敵を愛せ2
「汝の敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」
イエスキリストは十字架にかかることにより、身を持ってこの教えを示したとも言える。その教えの要素とは、①相手の怒りを受容し愛を持って返す ②その信仰の為に死ぬこと、殉教。
信仰の為に死ぬという殉教。この考え方は、キリスト教以前のユダヤ教他にも存在していたと思われる。「救い主」であるイエスが十字架にかけられたこの(広い意味での)殉教は、軟弱な信仰心しかなかった彼の弟子達を奮わすこととなった。軟弱な信仰心とは、たとえばペトロのそれである。
「にわとりが鳴く前に、お前は三度私を知らないと言うだろう」
イエスを迫害するユダヤ教徒を前に、ペトロはこの言葉通りイエスを見捨てる。見捨てるというより、イエスの弟子である自身にも害が及ぶのを恐怖した。そう言った方がいいかも知れない。
その反省もあったのだろうか。イエスの十字架「殉教」、そして復活後、十二使徒他信者等は、死をも厭わぬ姿勢で布教に励む。ペトロは逆さはりつけになるなど、十二使徒は信仰故に命を落とすことになる。これらの「殉教」は、あとに続く信者達の一つの規範となった。
初期のキリスト教徒は、ローマ帝国下でユダヤ教徒他から迫害を受けることになる。その迫害される状況下、信者等はローマ帝国をも揺るがすまでに信者を増やす。キリスト教がローマの国教となり、世界宗教となる流れである。
しかしこの「殉教」は、イエスの十字架の「殉教」が含んだ重要な意味を欠落させたまま理想化されていった。十字軍その他のキリスト教の歴史・今日のキリスト教徒をみて、小生はそう判断せざるを得ない。
欠落した意味は、記事タイトルの「敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」という点である。信仰のために命を捨てるという点のみが理想化され一人歩きしたのである。
このような殉教の理想化は、現代においては対立と混乱をもたらしている。一人歩きした結果、同じ一神教のイスラム教においては、自爆テロの殉教者を多数排出することになった。
「アッラー アクバル(神は偉大なり)」
神の偉大さを称えつつ、自らの生命身体を捧げる行為は、原理主義的信仰の極みかもしれない。だがそれは異教徒を攻撃・排斥するものであり、人助けどころか、むしろお互いの憎しみを増幅させる。これは「殉教」という意味が概念化され、固定化されることによって、陰陽転換してしまったと解釈できる。
オウム真理教の無差別大量殺人においては、殉教者はいなかったが、信仰のために他者を省みることなく犠牲にするという点では同じ。
このような「殉教」に理想化されている要素は、オウムに限らず多くの宗教に見受けられる。うやうやしく近づいてきた新興宗教の勧誘者に、お断りの意思表示をしたところ、「お前のような者は救われない」「地獄に堕ちろ」と。このような罵倒を返された話はよく耳にする。
神を希求すれば悪魔が現出し、天国を希求すれば地獄が現出する。信仰にくみしないものは、悪魔であり地獄に至る魂とされてしまう。この二元的思考から脱却しない限り、悪魔との対決、天国からの堕落、高い世界から低い世界への転落は避けられないことになる。人の心を救おうとするならば、どこかでこの矛盾・葛藤と対決することは不可避。いやむしろそれは、他者への祈りというより、自己の中の闘いである。
(つづく)
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