2010年03月05日

「幾山河」瀬島龍三氏

 「昭和の参謀」「昭和の生き証人」などと呼ばれ、山崎豊子氏のベストセラー小説「不毛地帯」の主人公のモデルでもあった瀬島龍三氏が老衰のため亡くなられたのは、2007年9月4日。大往生と言える95歳であったという。
 以下は、氏の自伝とも言うべき回想録「幾山河」の「昭和天皇をしのぶ」最終部の一節に書かれた部分である。
大東亜戦争の中盤、日本が徐々に敗勢に向かうアッツ島守備隊の玉砕戦に関する先帝陛下の部下、臣民に対する大御心がうかがえ、読みながら落涙するのを抑えきれなかった。


 《昭和18年5月12日、アッツ島守備隊は強力な米軍の急襲上陸を受けた。山崎部隊長以下2千数百の将兵は勇戦敢闘したが、衆寡敵せず、5月下旬、現地の戦況は、極めて憂慮すべき事態に立ち至った。
 この状況は毎日上聞に達せられていた。5月24日の参謀総長上奏の際、陛下より「山崎部隊は本当によくやった」という趣旨の御沙汰があり、直ちに参謀総長から現地部隊に伝達され、山崎部隊長からも「恐懼感激、最後まで善戦健闘する」旨の返電があった。私はこのころ、南太平洋・東部ニューギニアの戦線へ出かけていたが、大本営から急遽帰京せよと命令を受け、5月20日ごろ東京へ着いた。
 29日、現地部隊最後の夜襲攻撃に先立ち、決別の電報が大本営に入り、それには本電発信とともに暗号書を焼却、全無線機を破壊するとあった。誠に悲痛きわまりない最後の電報だった。
 本電を直ちに宮中へお届けし、翌30日早朝、杉山参謀総長は拝謁の上、上奏した。私はこの参内に随行した。随行の折は随行者は別室で待機し、上奏が終わると総長が別室へ顔を出し「帰ろう」と言うのが通常だったのに、総長はこの日は別室に顔を出さず、ただ黙々として廊下を歩いていった。私は急いで追いかけ、総長の車に同乗した(私は左側座席を占め、運転手との間はガラスで仕切られてあった)。通常だと、坂下門を出たら車中でこの日の上奏内容、特に御下問と奉答について総長に聞き、随行者が車中でメモし、記録しておくのが習わしだった。しかし、この日に限って元帥はこちらから聞いても何も答えず、ただ黙然としていた。
 私がさらに聞くと、杉山さんは口を開き、「きょうは陛下は静かに上奏をお聞きになり、何も御下問はなかった。アッツ島部隊の将兵を追悼されているように拝した。ただ御一言だけ『将兵は最後までよくやった。このことを伝えよ』と仰せられた。畏れながらただいま奏上いたしましたごとく、既に最後の総攻撃に入り、無線機は既に破壊していますので、聖旨をお伝えすることができないと申し上げると、陛下は『それでもよいから電波を出せ』と仰せられた」。
 そして、総長は私に対し「帰ったらすぐ発電するように」と指示した。それを聞いて、私は涙があふれてメモを書くこともできず、杉山さんも言い終わると静かに目を閉じていた。こと切れた子供の名を呼び続ける親の気持ちのような大御心だと思われた。
 私は、帰庁後直ちに御沙汰の電報を起案し、アッツ島へ向け発電したが、普段だと約30分後には電報受領の返電がくるのに、このときは現地から何の応答もなかった。この旨、電話で侍従武官へ報告した。》


posted by ろうすいへい at 14:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月31日

お前が言うな!

 TVのニュースで、鳩ポッポの“施政方針演説”ダイジェストを報じていた。何でもガンジーの「七つの社会的大罪」を挙げて演説を構成したらしい。
@原則なき政治
A道徳なき商業
B労働なき富
 の、ところで思わず仰け反った。やはり野党席から「それは、お前じゃないか!」と野次が飛んだそうだ。そりゃそうだろう。いくらボケた自民党でも、これぐらいの反応は正常値である。
C人格なき教育
D人間性なき科学
E良心なき快楽
F犠牲なき信仰

 考えてみれば、迷走する民社党政権(与党も含めて)にとって、このガンジーの「七つの社会的大罪」を全て網羅する施政方針であるようだ。

当の本人は「七つの社会的大罪」を打ち消す政治をしたいらしい?
 だが現実の施政方針は「七つの社会的大罪」を、まさに踏襲しようとしているのではないか?

 彼の本音は、一体どちらであろうか???


posted by ろうすいへい at 10:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

航発後期

 “帰艦(帰隊)時刻遅延”のこと。昔、戯れ歌?で『艦(ふね)は出て行く、煙は残る・・・』なんていうのを聞いたことがあったが、要は“遅刻”のこと。
「なんだ?“遅刻”なんて大したことないじゃないか。俺なんかしょっちゅうやってるよ」
と、言うあなた。あなたが、平和な日本の、のどかな民間の会社員であれば、あまり影響はないのかもしれません。しかし、そのような会社でも出世して係長、課長となることは、まずないでしょう。おそらく、その会社にいる限り、ズーッと平社員でしょう。

 どんな会社でも面会の約束に遅刻すること、商品の納期に遅れること、借金の返済、代金の決済の遅延は、個人の問題ではなくその組織全体の“信用問題”になるはずです。そして、そのような社員は、いずれスポイル(エリミネート)されていくし、会社と言う組織であれば、取引が成立しなくなり、やがては“倒産”してしまうことは当然です。会社は倒産したくはありません。いわば“不良社員”の存在は会社の命運を左右するかもしれないのです。だからこそ、会社は社員の遅刻の常習者を決して許さないのです。

 まして軍事組織である軍隊(自衛隊)においては、作戦の成否を微妙なタイミングで図ることが多いため、“遅刻”は懲戒処分の対象になっているのです。
なにしろ戦時中の某国海軍では、“航発後期”した乗組員がいた場合は憲兵を残して、軍事法廷に掛けられることなく“銃殺”された?というぐらい、重大な軍規違反だったのです。
平時の海上自衛隊でも、乗艦が一旦出港したら、たとえ帰艦時刻遅延した乗組員の姿が見えたとしても、決して艦は戻ってくれない。母港の補充部で草刈でもして待機するか、次の入港地まで自費で行って入港してくるのを待つかしかない。
勿論、厳罰が待っていることはいうまでもない。

 小生の場合?はるか昔の乗艦実習中、帰艦時刻遅延には至らないが、ぎりぎりセーフ?が一回あった。その時は桟橋の一番端っこに係留中の艦に向かって、隊門前で飛び降りたタクシーから約500mはあったろうか。周りの護衛艦の上甲板から、拍手喝さいや歓声(怒声)の嵐の中ハシッタ、走った。後から思えば『こんなに俺も速く走れるんだ』というくらい速かった。
ようやく滑り込んだ乗艦の舷門。当直士官に帰艦の報告をする暇もあらばこそ、振り返った時に当直警衛海曹(CPO)から喰らった“鉄拳一発”。
眼から星がチカチカしたぐらい、キイタ!


posted by ろうすいへい at 20:08| Comment(1) | 海上自衛隊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。