが顕著だと思えた。
 逆にいえば、この2つが、マスコミやWeb活動で顕著化したとき、大衆・選挙民は「合理的な無関心」が発動してしまうというルーチンが形成されつつあるのではないか?
 同じことが、民主党政権かで醸成されたナショナリズムの興隆にも言えるだろう。国防の重要性、中国の恐怖といったものも、同じ類型に収束する。

問題は「合理的な無関心」の合理性
 全体構図のなかで、私が特に危機感を持つのは、「合理的な無関心」の合理性である。つまり、「合理的な無関心」が、今後の日本の国家運営にとって、合理的なのか、という課題である。
 従来の考え方すれば、大衆・選挙民の変化、つまりその「合理的な無関心」の発動は、(1)再配分同盟による政治の、あまりの不合理性の可視化、(2)明確なデメリットの提示、(3)それ自体の知性化を待つ、という契機になるだろう。
 しかしざっと見たところ、そのいずれも、今後の日本にさほどの有効性はなさそうだ。特に、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識なども、さほどの意味はないだろう。
 このことが特に現下鮮明になるのは、金融政策という課題を考えてもよいように思える。
 金融緩和はもっともファンダメンタルに、国家を媒介した、原義的な再配分を強行する政策である。つまり再配分同盟にとって、もっと原理的な弱化を与えうる。が、弱化の影響力は広範囲なので、現存の再配分同盟の連結を推進させることも少ない。
 金融政策といった、高度に知的な課題において、Webを使った政治関与やIT技術を使った政治意識は、ほぼ無効だと思われる。
 では、有効なのはなにかというと、残念ながら、リバタリアン・パターナリズム(参照)しかないように思える。
 さらに、自分自身のリバタリアン的な思想と矛盾するのだが、リバタリアン・パターナリズムを推進できるのは、実質、知を担える官僚だろう。(日本の大学に知を期待してもしかたないだろう。)
 陰鬱な構図になってしまったが、現代において、特に現代日本では、政治そのものが技術化している以上、その専門性に、大衆・選挙民の「合理的な無関心」は対応できない。
 金融政策以外の例も挙げておくと、後期高齢者医療制度についても顕著だった。麻生政権時代、罵倒と威嚇を繰り出した新参の再配分同盟たちは、今、政治技術の前に沈黙せざるを得なくなっている。
 ただしそうは言っても当面は、(1)「再配分同盟」と「合理的な無関心」の対立、(2)既存「再配分同盟」と新参「再配分同盟」の、マスコミやWebを使った罵倒と威嚇の馬鹿騒ぎは継続されるのだろう。
 せめて、馬鹿騒ぎというなら、公共性を考慮しつつ「逆立ちカルボナーラ食いパフォーマンス in 渋谷」くらいに楽しいとよいのだが。
 
 

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