以下は、氏の自伝とも言うべき回想録「幾山河」の「昭和天皇をしのぶ」最終部の一節に書かれた部分である。
大東亜戦争の中盤、日本が徐々に敗勢に向かうアッツ島守備隊の玉砕戦に関する先帝陛下の部下、臣民に対する大御心がうかがえ、読みながら落涙するのを抑えきれなかった。
《昭和18年5月12日、アッツ島守備隊は強力な米軍の急襲上陸を受けた。山崎部隊長以下2千数百の将兵は勇戦敢闘したが、衆寡敵せず、5月下旬、現地の戦況は、極めて憂慮すべき事態に立ち至った。
この状況は毎日上聞に達せられていた。5月24日の参謀総長上奏の際、陛下より「山崎部隊は本当によくやった」という趣旨の御沙汰があり、直ちに参謀総長から現地部隊に伝達され、山崎部隊長からも「恐懼感激、最後まで善戦健闘する」旨の返電があった。私はこのころ、南太平洋・東部ニューギニアの戦線へ出かけていたが、大本営から急遽帰京せよと命令を受け、5月20日ごろ東京へ着いた。
29日、現地部隊最後の夜襲攻撃に先立ち、決別の電報が大本営に入り、それには本電発信とともに暗号書を焼却、全無線機を破壊するとあった。誠に悲痛きわまりない最後の電報だった。
本電を直ちに宮中へお届けし、翌30日早朝、杉山参謀総長は拝謁の上、上奏した。私はこの参内に随行した。随行の折は随行者は別室で待機し、上奏が終わると総長が別室へ顔を出し「帰ろう」と言うのが通常だったのに、総長はこの日は別室に顔を出さず、ただ黙々として廊下を歩いていった。私は急いで追いかけ、総長の車に同乗した(私は左側座席を占め、運転手との間はガラスで仕切られてあった)。通常だと、坂下門を出たら車中でこの日の上奏内容、特に御下問と奉答について総長に聞き、随行者が車中でメモし、記録しておくのが習わしだった。しかし、この日に限って元帥はこちらから聞いても何も答えず、ただ黙然としていた。
私がさらに聞くと、杉山さんは口を開き、「きょうは陛下は静かに上奏をお聞きになり、何も御下問はなかった。アッツ島部隊の将兵を追悼されているように拝した。ただ御一言だけ『将兵は最後までよくやった。このことを伝えよ』と仰せられた。畏れながらただいま奏上いたしましたごとく、既に最後の総攻撃に入り、無線機は既に破壊していますので、聖旨をお伝えすることができないと申し上げると、陛下は『それでもよいから電波を出せ』と仰せられた」。
そして、総長は私に対し「帰ったらすぐ発電するように」と指示した。それを聞いて、私は涙があふれてメモを書くこともできず、杉山さんも言い終わると静かに目を閉じていた。こと切れた子供の名を呼び続ける親の気持ちのような大御心だと思われた。
私は、帰庁後直ちに御沙汰の電報を起案し、アッツ島へ向け発電したが、普段だと約30分後には電報受領の返電がくるのに、このときは現地から何の応答もなかった。この旨、電話で侍従武官へ報告した。》
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