荒木田久老、日本紀歌解槻之落葉  〔歌謡番号は、土橋寛、古代歌謡全註釈による。翻字に自信のないものには?をつけました、読める方、ご連絡いただければ幸いです。読み間違いや誤植の御指摘も大歓迎です。底本は近代デジタルです。〕
 
荒木田神主久老撰
日本紀歌解
明治元辰補  河内屋喜兵衛板
 
殖槻の槻かえたはも、もゝえたちえたふりふりはあれと、あかれる世のふりは、いとゝかむさひ、をゝしきふり、今の世のふりは、しなへたわやけるふり、そのくたれるしつえは、たはやすく、をりかさせるみやひを、さはなれとも、高く神さひにたる、いにしへふりのほつえは、常に雨雲のいゆきはゝかりて、朝霧のおほにたに、見し明むるひとしもなかりけるを、近き世より、此ふりとむる人ともの、やく/\いてきたりて、鳥かなくあつまのくに天さかるひなの國々まて、みさかりにさかえ、ひろこりぬるをいかなれかも、うち日さすみやこにしもこのふりとむといふ人いとまれらにして、たゝ中つえしつえの、若葉のしなひたわやきたるに、めてまとひて、かむさひをゝしき、ほつえのふりを、ふりさけみむものとしもせぬは、いとうれはしき事ならすや、かれそのふり見直し、聞直すともからもありなむやと神かせの伊勢の国、百木足、山田の原にして、神の朝庭につかへまつらす、もゝたらす、五十槻のそのゝ大人、こそのむ月ゆ、はろ/\に都にのほり來まし、秋風の吹うら返す、真葛原のいほりにして、いとかみつ代の歌ふりつみいてゝ、めてたくくすしきさま、しらせまくおもほして、いし河のいそしくつとめ、かたふちの、ふかくかむかへ給ひて、天のゝり琴さや/\に、かきなし給へりし、このふみの、もとすゑ、うきぬなはのくりかへし見るに、まことに雲のかけはし、かけわたし、天くもの、千重かきわきつゝ、天ぞゝり、高き梢も、引よち折かさすへく、うるはしくくすしく、あきらけくやすけく、しるし給へりけれは、ちりひちの數ならぬ、おのか心にしも、ふかくうれしみよろこほひて、はつ花のはつかに、こちてつるは、吾皇御國の、みやひのさましらまくほりするともから、からしほのから国こゝろをのそこり、このふみの條々、しゝくしろ、うまらに味ひ聞しもちをし、これの殖槻の槻のほつえのふりよきいにしへを、しぬひたまひねかしと、みさとの御民、城戸千楯かかしこみ/\もまをすになむ
寛政十一年なか月
 
 
日本紀歌解槻乃落葉上卷
皇大神宮權禰宜從四位下荒木田神主久老謹撰
 
第一卷神代上一首
 
是時《コノトキ》素盞嗚尊《スサノヲノミコト》、自v天而降(テ)、到(マス)2出雲(ノ)國|簸之川上《ヒノカハノビニ》1、畧、乃(チ)言曰《コトアケシタハク》、吾心清々之《アカコヽロスガスガシ》、於彼處《ソコニ》建《タテタマフ》v宮(ヲ)、或(ニ)曰、時《トキニ》武素盞嗚《タケスサノヲノ》尊|歌之曰《ウタヨミシタマハク》、
古事記に初(テ)作2須賀宮1之時、自2其地1雲立騰《クモタチノホル》、尓(チ)作御歌《ミウタヨミシタマフ》其歌(ニ)曰、とあり、いさゝかつたへ異なれり、
頭注、すべてこの日本紀の訓は、字を逐てよみつるものにして、皇朝の詞のふりに違へることおほし、されどこれをよみ改めむは、いとかたき事にて、たはやすくよむべきならねば、心ならねど、暫旧訓にしたがへり、さるは歌にかゝはらず、この書の主《ムネ》ならねば也、
 
1 夜句茂多菟《ヤクモタツ》、
彌組立《イヤクミタツ》也、この言を、古事記【景行(ノ)條】倭建命の御歌には、夜都米佐須《ヤツメサス》、伊豆毛多祁流《イツモタケル》、と見え、万葉卷三、人麻呂(ノ)歌に(1ウ)は、八雲刺《ヤクモサス》、出雲子等《イツモノコラハ》、とあれば、やつめも、やくもゝ、同言ぞといへど、雲といふ體言を、つめといひては、雲ぞとは誰か心得ん、又續日本紀に、八裳刺曲《ヤツモサスブリ》とあるをも、併て考るに、このくもは、組《クミ》の用言にて、涕ぐむ、角ぐむ、芽ぐむ、などのくむに同しく、聚り催す意と聞ゆれば、【雲といふ名も、その組を、體言になしたる名なり、】弥組立《イヤクミタツ》の意、又それを、つめともいふは、詰《ツマ》りにて、今の言にも、雲のつむといふ是也、八裳《ヤツモ》とあるも、弥詰《イヤツム》なり、さればたゞ出雲にかゝる、發語《マクラコトバ》とのみ見べし、さて刺《サス》と立《タツ》とは、同意の言にして、今の言にも、さし曇とも、立曇ともいへり、後撰集の歌に、いにしへの、野中の清水、見るからに、さしくむものは、涕なりけり、と有もて、このさすといふ言を、按《オモフ》へし、
頭注、此歌を、本文にはあげられすして、或曰とて載られたるも、傳のさまざまありて、素盞嗚(ノ)尊の御歌とも、决定《サタメ》がたき故なるべし、或曰は即古事記の傳を、とられしなるべし、
 
伊弩毛夜覇餓岐《イヅモヤヘガキ》、
出雲八重垣《イヅモヤヘガキ》也、この出雲は、国号にあらず、立出る雲をさして、詔へる也、さるは出雲風土記に、號(ル)2出雲(ノ)國(ト)1者、八束水臣津野《ヤツカミツオミツヌノ》命、詔(フ)2八雲立(ト)1語之故《コトノユヱニ》、云(フ)2八雲立出雲(ト)1、云云は、則この御歌を、一には八束水臣津野(ノ)命の御歌とも、傳しなるへく、おもはるれば、出雲の国号は、元來《モト》この御歌より、おこれりと知られたり、さてその出來る雲を、やがて垣にとりなして、八重垣とはよませ給ふなるべし、武烈紀にも、おほきみの、八重のくみ垣とありて、垣にも組といひ、雲も組ものなれは、かた/\よし有て聞ゆ、
頭注、○くみ垣は、こもり垣なるべし、彼歌に委しくせり、
 
菟磨晤昧(2オ)爾《ツマゴメニ》、
妻隱尓《ツマコメニ》也、つまをこめむがために、といふ意、宣長云、いにしへ婚姻には、まづ家を建る、ならはしや有けん、万葉卷(ノ)三に、いにしへに、有けむ人の、倭文幡《シツハタノ》、帶解《オヒトキ》かへて、廬屋立《フセヤタテ》、妻問爲《ツマドヒシ》けん、とあるも、さる意にやといへり、【古事記傳に詳なり】こゝも櫛稲田姫《クシナタヒメ》を、隱《コメ》たまはむ料《タメ》の、妻屋の垣をいふなるへし、
頭注、○古事記は、都麻碁微尓《ツマコミニ》とあり、
 
夜覇餓枳菟倶盧《ヤヘガキツクル》、
八重垣造《ヤヘカキツクル》也、つくるとは、立出《タチイヅル》雲の、弥重《イヤヘ》に垣をなせるをいふ、今も舩人の言に、西に雲のつくりしは、風吹きぬべしなどいへり、つくるといふこと、雲によしありておぼゆ、
頭注、○垣とは、かこめる義なれば、雲を垣にとりなし、雲の立出るを、つくるとはの給ひしなるべし、
 
贈廼夜覇餓岐廻《ソノヤヘガキヲ》、
彼八重垣乎《ソノヤヘカキヲ》也、そのとは、上の出雲八重垣といふ句をうけて、うたひかへせるなり、終《ハテ》の廻《ヲ》は、上にかへる遠《ヲ》にあらず、たゝ與《ヨ》といふ意に、呼捨たる遠《ヲ》也、是が餘は、世々の識者《モノシリビト》の、神代紀の註解、宣長が、古事記傳等に詳なれば、今は省きつ、
 
第二卷 神代下、五首、
 
一書《アルフミニ》曰天照大神|勅《ノリコチ》2天稚彦(ニ)1曰《タマハク》、畧、時《トキニ》味(2ウ)耜高彦根《アヂスキタカヒコネノ》神、光儀華艶《ヨソホヒウルハシク》、映《テレリ》2于二丘二谷(ノ)之間(ニ)1、故《カレ》喪會者歌之曰《モニツトヘルモノウタヒケラク》、或(ニ)曰、味耜高彦根《アチスキタカヒコネノ》神之|妹《イロト》、下照媛《シタテルヒメ》、欲《オモヒテ》(丙)令《ニ》2衆人《モロヒト》1知《シラサムト》(乙)映《テレル》2丘谷《ヲカタニニ》1者《ハ》、是《コハ》味耜高彦根神《アチスキタカヒコネノカミナルヲ》(甲)、故《カレ》歌之曰《うたひけらく》、【古事記には、故《カレ》阿治志貴高日子根《アチシキタカヒコネノ》神|者《ハ》、忿而飛去之時《イカリテトヒサルトキ》、其伊呂妹高比賣《ソノイロトタカヒメノ》命、【高比賣(ノ)命は、下照比賣(ノ)命の一名なり、】思v顕2其名(ヲ)1故《カレ》歌曰、云云】、
 
2 阿妹奈屡夜《アメナルヤ》、
天在哉《アメナルヤ》也、万葉卷(ノ)三に、天有《アメナル》、佐々羅小野《サヽラノヲヌ》、卷(ノ)七に、天在《アメナル》、日賣菅原《ヒメスカハラ》、卷(ノ)十一に、天有一棚橋《アメナルヒトツタナバシ》、卷(ノ)十六に、天尓有哉《アメナルヤ》、神樂之小野《ササラノヲヌ》、と見えたり、天上《アメ》にあるといふ言なり、さて此紀には天稚彦の喪を天上にての事とすれど、天上にして、更にあめなるやとはいふべきにあらねば、古事記に、下つ国にての事とせるつたへや、正しかりなむ、
 
乙登多奈婆多廼《オトタナバタノ》、
音棚機之《オトタナハタノ》也、乙登《オト》を、(3オ)愛《ウツクシ》しむ意とする説はとらず、師説に、波多《ハタ》の下に、都賣《ツメ》の二字を、脱せるにやといはれしは、よし有ておぼゆ、さるは万葉卷(ノ)十九に、悲2傷《カナシメル》死妻(ヲ)1歌に、光神《ヒカルカミ》、鳴波多※[女+感]嬬《ナルハタヲトメ》、携手《テタヅサヒ》、共將有等《トモニアラムト》、念尓之《オモヒニシ》、云云とある、鳴波多《ナルハタ》は、こゝの音棚機《オトタナバタ》と同意なるに、彼に※[女+感]嬬《ヲトメ》ともいへれば、是も波多《ハタ》の下に、賣《メ》といふ一言や落つるならむ、都は、なくても有なむ、さて鳴《ナル》はたとも、音棚機《オトタナハタ》ともいふは、機《ハタ》織《オ》るには、手玉《タタマ》、足玉《アシタマ》の相ふれて、鳴音のあればにやあらむ、則此紀に、一書曰、天孫問曰、其秀起波穗上《ソノサキタテルナミノホノヘニ》、起《タテヽ》2八尋殿(ヲ)1而、手玉玲瓏《タタマモユラニ》、※[糸+任]織之少女者《ハタオルヲトメハ》、是誰之女子《タガコソトトヒタマフ》、云云、また万葉卷(ノ)十に、足玉母《アシタマモ》、手玉毛由良尓《タタマモユラニ》、織旗乎《オルハタヲ》、公之御衣尓《キミカミケシニ》、縫將堪可聞《ヌヒアヘムカモ》、と見えたり、さてかく賣《メ》の一言を加ふるときは、一句八言となれり、宣長が説に、みだりに七言の句を、八言に、五言の句を、六言にいふ事はなし、といへるは、古今集以下の論にして、古歌には、その例いとおほかり、
 
※[さんずい+于]奈餓勢屡《ウナガセル》、
所纓有《ウナガセル》也、うながすとは、頸《ウナジ》に懸るを云、世流は、志多流《シタル》の、略轉なるよしは、万葉三(ノ)卷の別記に、委しくいへり、万葉卷(ノ)十六に、吾于奈雅流《ワガウナケル》、珠之七條《タマノナヽツヲ》、卷(ノ)十三に、纓有《ウナカセル》、領巾文光蟹《ヒレモテルカニ》、手二卷流《テニマケル》、玉毛由良羅尓《タマモユララニ》、と見えたり、猶集中におほかり、
 
多磨廼彌素磨屡廼《タマノミスマルノ》、
玉之真統乃《タマノミスマルノ》也、すまるは、統聚《スヘアツマ》る意、和名抄に、昴星を、須八流《スバル》とあるも、玉の聚《アツマ》れ(3ウ)る形に似たれば、しか名づけたるならむ、古事記にはこゝの句、多麻能美須麻流《タマノミスマル》、美須麻流迩《ミスマルニ》、とあり、是《ヨキ》に似たり、可2併按1、
 
阿奈※[こざと+施の旁]磨波夜《アナダマハヤ》、
赤瓊玉光耀《アカヌダマハエ》也、阿可《アカ》は、阿《ア》の一言に約《ツヽマ》る、奴《ヌ》は、奈《ナ》に近く通ふ音《コヱ》、耀《ハエ》の延《エ》の、耶《ヤ》に通ふは、絶《タエ》をたやす、生《ハエ》を、はやし、などいふ例有、さてその玉の光耀《ハエ》を、高彦根(ノ)神の、容儀《ヨソヒ》の映《テ》れるに、比したる序にして、光耀《ハエ》は、この歌の眼目《ムネ》なるを、世々の註釈に、助辞とのみ心得たるは、古歌を解得ぬ、ひが言なりけり、
 
彌多爾《ミタニ》、
真谷《ミタニ》也、真は、みやまの美《ミ》に同じ、真艸を、みくさ、真熊野を、みくまの、といふ例なり、
 
輔※[木+施の旁]和多邏須《フタワタラス》、
二亘《フタワタル》也、羅須は、留《ル》の延言、古言に例おほし、次の以和多邏素西渡《イワタラスセト》の下にいふを見よ、さて高彦根(ノ)神の、光儀《ヨソヒ》の、二丘二谷に映《テリ》わたるを称《タヽヘ》て、裏《シタ》には、天稚彦の、天なる本妻《モトツメ》と、下照姫《シタテルヒメ》と、二かたに契(リ)わたせる意に、比したるにやあらむ、
 
阿泥素企多伽避顧祢《アヂスキタカヒコネ》、
味耜高彦根《アヂスキタカヒコネ》也、この二谷に映《テリ》わたるは、高彦根(ノ)神ぞよといふ意なり、古事記には、阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也《アチシキタカヒコネノカミソヤ》とあり、
 
(4オ)又歌之曰《マタウタヒケラク》、
 
3 阿磨佐箇屡《アマサカル》、
天疎《アマサカル》也、鄙《ヒナ》にかゝる發詞《マクラコトバ》、万葉には、天放とも、天離とも、書たり、師の冠辞考に詳なり、
 
避奈菟謎廼《ヒナツメノ》、
鄙津女乃《ヒナツメノ》也、ひなとは、日没《ヒナ》にて、西より北をかけて、いふ言と聞えて、万葉中にも、東南をさして、ひなといへる事なし、古事記雄略條に、三重(ノ)釆女が歌に、麻紀佐久《マキサク》、比能美加度《ヒノミカド》、尓比那閇夜尓《ニヒナベヤニ》、淤斐※[こざと+施の旁]※[氏/一]流《オヒタテル》、毛々※[こざと+施の旁]流《モヽダル》、都岐賀延波《ツキガエハ》、本都延波《ホツエハ》、阿米袁淤幣理《アメヲオヘリ》、那加都延波《ナカツエハ》、阿豆麻袁淤幣理《アツマヲオヘリ》、志豆延波《シヅエハ》、比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》、とあるは、阿豆麻《アヅマ》に對《ムカ》へて、比那《ヒナ》といひて、天《アマ》と四方をいへる意と聞えたり、是によりておもへば、阿豆麻《アツマ》といふ称《コト》は、景行紀に、倭建(ノ)命の、御言より出たるよしいへるは、例のいにしへの、かたり傳へのひとつにして、万葉にも、鳥が鳴の發語を、蒙《カヾフ》らせしを思ふに、明端《アケツマ》の意にして、東より南をかけて、いふ言と社おぼゆれ、さて下照姫は出雲の産なれば、ひなつめと、自(ラ)称《ナノ》れる也、
 
以和多邏素西渡《イワタラスセト》、
伊渡爲瀬門《イワタラスセト》也、伊《イ》は、在《アリ》の約言《ツヽマリ》にや、ありたゝし、ありがよはし、などいふ、在《アリ》にひとし、わたるを延て、わたらすといふは、古言なるよし、上にいへり、万葉卷(ノ)九に、級照《シナテル》、片足《カタアス》(4ウ)羽川之《ハカハノ》、左丹塗《サニヌリノ》、大橋之上從《オホハシノウヘユ》、直獨《タヽヒトリ》、伊渡爲兒者《イワタラスコハ》、云云と有に同じ、西渡《セト》の門《ト》は、河門《カハト》、水門《ミナト》の門《ト》也、万葉卷(ノ)十六に、角嶋之《ツヌシマノ》、迫門乃稚海藻者《セトノワカメハ》、云云と見えたり、さて男女の相婚《マグハヒ》する事を、河を渡るに比《タト》へたる事、万葉中におほく、やゝ後の歌にも見えたり、こゝは天稚彦に相かたらへるを、比《タトヘ》たる事と聞ゆ、
 
以嗣箇播箇※[木+施の旁]輔智《イシカハカタフチ》、
石河片淵《イシカハカタフチ》也、石河は、河内國石河郡に、石河あれど、それにはあらて、ひとかたに石あれば、ひとかたは、淵なるべきなれば、さるをかくはいへる也、さて天在《アメナル》本《モト》つ妻《メ》と、下照姫《シタテルヒメ》とに、相わたるときは、一かたは深く、ひとかたは淺かるべき理を、片淵もて、譬たるにこそあらめ、
 
箇多輔智爾《カタフチニ》、
片淵尓《カタブチニ》也、そのかた渕に、といふ意、
 
阿彌播利和※[木+施の旁]嗣《アミハリワタシ》、
網張亘《アミハリワタシ》也、網《アミ》は、魚を捕るとて、河に張設るものなれば、こゝに取出て、目《メ》といはん料の序とせり、
 
妹廬豫嗣爾《メロヨシニ》、
女呂依爾《メロヨシニ》也、呂《ロ》は、助語にて、万葉卷(ノ)十四に、加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》、卷(ノ)一に、乏吉呂鴨《トモシキロカモ》、【集中いと多かり、】などある呂《ロ》に同じ、豫嗣《ヨシ》は、寄《ヨセ》を、古言には與斯《ヨシ》といへり、是も万葉卷(ノ)十四に、庭にたつ、あさてこぶすま、こよひだに、都麻余斯許西祢《ツマヨシコセネ》、あさてこぶすま、【妻と寄せ來たれ、といふ意也、】又同卷(ノ)九に、きの国に、やまずかよはむ、妻社《ツマノモリ》、妻依來西祢《ツマヨシコセネ》、つまといひ(5オ)ながらと見えたり、め呂とは、ひなつめの自称なり、
頭注、○延喜式祝詞に、依志奉《ヨサシマツル》とあるも、この與志《ヨシ》を延て、與佐斯《ヨサシ》とはいふ也、
 
豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》、
依寄來祢《ヨシヨリコネ》也、祢は、仰《オフ》する言、吾もとに寄來《ヨリコ》よと言仰《コトオフス》る也、彼万葉に、依來西祢《ヨシコセネ》、といへるにおなし、
 
以嗣箇播箇※[木+施の旁]輔智《イシカハカタブチ》、
石河片淵《イシカハカタフチ》也、第四句を、こゝに再《フタヽビ》、うたひかへしたる也、かゝる例、古歌におほし、さてかくよめる意は、上古《イニシヘ》人の死たるを、下部《シタビ》にゆくとも、天上《アメ》に昇るとも、古歌によみたれば、こゝも天稚彦の死たるを、天上に昇るとし、さるを天在《アメナル》本つ妻の許《ガリ》、いたれりとして、その契のふかきを、片渕に比喩《タトヘ》て、せめてわれにも寄來よと、恨みかこちて、戀慕ふ意也、宣長が説に、この歌をこゝに載られしは、さらによしなき事なれば、誤ぞといへるは、臆論とこそおぼゆれ、
 
此兩首歌辭《コレノフタウタハ》、今|號《イフ》2夷曲《ヒナブリ》1、
是は後に樂所《大ウタトコロ》にて称《イヘ》る名也、この歌の第二句に、夷《ヒナ》つ女《メ》とあるによりて、上の歌まで、みながら夷《ヒナ》ぶりとは称《イヘ》るなり、ふりとは、その曲節のさまをいふ言也、宣長が古事記傳にいふところ、いと詳なり、
 
(5ウ)皇孫《スメミマノ命》因(テ)幸《メシタマフ》2豐吾田津姫《トヨアダツヒメヲ》1、則|一夜而有身《ヒトヨニハラメリ》、略、豐吾田津姫《トヨアタヅヒメ》恨《ウラミマツリテ》2皇|孫《ミコトヲ》不2與共言《アヒカタラヒマツラズ》1、皇孫《スメミマノ命》憂之《ウレタミマシテ》、乃爲歌之曰《ウタヒタマヘラク》、
 
4 憶企都茂播《オキツモハ》、
瀛津藻《オキツモハ》也、下の播は、助辭ともすべけれど、和名抄にも、毛波《モハ》と見え、延喜式祝詞にも、奥津毛波《オキツモハ》、辺津毛波《ヘキツモハ》と書たれば、藻は、毛波《モハ》といふが、古言なる、故こゝも、播《ハ》を助辭と見るは、いにしへならじかし、
 
陛爾播譽戻耐母《ヘニハヨレトモ》、
邊者雖依《ヘニハヨレトモ》也、邊《ヘ》は、海べたにて、澳《オキ》に對る言也、古歌古文におほし、万葉卷(ノ)四には、奥幣徃《オキヘユキ》、邊徃伊麻徃《ヘユキイソユキ》、爲妹《イモカタメ》、吾漁有《ワカスナトレル》、藻臥束鮒《モブシツカフナ》、とよみて、奥《オキ》、邊《ヘ》、礒《イソ》、とも相並へたり、奥《オキ》つ藻の、辺《ヘ》つ方《ヘ》に寄來るが如く、吾により來て、靡寐《ナビキネ》し妹の命の、今は寄來まさぬよしを詔《ノタマ》はんとて、奥つ藻をしも、取出給へるならむ、万葉卷(ノ)二に、和多豆乃《ワタヅノ》、荒礒乃上尓《アリソノウヘニ》、香青生《カアヲナル》、玉藻息津藻《タマモオキツモ》、朝羽振《アサハフル》、風社依米《カセコソヨラメ》、夕羽振流《ユフハフル》、浪社來縁《ナミコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼依此縁《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》、云云、かくざまによめる歌、いと多かり
頭注、○伊麻徃《イソユキ》の徃《ユキ》、今本|夜《ヤ》に誤れり、
 
(6オ)佐禰耐據茂《サネトコモ》、
佐寐床毛《サネトコモ》也、佐は、添言、床は、万葉卷(ノ)十四に、きへ人の、まだらふすまに、、わた佐波太《サハタ》、いりなましもの、伊毛吾乎杼許尓《イモガヲトコニ》、とあり、その餘、玉床《タマドコ》、夜床《ヨドコ》なども、おほくよみたり、さて同卷(ノ)十四に、左祢度波良布母《サネドハラフモ》、とあるは、佐寐所掃《サネトコハラフ》にて、佐祢、さぬるなど、おほく見えたるは、みな刺寐《サシネ》る意にやとおもへれど、【さしは、二人《フタリ》相並ぶを云なり、】さる意ならぬもあれば、たゞ佐《サ》は、真《マ》にひとしき、佐祢《サネ》の略語の添言とすべき也、
 
阿黨播怒介茂譽《アタハヌカモヨ》、
不歟哉譽《アタハヌカネヨ》也、あたふは、雄略紀に、童女|君者《キミハ》、本《モト》是《コレ》釆女《ウネメヲ》天皇|與《アタハシ》2一夜《ヒトヨ》1而《テ》※[月+辰]《ハラメリ》、云云とある、與《アタフ》也、人にものをあたふといふも、彼に觸《フル》るをいふ言なれば、こゝも寐所《ネド》に不觸《フレヌ》を、あたはぬとはいへる也、今の言にも、肌ふれぬなといふ、觸《フル》におなじ、下の譽《ヨ》は、呼捨たる助辭也
頭注、古事記、輕太子《カルノミコ》の御歌に、夜須久波※[こざと+施の旁]布禮《ヤスクハタフレ》、と見えたり、
 
播磨都智耐理譽《ハマツチドリヨ》、
濱津千鳥譽《ハマツチドリヨ》也、濱辺の千鳥の、夜すがら鳴あかすが如く、夜を鳴あかすといふ意を、いひ殘したる也、譽《ヨ》は、上におなじ、
 
須臾有《シマラクアリテ》鹽土老翁來《シホツヽノヲジキタリテ》、乃|作《ツクリテ》2無目堅間小(6ウ)舩《マナシカダマノフネヲ》、載《ノセタマヒテ》2火々出見《ホホテミノ》尊(ヲ)1、推2放《オシハナテリ》於|海中《ワタナカニ》1、云云|已而從容《ステニオモフルニ》謂《カタリ》2天孫《スメミマノ命ニ》1曰《ツラク》、妾方産《ワレマサニミコウミナモ》、請勿臨之《ナミタマヒソ》、天孫心《スメミマノ命ミゴヽロニ》恠《アヤシト思ホシテ》2其|言《コトヲ》1、竊覘之則《シヌヒニミソナハシヽカバ》、化2爲《ナレリ》八尋大鰐《ヤヒロワニニ》1、而|知《シリテ》3天孫《スメミマノ命ノ》視2其私屏《カイマミシタマフヲ》1、深懷慙恨《フカクハヂウラミマセリ》、既兒生之後《スデニミコアレマシヽノチ》、天孫|就而問曰《ユキテトヒタマヘラク》、兒名何稱者當可乎《ミコノナハナニトカモマヲサバエケムトトヒタマヘバ》、對曰《ミコタヘニ》、宜《ヘシ》v號《マヲス》2彦波瀲武※[盧+鳥]※[茲+鳥]草葺不合《ヒコナキサタケウカヤフキアヘズノ》尊(ト)1、言訖《ノタマヒヲハリテ》乃|渉《ワタリテ》2海徑《ウミツミチヲ》1去《イニマシヌ》、于時《トキニ》彦火々出見(ノ)尊、乃歌之曰《ミウタヨミシタマヘラク》、
 
(7オ)5 飫企都※[登+立刀]利《オキツドリ》、
瀛津鳥《オキツドリ》也、是は鴨といはむ料の、發語也、師の冠辭考に詳なり、
 
軻茂豆句志磨爾《カモヅクシマニ》、
於《ニ》2神就嶋《カムヅクシマ》1也、嶋とは、海神《ワタツミノ》宮をさして詔へり、おのれはじめ思へるは、万葉卷三に、水鴨成《ミカモナス》、二人雙居《フタリナラヒヰ》、とある意にて、まづ鴨着《カモツク》とうたひ出て、その鴨の如く、わが率寐《ヰネ》しとは詔《ノタマヘ》るなるべく、万葉卷(ノ)七に、志長鳥《シナガトリ》、居名野《ヰナノ》とつゞけたるも、率寐《ヰネ》の意なれば、同意の言ぞとおもへりしは、後世意也ける、沖つ鳥は、たゝ鴨にかゝる發語のみにして、加毛豆《カモヅ》くとは、神々《カウ/\》しきをいふ言にて、神就《カムヅク》也、【神を、加毛といふは、高鴨八重事代主(ノ)神、とある鴨は、神なり、加牟とも、加毛とも、通しいふ例也、】豆くとは、みづく、しづく、三諸《ミモロ》づく、あもりづく、などの就《ツク》にして、【古事記の、底度久御魂《ソコトクミタマ》も、この豆久《ヅク》の轉語也、則こゝの句を、古事記には加毛度久《カモトク》とせり、】もとは着《ツク》の意より、出たる言なるべけれど、こゝはたゞ添たるばかりの事にて、さだかに着《ツク》の意にもあらず、今の言に、きらつく、あはつく、などいふつくにて、其をきら/\し、あは/\しともいへば、かもづくは、かう/”\しなるを知べし、
頭注、○鴨は、水鳥の惣称にて、沖つ鳥は、鵜をいふなるべし、万葉四(ノ)卷の考に、委しくいふを見べし、
 
和我謂祢志《ワカイネシ》、
吾率寢爲《ワガイネシ》也、古事記、雄略の御製に、多斯尓波韋泥受《タシニハイネズ》、万葉卷(ノ)十四に、爲祢※[氏/一]夜良佐祢《ヰネテヤラサネ》、卷(ノ)十六に、吾率宿之《ワカイネシ》とあり、皆ゐの假字にて、いね、いぬとは、異なり、ゐは、率の義なり、
 
伊茂播和素邏珥《イモハワスラジ》、
妹者不忘《イモハワスレジ》(7ウ)也、禮《レ》を羅《ラ》に通しいふ、妹とは、豐玉姫をさして詔へり、妹をばわすれじとの給ふ意、古事記には、和須礼士《ワスレジ》とあり、
 
譽能據※[登+立刀]馭※[登+立刀]母《ヨノコトゴトモ》、
世之盡々毛《ヨノコトゴトモ》也、世の終《ハテ》までもといふ意、万葉卷(ノ)五に、許登許等波《コトコトハ》、斯奈々等思騰《シナヽトモヘド》、とあるは、終《ハテ》は死《シナ》んとおもへども、といふ意なるを引合して、この意を知べし、
 そも/\この御歌に、嶋と詔へるは、海神《ワタツミノ》宮をさして、詔へる言にして、そは海底《ウナソコ》にある、ひとつの国なり、海路を經行国なるゆゑに、此國の海上にある、嶋になずらへて、かくよみませるを、神代といへども、海底《ウナソコ》にゆき通ふべき理なければ、例の寓言《ヨセコト》にして、此わたづみのみやといへるは、今の琉球国也といへるは、彼天照大神の都は、某の國ぞといへると、同論にして、古傳を信《ウケ》ずして、みだりにいへる、私のさかしら言也、たゞ神の御しわざは人の智もて、おもひはかるべきにあらねば、いさゝかも私意を交へず、古傳は、古傳のまゝに、心得て有なんものを、この頃或人の疑ひけるは、神代には、海底にも行通ひ給へりしを、豐玉姫の御誓言《ミウケヒコト》より、海陸《ウミカクヌカ》の通ひは絶たりとある、古傳の趣はしるかめるを、それより前に、潮滿瓊《シホミツタマ》を以《も》(8オ)て、火酢芹《ホスセリノ》命を、悩苦《ナヤマ》し給へりし事の有《ア》なるは、海底にさへ、行通ひ給へる神の御うへに、潮に溺給ふべき理《コトワリ》なければ、すべて神代の傳は、いと/\いぶかしといへり、是ぞ例の漢意《カラコヽロ》の除《ノゾコ》らぬ癖なる、海底に行通ふも、潮に溺し給ふも、みながら神の御しわざなれば、そのをりさるべき理やありけむ、かにかくに人のさとりもて、神の御うへは、量知べきならぬを耶、
 
是後豐玉姫《ノチニトヨタマヒメ》、聞《キカシテ》2其兒端正《ソノミコノキラ/\シキヲ》1、心甚憐《ミコヽロニイトアハレトオモホシテ》、重《マタ》欲2復歸養1《カヘリヒタシナモトオモホセド》、於v義不v可《コトワリヨカラストテ》、故《カレ》遣(テ)2女弟玉依姫《イロトタマヨリヒメヲ》1、以來養者《キツヽヒタシタマヘリ》也、于v時《トキニ》豐玉姫《トヨタマヒメノ》命、寄《ヨセテ》2玉依姫《タマヨリヒメニ》1而、奉報歌曰《カヘシウタ奉ラセタマヒケル》、
古事記には、此贈答、今と前後して、歌の意も意もいさゝか異なり、
 
6 阿軻娜磨迺《アカタマノ》、
吾珠之《アカタマノ》也、葺不合《フキアヘズノ》尊をさして、御母にませば、吾珠とはの給へる也、聞(シテ)2其兒(ノ)端正(ヲ)1、とあるにあたれり、吾《アカ》のかを、(8ウ)清音にいふは、則古事記のこの歌に、岐美何余曾比斯《キミカヨソヒシ》、とある何《カ》も、續日本紀宣命に、天皇大命《スメラカオホミコト》、云云とある何《カ》も、万葉卷(ノ)一に、伊良虞荷四間乃《イラゴカシマノ》、とある荷《カ》も、清音に唱る例也、【この何《カ》、宣長が濁音とさだめたるは、とらず、さるは清濁論に、委しくいへり、さて阿軻《アカ》のかを清るによりて、音便に多麻の多を、濁るにやあらむ、又古事記には、赤玉の事とすれば、音便に多を濁るは、もとよりなれば、さる傳へにひかされて、吾玉といふにも、多を濁り傳へしにや、猶よく考べきなり、】その御兒を玉に比《たぐへ》給へるは、万葉卷(ノ)五に、戀(ル)2男子名(ハ)古日(ヲ)1歌に、和我中能《ワカナカノ》、産出有《ウマレイテタル》、白玉之吾子古日者《シラタマノワカコフルヒハ》、云云といへるにおなじ、古事記は、廼《ノ》を波《ハ》にかへて、下に白玉之《シラタマノ》、云云にかけ合せたれば、阿加※[こざと+施の旁]麻《アカタマ》は、赤玉にして、この記とは、異なるなり、
 
比訶利播阿利登《ヒカリハアリト》、
光者有登《ヒカリハアリト》也、御兒の端正《キラ/\》しきに譬ふ、古事記は、この句を、袁佐閇比迦礼杼《ヲサヘヒカレト》、とあり、赤瓊の映《テ》りて、ぬける緒まで光るをいふ、此記と異なり、
 
比※[登+立刀]播伊佩耐《ヒトハイヘド》、
人者雖言《ヒトハイヘド》也、古事記は、この句を、斯良多麻能《シラタマノ》、として、上の赤玉に、かけあはせたり、
 
企弭我譽贈比志《キミガヨソヒシ》、
君之光儀志《キミガヨソヒシ》也、君とは、火火出見尊を、さし奉れり、
 
多輔妬句阿利計利《タフトクアリケリ》、
貴有來《タフトクアリケリ》也、御兒の端正《キラ/\》しき、玉の光のありと聞《キカ》して、あかず戀しみおもほしめせども、猶その玉にも勝りて、君の御貌《ミカタチノ》、貴くめ(9オ)でたかりけるは、えわすれ奉らぬと詔《ノタマ》へる意也、
 
第三(ノ)卷、 神日本磐余彦《カムヤマトイハレヒコノ》天皇、【八首、神武天皇、】
 
戊午(ノ)年秋八月、甲午(ノ)朔乙未、天皇|使《シム》v徴《メサ》2兄猾及弟猾《エウカシトオトウカシヲ》1者、是兩人菟田縣之《コノフタリハウタノアカタノ》魁帥者也、時(ニ)兄猾不v來《エウカシハマヰコズ》、弟猾即詣至因2拜軍門1而告之曰《オトウカシヤガテミイクサノマヘニマヰキテマヲシツラク》、臣兄兄猾之爲2逆状1《ワカアニエウカシガサカシマゴトセルサマハ》也、聞《キヽテ》2天孫|且到《イタリマサムトスルヲ》1、即起(テ)v兵(ヲ)將《シテ》v襲(マツラムト)、望2見《ミ》皇師之威《ミイクサノイキホヒヲ》1、懼《カシコミテ》不2敢(テ)敵1、乃潜《ヒソカニ》伏(テ)2其兵(ヲ)1、權《カリニ》作(テ)2新宮(ヲ)1而、殿(9ウ)内(ニ)施機《オシヲオキテ》欲2因(テ)請v饗以(テ)作(ト)1v難、願(ハ)知(テ)2此詐(ヲ)善|爲《ナシタマヘ》2之備(ヲ)1、天皇即(チ)遣(シテ)2道(ノ)臣命(ヲ)1、察《ミセタマフ》2其逆状(ヲ)1、時道(ノ)臣(ノ)命審(ニ)知(テ)v有(ヲ)2賊害之心1、而大(ニ)怒(テ)誥嘖之曰《コロビケラク》、虜爾所v造屋(ニハ)、爾自居之《オレヰヨト云テ》、因(テ)案v釼《ツルギノタカミトリシバリ》彎v弓《ユミ引マカナヒテ》、逼(テ)令《セリ》2催入《セメテオヒイラ》1、兄猾《エウカシ》獲2罪(ヲ)於天(ニ)1、事無v所v辭、乃自《オノレ》蹈(テ)v機(ヲ)而|壓死《オソハレマカリヌ》、時(ニ)陳2其屍(ヲ)1而斬v之、流血|沒《イル》v踝《ツブナキヲ》、故(レ)號(テ)2其地(ヲ)1、曰(フ)2菟田血原《ウタノチハラト》1、已(ニシテ)而弟猾大(ニ)設(テ)2牛酒(ヲ)1以(テ)勞2饗《ネキラフ》皇師(ヲ)1焉、天皇以2其(10オ)酒宍(ヲ)1、班2賜《アカチタマヘリ》軍卒《イクサヒトニ》1、乃(チ)爲御謠之曰《ミウタヨミシタマハク》、
 
 
7 于※[人偏+嚢]能多伽機珥《ウダノタカキニ》、
菟田之田垣尓《ウダノタカキニ》也、そも/\この多伽機《タカキ》を釈紀には、高木とし、契沖は、高城とせり、高城《タカキ》は、古事記仁徳(ノ)條に、美母呂能《ミモロノ》、曾能多迦紀那流《ソノタカキナル》、顕宗紀に、於尸農瀰能《オシヌミノ》、※[草冠/巨]能※[木+施の旁]※[加/可]紀儺屡《コノタカキナル》、万葉卷(ノ)三に、みよし野の、高城《タカキ》の山、云云、とありて、すべて山の高く取|圍《カコメ》る地を、いふ言と聞えたるに、鴫は、高木にも、山にも、住ものならず、万葉卷(ノ)九に、春儲《ハルマケ》て、もの悲しきに、さよふけて、羽振鳴志藝《ハフキナクシギ》、誰田《タカタ》にかすむ、とありて、文字も田鳥とさへ書て、田に住む鳥なるを、高城に羂《ワナ》を設《ハリ》おかむ事、よしなきにあらずや、【高木は、いよ/\よしなし、】故いぶかしくおもひをりつるに、この頃大和の国人|旅寓《タヒヤドリ》に訪來て、彼国の名所、何くれとかたりけるに、菟田《ウタ》の穿邑《ウカチムラ》といへるは、今|乎加志《ヲカシ》村といふ地にて、いにしへ|兄猾《エウカシ》弟猾《オトウカシ》が居りし邑也、延喜式に所v載宇※[こざと+施の旁]|水分《ミクマリ》神社も、彼乎加志村より、程近き所におはしませり、もと宇※[こざと+施の旁]といひしは、此邊の称《ナ》にて、後ひろごりて、一郡の名となれるにやあらむ、さてその所は、やゝ平地にて、よき田地なれば、宇※[こざと+施の旁]といふ称《ナ》は、田によれる言にやあらん、といへり、此論あたれるに似たり、【郷名の、一郡の号となれる例、国々にいとおほかり、】この言によりておもへば、多(10ウ)迦機《タカキ》も、田垣なるべし、天照大御神の神御田を、天垣田《アマノカキタ》といひつる事、神代紀に見え、万葉卷(ノ)十三に、垣津田《カキツタ》の、池の堤の、百不足《モヽタラズ》、五十槻《イツキ》が枝に、云云とある、池の堤、即(チ)垣津田の、垣なるべくおぼゆれば、田垣《タカキ》は、田の廻りに築たる、堤にやあらむ、さては鴫羂《シキワナ》張《ハラ》んに、いとよしあり、【又按に、垣とは、畔をいふにや、今賤民の言に、畔を造るを、あぜをかくといへり、かくとは、圍(メ)るなるべければ、その畔を、やがて垣とは、いふべき也、】かくて此初句、七言一句なるを、宣長が説に、三言、四言と分て、二句とせり、実に初句を七言にいへるは、他に例なき事なれば、さも有べけれど、初句を三言とし、二句を四言とせんも、また例なく、いかにぞやおぼゆる、今按に、是は决《キハメ》て四言か、五言の初句を、一句脱せるものなるべし、試にいはば、夜麼登能《ヤマトノ》とや有けむ、さるは万葉卷(ノ)七に、山跡之《ヤマトノ》、宇※[おおざと+施の旁]乃真赤土《ウタノマハニノ》、左丹着者《サニツカバ》、云云、と見えたれば也、
 
辭藝和奈破盧《シギワナハル》、
※[(今/酉)+隹]羂設《シギワナハル》也、しぎは、和名抄(ニ)云、玉篇(ニ)云、※[龍/鳥]、野鳥也、楊氏漢語抄(ニ)云、之木《シギ》、一(ニ)云、田鳥、とあり、わなは、神代紀に、有2川鴈《カハガリ》1、嬰(テ)v羂《ワナ》困厄《タシナメリ》と見え、万葉卷(ノ)十四に、あしがらの、をてもこのもに、さすわなの、かなるましづみ、云云、【こは鹿を捕る羂なれば、山に張設る也、さてわなは、輪網《ワナミ》なるべし、】かくこゝに鴫《シギ》を詔《ノタマ》ひ、次の句に、鯨《クチラ》をの給へるは、弟猾が、大(ニ)設(ク)2牛酒(ヲ)1とあるは、例の此紀の、漢文のあやにして、その酒宍には、鴫と鯨との有ける故に、そをもて、やがて譬とはなし給へるなるべし、譬給へる意は、下にいふべし、
 
(11オ)和餓末菟夜《ワガマツヤ》、
吾待哉《ワガマツヤ》也、吾とは、兄猾が吾なり、やは、下の志藝《シギ》へつゞく助辭、又按に、顕宗紀に、於岐毎慕與《オキメモヨ》とあるを、古事記には、意岐米母夜《オキメモヤ》、とあれば、與《ヨ》に通ふやとすべきなり、
 
辭藝破佐夜羅孺《シギハサヤラズ》、
※[(今/酉)+隹]者不刺依《シギハサシヨラズ》也、夜《ヤ》と與《ヨ》は通音、万葉卷五にも、毛々可斯母《モヽカシモ》、由可奴麻都良遲《ユカヌマツラチ》、家布由伎弖《ケフユキテ》、阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》、奈尓可佐夜禮留《ナニカサヤレル》、何に差依《サシヨリ》てか、えゆかず有きといふ意、同卷に、周弊母奈久《スベモナク》、苦久阿礼奈々出波之利《クルシクアレバイテハシリ》、伊奈々等思騰《イナヽトオモヘド》、許良尓佐夜利奴《コラニサヤリヌ》、子等《コラ》に刺依《サシヨリ》て、え徃ぬといふ意、こゝも兄猾が張設し羂《ワナ》に、鴫はさし依ずして、鯨が刺依しといふ意、とこそぼゆれ、【こゝの佐夜流《サヤル》は障《サハル》也といへど、波《ハ》の夜《ヤ》に通ふ例、覚《オホエ》ねば、うけがたく、又|塞《サヘリ》也といふも、倍《ヘ》と夜《ヤ》の通ふ例、慥ならねば、然りとも定めがたくて、今按を註しつ、柏《カヘ》をかや、返《カヘ》すをかやす、などいふは、俗言の中にもあれど、尤俗言なれば、證とはしがたし、よく考見よ、】猶万葉卷(ノ)五の考に、委く言へり、
 
伊殊區波辭《イスクハシ》、
稜威細《イツクハシ》也、都《ツ》と須《ス》は、常に通ふ音也、打日刺《ウチヒサス》を、打久都《ウチヒサツ》ともいへる類いとおほし、くはしは、花細《ハナクハシ》、香細《カクハシ》などの細《クハシ》にて、譽言《ホメコト》也、師は、勇細《イサミクハシ》也といはれし、冠辭考に詳なれば併(セ)見べし、
頭注、○再按に、伊殊區波辭《イスクハシ》は、伊須可斯《イスカシ》と、同言にや、そのいすかしは、ものゝ喰違ひたるをいふ言にて、いすかといふ鳥も、觜のくひ違ひたる故、名におひたり、神武紀に、愎很の二字を、いすかしまにもとると訓しも、是也、しからばこゝも、鴫の羂に、鯨の依しは、いすかしき事と詔ふ意にて、旧説に、發語《マクラコト》とせるは、まだしき考にやあらむ、
 
區※[旗の其が尼]羅佐夜離《クヂラサヤリ》、
鯨魚刺依《クチラサシヨリ》也、かく詔ふは、兄猾が設《マケテ》v機《オシヲ》て、かしこくも、天皇を殺《シセ》奉らむとせし小計を、鴫羂にたとへさせ給ひ、官軍の襲來りて、彼小計の破れしを、鯨の鴫の羂に、よりかゝりしに、たとへさ(11ウ)せ給へるなり、
 
固奈瀰餓《コナミカ》、
前妻之《コナミカ》也、和名抄(ニ)云、前妻、毛止豆女《モトツメ》、一(ニ)云、古奈美《コナミ》とあり、是はもとより、此所にありし、兄猾が軍卒《イクサビト》に、譬給へり、
 
那居波佐縻《ナコハサバ》、
魚乞者《ナコハサバ》也、那《ナ》は、菜も、魚も、食料につきていふ称《ナ》也、【万葉卷三の別記、名細の條に詳也、】こゝも御饗《ミアヘ》の肴を詔ふなれば、則上の、※[(今/酉)+隹]《シギ》と鯨《クチラ》と也、乞さばといふは、乞爲《コハス》ならば、といふ古言也、行爲《ユカス》ならばを、行《ユカ》さば、聞爲《キカス》ならばを、きこさばといふと、同格也、此|魚乞者《ナコハサバ》の説は、宣長が考によれり、古事記傳に見えたり、
 
多智曾縻能《タチソバノ》、
立※[木+爪]稜之《タチソバノ》也、是は実《ミ》なきといはむ料の、まくら詞也、多智とは、木立《コダチ》、或は、立木《タチキ》などいふ立《タチ》にて、立《タチ》てあるをいふ、和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、※[木+爪]稜木也、又四方木也、曾婆乃木、とあり、いかなる木にや、いまだ知らねど、実《ミ》なきものとは知られたり、さるは仁徳紀の、皇后の御歌に、箇波區莽珥《カハクマニ》、多智瑳箇踰屡《タチサカユル》、毛々多羅孺《モヽタラズ》、椰曾磨能紀破《ヤソマノキハ》、於朋耆瀰呂箇茂《オホキミロカモ》、とみよみませるは、天皇の信実《マコト》なきを、曾磨《ソバ》の木の、実《ミ》なきに、譬させ給へる也、己が郷ちかき、山里人にとふに、そばの木は、榎の木に似て、実《ミ》なきものといへり、宣長か古事記傳に、かなめの木を、山里人は、そばの木といふといへるは、実《ミ》なきといふに、協はず、かなめは、白き花咲て、実《ミ》のなるものなれば也、猶よく尋ぬべし、
頭注、○枕草子に、そばの木、はしたなき心ちすれども、花の木ども散はてゝ、おしなへたる緑《ミトリ》になりたる中に、時もわかず、こきもみちのつやめきて、おもひかけぬ春葉の中より、さし出たる、めづらしといへり、はしたなき心ちすといへるは、実《ミ》なきといふによりてにやあらん、この頃、山里人の曾婆《ソバ》の木といふは、是ぞとて、持來しを見るに、彼かなめに似たる葉のさまして、かなめよりは、その葉ひろく大也、時自久《トキジク》にもみちすといへば、枕双子にいへるにも、よくかなへり、尤|実《ミ》なき物といへば、此歌にもいよゝ協へり、山里には、いと多きものといへり、漢名は知らず、識者に尋ぬべし、
 
未廼那句(12オ)鷄※[手偏+烏]《ミノナケクヲ》、
肉之無乎《ミノナキヲ》也、なきを、なけくといふは、憂《ウキ》を、うけき、透《スキ》を、すけき、などいふと、同格也、さて未《ミ》とは、鳥獣魚の肉をいふ言也、今もしかいへり、【作肉《ツクリミ》、刺肉《サシミ》、などいふ是也、】鮪《シミ》といふ魚の名も、繁肉《シヾミ》なるべくおもふよし有、下水そゝぐ思寐《シミ》、みなそこふ、於瀰《オミ》のをとめといふ、發語の釈にいふべし、旧説に、未廼《ミノ》の二言を、上に属《ツケ》てよみ來たれるは、ひが事なり、發語を、七言にいへる例、さらになし、
 
居氣辭被惠禰《コケシヒヱネ》、
扱而強惠祢《コキテシヒヱネ》也、古伎※[氏/一]《コキテ》を約めて、古氣《コケ》といふ、古事記には則|許紀《コキ》とあり、古伎《コキ》とは、万葉卷十八に、多麻古伎之伎弖《タマコキシキテ》、同卷、白妙乃《シロタヘノ》、袖尓毛古伎礼《ソテニモコキレ》、卷(ノ)廿に、秋風乃《アキカセノ》、布伎古吉之家流《フキコキシケル》、波奈能尓波《ハナノニハ》、とありて、掻《カキ》といふに同し、今の言にも、扱《コイ》て取《ト》るなどいへり、強《シヒ》は、否《イナ》といふを、押《オシ》てすゝむる意にて、姓氏録(ニ)云、阿倍志斐《アベシヒノ》連、大彦(ノ)命八世(ノ)孫、稚子《ワクコノ》臣之後也、自(リ)2孫〔左○〕臣1八世(ノ)孫名代、謚天武(ノ)御世、獻(ル)2之楊(ノ)花(ヲ)1、勅曰|何花《ナニノハナゾ》、名代奏曰|辛夷之花也《コフシノハナナリ》、群臣奏曰是楊(ノ)花也、名代|猶《ナホ》強《シヒテ》奏2辛夷(ノ)花(ト)1、因(テ)賜(フ)2阿倍志斐《アヘシヒノ》連(ト)1、云云、万葉卷(ノ)三に、いなといへど、強《シフ》る志斐能我強語登《シヒノガシヒコトト》、とあり、前妻《コナミ》にたとへさせ給へる、兄猾《エウカシ》か軍卒《イクサビト》どもには、※[(今/酉)+隹]《シギ》も鯨《クチラ》も、肉《ミ》なき骨がちの所を、強《シヒ》て喰はしめよと、詔ふ意也、さて惠祢《ヱネ》の惠は、助語、天智紀の童謡に、愛倶流之衛《ヱクルシヱ》、阿禮波倶流之衛《アレハクルシヱ》、万葉卷(ノ)四に、佐夫思惠《サブシヱ》、とある惠《ヱ》なり、この惠を、言の中に加へたる例は、縱惠也志《ヨシヱヤシ》といふは、縱哉《ヨシヤ》といふに、惠《ヱ》(12ウ)と師《シ》の助語を加へたる也、下のねは、しかせよと仰する辞なり、この句を、宣長は、許多聶祢《コキシヒエネ》といふ言ぞといへれど、許多を、こきだく、こきばく、こゝば、こゝだ、などは万葉集中にも、おほく見えたれど、其《ソ》を、こきしといへる言は、万葉は勿論、その餘、中昔のものまてにも、いまた見及ばねば、強言《シヒゴト》といふべし、又聶は、神代(ノ)紀に、竹刀此(ニ)云(フ)2阿乎比衣《アヲヒエト》1、とありて、和名抄にも、日本紀私記を引て、安遠比衣《アヲヒエ》とあれば、延《エ》の假字なるべくおもふに、吾郷の俚言にも、人を刃して切るを、ひやすといひ、餅を切るを、はやすといふ、是等|比衣《ヒエ》の轉語にして、延《エ》と也《ヤ》は、通ふ例なれば、【肖《アエ》を、あやかる、崩《クエ》を、くやす、絶《タエ》を、たやす、などいふ例也、】いよゝ聶は、比延《ヒエ》の假字に决《キハマ》れり、かにかく宣長が聶の説は、信《ウケ》がたくなむ、
 
宇破奈利餓《ウハナリガ》、
後妻之《ウハナリガ》也、和名抄(ニ)云、後妻、宇波奈利《ウハナリ》と有、こは後《アト》より襲來《オソヒキタ》れる、官軍の卒《イクサビト》に譬給へり、
 
那居波佐磨《ナコハサバ》、
魚乞者《ナコハサバ》也、上に註るが如し、
 
伊智佐介幾《イチサカキ》、
伊※[木+令]木《イチサカキ》也、和名抄に、※[木+令]、漢語抄(ニ)云、比佐加木《ヒサカキ》、とあり、是を近江(ノ)国にては、知佐加木《チサカキ》といふといへり、今|美者々木《ミシヤ/\キ》と呼ものにて、黒き小き実《ミ》の、いと多く成《ナル》木なれば、実《ミ》の多きといふ、發語とせり、この榮樹《サカキ》の事は、万葉卷(ノ)三の、別記に委し、
 
未迺於朋鶏句塢《ミノオホケクヲ》、
肉之多乎《ミノオホキヲ》也、おほけくといふ(13オ)は、なきを、なけくといふに同じき古語也、魚鳥の肉《ミ》の多きをいふ、
 
居氣※[人偏+嚢]被惠祢《コケタヒエネ》、
扱而給惠祢《コキテタヒエネ》也、※[人偏+嚢]《タ》は、清にも、濁るにも用ひたる、此紀の例也、古事記は、※[おおざと+施の旁]《タ》とあり、※[おおざと+施の旁]は、彼記に、清音に用ひたり、さて多比《タヒ》とは、賜《タマ》ひを省ける言にして、今も喰ふを、多倍《タベ》るといふは是なり、下の皇極紀の童謠に、伊波能杯尓《イハノヘニ》、古佐屡渠梅野倶《コサルコメヤク》、渠梅多※[人偏+尓]母《コメタニモ》、多礙底騰〓羅栖《タゲテトホラセ》、歌麻之々能烏膩《カマシヽノヲヂ》、万葉卷(ノ)二に、妻毛有者《ツマモアラバ》、採而多宜麻之《トリテタゲマシ》、佐美乃山《サミノヤマ》、野上乃宇波疑《ヌノビノウハギ》、過去計良受也《スキニケラズヤ》、是等の多礙《タゲ》は、多倍《タベ》と同語にて、喰ふをいふ、かく多倍《タベ》も多宜《タゲ》も濁音に唱ふるは、音便にて、もとは多麻比《タマヒ》といふ言なれば、大古《イニシヘ》は多斐《タヒ》と、清音にいひしなるべし、かゝる清濁には、大に論あり、彼清濁論にいふを見べし、古事記は、此|終《ハテ》に、疊々《エヽ》【音引、】志夜胡志夜《シヤコシヤ》、此者伊碁能布曾《コハイゴノフゾ》、【此五字以v音(ヲ)、】阿々《アヽ》【音引、】志夜故志夜《シヤコシヤ》、此者|嘲※[口+笑]者《アサワラフゾ》也、とあり、
 
是《コヲ》謂(フ)2來目歌《クメウタト》1、今《イマ》樂府《ウタマヒツカサニ》奏2此歌(ヲ)1者、猶有2手量《タハカリノ》大小、及音聲|巨細《フトホソ》1、此古之遺式《コハイニシヘノノコレルノリ》也、
(13ウ)冬十月癸巳朔、天皇嘗(タマヒ)2其|嚴瓮之粮《イツヘノオモノヲ》1、勒(テ)v兵而出、先(ツ)撃2八十梟帥《ヤソタケルヲ》於國見丘(ニ)1、破斬《キリハフリタマフ》之、是役也、天皇|志《ミコヽロニ》存2必克1、乃爲御謠之曰《ミウタヨミシタマハク》、
 
8 伽牟伽筮能《カムカゼノ》、
神風之《カムカセノ》也、伊勢にかゝる發語、師の冠辭考に詳なり、
 
伊齊能于瀰能《イセノウミノ》、
伊勢之海之《イセノウミノ》也、
 
於費異之珥夜《オホイシニヤ》、
大石尓哉《オホイシニヤ》也、古事記は、意斐志尓《オヒシニ》、とあり、費異《ホイ》の約|斐《ヒ》なれば、同言也、さてこの大石といふは、こゝの度会(ノ)郡の南の海邊《ウナビ》、贄浦《ニヘウラ》といふ地にありて、その地は紀伊(ノ)國、熊野の錦浦《ニシキノウラ》にいと近し、【錦の浦は、誅2丹敷戸部《ニシキトヘヲ》1、と見えたる地なり、】その贄浦よりやゝ東北に、慥良《タシカラ》といふ郷あり、この邊の山より、大和(ノ)吉野に越る、古道ありといへり、これや須米呂岐《スメロギ》の、背《ソビラ》に日を負て、内つ国に入ましゝといふ、古道なるべけ(14オ)れば、熊野の神(ノ)邑より、丹敷《ニシキ》の浦、贄《ニヘノ》浦、慥良《タシカラ》と經給ひて、大御自《オホミヅカラ》見給へりし、大石なれば、こゝに取出て、比喩《タトヘ》をなしたまへなるべし、
頭注、○或人、この於費異之《オホイシ》と、意斐志《オヒシ》とをもて、伊《イ》斐《ヒ》の假字に、法則なき證とせるは、いふにたらぬひが言也、
 
異波臂茂等倍屡《イハヒモトホリ》、
伊延纏《イハヒマツハル》也、古事記には、波比母登富呂布《ハヒモトホロフ》、とあり、伊《イ》は例の發語、茂等倍屡《モトホル》は、まつはると同韻にて、相通へば、同語也、【母登富呂布《モトホロフ》は、もとほるの延言也、】古事記景行の條に、伊那賀良迩《イナカラニ》、波比母登富呂布《ハヒモトホロフ》、登許呂豆良《トコロツラ》、とあるも、稻柯尓延纏※[草冠/解]蔓《イナカラニハヒマツハルトコロヅラ》にて、もとほるは、こゝと同言也、あまたの小螺《シタヽミ》の連りて、絡石《ツタ》などの延たるが如く、大石に纏着《マトヒツケ》るをいふ、
 
之多※[人偏+嚢]瀰能《シタダミノ》、
小羸子之《シタヾミノ》也、和名抄(ニ)云、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云、小羸子楊氏漢語抄(ニ)云、細螺、之太々美、】貌似(テ)2甲羸(ニ)1而細小、口(ニ)有(ル)2白玉(ノ)之盖1者也、万葉卷(ノ)十六に、机之島能《ツクエノシマノ》、小螺乎《シタヽミヲ》、伊拾持來而《イヒロヒモチキテ》、と見えたり、己(レ)徃年《イニシトシ》、南嶋にあそべるをり、この大石を見たり、之多太美《シタヽミ》、布久※[こざと+施の旁]美《フクタミ》の類の小貝、その本邊におほく纏《マトヒ》着り、嶋人は、この之多太美《シタダミ》を、尻高《シリタカ》と呼り、さては尻高太美《シリタカダミ》を、省ける名にやあらん、又|布久※[こざと+施の旁]美《フクタミ》は、低太美《ヒクタミ》なるべし、太美《タミ》の太《タ》は、津《ツ》の助語の轉り、美《ミ》は貝《カヒ》のひの通音にやあらん、尚可v考、この大石は、喩(フ)2國見(ノ)丘(ニ)1と、本註のあれば、國見の丘なる、八十梟帥《ヤソタケルヲ》を打んとする、皇軍の卒の、彼丘を取かこめるを、小螺《シタヽミ》の大石に延轉れるに、譬させ給へる也、さてしたゞみのとある能は、如の意をふくめる(14ウ)能也、古歌に例おほし、
 
阿誤豫《アゴヨ》、
吾兒與《アゴヨ》也、万葉卷(ノ)十九に、此吾子《コノアコヲ》、韓國邊遣《カラクニヘヤル》とあるは、入唐(ノ)大使清河をさして、詔へる言にして、愛《ウツクシ》み、したしみ給ふ、御言也、是に准るに、こゝも道(ノ)臣命をはしめ、その率《ヒキヰ》給へる、久米部までをさして、詔《ノリ》給ふ大御言なり、下の豫は、例の呼びかけたる與《ヨ》なり、
 
之多太瀰能《シタタミノ》、
如v上、古事記には、この二句なし、
 
異波比茂等倍離《イハヒモトホリ》、
如2上註1、
 
于智弖之夜莽務《ウチテシヤマム》、
撃而之將止《ウチテシヤマム》也、中の之《シ》は、助語也、さてこの宇智といふ、言の意を按に、打戰《ウチタヽカフ》、打切《ウチキル》は、撃而戰《ウチテタヽカフ》、撃而切《ウチテキル》にて、打敷、打詠などいふ、意なき發語の打《ウチ》とは異なり、その撃《ウチ》は、首を打、敵を打の打にて、敲《ウチ》て斬る事也、さればこゝの于智《ウチ》も、斬殺をいふ言と心得べし、將《ム》v止《ヤマ》は、大祓の辞に、岩根木立《イハネコノタチ》、艸片葉言止《クサノカキハモコトヤメテ》、とある止《ヤメ》なり、いまの俗言に、某《ナニ》としてのけん、といふのけは、除なるべければ、この止んといふに、同しかるべし、
 
既(シテ)而餘黨猶|繁《オホシ》、其情難v測、乃|顧《ヒソカニ》勅(テ)2道臣(ノ)(15オ)命(ニ)1、汝宜帥(テ)2大來目部(ヲ)1、作(テ)2大室《オホムロヲ》於|忍坂《オサカノ》邑(ニ)1、盛(ニ)設2宴饗1、誘(テ)v虜(ヲ)而取v之、道臣(ノ)命於(テ)v是(ニ)奉(テ)2密旨(ヲ)1、掘(テ)2※[穴/音]《ムロヲ》於|忍坂《オサカニ》、而選(テ)2我(ガ)猛卒(ヲ)1與v虜雜居、陰(ニ)期之《チキリテ》曰(ク)酒酣之後、吾則起(テ)歌(ハム)、汝等聞(ハ)2吾(ガ)歌(ノ)聲(ヲ)1、則一時刺(セ)v虜、已(ニシテ)而坐定酒行、虜不v知3我(カ)之有(ヲ)2陰《シヌヒノ》謀(ヲ)1、任v情|徑醉《ヱヒヌ》、時(ニ)道臣(ノ)命、乃(チ)起(テ)而|歌之曰《ウタヒツラク》、
古事記には、故尓天神御子(ノ)之命以(テ)、饗(ヲ)賜(フ)3八十建(ニ)1、於v是充2設(ク)八十(ノ)膳夫(ヲ)1、毎(ニ)v人佩v刀、誨2其膳夫等(ニ)1曰、聞v歌之者、一時(ニ)共(ニ)斬、故(レ)明(テ)將v打(ト)2其土雲(ヲ)1之歌曰《ウタヒケラク》、とあり、
 
(15ウ)9 於佐箇廼《オサカノ》、
忍坂之《オサカノ》也、和名抄(ニ)云、大和(ノ)國城上(ノ)郡、恩坂、於佐加《オサカ》、延喜式神名式にも、同郡に、忍坂(ニ)坐山口(ノ)神社、忍坂(ニ)坐生根(ノ)神社、と見えたり、今も忍坂村ありて、押坂内(ノ)陵も、彼忍坂村にありといへり、
 
於朋務露夜珥《オホムロヤニ》、
大室屋尓《オホムロヤニ》也、堀(リテ)2※[穴/音]《ムロヲ》於忍坂(ニ)1、とあれば、山腹の土を穿て、大に構たる※[穴/音]なるべし、※[穴/音]《ムロ》は字典に、地(ノ)室也、今謂2地※[穴/音]藏1v酒(ヲ)、と見えたり、顕宗紀に、所v謂|室賀《ムロホギ》、万葉卷(ノ)十一に、新室《ニヒムロノ》、壁艸苅尓《カヘクサカリニ》、云云は、尋常の家をいふ言にて、こゝのむろとは異なり、
 
比苔瑳破而《ヒトサハニ》、
人多尓《ヒトサハニ》也、人とは、八十梟帥《ヤソタケルヲ》をいふ、万葉卷(ノ)四に、神代從《カミヨヨリ》、生繼來者《アレツキクレバ》、人多《ヒトサハニ》、國尓波滿而《クニニハミチテ》、云云、苔、今本に苫と有は、誤なるよし、師のいはれしによれり、
頭注、○苫、古本總て、苔に爲れり、
 
異離烏利苔毛《イリヲリトモ》、
雖《トモ》2入居《イリヲリ》1也、彼|※[穴/音]中《ムロノナカニ》入居るをいふ、をりともといふは、古言の格也、古事記、岐伊理袁理《キイリヲリ》と有、
 
比苔瑳破而《ヒトサハニ》、
如v上、
 
枳伊離烏利苔毛《キイリヲリトモ》、
雖《トモ》2來入居《キイリヲリ》1也、枳《キ》の一言を添て、上と調をかへたり、古歌に此例多し、古事記は、伊理袁理登母《イリヲリトモ》、とあり、
 
瀰都瀰都志《ミツミツシ》、
滿々志《ミツ/\シ》也、万葉卷(ノ)三には、見津/\四《ミツミツシ》、久米能若子《クメノワクコ》、とあり、津《ツ》は濁音の例なれば、今の言にも、みづ/\若き、みづ/\肥たり、などいふ(16オ)美都《ミツ》にや、さるはもと滿《ミチ》たらへる意なれば、上古は都を清ていひけむ、濁れるは、後の音便也、或人は、稜威々々《イツイツシ》といへり、いつれにまれ、久米の子等にかかる、發語なり、
頭注、○万葉卷(ノ)三の解に、この或人のいへる、威陵々々斯《イツイツシ》を、宣長が説といひしは、己がひがおほえの誤也、はやく改おきたり、宣長か説は、みつ/\は、圓々《マト/\》、久流目《クルメ》にかゝる、發語といへり、今按に、万葉に、高圓山《タカマトヤマ》を、高松山《タカマツヤマ》とも書たれば、美都《ミツ》と圓《マト》とは、相通ふ言とすへし、是は宣長が説に從ふべし、
 
倶梅能固邏餓《クメノコラガ》、
久米之子等之《クメノコラカ》也、神代紀に、天(ノ)忍日(ノ)命、帥(テ)來目部《クメヘノ》遠祖、天※[木+患]津大來目《アマノクシツオホクメヲ》1、云云と見えたり、今は彼大來目の裔、大久米(ノ)命の率ませる、若子等《ワクコラ》をいふ也、さて久米《クメ》の名は、宣長が説の如く、久流目《クルメ》にて、大久米の命の目《メ》の圓《マロ》かりしゆゑの名なるべし、古事記傳にいふ所、いと/\詳なり、
 
勾鶩都々伊《クブツヽイ》、
頭槌《カフツチ》也、神代紀に、帶2頭槌《カブツチノ》釼(ヲ)1、とありて、私記に、釼(ノ)名、其頭曲といひ、神功紀に、句夫菟智能《クブツチノ》、伊多弖於破孺破《イタテオハズハ》、と見えたり、
 
異志都々伊毛智《イシツヽイモチ》、
石槌持《イシツチモチ》也、頭槌《カブツチ》、石槌持《イシツチ》を延て、都々伊《ツヽイ》と詔へるは、歌の調べなり、私記(ニ)云、釼(ノ)名、其頭似v石(ニ)とありて、頭槌石槌を、二つに分(ケ)て、ともに釼の名とせり、神代紀にも、頭槌(ノ)釼と見えたれば、大古の釼に、さるさましたるや有けむ、おのれひそかにおもひけるは、石槌は、則上の頭槌にして、頭槌の石槌といふを、二句に分(ケ)て、頭都々伊《カブツヽイ》、石都々伊《イシツヽイ》とは詔ひけむ、さて釼とも、大刀ともなきは、もとは石もて造れる槌《ツチ》なるべし、今の世東國北國より掘出せる、雷槌と称《イフ》もの、大古の頭槌《カブツチ》の、殘れるものにもやあらむ、【安房(ノ)國には、かの雷槌か如きものゝ、いと(16ウ)大きなるありて、幕※[木+串]を立たる如く、地に突立たるも有と、弟正翼いへり、】さるは神代ながらも、いと/\上古のものにして、忍日(ノ)命、クメ(ノ)命の、取佩せるは、しまらく後にて、さるさましたる釼や出來にけむ、されど上古の称《ナ》は失はずして、釼とはいはず、頭槌石槌といひて、敲《ウツ》、或は戰《タヽカフ》【扣合也、】といひ、斬《キル》とも、切合《キリア》ふとも、いはぬにやあらむ、是は実に己が僻按なればかくと定めたるにはあらねど、試にいふにこそ、
 
于智弖之夜莽務《ウチテシヤマム》、
上に註するかことし、古事記、此下に、美都美都斯《ミツミツシ》、久米能古良賀《クメノコラガ》、久夫都々伊《クブツヽイ》、伊斯都々伊母智《イシツヽイモチ》、伊麻于多婆《イマウタバ》、尓良斯《ニラシ》の六句あり、尓《ニ》、延佳本|余《ヨ》に作れり、是《ヨキ》に似たり、よからしといふ意と聞ゆ、
 
時(ニ)我(ガ)卒、聞(テ)v歌(ヲ)倶(ニ)拔2其(ノ)頭椎(ノ)釼(ヲ)1、一時(ニ)殺(ス)v虜(ヲ)、虜無(シ)2復※[口+焦]類者1、皇軍大(ニ)悦(テ)仰(テ)v天(ヲ)而咲(フ)、因(テ)歌之曰《ウタヒツラク》、
 
10 伊莽波豫《イマハヨ》、
今者與《イマハヨ》也、與《ヨ》は助語、
 
伊莽波豫《イマハヨ》、
同v上、
 
阿々時夜塢《アヽシヤヲ》、
(17オ)私記に、阿々者《アヽハ》、咲聲也、時夜塢者《シヤヲハ》、猶v言2乎加志《ヲカシト》1、といへるは當れり、新撰字鏡に、可v笑を、阿奈遠加之《アナヲカシ》とあり、阿奈《アナ》と、阿々《アヽ》とは、同韻にて、同語なり、遠加《ヲカ》を約れば、和《ワ》の一言となる、その和《ワ》は、上の阿々《アヽ》の餘韻に含(メ)れば省けり、下の嗚《ヲ》は、與《ヨ》に通ふ乎《ヲ》にて、あなをかしよ、といふ言とこそ聞ゆれ、古事記に、阿々《アヽ》【音引】志夜《シヤ》、胡志夜《コシヤ》、とあるも、あなをかしや、是はをかしや、といふを、省き約めしにやあらむ、さてこの遠加之《ヲカシ》といふ言は、賞愛《メテウツクシ》む意にもいへるを、宣長が玉勝間に、田中道麻呂が説とて、可v笑は、遠加之《ヲカシ》、賞愛《メテウツクシ》む意にいふは、於牟加之《オムカシ》の略言にて、於加之《オカシ》なりといへるは、憶斷なり、蜻蛉日記に、みちのくの、ちかの嶋にて、見ましかば、いかでつつじの、をかしからまし、とありて、岡《ヲカ》をよみ合せたれば、賞愛《メテウツクシ》しむ意のをかしも、遠《ヲ》の假字なるを、おもひさだむべし、
 
伊莽※[人偏+嚢]而毛《イマダニモ》、
今なりとも、といふ意、
 
阿誤豫《アゴヨ》、
吾兒與《アゴヨ》也、久米部《クメベ》をさして、天皇の詔へる、大御言のよしは、上にいへり、
 
伊莽※[人偏+嚢]而毛《イマダニモ》、阿誤豫《アゴヨ》、
如v上、この言もて、この事はすべて、天皇の密旨《シノヒノオモムケ》より出たるを、知るべきなり、
 
今《イマ》來目部《クメベノ》、歌而後《ウタヒテノチ》大(ニ)哂(ハ)、是其(ノ)縁也、(17ウ)又歌之曰《マタウタヒツラク》、
 
11 愛濔詩烏《エミシヲ》、
夷乎《エミシヲ》也、えみしのえは、えせ人、えせむの延《エ》にして、えせ人は、吾意に違ひて、やましき人也、えせむは、彼を羨《ウラヤ》みて、吾意にやむ也、うらやむ、心やまし、惡《エ》ましなど、皆|病《ヤム》の意なり、されば夷《エミシ》も、やましにて、吾に歸伏《マツロハ》ぬは、やましきより、惡みいふ言なるべし、延《エ》と夜《ヤ》と、美《ミ》と麻《マ》とは、常通ふ音なれは、えみし、やましは、全(ク)同言也、こゝは彼|八十梟帥《ヤソタケル》をさして詔《ノタマヘ》る、大御言也、
 
毘※[人偏+嚢]利毛々那比苔《ヒタリモヽナヒト》、
一人百並人《ヒトリモヽナヒト》也、古言に、人を多利《タリ》といふ言の有にや、類聚三代格に見えたる、額田(ノ)國造|今足《イマタリ》といふひとを、類聚國史には、今人と書たり、一人は、ひと足《タリ》、二人は、ふた足《タリ》、三人は、み足《タリ》にて、その餘みな同じかるべし、さて毛々那《モヽナ》の那《ナ》は、乃の通音と、誰もおもふべかめれと、是は百人|並《ナミ》といふ言とおもへば、並《ナミ》の略語とすべし、皇極紀に、一人當千とある意にて、その強敵なるをいふ、
 
比苔破易陪廼毛《ヒトハイヘトモ》、
人者雖言《ヒトハイヘドモ》也、一人當千の、剛者ぞと、人はいへども也、
 
多牟伽比毛勢儒《タムカヒモセズ》、
手報毛不爲《タムカヒモセズ》也、今の言にも、手むかひといへり、多《タ》は、手忘《タワスレ》、手(18オ)謀《タハカリ》などの手《タ》にて、もとは手して爲《スル》より出たる言なれど、後はたゞ輕く添言とせり、さて報を、むくひといふは、このむかひと、全《モハラ》同言也、そのむくひもえせずて、殺されぬるよと、あざわらへる意なり、
 
此《コハ》皆《ミナ》承(テ)2密旨(ヲ)1而歌(ヘリ)v之、非2敢(テ)自專1者也、
十有一月癸亥(ノ)朔己巳、皇師大擧《ミイクサコゾリテ》、將《セリ》v攻(ント)v磯城彦《シキヒコヲ》、云云、先(キ)v是皇軍攻(ハ)必取、戰(ハ)必|勝《カテリ》、而(トモ)介胃之士《イクサビト》、不v無(ニハ)2疲弊《ツカルヽコト》、故聊|爲御謠《ミウタヨミシテ》以慰(メタマヘリ)2將卒之心(ヲ)1焉、謠曰《ウタヒタマハク》、
 
12 ※[口+多]※[口+多]奈梅弖《タタナメテ》、
楯並而《タテナメテ》也、楯の名も、立並《タテナラ》ぶるものなればいふなるへし、万葉卷(ノ)十七に、楯並而《タテナメテ》、伊豆美乃河乃《イツミノカハノ》、とあり、こゝも(18ウ)射《イ》の一言にかゝる、發語とすへきか、又|射之箭《イナサ》といふ意にかゝるか、軍《イクサ》といふ言も、射合征箭《イクハシソヤ》の、約言なるべくおぼゆれはなり、
頭注、○此歌古事記には、加牟伽筮能《カムカセノ》、云云の歌の、次に出たり、
 
伊那瑳能椰摩能《イナサノヤマノ》、
山(ノ)名也、大和志(ニ)曰、在(リ)2宇※[こざと+施の旁](ノ)郡(ニ)1、一名(ハ)山路山、山路村(ノ)上方といへり、より所有るや、猶可v尋也、
 
虚能莽由毛《コノマユモ》、
自《ヨリ》2木間《コノマ》1毛《モ》也、自《ヨリ》を、古言に、用《ヨ》とも、由《ユ》ともいへり、與利《ヨリ》の略轉なり、
 
易喩耆摩毛羅毘《イユキマモラヒ》、
伊行伺候《イユキマモラヒ》也、伊《イ》の言は、上に出、まもらひは、万葉卷(ノ)三に、家思《イヘモフ》と、情進《サカシラ》なせそ、風候《カセマモリ》、好爲而《ヨクヰテ》いませ、荒《アラ》きその道、とあり、うかゞひ候《サモラフ》をいふ、候《サモラフ》は、さしまもる意と聞ゆ、こゝは彼を撃《ウタ》んと、ねらふ、意なり、
頭注、○候《サモラヒ》の言は、万葉卷(ノ)三の解にいふをも、併見よ、
 
多々介陪磨《タタカヘバ》、
戰者《タヽカヘバ》也、戰《タヽカフ》は、敲合《タヽキアフ》也、上の于智弖斯椰莽務《ウチテシヤマム》も、愚按に、敲《ウチ》たゝく事なるべしといひしをも、併(セ)考べし、
 
和例破椰隈怒《ワレハヤヱヌ》、
我者哉飢奴《ワレハヤヱヌ》也、隈《ヱ》は、推古紀(ノ)皇太子の御歌に、斯那提流《シナテル》、箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》、伊比爾惠弖《イヒニヱテ》、とあるに同じく、飢《ウヱ》の略語なり、吾|軍卒《イクサヒト》の疲たるを、かく詔へる也、介冑|之《ノ》士、不v無(ニハアラ)2疲弊1、といふにあたれり、
 
之摩途等利《シマヅトリ》、
島津鳥《シマヅトリ》也、私記(ニ)云、欲v讀v※[茲+鳥]|之《ノ》發語也、云云、
 
宇介譬餓等茂《ウカヒガトモ》、
※[盧+鳥]※[茲+鳥]養之部《ウカヒガトモ》也、万葉卷(ノ)七に、あ(19オ)ゆはしる、夏のさかりと、之摩都等利《シマツトリ》、」鵜養我登母波《ウカヒカトモハ》、云云、等母《トモ》は、その徒をいふ言なり、この紀の上に、及(テ)2縁(テ)v河行1v西(ニ)、亦有2作(テ)v梁(ヲ)取(ル)v魚(ヲ)者1、天皇問v之、對曰、臣(ハ)是|苞※[草冠/且]擔之子《ニヘモツカコトイヘリ》、此(ハ)則|阿太養※[盧+鳥]部《アタノウカヒカトモノ》始祖也、とあり、この養※[盧+鳥]部《ウカヒガトモ》を、詔へるなるべし、
 
伊莽輸開珥虚禰《イマスケニコネ》、
今助尓來祢《イマスケニコネ》也、※[盧+鳥]飼部《ウカヒカトモ》は、專(ラ)御饌に預れば、今|飢《ウヱ》ましゝを、助よと詔給ひて、実は、彼養※[盧+鳥]部は、はやく吉野に行幸《イテマシ》しをり、まつろひ奉りしなれば、この官軍の卒どもの疲弊《ツカレ》たるを、扶助《タスケ》戰てよと、詔ふ意也、下の祢は、仰る言、上に出たり、さて助《スケ》といふを、たすけといへる多《タ》は、上に既(ニ)いふ、手忘《タワスレ》、手謀《タバカリ》の手《タ》に同じき、添言、すけとは、彼に間隙《ヒマ》なきを、透《スカ》しむるより、いふ言と聞ゆ、
 
十有二月癸巳(ノ)朔丙申、皇師《ミイクサ》遂《ツヒニ》撃《ウツ》2長髄彦《ナガスネヒコヲ》1、連戰《シバ/\タヽカヘドモ》不v能2取勝(コト)1、云云、昔《ムカシ》孔舎衞之戰《クサカエノタヽカヒニ》、五瀬《イツセノ》命、中(リテ)v矢(ニ)而薨(マシヌ)、天皇銜《フヽミテ》v之、常(ニ)懷(タマフ)2憤※[對/心]《イキトホリヲ》1、至(テ)2(19ウ)此役(ニ)1也意|欲《オモホス》2窮(テ)誅(ナムト)1、乃(チ)爲御謠之曰《ミウタヨミシタマハク》、
 
13 瀰都瀰都志《ミツミツシ》、
滿々志《ミツミツシ》也、上に出、
 
倶梅能故邏餓《クメノコラカ》、
來目之子等之《クメノコラガ》也、上に出たり、
 
介耆茂等珥《カキモトニ》、
垣本《カキモト》尓也、古事記には、此一句なし、是《ヨキ》に似たり、是は决《キハメ》て次の御歌に、介耆茂等珥《カキモトニ》、宇惠志《ウヱシ》云云、とあるを、一二句のつゞけの同じければ、混《マキレ》てこゝにも入しなるべし、
 
阿波赴珥破《アハフニハ》、
粟田尓者《アハフニハ》也、神代紀に、粟田《アハフ》、豆田《マメフ》、とあり、和名抄(ニ)曰、日本紀私記(ニ)云、粟田、【安八布、】と見えたり、さて不《フ》は、蓬生《ヨモキフ》、淺茅生《アサチフ》の生《フ》にて、粟の生たる原をいふ言なり、そのよし、下仁徳紀の歌にいふを見べし、
頭注、○仁徳紀の歌、兎藝祢赴《ツキネフ》の赴《フ》は、原をいふ言とおもひて、そのよし註せり、可2併見1、
 
介瀰羅毘苔茂苔《カミラヒトモト》、
蜀椒一本《カミラヒトモト》也、このかみらは、本艸に、杜丹、一名(ハ)鹿韮《カミラ》とあれは、それにやとおもへど、この御歌に、杜丹をよみ出給はむは、さらによしなし、故つら/\按に、生薑を、和名抄に、兼名苑(ニ)云、薑【居良反、】一名(ハ)、※[草冠/織]、【音、織、和名久礼乃波之加美、】とあるは、こなたにもとより、はじかみといふものゝありて、後に呉の國より渡り來し薑の、味の辛辣《カラキ》が、こゝの波自加美《ハシカミ》に同じければ、呉《クレ》の波自加美《ハシカミ》とは名づけたりけむ、其こなたにあるはじかみは、蜀椒にして、波自《ハジ》とは、その(20オ)実《ミ》の彈《ハセ》るもの故、いふなるべく、かみとは介弥羅《カミラ》の略語なるべし、さて加美羅《カミラ》、噛疼《カミイラ》にて、その味の辛《カラ》く、いら/\とすれば也、和名抄に所v謂、、※[草冠/(歹+韭)]、於保美良《オホミラ》、韮、古美良《コミラ》とあるも、噛疼《カミイラ》の意と聞ゆ、いらとは、同抄に、苛、音柯、和名|伊良《イラ》、小艸生v刺(ヲ)也、と見え、北國にて、伊良《イラ》といふ小虫は、蚋《ブト》に類せるものにて、よく人を螫《サス》といへば、是等の伊良《イラ》も、その刺《ハリ》に觸れば、いら/\と疼《ヒヽラク》ゆゑの、名なるべければ、介瀰羅《カミラ》の伊良《イラ》も、その味の辛辣《カラキ》によりて、いふ言と知られたり、さてこゝに蜀椒をは出てよませ給へるは、次の御歌の、口ひゞく云云を詔(ハ)んがためと聞えたり、
頭注、○和名抄に、蜀椒を、奈流波自加美《ナルハシカミ》とあるは、薑の渡り來し後に、波自加美《ハシカミ》とのみいひては、まぎらはしければ、奈流《ナル》云云、久礼《クレ》云云と、わけたる名なるべし、
○新撰字鏡に、※[方+呂]、弓波自久《ユミハシク》とあり、彈をいふ、
○仁徳紀の歌に、伊羅那鷄區《イラナケク》、万葉卷(ノ)十七にも、同言見えたり、伊羅《イラ》は、此|伊良《イラ》に同じき言とおもひて、其所に註したるをも、あはせ見べし、
 
曾迺餓毛苔《ソノガモト》、
薗之本《ソノカモト》也、薗《ソノ》とは、粟生《アハフ》のそのにや、本《モト》とは、木立《コダチ》の莖《クキ》をいふ言にて、是は則蜀椒の莖《クキ》をいふ也
頭注、○古事記には、曾泥賀母登《ソネガモト》、とあり、其根之本《ソネガモト》なるべければ、この紀とは、聊異なり、
 
曾禰梅屠那藝弖《ソネメツナギテ》、
其根芽貫而《ソネメツナキテ》也、其《ソレ》を、曾《ソ》とみいふは、古言也、吾《ワレ》を、和《ワ》、或は阿《ア》、誰《タレ》を、多《タ》とのみいふに同じ、その根《ネ》も芽《メ》もつらねてといふ意、今の言に、根《ネ》も葉《ハ》も枯すといふが如し、
 
于智弖之夜莽務《ウチテシヤマム》、
如(シ)2上(ノ)註1、
 
又謠之曰《マタウタヒケラク》、
 
(20ウ)14 瀰都瀰都志《ミツミツシ》、
如(シ)2上註1、
 
倶梅能故邏餓《クメノコラガ》、
如(シ)2上註1、
 
介耆茂等珥《カキモトニ》、
垣本尓《カキモトニ》也、本《モト》は、木立の莖《クキ》をいふなる事、上にいふが如し、万葉卷(ノ)十四に、阿良多麻能《アラタマノ》、伎倍乃波也之爾《キヘノハヤシニ》、云云、とある伎倍《キヘ》は、城隔《キヘ》にて、こゝの垣《カキ》にあたり、波也之《ハヤシ》は、林にて、こゝの本《モト》にあたれり、猶彼卷の解にいふを、合せ見べし、
 
宇惠志破珥介瀰《ウヱシハジカミ》、
所《シ》v殖《ウヱ》椒《ハシカミ》也、宇惠志《ウヱシ》は、今殖しを、いふ言にはあらず、殖有《ウワリ》たるをいふ、万葉卷(ノ)三に、春日《カスガ》の野邊《ヌヒ》の、殖子葱《ウヱコナギ》とある、殖におなじ、破珥介瀰《ハジカミ》は、上に見えたる、介瀰羅《カミラ》にて、蜀椒也、彼註に委し、
 
勾致比弭倶《クチヒビク》、
口疼《クチヒヾク》也、椒を喰へば、口中の疼《ヒヽ》らくを云、
 
和例破※[さんずい+完]輸例孺《ワレハワスレズ》、
我者不v忘《ワレハワスレズ》也、五瀬(ノ)命の、薨給へるを、忘れ給はず、憤《イキドホ》り恨《ウラ》みおもほしめす事、辛辣《カラキ》味の、口に殘りて、疼《ヒヽラ》くが如しと、譬させ給へる也、古事記には、和須禮志《ワスレジ》とあり、
頭注、○古事記は、又曰とありて、加牟加是能《カムカセノ》、云云の歌を、この次にあげたり、
 
于智弖之夜莽務《ウチテシヤマム》、
如(シ)2上註1、
 
因(テ)復縱v兵忽(ニ)攻v之、凡諸(ノ)御謠(ハ)、皆謂(フ)2來目《クメ》(21オ)歌(ト)1、此|的《サシテ》取(ケ)2歌者(ヲ)1、而名(ナリ)v之也、
 
第五(ノ)卷、 御間城入彦五十瓊殖《ミマキイリビコイニヱノ》天皇、【六首、崇神天皇】
 
八年夏四月庚子(ノ)朔乙卯、以(テ)2高橋邑(ノ)人活日(ヲ)1、爲2大神之掌酒《ミワノサカヒトト》1、云云、冬十二月丙申朔乙卯、天皇以(テ)2大田々根子(ヲ)1、令v祭(ラ)2大神(ヲ)1、是日活日|擧《サヽゲテ》2神酒(ヲ)1、獻(ル)2天皇(ニ)1、仍(テ)歌之曰《ウタヒケラク》、
 
(21ウ)15 許能瀰枳破《コノミキハ》、
此神酒者《コノミキハ》也、酒者《ミキ》は、釀《カモ》せし酒を、甕《ミカ》ながらに、神に奉るをいふ名也、美《ミ》は真《マ》に通ふ美《ミ》にて、御酒《ミキ》の事とおもひをりつるに、熟考れば、しかにはあらず、美《ミ》は、酒《サケ》の滓《カス》をいふ言にて、今も尾張にては、糟粕《サカヽス》を、酒の実《ミ》といふといへり、【吾郷にても、醤油の滓《カス》を、醤油の実《ミ》といへり、】和名抄に、醪、玉篇(ニ)云、【力刀(ノ)反、漢語抄(ニ)云濁醪、毛呂美、】汁滓(ノ)酒也、とあるも、諸実《モロミ》の意、【今京師の言に、水の濁れるを、もろ/\と云、】次下の所に見えたる、宇磨佐開《ウマサケ》も、※[酉+倍の旁]酒《カスゴメ》にて、和名抄に所v謂、未v※[酉+麗]酒の名、今のあまざけといふもの是也、【猶次の歌にいふを、併見よ、】枳《キ》は、黒紀《クロキ》、白紀《シロキ》の紀にて、酒の古名也、【万葉卷(ノ)十九に、黒酒《クロキ》白酒《シロキ》とあり、】さるは、久志《クシ》の約にて、久志《クシ》とは、神功紀の歌に、少彦名《スクナヒコナノ》神を、區之能伽瀰《クシノカミ》と、御よみませるも、古事記應神(ノ)條の大御歌に、許登那具志《コトナグシ》、惠具志尓《ヱグシニ》、和礼惠比迩祁理《ワレヱヒニケリ》、とある具志《クシ》も、酒をいふ称《ナ》なり、猶神功紀の所にいふをも、合せ見べし、
頭注、○佐久々之《サクヽシ》呂、志《シ》々|久之呂《クシロ》の發語も、酒をいふ言とおもふよしあり、万葉の別記にいふを見べし、
 
和餓瀰枳那羅孺《ワガミキナラズ》、
非《ナラズ》2吾神酒《ワカミキ》1也、わが私のみきにあらすといふ意、
 
椰磨等那殊《ヤマトナス》、
大倭尓座《ヤマトニマス》也、大和(ノ)國にましますといふ意、尓末《ニマ》の約《ツヽメ》那《ナ》なれば、那殊《ナス》とはいふ也、又は大和にあらすといふ言の、略切ともいふべし、この神の大和(ノ)國にます事は、延喜祝詞式、神賀(ノ)詞に、己命《オノレミコトノ》、和魂《ニギミタマヲ》、八咫鏡取託《ヤタカヽミニトリツケテ》、倭大物主《ヤマトノオホモノヌシ》、櫛※[瓦+肆の左]玉命《クシミカタマノミコトト》、名《ナヲタヽヘテ》、大御輪神奈備坐《オホミワノカミナビニマサセ》、と見えて、大物主《オホモノヌシ》と申は、御饌《ミケ》により、櫛※[瓦+肆の左]玉《クシミカタマ》と申は、(22オ)酒によりたる御名と知られたり、故《カレ》その鎭座《シツマリマス》山を、御諸《ミモロ》とも、御輪《ミワ》ともいふは、皆酒の称《ナ》なり、
頭注、○みもろも、みわも、酒の名なる事、上と、次の歌にみゆ、
 
於朋望能農之能《オホモノヌシノ》、
大物主之《オホモノヌシノ》也、大己貴(ノ)命の、三輪《ミワ》に坐を申御名なる事、上にいふが如し、この神の釀《カミ》給ふ神酒《ミキ》ぞといふは、櫛※[瓦+肆の左]玉《クシミカタマ》の神に坐ば也、櫛《クシ》は酒の古名也、
頭注、○この神の酒によしある事は、延喜祝詞追考にいへるを見べし、
 
介瀰之瀰枳《カミシミキ》、
釀神酒《カミシミキ》也、かみとは、酒を造るをいふ言にて、もと麹《カムダチ》になす事にて、かびするをいふと、師の冠辭考にいはれし、
頭注、○釀《カミ》の事は、師説はよしとも决《サタメ》かたし、猶考あるべき也、
 
伊句臂佐《イクヒサ》、伊久臂佐《イクヒサ》、
活日左活日左《イクヒサイクヒサ》也、今献る御酒は、大物主の神の、天皇の御爲に、釀《カモ》し給ふ御酒を、活日《イクヒ》が掌て奉るといふ意にて、自らの名を称《イヘ》るにやあらむ、下の佐は、謠ふにつけて、添たる聲にや、万葉卷(ノ)七に、神樂聲波と書て、佐々波《サヽナミ》とよませたるは、神樂歌に、佐々《サヽ》と謠ふ聲の、あればにやあらむ、則古本の神樂歌に、本方安伊佐々佐々《モトカタアイサヽサヽ》、末方安伊佐々佐々《スヱカタアイササササ》とあるは、その謠ふ聲なるべければ、是歟、又按に、佐《サ》は、志加《シカ》の約にて、然々《シカ/\》といふ言を分て、活日如是《イクヒシカ》、活日如是《イクヒシカ》といへる意にや、猶よく可v考、
頭注、○又万葉集中に、この神樂聲波を略て、神樂波とも、樂浪とも書て、佐々波《サヽナミ》とよませたる、おほし、
 
如此歌(テ)之|宴《トヨノアカリス》2于神宮(ニ)1、即宴竟(リテ)之|諸大夫(22ウ)等歌之曰《マヘヅキミタチウタヒツラク》、
 
16 宇磨佐開《ウマサケ》、
※[酉+倍の旁]酒《ウマサケ》也、和名抄(ニ)云、※[酉+倍の旁]、【音與v杯同、漢語抄(ニ)云、加須古米、俗(ニ)云、糟交《カスゴメ》、】未(ダ)v※[酉+麗]《シタマ》也、と見えたり、この糟交《カスゴメ》は、則いにしへの味酒《ウマザケ》にして、今の世、あま酒といふもの是なり、さて三輪にかゝる發語《マクラコトバ》なるは、万葉卷(ノ)二に、哭澤乃《サキサハノ》、神社尓三輪須惠《モリニミワスヱ》、雖祈祷《コヒノメド》、云云、同卷(ノ)十三に、五十串立《イクシタテ》、神酒坐奉《ミワスヱマツル》、神主部之《ハフリベノ》、云云、と見えたる三輪《ミワ》は、この※[酉+倍の旁]酒《ウマサケ》を、※[瓦+肆の左]《ミカ》ながら神に奉る称《ナ》にて、美《ミ》は、糟交《カスゴメ》の糟をいひ、輪《ワ》は、涌《ワク》事也、今も酒造に、その糟の浮(キ)上るを、涌《ワク》といへり、【神賀詞に、天乃※[瓦+肆の左]和《アメノミカワ》といへるも、甕《ミカ》に釀たる酒の、熟して涌《ワク》をいふ也、諸説はうけがたし、】故《カレ》 ※[瓦+肆の左]《ミカ》の※[酉+倍の旁]酒《ウマサケ》の熟せるを、瀰和《ミワ》とはいふ也、是にて右の發語のつゞきは、おのづから明らかならずや、三諸《ミモロ》につゝきしも、実諸《ミモロ》の意なるは、なずらへて知べし、
頭注、○細川幽齋の、堀川百首肝要抄といふ物を見しに、酒を、みわといふは、徃昔は米をかみて作る、その実《ミ》涌《ワキ》て酒となる故、酒をみわと云り、味酒のみわとつづくるも、このゆゑ也といへり、
 
瀰和能等能能《ミワノトノノ》、
三輪之殿乃《ミワノトノノ》也、神の御殿をいふにや、出雲の國造が齋《イミ》には、則、杵築《キツキ》の社の、神殿内《ミアラカヌチ》にこもるといへば、上代は、さる事にてや有けむ、または別なる齋殿《イハヒドノ》をいふにやあらむ、
頭注、○三輪山の称《ナ》、古事記にいふ所は、先代(ノ)旧辞といふものにて、みわといふ言によりて、いひ傳へしふること也、上つ代の傳に、かゝる類いとおほし、古事どもを考え知べし、
 
阿佐妬珥毛《アサドニモ》、
旦戸尓毛《アサドニモ》也、旦《アシタ》に戸を開をいふ、万葉卷(ノ)八に、事繁《コトシケミ》、君者不來座《キミハキマサズ》、霍公鳥《ホトヽギス》、汝太尓來鳴《ナレダニキナケ》、朝戸將開《アサトヒラカム》、卷(ノ)十に、朝戸出《アサトデ》之、君之儀乎《キミカヨソヒヲ》、由不見而《ヨクミズテ》、長春日乎《ナカキハルヒヲ》、戀八九良三《コヒヤクラサム》、と有、集中猶おほかり、(23オ)
 
伊弟※[氏/一]由介那《イデテユカナ》、
出而將徃《イテヽユカナ》也、ゆかむといふを、古言には、ゆかなといへり、下神功紀の歌に、將v合といふを、阿波那《アハナ》とあると、同例也、万葉集中に、甚多し、卷三の解、いさ子等《コトモ》、倭《ヤマト》へ早く、白菅《シラスケ》の、真野《マヌ》の榛原《ハリハラ》、手折《タヲリ》て帰《ユカ》な、といふ歌に、例を引て註せり、さて朝戸《アサド》に出てゆかむといへるは、夜すがら呑あかして、朝戸《アサト》開《ヒラ》く時、出ゆかむとの意也、
 
瀰和能等能渡塢《ミワノトノドヲ》、
三輪《ミワ》之|殿戸乎《トノトヲ》也、乎《ヲ》は、上にかへる助辞《テニハ》の乎《ヲ》也、殿戸《トノド》を、朝戸《アサド》に出ゆかんといふ意、さて殿戸《トノド》といふは、古事記仁徳(ノ)條に、前戸戸《マヘツトノト》、後殿戸《シリツトノド》と見えたり、
 
於v是天皇歌之曰、
 
17 宇磨佐階《ウマサケ》、句 瀰和能等能能《ミワノトノヽ》、句 阿佐妬珥毛《アサトニモ》、句 
以上三句、如釋(シ)2上註1
 
於辞寐羅箇祢《オシビラカネ》、
押開祢《オシヒラカネ》也、古事記、八千矛(ノ)神御歌に、遠登賣能《ヲトメノ》、那須夜伊多斗遠《ナスヤイタドヲ》、於曾夫良比《オソブラヒ》、云云、万葉卷(ノ)五に、遠登※[口+羊]良何《ヲトメラガ》、佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》、意斯比良伎《オシヒラキ》、云云、押ひらけ、といふ言を、ひらかねと詔《ノタマ》ふは、歌の調《シラベ》なり、
 
瀰和能(23ウ)等能渡塢《ミワノトノトヲ、
如(シ)2上註(カ)1
 
即開(テ)2神宮(ノ)門(ヲ)1而|幸行之《イテマセリ》、云々、
 
十年秋七月丙戌(ノ)朔、己酉、詔《ノリゴチ》2群卿《マチキムタチニ》1曰《タマハク》、導(ク)v民(ヲ)之本、在(リ)2於教化(ニ)1也、今既禮(テ)2神祇(ヲ)1災害皆|耗《ツキヌ》、然遠《トホキクニノ》荒人等、猶不v受(ケ)2正朔(ヲ)1、是未v習2王化1耳、其選(テ)2群卿(ヲ)1、遣(シ)2于四方(ニ)1、令《シメヨ》v知(ラ)2朕意(ヲ)1、九月丙戌(ノ)朔甲午、以2大彦(ノ)命1、遣2北陸1、武渟川別(ヲ)遣(シ)2東海1、吉備津彦(ヲ)遣2西道1、丹波(ノ)(24オ)道主(ノ)命(ヲ)遣(シ)2丹波(ニ)1、因以詔之曰《ヨリテノリゴチタマハク》、若《モシ》有2不v受v教者1、乃(チ)擧(テ)v兵(ヲ)伐(テ)v之(ヲ)、既(ニシテ)而共(ニ)授(ケ)2印綬(ヲ)1、爲2將軍(ト)1、壬子大彦(ノ)命到(ル)2於|和珥坂上《ワニサカノヘニ》1時、有(リ)2少女《ヲトメ》1歌之曰《ウタヒツラク》、【一(ニ)云、大彦(ノ)命到(ル)2山背平坂(ニ)1時、道(ノ)側(ニ)有(リ)2童女1、歌之曰《ウタヒツラク》、】
 
18 瀰磨紀《ミマキ》 句 異利寐胡播揶《イリビコハヤ》、
御間城入彦者哉《ミマキイリビコハヤ》也、崇神天皇の大御|諱《ナ》也、下の者哉《ハヤ》は、助辭、やは、與といはむが如く、呼捨たる言なり、
 
飫逎餓《オノガ》、
己之《オノガ》也、天皇の己なり、
 
鳥塢志齊務苔《ヲヲシセムト》、
雄略將爲登《ヲヽシセムト》也、をゝしは、この紀の初めに、幼(テ)好2雄略1とありて、遠々之支《ヲヲシキ》事を、このみ給ふと訓たり、丈夫の武略をいふ、是は四道將軍を發遣《ツカハ》されて、四方の國に、勢《イキホヒ》を示し給はんとし給ふを云(ヘ)り、
 
農殊末句志羅珥《ヌスマクシラニ》、
將v盗不v知《ヌスマクシラニ》也、ぬすまむといふを延て、ぬす(24ウ)まくといふなり、しらには、しらずの古言、万葉卷(ノ)二、卷(ノ)九には、白土《シラニ》と書、卷(ノ)十三には、白粉《シラニ》と書たり、卷十七には、不v飽を、あかにといへり、後ながら伊勢物語に、いへはえに、とあるも、言者不v得《イヘハエズ》也、是は武埴安彦が、おふけなく帝位《タカミクラ》を窺※[穴/兪]《ウカヾフ》を云、
 
比賣那素寐殊望《ヒメナスビスモ》、
姫之戯爲毛《ヒメノアソヒスモ》也、上の雄々《ヲヲ》しきにむかへて、姫《ヒメ》の戯《アソヒ》といへり、乃阿《ノア》の切《ツヽメ》なとなれば、那素寐《ナソビ》とはいふ也、雄畧《ヲヽシキ》をせんとて、四道將軍を任《マケ》たまへども、畿内《ウチツクニ》に、帝京《ミカド》を襲んとするものゝあるを、知ろしめさぬは、かへりては、ヒメ《ヒメ》の遊《アソビ》をなすが如し、といふ意、
 
於朋耆妬庸利《オホキドヨリ》、
自《ヨリ》2大城門《オホキト》1也、宮城の御門をいふ、おのれはじめおもひけるは、武埴安彦《タケハニヤスヒコ》、與《ト》2妻《ツマ》吾田媛《アダヒメ》1謀反、云云、夫(ハ)從2山背1、婦(ハ)從(リ)2大坂1、共(ニ)入(テ)欲v襲(ト)2帝京(ヲ)1、とあるに、古事記垂仁(ノ)條に、曙立《アキタチノ》王、菟上《ウナカミ》王、二(ノ)王副(テ)2其御子(ニ)1、遣(ス)時、自(ハ)2那良戸1遇(ム)2路※[生/日]《ミチマケニ》1、【今本、跛盲とあり、いまは師の考による、】自2大坂1亦《モ》遇(ム)2路※[生/日](ニ)1、唯|木戸腋戸之吉戸卜而出行《キドハワキトノヨキトトウラヘテイテマス》、とある木戸《キト》は、師の万葉考別記に、奈良坂《ナラサカ》の東に、山城の木津《キツ》の里へ、越出る山路今あり、是をいふ也といはれしかば、こゝの大城戸も、夫(ハ)從2山背1といふにあたれば、彼木津へ越る山門《ヤマト》ならんとおもひしに、このころ大和人の來りていひけるは、大坂戸は、葛下郡にて、河内に越る山門、奈良戸《ナラト》は、今歌姫越といふ道にて、山城に越る山門、木戸《キト》は、真土山を越て、紀伊(ノ)國へ行山門に(25オ)て、木《キ》の門《ト》とよむべきなりといへり、この言によれば、己がはじめおもひしはひが言を知りて、今按を註つ、
 
于介伽卑※[氏/一]《ウカガヒテ》、
窺※[穴/兪]而《ウカヾヒテ》也、神代紀に、吾弟之來《ワガナセノキマセルハ》、豈以善心乎《アニヨキコヽロナラメヤ》、謂(ヘリ)3當(ニ)有(リト)2奪(ノ)v國(ヲ)之志1歟、夫父母既(ニ)任(テ)2諸子(ニ)1、各々有2其境1、如何(ソ)棄2置(テ)當v就之國(ヲ)1、而敢(テ)窺2※[穴/兪]此處(ヲ)1乎、とありて、窺※[穴/兪]而《ウカヽフ》は、文選の註に、向云、謂v欲v有2簒逆(ノ)之心1也、とあり、今もその意也、万葉卷(ノ)八に、此岳尓《コノヲカニ、小牡鹿履起《ヲシカフミオコシ》、宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》、【窺ねらふなり、】卷(ノ)十に、窺良布《ウカラフ》、【窺の下、疑らくは、ねを脱するか、】跡見山雪之《トミヤマユキノ》、灼然《イチシロク》、云云、是等も、鹿を殺むとて、窺ねらふ意なれば、同言と聞えたり、
 
許呂佐務苔《コロサムト》、
將v殺登《コロサムト》也、かしこくも、天皇を殺奉《シセマツ》らんと、窺ふ也、
 
須羅句塢志羅珥《スラクヲシラニ》、
爲乎不v知《スルヲシラニ》也、羅句《ラク》は、留《ル》の延言、有《ア》るを、阿良久《アラク》、戀《コフ》るを、戀《コフ》らく、といふに同じ古言也、志羅珥《シラニ》は、上に出、
 
比賣那素寐須望《ヒメナソビスモ》、
如(シ)2上註(カ)1、この歌、古事記のつたへは異にして、句々相違あり、引合せて考べし
 
於v是大彦(ノ)命異(テ)v之(ヲ)、問《トヒ》2童女《ヲトメニ》1曰《ツラク》、汝言何辭《ミマシカイフハナニゴトソ》、對曰《コタヘツラク》、勿v言也、唯歌耳、乃(チ)重(テ)詠(テ)2先(ノ)歌(ヲ)1忽爾不(25ウ)見v矣、云云、
是後倭迹迹百襲姫《コノノチヤマトトモヽソヒメノ》命、爲《ナレリ》2大物主(ノ)神之|妻《メト》1、然(トモ)其神(ハ)常(ニ)晝(ハ)不(シテ)v見而|夜來《ヨハニキマセリ》矣、云云、時(ニ)大神|有耻《ハヂテ》、忽(ニ)化(リテ)2人(ノ)形《サマニ》1、謂2其妻(ニ)1曰、汝不v忍令v羞v吾《ミマシシヌヒズテアレニハヂミセツ》、吾還令v羞v汝《アレモマタミマシニハヂミセムト云ヒテ》、仍(チ)踐(テ)2大虚(ヲ)1登(レリ)2于御諸山(ニ)1、爰倭迹々姫《コヽニヤマトトヒメノ》命、仰見《アフキミテ》而|悔《クヰテ》v之|急居《ツキウ》、則|箸《ハシニ》撞《ツキテ》v陰《ホトヲ》而薨、乃(チ)葬2於大市(ニ)1、故《カレ》時(ノ)人號(テ)2其墓(ヲ)1、謂(フ)2箸(ノ)墓(ト)1、是墓者《コノハカハ》、日也人作《ヒルハヒトツクリ》、夜也神(26オ)作《ヨハカミツクレリ》、故運(ヒテ)2大坂山(ノ)石(ヲ)1而|造《ツクレリ》、則自v山至(マテ)2于墓(ニ)1、、人民|相踵《アヒツキテ》、以手遞傳而運焉《タゴシニハコベリ》、時(ノ)人|歌之曰《ウタヒケラク》、
 
 
19 飫朋佐介珥《オホサカニ》、
大坂尓《オホサカニ》也、この大坂山は、葛下(ノ)郡に、相坂村ありて、大坂山口(ノ)神社も、そこにおはしますといへり、猶履中紀(ノ)御歌にいふを、併見よ、
 
菟藝逎煩例屡《ツギノホレル》、
繼所登《ツキノボル》也、坂(ノ)上まで、石群《イシムラ》の繼《ツギ》のぼる也、坂ゆゑに、登《ノホル》とはいへるなり、
 
伊辭務邏塢《イシムラヲ》、
石群《イシムラ》也、神代紀に、五百箇磐石を、ゆづいはむら、と訓たり、延喜式、御門祭の祝詞にも見え、万葉卷(ノ)一にも、河上乃《カハノビノ》、湯都磐村《ユヅイハムラ》とあり、村は、木むら、竹むらの村《ムラ》にて、石のおほく群《ムラガ》れるをいふ、
 
手誤辭珥固佐摩《タゴシニコサバ》、
手越尓越者《タコシニコサバ》也、たごしは、手迎傳とある是也、今の言に、手ぐりと云(ヘ)り、
 
固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》、
將《ム》2越得《コシカテ》1哉《カモ》也、万葉集(26ウ)中に、不v得、不v勝の字を、かてなく、とよみたり、かては、得の字にあたれば、介※[氏/一]務《カテム》は、得《エ》んといふに同じ、手越に越ならば、越得《コシエ》んといふ意也、さてこの石は、墳墓を築、且は、上を葺料の石にして、石槨《イハドコ》など構《カマフ》る、大石にはあらじ、さらずは、いかで手越には越(サ)ん、この墓は、今も箸御墓《ハシノミハカ》とて、城上(ノ)郡|箸中《ハシナカ》村にあり、【奈可《ナカ》は、波可《ハカ》の轉語なり、】神の造らしゝもしるく、世に大なる墓也、此所より葛下(ノ)郡大坂山までは、程遠くおぼゆれど、數多の民のつどひ、殊更神のみたすけさへそはりたれば、いつくの石なりとも、轉送《ハコブ》べきなれば、大坂より、手迎傳《タゴシ》に轉《ハコビ》つらむ、麝坂《カゴサカ》、押熊《オシクマ》の二王の、天皇の山陵を、播磨(ノ)國、赤石に造らしゝに、淡路島の石を運《ハコビ》て造之《ツクレリ》と、神功紀にあるを、おもひ合せてよ、
 
六十年、秋七月丙申(ノ)朔己酉、詔2群臣1曰、武日照《タケヒナデリノ》命、從v天|將來《モチキマセル》神寶(ハ)、藏2于出雲(ノ)大神(ノ)宮(ニ)1、是(ヲ)欲v見焉、則遣(テ)2矢田部(ノ)造(ノ)遠祖|武(27オ)諸隅《タケスミヲ》1而使(ム)v獻(ラ)、當(テ)2此時(ニ)1出雲(ノ)臣之遠祖、出雲(ノ)振根《フルネ》、主(レリ)2于神寶(ヲ)1、是徃(テ)2筑紫(ノ)國(ニ)1而不v遇、矣、其弟|飯入根《イヒリネ》、則被(テ)2皇命(ヲ)1、以(テ)2神寶(ヲ)1付(テ)3弟|甘美韓日狹《ウマシカラヒサト》與《トニ》2子※[盧+鳥]濡渟《コウカツクヌ》1而貢上、既而出雲(ノ)振根、從2筑紫1還來(レリ)之、聞(テ)3神寶(ヲ)獻(レリト)2于朝廷(ニ)1、責(テ)2其弟飯入根(ヲ)1曰、數日當待《シマラクマチナムヲ》、何恐之乎《ナニヲカシコミテカモ》、輙《タハヤスク》許(セル)2神寶《カムタカラヲ》1、是以經2年月1猶懷2恨忿(ヲ)1、有(リ)2殺v弟(ヲ)之志1、仍(テ)欺v弟(ヲ)曰、頃者《コノゴロ》於《ニ》2止屋(ノ)淵1多《サハニ》(27ウ)生(タリ)v、※[草冠/妾]、願(ハ)共(ニ)行(テ)欲v見、則隨(テ)v兄而往《ユケリ》之、先v是兄竊(ニ)作(ル)2木刀(ヲ)1、形似(タリ)2眞刀(ニ)1、當時自(ラ)佩(ケリ)v之、弟佩2眞刀(ヲ)1、共(ニ)到(ル)2淵頭《フチノホトリニ》、兄謂(テ)v弟曰、淵(ノ)水|清冷《イサキヨシ》、願(ハ)欲2共(ニ)游沐《カハアミセムト》1、弟從(テ)2兄(ノ)言(ニ)1、各々解(テ)2佩刀(ヲ)1、置(テ)2淵(ノ)邊(ニ)1、沐(セリ)2於|水中《カハヌチニ》1、乃兄先(ツ)上(テ)v陸(ニ)、取(テ)2弟(ノ)眞刀(ヲ)1自(ラ)佩(ケリ)、後(ニ)弟驚而取(テ)2兄(ノ)木刀(ヲ)1共(ニ)相撃矣、弟不v得v拔2木刀(ヲ)1、兄撃(テ)2弟飯入根(ヲ)1而殺v之、故(レ)時(ノ)人歌之曰、
古事記は、景行(ノ)條に載て、故(レ)自2其時1称(ヘテ)2御名(ヲ)1、謂(フ)2倭建(ノ)命(ト)1、云云、皆言向和(テ)而参上、即入2坐(テ)出雲(ノ)國(ニ)1、欲(テ)v殺2其出雲建(ヲ)1而(28オ)到、即結v友云云、於v是倭建(ノ)命誹云、伊奢《イサ》合v刀、尓各拔2其刀1之時、出雲建不v得v拔2詐刀(ヲ)1、即倭建(ノ)命拔(テ)2其刀(ヲ)1而打2殺出雲建(ヲ)1、尓御歌曰とあり、
 
20 椰勾毛多菟《ヤクモタツ》、
発語也、如2上註1、古事記は、夜都米佐須《ヤツメサス》、とあり、
 
伊頭毛多鷄流餓《イツモタケルガ》、
出雲建之《イツモタケルガ》也、振根《フルネ》をいふ、たけるは、熊襲梟帥《クマソタケル》、八十梟帥《ヤソタケル》、みなたけきをもて、おばせる名にて、則たけるといふが、体言となれば、健之《タケルガ》と、之《ガ》の助辞《テニハ》を加へたり、
 
波鷄流多知《ハケルタチ》、
所佩太刀《ハケルタチ》也、
 
菟頭邏佐波磨枳《ツヅラサハマキ》、
黒葛多纏《ツヾラサハマキ》也、つゞらは、古書に惣(ベ)て黒葛と書たり、今の垣などゆふ藤蔓《フチヅル》と称ものや、これならん彼は藤にはあらで、葛の一種にて、その色黒ければ、黒葛の文字に、よくあたれり、さてつゞらと呼は、繼蔓《ツヾキヅル》なるべし、佐波纏《サハマキ》は、古事記應神の條の歌に、母登都流藝《モトツルギ》、須惠布由《スヱフユ》、とあるは、本《モト》に蔓《ツル》を纏たるを、いふ言とおぼゆれば、こゝも太刀の柄《ツカ》のかたに、蔓《ツル》を多《サハ》に纏《マキ》たるをいふ也、是によりておもへば、釼《ツルギ》といふ名も、蔓纏《ツルマキ》の略語と聞えたり、故《カレ》釼《ツルギ》の大刀と、のの言を加(ヘ)ても、いへるならん、
頭注、○契沖か説に、佐波磨枳《サハマキ》を、鞘卷《サヤマキ》そといへるは、非也、佐和《サワ》ぐを、佐夜久《サヤク》といひて、和《ワ》は夜《ヤ》にかよへど、波《ハ》は也《ヤ》にかよはず、上の佐夜流《サヤル》も、障《サハ》るにはあらで、差依《サヨル》の意なる事、そこにいふをも併考べし、
 
佐微那辭珥《サミナシニ》、阿波禮《アハレ》、
鋤無尓《サミナシニ》、嗟歎《アハレ》也、佐美《サミ》と佐比《サヒ》は、相かよひて、同言也、神武紀に、(28ウ)拔(テ)v釼(ヲ)入(テ)v海(ニ)、化2爲鋤持(ノ)神(ト)1、神代紀にも、蛇|韓鋤之《カラサヒノ》釼とあれば、鋤は、佐比《サヒ》と訓べく、その佐比《サヒ》は、【佐美《サミ》も同言也、】刀釼の刃《ハ》をいふ称也、彼拔(テ)v釼(ヲ)とあるをもても、刃《ハ》をいふなるを知べし、さて佐美《サミ》は、師説に、木刀は、身《ミ》なきゆゑに、佐微那志《サミナシ》とよめり、刀に身《ミ》といふ言、上古にもありといはれしによるべし、しかれども、佐《サ》を、添言としられしは、くはしからず、佐《サ》は、亮《サヤ》の約言とおほゆ、さるは上に引、應神紀の歌に、もとつるぎ、すゑふゆ、布由紀能須《フユキノス》、加良賀志多紀能《カラガシタキノ》、佐夜佐夜《サヤサヤ》、とあるは、冬木《フユキ》の散《チリ》はてゝ、亮《サヤカ》なるが如く、釼の刃《ハ》の、曇りかすみもなきを、亮々《サヤ/\》といへる歌と聞ゆれば、ここも亮身《サヤミ》の略とすべし、推古紀の、句礼能摩佐比《クレノマサヒ》も、呉乃真亮身《クレノマサヤミ》、神代紀の、蛇麁正《ヲロチノアラマサ》も、明真佐比《アカラマサヒ》の略語也、【韓鋤《カラサヒ》とも有もて、真佐比《マサヒ》の畧なるを知、】終《ハテ》の阿波禮《アハレ》は、例の歎《ナゲキ》の辭なり、
 
第七卷 大足彦忍代別《オホタラシビコオシロワキノ》天皇【三首、連歌二首、景行天皇】
 
(29オ)十七年春三月戊戌(ノ)朔己酉、幸1子湯(ノ)縣1遊2于|丹裳小野《ニモノヲヌニ》1、時東望之謂2左右《モトコヒトニ》1曰、是國(ハ)也直2向於日(ノ)出(ル)方(ニ)1、故(レ)號2其國(ヲ)1曰(フ)2日向《ヒムカト》1也是日|陟《ノボリマシテ》2野中(ノ)大石(ニ)1、憶《シヌビシタマヒテ》2京都《ミヤコ》1而|歌之曰《ウタヒタマハク》、
この大御歌を、古事記には倭建《ヤマトダケノ》命の御歌として、三首とせり、其傳甚異なり、ともに徃昔《イニシヘ》の傳なれば、何れを是《ヨシ》とも定めがたし、されどつら/\此御歌を考るに、波辭枳豫師《ハシキヨシ》より、夜摩苔之于漏破試《ヤマトシウルハシ》とまでは、ひとつゞきの歌ともいふべけれど、異能知能《イノチノ》云々より下は、さらに上に連續《ツヽカ》す、意|達《トホ》らねば、別に一首の歌とぞ聞ゆる、古事記の三首とせる傳や正しかりなむ、彼に引合て猶能考へきなり、
 
21 波辭枳豫辭《ハシキヨシ》、
愛與師《ハシキヨシ》也、愛《ハシ》きといふに、與師《ヨシ》の助語を添たるなり、万葉には、愛八師《ハシキヤシ》とも、波之異耶師《ハシケヤシ》とも、波之伎與師《ハシケヨシ》(29ウ)ともあまた見えたり、はしきも、はしけも、細《クハシ》きといふ言にて、愛の字の意、則万葉集中に、愛伎妻等者《ハシキツマラハ》とも、波志伎佐保山《ハシキサホヤマ》ともよみたり、猶多かり、さてここの言は下の雲にかゝる発語《マクラコトバ》なり、
 
和藝弊能伽多由《ワギヘノカタユ》
從《ヨリ》2吾家方《ワガイヘノカタ》1也、我伊《ガイ》の約《ツヾメ》、藝《ギ》、由《ユ》は從《ヨリ》の略轉にて、輕く仁《ニ》の助辞《テニハ》にひとしく用たる例有、万葉卷(ノ)三別記に云へり
 
區毛位多知區暮《クモヰタチクモ》
雲居立組《クモヰタチクム》也、組の言は、神代紀素盞嗚尊の御歌にいへるか如し、下齋明紀の大御歌に、伊麼紀那屡《イマキナル》、乎武例我禹坏尓《ヲムレガウヘニ》、倶謨娜尼母《クモダニモ》、旨屡倶之多々婆《シルクシタヽバ》、那尓柯那皚柯武《ナニカナゲカム》、とある意もて解へし、彼は雲たにしるく立ば、歎かしとのりまし、是は雲の立|組《クム》を、吾家の方ぞと、愛《ウツクシ》み慕ひ給ふなり契冲は多知區暮を、立來毛《タチクモ》として、万葉卷(ノ)七に、痛足河《アナシカハ》、河波立奴《カハナミタチヌ》、卷目之《マキモクノ》、由槻我高仁《ユツキガタケニ》、雲居立良志《クモヰタツラシ》、といふ歌の落句におなしといへれと、古本には、雲居弖有良志《クモヰテアラシ》とありて、立は弖の誤なれば證としがたし、もとより雲の居立といふべくもあらず、さればこゝの立も立起る意にはあらで、立は輕添たる立にて【立添 立來なとの立なり】區暮《クモ》は、組《クム》の意とさたむへきなり
 
22 夜摩苔波《ヤマトハ》
倭者《ヤマトハ》也、この国号は、己考有、万葉卷(ノ)三別記に委しくいへり
 
(30オ)區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》
國之真平庭《クニノマヒラニハ》也、この言もかの別記に委しくいへり、
 
(参考、『稜威言別』より、○夜麻登波《ヤマトハ》」は、倭者なり、彼(ノ)行(ク)雲を羨(ミ)坐(ス)に誘《サソ》はれ出て、其(ノ)倭者《ヤマトハ》云云と、次々の句等《クドモ》の事は、思(ホ)し出て詔ふなり、○久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》」は、國眞區間《クニノマホラマ》なり、麻《マ》と婆《バ》と親く通へば、此句、紀には區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》とあり、保羅《ホラ》とは、記(ノ)黄泉(ノ)段に、内者富良富良《ウチハホラホラ》、外者須夫須夫《トハスブスブ》、とある富良《ホラ》にて、窄《スボ》きに對(ヘ)て、廣く隱《コモ》りかなるを云(フ)、其(ノ)小(キ)きは、螺《ホラ》、洞《ホラ》なども、内の空虚なるより云(ヒ)、掘《ホル》と云(フ)も、内を空虚《ホラ》に爲《ス》るよしの語也、其(ノ)大きなるは、萬葉五に、此(ノ)照す、月日の下は、天雲の、向伏きはみ、谷蟆《クニグク》の、さ渡る極み、聞しをす、久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》、【九(ノ)卷、十八(ノ)卷等にも、此連け出たり、】云云とよめるが如し、此《コヽ》は神武紀に、有《アリ》2美地《ウマシクニ》1、青山四周《アヲヤマヨモニメグレリ》云云、次(ノ)句に詔ふ、青垣山四面《アヲガキヤマヨモ》に廻(リ)て、【倭(ノ)宮城の】内の隱《コモ》りかなるを指し給ふなり、此(ノ)語(ノ)釋、諸抄に云る、皆ひが事也、記傳、又國號考の説、特にわろかれば、先(キ)に鐘(ノ)響卷二【十八段】に精く辨へおきつ、故《カレ》此《コヽ》には纔に一わたりを云のみ、
『鐘ノ響』より、第十八段
國のまほら、※[口+兼]間《ホヽマノ》丘、まほろば、やまと、世、夜、洞、螺
吉田(ノ)宣秋【上毛桐生號樂齋】問云、景行紀(ノ)大御歌に「夜摩苔波《ヤマトハ》、區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》云云」古事記には「久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》」とあり、此語の意を厚顔抄には「國の眞秀《マホ》にて良摩《ラマ》は助語也」といへり、國號考には「麻本呂婆《マホロバ》の麻《マ》は眞《マ》、本《ホ》は古言に、ふゝまる、ほゝまる、又ふほごもりなど云(ヘ)る布《フ》の通音にて、山の周れる中に包れこもりたるを云、呂婆《ロバ》は助辭也、然るに萬葉の歌どもなるは、山の廻れる意にもあらず、又|眞秀《マホ》の意にも非ず、たゞ國と云(フ)までにて、麻保良《マホラ》はいと輕く添て、意なきが如く聞ゆめるは、上代よりいひ馴たる言の意の、幾重にも轉《ウツ》り變れる物なるべし」【此外縣居翁、荒木田氏等の説も侍れど省きてとひまゐらず】といへり、これらの内、何れの説に從ひ侍りてよろしき歟、答云、何れもいまだし、そは先(ヅ)圓珠庵の説のり如くにては、書紀に「有(リ)2美地《ウマシクニ》1、青山|四周《ヨモニメグレリ》云云」又彼(ノ)御歌の次の御句に「阿烏伽枳夜摩許莽例屡《アヲカキヤマコモレル》、夜摩苔之于漏破試《ヤマトシウルハシ》」とあるに協はず、又本居氏の説の如くにては、萬葉は歌どもに協はず、【其歌下に引て證す】今京こなたの歌ならんにこそ然云こともあらめ、彼(ノ)集の歌をしもいかでかは幾度も轉變《ウツリカハ》れる後の物云(ヒ)とはせん、又只國といへるのみにて、麻保良《マホラ》には意なしといへるもしひごとなり、又荒木田氏の、眞平庭《マヒラニハ》の意とせるも當りがたし、今按に、此(ノ)保良《ホラ》てふ言は、古事記上卷、黄泉(ノ)國(ノ)段に「内者富良富良《ウチハホラホラ》、外者須夫須夫《トハスブスブ》」とある富良《ホラ》にて、窄《スボ》きに對《へ》て廣く隱《コモ》りかなる處を云(フ)也、洞《ホラ》・螺《ホラ》なども内の空虚《ホラ》なるよりいひ、掘《ホル》と云も内を空虚《ホラ》に爲《ス》るよしの語也、今はそれに眞《マ》の發語を置て、眞保良《マホラ》とも眞保呂《マホロ》ともいへるなり、下の婆《バ》は間《マ》の意なり、【婆《バ》と麻《マ》と通ふ例恒に多かり】神武紀に「内木綿之眞〓國《ウツユフノマサキグニ》」とあるも、青山四方に周廻《メグリ》て其内の隱《コモ》りかなるよしなり、又|※[口+兼]間丘《ホヽマノヲカ》と云も、其地の形體《サマ》のほゝまり隱りかなるよしの名なり、又|夜麻登《ヤマト》と云國號も、山多袁《ヤマタヲ》の義にて、【やまとゝ云國號には種々の説どもあれど、八千矛神の出雲(ノ)國にての御歌に、夜麻登能《ヤマトノ》、一本薄とよみませりし類にても、山のたをりを云事しるし、多袁《ダヲ》の登《ト》と約る例は、萬葉に山の多袁陰《タヽカゲ》を、、山の登陰《トカゲ》とよめるが如し、こは別に委くかうがへ正したるものあれば、こゝには只其一端をいひおくのみぞかし】もとは彼(ノ)ほゝまり隱りたる一郷より出て一國の名となり、一國の名となれるより、つひに大八洲の號ともなりつる如く、此|眞保良《マホラ》も本(ト)は青垣山|隱《コモ》れる倭の大宮(ノ)地を稱《タヽ》へそめたる言より出て、後には天皇の所知看《シロシメス》國の限りを云言となれるにこそはあれ、其よしは萬葉五に「天へゆかば、汝がまに/\、地ならば、大君います、此照(ラ)す、月日の下は、天雲の、向伏きはみ、谷ぐゝの、さ渡る極み、聞しをす、久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》、かにかくに、ほしきまに/\、しかにはあらじか」とよめる、是(レ)此月日の下は天雲の向伏極《ムカブスキハ》みまで、天皇の知(ロ)しめす國の眞保良《マホラ》なるぞと云意也、又九に「衣手の、常陸(ノ)國の、二並び、筑波の山を、見まくほり、君來ませりと、暑(ツ)けきに、汗かきなげき、木の根とり、うそぶきのぼり、峯《ヲ》のうへを、君に見すれば、男神《ヲガミ》も、ゆるし賜ひ、女神《メガミ》も、ちはひ賜ひて、時となく、雲居あめふる、筑波嶺を、さやに照(ラ)して、いぶかりし、國之眞保良乎《クニノマホラヲ》、委曲《ツバラカ》に、しめし賜へば、うれしみと云云」とよめるも、常には雲居雨ふりて見晴《ミハラ》す事 なり難き筑波嶺なれど、めづらしき君が見に來坐せりとて、二神もちはひまして、けふは避けき國の眞保良《マホラ》を見せ賜ひたりといへるなり、又卷十八に「高みくら、あまの日繼と、すめろぎの、神の命の、きこしをす、久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》、山をしも、さはにおほみと云云」とよみたるも、天皇《スメロギ》の御世繼々にしろしめし來る大八洲の、廣き國の眞保良《マホラ》には山ども多かればと云意なり、これらの歌、眞秀《マホ》また眞平庭《マヒラニハ》などの意としていかでかかなはん、又|麻保良《マホラ》と云に意なしとはいかでかいはん、いと強(ヒ)たる説どもならずや、かゝれば神武紀に「秀眞國《ホツマグニ》」應神天皇の大御歌に「久爾能富《クニノホ》」とよみましゝ富《ホ》などは、波の秀《ホ》、栲の秀《ホ》などの秀《ホ》、【此等の言の意は次(ノ)條にてさとるべし】此(ノ)眞保良《マホラ》の保良《ホラ》は隱りかなるを云、彼|洞《ホラ》、螺《ホラ》【※[山+屈]《ウツボ》も空洞《ウツボラ》の義なり】などの細小《ナヒサキ》にもいひ、大八洲、宇宙、六合の間の大に廣きにも云て其(ノ)意一(ツ)なる事は、譬はゞ余《ヨ》と云言の、竹、葦の短きふしの間《マ》をもいひ、晝と晝との間《アハ》ひをもいひ、夫婦の中をも云(ヒ)、生てより死(ヌ)るまでの間をもいひ、千歳萬歳の間をもいひ、天地の廣き間をも云が如し、猶いはゞ、都知《ツチ》と云も一|撮《ツカミ》の土をもいひ、萬國の大地をも云(フ)、水も、火も、風も皆然かにて、いひもてゆかばものゝ小大に亘る語猶いくらもありなんものをや、されば此|眞保良《マホラ》の稱も、三哲其餘の大人達のいへる皆わろし、改(メ)て用ふべきにこそ、)
 
多々儺豆久《タヽナヅク》
疊並就《タヽナミツク》也、万葉卷一に、疊有《タヽナハル》、青垣山《アヲガキヤマ》、とあるもおなじ意にて、山の重なれるをいふ言也、儺は、並の意、【又按に、万葉卷(ノ)十五に、久利多々祢《クリタヽネ》といふ言のあれば、儺は祢の轉語にや】つくは神代紀の、軻茂豆久《カモヅク》の、つくに同し、彼註にいふを合せ見よ万葉卷(ノ)二に、多田名附《タヽナヅク》、柔《ニゴ・ヤハ》膚尚乎《ハダスラヲ》、とあるを、師説に、楯並附《タヽナツク》、矢《ヤ》とかゝる言そといはれしかど、集中柔は、尓伎《ニギ》、尓期《ニゴ》、とよみて、也八《ヤハ》とよむ例なければ、今本に、やははたとよみたるは誤にて、師説はうけかたし、是も並重《ナミカサ》なるこころにて、柔膚《ニゴハダ》とはつゝけし也、
頭注、允恭紀に、和餓※[口+多]々瀰由梅《ワガタヽミユメ》、万(ノ)卷(ノ)十五に、多太未可母《タタミカモ》、安也麻知之家牟《アヤマチシケム》、とあるたゝみとは、敷薦《シキコモ》にて、それも重ぬる故の名なり、卷十一に疊薦隔編数《タヽミコモヘタテアムカス》、卷十二、疊薦重編数云々、と有もて知へし、さてその重には竪横の差別《ケヂメ》あり、上に重なると、並重るとなり、この疊並附は、横の重にて、並添ふの意なり、
 
阿烏伽枳《アヲガキ》、句 夜摩許莽例屡《ヤマコモレル》、
青垣山隱有《アヲガキヤマゴモレル》也、神武紀(ニ)云聞2於塩筒老翁(ニ)1、曰《イヘリ》 d東(ニ)有2美地《ウルハシキクニ》1青山四周《アヲカキヤマコモレリト》u、云々、この言、古事記にも、出雲(ノ)國造神賀詞にも、万葉にもおほく見えて、青山の垣の如く、取圍《トリカコメ》る地をいふ言なり、
 
夜摩苔之于漏破試《ヤマトシウルハシ》、
倭志愛師《ヤマトシウルハシ》也、志は助辞、于漏破試《ウルハシ》は、もとうつくしむ意、則|宇豆細《ウツクハシ》の轉畧なるへし、宇豆《ウツ》は神代紀の珍子《ウツノミコ》、万葉卷六の、宇頭乃御(30ウ)手《ウツノミテ》、祝詞の、宇豆御幣《ウツノミテグラ》、なと有宇豆にて、麗《ウツクシキ》をいふ言と聞ゆ、細《クハシ》は、花細《ハナクハシ》、香細《カグハシ》の細にて、褒言《ホメコト》也、【于豆玖師《ウツクシ》と、于留波師《ウルハシ》は、同言なり、豆《ツ》と留《ル》は同韻にて相通ふ言、くしも、はしも、細の畧語なり】さてこゝまては、帝都の倭の方を望まして、御本郷憶《ミクニシヌビ》の言ときこゆるを、これより下は、更に言《コト》つゞかず、別歌にやあらむ、
 
23 異能知能《イノチノ》、
壽命之《イノチノ》也、
 
摩曾祁努比苔波《マソケムヒトハ》
將全幸人者《マタケムヒトハ》也、古事記には、麻多祁牟《マタケム》とあり、万葉集中を考るに、卷(ノ)二に、真幸有者《マサキクアラハ》、卷(ノ)三に、間幸座者《マサキクマセバ》、卷(ノ)四に、將全幸限《マタケムカギリ》、卷(ノ)十二に、全有《マタカラ》めやも、卷(ノ)十三に真福在乞《マサキクアリコソ》、卷(ノ)十四に、真幸《マサキク》て、卷(ノ)十五にまたくあらば、卷(ノ)十七に、まさきくと、卷(ノ)十九に、平安《マサキク》て、と見えたり、是を併按に、まそけんは、全福《マタサキ》からんといふ意、さきは、幸とも福とも書ける字意にて、さきはひあるをいふ言也、
 
多々瀰許莽《タヽミゴモ》、
疊薦《タヽミコモ》也、重《ヘ》の一言にかゝる發語なり、倍《ヘ》は、重る意也、既に上にいふ、
 
弊遇利能夜摩能《ヘグリノヤマノ》、
平群之山《ヘグリノヤマ》也、大和国平群郡の山なり、古事記雄畧の大御歌に、多々美許母《タヽミコモ》、弊具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、許智碁知能《コチゴチノ》、夜摩能賀比尓《ヤマノカヒニ》、多智邪加由(31オ)流《タチザカユル》、波毘呂久麻加斯《ハヒロクマカシ》、云々とあれば、平群山には檮《カシ》の木や多かりけん、
 
志邏迦之餓延塢《シラカシガエヲ》、
白檮之枝乎《シラカシガエヲ》也《ナリ》、古事記には、久麻加志賀波袁《クマカシガハヲ》、とあり同記垂仁の條に、甜白檮之前《アマカシガクマ》、又|葉廣熊白檮《ハヒロクマカシ》とも見え、万葉卷(ノ)十に、足引の山路もしらに白杜※[木+戈]《シラカシノ》、枝母等乎々尓《エタモトヲヽニ》、雪の落《フレ》ればとあり、熊檮《クマカシ》はこもり檮《カシ》といふ言、白檮は、赤檮に對《ムカヘ》る称《ナ》なり、今も橿に雌雄ありて、赤檮、白檮といふといへり、枕草子に、しらかしなといふもの、まして深山木の中にも、いとゝけとほくて、三位二位のうへのきぬそむるをりはかりそ、葉をたに人の見るめるといへるは、今も彼葉もて物染るにや己いまたしらす、
 
于受珥左勢許能固《ウズニサセコノコ》、
髻華尓令挿此子《ウズニサセコノコ》也、古事記には、曾能子《ソノコ》と有、于受《ウズ》は、推古紀に、髻華此(ニ)云2于孺《ウズ》1とあり、万葉卷(ノ)十九に、島山尓《シマヤマニ》、照有橘《テレルタチバナ》、宇受尓佐之《ウズニサシ》、卷之十三に、神主部之《ハフリヘノ》、雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》とも、見えたり、髻の飾に、刺をいふ、檮《カシ》は、常磐木なれば、壽命《イノチ》の全《マタ》からん事を賀《ホギ》て、檮を挿とは詔給ふ也子等とは、陪從の王臣等をさし給ふ、上に出たる久米の子等の、子等に同しく、睦しみたまふ御言なり、
頭注、睦しみて子といふは上阿誤豫の下にいふを併見へし
 
(31ウ)是《コヲ》謂《イフ》2思邦《クニシヌヒノ》歌(ト)1也
 
十八年秋七月辛卯(ノ)朔甲午、到(テ)2筑紫(ノ)後国|御木《ミケニ》1、居(マス)2於高田(ノ)行宮(ニ)1時有(リ)2僵(タル)樹1長(サ)九百七十丈焉、百寮蹈(テ)2其(ノ)樹(ヲ)1而|徃来《カヨフ》時(ノ)人歌曰
 
24 阿佐志毛能《アサシモノ》、
朝霜乃《アサシモノ》也、私記(ニ)曰朝霜(ハ)易v消也、欲v讀2瀰概《ミケ》1之發語也、とあり、此説に從ふへし、万葉卷(ノ)十に、落雪之消長戀師《フルユキノケナガクコヒシ》といへると同じく、落雪《フルユキ》も、朝霜も、消《キエ》にいひかけたるにて、【幾延《キエ》の約《ツヽ》め氣なり】概《ケ》の一言にかくる發語なり、
 
瀰概(32オ)能佐烏麼志《ミケノサヲバシ》、
真木之佐小橋《ミケノサヲバシ》也、御木《ミケ》の地名もこの木よりおこれり、【和名抄に筑後國|三毛《ミケ》郡と見えたり】さて樹《キ》を、氣《ケ》といふは、万葉卷(ノ)廿に、麻都能氣乃《マツノケノ》、奈美多流美礼婆《ナミタルミレバ》、【氣《ケ》は祁《ケ》の假字にて伎《キ》とよむ例なし】しばらく後ながら、神今食《カムイマケ》を、神今|木《ケ》と、江次第には書たり、佐烏麼志《サヲバシ》の佐《サ》も烏《ヲ》も、添言にて、たゝ橋といふ言也、その佐は、真に同しく【佐烏鹿を、真男鹿ともいへり、】烏《ヲ》は小田《ヲダ》、小鴨《ヲカモ》、小簾《ヲス》なといふ烏《ヲ》也、【烏は小の字の意にはあらす、たゞ褒言なり、大某といふに同し、】かく佐《サ》と烏《ヲ》とを重ねたる例は、万葉卷(ノ)十四に麻乎其母能《マヲゴモノ》、布能美知可久※[氏/一]《フノミチカクテ》、とあるは、真小薦《マヲコモ》なれば是に同し、佐烏牡鹿《サヲシカ》も同例とすべし、百寮の其樹を踏て、徃來するゆゑ、橋とはいへるなり、
 
麼弊菟耆瀰《マヘツギミ》、
前就君《マヘツクキミ》也、百寮の人等《ヒトタチ》なり、就《ツク》とは、齋《イツク》傅《カシツク》のづくにて、天皇の御前に仕奉るをいふ、菟《ツ》は濁り、耆《キ》は清へきを、今は菟《ツ》清、耆《キ》を濁るは誤なり、おのれはじめこの言を、まつろひ君の約《ツヽメ》言かとも、又前津君かとも思しは、まだしかりけり、
 
伊和※[口+多]羅秀暮《イワタラスモ》、
神代紀の歌(ニ)註《イフ》が如し、渡るといふ言なり、
 
瀰開能佐烏麼志《ミケノサヲハシ》、
如2上(ニ)註(ガ)1
 
(32ウ)四十年夏六月、東夷多(ニ)叛(テ)邊境騷、云云、於v是日本武(ノ)尊|雄誥《ヲタケヒ》之曰、熊襲《クマソ》既(ニ)平(テ)、未v經2幾年(モ)1、今更東夷叛之、何日逮2于大平(ニ)1矣、臣雖v勞之|頓《ヒタフルニ》平2其乱(ヲ)1、云云、爰日本武(ノ)尊則從2上総1轉入2陸奥(ノ)國(ニ)1、云云、蝦夷既平自2日高見(ノ)國1還2之西南(ニ)1、歴(テ)2常陸(ヲ)1至2甲斐(ノ)國(ニ)1、居2于酒折(ノ)宮(ニ)1時(ニ)、擧v燭而|進食《ミヲシヽタマフ》、是(33オ)夜以v歌之|問《トヒ》2侍者《モトコヒトニ》1曰《タマハク》、
 
25 珥比麼利《ニヒバリ》、
新墾《ニヒバリ》也、筑波にかゝる發語、万葉卷十二に、新治《ニヒバリノ》、今作路《イマツクルミチ》、卷十四に、信濃道者《シナノヂハ》、伊麻能波里美知《イマノハリミチつ、このふたつをもて考るに、つくはは、作墾《ツクリバリ》にて、新治《ニヒバリ》の作墾《ツクリバリ》といふ意に、かさねたる也、旧説すべてうけがたし、
 
菟玖波塢須擬※[氏/一]《ツクバヲスギテ》、
筑波乎過而《ツクバヲスギテ》也、和名抄、常陸(ノ)國、筑波郡に、筑波といふ郷名も見えたり、その地を過給へる節《ヲリ》に、何かおもほし出る事の有つらむ、筑波山ならば、越てとあるべきを、過と詔(ヘ)るは、山ならぬ證なり、
 
異玖用伽祢菟流《イクヨカネツル》、
幾夜歟寐有《イクヨカネツル》也、幾夜歟宿しと詔へるは、即いく日を經しと、問給へる意なり、
 
諸侍者、不v能2答言(スコト)1、時(ニ)有2秉v燭者1、續(テ)2王歌《ミコノミウタノ》之末(ヲ)1而歌曰、
 
(33ウ)26 伽餓奈倍※[氏/一]《カガナベテ》、
來經來經並而《ケケナヘテ》也、來經は、年月日夜の來經行《キヘユク》をいふ言にて、其|來經《キヘ》を約れば、氣《ケ》となる、万葉卷(ノ)三に、氣並而《ケナラヘテ》とあり、又|氣《ケ》を轉して、加といふ、十日《トヲカ》廿日《ハツカ》の加は、即|來經《キヘ》の轉語也、この來經《キヘ》の言は、万葉卷(ノ)三、あらたまの別記に、委しくいへり、奈倍は並にて、馬數而《ウマナメテ》とも書たり、來經《キヘ》の數《カス》の重《カサ》なるをいふ言也、
 
用珥波虚々能用《ヨニハコヽノヨ》、
於v夜者九夜《ヨニハコヽノヨ》也、
 
比珥波苔塢伽塢《ヒニハトヲカヲ》、
於日者十日乎《ヒニハトヲカヲ》也、加《カ》は、來經《キヘ》なるよし、上にいふ、下の烏《ヲ》は、例の與《ヨ》に通ふ乎《ヲ》也、是を連歌の濫觴《ハシメ》といへり、前後を合せば、旋頭歌なり、
 
即(チ)美(メテ)2秉v燭人之|聰《サトキヲ》1而敦賞、
日本武(ノ)尊於v是始(テ)有《マセリ》2痛身《ミヤモヒ》1、然稍(ニ)起(テ)之還(タマフ)2於尾張(ニ)1、不(シテ)v入2宮簀媛之家(ニ)1、便移(テ)2伊勢(ニ)1、(34オ)而到(リタマフ)2尾津(ニ)1、昔日本武(ノ)尊向(マシヽ)v東(ニ)之歳、停2尾津(ノ)濱(ニ)1而|進食《ミヲシシタマフ》、是時解(テ)2一釼《ツルギヲ》1、置(ケリ)2於松(ノ)下(ニ)1、遂(ニ)忘(レテ)而|去《イテマシキ》、今至(タマフニ)2於此(ニ)1釼猶|存《アリ》、故(レ)歌曰、
 
27 烏波利珥《ヲハリニ》、
尾張尓《ヲハリニ》也、藤信景(ガ)塩尻(ニ)云、尾張(ノ)國、春日井郡、小針《ヲハリ》村、爲2國(ノ)中央1、有(リ)2尾張(ノ)神社1、盖|小墾《ヲハリ》之謂(ニシテ)而|爲《ナレリ》2一國(ノ)名1也、云云、此説諸家の説にまさりて、古意を得たり、或人云、この御歌に、尾張とさし給ふは、伊勢(ノ)國の長嶋《ナカシマ》也、古老傳(ヘテ)云、長嶋の地は、上古は尾張(ノ)國海邊(ノ)郡に屬といへり、長嶋は、於津(ノ)崎に、近くさし向(ヘ)れば、さにやともおもへど、猶おぼつかなくなん、
 
多※[こざと+施の旁]珥務伽弊流《タダニムカヘル》、
直尓所向《タヽニムカヘル》也、古事記には、この句の次に、袁都能佐岐那流《ヲツノサキナル》、といふ一句あり、この句なくては、いとつたなし、この紀には、决《キハメ》て脱せるものなるべし、その尾津《ヲツノ》崎は、延喜式神名帳に、桑名(ノ)郡に、尾津《ヲツノ》神社二坐と見え、社地は、戸津村の北にありて、御衣野《ミソノ》村に、古松株今なほ存《アリ》て、一つ松の殘也といひ、草薙何某といふもの、これを齋祠《イハヒマツル》といへり、
 
(34ウ)比苔菟摩菟阿波例《ヒトツマツアハレ》、
一松※[立心偏+可]怜《ヒトツマツアハレ》也、万葉卷(ノ)六に登(テ)2活道岡(ニ)1、集(ヒテ)2一株松(ノ)下(ニ)1飲歌と題して、一松幾代可歴流《ヒトツマツイクヨカヘヌル》、吹風乃《フクカセノ》、聲之清者《オトノサヤケサ》、年深香聞《トシフカミカモ》、とあり、阿波例《アハレ》は、古の松の、御太刀を失はず有しを、愛憐《アハレミ》給ふ歎《ナゲキ》の辭也、古事記は、阿波例《アハレ》を、阿勢袁《アセヲ》とせり、阿勢袁《アセヲ》は、雄略天皇の大御歌にも見えたり、吾背よと、親み給ふ言と聞ゆ、一本には、阿藝袁《アギヲ》とあり、吾君《アガキミヨ》と、詔ふ言なるべし、
頭注、○吾君《アキ》といふは、崇め詞にあらず、したしみ睦しむ詞也、
 
比等菟摩菟《ヒトツマツ》、
如2上註1、
 
比苔珥阿利勢磨《ヒトニアリセバ》、
人尓有爲者《ヒトニアリセハ》也、人にてあらばといふ意、
 
岐農岐勢摩之塢《キヌキセマシヲ》、
衣令著麻志乎《キヌキセマシヲ》也、きぬ著せんといふ意、万葉卷(ノ)七、【集中多かれど、ひとつを擧、】伏越從《フシコエユ》、去益物乎《ユカマシモノヲ》、などあるも、ゆかむものをといふ言也、衣《キヌ》とは、衣服の称《ナ》也、古事記は、次の句と上下せり、
 
多知波開摩之塢《タチハケマシヲ》、
太刀令佩麻志乎《タチハケマシヲ》也、太刀佩《タチハカ》せんを、といふ言、上に同じ、波久《ハク》とは、懸《カク》といふに、ひとしき詞と聞えたり、今の言に、沓をあしにかけるとも、又はくともいひ、万葉卷(ノ)十六に、馬尓巳曾《ウマニコソ》、布毛太志可久物《フモタシカクモノ》、牛尓巳曾《ウシニコソ》、鼻繩波久礼《ハナナハハクレ》、とありて、かくと、はくと、相むかへてもいひ、卷(ノ)九には、懸佩之《カケハキノ》、小釼取佩《ヲタチトリハキ》と、重ねてもいへり、神樂歌に、白銀《シロカネ》の、目貫《メヌキ》の太刀《タチ》を、垂佩《サケハキ》て、とありて、太刀は、腰に取(35オ)懸《カケ》て垂《タ》るゝものなれば、波久《ハク》とはいふ也、古事記は、上の句こゝに有て、比登都麻都阿勢袁《ヒトツマツアセヲ》の、一句、添たり、勢《セ》は、一本作v藝《キニ》、上におなじ、
 
第九卷 氣長足姫《オキナガタラシヒメノ》尊、【六首、神功皇后、】
 
攝政元年三月丙申(ノ)朔、庚子、命(テ)2武内《タケウチノ》宿禰、和珥臣《ワニノオミノ》祖|武振熊《タケフルクマニ》1、率(テ)2數萬(ノ)衆(ヲ)1、令v撃2忍熊王《オシクマノミコヲ》1、爰(ニ)武内(ノ)宿禰等、選(テ)2精兵1從2山背1出(テ)之、至2菟道《ウチニ》1以(テ)屯《イハメリ》2河(ノ)北(ニ)1、忍熊(ノ)王出(テ)v營(ヲ)欲v戰、時(ニ)有2熊之凝者《クマノコリトイフモノ》1、爲《タリ》2 忍熊(ノ)王|軍《イクサノ》之先桙1、則(35ウ)欲(テ)v勸(ムト)2己(カ)衆(ヲ)1、因(テ)以高(ク)唱之歌曰《ウタヒケラク》、
 
28 烏智箇多能《ヲチカタノ》、
彼方之《ヲチカタノ》也、延喜神名帳に、宇治彼方(ノ)神社あり、彼方《ヲチカタ》は、地名也、遠智《ヲチ》といふ名は、大和にも、近江にも見えたり、方《カタ》は、比邏方《ヒラカタ》、佐野方《サヌカタ》の類にて、山方をいふ言と聞ゆ、万葉卷(ノ)十三に、師名立《シナタツ》、都久麻佐野方《ツクマサヌカタ》、息長之《オキナカノ》、遠智能小菅《ヲチノコスゲ》、とあるは、近江(ノ)國坂田郡にて、こゝとは、国所ことなれど、佐野方《サヌガタ》の遠智《ヲチ》といへるは、彼方《ヲチカタ》といふに、類せる地名也、比邏方《ヒラカタ》は、末に出、
 
阿邏々摩菟麼邏《アララマツバラ》、
荒々松原《アラ/\マツバラ》也、万葉卷(ノ)二に、霰打《アラレウツ》、安良禮松原《アララマツハラ》、【礼は呉音もて、良《ラ》の假字《カナ》に用ひし例、古書に、所々見えたり、】住吉能《スミノエノ》、弟日娘《オトビヲトメ》と、見れど不飽鴨《アカヌカモ》、とあるに同じ、まばらなる松原を云成べし、
頭注、○礼を、良《ラ》の假字《カナ》に用ひる例、万葉四(ノ)卷の別記に擧たり、
 
摩菟麼邏珥《マツバラニ》、
松原尓《マツハラニ》也、
 
和多利喩祇※[氏/一]《ワタリユキテ》、
渡行而《ワタリユキテ》也、武内(ノ)宿禰は、河北に屯とあれば、宇治川を、わたり行てなり、
 
菟區喩瀰珥《ツクユミニ》、
槻弓尓《ツキノユミニ》也、槻《ツキ》の木もて造れる弓也、上古の弓は、木弓也、大和(ノ)國の古寺に、さる弓ありて、荒井氏の軍器考に模圖《ウツシ》あり、延喜兵庫式に云、梓弓一張、【長(サ)七尺六寸、槻、柘檀、准v之、】長功十五日、中功、短功、遞(ニ)加(フ)2一日1、削成三日、【一日(ハ)小斧削、二日(ハ)鉋、】作v本一日、瑩理一日、造2※[弓+付](ノ)角(ヲ)1、裁v革|纏《マキ》v※[弓+付]、料2理※[台/木]《カラムシヲ》1、續v弦著v弓(36オ)一日、勾v本(ヲ)令v熟三日、塗v漆三遍、毎v遍乾(コト)二日、といへり、延喜の頃までも、木弓なる事、これにて知られたり、菟區喩瀰《ツクユミ》といふは、槻之《ツキノ》といふ、伎能《キノ》の約|古《コ》なれば、區《ク》に通はしていへる也、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌にも、都久由美《ツクユミ》と、よませ給へり、
 
末利椰塢多具陪《マリヤヲタグヘ》、
目在矢乎副《マアリヤヲタクヘ》也、和名抄(ニ)云、鳴箭、日本紀私記(ニ)曰、八目鏑《ヤツメカブラ》、【夜豆女加布良《ヤツメカブラ》】と見えたる也、是ならむ、目《メ》とは、鏃に穴あるをいふなるべし、蟆目《ヒキメ》といふ目《メ》、即(チ)是也、多具陪《タクヘ》は、万葉卷(ノ)八に、鴈尓副而《カリニタクヒテ》、徃益物乎《ユカマシモノヲ》、卷(ノ)十に、雨晴之《アマハレノ》、雲尓副而《クモニタクヒテ》、霍公鳥《ホトヽキス》、これ等の、副の字を書たるもて、相そふる心なるを、知るべきなり、
頭注、万葉卷(ノ)九に、きの国の、むかし弓雄《ユミヲ》の、響矢《マリヤ》もち、鹿取靡之坂《カトリナヒケシサカノウヘ》にぞ有《アル》、とある響矢も、末利矢《マリヤ》と訓べきなり、
 
宇摩比等破《ウマヒトハ》、
貴人者《ウマヒトハ》也、此紀に、縉紳、君子、良家【万葉卷(ノ)五にも、良家の字見えたり、】などの字を、宇摩比登《ウマヒト》と訓たるもて、心得べし、仁徳紀の大御歌にも、又万葉中にも、おほく見えたり、
 
于摩譬苔奴知野《ウマヒトドチヤ》、
貴人共哉《ウマヒトトチヤ》也、奴知《トチ》は、万葉卷(ノ)八に、思人共《オモフヒトトチ》、卷(ノ)十二に、己之妻共《オノカツマトチ》、卷(ノ)十九に、旅わかるどち、と見えたり、下の哉《ヤ》は、助辭、與《ヨ》といはむが如し、師説には、野《ヤ》を、下の句に屬して、野伊徒古《ヤイヅコ》として、奴《ヤツコ》の事ぞと、いはれしかど、さては、次も、也都古波毛《ヤツコハモ》といふべき【万葉卷(ノ)十八に、鄙の也都古とあり、】理《コトワリ》なるに、伊徒古《イヅコ》とあれば、しかにはあらじとおもひて、今案を記し、
 
伊徒姑播茂《イヅコハモ》、
賤就子者毛《イヤツクコハモ》也、就を略て、津《ツ》といふは、上(36ウ)景行紀の歌に云、万葉卷(ノ)七に、住吉《スミノエ》能、小田苅爲子者《ヲタカラスコハ》、賤鴨無《ヤツコカモナキ》、奴雖有《ヤツコアレト》、云々とあれば、奴《ヤツコ》ももとは、賤津子《イヤツコ》なるを、伊《イ》を略ては、也都古《ヤツコ》といひ、也を略ては、伊徒古《イヅコ》と、いへるなるべし、播茂《ハモ》の茂《モ》は例の助語也、
頭注、○國造《クニノミヤヅコ》、伴造《トモノミヤヅコ》の造を、御奴とするは、非也、是は、宮就子《ミヤツクコ》也、宮は、朝廷をいふ、就《ツク》は、景行紀の、麼幣菟耆瀰《マヘツキミ》の解にいへり、前就君は、親しく、宮就子は疎也、いさゝか差別《ケチメ》有、可v考|就《ツク》を津《ツ》と云は、舩の着所を、津《ツ》といふも同じ、對馬《ツシマ》も、から国に行かふ舩の、着所ゆゑ、津島とはいふなるべし、
 
伊徒姑奴池《イツコドチ》、
賤就子共《イヤヅコトチ》也、貴人|者《ハ》貴人|共《ドチ》、賤者は、賤者共、あらむといふ意也、
 
伊弉阿波那和例波《イサアハナワレハ》、
率將v遇我者《イサアハムワレハ》也、伊弉《イサ》は、催起す辭、神武紀に、天神(ノ)子《ミコ》召《メス》v汝(ヲ)、怡弉過怡弉過《イサワイサワ》、とあるは、頭八咫烏《ヤタカラス》が、兄磯城《エシキ》、弟磯城《オトシキ》を、催起す聲也、万葉集中にも、率子等《イサコトモ》など、あまた見えたり、阿波那《アハナ》は、上崇神紀の伊第※[氏/一]由可那《イデテユカナ》の下に、註が如し、あはむといふ、古言也、さて遇《アフ》は、合戰の合の字にあたり、戰《タヽカフ》は、敲合《タヽキア》ふ也と、上にいへる合《アフ》也、その意は下に云、
 
多摩岐波屡《タマキハル》、
程來經《タマキフル》也、たまとは、年月、日夜の、經行程をいふ言、波《ハ》は、布《フ》の通音也、是は命《イノチ》にかゝる發語、いのちは、息《イキ》の内《ウチ》なるべければ、内《ウチ》ともかゝるなるべし、猶万葉卷(ノ)三、あらたまの別記に、委しくいへり、
 
于池能阿曾餓《ウチノアソガ》、
内之吾背之《ウチノアセガ》也、武内(ノ)宿禰をさせり、内とは、鎌足公の、内外を計會して給ふにより、内(ノ)臣と申しゝをおもふに、【この事は、師の万葉考の別記、藤原(ノ)大臣の條に詳也、内(ノ)臣は、内大臣の官を、云にあらず、】武内(ノ)宿禰も、さるよしにて内の阿曾とはいひしにや、阿曾《アソ》は、吾背《アセ》にて、したしむ稱也と、師説也、さるを、武《タケ》かり(37オ)しによりて、武内といひ、相親み崇《アカ》むる言にて、宿祢とは、いひしにやあらむ、【朝臣は、吾背臣《アセオミ》、宿祢は、少兄《スクナエ》にて、加婆祢《カバネ》は、崇称《アカマヘナ》の略轉ぞと、師はいはれし尚可v考】
 
波邏濃知波《ハラヌチハ》、
腹之内者《ハラノウチハ》也、國内《クニウチ》をくぬちといふと、同例也、乃宇《ノウ》の約(メ)奴《ヌ》也、
 
異佐誤阿例椰《イサゴアレヤ》、
有《アレ》2砂石《イサゴ》1者哉《バヤ》也、いさごは、即《ヤガテ》石をいふ、拾遺集に、東宮のいしなごとりの、石めしければと見え、金葉集、俊頼朝臣の歌の端詞に、前齋宮、い勢におはしましけるころ、いしなごとりの、石あはせといへる事、せさせ給ひけるに、云云とあり、此いしなごと、いさごは、同言也、【志那《シナ》は、佐《サ》に約れり、】いかで武内宿祢といふとも、腹中に石あらむや、といふ意、石には、矢も通らねば也、あれやは、あればやの婆《バ》を略ける、古言の格也、
 
伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》、
如2上註1、このあはなは、戰《タヽカフ》にも、敲合《ウチアフ》にもあらで、射合《イアハ》さんと也、さるは、初めに槻弓《ツクユミ》に、まり矢《ヤ》を副《タグヘ》といひ、こゝに、腹内《ハラヌチ》に、砂石《イサゴ》あれやといへる、みなその意也、或説に、軍は、射合征箭《イクハシソヤ》ぞといひしは、うべなりける、猶|合《アフ》の言は、上にいふを、合(セ)見べし
頭注、○的を、伊久波《イクハ》といふも、射合《イクハシ》なるべし、
 
時(ニ)武内宿禰、令(シテ)2三軍(ニ)1悉(ク)令2推結1、因(テ)以(テ)號(37ウ)令曰《ノリコチツラク》、云云、忍熊(ノ)王、知(テ)v被《レヌト》v欺、謂2倉見別|五十狹茅《イサチノ》宿禰(ニ)1曰、吾既(ニ)被(ヌ)v欺、今無(シ)2儲(ノ)兵1、豈可v得v戰(ヲ)乎、曳(テ)v兵(ヲ)稍退(ク)、武内(ノ)宿禰出(シテ)2精兵1而追(フ)v之、適々遇(テ)2于逢阪(ニ)1以破(レリ)、故號(テ)2其處(ヲ)曰(フ)2逢坂《アフサカト》1也、軍衆走v之、及2于|狹々狹浪栗林《サヽナミクルスニ》1而多斬、於v是血流(テ)溢2栗林(ニ)1、故惡(テ)2是事(ヲ)至(テ)2于今(ニ)1、其栗林之菓(ヲ)、不v進2御所《ミモトニ》1也、忍熊(ノ)王逃(テ)無v所v入、則喚(テ)2五十狹茅《イサチノ》宿禰(ヲ)1而|歌之曰《ウタヒツラク》、【古事記に(38オ)は仲哀の條に在て、於v是其忍熊(ノ)王與2伊佐比宿禰1、共(ニ)被2追迫1、乘v舩(ニ)浮v海(ニ)歌曰、とあり、海とは湖水を云、】
 
29 伊弉阿藝《イザアギ》、
率吾君《イザアギ》也、率《イザ》は催(ス)辞、阿藝《アギ》は、阿勢《アセ》、阿誤《アゴ》などいふと、同類の言にて、【阿勢も阿誤も、上に出たり、】吾《ア》ぎみと、親しみいふ辞也、【君は、尊称のみにあらぬよしも、既に上に云り、】
 
伊佐智須區祢《イサチスクネ》、
五十狹茅宿禰《イサチスクネ》也、すく祢は、師説に、少兄《スクナエ》なるよしいはれしは、上に註せり、舊事記の説は、異なり、さて伊射阿藝伊佐智《イサアギイサチ》といふ、音のひゞきに、歌の調《シラベ》をなせり、古事記には、此句より以下、四句なくて、布流玖麻賀《フルクマガ》の一句あり、脱落せるに似たり、
 
多摩枳婆屡《タマキハル》、
如(シ)2上註1、
 
于智能阿曾餓《ウチノアソガ》、
如(シ)2上註1、
 
句夫菟智能《クブヅチノ》、
頭槌之《カブツチノ》也、神武紀に、句夫都々伊《クブツヽイ》と有、是也、
 
伊多弖於破孺破《イタテオハズハ》、
痛手不負者《イタテオハズバ》也、痛手負《イタテオハ》んよりは、といふ意也、万葉卷(ノ)三の解に例を擧て、委しく云(ヘ)り、【猶允恭紀の、御製の下にいふをも、併見べし、】
 
珥倍廼利能《ニホドリノ》、
※[辟+鳥]※[〓+鳥]之《ニホドリノ》也、之《ノ》は、如くの意を、ふくめる之《ノ》也、是は上にもいふ如く、古歌の常《ツネ》也、古事記には、此次に、阿布美能宇瀰尓《アフミノウミニ》、といふ一句あり、此句ありても、にほ鳥は、句を備て、落《ハテノ》句へかゝると知べし、
 
(38ウ)介豆岐齊奈《カツキセナ》、
潜將v爲《カツキセナ》也、せなは、古言にせむといふ意を、おほくせなといへり、古事記には、下に和《ワ》の一(ト)言添たり、潜將爲吾《カツキセムワレ》也、武内(ノ)宿祢の、痛手《イタデ》を負《オハ》んよりは、※[辟+鳥]※[〓+鳥]之《ニホトリ》の如く、淡海《アフミ》の海に潜《カヅキ》して、吾《ワ》は死んといふ意也、痛手《イタデ》の手は、今も手負《テオヒ》、手《テ》をおはすなどいひて、疵《キズ》を蒙らすをいふ、
 
則共(ニ)沈(テ)2瀬田(ノ)濟(ニ)1而死之、于v時武内(ノ)宿禰、歌之曰《ウタヒツラク》、
 
30 阿布瀰能瀰《アフミノミ》、
淡海之海《アフミノウミ》也、淡海《アフミ》は国号となれゝば、近江の国にある、海といふ意に、かさねたる也、宇瀰《ウミ》の宇《ウ》は、能《ノ》の餘韻にふくめり、
 
齊多能和多利珥《セタノワタリニ》、
瀬田之渡尓《セタノワタリニ》也、和名抄栗本(ノ)郡に、勢多《セタ》と見えたり、
 
伽豆區苔利《カヅクトリ》、
潜鳥《カヅクトリ》也、忍熊(ノ)王の歌を、傳(ヘ)聞てよめるなるべけれは、鳥は、※[辟+鳥]※[〓+鳥]《ニホドリ》なり、
 
梅珥志瀰曳泥麼《メニシミエネバ》、
目尓志不見者《メニシミエネバ》也、志《シ》は、助語、その屍《シカバネヲ》見ぬ程は、といふを、潜《カヅキ》する尓保鳥《ニホトリノ》、水上に浮出ぬ程に、譬たる也、
 
異枳廼倍呂(39オ)之茂《イキドホロシモ》、
憤呂之毛《イキトホロシモ》也、呂之《ロシ》は、移《ウツ》り、移《ウツ》るを、うつろひ、うつろふ、といふと、同じき語格にて、憤《イキドホ》りを、用言にいへる也、下の毛《モ》は助語、さて憤《イキドホリ》は、息滯り也、万葉十九に、伊伎騰保流《イキトホル》、許々呂能宇智乎《コヽロノウチヲ》、思延《オモヒノベ》とあるも、欝々と凝滯る心也、屍を見ぬ程は、猶|他《ホカ》にかくりやしけんと、疑しき心の、胸中に滯りて、やすからぬ、といふ意なり、
 
於v是探(ドモ)2其|屍《シニカハネヲ》1而不v得也、然後|數日之《ヒヲヘテ》、出(タリ)2於|菟道《ウチ》河(ニ)1、武内(ノ)宿祢亦歌曰、
 
31 阿布瀰能瀰《アフミノミ》、
句、
 
齊多能和多利珥《セタノワタリニ》、
句、
 
介豆區苔利《カヅクトリ》、
以上三句、如2上(ニ)註(スルカ)1、
 
多那伽瀰須疑弖《タナカミスギテ》、
田上過而《タナカミスギテ》也、田上河は、近江(ノ)國栗本郡にて、宇治川の源也、万葉卷(ノ)一、【藤原(ノ)宮之、役民作歌、】磐走《イハハシノ》、淡海乃國之《アフミノクニノ》、衣手能《コロモテノ》、田上山之《タナカミヤマノ》、真木佐苦《マキサク》、檜乃嬬手乎《ヒノツマテヲ》、物乃布能《モノノフノ》、八十氏河尓《ヤソウヂカハニ》、玉藻成《タマモナス》、浮倍流礼《ウカヘナガセレ》、とあるもて、田上河、宇治(39ウ)河、一流なるを知るべし、
 
于※[方+尼]珥等邏倍菟《ウヂニトラヘツ》、
於《ニ》2宇治《ウチ》1捕都《トラヘツ》、田上より流れ來るを、宇治川におきて、とらへたり、といふ意なり、
 
十三年春二月丁巳(ノ)朔、甲子、命(シテ)2武内(ノ)宿禰(ニ)1、從(テ)2太子(ニ)1令(ム)v拜2角鹿笥飯《ツヌカケヒノ》大神(ヲ)1、癸酉太子至(レリ)v自2角鹿《ツヌガ》1、是日皇大后宴(ス)2太子(ヲ)於大殿(ニ)1、皇大后擧(テ)v觴、以(テ)壽《ホギタマフ》2于太子(ヲ)1、因以歌曰《ヨリテウタヒタマハク》、
 
32 虚能彌企破《コノミキハ》、
此神酒者《コノミキハ》也、みきは、上に辨《イヘ》り、
 
和餓彌企那羅儒《ワガミキナラズ》、
非《ナラズ》2吾神酒《ワガミキ》1也、この言も、上に出、
 
區之能伽瀰《クシノカミ》、
酒之神《クシノカミ》也、區之《クシ》は、酒の古名なるよし、上に辨《イヘ》り、さて區之《クシ》は、藥《クスリ》といふ言の、約にやあらむ、(40オ)さるは、崇神紀の歌に、引證《ヒキアカ》せる、古事記の、許登那倶志《コトナクシ》、惠倶志《ヱクシ》は、言和藥《コトナククスリ》、笑藥《ヱクスリ》といふ言と聞えたり、此考ども、こと長かれば、別に區志《クシ》の考、槻(ノ)落葉あり、披て見べし、
 
等虚豫珥伊麻輸《トコヨニイマス》、
常世尓座《トコヨニイマス》也、常世《トコヨ》といふ言は、古書にいとおほく見えたるを、宣長は三くさに解たり、【古事記傳に見えたり、】いと詳なるに似たれど、かへりては、古意ならじとおもふよしあれば、猶よく考べき也、常にかはらぬをいふ言と見て、おほかたは協へり、俗に相かはらずといふが如し、こゝも神代紀に、到2常世(ノ)國1矣、とある、國をさすにはあらで、今の世までも、かはらずおはしますといふこと也、
 
伊破多多須《イハタヽス》、
岩立爲《イハタヽス》也、延喜神名帳に、能登(ノ)國羽咋郡に、大穴持像石《オホナモチカタイシノ》神社、能登(ノ)郡、宿那彦《スクナヒコ》像石(ノ)神社あり、又常陸(ノ)國鹿嶋(ノ)郡、大洗礒前《オホアライソサキ》藥師菩薩(ノ)神社といへるも、石像におはしますよし、文徳實録に見えたり、上古大汝、少彦の二神は、石像にて、齋祠《イハヒマツ》れる事のあるを、岩たゝすとはいふなるべし、岩にてたゝすといふ言なり、
 
周玖那彌伽未能《スクナミカミノ》、
少御神之《スクナミカミノ》也、少彦名(ノ)神を称《マヲ》せり、私記(ニ)曰、少彦神、是(ハ)造酒神也、今有(リト)2其遺跡1云、この遺跡は、何処にありて、何《ナニ》をいふにやあらむ、私記書る頃までは、さる遺跡の傳(ヘ)ありと知られたり、今考る所なし、
 
等豫保枳《トヨホキ》、
豐壽《トヨホキ》也、豐《トヨ》(40ウ)は大の意にひとし、豐葦原を、大葦原ともいへり、【倭姫(ノ)世記に見えたり、豐布都(ノ)神、豐泊瀬などいへるは、全て大の意也、】保枳《ホキ》は、神代紀に、神祝々之、とある訓註に、加牟保佐枳保佐枳々《カムホサキホサキヽ》、とあり、其|保佐枳《ホサキ》の略語と聞ゆ、延喜式、大殿祭(ノ)祝詞の古註に、言壽、古語(ニ)云(フ)2許止保企《コトホキト》1、言壽(ノ)詞、如(シ)2今(ノ)壽觴之《サカホキノ》詞(ノ)1、と見えたり、同宮内省に宮内省|申《マヲサク》、大殿祭《オホトノホカヒ》、【此(ニ)云(フ)2於保登能保加比(ト)1、】供奉【牟止、】云云とある保加比《ホガヒ》は、この保枳《ホキ》を延たる言にて、是ももとは、保佐枳の轉語なることは、上に引る言どももて、知るべし、今の言に、人の多言なるを、ほさくといふも、則是也、さてその保佐枳は、褒栄《ホメサキ》にや、又は褒咲《ホメサキ》にや、花の咲《サク》といふも、発《ヒラ》くをいふ言なれば、言に発して、褒称《ホメタヽフ》る意にや、又|咲《サク》は、口を開(キ)て笑ふ意にや、よく考べし、
 
保枳茂苔陪之《ホキモトホシ》、
祝廻志《ホキモトホシ》也、もとほるは、廻《メグ》るの古言なり、万葉卷(ノ)四に、磐間乎《イハノマヲ》、伊徃回《イユキモトホリ》とあり、卷(ノ)十九には、大殿之《オホトノヽ》、此廻乃《コノモトホリノ》と、體言にもいへり、祝回《ホキモトホ》りといふ言也、又按に、神武紀の歌に、いひし如く、こゝのもとほしも、纏《マツ》はしにや、祝ひまつはりと、いはんが如し、
 
訶武保枳《カムホキ》、
神壽《カムホキ》也、
頭注、○古事記は、かむほぎ、ほきくるほし、とよほき、ほぎもとほし、と四句前後せり、
 
保枳玖流保之《ホキクルホシ》、
祝狂《ホキクルヒ》也、保之《ホシ》は、比《ヒ》の延言也、又は、狂《クル》はしの、轉語にやあらむ、
 
摩菟利虚辭弥企層《マツリコシミキソ》、
獻來神酒曾《マツリコシミキソ》也、少御神の、神代より奉り來りし、神酒ぞといふ意也、
 
(41オ)阿佐孺塢齊《アサズヲセ》、
不淺令食《アサズヲセ》也、あさすといふ言は、万葉卷(ノ)三に、久かたの、天の探女が、岩ふねの、泊《ハテ》し高津は、淺《アセ》にけるかも、と有は、深き水の、淺くなるをいふ言、後の歌に、色のあする、或はあせといへるも、深き色目の、淺くなるを云ことなるをむかへて、こゝも凡《オホ》ならず、深くおもほしめして、飲ませといふ意と心得べし、さて飲を、をすといへるは、万葉卷(ノ)四に、古人乃《フルヒトノ》、今食有《イマモヲヤラフ》、【をやらふは、食《ヲシ》やる也、】吉備《キミ》の酒《サケ》、云云と見えたり、彼解にいふをも、併按べし、
 
佐々《サヽ》、
是も、上崇神紀の歌にいふが如く、唱《ウタ》ふにつけて、拍子を助けんために添る聲にもやあらむ、上のもうたげの歌、こゝもしかなれば、むねと謠《ウタ》ふによりて、この言を添るにや、又は、しかゝゝをつゞめたる歟、そも崇神紀の歌にいへり、
頭注、○又按に、佐々《サヽ》は、酒を勸る言にもやあらむ、酒の異名を、佐々《サヽ》といふも、かゝる言よりや出つらむ、
 
武内(ノ)宿禰、爲2太子1答歌之曰《コタヘウタツカヘマツラク》、
 
許能彌企塢《コノミキヲ》、
如(シ)2上註1、
 
33 伽彌鷄武比等破《カミケムヒトハ》、
將v釀人者《カミケムヒトハ》也、釀《カミ》の事も、上に出、
 
曾能菟豆彌《ソノツヅミ》、
其啜實《ソノスヾミ》也、これを旧説に、鼓《ツヾミ》とすれど、上にその言なくて、其《ソノ》鼓《ツヾミ》とは、いふべくもあらねば、信《ウケ》かたし、【そのとは、(41ウ)上をうけたる、言なれば也、】故かにかくおもひめくらせる趣を、こゝに挙て、後人のさだを俟んとす、そのひとつは、啜實《スヾミ》にや、【須《ス》と都《ツ》との通ふ例は、上に出せり、】啜《スヾ》は、倭姫(ノ)世記に、味酒《ウマサケ》鈴鹿《スヽカ》とつゝきたる味酒《ウマサケ》は、糟米《カスゴメ》の酒にて、啜起《スヽキ》とかゝる、發語にや、【紀《キ》は、區之《クシ》の約にて、酒をいふ、紀《キ》と加《カ》は、通音なり、】万葉卷(ノ)五に、糟湯酒《カスユサケ》、宇智須々呂比弖《ウチヽスロヒテ》、といひ、古事記應神(ノ)條に、知v釀v酒(ヲ)人名(ハ)仁番、又(ノ)名(ハ)須々許理等参來《スヽコリラマヰキタレリ》也、とある須々許理《スヽコリ》は、啜酒折《スヽキヲリ》なるべくおもへば、【折は、八塩折の酒などいへる、折なり、】都々美《ツヽミ》は、啜実《スヽミ》にて、酒の実《ミ》をいふにやとおもへり、【実《ミ》は、滓《カス》をいふ言のよしは、既に云、】ふたつには、菟豆《ツヽ》は、万葉卷(ノ)五に、堅塩乎《カタシホヲ》、取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》とあるは、つゝきを、延たる言と聞え、同卷(ノ)十六に、かしまねの、机の島の、小螺《シタヽミ》を、伊拾持來而《イヒロヒモチキテ》、石持都々伎破夫利《イシモチツヽキヤブリ》、とある都々伎《ツヽキ》にて、麹《カムダチ》に造りし酒の実を、都々支、碎《タタキ》て、臼《ウス》に釀《カモ》するをいふにや、みつには、中古以來酒造には、水と米と麹とを合せて、加伊もて搗《ツク》といへば、搗実《ツキミ》といふ言にや、【搗《ツキ》は、則つゝきの略語と聞ゆ、】よつには、酒を釀たる滓《カス》を、伊勢の一志郡にては、止米《トメ》といふといへり、止米《トメ》は、都米《ツメ》にて、都麻里《ツマリ》の約言、つまりは、留《トマリ》の古言也、【祝詞の神留座を、續紀宣命には、神積坐《カムツマリマス》と有、神祇官八神殿の、玉留魂を玉積《タマツメ》魂とも書たり、】さるを、止々麻利《トヾマリ》ともいへば、都豆実《ツヾミ》は、止々末利実《トヽマリミ》にて、是も酒の実《ミ》をいふ言にもや、とおもへり、この四くさの考、いづれよけむ、後人そのよきをとりね、
 
于輸珥多弖々《ウスニタテヽ》、
臼尓立而《ウスニタテテ》也、臼《ウス》とは、酒を釀《カモ》する器にや、(42オ)下仁徳紀の歌に、豫區周珥《ヨクスニ》、伽綿蘆於朋瀰枳《カメルオホミキ》、とあるも、横臼《ヨコウス》に、所釀大御酒《カメルオホミキ》、と、云ことゝ聞ゆ、【延喜式、造酒の器の中に、臼ありさる類ならむ、】さて多弖々《タテヽ》は、その臼に入るゝをいふにや、今も茶を入る袋を、茶だてといへり、その餘《ホカ》何には、入を立《タツ》といひし事有しが、わすれたりき、
 
于多比菟々《ウタヒツゝ》、
謡乍《ウタヒツゝ》也、酒を造るはじめにも、うたひ舞て造れるにや、上古のさまならむ、
 
伽彌鷄梅伽墓《カミケメカモ》、
將v釀哉《カミケムカモ》也、古事記には、迦美祁禮加母《カミケレカモ》とありて、次に、麻比都々《マヒツヽ》、加弥祁礼加母《カミケレカモ》の二句、そはりたり、
 
許能彌企能阿椰珥《コノミキノアヤニ》、
此神酒之文尓《コノミキノアヤニ》也、あやには、今の世、妙《メウ》にと、字音にいふが如し、万葉集中に、多き辞也、古事記は、阿椰尓《アヤニ》の上に、美岐能《ミキノ》三字あり、しからば、五言六言二句とすべし、
 
于多娜濃芝《ウタダヌシ》、作沙《ササ》、
宴樂作沙《ウタゲタヌシキサヽ》也、一本作(ル)2枳沙《キサニ》1、宴を、宇多祁《ウタゲ》といふ訓《ヨミ》は、紀中に見えたり、室賀《ムロホキ》の御詞に、拍上賜《ウチアケタマフ》、とある是也、彼御詞の解にいふを見べし、今はうたげの、祁を略《ハブ》けり、下の作沙《サヽ》は、上の歌に同じ、一本の枳沙《キサ》の沙《サ》は、崇神紀の、伊句臂佐《イクヒサ》の佐《サ》と、同例とすべし、
頭注、○枳沙《キサ》の枳は、たぬしきと、上に屬《ツク》きなり、沙《サ》はそへ言なるなり、既にいふが如し、
 
(42ウ)第十卷 譽田《ホムタノ》天皇【八首、應神天皇、】
 
六年春二月、天皇|幸《イテマシテ》2近江(ノ)國(ニ)1、至(マシテ)2菟道野上《ウヂヌノヘニ》1、而歌之曰《ウタヒタマヘラク》、
 
古事記は、御2立(シテ)宇遲野《ウヂヌノ》上(ニ)1、望《ミサケテ》2葛野(ヲ)1歌之曰《ウタヒタマハク》、とあり、
 
34 知婆能《チバノ》、
千葉能《チハノ》也、蔓《カツラ》にかゝる發語と、師の冠辞考に見えたり、葉《ハ》の繁きを、千葉《チハ》といはむ事、いかにぞやおもへど、今考なければ、暫師説によれり、万葉卷(ノ)廿に、知婆《チバ》の奴《ヌ》の、古乃弖加之波能《コノテカシハノ》、とあるは、下總(ノ)國の郡名にて、そこの野をいへるなり、
 
伽豆怒塢弥例麼《カツヌヲミレバ》、
葛野《カヅヌ》を見者《ミレバ》也、和名抄、山城國、葛野、【加止乃《カトノ》】と見えたり、こゝに加豆《カヅ》とあるは、加豆良《カツラ》の下略にて、豆《ツ》と度《ト》は通音也と、師説なり、
 
茂々智※[人偏+嚢]蘆《モモチダル》、
百煤垂《モヽスシタリ》也、延喜式大殿祭の祝詞に、天血垂《アマノチタリ》、飛鳥能《トフトリノ》、禍無久《ワサハヒナク》、とあるも、煤垂《スシタリ》にて、是と同言也、【天《アマ》とは、炊烟のかゝる所を、今の世、阿麻《アマ》といふ、是にやと、宣長がいへるによるべし、】さて煤を、須志《スシ》といふは、万葉卷(ノ)十一に、難波人《ナニハヒト》、葦火燒屋之《アシヒタクヤノ》、酢四手雖有《スシテアレド》、とあり、須志《スシ》の約は、志《シ》なるを、知《チ》に轉《ウツ》したる言也、又この知《チ》を、登《ト》に轉して、(43オ)登※[こざと+施の旁]流天之新巣之凝烟之八拳垂摩底燒擧而《トタルアマノニヒスノススノヤツカタルマテタキアケテ》、云云と古事記に見えたり、煤垂《スシタ》るは、家の富榮るしるしなれば、称辭《タヽヘコト》とせり、
 
夜珥波母弥喩《ヤニハモミユ》、
家庭毛所見《ヤニハモミユ》也、庭《ニハ》とは、家の立並たる、平原の地を、いふ、言のよしは、万葉卷(ノ)三別記、倭(ノ)國号の解に、委しくいへり、併(セ)考べし、
 
區珥能朋母弥喩《クニノホモミユ》、
國之秀毛所見《クニノホモミユ》也、朋《ホ》とは、神武紀に、秀嬬國《ホツマクニ》とある秀《ホ》にて、褒《ホメ》、祝《ホサキ》の保《ホ》に同じく、秀《ヒデ》たるを云ことゝ聞ゆ、又按に、上に見えたる、摩保邏麼《マホラバ》の、ほらの略にて、平《ヒラ》地の意にや、この葛野は、今の平安の京の地にして、山城の國内《クヌチ》にして平原のよろしき地なれば、徃昔も、家居の多かりけむ、日本紀畧、延暦十三年の詔にも、葛野大宮地《カトヌノオホミヤトコロハ》、山川《ヤマカハモウルハシク》、四方百姓《ヨモノオホミタカラノ》、参出事《マイツルコトモ》、便之※[氏/一]《タヨリシテ》、云云と見えたり、
 
十一年是歳有v人奏之曰、日向(ノ)國(ニ)有2孃子《ヲトメ》1、名(ヲ)髪長媛(ト云)、即(チ)諸縣(ノ)君|牛諸井之《ウシモロヰガ》女也、畧、十三年春三月、天皇遣(シテ)2專使《ヒタツカヒヲ》1、以|徴《メシタマフ》2髪(43ウ)長媛(ヲ)、
爰(ニ)皇子|大鷦鷯《オホサヽキノ》尊、及v見2髪長媛(ヲ)1、感《メテヽ》2其形之美麗《ソノカホノカホヨキニ》1、常(ニ)有(リ)2戀情《シヌブルミコヽロ1》、於v是天皇知(メシテ)3大鷦鷯(ノ)尊(ノ)感(タマフヲ)2髪長媛(ヲ)1、而|欲《オモホセリ》v配(サムト)、是以天皇宴2于後宮1之日、始(テ)喚(テ)2髪長媛(ヲ)1、因(テ)以|上2坐《ハベラシム》於宴席(ニ)1、時(ニ)※[手偏+爲]《メシテ》2大鷦鷯(ノ)尊(ヲ)1、以指(タマフ)2髪長媛(ヲ)1、乃|歌之曰《ウタヒタマハク》、
 
35 伊奘阿藝《イサアギ》、
如(シ)2上註1、古事記には、伊邪古杼母《イサコドモ》とあり、是をもて、いまも阿藝《アキ》は、阿誤《アゴ》にひとしく、相したしむ意なるを、知べし、
頭注、○藝《ギ》は、君《キミ》の略なる事、上にいへり、君《キミ》は、いにしへ君より、臣をさしても、朋友互にも、又妻をさしても、いふ称にて、相したしむ辞なり、
 
怒珥比蘆菟彌珥《ヌニヒルツミニ》、
於《ニ》v野《ヌ》蒜採尓《ヒルツミニ》也、和名抄(ニ)云、蒜、【音※[竹/弄]、和名、比流】葷菜也、又陶隱居本艸註(ニ)云、小蒜、【和名古比流、一名(ハ)、女比流、】生v葉(ヲ)(44オ)時可2※[者/火](テ)食1v之、と見えたり、菟弥《ツミ》は、摘採《ツミト》る也、万葉卷(ノ)七に、爲v君《キミカタメ》、浮沼乃池乃《ウキヌノイケノ》、菱採《ヒシツム》と、とありて、採を、つむとも、とるとも、よみたり、蒜は、食料なれば、かく詔へるなり、古事記は、奴珥《ヌニ》の、にの字なし、
 
比蘆菟弥珥《ヒルツミニ》、
如(シ)2上註1、
 
和餓喩區濔智珥《ワガユクミチニ》、
我行道尓《ワガユクミチニ》也、古事記は、尓《ニ》を能《ノ》とせり、
 
伽遇破志《カグハシ》、
香細《カグハシ》也、くはしの言は、上に云、はなぐはし、なぐはしなど、皆同し、
 
波那多智麼那《ハナタチバナ》、
花橘《ハナタチバナ》也、、もとこなたにある橘は、今の深山柑子《ミヤマカウジ》といふものにて、【又は今|仙了《センリヨウ》と称《イヘ》るものかとも、おもはる、】その実こそ、うるはしけれ、花は見るめもなきものなる事、常世國《トコヨグニ》より、持來し橘は、花さへ実さへといひて、殊に花は香ぐはしく、めでたければ、花橘とは、名づけたりけむ、さてその花橘は、蜜柑といへる、柑子にこそあらめ、古事記は、下に波《ハ》の字添たり、
 
辭豆曳羅波《シヅエラハ》、
下枝等者《シツエラハ》也、らは、助辭なり、
 
比等未那等利《ヒトミナトリ》、
人皆取《ヒトミナトリ》也、この皆は、人皆《ヒトミナ》と、上に属《ツケ》て心得べし、万葉卷(ノ)二に、人皆者《ヒトミナハ》、今者長跡《イマハナカシト》、多計登雖云《タケトイヘト》、とある人皆《ヒトミナ》也、橘を、皆取と、いふ意にはあらず、
 
保菟曳波《ホツエハ》、
最末枝者《ホツエハ》也、万葉卷(ノ)十三に、橘末枝乎過而《タチバナノホツエヲスキテ》、卷(ノ)十九に、青柳乃《アヲヤキノ》、保都枝與治等利《ホツエヨチトリ》、など見えたり、
頭注、○この卷(ノ)十三の、橘末枝の歌、近考有、末枝の字、誤字なるべくおほゆ、
 
等(44ウ)利委餓羅辭《トリヰガラシ》、
鳥居令枯《トリヰカラシ》也、上の人皆に對へて、鳥居《トリヰ》といへり、群鳥《ムラトリ》の居《ヰ》つゝ、踏からしたりといふ意、万葉卷(ノ)十八、橘の歌に、波都波奈乎《ハツハナヲ》、延太尓多乎理弖《エダニタヲリテ》、乎登女良尓《ヲトメラニ》、都刀尓母夜里美《ツトニモヤリミ》、之路多倍能《シロタヘノ》、蘇泥尓毛古伎礼《ソデニモコキレ》、香具播之美《カグハシミ》、於伎弖可良之美《オキテカラシミ》、云云とあるを、こゝに引合て考るに、人皆取といへるは、花を折取にて、子《ミ》を取にはあらず、万葉の、枝に手折て、といふにあたれり、鳥居からしも、花の枯《カラス》にて、於伎《オキ》て令枯見《カラシミ》、といふにあたれり、惣て花を称《イヘ》る歌なるは、初に花橘と、いひ出給へるにて、知るべし、古事記は、比等未那等利《ヒトミナトリ》を、比登々利加良斯《ヒトトリカラシ》とし、はじめの二句、後の二句と前後せり、併見べし、
 
濔菟愚利能《ミツグリノ》、
三栗之《ミツグリノ》也、中といふにかゝる發語、師の冠辞考に詳なり、
 
那伽菟曳能《ナカツエノ》、
中都枝之《ナカツエノ》也、
 
府保語茂利《フホゴモリ》、
含隱《フホゴモリ》也、万葉卷(ノ)十四に、由豆流波乃《ユヅルハノ》、布々麻留等伎尓《フヽマルトキニ》、とあるを、卷廿に、知波乃奴乃《チバノヌノ》、古乃弖加之波能《コノテガシハノ》、保々麻禮等《ホヽマレド》、とありて、保《ホ》と府《フ》と、相通へり、是を女の深窓に在て、男せぬほどを、橘の中つ枝に隱《コモ》りて、ふゝめるに譬給へる也、【含とは、花にていふ言にて、子《ミ》をいふ言ならず、】万葉卷(ノ)四に、大伴家持の、藤原(ノ)久須麻呂に贈れる歌に、浦若《ウラワカ》み、花|咲《サキ》がたき、梅を殖て、人言繁み、おもひぞわがする、【是は家持卿の、家にありける童女を、久須麻呂のいひより給へりしを、家持卿の、いひあつかはれける歌と聞ゆ、】(45オ)といふ歌の、久須麻呂の答に、春雨を、待とにしあらし、吾やとの、若木の梅も、いまたふゝめり、とあるは、久須麻呂の、自のうへを、梅に譬て、いまた情を不v發、そなたの催を待て、心に含《フヽミ》て、戀つゝあるとの意也、【彼卷の解を、披見べし、】又卷十九に、梅花《ウメノハナ》、咲有中《サケルガナカ》に、布敷賣流《フヽメル》は、戀哉許母礼留《コヒヤコモレル》、雪を待とか、かくざまによめる歌おほかるは、皆男女のかたらひの、いまだならぬを、花の含めるに、譬たる也、古事記には、この句を、本都毛理《ホツモリ》とせり、己(レ)初めおもひけるは、※[草冠/帝]守《ホツモリ》にて、今の言に、木守《キマモ》りといふに同じく、橘の子《ミ》の、※[草冠/帝]《ホツ》に殘りたるを、いふ言とおもへりしは、【和名抄に、熟瓜、和名保曾知とあるは、※[草冠/帝]落《ホツオチ》の意と聞えたり古事記にも、如2熟瓜(ノ)※[手偏+艮]折1、といへり、】まだしかりけり、含《フホ》つ隱《ゴモ》りの略語か、または、含《フホ》つ守《マモ》りにて、女の男せず、まもりをるを、いふなるべし、
頭注、○續日本紀、天平八年十一月(ノ)條に云、橘(ハ)者果子之長上、人所v好、柯(ハ)凌(キ)2霜雪(ヲ)1繁茂(シ)、葉(ハ)經寒暑(ヲ)而不v凋、與2珠玉1共競光、交2金銀(ヲ)1以逾v美、云云、この交2金銀(ヲ)1といへるは、枕草子に、花の中より、子《ミ》のこかねの玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたる、云云といへるに同じく花の白き中に去年の實《ミ》の殘れるが、金の色なるを、交(フ)2金銀1とはいへるなるべし、然らばいよ/\、本都毛理《ホツモリ》は、※[草冠/帝]守《ホツモリ》にて、中つ枝に、去年の實《ミ》のこもりて、殘れるを云ことゝすべけれど、初に花橘といひ出、中らに含隱《フホコモリ》といひ、終《ハテ》にさかはえなといへる、みな實《ミ》としては、よしなし、かへす/”\も、花をよめる歌とおもはるれば、今按を註しつるぞ、よく考へて、おもひ明らむべし、
 
阿伽例蘆塢等※[口+羊]《アカレルヲトメ》、
所v明少女《アカレルヲトメ》也、女のうるはしきをいふ、是(ハ)橘の子《ミ》の熟して、照有《テレル》を、紅顔の少女に、譬給へる言ぞと、おもへりしかど、【古事記の本都毛利を、※[草冠/帝]守《ホツモリ》としては、こゝも実《ミ》とすべけれど、】含隱は、花にてこそいふべけれ、子《ミ》に含《フヽム》といふ言の、あるべくもあらねば、子《ミ》とおもへりしは、あらざりけり、万葉卷(ノ)十八に、太上天皇、御2在於難波(ノ)宮(ニ)1之|時《トキノ》歌七首、と題して、在(テ)2於左大臣橘卿之宅(ニ)1肆宴御歌、并(ニ)奏歌也、とあるが中に、多知波奈能《タチハナノ》、之多泥流尓波尓《シタデルニハニ》、等能多弖々天《トノタテヽ》、云云、又|都奇麻知弖《ツキマチテ》、伊敝尓波由可牟《イヘニハユカム》、 和我佐世流《ワガサセル》、安加良多知婆奈《アカラタチハナ》、可氣尓見要都追《カケニミエツヽ》、この二首の志多(45ウ)泥流《シタテル》は、赤照にて、【赤きをしたといふ言、秋山のしたべる妹、山したの赤のそほふねなど、みな赤きを云、】安可良多知婆奈《アカラタチハナ》は、子《ミ》の照れるをいふ言と、まつは思ふめれど、其次の歌に、御舩以2綱手(ヲ)1泝(テ)v江(ニ)遊宴之日、作也、とて、奈都乃欲波《ナツノヨハ》、美知多豆多豆之《ミチタツタツシ》、布禰爾能里《フネニノリ》、可波乃瀬其等爾《カハノセコトニ》、佐乎左指能保禮《サヲサシノボレ》、とありて、夏の行幸なるに、實《ミ》を賞んは、時節《ヲリ》違へり、【枕冊子に、葉のこく青きに花のいと白く咲たるに、雨のふりたる、つとめてなどは、世になく、心あるさまにをかし、花の中より、みのこがねの玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたる、云々とあるは、去年の實《ミ》の殘りたるを、いへる言と聞ゆ、古事記の本都毛利を、※[草冠/帝]守としては夏ながらも、子をよめる歌ともすべけれど、此紀の、ふほごもりは、子にてはかなはす、また夏の行幸に、花をおきて殊更に實《ミ》を賞べきならねば、かにかく志多泥流も、あからも、子《ミ》をいふにはあらじと、おもひなりぬ、】故考るに、志多泥流《シタテル》は、下照にて、いと白く咲たる花の、庭までに照れるをいふ、【白きにも、にほふとも、てるとも、いへる例、萬葉中に多し、】下照姫《シタテルヒメ》といふ神(ノ)名も、下つ國に、照れる意なるをおもへ、さてあからたちはなも、花の白く清く、明らかなるをいふなるべし、【持統紀に、輸2其二神郡|赤《アカラ》引(ノ)絲三十五斤(ヲ)1、とあるは延喜大神宮式にも見えて、赤引は、赤色の事にはあらず、清くて明らかなるを、いふ言也、その餘あからといふは、明白をいふなる證、古書に多し、】しからばあかれる少女《ヲトメ》も、容儀スガタ》のうるはしく、映《テレ》有にこそあれ、
 
伊弉佐伽麼曳那《イザサカバエナ》、
率將咲耀《イササキハエナ》也、那《ナ》は、例の由可那《ユカナ》、阿波奈《アハナ》の奈《ナ》にて、榮《サカエ》んといふ言なり、佐可延《サカエ》は、則この咲耀《サキハエ》の略語、萬葉卷(ノ)十八に、【橘の歌、】常磐奈須《トキハナス》、伊夜佐伽波延爾《イヤサカハエニ》、とあるは、常磐《トキハ》に榮《サカユ》るをいふなるべけれど、【さくとは、花のみにいふ言ならず、上にいへる祝《ホサキ》のさき、また中むかしの言に、生さきなどいふさきは、何にまれ、ふゝめるものゝ、發するをいふ言なり、】こゝはかの含《フヽメ》る花の、咲耀《サキハエ》るがごとく、(46オ)この孃子《ヲトメ》を、皇子(ノ)命にあはせまさむとの御言也、含といふにむかへて、咲《サク》とは、皇子命に、配給はんとの意なるは、上にいへる言どもを、よく味へて知るべし、古事記には阿迦良袁登賣袁《アカラヲトメヲ》、伊奈佐々婆余良斯那《イナサヽハヨラシナ》、とあり、あからをとめをは、上に註が如し、伊奈佐々婆《イナサヽバ》は、刺寐者《イネサヽハ》也、刺寐《サシネ》るといふ言を、上下にいへる言と聞ゆ、寐を、那《ナ》といへるは、万葉卷(ノ)二に奈世流君香聞《ナセルキミカモ》、とあり、ねませる君哉、といふ言也、その餘、集中に猶あり、刺《サス》とは二人相並ぶをいふ言にて、今も夫婦ゐるを、刺《サシ》むかひ、二人して荷ふを、刺荷《サシニナ》ひなどいふめり、古言にも、刺並《サシナミ》といふ言あり、余良斯《ヨラシ》は、吉有斯《ヨカラシ》也、さしねばよくあらし、といふ意、終《ハテ》の那《ナ》は、助語也、延佳本には、伊邪佐々婆《イザサヽバ》とあり、邪《サ》は、那《ナ》の誤にや、結句古印本には、尓良斯奈《ニラシナ》とあり、是は廷佳本の是《ヨキ》に似たれば、暫彼に依りつ、
 
於v是|大鷦鷯《オホサヽキノ》尊、蒙(テ)2御歌(ヲ)1、便(チ)知《シロシメシテ》v得2賜《タマフコトヲ》長髪姫(ヲ)1而|大悦之報歌曰《イタクヨロコホヒテカヘシウタ奉リタマハク》、 古事記には、又御歌曰とありて、是をも、應神の大御歌とせり、その傳(ヘ)異なり、つら/\御歌の意を考るに、古事記のつたへのよきに似たり、されど此紀を宗《ムネ》として、今は注せり、
 
(46ウ)36 彌豆多摩蘆《ミヅタマル》
水渟《ミヅタマル》也、池にかゝる發語、萬葉卷(ノ)十六に、水渟《ミヅタマル》、池田乃阿曾《イケタノアソ》と云へり、
 
據佐瀰能伊戒珥《ヨサミノイケニ》
依網之池爾《ヨサミノイケニ》也、崇神紀六十二年冬十月、造(ル)2依網(ノ)池(ヲ)1、と見えたり、【古事記は、仁徳の條に、作2丸爾《ワニノ》池、依網(ノ)池(ヲ)1、とあり、】和名抄、住吉(ノ)郡、大羅、【於保與佐美、】あり、池は、住吉の巽方に有と、契冲いへり、
頭注、○古事記は、珥《ニ》を能《ノ》として、次に二句あり、そは下註にいふ、
 
奴那波區利《ヌナハクリ》
蓴菜絡《ヌナハクリ》也、絡《クリ》とは長きものを、くり寄(ス)るをいふ、萬葉卷(ノ)七に河内女《カハチメ》の、手染《テゾメ》の糸を、くり反《カヘシ》といひ、卷(ノ)十五に、君がゆく、道の長手を、くりたゝね、ともいへり、後の歌に、あまの繩たき、とあるたきも、手絡《タグリ》の約言也、ぬなはは、ぬる/\として、長ければ、奴繩《ヌナハ》といひ、繩といふより、絡《クル》とは云也、さてこゝまては、延《ハヘ》けくと詔《ノタマハ》はんとての、序也、
 
破《ハ》陪《ヘ・マ》鷄區辭羅珥《ケクシラニ》、
延氣久不知《ハヘケクシラニ》也、延《ハヘ》は、長きものを、引延《ヒキノバ》へるをいふ、古事記に、栲繩之千尋繩打延《タクナハノチヒロナハウチハエ》、爲釣海人《ツリスルアマ》云々、今も海人の言に、釣《ツリ》を下すを、長繩《ナガナハ》を延《ハヘ》るといへり、氣久《ケク》は、氣牟《ケム》などの類の語《コトバ》也、けむは、凝意也、氣久《ケク》は、治定の詞也、さてかく詔ふ意は、萬葉卷(ノ)九に、宍串呂《シヽクシロ》、黄泉爾待跡《ヨミニマタムト》、隱沼乃《コモリヌノ》、下延置而《シタバヘオキテ》、とあるは、心を延置《ハヘオク》也、【吾下延乎《ワカシタハヘヲ》、なといへる言も有、】 この延《ハヘ》にて、髪長姫《カミナガヒメ》を、阜子(ノ)命に配《アハシ》まさんと、かねて天皇の大御心に、下廷置《シタハヘオキ》給へりともしらず、といふ意也、不v知を、しらにといふは、古言、上に出、古事記は、此二句の(47オ)上に韋具比字知賀佐斯祁流斯良爾《ヰクヒウチカサシケルシラニ》といふ二句あり、堰杙打者《ヰクヒウツモノ》が、菱穀《ヒシガラ》に刺《サス》といふ意につゝけたるにや、賀《ガ》の言、おだやかならず、よく可v考、
 
委遇比菟區《ヰクヒツク》、
堰杙就《ヰクヒツク》也、就《ツク》は、加茂豆久《カモヅク》、三諸就《ミモロツク》のづくにて、輕く見べし、古事記輕(ノ)皇子の御歌に、こもりくの、はつせの河の、賀美都勢尓《カミツセニ》、伊久比袁宇知《イクヒヲウチ》、斯毛都勢尓《シモツセニ》、麻久比袁宇知《マクヒヲウチ》、とあるは、伊《イ》も、麻《マ》も、添言なるを、こゝは委遇比《ヰグヒ》とあれば、堰手《ヰテ》の杭《クヒ》をいふ也、是は河股江《カハマタエ》を、いひ出給はむ、發語なり、
頭注、○古事記には、委遇比菟區《ヰクヒツク》より下、四句なし、
 
伽破摩多曳能《カハマタエノ》、
河股江《カハマタエ》也、延喜神名帳に大和(ノ)國、高市(ノ)郡、河俣(ノ)神社あり、このところかといへど、依網(ノ)池とよみ合(セ)給へる御歌に、國の異《コト》なるは、いかにぞやおぼゆる、是も决《キハメ》て、津の國なるべき也、猶よく可v尋、頭注、○古事記仁徳(ノ)條、作(ル)2依網池(ヲ)1の下に、又堀2薙波(ノ)堀江(ヲ)1、又堀(ル)2小椅江(ヲ)1とあれば、是等の江の、川俣になれる所の、名と聞えたり、
 
比辭餓羅能《ヒシカラノ》、
菱穀乃也《ヒシガラノ》也、菱《ヒシ》は、いにしへ人の、食料とせしゆゑ、古歌には、多くよみ出でたり、上にも引たる、萬葉卷(ノ)七に、君がため、浮沼の池の、菱《ヒシ》採《ツム》と、とある是なり、古事記應神(ノ)條の大御歌に、波那美《ハナミ》は、志比比斯那須《シヒヒシナス》、とあるは、齒並《ハナミ》の、椎《シヒ》の實《ミ》、菱《ヒシ》の實《ミ》の白く、麗《ウルハ》しきが如くと、譬給へる也、菱《ヒシ》の穀《カラ》に刺《ハリ》あれば、こゝまでは佐辭《サシ》と詔はんとての序なり、
 
佐辭鷄區辭羅珥《サシケクシラニ》、
差氣久不知《サシケクシラニ》也、差《サシ》は依佐之《ヨサシ》、志《コヽロサシ》の、佐志《サシ》にて、天皇のかねて皇子(ノ)命に配せんと、御心ざしの有けるを、知(47ウ)らずといふ意也、けく、しらには上にいふが如し、
 
阿餓許居呂辭《アガココロシ》、
吾心之《アガココロシ》也、古事記は、和我《ワガ》とありて、辭《シ》の下に、叙《ソ》の字あり、辭《シ》叙《ソ》は、共に助語なり、
 
伊夜于古珥辭弖《イヤウコシニテ》、
彌癡爾爲而《イヤウコシニテ》也、此の于古《ウコ》は愚《オロカ》の轉語にや思へど、古言に烏《ヲ》は、多く于《ウ》に通へど、【古事記に、袁許《ヲコ》とあり、虚言《ウソ》を、乎曾《ヲソ》、兎《ウサギ》を、烏佐藝《ヲサギ》といへる類、いとおほし、】於《オ》の于《ウ》に通ふ例は、いと少(ナ)ければ、【於牟賀斯《オムカシ》を、續紀の宣命に、宇牟賀斯《ウムカシ》、於波藝《オハギ》を、萬葉に于波藝《ウハギ》と有は、説あり、】しかにはあらじ、神代紀に、癡※[馬+矣]鈎此(ニ)云(フ)2于樓該※[貝+貳]《ウルケチ》1、と見えたる于樓該《ウルケ》は、今の言に、癡人を、于都氣者《うつけもの》といへる是なり、さては于古《ウコ》は、この于都氣《うつけ》の略轉にて、即癡※[馬+矣]の字にあたれり、吾|癡《ウコ》なるゆゑに、君の配《アハセ》給んと、おもほしめし給ふとも知らすて、戀つゝありしと詔へる意也、是を古事記の傳《ツタヘ》の如く、天皇の大御歌とせば、皇子(ノ)命の下延《シタバヘ》【慕也、】給ふをも知らず、こゝろざし給ふも不v知、此の孃子を、御自ら幸《メシ》給はんと思ほしめしゝは、癡※[馬+矣]《ウコ》心ぞと、詔へる意とすべし、
頭注、○古事記は、伊夜汗古《イヤウコ》云云の下、伊麻叙久夜斯岐《イマソクヤシキ》の一句あり、
 
大鷦鷯(ノ)尊|與《ト》2髪長媛1、既(ニ)得v交《マタヒタマヒテ》殷勤《ネモゴロナリ》、獨(リ)對(ヒテ)2髪長媛(ニ)1歌之曰《ウタヒタマハク》、
 
(48オ)37 瀰知能之利《ミチノシリ》、
道後《ミチノシリ》也、前後ある國は某《ナニ》の美知乃久知《ミチノクチ》、某《ナニ》の美知乃之利《ミチノシリ》と、和名抄に見えたり、日向は、前後なけれど、東の國の果《ハテ》を、陸奥《ミチノク》といふ類にて、日向も西《ニシ》の極《ハテ》なれば、しかいふかといへり、又古事記に、針間《ハリマヲ》爲2道(ノ)口(ト)1、といふをむかへて、前後なき國にも、道の口、道の後《シリ》といふ言のあるを、知べしといへり、
 
古波※[人偏+嚢]塢等綿塢《コハダヲトメヲ》、
是は、髪長《カミナガ》媛をいふ也、媛《ヒメ》は、日向(ノ)國、諸縣(ノ)君|之《ガ》女とあれば、諸縣(ノ)郡にて、生長《オヨツ》けるなるべければ、古波〓《コハタ》は、諸縣(ノ)郡の地名なるべしといへり、【山城(ノ)國にも、強田といふ地名のあれば也と云(ヘ)り、】久老按に、以上の説、いといぶかしき事あり、さるは道乃|後《シリ》といふは、上にいへりし如く、前後ある國にいふ稱《ナ》にて、萬葉卷(ノ)十一に、路後《ミチノシリ》、深津島山《フカツシマヤマ》、奥眞經而《オキマケテ》、云云とあるは、吉備《キヒ》の道後《ミチノシリ》にて、【備後國也、】彼國に、深津《フカツノ》郡あれば、そこの嶋也、日向(ノ)國には、前後なく、又西の極《ハテ》ともいふべからねば、【猶西に、國あれば也、】打まかせて、道《ミチ》の後《シリ》といはむ事いかゞ、また和名抄をはじめ、國郡郷の出たる書どもを考るに、日向(ノ)國に、古波〓《コハタ》といふ地名の出たるものなし、是しもさだかならねば、かへす/\も右の説どもは、いぶかしくなむ、今僻按をいはむ、瀰知能之利《ミチノシリ》は海驢之敷《ミチノシキ》にや、神代紀海神(ノ)宮の段に、舗2設《シキマケテ》海驢皮八重《ミチノカハヤヘヲ》1使v坐2其上1、と見えたるは、海神の饗應《ミアヘ》の、あかぬ事なきをいふ條なれば、海驢《ミチ》の皮は、敷氈《シキカモ》に、殊にめで(48ウ)たければかくはいへるなるへく、本草綱目にも、東海嶋(ノ)中出(ス)2海驢(ヲ)1、其皮(ハ)供v用(ニ)、と見え、谷重遠が説にも、海驢今産2北海(ニ)1、其皮|極軟《キハメテヤワラカ也》といへり、之利《シリ》といふは、敷《シキ》と同言也、延喜式祝詞の中に、宮柱廣知立《ミヤハシラヒロシリタテ》とも、太敷立《フトシキタテ》ともいへり、今|屋敷《ヤシキ》といふ敷《シキ》も、網代《アシロ》、苗代《ナハシロ》の代《シロ》も、皆|知《シリ》の意にて、そこを領知《シル》よしなれば、敷《シキ》と知《シリ》とは、同言同意なるを知べし、こゝは敷毳《シキカモ》の敷《シキ》なり、かくて古波〓《コハダ》につゞけたるは、和膚美女《ニゴハダヲトメ》といふ、爾胡《ニゴ》の言にかゝる、發語なるべし、【爾胡《ニゴ》の爾《ニ》を畧て、古波〓《コハダ》と云也、】萬葉卷(ノ)二に、玉藻成《タマモナス》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、靡相之《ナヒキアヒシ》、嬬乃命之《ツマノミコトノ》、多田名附《タタナヅク》、柔膚尚乎《ニコハダスラヲ》、と見えたり、こ柔膚《ニコハタ》を、師の、夜波々※[こざと+施の旁]《ヤハハダ》とよまれしは、非也、集中柔の言は、卷(ノ)二卷(ノ)三に、柔備《ニギヒ》、卷(ノ)十二に、柔田津《ニギタツ》と見え、假字には、卷(ノ)十一に、蘆垣之《アシカキノ》、中之似兒艸《ナカノニコクサ》、爾故余漢《ニコヨカニ》、卷(ノ)十四に、爾古具佐能《ニコグサノ》、卷(ノ)七に、爾古臭佐能《ニコクサノ》、爾古與可爾之母《ニコヨカニシモ》、とあり、然るに、卷(ノ)四には、蒸被《アツブスマ》、奈古也我下《ナゴヤガシタ》、とあれば、奈古《ナゴ》とも云にやとおもへれど、よく考れば、是は今本の誤にて、古事記に、牟斯夫須麻《ムシフスマ》、爾古夜賀斯多爾《ニコヤガシタニ》、と見えたれば、蒸は、むしと訓むべく、奈胡《ナコ》の奈《ナ》は、爾《ニ》の誤なるを知れり、右に所v擧もて、柔は、爾古《ニゴ》とよむべきを、明らめてよ、さてこゝは、若き女の、膚《ハダ》やはらけきを褒稱《ホメ》て、柔膚孃子《ニゴハタヲトメ》とは、云なるべし、
 
伽未能語等《カミノゴト》、
如雷《カミノコト》也、雷を、かみといふは、かしこみ懼《オヅル》る意、萬葉卷(ノ)三に、皇者《オホキミハ》、神爾西座者《カミニシマセバ》、とある解に、くはしくいへり、同(ク)卷(ノ)(49オ)十一に鳴神乃《ナルカミノ》、音《オト》のみやも聞きわたりなむ、といふ意にて、名高く、音《オト》に聞えし、といはむ料の序とせり、
 
枳虚曳之介※[しんにょう+西]《キコエシカド》、
雖v所v聞《キコエシカト》也、古事記は、加杼母《カトモ》と、母の字添たり、萬葉卷(ノ)十二に、如神《カミノゴト》、所聞瀧之《キコユルタキノ》、白波乃《シラナミノ》、面知君之《オモシルキミガ》、見えぬ此日《コノコロ》、此一二のつゞけにおなし、鳴神《ナルカミ》の如く、はろかに音にのみ、聞《キヽ》をりしかどもと云意、
 
阿比摩區羅摩區《アヒマクラマク》、
相枕纏《アヒマクラマク》也、まくとは、繼體紀に、伊暮我提嗚《イモガテヲ》、和例※[人偏+爾]魔柯絶毎《ワレニマカシメ》、とある魔區《マク》にて、纏《マツ》はすをいふ、こゝの相は、古事記允恭の條に、那都久佐能《ナツクサノ》、阿比泥能波麻《アヒネノハマ》、とつゞけたる阿比《アヒ》にて、今の言に、相互《アヒタガヒ》といふ相《アヒ》也、相思、相見しなど、輕く添たる相《アヒ》とは、いさゝか異也、心をつくべし、
 
又歌之曰《マタウタヒタマハク》、
 
38 瀰知能之利《ミチノシリ》、
如2上註1、
 
古破※[人偏+嚢]塢等綿《コハタヲトメ》、
如2上註1、古事記は、下に波の字あり、
 
阿邏素破孺《アラソハズ》、
不爭《アラソハズ》也、この爭といふ、言の意を考るに、荒競《アラキソフ》也、荒とは、神代紀に、荒振神《アラブルカミ》、萬葉卷(ノ)四に、荒振公爾《アラブルキミニ》、とあるは、天(49ウ)皇に疎《ウト》ぶる神、吾に疎ぶる君《キミ》といふ言なれば、あらそふは、疎び競《キソ》ふ意、こゝは、吾に疎ぶる事もなく、といふ意也、
 
泥辭區塢之叙《ネシクヲシゾ》、
寐容乎之曾《ネシクヲシゾ》也、此しくといふ言は、續紀宣命にも、萬葉にも、數多見えて、その形容《サマ》をいふ言也、玉《タマ》拾《ヒロヒ》しく、思有《オモヘリ》しくし、殿《トノ》しくも、などあり、玉《タマ》拾《ヒロ》ひしさま、思有《オモヘリ》しさま、殿のさま、といはむが如し、萬葉卷(ノ)四別記に、こと/”\くあけて、辨おけり、今も寐しさまをぞ、といふ意、塢之《ヲシ》の之《シ》は、助語なり、古事記は、叙の下に、毛《モ》の字そはりたり、
 
于蘆破辭瀰茂布《ウルハシミモフ》、
愛美思《ウルハシミモフ》也、うるはしむと、うつくしむは、同言なるよし、上にいへり、古事記は、意母布《オモフ》とあり、意《オ》を省くも、古言の常なり、
 
十九年冬十月戊戌(ノ)朔、幸《イテマス》2吉野(ノ)宮(ニ)1時、國※[木+巣]人來朝之《クズヒトマヰキタレリ》、因(テ)以2醴酒《ウマサケ》1、獻(リテ)2于天皇(ニ)1而|歌之曰《ウタヒツラク》、
 
古事記(ニ)云|於《ニ》2吉野|之《ノ》白檮上《カシノヘ》1、作(リ)2横臼《ヨクスヲ》1而《テ》於《ニ》2其横臼1、釀《カミ》2大御酒(ヲ)1、獻(ル)2其大御酒1之時《トキ》、撃(テ)2口皷(ヲ)1爲v伎(ヲ)而《テ》歌曰、云々、
 
(50オ)39 伽辭能輔塢《カシノフニ》、
橿之原爾《カシノフニ》也、輔《フ》は蓬生《ヨモキフ》、淺茅生《アサチフ》の生《フ》にて、それを、淺茅原《アサチハラ》ともいへり、菟原《ウハラノ》郡の男を、宇那比壯士《ウナヒヲトコ》といふ比《ヒ》も、即この生《フ》におなじ、【おひ、おふの、於《オ》を省くとも云へし、】今猶吉野に、橿《カシ》の尾《ヲ》といふ地有と、その國人云(ヘ)り、
 
豫區周塢菟區利《ヨクスヲツクリ》、
横臼乎造《ヨコウスヲツクリ》也、古宇《コウ》の約(メ)區《ク》也、初めに橿《カシ》の生《フ》とうたひ出たるは、この横臼《ヨクス》は、橿《カシ》もて造る故なるべし、横臼は、酒を釀《カメ》る器なるべきよしは、上應神紀の歌に辨《イ》へり、
 
豫區周珥《ヨクスニ》○如2上註1、
 
伽綿蘆於朋瀰枳《カメルオホミキ》、
所v釀大御酒《カメルオホミキ》也、古事記には、迦美斯《カミシ》とあり、是等の言も、上崇神紀の歌、應神紀の歌にいへるを、引合て見べし、
 
宇摩羅珥《ウマラニ》、
美飲爾《ウマラニ》也、顯宗紀の室賀詞に、於《ニ》2淺甕《サラケ》1釀酒美《カメルミキ》、美飲喫哉、此(ニ)云(フ)2宇麼羅※[人偏+爾]烏野羅甫屡柯佞《ウマラニヲヤラフルカネト》1、と見えたり、
 
枳虚之茂知塢勢《キコシモチヲセ》、
所聞以令v飲《キコシモチヲセ》也、聞《キク》も、食《ヲス》も、看《ミス》も、召《メス》も、大かたは同じ意にて、したしく身に、受《ウケ》入るゝをいふ言也といへり、さて飲を、をすといふ例は、萬葉卷(ノ)四の歌を、既に上に引たり、以《モチ》は、延喜祝詞に、持齋【波利】持淨【波利】《モチユマハリモチキヨマハリ》といへる持《モチ》にて、輕く助語と意得べし、
 
摩呂餓智《マロガチ》、
予之父《マロガチ》也、私記に、師説に、麻呂|者《ハ》自稱也とあり、繼體紀に、(50ウ)懿哉|麻呂古《マロコ》、示(セ)2朕心(ヲ)於八方(ニ)1、とあるは、勾(ノ)大兄(ノ)命をさして、詔《ノリ》ませる御言なれば、麻呂古《マロコ》は、予子《マロコ》にて、麻呂《マロ》は、天皇の御自稱也、その餘《ホカ》中昔のものには、麻呂《マロ》と自(ラ)稱《イヘ》る事、いとおほく見えたり、【土佐日記にも見え、うつほ、源氏にもいとおほかり】、智《チ》は、父《チ》といはむ如き、尊稱なり、神名に、彦舅《ヒコヂ》、手摩乳《テナツチ》などあり、父《チヽ》は、即この知《チ》を重ねたる、あがめ言、祖父を、おほぢといふ遅《ヂ》も是也、今は天皇をさし奉りて、國※[木+巣]人等《クスヒトラ》が、たゝへ申せる、尊稱なり、
 
歌之既訖《ウタヒヲハリテ》、則打v口以(テ)仰(キ)咲(フ)、今國※[木+巣](ノ)獻(ル)2土毛《クニツモノヲ》1之日、歌訖《ウタヒヲハリテ》即(チ)撃(テ)v口仰咲者、蓋(シ)上古(ノ)之|遺則《ノコレル》也、
 
二十二年春三月甲申(ノ)朔戊子、天皇幸(テ)2難波(ニ)1、居《オハシマス》2於大隅(ノ)宮(ニ)1、丁酉登(テ)2高台1而|遠望《ハルキアニミサケタマフ》、(51オ)時(ニ)妃《ミメ》兄媛《エヒメ》侍《ハベリ》之、望(テ)v西(ヲ)以大歎《イタクカナシメリ》、於v是天皇問(ヒ)2兄媛(ニ)1曰、何《ナゾ》爾《ミマシ》歎之甚也、對曰、近日《コノゴロ》妾《ワレ》有(リ)d戀(ル)2父母《オヤヲ》1之情u、便因(テ)2西(ヲ)望(ニ)1、自(ラ)歎《カナシメリ》矣、冀(クハ)※[斬/足](ク)還v之得《エテシ》v省v親(ヲ)歟《カ》、爰天皇愛(タマヒテ)3兄媛(カ)篤2温情之《オヤヲオモフコトノ》情1則謂之曰、爾《ミマシ》不v視2二親1既(ニ)經2多年1、還(テ)欲(ハ)2定省(ト)1於v理灼然、則聽v之、仍(テ)喚《メシテ》2淡路(ノ)御原之海人八十人(ヲ)1、爲(テ)2水手1、送(タマフ)2于吉備(ニ)1、夏四月兄媛自2大津1發v舩而往v之、天皇居(マシテ)2(51ウ)高台(ニ)1、望(テ)2兄媛之舩(ヲ)1以歌曰《ウタヒタマハク》、
 
40 阿波〓辭摩《アハヂシマ》、
淡路島《アハヂシマ》也、阿波の國へ行く、路の島なれば、名におべりと、云り、
 
異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、
禰二並《イヤフタナラビ》也、その島嶺の、二並に見ゆと、門人度會(ノ)正柯云(ヘ)り、
頭注、度會正柯神主は、毎年阿波に下りて、よくその地を知れり、
 
阿豆枳辭摩《アヅキシマ》、
小豆島《アヅキシマ》也、今讃岐の國に屬《ツケ》り、古事記の、國生《クニウミ》の條に見えたり、
 
異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、
如2上註1、この嶋も、二並に見ゆと、正柯云(ヘ)り、
 
豫呂辭枳辭摩之魔《ヨロシキシマシマ》、
宜島々《ヨロシキシマ/\》也、よろしとは、不足《アカヌコト》なきをいふ言ぞと、師の萬葉考にいはれし、上の二島の、二並なるを、不足なき島ぞと、ほめ給へるなり、島々は、淡路島と、小豆嶋となり、
 
※[人偏+嚢]伽多佐例《タカタサレ》、
誰令片去《タカタサラセ》也、誰を、多《タ》とのみいふは、吾を、和、或は阿《ア》とのみいふと、同例也、古事記雄略の大御歌に、多邇加母余良牟《タニカモヨラム》、とあるは、誰にかも將v依《ヨラム》なり、萬葉卷(ノ)十二に、久堅の、雨のふる日を、吾門爾、蓑笠不蒙而《ミノカサキズテ》、來有人哉誰《キタルヒトヤタ》、とあり、【今本に、くる人やたれ、とよみたれど、さては來の下の、有の字あまれり、且くる人とは、いふまじき歌也、】その例おほかるを、今わすれたれば、ひとつふたつを擧《アケ》つ、さて加多佐例《カタサレ》は、片さらせの、約言也、片去《カタサル》とは、(52オ)相並(ベ)るものゝ、一方去るをいふ言也、萬葉卷(ノ)四に敷細の、枕片去、卷(ノ)十八に、夜床加多佐里、【今本左を、古に誤れり、】二並にならびませし妹を、誰が片去《カタサ》らしめし、と詔ふ意なり、
 
阿羅智之《アラチシ》、
荒之々《アラシヽ》也、萬葉卷(ノ)四に、筑紫ぶね、いまだもこねば、豫《アラカシメ》荒《アラ》ぶる公《キミ》を、見るがかなしさ、この荒振《アラブル》は、われを疎びて、離行《サカリユク》をいふ言、神代紀の、荒振|神等《カミタチ》も、天皇に、疎び放《サカ》り奉る神をいへり、されば荒とは、疎び放るの意、知之《チシ》は、しゝの轉語にて、安見之《ヤスミシ》々の、しゝに同じかるべし、
 
吉備那流伊慕塢《キビナルイモヲ》、
吉備在妹乎《キビナルイモヲ》也、今吉備の國にある、妹との給ふにはあらず、兄媛は、もと吉備《キビ》人なれば、吉備《キヒ》の妹《イモ》との給ふ意にて、なるは、いと輕く添たる言也、後の言にも、この例あり、心得おくべし、
 
阿比彌菟流慕能《アヒミツルモノ》、
相見都流物《アヒミツルモノ》也、相は、上の相枕纏《アヒマクラマク》の、相《アヒ》におなじ、かく終《ハテ》を、物と結《トヂ》めたる、古歌におほし、相見つるを、といふ意也、萬葉卷(ノ)五に飛かへるもの、卷(ノ)十三に、越得志牟物《ヲチエシムモノ》、とあり、飛かへるを、越得《ヲチエ》しめんを、と心得て、かなへり、
 
三十一年秋八月、詔2群卿1曰、官舩名(ハ)枯(52ウ)野者《カラヌハ》、伊豆(ノ)國所v貢之舩也、是朽(テ)之不v堪v用(ニ)、然(トモ)久(ク)爲(ノ)2官用《ミヤツモノ》1功《イサヲ》不v可v忘、何《イカテカ》其舩(ノ)名(ヲ)勿(テ)v絶而得v傳2後(ノ)葉1焉、群卿便被(テ)v詔(ヲ)以(ニ)令2有司《ツカサツカサニ》1取2其舩材(ヲ)1爲v薪而燒v鹽(ヲ)、於v是得2五百籠鹽(ヲ)1、則施v之|周《アマネク》賜(フ)2諸(ノ)國(ニ)1、因(テ)令v造(ラ)v舩(ヲ)、是以(テ)諸國一時貢2上(ル)五百(ツ)舩(ヲ)1、悉(ク)集(ヘ)2於|武庫水門《ムコノミナトニ》1、云云、初(メ)枯野《カラヌノ》舩(ヲ)、爲(シテ)2鹽薪1燒v之(ヲ)日、有(リ)2餘燼《モエグヒ》1、則奇(シミテ)2其不1v燼而獻(ル)v之、天皇|異《アヤシミテ》以(テ)令(ム)v作(53オ)v琴、其音鏗※[金+将]而遠聆《ソノネサヤカニトホクキコユ》、是時天皇歌之曰、
 
41 ※[言+可]羅怒烏《カラヌヲ》、
枯野乎《カラヌヲ》也、伊豆の國より所v貢、舩の名なり、萬葉卷(ノ)十四、相模(ノ)國歌に、もゝつ嶋、足から小舩、あるきおおほみ、云々とあるは、舩足の輕きをいひ、【今も舩底の、水に深く入るを、足が入るといへり、】相模風土記に、足柄《アシカラ》山の※[木+褞の旁]《スキ》をもて、舩に造りけるに、その足の輕かりければ、山の名となれるよしいへり、しからば枯野《カラヌ》も、輕乘《カルノリ》の意なるべし、
 
之褒珥椰枳《シホニヤキ》、
鹽爾燒《シホニヤキ》也、薪となして、鹽を燒しを詔へり、
 
之戯阿摩離《シガアマリ》、
其之餘《シガアマリ》也、それがといふを、之我《シカ》といふは、古言也、雄略紀の歌に、あたらしき、いなめのたくみ、かけしすみなは、旨我那稽麼《シガナケバ》、たれかかけむよ、云々、萬葉集中にも、多かり、あまりとは、餘燼を云、
 
虚等珥菟句離《コトニツクリ》、 
琴爾造《コトニツクリ》也、和琴は、萬葉卷(ノ)五に、桐(ノ)木もて造れる事の見えたるに、名高き宇田法師は、以v檜作v之と、河海抄にあるを、また或ものには、※[木+褞の旁]なるよしいへり、こゝの枯野は、足柄山の杉なる事、風土記にて明らかなれば、いにしへ和琴は、桐にても、杉にても、檜にても、造りしと知られたり、
頭注、○多氣窓(ノ)螢云、昔當國鈴鹿の橋板もて造りしやまと琴、いとめでたき物にて、代々の帝の、寶物とはなれり、その橋板のかな木は、鈴鹿にとゞまり、是もおろそかならじとて、橋姫に造り、鈴鹿の社に納めしとなり、云云、文治六年、五社百首、俊成卿、鈴鹿川、桐のふる木の、丸木橋、是もや琴の、ねに通ふらむ、
 
柯枳譬句椰《カキヒクヤ》、
掻彈哉《カキヒクヤ》也、下に由良《ユラ》とつゞけ(53ウ)給へるは、琴彈に、左手を押を、ゆするといふ言のありて、【源氏に、ゆし給ふと有、その解に、ゆするは弓手《ユテ》する也といへり、萬葉卷(ノ)十一に、左手の、弓とるかたの、云云ともあれど、左手お押を、弓手とのみはいふべくも非ず、此説よりがたし、】ゆするは、その音をゆらがすをいふなれば、やがて由羅《ユラ》の序とし給へる也、
 
由羅能斗能《ユラノトノ》、
由羅之門《ユラノト》之也、萬葉卷(ノ)七に、爲妹玉乎拾跡《イモカタメタマヲヒロフト》、木之國之《キノクニノ》、湯等乃三崎二《ユラノミサキニ》、此日鞍四通《コノヒクラシツ》、この所の海門《ウナト》也、卷(ノ)九にも、紀伊國の歌の中に、湯羅《ユラ》の崎《サキ》、見えたり、門《ト》は河門《カハト》、水門《ミト》、天《アマ》の門《ト》の門《ト》にて、渡り門《ト》をいふなり、
 
斗那珂能異句離珥《トナカノイクリニ》、
門中之海石爾《トナカノイクリニ》也、斗那可《トナカ》は、の萬葉卷(ノ)七に、狹夜深而度中乃方爾《サヨフケテトナカノカタニ》、おほゝしく、呼之舩人《ヨヒシフナヒト》、泊爾《ハテニ》けむかも、とあり、【今本は、夜中に誤れり、】異句離《イクリ》は、同卷(ノ)二に、辛乃崎有《カラノサキナル》、伊久理爾曾《イクリニゾ》、卷(ノ)六に、海底《ワタノソコ》、奥津伊久利爾《オキツイクリニ》云云、越後(ノ)國高田にて、沖に大なる岩の、ふたつあなるを、沖のふたつぐりといへり、
 
敷例多菟《フレタツ》、
觸立《フレタツ》也、下を波《ナミ》といふ意に、つゞけさせ給へる、序なり、
 
那豆能紀能紀《ナツノキノキ》、
那豆之木之木《ナツノキノキ》也、是を一説に、古事記、應神(ノ)條の歌に、布由紀能須《フユキノス》、加良賀意多紀能《カラガシタキノ》、佐夜々々《サヤ/\》、といへるにむかへて、夏木《ナツキ》ぞといへれど、この大御歌は、初めに秋八月云云とあれば、夏木はよしなく、その意も、いかにとも心得がたし、故つら/\考るに、那豆《ナツ》と書るも、豆《ツ》は、濁音に訓《ヨム》べき(54オ)言と思はるゝに、萬葉集中に、奈豆佐布《ナヅサフ》といふ言の、多く見えたるは、【後の物に馴添ふ意に用ひたれど、しかにはあらず、】卷(ノ)三、【四十八丁、】吉野川《ヨシヌカハ》、奥名豆颯《オキニナツサフ》、同卷、【五十一丁、】牽留鳥《ヒクアミノ》、名津匝來跡《ナツサヒコムト》、卷(ノ)四、【十六丁、】稻日都麻《イナヒツマ》、浦箕乎過而《ウラミヲスキテ》、鳥自物《トリジモノ》、魚津左比去者《ナツサヒユケハ》、卷(ノ)六、【三十五丁】、海原之《ウナハラノ》、遠渡乎《トホキワタリヲ》、遊士乃《ミヤヒヲノ》、遊乎將見登《アソブヲミムト》、莫津左比曾來之《ナツサヒソコシ》、卷九、【二十一丁、】暇有者《イトマアラバ》、魚津柴比渡《ナツサヒワタリ》、向蜂能《ムカツヲノ》、櫻花毛《サクラノハナモ》、折末思物乎《ヲラマシモノヲ》、【是も、立田河を渡るなるは、長歌の趣にて、知らる、】卷(ノ)十二、【十二丁、】爾保鳥能《ニホトリノ》、奈津柴比來乎《ナツサヒクルヲ》、【卷(ノ)十一、【十二丁、】には、丹保烏能《ニホトリノ》、足沾來乎《アシヌレコシヲ》、とあり、】卷(ノ)十五、【十丁、】安氣久禮婆《アケクレハ》、於伎爾奈都佐布《オキニナツサフ》、可母須良母《カモスラモ》、同、【十三丁、】、舩人毛《フナヒトモ》、鹿子毛許惠欲比《カコモコヱヨヒ》、柔保等利能《ニホトリノ》、奈豆佐比由氣婆《ナツサヒユケバ》、同、【二十四丁、】奈美能字倍由《ナミノウヘユ》、奈豆佐比伎爾※[氏/一]《ナヅサヒキニテ》、卷(ノ)十七、【四十五丁、】由久加波能《ユクカハノ》、伎欲吉瀬其登爾《キヨキセコトニ》、可々里佐之《カカリサシ》、奈豆佐比能保流《ナツサヒノホル》、卷(ノ)十九、【十二丁、】落多藝知《オチタキチ》、流辟田能《ナカルサキタノ》、河能瀬爾《カハノセニ》、年魚兒狹走《アユコサハシリ》、島津鳥《シマツドリ》、※[盧+鳥]養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》、可我理左之《カガリサシ》、奈豆佐比由氣婆《ナツサヒユケハ》、同、【二十一丁、】叔羅河《シクラカハ》、奈豆左比泝《ナツサヒノボリ》、云云、右に所v擧、こと/”\く海河につきていひて、さらに馴添ふ意にあらず、【古事記景行(ノ)條の歌に、奈豆伎多と云言も有、】されば奈《ナ》は、波《ナミ》灘《ナタ》流《ナカル》などの奈《ナ》にて、水につきていふ言と聞え、豆《ツ》は、漬《ヅク》の意にやと、おもはるれば、【古事記の、奈豆伎多も、さる意にやあらむ、】こゝの奈豆《ナヅ》の紀《キ》も、彼|枯野《カラヌ》の海潮《ウナシホ》に久しく漬《ツカ》りをりし、舩木を詔ふ言にして、奈豆佐布《ナヅサフ》の奈豆《ナヅ》と、同言なるべくこそおぼゆれ、かく見る時は、那豆能紀之紀《ナヅノキノキ》とある上のひとつの能《ノ》は、衍字にやあらむ、古事記は、下の紀《キ》の字なし、
 
佐椰佐椰《サヤサヤ》、
鏘々《サヤサヤ》也、○那(54ウ)豆木《ナツキ》を琴に造りしが、その音のいとさやかなるを、賞美《ホメ》給へる大御言也、上に所v引、古事記の、冬木のす、からがしたきの、さや/\は、劔の刃《ハ》の亮々《サヤカ》なるをいふ也、上景行紀の、佐微那志爾志弖《サミナシニシテ》の下註にいへり、引合(セ)て考べし、
 古事記には、此歌仁徳の條にありて云、此之御世、免寸河《メキカハノ》西(ニ)有2一高樹1、其樹之影、當(リテハ)2朝日(ニ)1者、逮《オヨヒ》2淡道(ノ)島(ニ)1、當(リテ)2夕日(ニ)1者《ハ》、越(ユ)2高安(ノ)山(ヲ)1、故切(テ)2其樹(ヲ)1以作(ル)v舩(ニ)、甚捷行之舩也、時(ニ)號(テ)2其舩(ヲ)1謂(フ)2枯野(ト)1、故以(テ)2此舩(ヲ)1且夕酌(テ)2淡路島之寒泉(ヲ)1、献(ル)2大御水(ヲ)1也、茲(ニ)舩破壞(レテ)以燒(ク)v鹽(ヲ)取(テ)2其燒遺(ノ)木(ヲ)1作(ル)v琴(ニ)、其音響(ク)2七里(ニ)1、爾歌曰、云々、とあり、この紀とその傳《ツタヘ》いたく異なり、
 
日本紀歌解槻乃落葉 上卷 終
 
(1オ)日本紀歌解槻乃落葉 中卷
                 皇大神宮權禰宜從四位下荒木田神主久老謹撰
 
第十一(ノ)卷 大鷦鷯《オホサヽキノ》天皇【二十四首、仁徳天皇、】
 
然後|大山守《オホヤマモリノ》皇子毎(ニ)恨(タマフニ)2先(ノ)帝廢(テ)v之非(ヲ)1v立、而重(テ)有2是怨1、則|謀之曰《ハカリタマハク》、我殺(テ)2太子(ヲ)1遂(ヒニ)登(ラム)2帝位(ニ)1、爰(ニ)大鷦鷯(ノ)尊|豫《カネテ》聞(テ)2其謀(ヲ)1密(ニ)告(テ)2太子1備(テ)v兵(ヲ)令(セタマフ)v守、時(ニ)太子設(テ)v兵(ヲ)待v之、大山守(ノ)皇子不v知2其備(フヲ)1v兵(ヲ)、獨(リ)領《ヒキイテ》2數百(ノ)兵士《イクサヲ》1、夜半《ヨナカニ》發(テ)(1ウ)而行之、會明《アケボノニ》詣(テ)2菟道(ニ)1將《スル》v渡(ト)v河(ヲ)時、太子|服《キテ》2布袍《アサコロモヲ》1、取(テ)2※[楫+戈]櫓《カチヲ》1密(ニ)接(リテ)2度子《ワタリモリニ》1、以(テ)載《ノセテ》2大山守(ノ)皇子(ヲ)1而|濟《ワタセリ》、至(リ)2于河中(ニ)1、誂《アトラヘ》2度子(ニ)1蹈(テ)v舩而傾、於v是大山守皇子、墮v河(ニ)而|没《イレリ》、更(ニ)浮流之歌曰《ウカビナカレテウタヘラク》、【古事記は、此事、應神の條にあり、】
 
42 知破椰臂苔《チハヤヒト》、
稜威速人《イチハヤビト》也、宇治にかゝる發語、師の冠辭考に詳なり、古事記は、知波夜夫留《チハヤフル》とあり、同意の發語なり、
 
于※[旗の其が尼]能和多利珥《ウチノワタリニ》、
宇治之渡爾《ウチノワタリニ》なり、山城(ノ)國、宇治川のわたりなり、
 
佐烏刀利珥《サヲトリニ》、
棹取爾《サヲトリニ》なり、釋紀に謂(フ)2舟(ノ)※[楫+戈]櫓(ヲ)1也、といへるぞよき、※[楫+戈]を執て、舩をやる也、今も舟人の言に、梶を取るといふ、則是也、
 
破椰鷄務(2オ)臂苔辭《ハヤケムヒトシ》、
將v捷人斯《ハヤケムヒトシ》也、斯《シ》は、助語、棹《サヲ》をとるに早き人は、 疾《トク》舩を進め來りて、我を扶よと、いへる也、
 
和餓毛胡珥虚務《ワガモコニコム》、
我許處爾將v來《ワガモトニコム》也、侍者、或は、左右の人を、もとこ人といふは、許處人《コトコヒト》也、今はそを省《ハフキ》て、毛胡《モコ》と云へる也、
 
然(ルニ)伏兵多(ニ)起(テ)不v得v着(クヲ)v岸(ニ)、遂(ニ)沈(テ)而死焉、令v求2其屍(ヲ)1、泛(ヘリ)2於|考羅(ノ)濟(ニ)1、時(ニ)太子視(テ)2其屍(ヲ)1歌之曰
 
43 智破椰臂等《チハヤビト》、
句、
 
宇※[旗の其が尼]能和多利珥《ウヂノワタリニ》
二句如v上、
 
和多利涅珥多弖屡《ワタリデニタテル》、
渡手爾所v立《ワタリテニタテル》也、手は、今の言に、水の手、火の手、井の手、大手、搦手、などいふ手にて、その活用《ハタラキ》をいふ言と聞ゆ、古事記には、和多利是《ワタリゼ》とせり、渡瀬《ワタリセ》なるべし、所《ル》v立は、神代紀に、天稚彦門前所v殖《アメワカヒコノカドノマヘニタテル》、【所v殖此(ニ)云(フ)2多底婁(ト)1、】湯津杜木《ユツカツラノキ》、云云と見え、古今集にも、そこにたてりける、梅の花(2ウ)をゝりてとあれば、こゝも梓《アツサ》の木、檀《マユミ》の木の、立てるをいふ言とおぼゆれど、古事記に、渡瀬とあれば、河瀬にさる木どもの、生立つべき理なければ、しかにはあらじ、故考るに、是は弓を立るをいふにや、又は、軍人の弓宋《ユスヱ》振起《フリオコ》して、並立《ナミタテ》るをいふにやあらむ、八言一句とすべし、
 
阿豆瑳由瀰摩由瀰《アツサユミマユミ》、
梓弓《アツサユミ》、檀弓《マユミ》也、まゆみは、眞弓《マユミ》にて、即梓弓の眞弓《マユミ》といふ言にや、と思へど、萬葉にも、白檀弓《シロマユミ》と書、上に所2引證1、延喜式にも、槻《ツキ》梓《アツサ》柘檀《マユミ》と、その品を分ち、伊勢物語にも、梓弓、まゆみ槻弓、とあれば、まゆみは、檀木もて造れる弓とすべし、さてはまゆみ弓といふべき理なれど、檀木もとより、眞弓《マユミ》の名を負たれば、弓といひては、言かさなれば、かく詔へるなり、
 
伊枳羅牟苔《イキラムト》、
將射殺登《イキラムト》也、斬《キル》とは、殺すをいふ、萬葉卷(ノ)四に、横殺雲《ヨコキルクモ》、卷(ノ)十二に、殺目山《キリメヤマ》と書る、假字《カナ》もて知るべし、
 
虚々呂破望閇耐《コヽロハモヘド》、
心者雖思《コヽロハオモヘド》也、於を省くは、古言の例なり、
 
伊斗羅牟苔《イトラムト》、
將射殺登《イトラムト》也、取とは、殺取るをいふ也、
 
虚々呂破望閇耐《ココロハモヘド》、
如2上註1、
 
望苔幣破《モトベハ》、
本邊者《モトベハ》也、弓には本末あれば、弓の縁語もて、かく詔へる也、古今集に、梓弓、ひけは本末、わか方に、(3オ)よるこそまされ、戀の思は、とあり、萬葉卷(ノ)十三に、三諸者《ミモロハ》、人之守山《ヒトノモルヤマ》、本邊者《モトヘハ》、馬醉木花咲《アシミハナサキ》、末邊者《スヱヘハ》、椿花咲《ツハキハナサク》、とあるは、山の麓と、嶺とをいふなれど、語《コト》のさまは同じ、さてこゝの本邊は、かしこ畏くも、父尊應神天皇を、おもほしめせるなるべし、さるは同じ應神の皇子にませばなり、
 
枳瀰烏於望臂涅《キミヲオモヒデ》、
君乎思出《キミヲオモヒデ》也、君とは、即應神天皇をさし給へる事、上にいふが如し、古事記は、此句と、次の句|脱《オチ》たり、
 
須惠幣破《スヱベハ》、
末邊者《スヱベハ》也、弓によりて、詔へる事、上に云が如し、萬葉十二に、梓弓《アツサユミ》、末中一伏三起《スヱナカタメテ》、とも見えたり、
 
伊暮烏於望比涅《イモヲオモヒデ》、
妹乎思出《イモヲオモヒテ》也、大山守(ノ)皇子の、同母《ハラカラ》の妹に、大原(ノ)皇女、※[さんずい+勞]田(ノ)皇女おはしませり、彼皇女たちの、愁傷《カナシミ》まさむ事を、おもほし出給ふと也、契冲が説に、二皇女の内、いつれ太子の御妃《ミメ》におはしましけん、といへり、
 
伊羅那鷄區《イラナケク》、
苛無《イラナク》也、なくは、いはけなく、いとけなくの、なくに同じく、添辭にて、つれなく、あぢきなくの、なくとは異也、苛《イラ》は痛む意、神武紀の歌、介瀰羅《カミラ》の解に、いふを見べし、
頭注、○又按に、大和物語に、我さまの、いといらなくなりたるを、おもひはかるに、云々このいらなくは、今の京詞に、惠良伊《ヱライ》といへる言に似たり、惠羅《ヱラ》は、伊羅《イラ》の通音にやとおぼゆる也、物を甚しくいはんとて、いふ言なれば、こゝもさる意と心得べきか、尚よく可v考、
○那鷄區《ナケク》の鷄《ケ》は、助語にて、なくといふ言也、さるは、上神武紀の歌、たちそばの、實《ミ》のなけくを、とある下註にいへれば、こゝに省けり、〕
 
曾虚珥於望比《ソコニオモヒ》、
彼處爾思《ソコニオモヒ》也、そことは、上の君《キミ》をさせり、
 
伽那志鷄區《カナシケク》、
悲氣久《カナシケク》也、けくは助語、上に出、
 
虚々珥(3ウ)於望臂《ココニオモヒ》、
此處爾思《ココニオモヒ》也、こゝとは、上の妹《イモ》をさせり、古事記は、二句ともに、於毛比傳《オモヒデ》とあり、思出なり、
 
伊枳羅儒層區屡《イキラズソクル》、
不射殺曾來《イキラズソクル》也、
 
阿豆瑳由瀰摩由瀰《アヅサユミマユミ》、
如上註、御歌の意は、契冲云、大山守(ノ)皇子は、朝廷《ミカド》傾んとし給ふ罪あれば、射殺《イキ》らんとは、おもほしめしゝかども、先帝をも思召《オモホシメシ》、且は妹の皇女等の、御心をも、いたはしみ思召がゆゑに、さるわざはし給はで、御謀事もて、屍に創《キス》をもつけずて、入v水て令《セ》v死《シ》給へり、といふ意なるべし、といへり、
 
十六年秋七月戊寅(ノ)朔、天皇以(テ)2官人|桑田玖賀媛《クハタノクガヒメヲ》1、示(テ)2近習舍人等(ニ)1曰、朕欲v愛2是(ノ)婦女《ヲミナヲ》1、苦(テ)2皇后之妬(ヲ)1、不v能v合《メスコト》以經(タリ)2多年(ヲ)1、何(ソ)徒(ニ)棄《サマタゲム》2其盛年(ヲ)1乎、即歌曰《ヤカテウタヒタマハク》、
 
(4オ)44 瀰儺曾虚赴《ミナソコフ》、
水底經《ミナソコフ》也、經《フ》とは、住居《スミヲ》るをいふ、萬葉卷(ノ)十六に、爲支屋所經《シキヤニフル》、稻寸丁女《イナキヲトメ》、とあるも、醜屋《シキヤ》に住《スム》、稻搗少女《イナツキヲトメ》、といふ言なり、さてこの發語《マクラコトバ》を、古事記雄略の條には、美那曾々久《ミナソヽク》とあり、そも/\この言の、於瀰能烏苔※[口+羊]《オミノヲトメ》にかゝるよしは、師説は元よりにて、宣長が説もうべなひがたく、かにかくおもひめぐらすに、まづはしめおもひしは、於瀰《オミ》と、志毘《シヒ》とは、同言にやとおもへり、さるは息長鳥《オキナガドリ》を、水長鳥《シナカトリ》ともいふは、於《オ》と志《シ》の通ふ由縁《ヨシ》あるか、しからば武烈紀の、影姫《カケヒメ》の歌に、みなそゝく、志寐能和倶吾塢《シビノワクコヲ》、とあると同じつゝけとすべし、かくおもひて後、猶考るに、古事記に、意布袁余志《オフヲヨシ》、斯毘都久阿麻《シビツクアマ》、とあるは、大魚オホウヲ《》よ、鮪《シビ》と詔《ノタマ》へる言にて、今も鮪《シビ》の品類《シナ》を、大魚といへど、おのれいぶかしむは、大なる魚も、何くれと多かる中に、鮪《シビ》の類のみ、大魚の名をおびしはいかに、是はもとより異なるよしあるべくおもひて、例の強説《シヒコト》を思ひよれるは、志毘《シビ》は繁肉《シヽミ》なるべく、【美《ミ》と備《ビ》は、同音也、かの魚甚多肉なれば、しか名つけたりけん、肉を美といふ言は、既に神武紀の歌に云、又云、今の世、漁人の、青魚《アヲウヲ》と稱るもの、皆|志毘《シビ》なるべし、猶頭にいふ、】
頭注、○漁人の青魚と稱るは、鰤《フリ》、堅魚の類なり、その類、皆多肉なれば、志毘《シヒ》の名やおびつらん、今も大魚《オウヲ》、志備《シビ》と稱る中にも、種々品類あり、〕
於布遠《オフヲ》は、多肉魚《オホミウヲ》なるべし、【美宇の約(メ)牟《ム》なるを、布《フ》に通しいふ、牟《ム》布《フ》は、同韻にて、通ふ例也、】されば多肉魚《オホミウヲ》よ、繁肉《シヾミ》と打かさねたる、發語と聞ゆれば、こゝの於瀰《オミ》も、多肉《オホミ》の意につゝけたるにて、志毘《シビ》と、於美《オミ》とは、同意の言にこそあらめ、故みなそゝく、みなそこふ等の、發語を、蒙らせたるにやあらむ、
 
(4ウ)於瀰能烏苔※[口+羊]烏《オミノヲトメヲ》、
臣之孃子乎《オミノヲトメヲ》也、臣《オミ》とは、官人《ミヤツカヘヒト》をいふ稱也、武烈紀の歌に、飲瀰能古《オミノコ》、萬葉卷(ノ)三に臣乃壯士《オミノヲトコ》、卷(ノ)四に臣女《オミノメ》、などある是也、彼卷々の解、併考べし、
頭注、○近ごろ萬葉を解もの、この臣女の二字を、誤字として、かにかく論へるは、皆ひが言也、世に古學は行れながら、萬葉をくはしく見る人なきは、いかにそや、〕
 
多例椰始灘播務《タレヤシナハム》、
誰將v養《タレヤシナハム》也、たれが妻として、やしなはむと詔《ノタマ》へる也、やしなふは、撫育の意なり、
 
於v是|播磨國造祖速待《ハリマノクニノミヤツコノオヤハヤマチ》、獨進(テ)之歌曰、
 
45 瀰箇始報《ミカシホ》、
嚴汐《イカシホ》也、美加《ミカ》と、伊伽《イカ》と、相通ふ例は、武甕槌《タケミカヅチノ》神を、武雷《タケイカヅチノ》神ともいへり、播磨國は、わきて汐路の早《ハヤ》ければ、速侍《ハヤマチ》の速《ハヤ》の言までかけたる、發語なるべし、
 
破利摩破椰摩智《ハリマハヤマチ》、
播磨速待《ハリマハヤマチ》也、速待は、人の名也、
頭注、○再按に速待《ハヤマチ》といふ名に、はやくより、此大命を、待をるといふ意を、ふくめたり〕
 
以播區椰輸《イハクヤス》、
令2岩崩《イハクヤス》1也、岩ほをも崩すが如き、嚴汐《イカシホ》といふ意に、つゞけしならむ、萬葉卷(ノ)十四に、可麻久良乃《カマクラノ》、美胡之佐吉能《ミコシノサキノ》、伊波久叡乃《イハクエノ》、云々とあり、
 
加之古倶等望《カシコクトモ》、
雖2恐懼《カシコクトモ》1也、白《マヲ》すも恐れありとも、といふ意也、
 
阿例椰始儺(5オ)破務《アレヤシナハム》、
我將v養《ワレヤシナハム》也、
 
即日《ソノヒ》以(テ)2玖賀媛(ヲ)1、賜(フ)2速待(ニ)1、
 
二十二年春正月、天皇語2皇后1曰、納(シテ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1、將v爲(ムト)v妃《ミメト》、時(ニ)皇后不v聽《ウヘナヒタマハ》、爰(ニ)天皇歌|以《モテ》乞2於皇后(ニ)1曰、
 
46 于磨臂苔能《ウマヒトノ》、
淑人之《ウマヒトノ》也、上神功紀の歌に、見えたり、
 
多菟屡虚等太弖《タツルコトタテ》、
所v立言立《タツルコトタテ》也、皇后の立給ふ所は、立てといふ意、萬葉卷(ノ)十八に、大伴等《オホトモト》、佐伯氏者《サヘキノウヂハ》、人祖乃《ヒトノオヤノ》、立流辭立《タツルコトタテ》、云々、又、世之人能《ヨノヒトノ》、多都流許登大弖《タツルコトタテ》、云云と見えたり、漢籍《カラフミ》、論語に夫(レ)仁者(ハ)己(レ)欲(テ)v立(ト)而立(ツ)v人(ヲ)、といへる、立におなじ、
 
于差由豆流《ウサユヅル》、
設弦《ウサユツル》也、神功紀に、令曰各々儲弦(ヲ)藏2髪中(ニ)1、古事記仲哀(ノ)條(ニ)曰、爾(チ)自2(5ウ)項髪中《ミヅラノウチ》1採2出《トリイテ》設弦(ヲ)1【一名(ハ)云2于佐由豆流(ト)1、】藏弓弦《ヲサメユツル》の、略語ぞと、契冲がいへるぞよき、次の句を、いひ出む料の、發語也、
 
多曳磨菟餓務珥《タエマツガムニ》、
絶間將v繼爾《タエマツカムニ》也、皇后のとも寐の絶間を、繼んために、といふ意なり、
 
奈羅陪弖毛餓望《ナラベテモガモ》、
並而毛冀《ナラベテモカモ》也、皇后にならべ置んと、詔ふ意、かもは、萬葉に、欲v得《カモ》とも、欲とも、願とも、冀とも、書たる意のかも也、
 
皇后(ノ)答歌曰、
 
47 虚呂望虚曾《コロモコソ》
衣巳曾《コロモコソ》也、こそは、助辭《テニハ》、衣は、夜《ヨル》の襲《オソヒ》の、ころもをいふ、
 
赴多幣茂豫耆《フタヘモヨキ》、
二重毛宜《フタヘモヨキ》也、上にこそといひて、かく伎《キ》と結へるは、古歌の格也、
 
瑳用廼虚烏《サヨドコヲ》、
小夜床乎《サヨトコヲ》也、寢所《ネド》の床《トコ》をいふ、小夜《サヨ》のさは、添言也、萬葉卷(ノ)二に夜床《ヨトコ》も、荒良牟《アルラム》、卷(ノ)十八に、夜床加多左理《ヨトコカタサリ》、なと見えたり、猶集中多かりなん、
 
那羅陪務耆瀰破《ナラベムキミハ》、
將並君者《ナラヘムキミハ》也、皇后と、八田(ノ)皇女と、夜床《ヨトコ》をならべ給はむとする君は、と云意、
 
箇志古耆呂箇(6オ)茂《カシコキロカモ》、
恕呂哉《カシコキロカモ》也、呂《ロ》は助辭、萬葉に、貴呂《タフトキロ》かも、乏呂《トモシキロカモ》、悲呂《カナシキロ》かも、などおほく見えたり、衣こそ、二重|着《キ》たるもよかめれ、二人の夜床を、ならべ給はんとするは、よくもあらぬ、かしこき君の御意《ミコヽロ》そと、奏給ふ意也、
 
天皇又歌曰、
 
48 於辭弖屡《オシテル》、
押照《オシテル》也、和庭《ナギニハ》とかゝる發語のよしは、萬葉卷(ノ)三の別記に、委しくいへり、押光《オシテル》とも、忍照《オシテル》とも、臨照《オシテル》とも、書る字の意なり、今も舩人の言に、庭《ニハ》よき海を、ひかるとも、照《テル》ともいへり、舊説すべて諾《ウヘナヒ》がたし、
 
那珥破能瑳耆能《ナニハノサキノ》
難波之崎之《ナニハノサキノ》也、
 
那羅弭破莽《ナラビハマ》、
並濱《ナラビハマ》也、難波の濱《ハマ》の、舊名と知られたり、彼地の古圖を見るに、西の濱邊に、ひめ島、何くれと、島々相ならべり、
頭注、○此古圖といふは、堀河院の御時のものといへり、疑しき事のなきにしもあらねど、後に作り出せるものとも見えずなむ、
 
那羅陪務苔虚層《ナラベムトコソ》、
將v並登乞《ナラベムトコソ》也、とてこそ、といふ意、古言に、かゝる登《ト》の助辭《テニハ》おほし、
 
曾能古破阿利鷄梅《ソノコハアリケメ》、
彼兒者將在な《ソノコハアリケメ》也、その兒とは、八田(ノ)皇女をさして詔《ノタマ》へり、あり(6ウ)けめは、吾《ワカ》ならべしめむとこそ、その兒はおもひて有けめといふ意なるべし、その兒といふにて、吾《ワカ》ならぶるならんと、おもひて有けめ、といふ意とは聞ゆめり、
 
皇后(ノ)答歌曰《ミコタヘウタ》、
 
49 那菟務始能《ナツムシノ》、
夏虫乃《ナツムシノ》也、この夏虫は、※[原/【虫+虫】]《ナツコ》をいふ、和名抄(ニ)云、玉篇(ニ)云、※[原/【虫+虫】]、【音元、和名奈都古、】晩蠶也、と見えたり、
 
臂務始能虚呂望《ヒムシノコロモ》、
※[亡/虫二つ]乃衣《ヒムシノコロモ》也、和名抄(ニ)云、文字集略(ニ)云、※[亡/虫二つ]、【今按即(チ)是、蚊虻|之《ノ》虻也、和名、比々流、】繭《マユノ》内(ノ)老蠶也、と見えたり、おのれいと若かりけるとき、武藏(ノ)國秩父郡にありけるに、彼國人、蠶の繭《マユ》にこもれるを、さなぎといひ、その蝶に化たるを、比々流《ヒヽル》といひ、又|比流《ヒル》ともいへり、臂務始《ヒムシ》は、この比流虫《ヒルムシ》なるべし、ころもの事は、下にいふを待べし、
 
赴多幣耆弖《フタヘキテ》、
二重着而《フタヘキテ》也、衣《コロモ》ふたへは、さなぎのこもれる繭《マユ》と、彼|比々流《ヒヽル》の蛻《モヌケ》と、二重《フタヘ》なるをいふなるべし、上のころもこそ、ふたへもよきと、みよみませるを、今はそれもよからぬよしを、打かへしの給へる也、
 
介區瀰夜※[人偏+嚢]利破《カクミヤタリハ》、
圍彌足者《カクミヤタリハ》也、圍《カクミ》は、即|蠶《カヒコ》の繭《マユ》をいひ、その内に、蛻《モヌケ》を着たるを、彌足《イヤタリ》とは、いへるなるべし、
 
阿珥(7オ)豫區望阿羅孺《アニヨクモアラズ》、
豈能毛不有《アニヨクモアラズ》也、あには、何《ナニ》に通ふ言、夏《ナツ》のあつさに、しか幾重も、衣を着たらむは、何《ナニ》のよき事あらむや、といふ意也、かく見るときは、夏虫といへるに、はたらき有て聞ゆ、衣《コロモ》二重《フタヘ》は、皇后と、八田皇后とを、ならべ給はむ事を、比し給へるなり、
 
天皇又歌曰、
 
50 阿佐豆磨能《アサヅマノ》、
朝妻乃《アサヅマノ》也、大和(ノ)國、葛上郡の地名也、姓氏録に、大和朝津間腋上地《ヤマトアサツマワキカムノトコロ》と見え、萬葉卷(ノ)十に、大和國の地名をよめる歌の中に、今朝去而《ケサユキテ》、明日者來牟等《アスハコムト》、云子鹿舟《イヒシカニ》、且妻山爾《アサツマヤマニ》、霞霏《カスミタナヒク》、子等名丹《コラカナニ》、開之宜朝妻之《カケノヨロシキアサツマノ》、片山木之爾《カタヤマキシニ》、霞多奈引《カスミタナビク》、と見えたり、契冲が考に云、天武紀(ニ)云、九年九月癸酉朔、辛巳、幸(テ)2于朝嬬(ニ)1、以看2大山位以下之馬(ヲ)於|長柄杜《ナカエノモリニ》1、云々、古事記(ニ)云、葛城長江曾都毘古《カツラキナカエノソツヒコ》、云々、延喜式(ニ)云、葛上(ノ)郡|長柄《ナカエノ》神社、右等を相照らして、長柄《ナカエ》、長江《ナカエ》は、同じきを知り、天武紀の、朝嬬《アサツマ》も、葛上郡なるを知べし、皇后は、葛城より出給ひ、元《モト》より知らせ給ふ地なれば、取出てよませ給ふか、といへり、この説あたれり、
頭注、○難波の長柄も、なかえとよむにやと、おもふよしあり、その考は、難波の舊地考に、論(ヒ)ひおけり、
 
避箇能烏瑳箇烏《ヒカノヲサカヲ》、
避介之小坂《ヒカノヲサカ》也、避介《ヒカ》は、地名かといへり、朝妻《アサツマ》のひがとつゞきたるは、地名と聞ゆ、さてひがは、ひが(7ウ)ひがしなど、僻《カタヨ》れるをいふ言にて、朝妻山の、片山岸《カタヤマキシ》なるを、いふ名なるべし、さるは、上に引、萬葉の歌もて知るべし、下の烏《ヲ》は、與《ヨ》に通ふ烏《ヲ》にて、小坂《ヲサカ》よと、呼かけたるなり、
 
箇多那耆珥《カタナキニ》、
片無爾《カタナキニ》也、朝妻山の、片山岸なるを、則かたなきといひつゝけて、言をなせり、かたなきとは、相手《アヒテ》なきにと、いはんが如し、敵《カタキ》も、相手をいふ言なるを按《オモフ》べし、皇后の、相手もなく、たゞひとりおはさむは、ひか/\しきわざそと詔へる意か、また片無《カタナ》きの下に、皇女をゆるし給はぬは、ひが/\しき御意《ミコヽロ》ぞといふ意を、ふくめ給へるか、よく可v考、
 
瀰致喩區茂能茂《ミチユクモノモ》、
通行者毛《ミチユクモノモ》也、
 
多愚臂弖序豫枳《タグヒテゾヨキ》、
偶而曾善《タグヒテゾヨキ》也、凡の道行人さへも、唯ひとり行んよりは、相手ありて、副《タグヒ》行ぞよき、といふ意なり、萬葉卷(ノ)四に、草枕《クサマクラ》、羈行君乎《タビユクキミヲ》、愛見《ウツクシミ》、副而曾來《タグヒテゾクル》、四鹿乃濱邊乎《シカノハマビヲ》、たぐふは、相添ふ意なる事、是にて知べし、
 
皇后逐(ニ)謂《オモホシテ》v不(ト)v聽、故|黙之亦不2答言1《モタシテコタヘタマハサリキ》、
 
三十年秋九月乙卯(ノ)朔、乙丑、皇后|遊2行《イデマシテ》(8オ)紀伊(ノ)國(ニ)1到(リタマフ)2熊野(ノ)岬《ミサキ》1、即(チ)取(リテ)2其處之御綱葉《ソコノミツナガシハヲ》1而還(リマス)、於是日《コノヒ》天皇伺(テ)2皇后(ノ)不《ヌヲ》1v在《オハシマサ》、而娶(テ)2八田(ノ)皇女(ニ)1、納《イレタマフ》2於宮中1、時(ニ)皇后到(マシテ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1、聞(メシテ)3天皇|合《ミアヒタマフト》2八田(ノ)皇女(ニ)1、而大(ニ)恨(ラミタマフ)v之、則(チ)其|所《セル》v採御綱葉(ヲ)投《ナケウテタマヒテ》2於海1而|不《ズ》v着(タマ)v岸(ニ)、故時(ノ)人號(テ)2散v葉《カシハヲ》之海(ヲ)1、曰(フ)2葉濟《カシハノハワタリト》1也、爰(ニ)天皇不v知2皇后(ノ)忿(テ)不(ヲ)1v着v岸(ニ)、親(ラ)幸(マシテ)2大津(ニ)1、待(テ)2皇后(ノ)之舩(ヲ)1而歌曰《ウタヒタマハク》、
 
51 那珥波臂苔《ナニハビト》、
難波人《ナニハビト》也、萬葉卷(ノ)十一に、難波人《ナニハビト》、葦火燎屋之《アシビタクヤノ》、云々、都人《ミヤコビト》、或は、須磨人《スマビト》などいふ類にて、人とは、是より、彼をさし(8ウ)ていふ言なるを、近世古學の徒、自(ラ)稱して、某(ノ)國人といふは、いかにぞやおぼゆる、
 
須儒赴泥苔羅齊《スズフネトラセ》、
鈴舟令v執《スズフネトラセ》也、鈴舟《スヾフネ》は、官舩にて、鈴は、驛鈴の類なるべし、執《トル》は、綱手《ツナテ》を取《トル》をいふ、とらせは、とれと、下知する言也、
 
許辭那豆瀰《コシナツミ》、
腰悩《コシナツム》也、なづむは、古事記景行の條に、阿佐士怒波良《アサジヌハラ》、許斯那豆牟《コシナヅム》、萬葉卷(ノ)十三に、夏草乎《ナツクサヲ》、腰爾莫積《コシニナヅミ》、云々、卷(ノ)十九に、落雪乎《フルユキヲ》、腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》、云々、このなづむは、もと水中に入より、出たる言とおもはるれば、上の那豆木《ナヅキ》の下にいふ、那豆佐布《ナツサフ》のなづに、同じかるへし、さるを轉《ウツ》しては、小竹原《シヌハラ》にも、夏艸《ナツクサ》にも、雪《ユキ》にも、腰まで踏入る事を、すべて腰(ノ)なつむとは、いふなるべし、今は悩の意に近ければ、しか註しつ、
 
曾能赴尼苔羅齊《ソノフネトラセ》、
其舩令v執《ソノフネトラセ》也、そのとは、鈴舩をさせり、
 
於朋瀰赴泥苔禮《オホミフネトレ》、
大御舩所v執《オホミフネトレ》也、皇后の乘給へる官舩ゆゑ、崇て、大御舩とは、詔へるなり、
 
時(ニ)皇后不v泊《ハテタマハ》2于大津(ニ)1、更(ニ)引(テ)v之泝(テ)v江(ヲ)、自2山背1廻而《モトホリテ》、向(タマフ)v倭(ニ)、明日天皇遣(シテ)2舍人鳥山《トネリトリヤマヲ》1、令(セタマフ)(9オ)v還(サ)2皇后1、乃(チ)歌v之曰、 古事記は、此の歌の次《ナミ》、この紀と相違あり、引合て考見よ、
 
52 夜莽之呂珥《ヤマシロニ》、
山背爾《ヤマシロニ》也、國號の釋は、次の歌にいへり、皇后のいでましゝ、山城(ノ)國になり、
 
伊辭鷄苔利夜莽《イシケトリヤマ》、
伊及鳥山《イシケトリヤマ》也、伊《イ》は發語、及《シケ》は神代紀に、及之共語《シキテトモニカタル》と見え、萬葉にも、及の字を、しくとよみたり、今は皇后の御もとへ、追及《オヒシク》をいふ、鳥山は、舍人の名也、
頭注、○上古使は、名無雉《ナナキキヾシ》、八頭烏《ヤタガラス》をはじめ、鳥の名をおふしゝ事ありて、且(ツ)鳥をもて、使とせる事、古歌に證おほし、萬葉卷(ノ)三別記、玉梓《タマヅサ》の釋にいふを見べし、こゝの鳥山《トリヤマ》も、山城への御使なれば、かゝる名はおふしたりけむ、
 
伊辭鷄之鷄《イシケシケ》、
伊及々《イシケシケ》也、古事記には、伊斯祁伊斯祁《イシケイシケ》とあり、いそがしめ給はんとて、同じ言を、かさね詔ふ也、今の言にも、かゝる類おほし、
 
阿餓茂赴菟磨珥《アガモフツマニ》、
吾思妻爾《アカオモフツマニ》也、於《お》を省くは、古言の常なり、古事記は、阿餓波斯豆麿邇《アガハシヅマニ》、とあり、我愛妻《アカハシツマ》に也、萬葉卷(ノ)廿に、波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》、など見えたり、既に上に出、
 
伊辭枳阿波牟伽茂《イシキアハムカモ》、
伊及將遇哉《イシキアハムカモ》也、とく皇后に遇《アヒ》奉りて、令v還奉れとの御意也、
 
皇后不v還(マサ)、猶行之《ナホイデマシテ》至(マシテ)2山背河1、而|歌曰《ウタヒタマハク》、 古事記(ニ)云、(9ウ)即不v入2坐宮1、而引2避(テ)其御舩(ヲ)1、泝(テ)2於堀江(ヲ)1、隨(テ)v河(ニ)而上2幸山代(ニ)1、此時歌曰、云々、頭注、○この山背河は、今の淀川、木津川の、合て流(レ)下《オツ》る大川をいふ、堀江は、南の水《カハ》と、大和川と合て、西に落る江也、この考、難波の舊地考一冊あり、披て見べし、
 
53 菟藝泥赴《ツギネフ》
續丹生《ツギニフ》也、やましろにかゝる發語、續《ツグ》とは連續の意、丹《ニ》は、土をいふ古言、萬葉集中、白土を、しらにの假字に用ひたり、生《フ》は蓬生《ヨモギフ》、淺茅生《アサヂフ》の生《フ》にて、原をいふ、萬葉卷(ノ)十一に、淺茅原《アサチフ》と書たり、さて山背は、家庭代《ヤニハシロ》にて、應神の大御歌に、もゝちたる、やにはも見ゆと、詔《ノリ》ましし家庭《ヤニハ》也、代《シロ》とは、苗代《ナハシロ》、網代《アシロ》の代にて、領知《シリ》の意なる事、既に上にいへり、家庭《ヤニハ》は、平原をいふ言なれば、やがて續土原《ツキニフ》、やましろとは、つゞけさせ給へるなるべし、
頭注、○古事記は、つぎねふ夜《や》と、やの一言そはりたり、
 
椰莽之呂餓波烏《ヤマシロガハヲ》、
山背河乎《ヤマシロガハヲ》也、堀江を泝まし、大和川にはのぼりまさずして、淀川に隨て、いでますゆゑ、殊更に、山背《ヤマシロ》河とは、の給へる也、やましろは、もと山背と書來りしを、山城の字に改られし事、日本後紀に見ゆ、
 
箇破能朋利《カハノボリ》、
河泝《カハノボリ》也、
 
※[さんずい+宛]餓能朋例麼《ワガノボレバ》、
我泝者《ワガノボレハ》也、
 
箇波區莽珥《カハグマニ》、
河隈爾《カハクマニ》也、くまとは、道の隈々《クマ/”\》、などある隈《クマ》にて、陂の曲り隱《コモ》れる所をいふ、古事記は、迦波能倍邇《カハノヘニ》、とあり、
 
多知瑳介喩屡《タチサカユル》、
立所v榮《タチサカユル》也、萬葉卷(ノ)七に、開木代之《ヤマシロノ》、來背社《クゼノヤシロノ》、(10オ)草勿手折《クサナタヲリソ》、己時立雖榮《オノガトキタチサカユトモ》、草勿手折《クサナタヲリソ》、古事記は、淤斐※[こざと+施の旁]弖流佐斯夫《オヒタテルサシブ》、とありて、以下|甚《イタク》異也、下に云、
頭注、○やましろに、開木代の字を假りたるも、家庭《ヤニハ》は、荒艸苅除《アラクサカリソケ》、木立伐拂《コダチキリハラヒ》て、その地を開くべきなれば開木の字は、さる意もて書たりけむ、
 
毛々多羅孺《モモタラズ》、
百不足《モモタラズ》也、八十《ヤソ》にかゝる發語、神代紀に、百不足《モヽタラズ》八十隈將隱去《ヤソクマデニカクリナモ》矣、萬葉卷(ノ)三に、百不足《モヽタラズ》、八十隈路爾《ヤソノクマヂニ》、云々と見えたり、猶冠辭考に詳なり、
 
椰素麼能紀破《ヤソバノキハ》、
八抓稜木者《ヤソバノキハ》也、八《ヤ》は添言にて、百不足《モヽタラズ》、八十《ヤソ》といひつゞけし也、さて素婆《ソバ》の木は、實《ミ》なき木なるよし、神武紀の歌に、委しくいへり、古事記は、淤斐※[こざと+施の旁]弖流《オヒタテル》、佐斯夫《サシブ》、袁佐斯夫能紀《ヲサシブノキ》、斯賀斯多邇《シカシタニ》、淤斐※[こざと+施の旁]※[氏/一]流《オヒタテル》、波毘呂由都婆都婆岐《ハビロユツバツバキ》、斯賀波奈能《シガハナノ》、※[氏/一]理伊麻斯《テリイマシ》、斯賀波能《シガハノ》、比呂理伊麻須波《ヒロリイマスハ》と、有、
 
於朋耆瀰呂介茂《オホキミロカモ》、
大王呂哉《オホキミロカモ》也、呂《ロ》は例の助語、おはきみとは、天皇より、親王、諸王までを申言のよしは、萬葉卷(ノ)三の別記に、委しくせり、今は曾婆の木の、實《ミ》なき如く、眞實なき大王ぞと、天皇を恨奉り給ふ御言なり、
 
即越(テ)2那羅山《ナラヤマヲ》1望《ミサケテ》2葛城(ヲ)1歌之曰、  古事記(ニ)云、即(チ)自2山代1廻《モトホリ》、到2坐那良山(ノ)口(ニ)1、歌曰、云云、
 
(10ウ)54 菟藝泥赴《ツギネフ》、
古事記は、赴《フ》の下、夜《ヤ》の字あり、
 
椰莽之呂餓波烏《ヤマシロガハヲ》、
如(シ)2上註1、
 
瀰椰之朋利《ミヤノボリ》、
永脈泝《ミヲノボリ》也、みをを、今舩人の言に、みよといへり、よとやは、通ふ音《コヱ》なれは、みやとも云なるべし、神代紀に、青橿城《アヲカシノキノ》尊を、吾屋橿城《アヤカシキノ》尊とも申は、即やと、をと、通ふ例なり、
 
和餓能朋例麼《ワガノボレバ》、
如(シ)2上註1、
 
阿烏珥豫辭《アヲニヨシ》、
※[女+于]哉《アヲニヨシ》也、奈良を愛《ウツク》しみ給ふ御言也、神代紀に、※[女+于]哉可愛少男とありて、※[女+于]哉此(ニ)云(フ)2阿那而惠夜《アナニヱヤト》1、とある阿那《アナ》にて、夜斯《ヤシ》は、助語、愛伎八師《ハシキヤシ》、縱惠八師《ヨシヱヤシ》などいへる、八師《ヤシ》也、さてその阿那《アナ》と、阿袁《アヲ》とかよひ、八師《ヤシ》と、與師《ヨシ》とは常に通ふ言なり、猶くはしくは、萬葉卷(ノ)三の別記に、委しくいへり、
 
儺羅烏輸疑《ナラヲスギ》、
奈良乎過《ナラヲスギ》也、
 
烏※[こざと+施の旁]弖《ヲダテ》、
小楯《ヲタテ》也、私記(ニ)云、倭國(ノ)之山、如(シ)v立2小楯(ヲ)1也、といへり、小《ヲ》は添言也、楯並就《タヽナツク》、青垣山《アヲガキヤマ》と、師の冠辭考に釋れし意にひとし、古事記には、こゝにに夜麻《ヤマ》の二字加はれり、
 
夜莽苔烏輸疑《ヤマトヲスギ》、
倭乎過《ヤマトヲスギ》也、この耶麻登《ヤマト》は、山邊(ノ)郡なる、やまとの郷をいふと、師云へり、耶麻登《ヤマト》の國號は、家庭所《ヤニハト》の義なるよしは、萬葉卷(ノ)三の別記に委しくいへり、山城の號、可(シ)2併按1、
 
和餓(11オ)瀰餓朋辭區珥波《ワガミガホシクニハ》、
我見之欲國者《ワガミガホシクニハ》也、萬葉に、見貌之《ミガホシ》、見果之《ミガホシ》、など書るは、假字にて、見《ミ》まく欲《ホリ》するをいふ言也、和餓の二言、上の輪疑《スギ》の下に、屬《ツク》べきにもあらず、又下の區珥波《クニハノ》三言、一句とせむもいかゞなれば、是は九言一句とすべし、宣長が、五言七言にかぎるよしいへるは、古風の歌にては、あたらざりけり、
 
箇豆羅紀多伽瀰椰《カヅラキタカミヤ》、
葛城高宮《カツラキタカミヤ》也、和名抄、葛上郡、高宮【多加美也】土佐國風土記に、葛城山(ノ)東下、高宮(ノ)岡、【釋日本紀(ニ)所v引、】この皇后は、葛木之曾都昆古《カヅラキノソツビコ》之女とあれば、葛城(ノ)高宮は、皇后の本郷也、故殊更に國しぬびまして、わが見がほし國とはの給へる也、くにとは、本郷をいふ言のよしは、萬葉卷(ノ)三の解に、くはしくいへり、又按に、この國は、春日國《カスガノクニ》、泊瀬國《ハツセノクニ》の國《クニ》にて、即葛城を、國《クニ》と詔《ノタマ》へりともいふべし、
 
和藝幣能阿多利《ワギヘノアタリ》、
我家之邊《ワガイヘノアタリ》也、わぎへは、既に景行紀の歌に出、古事記履中(ノ)條の大御歌に、波邇布邪迦《ハニフザカ》、和賀多知美禮婆《ワガタチミレバ》、迦藝漏肥能《カギロヒノ》、毛由流伊幣牟良《モユルイヘムラ》、都麻賀伊幣能阿多理《ツマガイヘノアタリ》と見えたり、
 
更(ニ)還(マシテ)2山背(ニ)1、興《タテヽ》2宮《ミヤヲ》室於|箇城岡南《ツヾキノヲカノミナミニ》1、而居之《オマシマセリ》、
 
(11ウ)冬十月甲申(ノ)朔、遣(シテ)2的臣祖口持臣《イクハノオミノオヤクチモチノオミヲ》1、喚《メシタマフ》2皇后(ヲ)1、爰(ニ)口持(ノ)臣、至(リテ)2筒城(ノ)宮(ニ)1、雖《ドモ》v謁《マヲセ》2皇后(ニ)1而|黙而《モダシテ》不《ス》v答(タマハ)、時(ニ)口持(ノ)臣、沾(レテ)2雪雨(ニ)1以(テ)經《ヘテ》2日夜(ヲ)1、伏(テ)2于皇后(ノ)殿前《ミアラカノマヘニ》1而不v遊《サラ》、於v是口持(ノ)臣|之《カ》妹|國依媛《クニヨリヒメ》、仕(レリ)2于皇后(ニ)1、適《タマ/\》是時|侍《ハヘリ》2皇后(ノ)之側(ニ)1、見(テ)2其兄(ノ)沾(ヲ)1v雨(ニ)而流涕之歌曰《カナシミテウタヒケラク》、
 
55 椰莽而呂能《ヤマシロノ》、
山背之《ヤマシロノ》也、
 
菟々紀能瀰椰珥《ツヽキノミヤニ》、
筒城之宮爾《ツヽキノミヤニ》也、筒城は、今の綴喜郡也、このつゞきといふ名も、上の菟藝泥布《ツギネフ》の都藝《ツギ》に、よしありけに、おぼゆるなり、
 
茂能莽烏輸《モノマヲス》、
物啓《モノマヲス》也、萬(12オ)葉卷(ノ)十六に、石麻呂爾吾物申《イハマロニワレモノマヲス》、云々、古今集に、打わたす、遠かた人に、ものまうすわれ、云々、こゝは皇后に請謁《コヒマヲス》也、この臣、よくもの申によりて、口持《クチモチ》の名は負たりけむ、古事記に口子《クチコ》とあるも、同意也、
 
和餓斉烏瀰例麼《ワガセヲミレバ》、
我兄乎見者《ワカセヲミレバ》也、口持(ノ)臣をさせり、古事記は、阿賀勢能岐美波《アガセノキミハ》、とあり、
頭注、○勢《せ》は、男子をさしていふ稱、妻より夫を稱し、妹より兄を稱し、又男どち互《カタミ》に背《せ》とよべり、既上にもいへり、
 
那瀰多遇摩辭茂《ナミダグマシモ》、
涙催之毛《ナミダグマシモ》也、くむとは、聚(リ)催す言のよし、上やくもたつの御歌にいへり、こゝはその組《クム》を、活用《ハタラキ》詞に、ぐましとはいへるなり、
 
時(ニ)皇后|謂《ノリ》2國依媛(ニ)1曰《タマハク》、何爾泣《イカデイマシハナクゾ》之、對言(サク)、今伏(テ)v庭|請謁者《モノマヲスハ》妾兄《ワガセ》也、沾(テ)v雨不v避《サラ》、潜伏(テ)將v謁(ント)、是以(テ)泣悲《イサチカナシムトマヲス》耳、時(ニ)皇后謂v之曰、告(テ)2汝兄《ミマシガアニニ》1令(ヨ)2速還《トクカヘラ》1、吾(ハ)遂(ニ)不(トノタマフ)v返焉、口持則返(テ)v之復2奏《カヘリコトマヲス》(12ウ)于天皇(ニ)1、
 
十一月甲寅(ノ)朔、庚申、天皇浮(テ)v江幸(ス)2山背(ニ)1時、桑(ノ)枝沿(フて)v水而|流《ナガル》之、天皇|視《ミソナハシテ》2桑(ノ)枝(ヲ)1歌之曰《ウタヒタマハク》、
 
56 菟怒瑳破赴《ツヌサハフ》、
蘿佐延《ツヌサハフ》也、岩にかゝる發語也、師説に云、古へは角《ツヌ》綱《ツナ》蘿《ツタ》を、相通していふが故に、蘿を、都奈《ツナ》とも、都奴《ツヌ》とも、云といへり、さて瑳破赴《サハフ》の瑳《サ》は、佐夜《サヨ》、小男鹿《サヲシカ》、などいふ佐にて、助語とすべきか、又は多延《サハハフ》の、約言にもやあらむ、師は、怒瑳《ヌサ》の約(メ)多《タ》なれば、都多波布《ツタハフ》の、延言といはれし、猶師の冠辭考に詳也、併(セ)見ベシ、
 
以破能臂謎餓《イハノヒメガ》、
石之姫之《イハノヒメガ》也、皇后の御名、
 
飫朋呂伽珥《オホロカニ》、
凡加爾《オボロカニ》也、萬葉卷(ノ)六に、大夫《マスラヲノ》、去跡云道曾《ユクトフミチゾ》、凡可爾《オホロカニ》、念而行勿《オモヒテユクナ》、卷(ノ)二十に、安多良之伎《アタラシキ》、吉用伎曾之名曾《キヨキソノナゾ》、於煩呂加爾《オホロカニ》、己許呂於母比弖《コヽロオモヒテ》、云々、(13オ)後の物に、おぼろけといへるおなじ、
 
枳許瑳怒《キコサヌ》、
不令聽《キコサヌ》也、古事記仁徳の條の歌に、意富伎彌斯《オホキミシ》、與斯登岐許佐婆《ヨシトキコサバ》、萬葉卷(ノ)十一に、不知二五寸許須《イサトヲキコス》、卷(ノ)十三に、母寸許勢友《ハヽキコセドモ》、卷(ノ)二十に、可久志伎許佐婆《カクシキコサバ》、これら宣賜《ノタマハ》ばといふ意と、心得て聞ゆ、しからば、こゝもおぼろけにかへりまさんとは、の給はぬといふ意、そのの給はぬとは、許し給はぬをいふ也、
 
于羅遇破能紀《ウラグハノキ》、
末桑之木《ウラクハノキ》也、うらは、末をいふ、萬葉卷(ノ)八に、末葉《ウラハ》、卷(ノ)十に、末若《ウラワカミ》など見えたり、集中いとおほし、さてその末桑《ウラクハ》を、心強《ウラゴハ》きといふ意に、通《カヨハ》したる也、皇后の心強くて、おぼろけには、ゆるし給はぬといふ意、心をうらといふは、萬葉卷(ノ)一に、浦佐備弖《ウラサビテ》、卷(ノ)二、浦不樂晩《ウラサビクラシ》、卷(ノ)八、裏悲《ウラガナシ》、卷(ノ)十四、宇良毛登奈久毛《ウラモトナクモ》、猶あまたあり、
 
豫屡麻志士枳《ヨルマシキ》、 
不v可v依《ヨルマジキ》也、今の俚言に、よるまいといふに同じ、皇后の心強て、天皇により給はぬに譬ふ、
 
箇破能區莽愚莽《カハノクマグマ》、
河之隈々《カハノクマ/\》也、くまの言は、上に出たり、
 
豫呂朋譬喩久伽茂《ヨロボヒユクカモ》、
徒※[行人偏+奇]行哉《ヨロボヒユクカモ》也、徒※[行人偏+奇]《ヨロホヒ》は、今の言に、よろ/\といへるに同じ、皇后のゆるし給はぬによりて、御自(ラ)行幸《イデマ》し給ふ、御身のさまを、桑の枝のよろほひ流行《ナガレユク》に、譬させ給へるなり、
 
(13ウ)明日《アスノヒ》乘輿《スメラミコト》、詣(リタマヒテ)2于|筒城《ツヽキノ》宮(ニ)1、喚《メシタマフ》2皇后(ヲ)1、皇后|不2參見《ミアヒタマハズ》1、時(ニ)天皇歌曰、 古事記(ニ)云、口子(ノ)臣、亦其妹口比賣(ト)、及|奴理能美《ヌリノミ》三人、議(テ)而令v奏2天皇(ニ)1云、云云、爾(チ)天皇御2立(シテ)其大后所v坐殿戸1歌曰、とあり、
 
57 菟藝泥赴《ツギネフ》、
如(シ)2上註1、
 
椰摩之呂謎能《ヤマシロメノ》、
山背女之《ヤマシロメノ》也、河内女《カハチメ》、倭女《ヤマトメ》、などいへる類なり、
 
許久波茂知《コクハモチ》、
小鍬持《コクハモチ》也、小《コ》は、大小の小の意か、又は添言にて、小田《ヲタ》の小《ヲ》に同じき意か、くはは、土を崩《クヤ》すもの故の名なるべし、はは、刃《ヤイバ》のはなり、
 
于智辭於朋泥《ウチシオホネ》、
打之蘿匐《ウチシオホネ》也、打とは、今も畠《ハタ》を打《ウツ》、田《タ》を打《ウツ》、鍬打(チ)、などいへり、堀るをいふ、蘿匐《オホネ》は、その根の大なる故の名、今は大根《ダイコン》と、字音に呼べり、
 
佐和佐和珥《サワサワニ》、
騷々爾《サワサワニ》也、さわは、鍬もて、畠を打《ウツ》音《オト》にて、それを皇后の憤《イキドホリ》まして、騷《サワガ》しくノ給ふといふ意に、いひよせ給へるなり、萬葉卷(ノ)一に散和久御民《サワグミタミ》、卷(ノ)五に佐和久子等《サワグコドモ》とあり、今の言にも、佐和賀之《サワガシ》といふ是也、その騷ぐ(14オ)といふ言は、もとものゝ音より、出たる詞なるべし、
頭注、○とゞとして、ひし/\、かゞ呑《ノム》、などみな物の音より、出たる詞也、會せ考よ、
 
儺餓伊幣劑虚曾《ナガイヘセコソ》、
汝言爲者乞《ナガイヘセバコソ》也、婆《バ》を省くは、古言の格也、繼體紀の歌に、倭我瀰細麼《ワガミセバ》、とあるも、今も同じき、語のさまなり、
 
于知和多須《ウチワタス》、
打渡《ウチワタス》也、萬葉卷(ノ)四に、打渡《ウチワタス》、竹田之原《タケダノハラ》、古今集に、うちわたす、をちかた人、などあり、わたすは、見渡すの渡す也、遙に見渡さるゝ所をいふ、
 
耶餓波曳儺須《ヤガハエナス》、
彌木生成《ヤコハエナス》也、耶《ヤ》は、今本|那《ナ》に誤れり、古事記に、夜《ヤ》とあれば、耶《ヤ》の字の誤しるければ改つ、さてやがはえは、延喜式祝詞に、八桑枝《ヤクハエ》とあると、同言にて、【倶《グ》も餓《ガ》も、呉《ゴ》の轉音なり、】木の多く生繁れる所をいふ、尾張國にては、木の芽の生るを、やごといふといへり、即|彌木《ヤゴ》なるべし、生《ハエ》は、林《ハヤシ》也、はやしは、生爲《ハエシ》也、成《ナス》は如の意、かく詔《ノリ》給ふは、皇后の騷《サワガ》しくの給ふ故に、おほくの人々をつかはされ、終《ツヒ》には御自もいでましけるを、林の木の繁が如く、追々に御心をとり直《ナホサ》むとて、參來《マヰク》れと、詔ふ意也、
 
企以利摩韋區例《キイリマヰクレ》、
來入參來《キイリマヰクレ》也、萬葉卷(ノ)二十に、安禮波麻爲許牟《アレハマヰコム》、佛足跡の歌に、和禮毛麻韋弖牟《ワレモマヰテム》と見ゆ、古事記は、此歌を終に次《ツイデ》て、此歌(ノ)下に、此天皇與2大后1所v歌六(ノ)歌者、志都歌之《シツウタノ》反歌也、とあり、
 
(14ウ)亦歌曰、
 
58 菟藝泥赴《ツギネフ》、
句、
 
夜莽之呂謎能《ヤマシロメノ》、
句、
 
許玖波茂知《コクハモチ》、
句、
 
于智辭於朋泥《ウチシオホネ》、
以上四句如2上註(カ)1、
 
泥士漏能《ネジロノ》、
根白之《ネシロノ》也、蘿※[草がんむり/匐]の根の、白きを、皇后の御手の、白きに譬て、次句へつゞけ給へる也、
 
辭漏多娜武枳《シロタダムキ》、
白臂《シロタヾムキ》也、和名抄に、陸詞切韻(ニ)曰、腕、【烏段(ノ)反、和名太々舞岐、一(ニ)云、宇天、】手腕也、新撰字鏡に、臂、太々牟伎《タヾムキ》とあり、向股《ムカモヽ》の名に合(セ)考るに、左右の手の、相向ふ意、手々向《タヽムキ》にて、即(チ)臂をいふなるべし、
 
摩箇儒鷄麼虚曾《マカズケバコソ》、
不v纏來者乞《マカズケレバコソ》也、萬葉卷(ノ)三に、尚不如家利《ナホシカズケリ》、卷(ノ)四に、夢爾不所見來《イメニミエズケリ》などあると、【集中いとおほかり、】同格の語にて、不v《マカズ》ければこそ、といふ言也、
 
辭羅儒等茂伊波梅《シラズトモイハメ》、
不v知等毛將v言《シラストモイハメ》也、手枕を、まかすあらばこそ、すげなく不v知ともの給はめ、共寐《トモネ》し給ひしうへに、今更かくまで、聞入給はぬは、いかにと詔ふ意也、不v知は、俗言に、聞入まじきとおもふには、さる事吾は(15オ)不v知と、いふ意なるべしと、契冲いへり、
 
時(ニ)皇后|令《セ》v奏《マヲサ》言《タマハク》、陛下《スメラミコト》納2八田(ノ)皇女(ヲ)1爲《シタマフ》v妃(ト)、其|不《ズトノタマヒテ》v欲d副(テ)2皇女1而爲uv后、遂(ニ)不v奉v見《ミアヒタマハザリキ》、云云、
 
四十年春三月、納(テ)2雌鳥《メトリノ》皇女(ヲ)1欲(ス)v爲(ト)v妃(ト)、以2隼別《ハヤブサワキノ》皇子(ヲ)1爲《シタマフ》v媒(ニ)、時(ニ)隼別(ノ)皇子密(ニ)親娶而《タハケテ》久之《ヒサヽニ》不《ズ》2復命1《カヘリコトマヲサ》、於v是天皇不v知(シメサ)v有(コトヲ)v夫而|親《ミツカラ》臨《イデマス》2雌鳥(ノ)皇女之殿《トノニ》1、時(ニ)皇女(ノ)織※[糸+兼]女人等《ハタオリヲミナラ》、歌之曰、 古事記は、本末を二首として、天皇と、女王の唱和とせり、そのつたへ異なり、上層《カミ》に註《シル》せり、
頭注、○古事記(ニ)云、於此女鳥(ノ)王、坐v機而織v服(ヲ)尓(チ)天皇歌曰、
賣杼理能《メドリノ》、和賀袁冨岐美能《ワガオホキミノ》、淤呂須波多《オロスハタ》、他賀多泥呂迦母《タガタネロカモ》、
女鳥王答曰、
多迦由久夜《タカユクヤ》、波夜夫佐和氣能《ハヤブサワケノ》、美淤須比賀泥《ミオスヒガネ》、
 
(15ウ)59 比佐箇多能《ヒサカタノ》、
日刺方之《ヒサカタノ》也、あめにかゝる發語、萬葉卷(ノ)三の別記に委し、
 
阿梅箇儺麼多《アメカナバタ》、
天綺之機《アメカリノバタ》也、【里《リ》を省き、之《ノ》を奈《ナ》といへる也、】垂仁紀に、綺戸邊《カリハタトベ》とあるを、古事記には、苅羽田刀辨《カリハタトヘ》と書きたり、加利波多《カリハタ》は、加登里機《カトリハタ》也、萬葉卷(ノ)十四に、筑紫なる、にほふ兒《コ》ゆゑに、美知乃久能《ミチノクノ》、加刀利乎登賣《カトリヲトメ》の、由比思比毛等久《ユヒシヒモトク》、とある歌、にほふ兒に對して、綺少女《カトリヲトメ》といへるは、女巧をたゝへて、即(チ)女をほむる言とせりと聞ゆ、さればこゝも、綺《カリハタ》を女王に比し、その綺は、則(チ)速總別《ハヤブサワケノ》皇子のものぞと、いへるこゝろなり、
 
謎廼利餓《メトリガ》、
雌鳥之《メトリガ》也、女王の名、
 
於瑠箇儺麼多《オルカナバタ》、
織綺機《オルカナバタ》也、如2上註1、
 
波椰歩佐和氣能《ハヤブサワケノ》、
速總別之《ハヤブサワケノ》也、皇子の御名、
 
瀰於須譬鵝泥《ミオスヒカネ》、
御襲我禰《ミオスヒカネ》也、このおすひは、女のかくる押日《オスヒ》とは、言《コト》ひとしくて、もの異也、是はうへのきぬの類をいふ、古事記、八千矛(ノ)神の御歌に、多智賀遠母《タチガヲモ》、伊麻※[こざと+施の旁]登加受弖《イマダトカズテ》、淤須比遠母《オスヒヲモ》、伊麻※[こざと+施の旁]登加泥婆《イマダトカネバ》、云云、萬葉卷(ノ)十四に、古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》云云、是等のおすひ、おそきは、男子の服にて、こゝと同じ、さてかねといふ言は、后がね、聟がねなどいふかねにて、兼ておもひ設る意といへり、萬葉集中に、我禰《カネ》とも、我爾《カニ》とも有(リ)(16オ)ていとおほかるは、皆|某《ナニ》にてあらん、といふ意にて、凡は協へり、
 
俄(ニシテ)而隼別(ノ)皇子、枕(ニシテ)2皇女之膝(ヲ)1以臥《フセリ》、乃(チ)語之曰《カタリタマハク》、孰2捷《イヅレトキ》鷦鷯《サヽギト》與《ト》1v隼《ハヤブサ》1焉、曰《イヘリ》2隼捷《ハヤブサトシト》1也、乃皇子(ノ)曰、是我(ガ)所v先也、天皇|聞《キヽタマヒテ》2是言(ヲ)1更(ニ)亦起(タマフ)v恨(ヲ)、時(ニ)隼別皇子之|舍人等《トネリラ》歌曰、  【古事記は、此歌の傳つたへ異也、】
頭注、古事記(ニ)曰、故天皇知(テ)2其情(ヲ)1、還2入於宮(ニ)1、此時其夫速總別(ノ)王、到來之時、其妻女鳥(ノ)王歌曰、比婆理波《ヒバリハ》、阿米邇迦氣流《アメニカケル》、多迦由玖夜《タカユクヤ》、波夜夫佐和氣《ハヤブサワケ》、佐邪岐登良佐泥《ササキトラサネ》、とあり、
 
60 破夜歩佐波《ハヤブサハ》、
隼者《ハヤフサハ》也、皇子を比したり、
 
阿米珥能朋利《アメニノボリ》、
昇《ノボリ》2於天《アメニ》1也、釋記(ニ)云、可v昇2天位1也、といへり、
 
等弭箇慨梨《トビカケリ》、
飛翔《トビカケリ》也、
 
伊菟岐餓宇倍能《イツキガウヘノ》、
五十槻之上之《イツキガウヘノ》也、萬葉卷(ノ)十三に、百不足《モヽタラス》、五十槻枝丹《イツキガエダニ》、水枝指《ミツエサス》、秋赤葉《アキノミミチバ》、と見えたり、槻は、いまけやきといふもの也、さてかく唱《ウタ》へるは、大鷦鷯(ノ)尊の、高く大御位に大まし(16ウ)ますを、譬たり、
 
娑奘岐等羅佐泥《ササギトラサネ》、
鷦鷯《サヽキ》令《セ》v捕《トラ》也、かしこくも大鷦鷯(ノ)尊を、令v殺《シ》奉りて、大御位ヲ、奪(ヒ)給へといふ意ト聞ゆ、とらさねは、とらせといふを、延(ヘ)たる古言也、萬葉に、行さね、苅さね、なとあまた有、令《セ》v行《ユカ》、令《セ》v苅《カラ》の延(ヘ)言なり、
 
天皇聞(シメシテ)2此歌(ヲ)1而|勃然《タチマチ》大|怒之曰《イカリタマハク》、朕以2私(ノ)恨(ヲ)1、不v欲v失(ヲ)v親《ハラカラヲ》、忍(ヘリ)v之(ヲ)也、何(ヲ)※[宜の一画目が興の上半]《モチテカ》矣私事(ヲモツテ)將《ストノタマヒテ》v及(ト)2于|社稷《クニニ》1、則(チ)欲v殺(ナモト)2隼別(ノ)皇子(ヲ)1、時(ニ)皇子|率《ヰテ》2※[此+鳥]鳥(ノ)皇女(ヲ)1、欲(テ)v納《マヰラムト》2伊勢(ノ)神宮(ニ)1而馳、於v是天皇聞(メシテ)2隼別(ノ)皇子|逃走《ニケタマヘリト》1、即(チ)遣(シテ)2吉備(ノ)品遲部(ノ)雄※[魚+即]《ヲブナ》、播磨(ノ)佐伯直阿我能胡《サヘキノアタヘアガノコヲ》1曰、追(テ)v之所(ニ)v逮(ブ)(17オ)即(チ)殺《コロセ》、云云、雄※[魚+即]等追之《ヲフナラオヒテ》、至(リテ)2菟田《ウダニ》1、迫2素珥《ソニ》山(ニ)1、時(ニ)隱(テ)2草(ノ)中(ニ)1、僅(ニ)得v免(ルヽコトヲ)急走而《トクワシリテ》越《コユ》v山(ヲ)、於v是|皇子《ミコ》歌曰、
 
61 破始多弖能《ハシダテノ》、
梯立之《ハシタテノ》也、梯《ハシ》を立タらん如き、山の嶮《サガ》しきをいふ也、古事記は、久良波斯夜麻波《クラハシヤマハ》、とツゞけたり、萬葉卷(ノ)七にも、橋立《ハシダテノ》、倉橋山《クラハシヤマ》、又、橋立《ハシタテノ》、倉橋川《クラハシガハ》ともよみたり、梯《ハシ》は、和名抄に、郭知玄(カ)云、梯、【音低、和名加介波之、】木楷所2以登(ル)1v高(ニ)也、とあり、
 
佐餓始枳椰摩茂《サガシキヤマモ》、
嶮山毛《サカシキヤマモ》也、
 
和藝毛古等《ワギモコト》、
與2吾妹子1《ワギモコト》也、わがいもこを、賀伊《ガイ》の約|藝《ギ》なれば、かくいふ、我家《ワガイヘ》を、和藝倍《ワギヘ》といへると、同例なり、
 
赴駄利古喩例麼《フタリコユレバ》、
二人越有者《フタリコユレバ》也、
 
椰須武志呂箇茂《ヤスムシロカモ》、
安席哉《ヤスムシロカモ》也、安《ヤス》とは、祝詞に、安【氣久、】《ヤスラケク》平【氣久、】《タヒラケク》と續《ツヾキ》て、安きは即(チ)平らかなる意なり、席《ムシロ》は、身代《ミシロ》にて、【今もいなか人は、みしろといへり、代の言は、上に出、】顯宗紀(ノ)歌に、伊儺武斯盧《イナムシロ》、※[加/可]簸泝比(17ウ)野儺擬《カハゾヒヤナギ》とあり、師の冠辭考に、寐席革《イナムシロカハ》と、かゝれる言ぞといはれし、古事記、須勢理毘賣《すせりびめの》命の御歌に、牟斯夫須麻《ムシブスマ》、といへるも、席衾《ムシロフスマ》にて、寢所に引敷《ひきしく》、衾なるべし、【萬葉四(ノ)卷の別記に詳也、】是等の言もて按に、安席《ヤスムシロ》は、寢所の席の、安くたひらかなるをいひて、妹と行ば、嶮しき山路も、平地を行が如く、やすらかに、おもほしめすといふ、譬とし給へる也、
頭注、○古事記(ニ)云、波斯多底能《ハシダテノ》、クラハシヤマヲ、サガシミト、イハカキカネテ、ワガテトラスモ、又歌曰、ハシタテノ、クラハシヤマハサガシケド、イモトノボレバ、サガシクモアラズ、〔入力者注、歌謡部分二句目以下漢字省略〕
 
爰(ニ)雄※[魚+即]|等《ラ》、知(テ)v免(ヲ)以(テ)急(ニ)追(テ)、及(テ)2于|伊勢蒋代野《イセノコモシロヌニ》1而殺v之、
 
五十年春三月壬辰(ノ)朔、丙申、河内(ノ)人奏言、於2茨田(ノ)堤1鴈産之《カリコウメリトマヲス》之、即日遣(テ)v使(ヲ)令《セタマフニ》v視《ミ》曰《マヲセリ》2既實《マコトナリト》1也、天皇於v是歌(ヲ)以(テ)問2武内(ノ)宿禰(ニ)1曰《タマハク》、(18オ)  古事記(ニ)云、一時天皇爲v將(ト)2豐樂1、而行2幸日賣《ヒメ》島(ニ)1【攝津國なり、】之時《トキ》、於2其島1鴈生v卵、爾召(テ)2武内(ノ)宿禰(ノ)命(ヲ)1、以v歌問(タマフ)2雁生v卵之状(ヲ)1、其歌曰、云云、河内と、攝津と、其地の傳(ヘ)異なり、
 
62 多莽耆破屡《タマキハル》、
如(シ)2上註1、
 
于知能阿曾《ウチノアソ》、
如(シ)2上註1、
 
儺虚曾破《ナコソハ》、
汝乞者《ナコソハ》也、こそは、助辭也、汝《ナ》は、親しみ呼(フ)稱なり、
 
豫能等保臂等《ヨノトホヒト》、
世之遠人《ヨノトホヒト》也、遠《トホ》とは、年高く老たるをいふ、高きを、遠《トホ》きといふは、萬葉卷(ノ)九に、遠妻四《トホツマシ》、高爾有世婆《タカニアリセバ》、といへるも、遠妻《トホツマ》の、遠くあらむよりは、といふ意、卷(ノ)十一に、高々二吾待君《タカ/\ニワカマツキミ》、といへるも、【卷(ノ)四、卷(ノ)十二、卷(ノ)十三、卷(ノ)十八、卷(ノ)十七、等にも見えたり、】遠《トホ》くに吾待君《ワカマツキミ》といふ言也、
頭注、古事記は、此句、余能那賀乃比登《ヨノナガノヒト》、とありて、次の二句なし、
 
儺虚曾波《ナコソハ》、 
如(シ)2上註1、
 
區珥能那餓臂等《クニノナガヒト》、
國之長人《クニノナカヒト》也、吾國第一の、長命の人と詔ふ意也、
 
阿耆豆辭莽《アキヅシマ》、
秋津島《アキツシマ》也、神武天皇の、大御言より發れる號《ナ》なる事、紀に見ゆ、さるは、倭國《ヤマトノクニ》を詔《ノタマ》へりし言なるを、後は畿内に亘《ワタ》してもいへり、次句の耶麻登《ヤマト》の國號に同じ、
頭注、古事記は、阿耆豆辭莽《アキヅシマ》の句を、蘇良美都《ソラミツ》とせり、倭《ヤマト》の發語、國號考ニ委し、
 
椰莽等能區珥々《ヤマトノクニニ》、
(18ウ)於2倭國1《ヤマトノクニニ》也、倭とは、上にもいふ如く、大和(ノ)國一國の號《ナ》なるを、畿内をかけていふ言となり、後は惣(ヘ)て、大八洲國にわたる稱《ナ》となれり、さるよしは、宣長が國號考に詳なれは、今は省《ハブ》けり、倭《ヤマト》の號《ナ》の説、己(ガ)考は、萬葉卷(ノ)三の別記に委し、
 
箇利古武等《カリコムト》、
雁卵産登《カリコウムト》也、うむのうを省くは、古言也、古事記は、加利古牟登岐久夜《カリコムトキクヤ》、とありて、次の句なし、
 
儺波企箇輸椰《ナハキカスヤ》、
汝者聞爲哉《ナハキカスヤ》也、加須《カス》を約れば、久《ク》となれり、古事記に、岐久夜《キクヤ》とあるに同じ、さてきかすやは、きかせるやなり、聞《キカ》せるやは、聞《キカ》したるやにて、聞たる事もありやと、問せ給ふ也、
 
武内(ノ)宿禰(ノ)答歌曰、
 
63 夜輸瀰始之《ヤスミシシ》、
安見爲之《ヤスミシシ》也、下の之《シ》は、助辭、萬葉考に委し、
 
和我於朋枳瀰波《ワガオホキミハ》、
我大王者《ワカオホキミハ》也、この二句、萬葉にいとおほくて、次の句は、高照《タカヒカル》、日皇子《ヒノミコ》とつゞけたり、その言のよしは、萬葉卷(ノ)三の別記に、委しくいへり、古事記は、此の句なくて、多迦比迦流《タカヒカル》、比能美古《ヒノミコ》とあり、【高く天に照ます、日の神の御子といふ意、】是を萬葉に相照らして按に、紀記互に、一句を脱《オト》せるにやあらむ、
 
于陪儺于(19オ)陪儺《ウベナウベナ》、
諾也諾也《ウベナウベナ》也、うべは、承諾の意、是も萬葉に多き詞也、後世は、むべと云(ヘ)り、
 
和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》、
我乎間爲也《ワレヲトハスナ》也、下の儺《ナ》は也《ナリ》といふ意、後ならば和例邇《ワレニ》とあるべきを、烏《ヲ》といへるは、古言也、烏《ヲ》は、彼よりいふ言、邇《ニ》は、我よりいふ言にて、彼我の差別《ケヂメ》あり、次の歌に、阿布夜烏等謎烏《アフヤヲトメヲ》とある烏《ヲ》も、をとめのかたより、吾《ワレ》にあふ也、よく考て、心得おくべき也、古事記は、この二句を、宇倍志許曾《ウベシコソ》、斗比多麻閉《トヒタマヘ》、として、次に、麻許曾邇《マコソニ》、斗比多麻閉《トヒタマヘ》、阿禮許曾波《アレコソハ》、余能那賀乃比登《ヨノナガノヒト》、といふ四句あり、
 
阿企菟辭摩《アキツシマ》、
如(シ)2上註1、古事記は、こゝも蘇良美都《ソラミツ》と有、やまとの發語、萬葉考に委し、
 
椰莽等能倶珥々《ヤマトノクニヽ》、
如(シ)2上註1、
 
箇利古武等《カリコムト》、
上に註がごとし、
 
和例破枳箇孺《ワレハキカズ》、
我者未聞《ワレハキカズ》也、古事記には、伊麻※[こざと+施の旁]岐加受《イマタキカズ》、とあり、古事記(ニ)云、如v此白(テ)而|被《リ》v給(ハ)2御琴(ヲ)1歌曰、那賀美古夜都毘邇斯良牟登《ナガミコヤツヒニシラムト》、加理波古牟良斯《カリハコムラシ》、此者本岐歌之片歌《コハホギウタノカタウタ》也云云、初句は、汝之御子哉《ナガミコヤ》那、二句は、遂爾將知登《ツヒニシラムト》那、その意は、遠く長く、世を知しめさば、かゝるためしなき事も、後(チ)終《ツヒ》に知らさんとて、鴈《カリ》も卵《コ》を産《ウム》らし、といふ意と聞ゆ、
 
(19ウ)第十二(ノ)卷、 去來穗別《イザホワキノ》天皇、【一首、履中天皇、】
 
八十七年春正月、大鷦鷯《オホサヽギノ》天皇|崩《カムアガリマス》、皇太子《ヒツギノミコ》自2諒闇1出之《イデマシテ》、未《ザル》v即(タマハ)2尊位1之問(ニ)、以(テ)2羽田矢代《ハダノヤシロ》宿禰(ノ)之女|黒媛《クロヒメヲ》1、欲v爲(ムト)v妃(ト)、能釆《アトラヘゴト》既(ニ)訖(ル)、云云、爰(ニ)仲(ノ)皇子、畏(ミテ)v有(ムコトヲ)v事、將v殺2太子(ヲ)1、密(ニ)興(シテ)v兵(ヲ)圍(ム)2太子宮(ヲ)1、時(ニ)平群(ノ)木菟(ノ)宿禰、物部(ノ)大前(ノ)宿禰、藻直《アヤノアタヘノ》祖|阿知使主《アチノオミ》、三人啓(ス)2於太子(ニ)1、太子|不《ズ》v信《ウケタマ》、【一(ニ)云、太子醉(テ)二以不v起、】故三人|扶《タスケテ》2太子(ヲ)1(20オ)令《セタテマツリテ》v乘(ラ)v馬(ニ)而|逃之《ニク》、仲(ノ)皇子(ハ)不(テ)v知2太子(ノ)不《スヲ》1v在《オハシマサ》、而焚2太子(ノ)宮(ヲ)1、通夜《ヨモスガラ》火《ヒ》不v滅、太子到(リマシテ)2河内(ノ)國|埴生坂《ハニフサカニ》1而|醒之《サメヌ》、顧2望|難波《ナニハヲ》1、見《ミテ》2火(ノ)光(ヲ)1而|大《イタク》驚《オドロカシ》、則(チ)急(ギ)馳(テ)之自(リ)2大坂1向(ヒタマフ)v倭(ニ)、至(テ)2于飛鳥山1、遇《アヒタマヘリ》2少女《ヲトメニ》於山口(ニ)1、問之曰、此山ニ有人|乎《ヤ》、對曰、執(レル)v兵者、多《サハニ》滿《イハメリ》2山(ノ)中(ニ)1、宜d廻《カヘリテ》自2當摩徑《タギマヂ》1踰《コエタマヘ》uv之、太子|於《ニ》v是《コヽ》以爲《オボサク》、聆(テ)2少女(ノ)言(ヲ)1而|得《エヌ》v免(コトヲ)v難(ヲ)、則(チ)歌之曰、
 
(20ウ)64 於朋佐箇珥《オホサカニ》、
於《ニ》2大坂《オホサカ》1也、この大坂は、大和(ノ)國葛下(ノ)郡にて、今の竹内越と、國府越との間に、一道ありて、その道に、大坂村有て、大坂山口(ノ)神社も、そこにたゝせ給へり、といへり、その山を、彼方に、越れば、河内國、丹比《タヂヒノ》郡、飛鳥村に至ると、大和國人のいへり、是ぞ古事記に所v謂、近飛鳥《チカキアスカ》也ける、こゝの至(ル)2于飛鳥山(ニ)1といふは、即(チ)是か、己いまだ親《ミヅカラ》その地を見ねば、違へる事も有なむ、猶よく尋べき也、
 
阿布夜烏等謎烏《アフヤヲトメヲ》、
遇哉少女烏《アフヤヲトメヲ》也、今の言に、をとめにあふやといふ意、をとめをといふは、古言なるよし、上にいへり、此|遠《ヲ》の助辭《テニハ》、中古のものにも見えたり、
 
瀰知度沛麼《ミチトヘバ》、
路問者《ミチトヘバ》也、
 
※[口+多]駄珥破能邏孺《タダニハノラズ》、
直爾者不v告《タダニハノラズ》也、直《タヾ》とは、直徑《タヾミチ》にて、大坂より、直徑《タヾミチ》を、石上の神宮に行幸《イテマサ》ば近きを、さは申さずて、といふ意也、告の字を、萬葉集中、惣(ベ)て能留《ノル》と訓たり、都遇《ツグ》の古言也、
 
※[口+多]耆摩知烏能流《タギマチヲノル》、
當摩路乎告《タギマヂヲノル》也、是は、今の竹内越より分れて、少し北に、一道あり、當麻《タギマ》へ至る、岩屋越といふ道也、といへり、此道を經て、石上にいたりまさむは、迂遠の道なるを、かくをとめの告《ノリ》しに隨ひて、難を免給へるを、歡喜《ヨロコビ》給へる、大御意より、うたはせる御歌ぞ、
 
(21オ)第十三(ノ)卷 雄朝津間稚子宿禰《ヲアサヅマワクコノスクネノ》天皇、 【九首、允恭天皇、】
 
八年春二月、幸《イデマシテ》2于藤原(ニ)1、密《ミソカニ》察《ミタマフ》2衣通郎姫之消息《ソトホシノイラツメノアリサマヲ》1、是《コノ》夕衣通(ノ)郎姫、戀《コヒマツリ》2天皇(ヲ)1而|獨居《ヒトリハベリ》、其|不《ステ》v知(ラ)2天皇(ノ)之|臨《イテマセルヲ》1而歌曰、
 
65 和餓勢故餓《ワガセコガ》、
吾兄子之《ワカセコガ》也、仁賢紀(ニ)云、古者《イニシヘ》不v言2兄弟長幼(ヲ)1、女(ハ)以v男(ヲ)稱v兄《セト》、男(ハ)以v女(ヲ)稱v妹《イモト》、とあれど、萬葉集中を考るに、男とち互《カタミ》に勢《セ》といひ、女どち互に妹《イモ》といへり、さては勢《セ》は、男の稱、妹《イモ》は、女の稱と心得べきなり、子《コ》は、阿呉《アゴ》も、阿藝《アキ》も、ひとつ意にて、睦《ムツマ》しむ言のよしは、既に上にいへり、是は天皇をさして、稱《マヲ》し給へる也、
 
句倍枳豫臂奈利《クベキヨヒナリ》、
可來夜也《クベキヨヒナリ》也、よひとは、初夜をいふ言と心得るは、非也、夜の(21ウ)程をいふ言にて、夜部《ヨベ》におなし、
 
佐瑳餓泥能《ササガネノ》、
小竹之根之《ササカネノ》也、組《クム》といふ言にかゝる、發語也、佐瑳《ササ》は、小竹の名、萬葉卷(ノ)二に、小竹之葉者《サヽガハハ》、三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《サタゲドモ》、とありて、【集中、假字書には、卷(ノ)廿に、佐々賀波乃《ササガハノ》、佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》、と見えたり、】泥《ネ》は、松がねの根《ネ》に同じく、本をいふ、さて組《クム》とかゝるは、師の冠辭考、さす竹の君《キミ》の解にいはれし如く、組《クム》は隱《コモリ》にて、繁くこもりかなるをいふ言也、今くま笹といふ名のあるは、即(チ)隱《コモ》り小竹《サヽ》なるを、併(セ)按べし、さて久毛《クモ》と、久牟《クム》とは、同言なるは、上八雲たつの御歌に、くはしくいへり、
頭注、○古今集に、今しはと、わひにしものを、さゝがにの、ころもにかゝり、われをたのむる、と有は、歌のしらべも、古く聞ゆれば、蛛をさゝがにといへるも、古き言にこそあらめ、しかれども、こゝのさゝがねを、蛛の名としては又下に、蜘といひ重ぬべきにもあらず、決てくもにかゝる、發語《マクラコトバ》にこそあらめ、
 
區茂能於虚奈比《クモノオコナヒ》、
蜘蛛之擧動《クモノオコナヒ》也、くもといふ名も、そのいを組《クム》より、名におふしゝならむ、さてその組《クム》といふよしの名につきて、男女の相|隱《コモ》り寐《ネ》る、前祥《マヘツシルシ》とはする也、【古事記の歌に、伊久美※[こざと+施の旁]氣《イクミダケ》、伊久美波泥受《イクミハネズ》、といへるも、男女の相隱り寐るをいふ、この言もて、こゝの發語の意をも、おもひ明らむべし、】おこなひは、ふるまひといふに同じく、擧動を云、即古今集には、蛛のふるまひと有、
 
虚豫比辭流辭毛《コヨヒシルシモ》、
今夜驗毛《コヨヒシルシモ》也、君|來《キ》まさむ、前祥の、こよひしるきといふ意、古今集には、かねてとあり、
頭注、○此篠が根の説はおのれ年月しかにやと、おもひをりつるに、近ごろ或人もいへり、
 
天皇|聽《キコシメシ》2是歌(ヲ)1、則有(リテ)2感情《メテタマフミコヽロ》1而|歌之曰《ウタヒタマハク》、
 
(22オ)66 佐瑳羅餓多《ササラガタ》、
細紋形《ササラカタ》也、さゝらは、小(サ)きをいふ言にて、萬葉卷(ノ)十四に、細荻を、佐々良乎疑《サヽラヲギ》、和名抄に、細石、和名|佐々禮伊之《サヽライシ》、【萬葉集にも多く見ゆ、】など見えたり、【小浪を、さゝら波と云も同じ、】形《カタ》とは、紋をいふ、今の言にも、しかり、延喜神名帳に、伊勢(ノ)國多氣(ノ)郡、服部圓方《ハトリマトカタノ》神社とあるも、圓紋を云なるべくおぼゆ、同、大神宮式御装束の條に、小紋(ノ)紫被、小紋(ノ)紫衣、など見えたる小紋は、このさゝらがたなるべし、月の別名を、佐々良榎壯士《サヽラエヲトコ》といへば、月紋の錦ぞといふ説は、とらず、
頭注、さゝらの言は、萬葉四(ノ)卷、別記にいふを見べし、
 
邇之枳能臂毛弘《ニシキノヒモヲ》、
錦之紐乎《ニシキノヒモヲ》也、ひもは、上紐《ウハヒモ》、下紐《シタヒモ》、いれ紐《ヒモ》、など、差別あれど、いづれ紐は、左右に縫着て、引結ぶものと見えて、萬葉卷(ノ)十一に、狛錦《コマニシキ》、紐乃片《ヒモノカタ》へぞ、床《トコ》に落《オチ》にける、とあり、さるは、卷(ノ)十六に、水縹絹帶《ミハナダノキヌノオヒヲ》、引帶成《ヒキヲビナス》、韓帶爾取爲《カラオヒニトラシ》、とある引帶《ヒキオビ》や、是ならむ、【竹取翁(ノ)歌の解にいへり、】紀中、衣帶の二字を、ころもひもと訓めるもて、紐《ヒモ》は、帶なるを知べし、さて紐は、殊によろしき錦もて爲《シ》けむ、古歌にそのよし見えたり、
 
等枳舎氣帝《トキサケテ》、
解開而《トキサケテ》也、萬葉卷(ノ)十一に、狛錦《コマニシキ》、紐解開《ヒモトキサケテ》、卷(ノ)四に、紐解不離《ヒモトキサケズ》、卷(ノ)十九に、紐解放而《ヒモトキサケテ》、と見えたり、さくは、ひらくと同意なるよしは、上應神紀の、豐祝《トヨホキ》の下、ほさきの解に、いへるを見べし、
 
阿麻多絆泥受邇《アマタハネズニ》、
數多者不v寢爾《アマタハネズニ》也、今本、泥受迹《ネズト》とあれど、(22ウ)迹《ト》は訓なれば、いかにぞやおもへるに、【紀中の歌に、訓を用ひし假字はなし、】釋紀は邇に作れり、字畫の似たれば、今本の誤なるを知りて、改つ、
 
多※[人偏+嚢]比等用能未《タダヒトヨノミ》、
唯一夜耳《タダヒトヨノミ》也、數多夜は、御語らひなくとも、一夜ばかりは、せめて打解て、おましまさむと、大御心に冀《ホリシ》給ふ意也、こは皇后の御妬を、かしこみ給ふが故ぞ、耳《ノミ》といふ言は、漢籍に、何々|而已《ノミ》ととぢむる、のみとは、言の意異也、あるが中に、ひとつを取出て、是のみといふのみ也、古歌を味ひて知るべし、
 
明且《アクルアシタ》、天皇|見《ミソナハシテ》2井傍櫻華《ヰノビノサクラノハナヲ》1、而歌之曰《ウタヒタマハク》、
 
67 波那具波辭《ハナグハシ》、
花細《ハナグハシ》也、くはしは、稱美の詞なるよしは、上既に辨《イヘ》り、萬葉卷(ノ)三の別記、名細の條に論おけるをも、合(セ)見よ、櫻は花のうるはしき物なれば、花細《ハナクハシ》櫻とは、つゞけさせ給へる也、
 
佐區羅能梅涅《サクラノメデ》、
櫻之賞《サクラノメデ》也、櫻の如く、賞《メツ》ると詔ふ意、能《ノ》に如くの意を含るは、例多し、この能《ノ》を、乎《ヲ》の助辭にひとしく心得るは、まだしき也、この言は、句を隔て、終《ハテ》の句へつゞく意、
 
許等梅涅麼《コトメデハ》、
(23オ)如是賞者《コトメテハ》也、この許等《コト》といふ言は、古今集に、ことならば、咲ずやはあらぬ、櫻花、見るわれさへに、しづ心なし、とある初句におなし、この言を、彼集の諸註に、くさぐさあれど、いづれあたれりとも、おもほえず、是は如是《カク》ならばといふ言にて、今の言に、この樣《ヤウ》な事ならば、【俚言に、コンナコトナラと云、】然せねばよかりしを、などいふ意に同じ、萬葉卷(ノ)七に、殊放《コトサケ》ば、奧ゆさけなむ、湊兒《ミナトヨリ》、邊著時《ヘツカフトキ》に、可放鬼香《サクヘキモノカ》、卷(ノ)十三に、琴酒者《コトサケバ》、國丹放甞《クニニサケナム》、別避者《コトサケバ》、宅仁離南《イヘニサケナム》、乾坤之《アメツチノ》、神志恨之《カミシウラメシ》、草枕《クサマクラ》、此※[覊の馬が奇]之氣爾《コノタヒノケニ》、妻應離哉《ツマサクヘシヤ》、とある殊《コト》も、琴《コト》も、假字にて、如是《カク》放《サケ》んとならば、といふ意なるを、おもひ明らむべし、さてこゝは、此やうの賞《メデ》ならば、といふ意なり、
 
波揶區波梅涅孺《ハヤクハメテズ》、
早者不賞《ハヤクハメテス》也、はやくより、賞《メテ》ずあらむものをといふ意、此語格は、上に出たる、痛手不負者《イタテオハズハ》、萬葉の、戀つゝ不有者《アラズハ》、長戀《ナカゴヒ》せずは、とあるは、痛手《イタテ》負《オハ》んよりは、戀つゝあらんよりは、長戀《ナカコヒ》せんよりは、といふ意と、上に註せしに、ひとしき格にて、彼も、痛手《イタデ》不負《オハズ》あらんものを、その痛手負んよりは、云々といふ意也、よく味ひて知るべき也、かく詔ふは、皇后の御妬によりて、おもほしめすまゝに、かたらひ給ふ事もあらねば、かゝる賞《メデ》ならば、賞《メテ》ずあらずあらんものを、と詔ふなり、
 
和餓梅豆留古羅《ワガメツルコラ》、
吾賞子等《ワカメツルコラ》也、子等は、衣通姫を、さし給へ(23ウ)り、等は意なし、萬葉卷(ノ)七に、吾《ワレ》を、吾等《ワレ》と書たる以《モテ》知るべし、上の櫻《サクラ》の賞《メテ》を、此句の上に置て心得べし、
 
十一年、春三月(ノ)癸卯(ノ)朔、丙午、幸《いてます》2於|茅渟《チヌノ》宮(ニ)1、衣通(ノ)郎姫、歌之曰、
 
68 等虚辭陪邇《トコシヘニ》、
常經爾《トコシヘニ》也、陪《ヘ》は上倭建(ノ)命の御歌にいふ、來經《キヘ》の經《ヘ》也、常《トコ》しくに、經行《ヘユク》をいふ、萬葉卷(ノ)九に、常之倍爾《トコシヘニ》、夏冬徃哉《ナツフユユケヤ》、云云、と見えたり、
 
枳彌母阿閇椰毛《キミモアヘヤモ》、
君毛遇哉毛《キミモアヘヤモ》也、椰《ヤ》は、與《ヨ》に通ふ歌の辭、下の毛《モ》は、助語なり、
 
異舎儺等利《イサナトリ》、
不知魚取《イサナトリ》也、海にかゝる發語、舊説|勇魚取《イサナトリ》也、といへり、萬葉にも、勇魚《イサナ》、鯨魚《イサナ》と書、壹岐風士記にも、鯨魚爲(ス)2伊佐(ト)1とあれは、舊説より所あるに似たれど、萬葉卷(ノ)二に、鯨魚取《イサナトリ》、淡海《アフミ》の海《ウミ》とあるは、【言を隔て、海といふ言に、かゝるといへど、】いかにおもひても、湖水にして、鯨取とはいふまじく、又卷(ノ)六に、いさなとり、濱びを清《キヨ》み、とあるも、鯨魚取《イサナトリ》としては、いかにぞやおぼゆる、故つら/\按に、師説に、伊佐利《イサリ》と、【近ころこの射《サ》を、濁音とさだむる人あれど、是等の清濁には、大に論あり、清濁論にいふを見べし、】須奈杼利《スナドリ》(24オ)は同語にて、須奈杼利《スナドリ》と、伊佐儺登利《イサナトリ》と通へば、同じといはれしは的説《アタレリ》といふべし、然れば伊佐奈取《イサナトリ》は、漁《スナドリ》の本語にして、萬葉に、鯨魚《イサナ》、勇魚《イサナ》と書しは、惣(ヘ)て假字とすべし、さてそのいなさとりを、省きつゞめて、伊佐利《イサリ》といふ、【師説に云、伊は、もとの如し、佐奈の反佐也、利は、登利を省て云也、といへり、】かくて伊佐里《イサリ》は、阿佐里《アサリ》の反對にて、伊佐《イサ》は、萬葉卷(ノ)四に、不知也川《イサヤガハ》など書て、【集中|伊佐《イサ》に不知の字を用たる多し、】不v知を云古言也、阿佐《アサ》は、あざやか、あざるなどいひて、この不知《イサ》の反《ウラ》なり、水中に入居る魚の、不v可v知を、網して取、或は釣して捕るを、不知魚取《イサナトリ》といふ、【省きては、いさりといふ、師説に、須奈どりも、伊佐奈|取《トリ》の、伊を省き、須と佐は、通ふ例なれば、同言ぞといはれし、】阿佐里《アサリ》は、地上にあるを取にて、右の反對、求食雉子《アサルキヽシ》、あさり貝。などいへる是也、然らば、いさなとりは、湖水にしても、濱邊にしても、漁する所には、いづこにもかゝる發語とすべし、猶萬葉四(ノ)卷別記に云、
頭注、○このいさりの言、萬葉三(ノ)卷の解にいひしは、まだしきひが言なりき、故四(ノ)卷別記にことわれり、
 
宇瀰能波摩毛能《ウミノハマモノ》、
海之濱藻之《ウミノハマモノ》也、左の詞によるに、濱藻《ハマモ》は、惣名にあらず、神馬藻也と、契冲いへり、和名抄(ニ)云、漢語抄(ニ)云、神馬藻(ノ)三字、云(フ)2奈乃里曾《ナノリソト》1、但(シ)神馬(ハ)莫騎之《ナノリソノ》義也、と見えたり、今ほだはらといふ物是也、
 
余留等枳等枳弘《ヨルトキトキヲ》、
依時々乎《ヨルトキトキヲ》也、濱藻の海邊に來依るが如く、時々われに來依て、あひ給へといふ意也、終《ハテ》の乎《ヲ》は助辭にて、意なし、神代紀の、八重垣乎《ヤヘカキヲ》、とあるをに、同じとすべし、
 
(24ウ)時(ニ)天皇、詣《ノリ》2衣通乃姫(ニ)1曰《タマハク》、是(ノ)歌(ハ)不v可v聆他人(ニ)1、皇后聞(タマハヽ)必大(ニ)恨(タマハン)、故(レ)時(ノ)人號(クテ)2濱藻(ヲ)1、謂(フ)2奈能利曾毛《ナノリソモト》1也、【莫告藻《ナノリソモ》也、告とは、上に云如く、つぐといふに同じき、古言也、
 
二十三年春三月甲午朔、庚子、立2來梨(ノ)輕(ノ)皇子(ヲ)1、爲(ス)2太子(ト)1、客姿《カホ》佳麗《キラ/\シ》、見(ル)者自(ラ)感《メテス》、同母(ノ)妹、輕(ノ)大娘皇女(モ)、亦|艶妙《カホヨシ》也、太子恒(ニ)念《オモホス》v合《ミアヒナモ》2大娘(ノ)皇女(ニ)1、畏(テ)v有(コト)v罪而|駄《モタシタマヘリ》之、然(トモ)感情《メデタマフミココロ》既(ニ)盛(ニ)、殆將v至《ナモト》v死(ニ)、爰(ニ)以爲《オホサク》、徒(ニ)非死《シニセムヨリハ》者、雖《トモ》v有《ツミ》v罪《ツミ》、(25オ)何(ゾ)得v忍乎《シヌビエムトノタマヒテ》、遂《ツヒニ》竊通《ミソカニタハケタマフ》、乃悒懷少息《イキドホロシキミコヽロスコシクヤミテ》、因(テ)以歌之曰《ウタヒタマヘラク》、
 
69 阿資臂紀能《アシビキノ》、
足引之《アシビキノ》也、山にかゝる發語、足《アシ》とは、山の麓をいひ、引《ヒキ》とは、引《ヒキ》はへたるをいふ言也、その説は、萬葉卷(ノ)四の別記にあげたり、
 
椰摩娜烏菟※[糸+句]利《ヤマダヲツクリ》、
作(リ)2山田(ヲ)1也、
 
椰摩娜箇彌《ヤマタカミ》、
山高《ヤマタカ》み也、みは、宣長か説に、高さにと、いはむが如しと云(ヘ)り、舊説には、として也といへり、
 
斯※[口+多]媚烏和之勢《シタビヲワシセ》、
下樋乎令走《シタビヲワシセ》也、下樋《シタヒ》は、地中に埋たる樋《ヒ》をいふ、萬葉卷(ノ)九に、下樋山《シタヒヤマ》、下逝水之上爾不出《シタユクミヅノウヘニイテス》、とあるにて知るべし、和之勢《ワシセ》は、わしらしめ也、水につきて、かく詔へり、さるはみそかに通ひ給ふを、下樋の下行《シタユク》水に、比し給へる也、さて走《ワシル》は、度《ワタル》と、語意やゝ同じ、則下雄略紀の御製に、和斯利底能《ワシリテノ》、與盧斯企耶摩《ヨロシキヤマ》、とあれば、萬葉卷(ノ)二、卷(ノ)十三に、※[走+多]出、走出とあるも、この例もて、わしりでとよむべき也、波之里《ハシリ》とは、語意いさゝか異なり、雄略紀の大み歌に、つばらかにいふを見べし、
頭注、○古事記は、こゝに志多杼比爾《シタドヒニ》、和賀登布伊毛袁《ワガトフイモヲ》、の二句あり、
 
志(25ウ)多那企貳《シタナキニ》、
下泣爾《シタナキニ》也、したとは、裏をいふ言にて、のど聲に、忍びに泣をいふ、
 
和餓儺句菟摩《ワガナクツマ》、
吾泣妻《ワカナクツマ》也、泣《ナク》とは戀泣《コヒナク》也、古事記には、下に遠《ヲ》の字有(リ)、
 
箇※[口+多]儺企貳《カタナキニ》、
獨泣爾《カタナキニ》也、かたは、片思のかたにて、獨の意、
 
和餓儺句菟摩《ワガナクツマ》、
如(シ)2上註1、古事記には、この二句なし、
 
去※[金+尊]去曾《コソコソ》、
昨夜乞《キゾコソ》也、釋記に云、去※[金+尊]《コソ》如(シ)v謂2與倍《ヨヘト》1、といへり、萬葉卷(ノ)二に、君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》夢爾所見鶴《イメニミエツル》、卷(ノ)十四に、伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》、とあり、伎《キ》と古《コ》と、通音なれば、釋紀の説によるべし、舊年を許曾《コソ》といふも、同意の言と聞ゆ、下の古曾は、助辭也、古事記は、下に婆の字あり、
 
椰主区波娜布例《ヤスクハダフレ》、
易膚觸《ヤスクハダフレ》也、膚《ハダ》ふれて、易く逢ませりといふ意、萬葉卷(ノ)十四に、うませごしに、むぎはむこまの、はつ/\に、爾比波太布例思《ニヒハダフレシ》、ころしかなしも、と有、今本に、津娜布例《ツタフレ》とあるは、下樋の水の、流れ傳ふるが如く、下に通まして、逢ましぬと詔ふ意と聞ゆれど、紀中の歌に、訓を用ひたる假宇なければ、津《ツ》の字こそ、心得られね、古事記には、波※[こざと+施の旁]布例《ハダフレ》とあれば、決《キハメ》て後に、書ひかめしものと思ひて、今私にあらためて、註しつるぞ、
 
(26オ)二十四年夏六月、御膳羮汁凝《オモノヽアツモノヽシルコヽリテ》以|作《ナレリ》v氷(ト)、天皇異(テ)v之卜(シムルニ)2其所由(ヲ)1、卜者《ウラヒトノ》曰、有(リ)2内(ノ)亂1、蓋|親々相※[(女/女)+干]乎《ハラカラアヒタハケタマフカ》、時(ニ)有v人曰、木梨(ノ)輕(ノ)太子、※[(女/女)+干]《タハケタマフ》2同母《ハラカラノ》妹輕(ノ)大娘(ノ)皇女(ニ)1、因(テ)以推問《カムガヘトフニ》焉、辭《コト》既(ニ)實《マコトナリ》也、太子(ハ)是|爲《タリ》2儲(ノ)君1、不v得v罪(ヲ)、則流(ツ)2輕(ノ)大娘(ノ)皇女(ヲ)於伊豫(ニ)1、是時太子歌之曰、 こゝに太子(ハ)是爲2儲者1、不v得v罪、云々といへるは、例のこの紀の文飾《カザリ》にして、古事記の、此條に見えたる歌によりて考るに、太子は、伊豫に配し、皇女は、倭《ヤマト》の國にして、ころさえ給へりと、おもはるゝ也、その説は、古事記の歌に、いへるを見べし、
 
(26ウ)70 於褒企瀰烏《オホキミヲ》、
大君乎《オホキミヲ》也、大君は、天皇、皇子、諸王、まての稱なり、女王を申せる例も、萬葉に見えたり、卷(ノ)三別記に、委しくいへり、是は輕の皇女を申せる、此紀の趣なり、
 
志摩珥波夫利《シマニハブリ》、
嶋爾放《シマニハフリ》也、島とは、伊豫(ノ)國をさせり、波夫利《ハフリ》は、はぶらし捨る意と、契沖云り、神代紀に、次(ニ)生(ム)2蛭兒(ヲ)1、云々、故(レ)載(テ)2之(ヲ)天(ノ)磐橡樟舩《イハクスフネニ》1而、順風放棄《カセノマニ/\ハフラシキ》、云々、この放棄の二字、はぶらしき、と訓むべき也、崇神紀に、亦斬2波布理其軍士(ヲ)1、故號2其地(ヲ)1、謂2波布理曾能《ハフリソノト》1、萬葉卷(ノ)二に、玉藻息津藻《タマモオキツモ》、朝羽振《アサハブル》、風社依米《カゼコソヨラメ》、夕羽振《ユフハブル》、波社來縁《ナミコソキヨレ》、古今集に、身は捨つ、心をだにも、はぶらさし、云々、是等を引合せて、その意を知るへし、葬送を、はふりといふも、【今はうむりといふは、音便也、】屍を、はふらし捨る故なれば、おなじ意ななり、
頭注、○古事記は、波夫良波《ハフラバ》とあり、
 
布儺阿摩利《フナアマリ》、
舩餘《フナアマリ》也、今も舩人の言に、舩の岸に着んとするに、その勢のあまりて、やゝ退くを、舩あまりと云り、
 
異餓幣利去牟鋤《イガヘリコムゾ》、
伊皈來曾《イカヘリコムゾ》也、島にはふらしやる舩の、彼に着あまりて、こなたに歸り來んぞと云意也、
 
和餓※[口+多]※[口+多]瀰由梅《ワガタタミユメ》、
我疊勤《ワガタヽミユメ》也、萬葉卷(ノ)十五に、到(テ)2壹岐(ノ)嶋(ニ)1、雪(ノ)連|宅満《イヘマロ》、遇(テ)2鬼病(ニ)1死去之時作歌に、伊敝妣等能《イヘビトノ》、伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》、多大未可毛《タタミカモ》、安夜麻知之家牟《アヤマチシケム》、云云、同、卷(ノ)十九に、梳(27オ)不見自《クシモミジ》、屋中毛波可自《ヤナカモハカジ》、久佐麻久良《クサマクラ》、多婢由久伎美乎《タヒユクキミヲ》、伊波布等毛比弖《イハフトモヒテ》、とあり、此二つを合せて考るに、いにしへ旅幸人《タビユキヒト》の後《アト》に、疊《タヽミ》にあやまちあるときは、其旅人に、禍《マガ》ありといふ、諺有けむ、故旅行人をいはふとては、屋中をもはかず、疊《タヽミ》にあやまちなからん、と、謹《ツヽシ》める事と聞えたり、さればこゝも、疊にあやまちなく、つゝしみて、皇女の全幸《マサキ》く、歸りまさむを、まてと詔ふ也、和餓《ワガ》とは、親しみの給ふ言ぞ、
 
去等烏許曾《コトヲコソ》、
辭乎乞《コトヲコソ》也、こそは助辭、
 
※[口+多]多瀰等異絆梅《タタミトイハメ》、
疊登將云《タタミトイハメ》也、
 
和餓菟摩烏由梅《ワガツマヲユメ》、
我妻乎勤《ワガツマヲヲユメ》也、乎《ヲ》は、與《ヨ》に通ふ乎《ヲ》也、古事記は、波《ハ》とあり、辭《コト》をこそは、疊といはめ、實《マコト》は吾妻《ワカツマ》よ、努力《ユメ》あやまちなく、全幸《マサキ》く歸り來ませと、詔ふ意、古事記仁徳の御製に、許登袁許曾《コトヲコソ》、須宜波良登伊波米《スゲハラトイハメ》、阿多良須賀志賣《アタラスガシメ》、とあるも、同じ心ばへ也、
 
又歌曰、
 
71 阿摩※[人偏+嚢]霧《アマタム》、
天飛《アマトブ》也、登夫《トブ》と、多牟《タム》とは、同韻相通ふ言也、萬葉卷(ノ)三別記、玉梓《タマツサ》の條に、くはしくいへり、高くそら飛《トフ》鳥《トリ》をいひて、(27ウ)雁《カリ》にかゝる發語なり、萬葉卷(ノ)二、卷(ノ)十一、卷(ノ)十五に、天飛《アマトフ》やとありて、輕《カル》の道《ミチ》は、輕《カル》の社《ヤシロ》、かり乎都可比《ヲツカヒ》に、などつゞけたり、猶|他《ホカ》にも有べし、
 
箇留※[立心偏+宛]等賣《カルヲトメ》、
輕娘子《カルヲトメ》也、古事記は、加流乃遠登賣《カルノヲトメ》、とあり、
 
異※[口+多]儺介麼《イタナケバ》、
痛泣者《イタナケバ》也、今いとゝいふ言を、萬葉には、痛《イタ》、或は、伊多《イタ》と書たり、甚しく泣者《ナケバ》といふ意、古事記は、いた那加婆《ナカバ》、とあり、
 
臂等資利奴陪瀰《ヒトシリヌベミ》、
人可知《ヒトシリヌベミ》也、古事記は、瀰《ミ》を志《シ》とせり、
 
幡舍能夜摩能《ハサノヤマノ》、
羽狹之山之《ハサノヤマノ》也、契冲云、高市(ノ)郡なる、山の名なるべし、履中紀に、鳥徃來《トリカヨフ》、羽田之汝妹者《ハタノナニモハ》、羽狹丹葬立徃《ハサニハフリタチイヌ》、とある羽狹《ハサ》にやと云(ヘ)り、今考る所なし、
 
波刀能《ハトノ》、
鳩之《ハトノ》也、鳩の如く、といふ意、
 
資※[口+多]儺企邇奈句《シタナキニナク》、
裏泣爾泣《シタナキニナク》也、した泣は、既に上に見えたり、裏《シタ》は萬葉卷(ノ)三に、天雲《アマクモ》の、五百重下爾《イホヘノシタニ》、とあるも、五百重《イホヘ》の裏をいふ、卷(ノ)十一に、裏紐《シタヒモ》、從裏戀者《シタユコフレバ》など、書たるを見べし、さて鳥のした鳴とは、卷(ノ)一に、奴要子鳥《ヌエコドリ》、卜歎居者《ウラナケヲレバ》、とあるにおなしく、奴要《ヌエ》も、鳩《ハト》も、喉聲《ノトコエ》に鳴を、裏泣《ウラナク》とも、下泣《シタナク》ともいひて、こゝもその鳩の如く、忍ひに喉聲《ノドコヱ》に、泣給ふと也、
 
(28オ)穴穗《アナホノ》天皇、【二首、安康天皇、】
 
是(ノ)時(ニ)太子行(ヒ)2暴虐(ヲ)1、淫《タハク》2于婦女(ニ)1、國人|謗《ソシリマツル》v之、群臣不v從、悉《コト/\ク》隷《ツキヌ》2穴穗皇子《アナホノミコニ》1、爰(ニ)太子|欲《シテ》v襲(ント)2穴穗(ノ)皇子(ヲ)1、而|密《ミソカニ》設《マケヌ》v兵(ヲ)、穴穗(ノ)皇子(モ)復(タ)興(テ)v兵(ヲ)將《ス》v戰(ト)、故穴穗(ノ)括箭《ユハズ》、輕括箭《カルノユハズ》、始(テ)起(レリ)2于此時(ニ)1也、時(ニ)太子知(テ)2群臣不v從、百姓乖(キ)違(ヲ)1乃(チ)出(テ)之|匿《カクレタリ》2物部(ノ)大前宿禰(ノ)之家(ニ)1、穴穗(ノ)皇子聞(テ)則圍(ム)vレ之、大前(ノ)宿禰出(テ)v門(ヲ)而|迎《ムカヘマツル》v之、穴穗(ノ)皇(28ウ)子|歌之曰《ウタヒタマハク》、 古事記は、こゝの二首、允恭の條にありて、云、於v之穴穂(ノ)御子、興v軍(ヲ)圍2大前小前宿禰(ノ)家(ヲ)1、爾(チ)到(ル)2其門1時、零《フレリ》2大|氷雨《ヒサメ》1、故(レ)歌曰、云云、
 
72 於朋摩幣《オホマヘ》、
大前《オホマヘ》也、
 
烏摩幣輸區泥餓《ヲマヘスクネガ》、
小前宿禰之《ヲマヘスクネガ》也、舊事紀に、物部(ノ)大前《オホマヘ》宿禰(ハ)、冰《ヒノ》連|等《ラガ》祖、小前《ヲマヘ》宿禰(ハ)、田部(ノ)連|等《ラカ》祖、並(ニ)麥人宿禰(ノ)之|子《コ》也、とあれば、二人の名と見ゆれど、古事記にいふ所は、全く一人の名也、姓氏録に、氷(ノ)宿禰(ハ)氷(ノ)連、石上(ノ)朝臣(ノ)同祖、饒速日(ノ)命十世(ノ)孫、伊己灯《イコヒノ》之宿禰之後也、とあれば、舊事紀の麥入宿禰の子といへるは、いと/\疑はしくなむ、この紀の前文にも、大前宿禰とのみありて、小前をいはぬは、かた/”\一人の名とぞおほゆる、大も、小も、景行紀の歌にいふが如く、褒言《ホメコト》なれば、大前に、たゞ言をかさね、歌の調《シラヘ》をなして、小前云云といへるにやあらむ、
 
※[言+可]那杜加礙《カナトカゲ》、
垣之門陰《カキノトカゲ》也、かきのきを省けり、萬葉卷(ノ)四に、小金門爾《ヲカナトニ》、物悲良爾《モノカナシラニ》、念有之《オモヘリシ》、卷(ノ)九に、金門爾之《カナトニシ》、人乃來立者《ヒトノキタテバ》、これらの金《カナ》と書るは、皆假字也、卷(ノ)十四に、兒呂我可奈門欲《コロガカナトヨ》、又|可奈刀田《カナトダ》とも見えて、後の加杼田《カドタ》といふは、この加奈門田《カナトタ》の畧語奈、猶萬葉卷(ノ)四の解に、詳也、
 
(29オ)※[言+可]區多智豫羅泥《カクタチヨラネ》、
如是立寄禰《カクタチヨラネ》也、吾この垣門《カナト》の陰に、立寄るが如く、大前宿禰の、吾方人に、寄來ねと、願ふ意也、【禰《ネ》は、冀の詞也、】古事記は、則|加久余利許泥《カクヨリコネ》ねとあり、
 
阿米多知夜梅牟《アメタチヤメム》、
雨將立止《アメタチヤメム》也、古事記に、零2大氷雨1と見えたる、是也、この垣門陰に立寄て、雨を止しむる如く、宿禰のわれに寄來ば、とく世の亂を治むと、譬させ給へる也と、契冲いへり、
頭注、○古事記は、夜末牟《ヤマム》とあり、蓋|末《マ》は、米《メ》の誤歟、
 
大前(ノ)宿禰、答歌之曰、
 
73 瀰椰比等能《ミヤヒトノ》、 
宮人之《ミヤヒトノ》也、
 
阿由臂能古輪孺《アユヒノコスズ》、
脚帶之小鈴《アユヒノコスヾ》也、あゆひは、下雄略紀の歌に見え、そこに大臣出2立(テ)於庭(ニ)1索(ム)2脚帶《アユヒヲ》1、とあり、皇極紀に、阿用比※[木+施の旁の也が巴]豆矩利《アヨヒタヅクリ》と見え、萬葉卷(ノ)七、卷(ノ)十一、卷(ノ)十七等にも出たり、手玉《タタマ》、手鈴《タナスヾ》などにむかへて、足玉あれば、脚帶《アユヒ》にも、鈴もて飾れるが、有けるを知べきなり、又按に、上古鈴といふは、則玉なるべくおもふよし有、竹玉《タカダマ》の考に云へり、
頭注、○竹玉《タカダマ》は、萬葉卷(ノ)三に出、その考、別にあり、
 
於智珥岐等《オチニキト》、
落爾伎登《オチニキト》也、是は、輕(ノ)皇子の、宿禰が家に、落かくれさせ給へるを、譬たる也、爾伎登《ニキト》は、助辭《テニハ》也、
 
瀰椰比等々(29ウ)豫牟《ミヤヒトトヨム》、
宮人動《ミヤヒトトヨム》也、是は穴穗(ノ)皇子の、輕(ノ)皇子を攻《セメ》むとて、宿禰が垣門に、襲《オソヒ》出でましゝをいふ、
 
佐杜弭等茂由梅《サトビトモユメ》、
里人毛努力《サトヒトモユメ》也、里人もの下に、等余牟《トヨム》といふ三言を、今ひとつ加へて、心得べし、此三言は上に讓りて、省ける、古歌の例也、里人は、宮人に對《ムカヘ》て、あまたの直人《タヽヒト》をいふ、宮人も、直人も、とよめども、ゆめ/\勿散動《ナトヨミ》そ、われよく議《ハカリ》なむと、いふこゝろなり、
 
乃(チ)啓2皇子(ニ)1曰、願(クハ)勿v害2太子ゐ1、臣|將《ナモ》v議、由v是太子、自(ラ)死《マカレリ》2于大前宿禰|之《カ》家(ニ)1、【一(ニ)云、流(ル)2伊豫(ノ)國(ニ)1、】
 
第十四(ノ)卷、 大泊瀬幼武《オホハツセワカタケノ》天皇 【九首、雄略天皇、】
 
是日大舍人、驟《ニハカニ》言2於天皇(ニ)1曰、穴穗《アナホノ》天皇、(30オ)爲(ニ)2眉輪(ノ)王1見(タマフ)v殺《コロサ》、天皇大驚(テ)即(チ)猜(テ)2兄等(ヲ)1、被《キ》v甲(ヲ)帶《ハキ》v刀(ヲ)率《ヰテ》v兵(ヲ)、自(ラ)將(トシテ)逼2問《セメテトヒタマフ》八釣(ノ)白彦(ノ)皇子(ヲ)1、皇子見(ニ)2其欲1v害、※[口+黒]坐《モタシマシテ》不《ズ》v語《モノモノタマハ》、天皇乃(チ)拔(テ)v刀(ヲ)而|斬《キリタマフ》、更(ニ)逼2問(タマフ)坂合(ノ)黒彦(ノ)皇子(ヲ)1、皇子(モ)亦知(テ)v將v害、※[口+黒]坐不v語、天皇|忿怒《ミイカリ》彌《イヨゝ》盛(ナリ)、乃(チ)復并(テ)爲(ニ)v欲(スルカ)v殺(ト)2眉輪(ノ)王(ヲ)1案2劾《カムガヘトヒタマフ》所由(ヲ)1、眉輪(ノ)王(ノ)曰、臣元(ヨリ)不v求2天位(ヲ)1、唯|報《ハラス》2父(ノ)仇(ヲ)1而已《ノミ》、坂合(ノ)黒彦(ノ)皇子、深(ク)2恐(レテ)所(ヲ)1v疑、竊(ニ)語(リテ)2眉輪王(ニ)1、遂(ニ)共(ニ)得(テ)v間(ヲ)(30ウ)而出、逃2入《ニゲイル》圓《ツブラノ》大臣宅(ニ)1、天皇使(テ)v使(ヲ)乞v之、大臣以v使報(テ)曰、盖聞人臣有(ハ)v事、逃2入(ル)王室(ニ)1、未(タ)v見3君王(ノ)隱2匿臣(ノ)舍(ニ)1、方(ニ)今坂合(ノ)黒彦(ノ)皇子、與《ト》2眉輪(ノ)王1、深(ク)恃(テ)2臣心(ヲ)1、來《キマセリ》2臣|之《ガ》舍(ニ)1、誰忍(テ)送(ラムヤ)歟、由v是天皇、復(タ)益(/\)興(テ)v兵(ヲ)圍(ム)2大臣(ノ)宅(ヲ)1、大臣出2立於庭(ニ)1、索(ム)2脚帶《アユヒヲ》1、時(ニ)大臣(ノ)妻、持2來(テ)脚帶(ヲ)1、愴矣傷懷而歌曰《カナシミイタミテウタヒツラク》、
 
74 飫瀰能古簸《オミノコハ》、
臣之子者《オミノコハ》也、圓(ノ)大臣をさし云、臣《オミ》とは、朝廷に仕奉れる官人《ミヤヅカヘビト》をいふ稱、既に仁徳紀の歌に註せり、子《コ》は、した(31オ)しみ喚稱なるよしも、上に云、
 
多倍能波伽摩烏《タヘノハカマヲ》、
帛之袴乎《タヘノハカマヲ》也、多倍《タヘ》は、布帛の通稱、袴は、男子の服《ヨソヒ》なり、
 
那々陛嗚施《ナヽヘヲシ》、
七重着《ナナヘヲシ》也、嗚施《ヲシ》は、賣須《メス》に同じく、したしく身に受るをいふ言ぞと、師はいはれき、さればこゝも、着《キ》るをいふ、
 
※[人偏+爾]播爾※[こざと+施の旁]々姶帝《ニハニタヽシテ》、
庭爾立而《ニハニタタシテ》也、古事記訓註に、訓(テ)v立(ヲ)云2多々志《タヽシト》1、とあり、
 
阿遙比那※[こざと+施の旁]須暮《アヨヒナダスモ》、
脚帶之徒爲毛《アヨヒノアダスモ》也、乃阿《ノア》の約|那《ナ》なれば、なだすといふ、【崇神紀の、ひめのあそびを、ひめなそひといふと、同例也、】さてあだは、無益に餘れるをいふ言にて、今の俗言に、あだ手間《テマ》、あだ言《コト》なといふ阿※[こざと+施の旁]《アタ》是也、【いたつら人を、あだ人といふも、同し意におつめり、】大臣の妻の、かくうたへるは、帛《タヘ》の袴を、七重《ナヽヘ》着《キ》たるがうへに、脚帶《アユヒ》を索《モトム》るは、無益の徒《アダ》事ぞといふ意也、この歌惣(ヘ)て比喩にして、袴を七重着るとは、天皇の恩顧の厚に比し、それが上に、脚帶《アユヒ》を求るは、眉輪(ノ)王に、忠誠《マメ》なるをいひて、さるはあだ事ぞと、譬たるなるべし、比喩《タトヘ》にあらずば、七重《ナヽヘ》をしとはいふべからず、袴は、七重着べきものにあらねは也、
 
大臣|装束《ヨソヒ》已(ニ)畢(テ)、進《マヰリテ》2軍門(ニ)1跪拜《ヲロカミテ》曰、臣《ワレ》雖《イヘトモ》v被(ルト)(31ウ)v戮《コロサ》、莫《ナカラム》2敢聽(コト)1v命(ヲ)、古人有(リ)v云、匹夫之志(モ)、難(シ)v可v奪、方(ニ)屬《アタレリ》2乎臣1、伏願(ハ)大王(ニ)奉3獻《タテマツリテ》臣(カ)女|韓媛《カラヒメト》與《トヲ》2葛城(ノ)宅|七區《ナヽトコロヲ》1、請《コヒマヲサム》2以(テ)贖(コトヲ)1v罪(ヲ)、天皇不v許(タマハ)、縱v火(ヲ)燔v宅(ヲ)、於v是大臣(ト)、與《ト》2黒彦(ノ)皇子眉輪《マヨワノ》王1、倶(ニ)被《エタマフ》2燔死《ヤキコロサ》1、
 
四年秋八月辛卯(ノ)朔、戊申、行2幸《イデマセリ》吉野宮(ニ)1、庚戌、幸《イデマシ》2于河上(ノ)小野(ニ)1、命《ノリコチテ》2虞人《カリビトニ》1駈《カラセタマフ》v獸(ヲ)、欲(シテ)2躬(ラ)射(ムト)1而|待《マチタマフニ》、虻疾飛來《アブトクトビキテ》、※[口+替]《クラフ》2天皇(ノ)臂(ヲ)1、於是《コヽニ》蜻蛉《アキツ》(32オ)忽然飛來《タチマチニトビキテ》、※[囓の旁](テ)v虻(ヲ)將去《モテイヌ》、天皇|嘉《ヨミシタマヒテ》2厥有(ルヲ)1v心、詔2群臣(ニ)1曰、爲(ニ)v朕|讃《ホメテ》2蜻蛉(ヲ)1、歌賦《ウタヨミセヨ》之、群臣莫(シ)2能敢(テ)賦者《ヨムモノ》1、天皇乃(チ)口號曰《ミクチヅカラウタヒタマハク》、
 
75 野麼等能《ヤマトノ》、
倭之《ヤマトノ》也、古事記は、美延斯怒能《ミエシヌノ》、と有、延《エ》と與と、相通ふ言にて、眞吉野《ミヨシヌ》也、
 
嗚武羅能※[こざと+施の旁]該※[人偏+爾]《ヲムラノダケニ》、
小村之嶽爾《ヲムラノダケニ》也、今猶吉野に、小村といふ里ありて、そこの山を、小村が岳といふと、その國人いへり、この離宮《トツミヤ》は、大瀧のほとりにて、蜻蛉野《アキツヌ》は、今西河といふ所の野也、といへり、古事記は、袁牟漏賀多氣爾《ヲムロガタケニ》、とあり、
 
之々符須登《シヽフスト》、
獣臥登《シヽフスト》也、之々《シヽ》は、猪鹿の通稱にて、わきては、ゐといひ、かといへり、
 
柁例柯擧能居登《タレカコノコト》、
誰歟此言《タレカコノコト》也、古事記は、多禮曾《タレゾ》と有て、このことの、四言はなし、
 
飫褒磨陛※[人偏+爾]麻嗚須《オホマヘニマヲス》、
大前爾奏《オホマヘニマヲス》也、大《オホ》は、尊稱也、天皇御自(ラ)かく詔へる事、皇朝の古(32ウ)意にして、いと尊し、萬葉卷(ノ)六に、聖武天皇の、天皇朕宇豆能御手以《スメラワガウヅノミテモチ》、とよみませる歌あり、おもひ合すべし、一本、以(テ)2飫〓摩陛※[人偏+爾]摩鳴須《オホマヘニマヲスヲ》1、易(フ)2飫褒枳瀰※[人偏+爾]麻嗚須《オホキミニマヲスニ》1、大王爾奏《オホキミニマヲス》也、おほきみは、當代天皇を稱《マヲス》言のよしは、萬葉卷(ノ)三別記に云、
 
飲褒枳瀰簸《オホキミハ》、
天王者《オホキミハ》也、天皇の御自稱也、是も萬葉卷(ノ)三に別記に云、
 
賊拠嗚枳※[舟+可]斯題《ソコヲキカシテ》、
其所乎所聞而《ソコヲキカシテ》也、今それ、といふを古語には、そこといへり、萬葉卷(ノ)一に曾許之怜之《ソコシタヌシ》、卷(ノ)二に、其故《ソコユヱ》に、など有て、集中いと多かり、
 
柁磨々枳能《タマヽキノ》、
玉纏之《タママキノ》也、何にまれ、玉もてかざれるは、古(ヘ)の常也、さてこの玉といふは、貝なるべくおもふよしあり、後の螺鈿《ラデム》の類を、玉纏《タママキ》とは云にや、
頭注、○萬葉卷(ノ)六に、奧津伊久利二《オキツイクリニ》、鰒珠《アハビタマ》、左盤爾潜出《サハニカツキイテ》、とあるは、即(チ)貝をいふ言也、彼(ノ)卷の解に、くはしくせり、
 
阿娯羅※[人偏+爾]※[こざと+施の旁]々伺《アグラニタヽシ》、
立《タヽシ》2胡床《アクラニ》1也、和名抄(ニ)云、風俗通(ニ)云、靈帝好(ム)2胡服(ヲ)1、京皆作(ル)2胡床(ヲ)1、【此間(ニ)名(ク)2阿久良(ト)1、】と見えたり、是は強《シヒ》て漢字をあてたる也、くらとは、案の類をいふ言にて、あぐらは、足案也、一本、以(テ)2※[こざと+施の旁]々伺《タタシヲ》1、易(フ)2伊麻伺《イマシニ》1、坐《イマシ》也、
 
斯都魔枳能《シツマキノ》、
倭文纏之《シツマキノ》也、しづは、上古のあやぬのにて、めてたき物とせり、古歌に、大王乃《オホキミノ》、御帶《ミオビ》の倭文※[糸+曾]《シヅハタ》、又い徃昔《イニシヘ》の、倭文幡帶《シヅハタオビ》など見えて、貴人《ウマビト》の帶にも爲《シ》たり、玉もて飾り、倭文《シヅ》もて纏《マキ》たるは、めでたき限り也、かく詔ふは、歌のあやぞ、
 
阿娯羅爾(33オ)※[こざと+施の旁]々伺《アグラニタヽシ》、
如(シ)2上註1、古事記は、以上六句はなくて、夜須美斯之《ヤスミシヽ》、和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》、といふ二句あり、
 
斯々魔都登《シヽマツト》、
宍待登《シヽマツト》也、
 
倭我伊麻西麼《ワガイマセバ》、
朕坐者《ワカイマセバ》也、
 
佐謂麻都登《サヰマツト》、
小猪待登《サヰマツト》也、佐は、例の添言、小牡鹿《サヲシカ》の、佐《サ》におなじ、
 
倭我※[こざと+施の旁]々西麼《ワガタヽセバ》、
朕立爲者《ワカタヽセバ》也、古事記は、倭我伊摩西麼《ワガイマセバ》より下の、三句はなくして、阿具良爾伊麻志《アグラニイマシ》、斯漏多閇能《シロタヘノ》、蘇弖岐曾那布《ソテキソナフ》、の三句あり、胡床爾坐《アクラニイマシ》、白妙之《シロタヘノ》、袖着備《ソテキソナフ》也、そなふは、不足なきを云言也、
 
※[こざと+施の旁]倶符羅爾《タクブラニ》、
手腓爾《タコムラニ》也、和名抄(ニ)云、腓、陸詞云、腓、【音肥、訓2古無良1、見2周易1、】脚(ノ)腓也、とあり、今は手《タ》の腓《コムラ》をいふ、古事記には、多古牟良爾《タコムラニ》、とあり、腓は、肉の聚れる所なれば、肉群《コムラ》の意にやあらむ、肉を、胡《コ》といふは、※[病垂/息]肉、を胡久美《コクミ》とも、阿万之々《アマシヽ》とも、和名抄にいへるは、餘肉《》アマシヽ、肉組《コクミ》の意と聞ゆめり、肉を胡《コ》といふは、如何なる意にや、いまだ思ひ得ず、
 
阿武柯枳都枳都《アムカキツキツ》、
虻掻着都《アムカキツキツ》也、和名抄(ニ)云、説文(ニ)云、※[亡/(虫+虫)]、莫衝(ノ)反、與v亡同字元作v※[亡/虫](ニ)、和名|阿夫《アブ》、齧(ム)v人(ヲ)飛虫也、とあり、かきとは、掻《カキ》むけ、掻掃《カキハク》などの掻《カキ》にて、添言、つきは、取着《トリツケ》る也、古事記には、下の都文字なし、都《ツ》は助辭《テニハ》なり、
 
曾能阿武(33ウ)嗚《ソノアムヲ》、
其虻乎《ソノアムヲ》也、
 
婀枳豆波野倶臂《アキヅハヤクヒ》、
蜻蛉速喰《アキツハヤクヒ》也、蜻蛉を、あきづといふ名は、上つ代より見えたるを、和名抄には、加介呂布《カゲロフ》の名《ナ》のみを擧て、阿伎豆《アキヅ》の名を出さざるは、いかにぞや、
 
波賦武志謀《ハフムシモ》、
毘虫毛《ハフムシモ》也、大祓の詞に見えたり、虫は、すべて※[虫+支]《ハフ》もの故にいふ、
 
飫褒枳瀰※[人偏+爾]《オホキミニ》、
如(シ)2上註1、
 
磨都羅符《マツラフ》、
仕奉《マツラフ》也、まつらふは、上景行紀の歌に見えたる、摩幣菟耆瀰《マヘヅキミ》の解にいへる、前就《マヘヅク》と、ひとつ意と聞ゆ、らふは、かゝづらふ、あげつらふの、らふにて、助語なれば也、つかへまつる、たてまつるの、まつるは、則(チ)このまつらふ也、故その意をもて、仕事の字を註せり、
 
儺我柯※[こざと+施の旁]播於柯武《ナガカタハオカム》、
汝之形者將v置《ナガカタハオカム》也、かたとは、形見のかたにて、いにしへ皇子おましまさぬ天皇、或は、皇后、或は、皇子のために、名代を定め給ふと、同意にて、※[虫+支]虫《ハフムシ》といへとも、天皇に仕奉る、忠誠《マメゴヽロ》を讃《ホメ》給ひて、蜻蛉《アキヅ》の名の形《カタ》は、後世まで、殘し置給はむとの意也、
 
阿岐豆斯麻野麻登《アキツシマヤマト》、
秋津島倭《アキツシマヤマト》也、秋津島《アキツシマ》といふ名は、神武天皇の、脇上※[口+兼]間丘《ワキガミホヽマノヲカ》に登りまして、蜻蛉《アキヅ》の臀※[口+占]《トナメセル》なせりと、のりましゝ大御言より始(メ)て、秋津洲《アキヅシマ》の號《ナ》ありと、彼(ノ)紀に見えたれば、こゝの意は、此(34オ)大和國をかねてより、あきづしまといふは、蜻蛉のかく天皇に、まつらふ所由のありてにや、さればその阿岐豆斯麻《アキツシマ》といふを、則汝が形《カタ》にて、こゝをしもやがて、蜻蛉野《アキツヌ》と、名に負《オフ》さむと詔給ふ、大御意なるべし、一本(ニ)以(テ)2婆賦武志謀《ハフムシモ》、以下(ヲ)1易(フ)2※[舟+可]矩能御等《カクノコト》、【如v此也、】儺※[人偏+爾]於婆武等《ナニオハムト》、【名ニ將v負ト也、】蘇羅瀰豆《ソラミツ》、【空見都《ソラミツ》也、】野摩等能矩※[人偏+爾]嗚《ヤマトノクニヲ》、【倭國乎也、】婀岐豆斯麻登以符《アキツシマトイフニ》1、【蜻蛉嶋ト云也、】是にて上に註る意、いよゝ明らけし、古事記は此の一本に同じ、
 
因(テ)讃《タヽヘテ》2蜻蛉名《アキツノナヲ》1、此地《コノトコロヲ》爲(ス)2蜻蛉野《アキツヌト》1、
 
五年春二月、天皇|狡2※[獣偏+葛]《カリシタマフニ》于|葛城山《カツラキヤマニ》1、靈鳥《アヤシキトリ》忽來《タチマチキタリ》、其大(サ)如v雀、尾(ノ)長(コト)曳(リ)v地(ニ)、而|且鳴曰《カツナキケラク》、努力努力《ユメユメ》、俄(ニシテ)而見(タル)v逐|※[口+眞]《イカリ》猪、從2草(ノ)中1暴(ニ)出(テ)逐v人(ヲ)、※[獣偏+葛]人《カリビト》縁《ノボリテ》v樹(ニ)大(ニ)懼(ル)、天皇|詔《ノリゴチ》2舍人(ニ)1曰《タマハク》、猛獣《タケキモノモ》(34ウ)逢(ヘバ)v人則止(ム)、宜(ク)迎射而且刺《ムカヘイテカツサセ》、舍人|性懦弱《ヒトヽナリヲチナク》、縁《ノボリテ》v樹(ニ)失(フ)v色(ヲ)、五情《コヽロ》無v主、※[口+眞]猪《イカリヰ》直(チニ)來(リテ)、欲v噬《クヒマツラムト》2天皇(ヲ)1、天皇用(テ)v弓(ヲ)射止(メ)、擧(テ)v脚(ヲ)踏殺《フミコロシタマフ》、於v是|田《カリ》罷《ヤミテ》欲《オモホス》v斬(ント)2舍人(ヲ)1、舍人臨v刑(ニ)而|作v歌曰《ウタヨミシツラク》、 【古事記には、又一時天皇、云々、登2坐《ノボリマシマス》榛上《ハリガヘニ》1爾(チ)歌曰、とあり、】
 
76 野須瀰斯々《ヤスミシシ》、
句、
 
倭我飫〓枳瀰能《ワガオホキミノ》、
句、二句、上に註が如し、
 
阿蘇麼斯志《アソバシシ》、
所v遊《アソバシヽ》也、あそふとは、惣(ヘ)て心をやる事をいふ言と聞ゆ、古事記、神代(ノ)條に、日八日夜八夜以遊《ヒヤヒヨヤヨモテアソブ》、とあるを、この紀には、八日八夜、啼哭悲歌、とかゝれたるも、遊は、歌樂《ウタマヒ》を、なす事なればなるべし、又仲哀(ノ)條に、猶遊婆勢其大御琴《ナホアソバセソノオホミコト》、云々、【今の言にも、しかあそばせといふ言、是也、】萬葉卷(ノ)二に、君跡時(35オ)時幸而遊賜比之《キミトトキトキイデマシテアソビタマヒシ》、などある、皆同じ意にて、情を遣るよりいふ言也、こゝは、御狩《ミカリ》を、あそばしゝなり、
 
斯々能宇柁枳《シヽノウタキ》、
猪之吼《シヽノウタキ》也、宇柁枳《ウタキ》は今の言に、うなるといふ是也、うなるは、宇ゝ鳴《ウヽナル》也、【ううは、其|嶋《ナク》聲を云、鳴《ナク》を、なるといふは、萬葉卷(ノ)八に、すがるなる野、、卷十四に、かなるましづみ、など見えたり、】宇柁枳《ウタキ》は、宇々登鳴《ウヽトナキ》也、【登那《トナ》は、多に約れり、】古事記に、其猪怒(テ)而|宇多岐依來《ウタキヨリク》、とあれば、宇々《ウヽ》は、猪の怒れる聲なるを知るべし、
頭注、蜂※[羸の羊が虫]鳴野《スカルナルヌ》、鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》なり、
頭注、○古事記は、斯々能《シヽノ》の下に、夜美斯志能《ヤミシシノ》の五言加はれり、病猪之《ヤミシヽノ》也、病《ヤム》とは、痛手《イタテ》を負《オヒ》たるをいふ、
 
※[舟+可]斯固瀰《カシコミ》、
懼瀰《カシコミ》也、みは、かしこさに、又は、かしこしとして、といふ意、
 
倭我尼碍能〓利志《ワガニゲノボリシ》、
我逃所v昇《ワガニゲノホリシ》也、
 
阿理嗚能宇倍能《アリヲノウヘノ》、
在岑之上之《アリヲノウヘノ》也、在《アリ》は、萬葉卷(ノ)一に、在根良《アリネヨシ》、【在嶺《アリネ》よといふ言なり、諸註誤字とするは、非也】對馬乃渡《ツシマノワタリ》、とあるに同じ、存在の意也、尾《ヲ》は、山の峯の、引はへたる所をいふ、鳥獣の尾といふも、さる意也、
 
婆利我曳※[こざと+施の旁]《ハリガエダ》、
榛之枝《ハリガエダ》也、榛木の事は、萬葉卷三別記にいへり、私記(ニ)云、師説云、所v登之木(ハ)是(レ)波利乃木《ハリノキ》也、故に云といへり、古事記には、上の宇倍能《ウヘノ》の三言なく、波理能紀能延※[こざと+施の旁]《ハリノキノエタ》、とありて、次の阿西嗚《アセヲ》の三言もなし、引合(セ)て見べし、
 
皇后聞悲(ミタマヒ)興(テ)v感《ミオモヒヲ》止之《トヽメマセリ》、云云、
 
(35ウ)六年春二月壬子(ノ)朔、乙卯、天皇|遊《イテマシテ》2于|泊瀬小野《ハツセノヲヌニ》1、觀《ミタマフ》2山野之|體勢《アリサマヲ》1、慨然興v感《ニハカニミオモヒヲオコシテ》歌曰、
 
77 挙暮利矩能《コモリクノ》、
隱城之《コモリキノ》也、終《ハテ》といふ言にかゝる、發語也、伎《キ》と矩《ク》と通ふ音也、この此言の考、萬葉卷(ノ)四の別記に、委しくいへれば、こゝに省けり、
頭注、萬葉卷(ノ)十六に、事之有者《コトシアラバ》、小泊瀬山乃《ヲハツセヤマノ》、石城爾母《イハキニモ》、隱者共爾《コモラハトモニ》、莫思吾背《ナモヒソワカセ》、卷(ノ)七に、狂語香《タハコトカ》、逆言哉《オヨヅレカモ》、隱口乃《コモリクノ》、泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》、廬爲云《イホリセリチフ》、右等の歌もて、隱口《コモリク》は、奧城《オクツキ》をいふ言なるを知べし、集中その證いとおほかり、倭姫世記に、隱國下樋國《コモリクノシタヒノクニ》、といへる、下樋《シタヒ》は、下部《シタビ》にて、黄泉《ヨミ》の意にかゝりたる、發語也、
 
播都制能野磨播《ハツセノヤマハ》、
泊瀬乃山者《ハツセノヤマハ》也、
 
伊底柁智能《イテタチノ》、
出立之《イデタチノ》也、
 
與廬斯企野磨《ヨロシキヤマ》、
宜《ヨロシ》山也、よろしとは萬葉卷(ノ)一に、取與呂布《トリヨロフ》、天乃香具山《アメノカクヤマ》、とある、よろふは、宜《ヨロフ》にて、山の形の、足《タ》りとゝのへるをいふ言ぞと、師の考にいはれき、同卷(ノ)十三に、隱來之《コモリクノ》、長谷之山《ハツセノヤマ》、青幡之《アヲバタノ》、忍坂山者《オサカヤマハ》、走出之《ワシリデノ》、宜山之《ヨロシキヤマノ》、出立之《イテタチノ》、妙山叙《クハシキヤマゾ》、とあり、おのれはじめおもひけるは、山は出立《イテタチ》とはいふべけれども、山の走出といふ言の、あるべくもあらねば、是は人の出立て見るによろしく、走出て見るにうるはしき山、といふ意にやと、おもひつるは、まだしかりける、そのよしは、下にいふ、
 
和斯里底能《ワシリテノ》、
走出之《ワシリデノ》也、和斯里《ワシリ》は上に見えたる、和志勢《ワシセ》の和志《ワシ》と同語にて、度《ワタ》ると(36オ)いふにやゝ同じ、是をはしると、ひとつと心得つるより、山のはしり出るといふ言は、あるまじくおもへりしは、あらざりけり、はしるは、早走《ハヤワシル》にて、水はしらせ、霰《アラレ》たばしる、石《イハ》はしる、など皆はやき意なれば、わしるとは、異也、わしりでとは、山の引はへたるをいひ、出立とは、山の立登《タチノホリ》りたるをいふ言にて、ともに山の成《ナリ》出たる形《サマ》をいふ言と知べし、
頭注、○早を、はとのみいふ例は、萬葉卷(ノ)十二に、石走《イハハシル》、垂水之水能《タルミノミヅノ》、早敷八師《ハシキヤシ》、とあるは水の早《ハヤ》きといふ意に、つゞけたり、
 
與廬斯企夜磨能《ヨロシキヤマノ》、
宜山之《ヨロシキヤマノ》也、
 
據暮利矩能《コモリクノ》、
如2上註1、
 
播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ》、
如(シ)2上註1、
 
阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラグハシ》、
文爾心細《アヤニウラグハシ》也、文《アヤ》は、阿奈《アナ》に同じ、萬葉卷(ノ)十三に、朝日奈須《アサヒナス》、目細毛《マクハシモ》、夕日奈須《ユフヒナス》、浦細毛《ウラクハシモ》、とありて、目ぐはしは、見《ミ》の細《クハシ》きよし、浦《ウラ》ぐはしは、心細しきよしなり、心を、うらといふ言、上にいへり、くはしは、賞愛《メテウツク》しむ意也、
 
阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラクハシ》、
如v上(ノ)、かく再うたひ返せるにて、その意いよ/\ふかし、さてこの興v感と有は、そのかみ愛しみ給へる妃《ミメ》なとの、死《シニマ》せるありて、その奧城《オクヅキ》の、この山に有より、感《ミオモヒ》を興《オコ》し給ひ、その女の容貌《スカタ》の、うるはしかりしを、山の形《ナリ》のよろしきに比喩《タトヘ》させ給へるにはあらぬにや、かくいふは初句に、こもりくと唱出《ウタヒイテ》給へる、隱城《コモリク》は、墓《ハカ》なるべくおもへば也、
 
(36ウ)於v是名(テ)2小野(ヲ)1、曰(フ)2道(ノ)小野(ト)1、【この山を愛しみ給ひて、常に此野を、往來《カヨヒ》給ふ故に、道の小野とは、名づけたるにや、又別意あるか、考得ず、
 
十二年、冬十月癸酉(ノ)朔、壬午、天皇命(シテ)2木工闘鷄御田《コタクミツケノミタニ》1、始(テ)起(タマフ)2樓閣《タカトノヲ》1、於是《コヽニ》御田、登(リテ)v樓(ニ)、疾2走《トクワシルコト》四方(ニ)1、有v若2飛行(ガ)1、時(ニ)有2伊勢(ノ)采女《ウネメ》1、仰2觀《アフキミテ》樓(ノ)上《ヘヲ》1、恠(ミテ)2彼疾行《ソノトクユクヲ》1、顛2仆《タフレヌ》於庭(ニ)1、覆《コボセリ》2所《ル》v※[敬/手]《サヽグ》饌《ミケツモノ》1、天皇便(チ)疑(タマヒ)3御田※[【女/女】+干](セリト)2其釆女(ヲ)1自(ラ)念v將《ムト》v刑《コロサ》、而付(ケタマフ)2物(ノ)部1、時(ニ)秦(ノ)酒公|侍坐《ハヘリ》、欲《オモヒテ》d以2琴(ノ)聲(ヲ)1使(ムト)uv悟(サ)2(37オ)於天皇(ニ)1、横(テ)v琴|彈曰《ヒキウタヘラク》
 
78 柯武柯噬能《カムカセノ》、
神風之《カムカセノ》也、如(シ)2上註1、
 
伊勢能《イセノ》、
伊勢之《イセノ》也、伊勢《イセ》の國《クニ》のといふ意にて、まづい勢のといひて、次にその伊勢《イセ》の某《ナニ》といふ意に、つゞけたるか、または、三字、重復衍字にやあらむ、
 
伊制能故能《イセノコノ》、
伊勢之子之《イセノコノ》也、故、今本|奴《ヌ》とあれば、野《ヌ》にやおもへど、野《ヌ》に榮えといふ言の、あるべくもあらねば、決《キハメ》て奴《ヌ》は、故《コ》の誤とおもひて、私に改つ、伊勢の子とは、伊勢の釆女《ウネメ》をいふ、
 
沙柯曳嗚《サカエヲ》、
榮乎《サカエヲ》也、古事記の歌に、阿佐比能《アサヒノ》、惠美佐迦延伎弖《ヱミサカエキテ》、萬葉卷(ノ)十三に、作樂花《サクラハナ》、左可遙越賣《サカエヲトメ》、などある佐可延《サカエ》にて、伊勢の釆女が、わかく盛りなるを云、
 
伊〓甫流柯枳底《イホフルカキテ》、
五百經懸而《イホフルカキテ》也、五百世經《イホヨフル》までも、少女《ヲトメ》の盛にあらんと、言に掛てといふ意、掛《カク》とは、祝詞、宣命に、掛卷《カケマクモカシコキ》、萬葉卷(ノ)十四に、妹が名かけて、などあるも、皆言に掛る也、
頭注、○かけを、かきと云は、體語也、
 
志我都矩屡麻泥爾《シガツクルマテニ》、
其之盡迄爾《シカツクルマテニ》也、五百世經《イホヨヘ》て後、その釆女《ウネメ》の艶色も衰盡《オトロヘツク》るまてといふに、かぎりなきをいひて、是を序として、以下は、御田が事を(37ウ)いへり、其之《ソレカ》、といふを、志我《シカ》といへるは、既に上に見えたり、
 
飲〓枳瀰※[人偏+爾]《オホキミニ》、
大君爾《オホキミニ》也、當代天皇を、申奉る言のよしは、既に上にいへり、
 
柯柁倶都柯倍《カタクツカヘ》、
堅固仕《カタクツカヘ》也、
 
麻都羅武騰《マツラムト》、
奉登《マツラムト》也、まつるの言は、上にいへり、さてこの堅仕奉《カタクツカウマツ》るは、樓閣を動なく、堅く造り仕奉るをいひよせて、御田が忠勤《マメ》に、天皇につかへ奉るをいふ也、さて樓閣を造るを、仕奉《ツカヘマツル》に、いひよせたりと云は、延喜式祝詞に、天御蔭《アメノミカケ》、日御蔭《ヒノミカケト》、仕奉※[氏/一]《ツカヘマツリテ》、とあるは、御殿を造るをいふ言なれば也、下の騰は、とての意の登《ト》なり、
 
倭我伊能致謀《ワガイノチモ》、
我命毛《ワガイノチモ》也、この毛《モノ》助語《テニハ》にて、上の五百經《イホフル》は、伊勢の釆女《ウネメ》を、言にかけて、賀《ホギ》せる言としらる、
 
那我倶母鵡騰《ナガクモガト》、
長毛欲得登《ナカクモガモト》也、命だに長からば、堅固に大君に仕奉りて、樓閣をも、造成んものをと也、
 
伊比志※[木+施の旁]倶彌※[白+番]夜《イヒシタクミハヤ》、
言志工波耶《イヒシタクミハヤ》也、工《タクミ》は、都鷄《ツケ》の工をさす、波耶《ハヤ》は、尋ね慕ふ意、その工は、今はいかになりつらんと、慕ふ意也、
 
阿※[木+施の旁]羅※[こざと+施の旁]倶彌※[白+番]夜《アタラタクミハヤ》、
惜工波耶《アタラタクミハヤ》也、あたらは、古事記、神代の條に、埋v溝(ハ)者、地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》、云々、同仁徳(ノ)條に、阿多良須賀波良《アタラスカハラ》、萬葉に(38オ)も多し、今の言にもあ(ツ)たらといへり、惜へき工なりしを今は刑されもやしつらむと尋ね慕ふ意也、
 
於v是天皇悟(テ)2琴(ノ)聲(ヲ)1、而赦(シタマフ)2其罪(ヲ)1、
 
十三年春三月|狹穗彦《サホヒコノ》玄孫、齒田根《ハタネノ》命、竊(ニ)※[(女/女)+干](セリ)2釆女山(ノ)邊(ノ)小島子(ヲ)1、天皇|聞《キコシメシテ》、以2齒田根《ハタネノ》命(ヲ)1、收2付(ケ)於物(ノ)部目(ノ)大連(ニ)1、而使《シム》2責譲《セメコロバ》1、齒田根《ハタネノ》命、以(テ)2馬八匹大刀八口(ヲ)1、祓2除(ク)罪過(ヲ)1、既(ニ)而歌曰、
 
79 耶摩能謎能《ヤマノメノ》、
山邊之《ヤマノメノ》也、釆女の氏也、姓氏録(ニ)云、山邊(ノ)公(ハ)和氣朝臣同祖、大鐸石和居《オホヌテシワケノ》命之後也、と見えたり、
 
故思(38ウ)摩古喩衛爾《コシマコユヱニ》、
小嶋子故爾《コシマコユヱニ》也、小嶋子は、釆女の名なり、
 
比登泥羅賦《ヒトテラフ》、
人衒《ヒトテラフ》也、萬葉卷(ノ)十八に、波里夫久路《ハリフクロ》、於婢都氣奈我良《オビツケナカラ》、佐刀其等邇《サトコトニ》、天良佐比安流氣騰《テラサヒアルケド》、比等毛登賀米授《ヒトモトカメス》、とあり、衒の字意なり、衒は、字書に、自(ラ)矜也、と註せり、
 
宇磨能耶都擬播《ウマノヤツギハ》、
馬之八疋者《ウマノヤツキハ》也、つぎとは古事記に、子之一木《コノヒトツギ》とあり、即|次《ツキ》にて、繼《ツギ》々の意とおもへば、この耶都擬《ヤツキ》も、八次第《ヤツギ》なるべし、その員數《カズ》を、次第する事と聞ゆ、
 
嗚思稽矩謀那斯《ヲシケクモナシ》、
惜毛無《ヲシケクモナシ》也、をしきを、をしけくといふは、上神武紀の歌に見えたる、無きを、なけく、多きを、おほけくといへるに、同じ古語也、吾|愛《ウツク》しむ釆女故なれば、贖物《アカモノ》に、自慣の馬の、八疋を出すとも、さらにをしからず、といふ意なり、
 
秋九月|木工猪名部《キノタクミヰナメノ》眞根、以v石爲(シ)v質《アテト》、揮(テ)v斧劉(ル)v材(ヲ)、終日劉(トモ)v之(ヲ)、不《ス》2誤(ニ)傷《ソコナハ》1v匁(ヲ)、天皇|遊2詣《イテマシテ》(39オ)其所(ニ)1、而|恠問曰《アヤシミトヒタマハク》、恒(ニ)不2誤(テ)中1v石|耶《ヤ》、眞根答曰、竟(ニ)不v誤矣、乃(チ)喚2集(テ)釆女(ヲ)1使v脱2衣裾《コロモモヲ》1、而|著2犢鼻1《タフサキシテ》露所相撲《アラハナルトコロニスマヒトラシム》、於v是眞根暫(ク)停(テ)仰(キ)視(テ)而劉(ル)、不v覺手誤(テ)傷《ソコナフ》v刃(ヲ)、天皇因(テ)嘖讓曰《コロヒタマハク》、何處奴《イヅクノヤツコソ》、不v畏v朕(ヲ)、用《モテ》2不v貞心《マメナラヌコヽロ》1、妄(ニ)輙(ク)答(マツル)、仍(テ)付(テ)2物部(ニ)1、使(ム)v刑2於野(ニ)1、爰(ニ)有2同伴(ノ)巧者1、歎2惜《アタラシミテ》眞根(ヲ)1、而作歌曰《ウタヨミスラク)、
 
80 婀柁羅斯枳《アタラシキ》、
惜《アタラシキ》也、如(シ)2上註1、
 
偉謎謎能※[こざと+施の旁]柁倶彌《ヰナメノタクミ》、
爲奈部之工《ヰナメノタクミ》也、(39ウ)爲奈部《ヰナメ》は、眞根が氏と聞ゆ、姓氏録、未定雜姓、攝津(ノ)國(ノ)條に、爲奈部《ヰナヘノ》首、伊香我色乎《イカガシコヲノ》命(ノ)六世孫、金(ノ)連之後也、と見えたり、
 
柯該志須彌灘※[白+番]《カケシスミナハ》、
所v懸墨繩《カケシスミナハ》也、和名抄(ニ)云、内典(ニ)云、端直不曲、喩(ハ)如(シ)2墨繩1、【涅槃經文也、墨繩和名、須美奈疲、】とあり、萬葉卷(ノ)五に、墨繩袁《スミナハヲ》、幡倍多留期等久《ハヘタルコトク》、卷(ノ)十に、斐太人乃《ヒタヒトノ》、打墨繩之《ウツスミナハノ》、云々、墨繩《スミナハ》をかくとは、今の世、墨うちといふ、是なり、
 
旨我那稽摩《シカナケバ》、
其之亡有者《シガナケバ》也、なければ、なからばといふを、省略《ハブキ》いふ言也、旨我《シカ》とは、眞根《マネ》をさす、それがといふ事のよしは、上に註せり、
 
※[木+施の旁]例柯柯該武豫《タレカカケムヨ》、
誰歟將v懸與《タレカカケムヨ》也、與《ヨ》は、例の呼捨たる與《ヨ》なり、
 
婀※[木+施の旁]羅須瀰灘灘※[白+番]《アタラスミナハ》、
惜墨繩《アタラスミナハ》也、眞根が亡有者《ナカラハ》、かゝる墨繩を、たれかくるものはあらじと、その上巧なるを、傍輩のあたらしみて、よめる也、
 
天皇聞(メシテ)2是歌(ヲ)1、反(テ)生《ナシ》2悔情《アタラシミヲ》1、喟然頽歎曰《ナケキタマハク》、幾《ホト/\》失(ル)v人(ヲ)哉、乃(チ)以2赦使(ヲ)1乘(セテ)2於|甲斐黒駒《カヒノクロコマニ》1、馳(テ)詣(テ)2(40オ)刑所《コロサルヽトコロニ》1止(メテ)而赦(ス)v之、用(テ)解(テ)2徽纏《ツナヲ》1、復作歌曰《マタウタヨミスラク》、
 
81 農播柁磨能《ヌハタマノ》、
寐寢《ヌハタマノ》也、寐《ヌ》るを、東國の方言に、ぬまるといふ、麻《マ》と婆《バ》は、相通ふ例、多麻《タマ》は、年月晝夜の來經《キヘ》行|程《ホド》をいふ言のよしは、萬葉卷(ノ)三別記に、委しくいへり、【中古の歌に、ぬるたまといへるも有、】もと夜《ヨ》にかゝる發語にて、夜《ヨ》は暗きものなれば、黒《クロ》ともつゞけたり、【その餘、夢《イメ》、妹《イモ》にかゝるは、寢《イ》の一言につゞけたるなり、】契冲が説に、萬葉集卷(ノ)四、卷(ノ)十三に、夜干玉之《ヌハタマノ》、黒馬之來夜者《コマノクルヨハ》とあるを、くろうまとよみて、こゝの證とせるは、あらざりけり、黒馬は、音を假りて、こまの假字に用ひたるのみにて、烏玉《ヌバタマ》は、下の來る夜《ヨ》にかゝれり、同じ十三卷に、烏玉《ヌバタマノ》、黒駒《クロゴマ》に乘而《ノリテ》、とあるぞ、こゝと同じつゞけ也ける、
 
柯彼能矩廬古磨《カヒノクロコマ》、
甲斐之黒駒《カヒノクロコマ》也、甲斐《カヒ》は、良馬を出す國ゆゑ、延喜馬寮式の御牧にも、甲斐(ノ)國、柏前(ノ)牧、眞衣野《ミソノ》牧、穗坂(ノ)牧を、第一とし、同雜式の收監にも、甲斐(ノ)國を第一とせり、
 
矩羅枳制播《クラキセハ》、
鞍令v着者《クラキセバ》也、
 
伊能致志儺磨志《イノチシナマシ》、
命將v死《イノチシナマシ》也、黒駒に、鞍|置《オク》間《マ》も、遲滯《オクレ》なば、眞根は刑《コロサ》れぬべし、急《トク》速《スムヤカ》に到りねと、願ふ意、こゝにて句を切て、心得べし、
 
柯彼能倶廬古(40ウ)磨《カヒノクロコマ》、
甲斐之黒駒《カヒノクロコマ》也、契冲云、此句を再(ヒ)云(フ)事は、甲斐の黒駒の、逸足にあらずば、あたら眞根が命は、殺《シ》ぬべし、眞根が刑を遁るゝは、偏に黒駒の力なれば、※[立心偏+可]怜黒駒哉《アハレクロコマカナ》と褒《ホム》る也、第四句を讀切らずば、甲斐の黒駒の、死ぬる事と聞えぬべしといへり、一本換(テ)2伊能致志儺磨志《イノチシナマシヲ》1、而云(フ)2伊志柯孺阿羅摩志《イシカズアラマシト》1、伊不v及有麻志《イシカズアラマシ》也、上の伊《イ》は、發語、下の麻志《マシ》は、助辭、不v及將v有の意なり、
 
二十三年秋七月辛丑(ノ)朔、天皇|寢疾不豫《ミヤモヒシタマフ》、云云、是時征(ツ)2新羅(ヲ)1將軍、吉備(ノ)臣尾代、行至(テ)2吉備(ノ)國(ニ)1、過(ル)v家(ヲ)後、所《ル》v率五百(ノ)蝦夷等《エミシラ》、聞(テ)2天皇崩(マシヌト)1、乃(チ)相謂之曰《アヒカタラヒツラク》、領2制《スベヲサメタマフ》吾國(ヲ)1天皇既(ニ)崩、時不v可v失也、乃(チ)相聚結《アヒイハミ》、侵2寇《ヲカシアタナフ》傍(ノ)郡(ヲ)1、(41オ)於是屋代、從v家來(テ)、會(ヌ)2蝦夷《えみしに》於|娑婆水門《サバノミナトニ》1、合戰而《アヒタヽカヒテ》射(ルニ)2蝦夷等(ヲ)1、或(ハ)踊《ヲトリ》、或(ハ)伏(テ)能(ク)避2脱《サケノカル》箭《ヤヲ》1、終(ニ)不v可v射、是(ヲ)以尾代|空《むなしく》彈2弓絃1《ユヅルウチシ》、於(テ)2海濱(ノ)上(ニ)1、射2死《いころす》踊伏者|二隊《フタムラヲ》1、二之箭《フタヤナクヒノヤ》既(ニ)盡(ヌ)、即(チ)喚(テ)2舩人(ヲ)1索(ム)v箭(ヲ)、舩人恐(テ)而自退、尾代乃(チ)立v弓(ヲ)執(テ)v末《ユハズヲ》而歌曰、
 
82 瀰致※[人偏+爾]阿賦耶《ミチニアフヤ》、
於道遇哉《ミチニアフヤ》也、是は尾代が、從v家來(テ)會2蝦夷於娑婆(ノ)水門1をいふ、娑婆《サバ》は、和名抄に、周防(ノ)國佐波(ノ)郡に、佐波(ノ)郷見えたり、そこの水門《ミナト》なるべし、
 
嗚之慮能古《ヲシロノコ》、
尾代之子《ヲシロノコ》也、子《コ》は、壯子の稱、吉備(ノ)臣が自稱なり、
 
阿毎(41ウ)※[人偏+爾]擧曾《アメニコソ》、
天上爾乞《アメニコソ》也、こそは、助辭、
 
枳擧曳孺阿羅毎《キコエズアラメ》、
不v所v聞將v有《キコエズアラメ》也、
 
矩※[人偏+爾]々播《クニニハ》、
於國者《クニニハ》也、天上《アメ》にむかへいへば、この下つ國を、なべて云、
 
枳擧曳底那《キコエテナ》、
將v所v聞《キコエテム》也、吾(ガ)こたみの武勇《タケキ》ふるまひは、天上《アメ》にこそ聞えざらめ、大八洲國内には、聞えてむと、自(ラ)慷慨《ハケマ》せる歌也、てむを、てなといふは、古言の常なり、既に上に見えたり、
 
唱訖《ウタヒヲハリテ》自(ラ)斬(ル)2數人(ヲ)1、更(ニ)追(テ)至2丹波(ノ)國浦掛水門(ニ)1、盡々逼(テ)殺v之《コロセリ》、【一本(ニ)云、追2至(テ)浦掛(ニ)1、遣v人(ヲ)盡(ニ)殺v之、】
 
第十五卷 弘計《ヲケノ》天皇、【四首、顯宗天皇、】
 
白髪《シロカミノ》天皇二年、冬十一月、播磨(ノ)國(ノ)司《ミコトモチ》、山部(ノ)連(ノ)先祖、伊與來目部小楯《イヨノクメベノヲダテ》、於(テ)2赤石郡(ニ)1(42オ)親(ラ)辨《ソナフ》2新甞供物《ニヒナメタテマツリモノヲ》1、適々會(ヘリ)2縮見屯倉首《シヽミノミヤケノオビトカ》、縱賞新宝《ニホムロホギシテ》以(テ)v夜繼(クニ)1v晝(ニ)、爾乃《スナハチ》天皇謂2兄|億計《オケノ》王(ニ)1曰、云云、屯倉(ノ)首、謂2小楯(ニ)1曰、僕《アレ》見(ルニ)2此秉(ル)v燭(ヲ)者(ヲ)1、貴(テ)v人(ヲ)而賤(ム)v己(ヲ)、先(テ)v人(ヲ)而後(ニス)v己(ヲ)、恭敬樽《オモムク》v節(ニ)、退讓以(テ)明(ス)v禮(ヲ)、可v謂2君子(ト)1、於v是|小楯《ヲタテ》撫v絃《コトヒキテ》、命2秉v燭者(ニ)1曰、起(テ)※[人偏+舞](ヘ)、於v是|兄弟《ハラカラ》相讓(テ)久(ク)而不v起、小楯|嘖《コロヒテ》v之曰、何爲大遲《ナソオソキ》、速(ニ)起(テ)※[人偏+舞]之、億計(ノ)王起(テ)※[人偏+舞]、既(ニ)了(テ)、天皇次(ニ)起(テ)自(ラ)整(テ)2衣帶《コロモヒモヲ》1、(42ウ)爲(テ)2室壽《ムロホキヲ》1曰、
 
築立稚室葛根《ツキタツルニヒムロツナネ》、
築立《ツキタツ》は、新室を、城築《キツキ》建たるをいふ、稚は、即にひと訓べき也、賞2新室(ヲ)1、云々と、上に出たるにて知るべし、萬葉卷(ノ)十一に、新室乃《ニヒムロノ》、壁艸苅爾《カヘクサカリニ》、御座給根《オマシタマハネ》、云云、と見えたり、葛根《ツキネ》は、延喜大殿祭(ノ)祝詞に、下津綱根《シタツツナネ》、【古語番繩之類、謂2之綱根1、】波府虫禍無《ハフムシノワサハヒナク》、とあり、師説に云、顯宗紀の、室賀の御詞、神代紀の大己貴(ノ)命の宮の事、出雲風土記の、楯縫郡の詞等を合見るに、上つ代の殿造りは、上下縱横に、千尋《チヒロ》の綱《ツナ》もて、結固《ユヒカタメ》し也、葛根《ツナネ》の根《ネ》は、結目《ユヒメ》を云といへり、猶祝詞考にいはれしを見べし、
 
築立柱楹者《ツキタツルハシラハ》、此家長御心之鎭也《コノイヘヲサノミコヽロノシツメナリ》、
柱楹の二字、合してはしらと訓べし、和名抄(ニ)云、説文(ニ)云、柱、【音注、和名波之良、功程式(ニ)云、束柱、豆賀波之良《ツカハシラ》、】楹也、唐韻(ニ)云楹、【音盈、】柱也、とあり、長は、家主をいふ、師は、きみと訓れしかど、萬葉卷(ノ)五に、五十戸良と書て、さとをさと訓し例もあれば、家をさと訓むべし、築立る柱の、動無きをもて、心の鎭りと、賀《ホギ》給へり、
 
取擧棟梁者《トリアクルウツハリハ》、此家長御心之林也《コノイヘヲサノミココロノハヤシナリ》、
棟梁の二字、合してうつばりとよむべし、和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、梁、【音良和名宇都婆利、】棟梁也、と見えたり、梁の高(43オ)く繁きもて、心の高く、智《サトリ》の多を、賀《ホギ》給へり、林は、繁き意に、取用ひたり、
 
取置椽棟者《トリオケルタルキハ》、此家長御心之齊也《コノイヘヲサノミコヽロノトヽノヒナリ》、
橡棟の二字、合して、太流木《タルキ》と訓べし、和名抄(ニ)云、※[木+衰]、【音衰、和名太流木、楊氏漢語抄(ニ)云、波閉岐、】在(テ)2※[木+穩の旁](ノ)旁(ニ)1下垂也、兼名苑云、一名(ハ)※[木+繚の旁]、【音老、】一名(ハ)橡、【音傅、】間※[木+人]【唐韻云音人、漢語抄(ニ)云、間※[木+人]、太流木、】とあり、椽を取ならべて、それに蘆※[草冠/懽の旁]《エツリ》を、結つくるゆゑ、心の齊《トヽノヒ》と、賀《ホギ》給へり、
 
取置《トリオケル》、蘆※[草冠/懽の旁]者《エツリハ》、此家長御心之平也《コノイヘヲサノミコヽロノタヒラキナリ》、
蘆※[草冠/懽の旁]、之潤(ノ)反、此(ニ)云(フ)2哀都利《エツリト》1、和名抄(ニ)云、楊氏漢語抄(ニ)云、棧【瓦|乃衣都利《ノエツリ》、初限(ノ)反、】日本紀私記(ニ)云、蘆※[草冠/懽の旁]、【和名同v上、今按唐韻(ニ)云、※[草冠/霍]、故官(ノ)反、葦也、爲v棧(ニ)非也、】とあり、今吾郷にて、奈胡《ナコ》と稱もの是也、彼椽へ横に結つけて、家ばらを齊るがゆゑに、心の平《タヒラ》也と、賀《ホキ》たまへり、
 
取結繩葛者《トリユヘルツナネハ》、此家長御壽之堅也《コノイヘヲサノミイノチノカタメナリ》、
繩葛の二字、つなねとよむべし、則上の葛根《ツナネ》也、千尋の栲繩《タクナハ》もて、結かためたるを、御いのちのかためと、賀《ホギ》たまへり、
 
取葺草葉者《トリフケルカヤハ》、此家長御富之餘也《コノイヘヲサノミトミノアマリナリ》、
かやは、葺艸の名、其(43ウ)葺艸《カヤ》の、檐下まで葺きあまれるを、御富《ミトミ》の餘《アマリ》と、賀給へり、
 
出雲者新墾《イヅモハニヒハリ》、
この出雲は、國號にあらず、立出る雲の、やがてはびこる意にて、新ばりの、はりに冠らせたる、發語也、萬葉卷(ノ)十八に、この見ゆる、雲保妣許里《クモホヒコリ》て、とのぐもり、雨もふらぬか、心だらひに、とある保妣許里《ホヒコリ》は、はびこり也、はびこりは、張弘《ハリヒロ》ごる意なれば、雲にはるといふ言のあるを、知べし、
頭注、○萬葉卷(ノ)十四に、ひと|ねろ《・嶺》に、い|は《・張》るものから、あをねろ《・青嶺》に、いさよふ|くも《・雲》の|よそりつま《・依妻》かも、と有(リ)、このいはるも、雲の張《ハ》るをいふ、
 
新墾之十握稻之穂《ニヒハリノトツカシネノホ》、
新墾《ニヒハリ》は、あらたにはりし田也、【阿波(ノ)國にては、土を堀(ル)事を、はると云といへり、】十束稻とは、稻穗の長きをいふ、延喜祝詞に、八束穗乃茂穗《ヤツカホノイカシホ》といへる是也、その茂穗《イカシホ》の稻もて、釀《カメ》る酒と、たゝへ給へり、
 
於淺甕醸酒《サヲケニカメルサケ》、
和名抄(ニ)云、本朝式(ニ)云、※[瓦+里]、【佐良氣《サラケ、》今按所v出未v詳、】辨色立成(ニ)云、淺甕、【和名同上、】とあり、今按に、さらは、淺良《アサラ》の略語、計《ケ》は、美加《ミカ》の加《カ》に同じく、器《ケ》にて、則|甕《ミカ》をいふなるべし、釀酒《カメルサケ》は、酒を造れるをいふ、賀美《カミ》の言は、師説をあげて、上にいへり、己(レ)も考あり、
 
美飲喫哉《ウマラニヲヤラフルカネヤ》、
美飲喫哉、此(ニ)云2于魔羅※[人偏+爾]烏野羅甫屡柯佞也《ウマラニオヤラフルカネヤ》1、うまらは、可美《ウマラ》也、らは、助辭、をやらふは、飲遣《ヲシヤル》也、飲を、をすといふ言は、上に出たり、やるを延(ヘ)て、やらふといふ、神逐《カムヤラヒ》などいへる、是也、かねやは、であらんよといふ意、(44オ)萬葉卷(ノ)三の解にいへり、
頭注、○柯佞也《カネヤ》の也《ヤ》は、古本になしといへり、ありとも、助語に添たる字にて、意なきか、さる例もあり、
 
吾子等《アコタチ》、
子は男子の通稱也、あごは吾君《アキ》といふに同じく、親しみ睦しむ稱なる事、上にくはしく釋り、屯倉《ミヤケノ》首を始めて、そこにつどへる人々をさして、詔へる也、
 
脚日木《アシヒキノ》、
發語也、上に出、
 
此傍山《コノカタヤマノ》、
傍《カタ》は假字、下に見ゆる、比羅方《ヒラカタ》の、かたに同しかるべし、そこにいふを待てよ、
 
牡鹿之角《サヲシカノツヌ》、
牡鹿此(ニ)云2左嗚子加《サヲシカ》1、萬葉集中、志加《シカ》には、牡鹿、雄鹿、男鹿、など云て、鹿一字は、加《カ》とよむ、例なるをもて、おもふに、志加《シカ》は、夫鹿《セカ》なるべし、【うつほ物話に、かせぎといへるも、鹿夫君《カセキ》也、併按べし】されば左《サ》も嗚《ヲ》も、ともに添言の、褒《ホメ》言なりと知るべし、
 
擧而吾※[人偏+舞]者《サヽゲテワカマヘバ》、
左右の手をさゝげて、※[人偏+舞]給ふさまを、さをしかの、角をさゝげたるに、譬給へり、さゝげは、刺上《サシアゲ》なり、
 
旨酒※[食+甘]香市《ウマザケヱカノイチニ》、
旨酒《ウマサケ》は、發語、※[食+甘]香《ヱカ》は、惠區之《ヱクシ》の意に、いひつゞけさせ給へるなるべし、惠區之《ヱクシ》は、古事記(ノ)歌に見えて、笑酒《ヱムクシ》なるべきよし、上崇神紀の歌に、引證して辯おけり、その區之《クシ》の約(メ)は、紀《キ》なるを、加《カ》に轉《ウツ》したる也、倭姫(ノ)世紀に、味酒鈴鹿《ウマサケスヽカ》とあるも、啜酒《スヽクシ》なるべし、是等の事は、區之《クシ》の考一冊にありて、萬葉考の附録とせり、披見べし、さて※[食+甘]香《ヱカ》は、續日本紀、神護景雲三年、權(ニ)任2會賀《ヱガノ》(44ウ)市司(ヲ)1と見え、釋紀に、河内國といへり、河内(ノ)國に、惠賀長《ヱカナカ》野陵あればしかにやあらん、されど播磨の國にして、河内(ノ)國の名所を詔ひ出給はんは、古意ならす是は和名抄に、同國餝磨郡の郷名に、英賀《アガ》、【安加《アカ》】と見えたる地《トコロ》にはあらぬにや、
頭注、○後の歌に、しかまの市とあるは、この英賀《アガ》の市なるべし、
 
不《ス》2以《モテ》v直《アタヒ》買《カハ》1、
十握稻を、淺甕《サラケ》に釀る酒《サケ》なれば、市に買へる酒ならずと、稱美《ホメ》たまへり、
 
手掌※[立心偏+樛の旁]亮《タナソコモナラヽニ》、
手掌※[立心偏+樛の旁]亮、此(ニ)云(フ)2※[こざと+施の旁]那則擧謀那羅々※[人偏+爾]《タナソコモナララニ》1、○一本|則《ソ》を※[豆+寸]《ツ》に作て、たなづこと訓たり、たなづこといふ言、いかにとも心得がたし、今本に則《ソ》と書るや是《ヨ》からん、そことは、こゝろといふに近し、【池の底を、池のこゝろとも云、】※[立心偏+樛の旁]亮は、仁徳紀に、寥亮を、さやかなりと訓たり、※[立心偏+樛の旁]と、寥と音の通へば、さやかなる意、さるをならゝといへるは、いかなる意にや、意得がたし、鳴羅《ナララ》にて、下のらは、助語か、今本の訓點には、やらゝとあり、那《ナ》と耶《ヤ》と、字畫の似たれは、誤れるにや、耶羅々《ヤラヽ》は、和羅《ヤワラ》/\なるべし、さて是の言は、寥亮《サヤカ》に手を打といふ意にて、下の拍上《ウチアゲ》をいはむ料の、序也、
 
拍上賜《ウチアケタマフ》、
打上《ウチアゲ》は、宴の古言、うたげも此うちあけの略語也、竹取物語に、此ほど三日、うちあけあそふ、うつほ物語、藤原の君の卷に、七日なゝ夜、とよのあかりして、打あげあそぶ、云々、今津(ノ)國池田の賤民、酒呑(ム)事を、うちあ(45オ)くるといふといへり、備前(ノ)國にても、しかいふと、或人云(ヘ)り、
頭注、○萬葉に打上佐保《ウチアクルサホ》とつゞけし發語も、此うちあけあそぶといふ意にて、あを省き、曾《そ》と佐《サ》と、夫《フ》と保《ホ》と通したる也、
 
吾常世等《ワカトコヨタチ》、
常世《トコヨ》とは、常かはらぬ意、上に吾子等《アコタチ》と詔へる人々をさして、今は常世等《トコヨタチ》と、賀《ホギ》給へるなり、
 
壽畢《ホギヲハリテ》乃(チ)起節歌曰《コトニアハセテウタヒタマハク》、
 
83 伊儺武斯廬《イナムシロ》、
寐席《イナムシロ》也、皮にかゝる發語ぞと、師の冠辭考にいはれし、むしろは、身代《ミシロ》也、
 
加簸泝比野儺擬《カハソヒヤナキ》、
河副柳《カハソヒヤナキ》也、河邊に生たる柳なり、
 
寐逗愈凱麼《ミヅユケバ》、
水行者《ミヅユケバ》也、
 
儺弭企於已柁智《ナビキオキタチ》、
靡起立《ナビキオキタチ》也、美《ミ》と備《ビ》は、常に通ふ例なり、
 
曾能泥播宇世孺《ソノネハウセズ》、
真根者不失《ソノネハウセズ》也、河そひ柳の、高水には、靡伏《ナヒキフス》とも、その水の干《ヒ》る時は、起立《オキタチ》て、その根の流れ失ぬが如く、世の亂によりて、暫|伏隱《フシカクリ》給ふとも、終には、皇胤に大ましませば、時を得て、起立給はむとの意を、比喩して、うたひ給へる也、
 
小楯謂v之曰、可怜《オモシロシ》、願(ハ)復(タ)聞《キカナ》v之(ヲ)、天皇遂(ニ)作(シタマフ)2(45ウ)殊※[人偏+舞]《タツヽマヒヲ》1、
殊靡、古(ヘ)謂(フ)2之立出※[人偏+舞](ト)1、立出、此(ニ)云(フ)2※[こざと+施の旁]豆々《タツヾト》1、※[人偏+舞]状者、乍《ツヽ》v起《タチ》乍《ツヽ》v居《ヰ》而※[人偏+舞]v之、釋紀(ニ)云、養老私記(ニ)云、舞、状者、乍v立乍v居而※[人偏+舞]、今(ノ)東舞是也、云云、
 
誥之曰《タケヒタマハク》、倭者彼々茅原《ヤマトハソヽチハラ》、淺茅原《アサチハラ》、弟日僕是也《オトビヤツコラマコレナリ》、
この御言の意、すべて心得がたし、強ていはゝ、倭者《ヤマトハ》と詔《ノリ》ましゝは、皇胤にして、大和國にあれましゝ、御子なれば成べし、彼々《ソヽ》は、契冲が説に、舊事紀に、曾々笠縫等《ソヽカサヌヒラガ》祖、云々とある、曾々《ソヽ》に同じく、地名かといへれど、おぼつかなし、是は延喜式、大殿祭の祝詞に、取葺艸乃《トリフケルカヤノ》、曾々伎無《ソヽキナク》、といへる曾々伎《ソヽキ》にて、茅《チ》、或は菅《スゲ》の類の、そゝき立たるをいふ言にやあらむ、【笠縫に、曾々《ソヽ》と冠らせたるは、菅《スゲ》による云か、薄《スヽキ》といふ名も、そゝき立るゆゑなるべし、】淺茅《アサチ》のそゝき立るを、兄弟の王の、並立給へるに譬て、曾々茅《ソヽチ》の弟日僕《オトヒヤツコラマ》とは、詔《ノタマ》ひけむ、さるは萬葉卷(ノ)二に、霰打《アラレウツ》、阿羅禮松原、住吉の、弟日孃子《オトヒヲトメ》と、見れどあかぬかも、とあるも、あらゝ松原の、並立るを、兄弟の孃子《エオトメ》の、並立るにいひよせたる言にやと、おぼゆれば也、【肥前風土記に、弟日姫子《オトヒヒメゴ》といへる女を、歌に、しぬはらの、弟日女《オトヒメ》の子を、云云とよめるも、篠原のそゝき立るより、弟日《オトヒ》に、いひよせたるにやとおほゆ】、弟日《オトヒ》とは、今の世の言に、兄弟を、おとゝひといふは是ぞと、師の考にいはれき、僕《ヤツコラマ》の羅ま《ラマ》は、助語、かへらま、わくらば、といへるに同じ、謙《クダリ》て僕《ヤツコ》とは、詔ませるなるべし、
 
(46オ)小楯由(テ)v是深(ク)奇異《アヤシメリ》焉、更(ニ)使(ム)v唱v之(ヲ)、天皇|誥之曰《タケヒタマハク》、石上振之神※[木+褞の旁]《イソノカミフルノカミスギ》
※[木+褞の旁]此(ニ)云(フ)2須擬《スキト》1、石上は、大和(ノ)國山邊(ノ)部也、振(ノ)神宮の事は、上つ代の書に數多見ゆるを、石上|振《フル》とつゞけしは、この御言をはじめにて、武烈紀の歌にも、いすのかみ、ふるをすぎ、と見えたり、此所の神杉をしも取《トリ》出ゝ、かく詔《ノリ》ませるは、皇祖父《ミオフヂノ》尊、履中天皇の、はじめ石上(ノ)神宮に入おましましゝ事、彼紀に見えたれば、さるよしにてや、取出給ひけむ、又は父尊を、磐坂市邊押齒王《イハサカイチノビオシハノミコ》と申しも、磐坂市邊は、地名と聞ゆれば、さる地や、振の神宮と同じ、石上のうちに有けむ、故かく詔へるか、よく考定むべし、
 
伐v本截v末《モトキリスヱオシハラヒ》、
伐v本截v末、此(ニ)云2謀登岐利須衛於茲婆羅比《モトキリスヱオシハラヒト》1、これは古語にて、古事記、室賀《ムロホキ》の御詞に、五十隱山《イコモルヤマノ》、三尾之竹矣《ミヲノタケヲ》、本※[言+可]岐苅《モトカキカリ》、末押磨《スヱオシスリ》、延喜式大殿祭(ノ)祝詞に、大峽小峽《オホカヒヲカヒニタテルキヲ》、本末《モトスヱヲ》、山神※[氏/一]《ヤマツミニマツリテ》、大祓詞に、天津菅曾《アマツスカソヲ》、本苅切末苅斷※[氏/一]《モトカリキリスヱカリタチテ》、云々、かゝる類多かり、さてかく詔給へるは、いかなる意にや、心得がたし、例の強ていはゝ、皇祖父尊、履中天皇の、石上におましまし、終《ツヒ》に仲(ノ)皇子を、亡し給ひ、阿曇《アツミ》の連濱子を、捉《トラヘ》給ふに、押齒(ノ)王も、預り給ふ事のありしによ(46ウ)りて、かくは詔給へるか、仲(ノ)皇子を殺給ふを、伐v本《モトキリ》といひ、阿曇連濱子を捉《トラヘ》給ふを截v末《スヱオシハラヒ》と、の給へるにはあらざるか、この言は、猶よく考べきなり、
 
於2市邊宮1治2天下1《イチノヒノミヤニアメノシタシラシヽ》、
此紀の末に、吾父(ノ)先王《オホキミ》、雖(ドモ)2是(レ)天子之子(ト)1、遭2遇《アヒタマヒ》※[しんにょう+屯]※[しんにょう+壇の旁](ニ)1不v登2天位1、と見えたれば、治2天下1とは、詔給ふべきにあらねど、皇胤の尊きを揚稱《アゲホメタマハ》んとて、かくまでたゝへ給へるか、雄略紀に、天皇恨(タマフ)【丁】穴穗(ノ)天皇(ノ)、曾(テ)欲(ヲ)【丙】以2市邊(ノ)押磐(ノ)皇子1、傳(テ)v國(ヲ)而遙(ニ)付【乙】屬後(ノ)事(ヲ)【甲】、と見えたれは、儲君として、攝v政(ヲ)給ひけん、さるをやがて、治2天下(ヲ)1とは詔《ノリ》給へるにやあらん、
 
天萬國萬押磐尊《アメヨロツクニヨロヅオシハノミコト》、
萬《ヨロヅ》は、上に辨《イヘ》るが如く、足備《タリソナハ》れるをいふ言なれば、天足國足《アマタラシクニタラシ》といふにおなじ、萬葉卷(ノ)三に、御壽常敷〔二字左○〕《ミヨハトコシク》、天足有《アマタラシタリ》、とあり、【壽は、與《ヨ》とよむべし、】天地にたらひて、秉(リ)v政(ヲ)給ふといふ意、こゝに尊の字を書れたるも、さる意もて、崇《アガメ》つるものと見えたり、
 
御裔僕是《ミスヱヤツコラマコレ》也、小楯《ヲタテ》大(ニ)驚(キ)、離《サケテ》v席(ヲ)悵然再拜《カナシミテヲロカミマツル》、云云、
 
五年春正月、白髪《シロカミノ》天皇崩、是月|皇太子《ヒツキノミコ》(47オ)億計王《オケノミコト》、與《ト》2天皇1、讓(タマヒテ)v位(ヲ)久(ク)而不v處、由(テ)v是(ニ)天皇(ノ)姉、飯豐青皇女《イヒトヨアヲノヒメミコ》、於2忍海角刺《オシヌミツヌサシノ》宮(ニ)1、臨(テ)v朝秉(リタマフ)v政、自(ラ)稱《マヲセリ》2忍海飯豐青《オシヌミイヒトヨアヲノ》尊(ト)1、當世詞人《ソノカミノウタヒト》、歌曰《ウタヒツラク》、
 
84 野麻登陛※[人偏+爾]《ヤマトヘニ》、
大和方爾《ヤマトヘニ》也、古事記仁徳(ノ)條、黒媛の歌に、夜麻登幣邇《ヤマトヘニ》、爾斯布伎阿宜※[氏/一]《ニシフキアゲテ》、云々、萬葉に、沖つ邊《ヘ》、夷邊《ヒナヘ》、都邊《ミヤコベ》、などあまたあり、皆|方《ヘ》といふ意也、
 
彌我保指母能婆《ミカホシモノハ》、
見之欲物者《ミガホシモノハ》也、
 
於尸農瀰能《オシヌミノ》、
忍之海之《オシノウミノ》也、乃宇《ノウ》を約めて、奴《ヌ》といふ、忍海は、大和の郡名也、古事記には、葛城忍海之高木角刺《カツラキオシヌミノタカキツヌサシノ》宮とあり、忍海は、もと葛城のうちなるを、後に分りて、一郡とはなれるなり、
 
※[草がんむり/呂]能※[木+施の旁]柁※[加/可]紀儺屡《コノタカキナル》、
此高城在《コノタカキナル》也、城《キ》とは、稻城《イナキ》、磯城《シキ》の城《キ》にて、垣など結《ユヒ》めぐらし(47ウ)て、取圍《トリカコメ》る所をいふ言也、古事記、仁徳(ノ)條の歌に、美毛呂能《ミモロノ》、曾能多迦紀那流《ソノタカキナル》と見えたり、神武紀の歌に、見えたる多加支《タカキ》は、田垣にて、是とは異なり、
 
都怒娑之能瀰野《ツヌサシノミヤ》、
角刺之宮《ツヌサシノミヤ》也、青(ノ)尊の大宮所の名也、その宮室《ミヤ》の美麗《ウルハシキ》を、稱美《ホメ》したる歌そ、
 
冬十一月、飯豐青尊《イヒトヨアヲノ》崩、葬(ヌ)2葛城埴日丘《カツラキハニヒノヲカノ》陵(ニ)1、
そも/\この青(ノ)尊は、天皇の大御繼の員《カズ》に入給ふべきを、いかでこの紀にも、古事記にも、もれたりけむ、神皇通記凡例曰、飯豐(ノ)皇女、稱(テ)2天皇(ト)1、載2其(ノ)治一年(ヲ)於清寧(ノ)後(ニ)1者《ハ》、皇代略(ニ)曰、飯豐(ノ)天皇不v註2諸王(ノ)系圖(ニ)1、和銅五年上奏(ノ)日本紀載(ス)v之(ヲ)、然(ニ)讀日本紀和銅五年、無(シ)v載(ルコト)2其事(ヲ)1、前王廟陵記(ニ)曰、今按(ニ)和銅五年上奏(ノ)日本紀載v之、此日本紀(ハ)者、非2今(ノ)日本書紀(ニ)1、今(ノ)日本書紀(ハ)相2後(ルコト)和銅五年(ニ)1九年、養老四年奏覺焉、云々、此所v謂日本紀(ハ)今亡(テ)非v傳、不v可2得考1、然(トモ)水鏡、海道諸國記、並(ニ)載2此帝(ノ)即位(ヲ)1、稱(ニ)以2飯豐(ノ)天皇(ヲ)1而標(ス)2之(ヲ)歴代(ニ)1、爲2二十四代1、無窮記亦載(ス)2之歴代(ニ)1、愚管抄、神皇正統録、稱(ス)2之(ヲ)飯豐(ノ)天皇(ト)1、本朝編年録、國史實録等、清寧之後、附(ス)2飯豐(ノ)天皇(ノ)治世一年(ヲ)1、皆可v證也、故(ニ)據v之、といへり、こゝに青(ノ)尊崩、とある、尊の字も、崩の字も、さる意もて、かゝれたる事、明らかならずや、
 
(48オ)元年二月戊戌(ノ)朔、壬寅、詔曰、先王遭2離多難(ニ)1、殞2命《ヲハリタマヘリ》荒郊(ニ)1、朕《ワレ》在2幼年1、亡逃(テ)自(ラ)匿(ル)、猥(ニ)遇(テ)2求迎1、升2纂大業(ニ)1、廣(ク)求(レトモ)2御骨(ヲ)1、莫2能知(ル)者《モノ》1、詔畢(テ)與《ト》2皇太子億計1、泣哭|憤※[立心偏+宛]《イタメリ》、不v能2自(ラ)勝(ルコト)1、召《メシ》2聚(メテ)耆宿《オイビトヲ》1、天皇親(ラ)歴問、有(リ)2一|老嫗《オムナメ》1、進(テ)曰、置目《オキメ》知(レリ)2御骨(ヲ)埋(メル)處(ヲ)1、請(フ)以(テ)奉(ム)v示、【置目老嫗《オキメハオムナノ》名也、近江(ノ)國、狹々城《サヽキ》山(ノ)君(ノ)祖、倭(ノ)※[代/巾](ノ)宿禰(ガ)妹、名(ハ)曰(フ)2置目《オキメト》1、見2下文(ニ)1、】於v是天皇與2皇太子億計1、將《ヰテ》2老嫗婦(ヲ)1、幸(マス)2于近江(ノ)國|來田綿蚊屋《クタワタカヤ》野中(ニ)1、(48ウ)堀出(テ)而見(タマフニ)果(シテ)如(シ)2婦語《ヲムナノマヲセルカ》1 略、詔(シテ)2老嫗置目(ニ)1、居《ハヘラシム》2于宮(ノ)傍(ノ)近(キ)處(ニ)1、優崇賜(ヒ)v※[血+おおざと](ヲ)使v無(ラ)2乏少(コト)1、是月詔曰、老嫗|伶※[人偏+(由/〓)]羸弱《オトロヘテ》、不《ズ》v便《モヤ/\モアラ》2歩行《アルクニ》1、宜(ク)張(テ)v繩(ヲ)引※[糸+亘]《ヒキワタシテ》、扶而出入(ラシム)、繩(ノ)端(ニ)懸(ケ)v鐸(ヲ)、無(シム)v勞v謁《マヲスニ》者、入(レハ)則鳴(セ)v之、朕《ワレ》知(ム)2汝(カ)到(ヲ)1、於v是老嫗奉(テ)v詔嗚(テ)v鐸(ヲ)而進(ム)、天皇遥(ニ)聞(メシテ)2鐸(ノ)聲(ヲ)1歌曰、
 
85 阿佐※[貝+貳]簸※[口+羅]《アサチハラ》、
淺茅原《アサチハラ》也、延佳神主、古事記頭註曰、按2此歌(ヲ)1、自2第一句1、至2第三句(ニ)1、皆言(フ)3鐸鈴(ノ)聲過(ルヲ)2山野(ヲ)1、因(テ)起(ス)2鐸動之語(ヲ)1、といへり、此説|是《ヨシ》とすべし、いかにおもひても、淺茅原《アサチハラ》は嗚噌禰《ヲソネ》にかゝる發語ならねば、山野を過るをいふといへるは、あたれるにこそ、
 
嗚噌禰(49オ)嗚須凝《ヲソネヲスギ》、
古事記には、遠※[こざと+施の旁]爾《ヲタニ》とあり、小谷なるべしとおもはるれば、その意もて考るに、曾禰《ソネ》といふ地名の、所々におほかるが、おほかたは、磯根《イソネ》なるべく聞ゆるを、磯《イソ》とは、海川につきて云言なれば、小谷《ヲタニ》と小曾禰《ヲソネ》は、やゝ近き稱なり、よく考見よ、
 
謨々逗柁甫《モヽヅタフ》、
百道傳《モヽチツタフ》也、知《チ》逗《ツ》の約(メ)逗《ツ》なれば、知《チ》の言を省ける也、おほくの道路を、傳經《ツタヒフ》るの意、神功紀の、百傳《モヽツタフ》度會縣《ワタラヒカタ》は、百道《モヽチ》を傳渡《ツタヒワタ》るといふ意に、つゝけたる也、そのほか、古事記の、應神(ノ)條、毛々逗多布《モヽツタフ》、都怒賀《ツヌガ》は、野《ヌ》の言にかゝるなるべく、萬葉卷(ノ)三に、磐余《イハレノ》池につゞけたるは、百道《モヽチ》傳ふには、野《ヌ》も、山《ヤマ》も、谷《タニ》も、岩根《イハネ》も、有めれば、岩根《イハネ》の意に、つゞけたる言とすべし、【禰《ネ》と禮《レ》は、同韻にて相通ふ、】又同(シ)卷(ノ)七、卷(ノ)九に、八十之島廻《ヤソノシマミ》、とつゞけたるも、おほくの嶋々を、傳ひ經行《ヘユク》をいふ、かくてこゝの怒底《ヌテ》にかゝるは野道《ヌテ》の意、道を、手《テ》といふは、※[土+回]手《クマテ》、長手《ナカテ》の手《テ》、今の世、繩手《ナハテ》といふ手《テ》も、是なり、
 
怒底喩羅倶慕與《ヌテユラクモヨ》、
鐸響毛與《ヌテユラクモヨ》也、鐸は、私記(ニ)云、如(シ)2今(ノ)鐸傳之鈴(ノ)1、と註たれば、上にいふ如く、多くの野山を經る名にて、野手《ヌテ》【この手《テ》は、上にいふ、道の意の手《テ》にあらず、卯手の字(ノ)義にて、鈴をさして云なるへし、】なるべくやとおもへれど、よく考るに、百傳《モヽツタフ》の發語のかゝるは、さる意にして、鐸の名は、瓊手《ヌテ》にこそ有べけれ、上に見えたる、脚帶《アユヒ》の小鈴《コスヽ》、仲(ノ)皇子の手鈴《タナスヽ》は、足玉《アシタマ》、手玉《タヽマ》と、ひとつものと思はれ、神(49ウ)代紀の、瓊響※[王+倉]々は、このぬてゆらくといふ言と、ひとしく聞え、萬葉卷(ノ)十一に、手|玉《タマ》ならすもとあるは、即|手鈴《タナスヽ》なるべければ、大古の鈴といふものは、玉の相觸れて、響《ナル》をいふにやとおもへり、【今の鈴は、後に漢土より渡來りしものにて、さなきといへるは、彼にや、】萬葉卷三に、竹玉乎《タカタマヲ》、繁爾貫垂《シヽニヌキタレ》、といへるも、今の世、古墳より堀出る玉に、管玉の多かる、その形をもておもふに、竹玉《タカタマ》は、小竹を、ふつ/\と切て、糸に貫たる名なるべし、その小竹を、篶竹《スズダケ》といふも、鈴《スヾ》と玉とは、ひとつものなる故にやとおぼゆる、猶この事は、竹玉の考に、委しくいへり、さてゆらくは、上に引、神代紀、瓊響※[王+倉]々の訓註に、乎奴儺等母《ヲヌナトモ》、母由羅爾《モユラニ》、とあるを、師説(ニ)云、乎《ヲ》は、緒《ヲ》也、奴《ヌ》は、瓊《ヌ》也、【同音にて、奴とも、爾ともいへり、】儺《ナ》は之《ノ》也、等《ト》は、音《オト》の於《オ》おを省けり、母《モ》は辭也、次にいふ、母《モ》は眞《マ》也、由羅は、すべて玉の相觸れて、鳴響《ナルオト》を云り、然れとも、由須《ユス》の約も、由留《ユル》の約も、由《ユ》也、羅《ラ》は、由羅倶《ユラク》ともいふ時、羅久《ラク》の約|留《ル》なるをもて、辭とす、かゝれば、由羅《ユラ》は、もと搖《ユル》ことなるを、搖《ユル》は相觸て鳴よりいひて、轉言也、かくてこゝの凡(ヘ)ては、緒瓊之音毛眞搖爾《ヲヌナトモマユラニ》、と心得べしとあり、是にてこゝの言も、明らかなり、
 
於岐毎倶羅之慕《オキメクラシモ》、
置目來良斯毛《オキメクラシモ》也、鐸《ヌテ》の響《ナル》を聞《キコ》しめして、置目《オキメ》か來るを知しめせる也、置目《オキメ》といふ名は、押齒王《オシハノミコ》の御骨を求給へるに、この老嫗《オムナ》の見置《ミオキ》しを失はずて、その地を知れるを譽て、名を置目《オキメ》と賜へりと、古事記に見えたれば、(50オ)目《メ》は則見のよしなり、
 
二年九月、置目老困《オキメオイクルシミテ》、乞(テ)v還曰、氣力衰邁老髦虚羸、要《カヽレドモ》2假扶(ノ)繩(ニ)1、不v能2進歩1、願(ハ)歸(テ)2桑梓《クニニ》1以(テ)送2厥《ソノ》終(ヲ)1、天皇聞※[立心偏+宛]痛、賜(フ)2物千段(ヲ)1、逆《アラカジメ》傷(ミ)2岐路《ワカレヲ》1、重(テ)感《カナシミタマフ》v難(ヲ)v期《アヒ》、乃賜v歌曰、
 
86 於岐毎慕與《オキメモヨ》、
置目毛與《オキメモヨ》也、毛與《モヨ》は、助語、萬葉卷(ノ)一に、籠毛與《カタマモヨ》、布久志毛與《フクシモヨ》、とあり、古事記には、意岐米母夜《ヲキメモヤ》、とあり、やとよは、相通ふ言、上に見えたり、
 
阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》、
淡海之置目《アフミノオキメ》也、もと近江(ノ)國の産なれば也、奧《オキ》とつゝく意にやと、契冲がいへるは、穿《ウカ》てり、
 
阿須用利簸《アスヨリハ》、
自(リ)2明日《アス》1者《ハ》也、
 
彌野磨我倶利底《ミヤマガクリテ》、
(50ウ)眞山隱而《ミヤマカクリテ》也、隱を、加久利と、體言にいふは、古言也、大和の國より、近江(ノ)國へ、山路を隔て、かへり行をのたまへり、
 
彌曳孺※[加/可]謨阿羅牟《ミエすカモアラム》、
不v見哉將v有《ミエスカモアラム》也、續古今集の、離別に、この歌を載られて、さゝ波や、近江のをとめ、明日よりは、みやまかくれて、見えずもあらなむ、と改められしは、いみじきひか言ならすや、中古の先達、いかでかくまで古歌を解得ず、古言を誤られけむ、いぶかし/\、
 
日本紀歌解槻乃落葉 中卷 終
 
(1オ)日本紀歌(ノ)解槻乃落葉 下卷
    皇大神宮權禰宜從四位下 荒木田神主久老謹撰
 
第十六(ノ)卷 小泊瀬稚鷦鷯《ヲハツセワクサヽギノ》天皇、【九首、武烈天皇、】
 
十一年八月、億計《オケ》天皇崩、大臣|平群《ヘグリノ》眞鳥(ノ)臣、專(ラ)擅(ニシテ)2國(ノ)政(ヲ)1欲v王《キミタラムト》2日本(ノ)1、陽《イツハリテ》爲2太子1營了(テ)即(チ)自(ラ)居《スム》、觸v事(ニ)驕慢(テ)都(テ)無(シ)2臣(ノ)節1、於v是太子、思3欲《オモホシテ》聘《メサムト》2物部(ノ)麁鹿火《アラカヒノ》大連(ノ)女影媛(ヲ)1、遣(テ)2(1ウ)媒人(ヲ)1、向(テ)2影媛(カ)宅(ニ)1期《チキリタマフ》v會(ムト)、影媛|會《サキニ》※[(女/女)+干](タリ)2眞鳥(ノ)大臣男|鮪《シミニ》1、【鮪、此(ニ)云(フ)2茲寐《シミト》1、】恐(テ)v違(ヲ)2太子|所《シニ》1v期《チキリ》、報曰、妾《ワレ》望(ハ)奉(ム)v待2海柘榴市(ノ)巷(ニ)1、由(テ)v是太子欲(シテ)v徃(ト)2期處(ニ)1、遣(シテ)2近(ク)侍(ル)舍人(ヲ)1、就(テ)2平群(ノ)大臣(ノ)宅(ニ)1、奉(テ)2太子(ノ)命(ヲ)1、求2索《コハシム》官(ノ)馬(ヲ)1、大臣戯言(ニ)陽(テ)進(テ)曰、官馬爲(ニ)v誰飼養、随《マヽニト》v命(ノ)而已《イヒテ》、久(ニ)不v進、太子懷v恨忍(テ)不v發《アラハサ》v顏《オモテニ》、果《ツヒニ》之(テ)v所(ニ)v期、立(テ)2歌場衆《ウタガキノヒトナカニ》1、【歌場此(ニ)云(フ)2宇多我岐《ウタカキト》1、】執(ヘテ)2影媛(カ)袖(ヲ)1、躑躅從容《モトホリタマフニ》、俄(ニ)而鮪(ノ)臣來(テ)、排《オシノケテ》d(2オ)太子|與《トノ》2影媛1間(ヲ)u立(テリ)、由(テ)v是(ニ)太子放(テ)2影媛(カ)袖(ヲ)1移(リ)回(テ)向(テ)v前(ニ)立(テ)、直(ニ)當(テ)v鮪(ニ)歌曰、【古事記には、此事清寧天皇の條にありて、顯宗天皇の、まだ御子にてまし/\ける時の、御歌とせり、
 
87 之〓世能《シホセノ》、
潮塞之《シホゼリノ》也、契冲は、潮瀬也といひ、後の歌にも、潮瀬とよみたれば、たれもしかおもふめれど、潮路に、瀬《セ》は有べくもあらねば、いかにぞやおほゆる、今舩人の言に、潮《シホノ》合ふ所を、しほぜりといへり、世理《セリ》と世伎《セキ》とは、ひとつ言にて、今の言にも、せり合ふとも、せき合ふともいへり、是も彼方《カナタ》より滿來る汐と、此方《コナタ》より滿來る汐と、相合て、塞合《セキアフ》所なるべし、故《カレ》塞の字を以て、註しつ、
 
儺嗚理嗚彌黎磨《ナヲリヲミレバ》、
波折乎見者《ナヲリヲミレバ》也、波の折かへるをいふ、彼|汐塞《シホセリ》には、必波のをれかへるめる、折とは、萬葉卷(ノ)七に、白波之《シラナミノ》、八重折之於丹《ヤヘヲルカウヘニ》、卷(ノ)廿に、之良奈美乃《シラナミノ》、夜敝乎流我宇倍爾《ヤヘヲルカウヘニ》、古今集に、沖にをれは、是等の折に、おなじかりけり、
 
阿蘇寐倶屡《アソビクル》、
遊來《アソビクル》也、
 
思(2ウ)寐我簸多泥爾《シミカハタデニ》、
鮪之鰭手爾《シミカハタテニ》也、しみは、魚の名、繁肉《シヽミ》なるべきよし、上にへり、鰭《ハタ》は、延喜式祝詞に、鰭廣物《ハタノヒロモノ》、鰭狹物《ハタノサモノ》とあり、手は、上にいふ堰手《ヰテ》、山《ヤマ》の手《テ》にて、その活用《ハタラキ》をいふ言なり、
 
都摩※[こざと+施の旁]※[氏/一]理彌喩《ツマタテリミユ》、
妻立有所見《ツマタテリミユ》也、つまとは、影媛を云、鮪臣が名によせて、鰭手《ハタテ》とは詔へるにて、鮪の臣の傍《ハタ》に、影媛が立るを、かくは詔ませる也、さて後ならば、つまたてる見ゆ、と有へきを、立り見ゆといへるは、古言の格《サタマリ》也、その例萬葉に數多見えたり、一本以(テ)2之〓世《シホセヲ》1、易(フ)2彌儺斗《ミナトニ》1、とあり、彌儺斗《ミナト》は、水門《ミナト》也、湊《ミナト》也、
 
鮪(ガ)答歌曰、
 
88 飫瀰能古能《オミノコノ》、
臣之子之《オミノコノ》他、臣《オミ》とは、官人《ミヤヅカヘビト》をいふ言のよし、上にいへり、鮪臣が自稱也、
 
耶陛耶※[加/可]羅※[加/可]枳《ヤヘヤカラカキ》、
八重幹垣《ヤヘヤカラガキ》也、※[竹/幹]は、小竹もて造れば、小竹の垣を、※[竹/幹]垣《ヤカラガキ》とは、云なるべし、契冲は、韓垣《カラガキ》也といひ、己もはじめさるにやとおもひつれど、からといふ言の、くさ/”\あるを、よく考るに、から玉、から衣などは、あからの略語にて、明白なるをいふ褒言《ホメコト》と聞え、から梶《カチ》、碓《カラウス》、連枷《カラザヲ》、などのからは、機捩《カラクリ》のからに(3オ)て、あやつりをいふ言と聞え、から錦、から藍などのからは、韓土《カラクニ》より、渡り來し故の名と聞えて、三くさの別あり、こゝのから垣《カキ》は、さる三くさの意にもあらねば、※[竹/幹]《ヤカラ》にやと思ひて、しか註しつ、後の太子の御歌の註に、耶陛※[こざと+耳]※[加/可]羅※[加/可]枳《ヤヘヤカラカキ》あるは、ひとつの耶《ヤ》の字を脱せるものなるべし、
 
瑜屡世登耶瀰古《ユルセトヤミコ》、
令v縦登哉皇子《ユルセトヤミコ》也、歌の意は、※[竹/幹]《ヤカラ》の垣をなせるが如く、影媛と、皇子との中を、吾立隔るを、令v縱とにや、から垣にこめたる妻なれば、いかでゆるしまゐらせむとの意也、
 
太子、歌曰、
 
89 飫〓※[こざと+施の旁]※[手偏+致]嗚《オホダチヲ》、
大刀乎《オホダチヲ》也、たちとは物を斷《タツ》よしの名なるべし、
 
多黎播枳多※[手偏+致]弖《タレハキタチテ》、
垂帶立而《タレハキタチテ》也、いにしへ太刀《タチ》は、緒《ヲ》を腰にむすび付て、下《シモ》に垂《タレ》て着《ハキ》たるもの也、聖徳太子の古圖に、さるさま見ゆ、神樂歌に、白かねの、めぬきの大刀を、さげはきて、ならの都を、ねるは誰子ぞ、とあり、下《サゲ》は、垂《タリ》におなじ、多利《タリ》といふは古言也、多禮《タレ》といふは、令《セ》v垂《タラ》にて、いさゝか語意異也、
 
(3ウ)農※[加/可]儒登慕《ヌカズトモ》、
雖v不v拔《ヌカストモ》也、太刀をぬかぬを、影媛をゆるさぬに譬、
 
須衛波※[こざと+施の旁]志弖謀《スヱハタシテモ》、
末果而毛《スヱハタシテモ》也、後《ノチ》終《つひ》にあはむとの意、さるを末《スヱ》云云といへるは、大刀にかゝる言也、古事記の歌に、意富佐邪岐《オホサヽキ》、波加世流多智《ハカセルタチ》、母登都流岐《モトツルギ》、須惠布由《スヱフユ》、と見えたり、
 
阿波夢登茄於謀賦《アハムトゾオモフ》、
將v會登曾念《アハムトソオモフ》也、ぬかさる太刀の鞘をへたてたるごとく、影媛を立へだつとも、いかにしても、末《スヱ》終《ツヒ》には、あはむとおもほしめすと也、
 
鮪臣(ガ)答歌曰、
 
90 飫〓枳彌能《オホキミノ》、
大君之《オホキミノ》也、皇太子を、さして云、
 
耶陛能矩瀰※[加/可]枳《ヤヘノクミカキ》、
八重之隱垣《ヤヘノコモリガキ》也、【古《コ》と久《ク》と、相通ふ、毛利《モリ》の約|美《ミ》也、】隱《コモリ》を、くみといふは、古事記雄略(ノ)條の歌に、伊久美※[こざと+施の旁]氣《イクミタケ》、伊久美波泥受《イクミハネズ》、とあるは、い隱竹《コモリダケ》、い隱《コモリ》は不v寐《ネズ》也、師いへり、【伊久美※[こざと+施の旁]氣《イクミタケ》の久美《クミ》は、己(レ)考あり、下繼體紀の歌に註しつ、次の句は、師説の如く、隱《コモ》り不v寐なるべし、】神代紀に、於奇御戸爲起而《クミトニオコシテ》、云々とあるも。隱《コモ》り所《ド》也、萬葉卷(ノ)二十に、阿之可伎能《アシカキノ》、久麻刀爾多知弖《クマトニタチテ》、云云とあるも、蘆垣《アシカキ》の、隱所《コモリト》に立て(4オ)也、是等を引合して、くみ垣は、隱《コモ》り垣《カキ》にて、寐所《ネト》のめぐりの垣をいふ言なるを、おもひ明らむへし、
 
※[加/可]々梅騰謀《カヽメトモ》、
雖v將v掛《カヽメトモ》也、かくとは、今の言にも、塀をかけるなどいふ是也、影媛をこめ給はむために、寐所の垣を、掛給はむとすとも、といへる也、即神代紀の歌の、菟磨語昧爾《ツマゴメニ》、夜覇餓枳菟倶廬《ヤヘガキツクル》、とあるに同じ意なり、
頭注、○簀子《スノコ》をかく、或はなごをかくなどいふも、繩もて掛着《カキツク》るをいふ言なれば、塀を掛くと云も、ひとつ意なるべし、
 
儺嗚阿摩之弭※[人偏+爾]《ナヲアマシミニ》、
名乎甘鮪爾《ナヲアマシミニ》也、【甘《アマ》は、可美《ウマ》の意】鮪《シミ》の臣が、自らの名を、かく稱《イヘ》るは、誇れるものにして、さてその意を、脆締《アマシマリ》の意に、通したるなり、【脆《モロ》く柔《ヤハラ》かなるを、甘《アマ》といふ言は、古事紀傳、神代の條の、木花之阿摩比《コノハナノアマヒ》云云の註にいへる、宣長が説によれり、】志麻利《シマリ》をつゞむれば、志弭《シミ》也、その意は、下に云を待てよ、弭爾の二字、今本は誤れり、契冲が考によりて改つ、
 
※[加/可]々農倶彌河枳《カヽヌクミカキ》、
不v掛隱垣《カヽヌコモリカキ》也、皇子の妻隱《ツマコメ》の垣を、かけむとしたまへど、締《シマリ》の脆柔《アマ》くして、得かけ給はぬは、この甘鮪が有故ぞといふ意、さて甘鮪《アマシミ》を、脆締《アマシマリ》にかよはせりといふは、古事記の此歌には、夜布志麻理《ヤフシマリ》、斯摩理母登本斯《シマリモトホシ》、とあれば、之弭《シミ》は、志摩理《シマリ》の約言なる事しるけれど、上に儺嗚《ナヲ》とあるもて、鮪《シミ》の名によせて、甘鮪《アマシミ》と、意をかけ合せたる言としるべし、かくふたつの意をかけ合せたるは、後世の歌にて、上古に、さる言なしとおもふは、歌を知らざる也、上古とても、かくざまに言を(4ウ)かよはせる多し、古歌を解得ん人、己が言を待たずして、おのづから知るべし、
頭注、○古事記歌云、意富岐美能《オホキミノ》、美古能志婆加岐《ミコノシハカキ》、夜布士麻理《ヤフシマリ》、斯麻理母登本斯《シマリモトホシ》、岐禮牟志婆加氣《キレムシハカケ》、夜氣牟志婆加岐《ヤケムシハカキ》、
 
太子歌曰、
 
91 於彌能姑能《オミノコノ》、
如(シ)2上註1、
 
耶賦能之魔柯枳《ヤフノシマカキ》、
八節之締垣《ヤフノシマリカキ》也、やふのふは十符《トフ》の菅薦《スガコモ》、などいふ府《フ》にて、もと重《ヘ》也、【倍《ヘ》と婦《フ》は、通へり、】さてその重《ヘ》は、隔也、萬葉卷(ノ)十一に、疊薦《タヽミコモ》、隔編數《ヘタテアムカス》、通者《カヨヒナハ》、卷(ノ)十二に、疊薦《タヽミコモ》、重編數《ヘタテアムカス》、夢西將見《イメニシミエム》、これに重《ヘタテ》とも、隔とも、書るにて、その同意なるを知り、且|府《フ》は、編《アメ》る節《フシ》をいふ言なるをも、知るべし、【ふしとは即隔意也、竹の節《フシ》など、その意なるを、おもひ合べし、】之摩※[加/可]枳《シマカキ》は、締垣なるよしは、已に上にいひつ、
 
始※[こざと+施の旁]騰余瀰《シタトヨミ》、
下動《シタトヨミ》也、下とは、地をいひ、動《トヨム》は響動をいふ、即萬葉中、響の字、動の字を、とよむの假字に用ひたり、今は地《シタ》から動《ウコカ》さば、といふ意なり、
頭注、○萬葉卷(ノ)八に、霍公鳥《ホトヽキス》、鳴響奈流《ナキトヨムナル》、卷(ノ)三に、淺野之雉子《アサヌノキヽシ》、明去歳《アケヌトシ》、立動良之《タチトヨムラシ》、卷(ノ)十四に、宇惠多氣能《ウヱタケノ》、毛登左倍登與美《モトサヘトヨミ》、
 
那爲我與釐據麼《ナヰカヨリコバ》、
地震之陶來者《ナヰガヨリコハ》也、なゐは、根由理《ネユリ》なり、【佐由利《サユリ》花を、佐韋《サヰ》といふと、同例也、由理の約韋也、この例、他《ホカ》にもあり、】根《ネ》は、地根をいふ、神代紀の、根國《ネノクニ》底國《ソコノクニ》といへる、根《ネ》也、さて由《ユ》と與《ヨ》とは通へば、與理《ヨリ》は、由理《ユリ》也と、契冲いへり、今按に、萬葉卷(ノ)十八に、佐由理婆那《サユリバナ》、由利毛(5オ)安波牟等《ユリモアハムト》、云々とあるは、寄合《ヨリアハ》んなれば、與理《ヨリ》、由理《ユリ》は、同音なり、御軍《ミイクサ》を起して、誅《ツミ》なひ給ひなむとするを、地震のふり動すに、譬へさせ給へるなり、といへり、
 
耶黎夢之魔柯枳《ヤレムシマカキ》、
將v破締垣《ヤレムシマカキ》也、鮪臣が、八重《ヤヘ》の締垣《シマカキ》を結かたむとも、地震のゆり來るが如く、根から勤しなば、その締垣《シマカキ》は、すむやけく破《ヤブレ》なむものをと、詔ふ意也、
 一本(ニ)以(テ)2耶賦能之魔柯枳《ヤフノシマカキヲ》1、易(フ)2耶陛※[加/可]羅架枳《キヘカラカキニ》1、とあり、二句上に註が如し、からかきは、韓垣《カラカキ》なりと、釋紀にいへれど、是はひとつの耶《ヤ》を脱せるものにして、※[竹/幹]垣《ヤカラカキ》なるべきは、上に辨る如し、さなくては、句調もとゝのはずやあらん、
 
太子(ノ)贈(ル)2影媛《カケヒメニ》1歌曰、
 
92 擧騰我瀰※[人偏+爾]《コトガミニ》、
琴頭爾《コトガミニ》也、ことがみとは、右のかたをいふなるべし、弓手といひて、左の方をいふと、同例也、右の方に居る影媛との給へる也、さて萬葉卷(ノ)九に、吾妹子《ワギモコ》は、久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》、左手能《ヒタリデノ》、吾奧手爾《ワガオクノテニ》、纏而去麻師乎《マキテイナマシヲ》、とあるは、左を重《オモク》し、右を輕くする、意なるをむかへおもふに、右(5ウ)の方に來居るは、吾を輕しめ疎ぶるの意なり、
 
枳謂屡箇皚比謎《キヰルカケヒメ》、
來居影媛《キヰルカケヒメ》也、
 
※[木+施の旁]摩儺羅麼《タマナラバ》、
玉有者《タマナラバ》也、
 
婀我褒屡※[木+施の旁]〓摩能《アガホルタマノ》、
我欲珠之《アガホルタマノ》也、私記に、古歌謂(テ)v欲(ヲ)爲2保留1とあり、萬葉集に、いと多かる言なり、
 
婀波寐之羅※[こざと+施の旁]麼《アハミシラタマ》、
鰒眞珠《アハビシラタマ》也、あはびといふ名は、合無貝《アヒナガヒ》なるべし、【比奈《ヒナ》の約|波《ハ》、貝《カヒ》の加《カ》を略て、音便に比を濁れり、美《ミ》と毘《ヒ》は、同音也、】故影媛の、吾にあはぬを、戀給ふを、譬させ給へる也、眞珠は、鰒にある故に、鰒《アハビ》をさして、即あはび玉といへり、萬葉卷九に、海底《ワタノソコ》、奧津伊久利二《オキツイクリニ》、鰒珠《アハヒダマ》、左磐爾潜出《サハニカツキイデ》、云々と見えたるは、たゞ玉ならば、潜出とはいふまじく、即(チ)鰒《アハヒ》をいへる言と知べし、さればこゝも、その意もて見べし、
頭注、○眞珠は、しらたまとよむべき也、萬葉、和名抄ともにしかり、さて今はあこや貝の珠を、眞珠とよべと、いにしへの眞珠は、すべて鰒珠をいへり、
 
鮪(ノ)臣爲(ニ)2影姫(ノ)1答歌曰、 影姫にかはりて、鮪(ノ)臣がうたへる答歌也、
 
於褒枳瀰能《オホキミノ》、
如(シ)2上註1、
 
瀰於寐能之都波※[木+施の旁]《ミオビノシツハタ》、
御帶之|倭文※[糸+曾]《ミオヒノシツハタ》也、倭文《シヅ》の事は、萬葉卷(ノ)三の解にも、上雄略紀の御歌にもいひき、波※[木+施の旁]《ハタ》は、神功紀に、千※[糸+曾]高※[糸+曾]を、ちはた、たかはたと訓たれば、倭文※[糸+曾]《シツハタ》也と、契冲はいへり、はたとは、織た(6オ)る布帛をいふ稱なるよしは、かしこけど、栲幡千々姫《タクハタチヽヒメ》命と申御神名も、織たるはたものゝ、數多きをもて、たゝへ奉れるを、おもひ合すべし、
 
夢須寐※[こざと+施の旁]黎《ムスビタレ》、
結令v垂《ムスビタラセ》也、たらせをつゞめて、たれといふ、こゝまでは、誰《タレ》とつゞけむ料の、序也、
 
※[こざと+施の旁]黎耶始比登謀《タレヤシヒトモ》、
誰耶始人毛《タレヤシヒトモ》也、耶始《ヤシ》は、愛《ハシケ》やし、縱惠《ヨシヱ》やし、なとのやしにひとしくて、助語也、萬葉卷(ノ)十一に、いにしへの、さおりの帶を、むすびたれ、誰之能人《タレシノヒト》も、君にはまさじ、とあるもて、やしの助語なるを知べし、
 
阿避於謀婆儺倶爾《アヒオモハナクニ》、
不2相念1爾《アヒオモハナクニ》也、誰人をも相おもはず、鮪をのみおもふといふ意を含ながら、おもては、於保枳彌能《オホキミノ》、云云といひて、君をおもふといふ意に、聞《キカ》せたり、
 
太子|甫《ハシメテ》知(メシ)3鮪《シミ》曾《サキニ》得(コトヲ)2影媛(ヲ)1、悉(ク)覺(タマフ)2父子(ノ)無v敬之|状《サマヲ》1、赫然大怒《オモホテリシテイタクイカリマシ》、此夜速(ニ)向(テ)2大伴金村(ノ)連(ノ)宅(ニ)1會(ヘテ)v兵(ヲ)計策《ハカリタマフ》、大伴(ノ)連將(テ)2數《アマタ》千(ノ)兵(ヲ)1、※[行人偏+激の旁](ヘテ)2之(ヲ)於(6ウ)路《ミチニ》1、戮《コロセリ》2鮪(ノ)臣(ヲ)於|乃樂山《ナラヤマニ》1、【一本(ニ)云、鮪宿(レリ)2影媛(カ)舍(ニ)1、即夜《ソノヨ》被《レマ》v戮、】是時影媛、逐(ヒ)2行(テ)戮(レシ)處(ニ)1、見2是戮已《コノコロサレヲハルヲ》1、驚惶(テ)失所《コヽロマトヒ》、悲涙《カナシメルナミタ》盈(テリ)v目(ニ)、遂(ニ)作歌曰《ウタヨミスラク》、
 
94 伊須能箇瀰《イスノカミ》、
石上《イソノカミ》也、須《ス》と曾《ソ》と、相通へり、大和國、山邊(ノ)郡なるよし、上に云、
頭注、○すべて發語を釋るもの、古言に意を委くせず、或は栲衾《タクブスマ》新羅《シラキ》は白きにかゝる言とし、燒太刀《ヤキタチ》の隔付經《ヘツカフ》は、鞘を隔る意とせり、しからば、衾といふ言も、燒といふ言も、やうなきにあらずや、古言はかくみだりなるものにあらず、よく考べき也、己が説は、萬葉槻の落葉、四の卷、卷(ノ)十四にいふを見べし、
 
賦屡嗚須擬底《フルヲスギテ》、
布留乎過而《フルヲスキテ》也、共に山邊(ノ)郡なるよし、上にいふ、
 
擧慕摩矩羅《コモマクラ》、
薦枕《コモマクラ》也、高きにかゝる發語《マクラコトハ》ぞと、師の冠辭考にいはれしかど、高にかゝる意ならば、薦ならでも有なむを、薦《コモ》としもいへるは、別意なるべくおもひて考るに、是は束《ツカ》ぬるといふ意に、かゝれる也、その束《ツカネ》を、たかねといへるは、萬葉卷(ノ)五に、多都可豆惠《タツカツヱ》、許志爾多何禰提《コシニタカネテ》、とあり、都《ツ》と多《タ》の通ふ例、古言に多し、
 
柁箇幡志須疑《タカハシスキ》、
高橋過《タカハシスキ》也、高橋は、地名、崇神紀に、高橋邑(ノ)人|活目《イクメ》、延喜式神名帳に、添上(ノ)郡高橋(ノ)神社とある是なりと、契冲いへり、
 
暮能娑幡※[人偏+爾]《モノサハニ》、
(7オ)物|多爾《サハニ》也、私記(ニ)云、家多v物、故(ニ)有(リ)2此發語1、といへれど、やけは、たゞ家をいふにはあらじと、おもふよし有、下にいふ、
 
於褒野該須擬《オホヤケスギ》、
大宅過《オホヤケスギ》也、大宅は地名、和名抄、添上(ノ)郡に見えたり、さてやけ、やかは、たゞ家の事とすれど、屯倉を、みやけといふは、官倉《ミヤクラ》にて、【久良の約|加《カ》なるを、計《ケ》に轉しいふ、】おほやけは、大屯倉《オホミヤケ》なるべければ、その意もて、物多《モノサハ》にの發語は、冠らせらるなるべし、
 
播屡比能《ハルヒノ》、
春日之《ハルヒノ》也、かそけきと云意にかゝる、發語なり、
 
箇須我嗚須凝《カスガヲスギ》、
春日乎過《カスカヲスギ》也、奈良《ナラ》に近き地名也、かすがに、春日の字をかくも、かそけきとつゞくよしも、萬葉集卷(ノ)三の別記に、くはしくいへり、
 
逕摩御暮屡《ツマゴモル》、
抓隱有《ツマコモル》也、抓《ツマ》は、勾(ノ)大兄(ノ)皇子の御歌に、都麿努利斯弖《ツマトリシテ》、とある都摩《ツマ》に同じ、そこにいふを併見よ、今は手端に隱《コモ》るをいふ、萬葉卷(ノ)二に、嬬隱有《ツマコモル》、屋上《ヤカミノ》の山《ヤマ》、卷(ノ)十に、妻隱《ツマコモル》、矢野神山《ヤノヽカミヤマ》とあるは、矢《ヤ》とつゞき、こゝに小箭《ヲサ》とかゝれり、
 
嗚佐褒嗚須擬《ヲサホヲスキ》、
小佐保乎過《ヲサホヲスギ》也、佐保《サホ》は、春日《カスカ》に近き地名、小《ヲ》は例の添言也、こゝまでは、鮪(ノ)臣を、葬送行《ハフリユク》道の程をいへり、
 
柁摩該※[人偏+爾]播《タマケニハ》、
玉笥爾者《タマケニハ》也、玉《タマ》は、ほめ言、笥《ケ》は、和名抄(ニ)云、禮記註(ニ)云、笥【思吏(ノ)反、和名計、】盛(ル)v飯(ヲ)器也、萬葉卷(ノ)二に、家有者《イヘナラハ》、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》、云々と見えたり、
 
(7ウ)伊比佐倍母理《イヒサヘモリ》、
飯副盛《イヒサヘモリ》也、さへは、助語、師説に、其上《ソノウヘ》といふ言といへり、こゝも次の、水に對して、さへとはいへり、
 
柁摩暮比※[人偏+爾]《タマモヒニ》、
玉※[土+完]爾《タマモヒニ》也、和名抄(ニ)云、説文(ニ)云、※[怨の心が皿]、【烏管(ノ)反、字亦作v椀、辨色立成(ニ)云、末里、俗(ニ)云2毛比1、】今按に延喜式、※[土+完]の字を、毛比《モヒ》と訓たり、和名抄に、俗云2毛比(ト)1といへるは、例のひが言にて、毛比は、古言、末理は、やゝ後也、萬葉卷(ノ)四にも、片※[土+完]之《カタモヒノ》、底曾吾者《ソコニソワレハ》、云云と見え、主水司を、毛比登里乃豆加佐《モヒトリノツカサ》、といへる、もひは、盛v水(ヲ)器の名なれば也、神代紀に、玉鋺、玉壺など書たるも、こゝの言によりて、たまもひと訓べきを、今の訓に、たままりとあるは、後の稱によれるひがよみ也、【日本靈異記に、其器皆鋺とあるを、かなまりとよめるも、枕草子に、目はかなまりの如し、といへるも、上古の名にはあらじかし、】またこの盛(ル)v水(ヲ)器を、毛比といふより、一轉して、飲水をさして、直にもひといへるも、古の稱也、景行紀に、冷水を、ひやらかなるみもひとよみ、【倭姫(ノ)世記にも、しかよみたり】、催馬樂飛鳥井にも、安須加爲爾《アスカヰニ》、也止利波春戸之《ヤトリハスヘシ》、可介毛與之《カケモヨシ》、美毛比毛左牟之《ミモヒモサムシ》、見萬久左毛與之《ミマクサモヨシ》、と有、
 
瀰逗佐倍母理《ミツサヘモリ》、
水副盛《ミツサヘモリ》也、副《サヘ》は、如v上、上の飯に對して、さへとは云り、さてこの飯と水とを持て、女の葬送《ハフリ》に隨行は、いにしへの禮なりけむ、今も吾郷の葬儀に、柩の先に、包持とて、衣服の類を、ものに包て持、次に水持とて、土※[怨の心が皿]に、水を盛て持、次に侶子とて、木を曲たる器(8オ)に、飯を入てもたり、皆女の役とせり、是大古の遺風なるべし、近ころさかしら人は、佛を忌嫌ふあまり、是をしも、佛より出こし事とおもひひがめて、さる事せぬも多し、かゝる古風の、失はれ行る?は、いと/\あたらしくこそ、
 
儺岐曾褒遲喩倶謀《ナキソボチユクモ》、
泣所沾行毛《ナキソホチユクモ》也、そぼちは、萬葉集には見えねど、卷(ノ)十六に、※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》、とある曾保《ソボ》にて、遲《チ》はひぢ【ひづとも活用せり、】なるべくおぼゆれば沾るゝ意と聞ゆ、古今集に、泣戀る、涙に袖の、そぼちなば、と見えたり、
 
柯※[旦/寸]比謎阿姿禮《カゲヒメアハレ》、
影媛可v憐《カゲヒメアハレ》也、そも/\この歌よ、鮪臣を、乃樂山《ナラヤマ》に戮《コロ》せる時、影媛《カケヒメ》の戮處に逐行《オヒユキ》てよめりとあるは、傳の誤れるものにて、その被v戮し處は、一本に、鮪宿(ル)2影媛舍(ニ)1、即夜被v戮、とあるぞ正しかりぬべき、影媛が家にして、被v戮しを、乃樂《ナラ》山に葬埋とて送り行を、傍人の見て、かなしみよめる歌也、さなくばこの終《ハテ》の句、いかにぞや聞ゆる、みづから影媛あはれと、悲歎すべきにあらぬをや、
 
於v是影媛、收埋既(ニ)畢(テ)、臨(テ)v欲v還v家(ニ)、悲※[魚+更]而《カナシミムセヒテ》言(ク)、苦哉《クルシキカモ》、今日失(ヘリ)2我(カ)愛夫(ヲ)1、即便《スナハチ》灑涕愴《イサチカナシミ》矣、(8ウ)纏v心《ムスホヽレテ》歌曰、  是ぞ影媛の、自詠と聞ゆる、
 
95 婀嗚※[人偏+爾]與志《アヲニヨシ》、
上に辨るが如し、
 
乃樂能婆娑摩※[人偏+爾]《ナラノハサマニ》、
奈良之谷間爾《ナラノハサマニ》也、皇極紀に、谷、此(ニ)云2波佐麻《ハサマト》1、左右の山の、挾《ハサ》める間を云事と聞ゆれば、谷間を云也、
 
斯々貳暮能《シヽジモノ》、
鹿如物《シヽジクモノ》也、萬葉集に、鳥自物《トリジモノ》、犬自物《イヌジモノ》などある、皆|鳥自久物《トリジクモノ》、犬自久物《イヌジクモノ》にて、自久《ジク》は、同卷(ノ)四に、思有四久志《オモヘリジクシ》、卷(ノ)七に、玉拾之久《タマヒロヒシク》、などある志久《シク》に同じく、そのさまをいふ言なれば、如の意に近し、猶萬葉卷(ノ)四の別記に委し、
 
瀰逗矩陛御某黎《ミヅクヘゴモリ》、
水就隱《ミヅキコモリ》也、みづくへは、みつきを延て、活用《ハタラカ》せる言也、そのみづき、みづくは、萬葉卷(ノ)十八に、海行者《ウミユカバ》、美都久屍《ミヅクカハネ》、云云、【續紀(ノ)宣命にも見えたり、】又卷(ノ)廿に、美豆久白玉《ミヅクシラタマ》ともあり、海行者《ウミユカバ》、云云とあれば、みづくの美《ミ》みは、水《ミ》なるべく、【眞珠《シラタマ》も、水中にあれば、同意と聞ゆ、】逗矩《ツク》は、志豆久《シツク》、底逗久《ソコヅク》のづくにて、就《ツク》の意也、【就の事は、上に出たり、】鹿《シヽ》の谷間《ハサマ》に隱れる如く、といふを、谷には水あれば、水就隱《ミヅキコモ》るとはいへるにや、また下皇極紀の歌に、伊喩之之乎《イユシシヲ》、都那遇※[舟+可]播能杯《ツナグカハヘノ》、云云とあるは、所v射鹿の、水を飲むとて、河邊に行をいへる言か、もししからば、將v斃鹿の、水につきてこもりかくるゝ意もて、鮪が被v戮しを、(9オ)この谷間に、葬埋せるを、かく譬たるにや、
頭注、○萬葉卷十八、卷十九に、酒美豆伎《サカミツキ》とあるは、酒就《サカヅク》にて、美《ミ》は、別意也、おのれ考は、萬葉四卷、吉備《キミ》の酒《サケ》の別記にいへり、
 
瀰儺曾々矩《ミナソヽク》、
水之洒《ミナソヽク》也、鮪にかゝる發語、師の冠辭考に、みなそこふと、同義ぞといはれし、
 
思寐能和倶吾嗚《シミノワクゴヲ》、
鮪之壯子乎《シミノワクゴヲ》也、萬葉集に、久米能若子《クメノワクコ》、等能々和久胡《トノヽワクコ》、など見えたり、壯子の稱也、萬葉卷(ノ)三の解に出たり、
 
阿娑理逗那偉能古《アサリヅナヰノコ》、
顯出勿猪之子《アサリヅナヰノコ》也、あさりは、紫(ノ)式部日記に、わかやかなる人こそ、ものゝ程知らぬやうに、あさへたるも、つみゆるさるれ、何かあされがましと思へば、云云とあるあされは、鮮《アサヤカ》のあさにて、顯出をいふ言也、【求食を、あさりといへるも、同意也、さるよしは、萬葉卷(ノ)四別記、いさり、あさりの、追考にいへるを、併見よ、】罪ありて戮《コロサ》れしものなれば、その墓を、人の破壞《アバ》かむ事を恐れて、かくはいへるか、鮪といふ名によせて、そを喰はんとて、ゐの子のあさり出さむ事を、制したる也、猪の子としもいへるは、上に鹿自物《シヽジモノ》云云とたとへたるより、猪鹿《ヰシカ》は、品類《タグヒ》のものなれば、いひよせたる成べし、
 
第十七(ノ)卷、 男太述《ヲホトノ》天皇、【四首、繼體天皇、】
 
七年九月、勾大兄《マカリノオホエノ》皇子、親《ミヅカラ》娉《ツマドフ》2春日(ノ)皇女(ヲ)1、(9ウ)於v是月夜|清談《モノカタラヒテ》不v覺2天曉《アケヌルヲ》1、斐然之藻《ウタヨミシタマフミヤヒ》、忽(チ)形(ル)2於言(ニ)1、乃(チ)口唱曰、  此の御歌、古事記に所v載八千矛の神の御歌に、いとよく似たり、共にいにしへの傳(ヘ)言なれば、いづれを是《ヨシ》、いづれを非《アシ》とも、定むべからす、引合せてよく考見べし、
 
96 野施磨倶※[人偏+爾]《ヤシマクニ》、
八州國《ヤシマクニ》也、大御國の惣號、神代紀に見えたり、
 
都磨々祁※[加/可]泥底《ツママケカネテ》、
妻令v纏不v得而《ツママカセカネテ》也、古事記、都麻々岐《ツママギ》とあれど、祁は、氣《ケ》の假字なれば、まけとはよみつ、さるは令v纏《マカセ》を約めたる也、さてまき、まくといふ言も、もと纏《マツ》ふ意にやと、おもふよしあり、次下の句に、妹が手を、われに纏《マカ》しめ、吾手《ワカテ》を、妹に纏《マカ》しめ、とあるにても知るべし、國覓《クニマキ》といふも、たゞ求る意にはあらで、その國を、吾にまつはしむる、意とこそおほゆれ、かねは、萬葉集中、不v得とも、不v勝とも書たり、その字意と心得べし、
 
播屡比能《ハルヒノ》、
發語、上に出たり、
 
※[加/可]須我能倶※[人偏+爾]々《カスガノクニニ》、
春日之國爾《カスカノクニニ》也、國《クニ》とは、難波《ナニハ》の國《クニ》、泊瀬《ハツセ》の國《クニ》などいへる、國におなじ、
 
(10オ)倶婆施謎嗚《クハシメヲ》、
愛女乎也《クハシメヲ》、くはしとは、花ぐはし、目ぐはし、心《ウラ》ぐはし、などのくはしに同じ、上に出、釋紀(ニ)云、私記(ニ)云、師説妙女也、とあり、春日皇女を申せり、
頭注、○古事記には、佐加志賣遠《サカシメヲ》とあり、佐細女《サクハシメ》なるべし、左《サ》は、添言、久波《クハ》は、加に約る、
 
阿※[口+利]等枳々底《アリトキヽテ》、
在登聞而《アリトキヽテ》也、美女の在と、聞しめして、といふ意、
 
與盧志謎嗚《ヨロシメヲ》、
宜女乎《ヨロシメヲ》也、宜とは、よろづ足備れるを云ことのよし、上にいひき、
 
阿※[口+利]等枳々底《アリトキヽテ》、
如(シ)2上註1、
 
莽紀佐倶《マキサク》、
眞木割《マキサク》也、私記(ニ)云、師説、欲v讀2檜板戸《ヒノイタドヲ》1之發語也、といへり、古事記、雄略(ノ)條に、麻紀佐久《マキサク》、比能美加度爾《ヒノミカドニ》、萬葉卷(ノ)一に、眞木佐久《マキサク》、檜乃嬬手乎《ヒノツマテヲ》、と見えたり、佐久《サク》とは、引割をいふ言と、契冲も、師も云(ヘ)り、
 
避能伊※[こざと+施の旁]圖嗚《ヒノイタドヲ》、
檜乃板戸乎《ヒノイタドヲ》也、
 
飫斯毘羅枳《オシビラキ》、
推排《オシヒラキ》也、萬葉卷(ノ)五に、遠登※[口+羊]良柯《ヲトメラカ》、佐那須伊太斗乎《サナスイタトヲ》、意斯非良伎《オシヒラキ》、とあり、八千矛(ノ)神の御歌には、遠登賣能《ヲトメノ》、那須夜伊多斗遠《ナスヤイタトヲ》、淤曾夫良比《オソフラヒ》、とあるに、萬葉卷(ノ)十四にも、多禮曾許能《タレソコノ》、屋乃戸於曾夫流《ヤノトオソフル》、と見えたり、是等を合せ考るに、上古の戸は、すべて内にひらくものにて、そを外より押してひらく也、淤曾夫良比《オソブラヒ》、於曾夫流《オソフル》は、押搖《オシフル》也、古事記、神代紀の條に、開(テ)2天石屋戸《アマノイハヤトヲ》1、而|刺許母理坐《サシコモリマス》也、とあるも、ひらくは、外よりひらく也、刺隱《サシコモ》るは、内より刺《サシ》て隱《コモ》(10ウ)れる也、吾 外宮神宮の、東西の御寶殿の御戸の、内びらきなるは、上古の遺風なるべし、
 
倭例以梨魔志《ワレイリマシ》、
我入坐《ワレイリマシ》也、御自(ラ)ましと詔へる、古言也、雄略紀の御歌に、倭餓伊麻西麼《ワガイマセバ》、とあるにおなじ、
 
阿都圖※[口+利]《アトドリ》、
脚摩也《アトトリ》也、あとは、足のかたを云、神代紀に、脚邊を、あとべと訓たり、萬葉卷(ノ)五に、父母者《チヽハヽ》は、枕乃可多爾《マクラノカタニ》、妻子等母者《メコトモハ》、足乃方爾《アトノカタニ》、とあると、古今集に、枕より、あとより戀の、せめくれば、おもひかねてぞ、床中にをる、といへる歌にて、あとは、足なるを知べし、さて圖※[口+利]《トリ》は、摩《ナヅ》るをいふ、榮花物語に、腹とりの女に、とらせよかしとあり、今の世にも、按摩《アムマ》とりといふとりにて、こゝも足の方を、摩《ナヅ》るなり、
 
都磨怒※[口+利]施底《ツマドリシテ》、
抓摩爲而《ツマトリシテ》也、都麻《ツマ》は、つまむをいふ、神代紀の抓津姫《ツマツヒメノ》命と申(ス)御名も、八十《ヤソ》の木種を、つまみとり給ふ意とおぼゆ、萬葉卷(ノ)二十に、美母乃須蘇《ミモノスソ》、都美安氣可伎奈※[泥/土]《ツミアケカキナデ》、卷(ノ)十七に、よろづ代に、心はとけて、わがせこが、都美之乎見都追《ツミシヲミツツ》、しぬびかねつも、この二首の都美《ツミ》も、つまむにて、こゝの都麻《ツマ》と、同意、源氏に、つみ給ふといへるも、同言也、怒利は、上の如し、
頭注、○千載集云、六波羅密寺の、講の導師にて、高座にもほる程に、聽聞の女房の、あしをつみて侍ればよめる、良喜法師、人の足を、つむにて知りぬ、我かたへ、ふみおこせよと、思ふなるべし、
 
魔倶※[口+羅]圖※[口+利]《マクラトリ》、
頭摩《マクラトリ》也、まくらは、頭の方をいふ言のよしは、上に引る歌もて知るべし、
 
都磨怒※[口+利]施底《ツマドリシテ》、
如(シ)2上註1、
 
伊(11オ)暮我提嗚《イモカテヲ》、
妹之手乎《イモカテヲ》也、
 
倭例※[人偏+爾]魔柯施毎《ワレニマカシメ》、
我爾令v纏《ワレニマカシメ》也、萬葉卷(ノ)三に、妹《イモ》が手將纏《テマカム》とあり、
 
倭我提嗚麼《ワカテヲバ》、
吾手乎者《ワカテヲバ》也、
 
伊暮※[人偏+爾]魔何施毎《イモニマカシメ》、
妹爾令v纏《イモニマカシメ》也、しめとは、使令《オフ》する言也、萬葉卷(ノ)三に、愛《ウツクシキ》、人之纏而師《ヒトノマキテシ》、敷細之《シキタヘノ》、吾手枕乎《ワガタマクラヲ》、纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》、とあり、彼解にいふをも、併(セ)見よ、古事記、沼河日賣《ヌカハヒメ》の歌に、麻多麻傳《マタマテ》、多麻傳佐斯麻岐《タマテサシマキ》、とも見えたり、
 
麻左棄逗※[口+羅]《マサキヅラ》、
眞榮蔓《マサキヅラ》也、都良《ツラ》は、蔓《ツル》の古言也、餘は、師の冠辭考に詳なれば、今はもだしぬ、
 
多々企阿藏播梨《タヽキアザハリ》、
手抱糾交《タダキアザナハリ》也、舊説に、たゝきは、叩也といへど、しかにはあらじかし、さてあざはりの阿藏《アザ》は、合《アハ》せなり、【字《アザナ》も、あはせ名なるべくおぼゆ、】播梨《ハリ》は、なはりの略語、そのなはりは、伴《トモ》なひ、いざなひ、などの奈比《ナヒ》にて、【比《ヒ》を延れば、波里《ハリ》となる、】なひ、なふは、交る意也、【繩をなふといふも、左右を相交る也、】古事記、沼河日賣《ヌカハヒメ》の歌に、曾多々伎《ソヽタキ》、多々伎麻那加理《タヽキマナカリ》、とあるも、其手抱勾《ソタタキマガ》りにて、この糾交《アザナハ》りとあると、同意也、師の冠辭考に、まさきづらの、ものに糾纏《アサハリマト》ふが如く、妹《イモ》と夫《セ》の、互に手を相まとへるを云也、といはれしは、よろしき説なり、
 
矢自矩矢盧《シジクシロ》、
畷酒呂《スヾクシロ》也、志《シ》と須《ス》と、相通ふ言、(11ウ)久志《クシ》は、酒の古名、呂《ロ》は助語也、味《ウマ》にかゝり、吉實《ヨミ》にかゝる、發語也、【實《ミ》は酒の滓を云、崇神紀の歌にいへり、】佐久々斯呂《サクヽシロ》、五十鈴《イスヾ》といへる發語も、幸酒呂《サキクシロ》、伊啜《イスヾ》といふ意に、かゝる言とおほゆ、是等の言は、酒の古名|區志《クシ》の考とて、槻の落葉一冊あり、彼に委しくいへば略つ、
頭注、○倭姫世記に、味酒鈴鹿《ウマサケスヽカ》とあるも、啜《スヽ》にかゝる發語《マクラコトバ》なるを按べし、
 
于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》、
熟宿寐志間爾《ウマイネシトニ》也、萬葉卷(ノ)十に、わがせこを、莫越山能《ナコセノヤマノ》、呼子鳥《ヨフコドリ》、君呼變瀬《キミヨヒカヘセ》、夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》、とあるを、六帖に、夜のふけぬ時《トキ》と、書たるを證として、時爾《トキニ》といふ言ぞと、契冲はいへれど、是は六帖の誤にて、同卷に、天河《アマノカハ》、浪は立とも、吾舟は、いざ榜出《コキイテ》む、夜之不深間爾《ヨノフケヌトニ》、と見えたれば、ほどにを省ける言也、卷(ノ)三、卷(ノ)七に、此間と書るを、このとゝよむべき、例も有をや、その餘、卷(ノ)十五、卷(ノ)十九、卷(ノ)廿等に、この言出たり、みな間爾《ホドニ》と心得て、明らかなり、
 
※[人偏+爾]播都等※[口+利]《ニハツドリ》、
庭都鳥《ニハツトリ》也、萬葉卷(ノ)七、庭津鳥《ニハツトリ》、可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》、とあり、野津鳥《ヌツトリ》に對《ムカヘ》て、可鷄《カケ》の發語《マクラコトバ》とせり、
 
柯稽播儺倶儺梨《カケハナクナリ》、
鷄者鳴也《カケハナクナリ》也、契冲云、催馬樂に、鷄《ニハトリ》は、かけろと嶋ぬなり、云云、彼が鳴聲によりて、名づけたる也といへり、今按に、禽《トリ》の類には、その聲もて、名におふしたる多し、ほとゝぎす、からす、きゞしの類、皆鳴聲より出たる、名とこそおぼゆれ、
頭注、○萬葉卷(ノ)十一に、里中《サトナカ》に、鳴なるかけの、呼立《ヨビタテ》て、云云、同十二に、わびて鳴なり、かけ鳥さへ、とあり、
 
奴都等※[口+利]《ヌツドリ》、
野津鳥《ヌツドリ》也、庭つ鳥に對《ムカヘ》て、雉子《キヽシ》の發語とせり、萬葉(12オ)卷十六に、野津鳥《ヌツドリ》とのみいひて、雉子《キヽシ》の事とせるは、やゝ後也、庭鳥《ニハトリ》といひて、鷄《カケ》の事とせるにおなじ、
 
枳蟻矢播等余武《キギシハトヨム》、
雉子者動《キヾシハトヨム》也、私記(ニ)云、師説(ニ)雉好(テ)鳴(ク)2於欲v曉之時(ニ)1也、といへり、萬葉卷(ノ)三に、淺野乃雉《アサヌノキヽシ》、開去歳《アケヌトシ》、立動良之《タチトヨムラシ》、とあり、とよむは、その鳴聲の響動をいふ、既に上に出たり、和名抄(ニ)云、廣雅(ニ)云、雉、【音智、上聲(ノ)之重、和名、木々須、一(ニ)云(フ)2木之1、】とあり、木々須《キヽス》といへる須《ス》は、鶯《ウクヒス》、郭公鳥《ホトヽキス》、烏《カラス》の須《ス》に、同じかるべくおもへど、古書すべて吉藝之《キキシ》とありて、木々須《キヽス》といへるはなし、例の和名抄の、いにしへに證《アカサ》ざるひが言なり、この二句、八千矛《ヤチホコ》の神の御歌にも、又萬葉卷(ノ)十三にも見えたり、
 
波施稽矩摸《ハシケクモ》、
細氣久毛《ハシケクモ》也、氣久《ケク》の氣《ケ》は添言、【うれしけく、をしけく、などいへるに同じ、】くはしくも也、【このくはしは、愛の義に非ず、】委細《ツハラカ》に、むつごとも詔《ノタマ》ひ盡ずしてと、いふこゝろなり、
 
伊麻娜伊播孺底《イマダイハズテ》、
末v言而《イマダイハズテ》也、
 
阿開※[人偏+爾]啓利倭蟻慕《アケニケリワキモ》、
明爾來吾妹《アケニケリワギモ》也、我伊《カイ》を約めて、和藝毛《ワギモ》といへり、上に出たる我家を和藝倍《ワギヘ》といへると、同じ約言也、皇女を喚かけて、わがいもよと、詔へるものぞ、
 
妃(ノ)和唱曰《コタヘタマヘルウタ》、
 
(12ウ)97 ※[草冠/呂]母※[口+利]矩能《コモリクノ》、
句、
 
簸都細能※[加/可]婆※[まだれ/臾]《ハツセノカハユ》、
二句、上に見えたり、※[まだれ/臾]《ユ》は從《ヨリ》にして、爾《ニ》の助辭に通ふ言のよし、萬葉卷(ノ)三の別記に、委しくせり、
 
那我例倶屡駄開能《ナガレクルタケノ》、
流來竹之《ナガレクルタケノ》也、八言一句とすべし、
 
以矩美娜開余嚢開《イクミダケヨダケ》、
節込竹節竹《ヨコミダケヨタケ》也、このいくみは、師説によりて、隱竹《コモリダケ》なるべく、おもひをりつれど、熟《ヨク》考るに、殖竹《ウヱタケ》にこそ、隱《コモ》るともいふべけれ、流來《ナカレク》る竹に、隱《コモ》るといふ言の、あるべくもあらねば、師説はうべなひかたし、按に伊《イ》は與《ヨ》に通ふ言にして、節《ヨ》のこみたる竹なるべく、そは竹の本方《モトヘ》をいひ、下の余嚢開《ヨダケ》は、節間《ヨ》の長きなるべく、そは竹の末方《スヱベ》をいふなるべし、古事記、雄略の大御歌に見えたる、いくみ竹も、本方《モトヘ》の節のこみたるにて、今と同義とすべし、
頭注、○允恭紀の歌に、佐瑳餓泥能《ササカネノ》、區茂《クモ》云々、とつゞけたるを、小竹《サヽ》の本《ネ》の隱《コモ》る意と註しつれど、今おもふに、彼も小竹《サヽ》の本《ネ》の、節込《ヨコム》意にやあらむ、
 
漠等々陛嗚磨《モトヽヘヲハ》、
本登於乎者《モトヽヘヲバ》也、中の登《ト》は、古言の助語、その例いとおほかり、萬葉卷(ノ)三別記にあげたり、
 
※[草冠/呂]等※[人偏+爾]都倶※[口+利]《コトニツクリ》、
筝爾造《コトニツクリ》也、今の梓巫《アツサミコ》の用ふる弓は、上古の筝《コト》の遺風なるものか、筝の字の、竹に從へるも、竹もて造るよしにや、彼竹の節《ヨ》ごみたる本方《モトヘ》を、筝《コト》には造れるなりけり、
 
(13オ)須衛陛嗚磨《スヱヘヲバ》、
未方乎者《スヱベヲバ》也、末方《スヱヘ》は、則|節竹《ヨタケ》にて、節間の長き竹なるべし、
 
府曳※[人偏+爾]都倶※[口+利]《フエニツクリ》、
笛爾造]《フエニツクリ》也、彼|節《ヨ》長きを、ふえには、造れるなり、
 
府企儺須《フキナス》、
吹鳴《フキナス》也、吹は、笛《フエ》につきていひ、鳴《ナス》は、筝《コト》につきて云、鳴を、なすといへるは、萬葉巻十二に、時守之打鳴鼓《トキモリノウチナスツヽミ》、古今集に、秋風に、かきなす琴の、など見えたり、さてこゝまでは、三諸《ミモロ》をいひ出む料の序にて、笛《フエ》と筝《コト》の音の、相合るを、みもろとはつゞけさせ給へる成べし、もろは、諸共《モロトモ》のこゝろなり、
 
美母盧我紆倍※[人偏+爾]《ミモロカウヘニ》、
三諸之上爾《ミモロノウヘニ》也、三諸《ミモロ》は、高市郡なる、神奈備山《カムナビヤマ》にて、即(チ)飛鳥《アスカ》の神岳《カミヲカ》といふは、是なり、
 
能朋梨※[こざと+施の旁]致《ノホリタチ》、
登立《ノボリタチ》也、
 
倭我彌細磨《ワガミセハ》、
吾見爲者《ワカミセバ》也、わが見しせればといふ意、
 
都怒婆播符《ツヌサハフ》、
蘿多這《ツタサハハフ》也、岩にかゝる發語、師の冠辭考にいへる所、詳なり、
 
以簸例能伊開能《イハレノイケノ》、
磐余池之《イハレノイケノ》也、磐余《イハレ》は高市(ノ)郡の地名、神武紀に見えたり、池もそこに有、
 
美儺矢駄府紆嗚謨《ミナシタフウヲモ》、
水裏經魚毛《ミナシタフウヲモ》也、したは、裏を云言のよし、萬葉巻(ノ)十六、竹取(ノ)翁(13ウ)の歌に、二綾裏沓《フタアヤシタクツ》の解にいひき、經《フ》は、住居るをいふ言のよしも、同歌の解にいへり、
 
紆倍※[人偏+爾]提々那皚矩《ウヘニテテナゲク》、
上爾出歎而《ウヘニデテナケク》也、水裏經魚《ミナシタフウヲ》とは、御心の裏《ウチ》に、しぬび給へるを譬給ひ、上に出て歎《ナケク》とは、顯《アラ》はになけき給ふを、たとへさせ給へるなり、
 
野須美矢々《ヤスミシヽ》、
句、
 
倭我於朋枳美能《ワガオホキミノ》、
二句既に上に出たり、皇子《ミコ》なれど、かく申せるは、いにしへの常也、
 
於魔細履《オバセル》、
所帶《オハセル》也、萬葉卷(ノ)九にも、於姿勢流《オバセル》とあり、
 
沙佐羅能美於寐能《ササラノミオビノ》、
小紋之御帶之《サヽラノミオヒノ》也、さゝらは、小紋形の錦なるべきよし、允恭紀の歌に云(ヘ)り、
 
武須彌※[こざと+施の旁]例《ムスビタレ》、
結垂《ムスヒタレ》也、上に美於寐能《ミオビノ》と、能の用語《ハタラキコト》を加へたれば、むすびたれといふを、體言に心得へき也、結令v垂《ムスヒタラセ》の意にはあらずかし、こゝまでは、誰やし人といはむ、料の序也、
 
駄例夜矢比等母《タレヤシヒトモ》、
誰八師人毛《タレヤシヒトモ》也、八師《ヤシ》は助辭、已に武烈紀の歌にいへり、
 
紆陪※[人偏+爾]泥提那皚矩《ウヘニデテナケク》、
如(シ)2上註1、魚のみならず、誰人も、上に出て歎《ナケ》くといふ意にて、誰とは、即みづからを詔へる也、
 
(14オ)二十四年冬十月、調(ノ)吉士、至(ル)v自2任那《ミマナ》1、奏言《マヲシツラク》、毛野臣《ケヌノオミ》爲v人|傲※[獣偏+艮]《イスカシマニモトリ》、不v閑2治體(ニ)1、竟(ニ)無(シ)2和解1、擾2亂《サワガシミダル》加羅(ヲ)1、又※[人偏+周]儻任(テ)v意而思(ヒ)不v防v患、故《カレ》遣(シテ)2目頬子《メヅラコヲ》1徴召《メシタマフ》、是歳毛野(ノ)臣被(テ)v召、到(ル)2于|對馬《ツシマニ》1、逢(テ)v疾(ニ)而死、送葬《ハフルトキ》尋(テ)v河而入(ル)2近江(ニ)1、其妻歌曰、  この尋v河而入(ル)2近江(ニ)1とは、山城(ノ)國淀川を泝り來て、近江(ノ)國には入しなるべし、さて比羅加多《ヒラカタ》は、淀河の邊なる、河内(ノ)國|枚方《ヒラカタ》にやとおもへど、その死《シニ》かばねを、近江(ノ)國に持行て、葬《ハフリ》し時によめる歌と聞ゆれば、河内(ノ)國にては、さらによしなし、釋紀に、平形は、近江之所(ノ)名也、とあるは、いはれたりけり、
 
(14ウ)98 比※[木+羅]※[加/可]駄喩《ヒラカタユ》、
平方從《ヒラカタユ》也、今按に、平《ヒラ》は近江(ノ)國の、平山《ヒラヤマ》なるべく、方《カタ》とは、山方《ヤマカタ》、沙寐方《サヌガタ》、彼方《ヲチカタ》などいへる方《カタ》にて、そのかたとは、干瀉《ヒカタ》のかたに同じく、山にも、野にも、海にも、やゝ高き所を、いふ言とこそおぼゆれ、喩《ユ》は、例の邇《ニ》に通ふ、てにはの從《ユ》なり、
頭注、○萬葉卷(ノ)九に、樂浪之《サヽナミノ》、平山風之《ヒラヤマカセノ》、海吹者《ウミフケハ》、釣爲海人之《ツリスルアマノ》、袖變所見《ソテカヘルミユ》、
 
輔曳輔枳能朋樓《フエフキノボル》、
笛吹上《フエフキノボル》也、上古より、葬送には、鼓吹ありける事、代々の國史にも式にも見えたり、聖武紀に、遣(テ)v使(ヲ)葬(ル)2長屋王、吉備(ノ)内親王屍於生駒山(ニ)1、仍(テ)勅云。吉備(ノ)内親王(ハ)者無v罪、宜(ク)2准v例送葬1、停(ム)2鼓吹(ヲ)1云云、臣下の葬にも、鼓吹有けるを見べし、といへり、
 
阿符美能野《アフミノヤ》、
近江之哉《アフミノヤ》也、やは、地名にかく添る例也、萬葉に、難波《ナニハ》のや、高津《タカツ》のや、などいへるおほかり、
 
※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》、
毛野之若子伊《ケヌノワクゴイ》也、野は、奴《ヌ》とも、那《ナ》とも、乃《ノ》とも云、古言也、わく子は、上に註せり、下の伊《イ》は添言、續紀(ノ)宣命に、藤原(ノ)仲麻呂伊、百濟(ノ)王福信伊、萬葉中には、卷(ノ)三に、志斐伊者奏《シヒイハマヲス》、卷(ノ)四に、紀關守伊《キノセキモリイ》、卷(ノ)十二に、家奈流妹伊《イヘナルイモイ》、とあり、卷(ノ)三に註せり、
 
輔曳符枳能朋樓《フエフキノホル》、
如2上註1、彼|平《ヒラ》山のかたへ、葬送る時、笛吹て登り行く也、
 
(15オ)目頬子《メツラコ》初(メ)到(ル)2任那《ミマナニ》1時、在《アル》v彼《ソコニ》郷家《イヘヒト》等、贈v歌(ヲ)曰、  彼《ソコ》にある郷家《イヘヒト》等とは、毛野臣《ケヌノオミ》に、從ひ行し、日本人《ヤマトヒト》なり、
 
99 柯羅※[履の復が(行人偏+婁)]※[人偏+爾]嗚《カラクニヲ》、
韓國乎《カラクニヲ》也、からとは、惣(ベ)て西の方の、外國をさしていふ言にて、こゝは任那《ミマナ》を云也、
 
以柯※[人偏+爾]輔居等所《イカニフコトゾ》、
如何言事曾《イカニイフコトゾ》也、萬葉卷(ノ)十五に、昔より、いひけることの、加良久邇能《カラクニノ》、可良久毛《カラクモ》こゝに、わかれするかも、と有、こゝもその意にて、韓國《カラクニ》を辛《カラ》といふは、いかにいふ言ぞと、いへるなり、
 
梅豆羅古枳駄樓《メツラコキタル》、
目頬子來《メツラコキタル》也、から國といへば、その海つ路も、からかるべきに、めづらしき人も、來れりといふ意を、目頼子《メツラコ》といふ名に、いひよせたる也、古歌といへども、かゝる例多し、
 
武※[加/可]左※[履の復が(行人偏+婁)]樓《ムカサクル》、
向所v避《ムカサクル》也、壹岐國は、から國に相むかひながら、遠く放れるをいふ、
 
以砥能和駄※[口+利]嗚《イキノワタリヲ》、
壹岐之渡乎《イキノワタリヲ》也、
 
梅豆羅古枳駄樓《メヅラコキタル》、
如2上註1、この渡りを、やすく越《コエ》來りしは、から國の名には、背《ソム》(15ウ)けりといふこゝろ也、
 
第十九(ノ)卷、 天國排開廣庭《アメクニオシハルキヒロニハノ》天皇、 【一首、欽明天皇、】
 
二十三年、略、是月遣(シテ)2大將軍紀(ノ)男麻呂(ノ)宿禰(ヲ)1、將(テ)v兵(ヲ)出(ツ)2※[口+多]※[口+利]《タリヨリ》1、副將河邊(ノ)臣|瓊缶《ニヘ》出(テ)2居曾山《コソムレヨリ》1、而欲v問d新羅攻2任那(ヲ)1之状(ヲ)u云云、同時(ニ)所(レタル)v虜(ニ)、調(ノ)吉士|伊企儺《イキナ》、爲v人勇烈終(ニ)不2降服1、新羅(ノ)闘將拔(テ)v刀(ヲ)欲v斬(ラムト)、逼《セメt》而脱(シメテ)v褌(ヲ)(16オ)追(テ)令(ム)d以(テ)2尻臀《シリタブラ》1向(テ)2日本(ニ)1、大(ニ)嘘叫(シテ)曰(ハ)c日本(ノ)將齧(ヘト)u2我(ガ)※[月+寛]※[月+隹]《シリタフラヲ》1、即(チ)號叫(テ)曰、新羅(ノ)王|※[口+稻の旁]《クラヘ》2我(ガ)※[月+寛]※[月+隹](ヲ)1、雖(トモ)v被2苦《カラク》逼(ルト)1尚如v前叫(ブ)、由(テ)v是|見《レヌ》v殺、其子|舅子《ヲヂコ》、亦抱(テ)2其父(ヲ)1而死、伊企難《イキナカ》辭旨難(コト)v奪皆如v是、由(テ)v此特(ニ)爲2諸將帥(ノ)1、所2痛惜1、其(ノ)妻《ツマ》大葉子《オホハコモ》亦並(ニ)見v禽、愴然《カナシミテ》歌曰、  諸將の愴《カナ》しみて、うたへるなり、
 
100 柯羅倶※[人偏+爾]能《カラクニノ》、
韓國之《カラクニノ》也、任那をいふ言、上に同じ、
 
基能陪※[人偏+爾]※[こざと+施の旁]致底《キノヘニタチテ》、
柵上爾立而《キノヘニタチテ》也、柵上《キノヘ》の字は、紀中に見えたり、柵《キ》は、城《キ》に同じく、圍《カコメ》る所を云、即|垣《カキ》の伎《キ》も同じかるべし、上《ヘ》は、ほとりをいふ、
 
於譜磨(16ウ)故幡《オホバコハ》、
大葉子者《オホハコハ》也、伊企難《イキナ》が妻の名なり、
 
比例甫※[口+羅]須母《ヒレフラスモ》、
領布振毛《ヒレフルモ》也、振《フル》を延て、ふらすといふ、領布《ヒレ》は、女のかくるものにて、その長等、延喜縫殿式に見え、是を振事は、萬葉卷(ノ)五に見えたり、續後紀の歌の解にいへるを、併見べし、下の毛は、助語なり、
 
耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》、
日本方向而《ヤマトヘムキテ》也、萬葉卷(ノ)五に、松浦作用姫《マツラサヨヒメガ》が、佐提彦《サテヒコ》が別をかなしめる、歌の序に、遙(ニ)望(テ)2離去之舩(ヲ)1、悵然(シテ)斷v肝(ヲ)、黯然(シテ)鎖(ス)v魂(ヲ)、遂(ニ)脱(テ)2領布(ヲ)1麾(ク)v之(ヲ)、傍者莫(シ)v不(ハ)2流涕1、因(テ)號(テ)2此山(ヲ)1曰(フ)2領布振之嶺《ヒレフルミネト》1也、といへる類にて、大葉子が、大倭《ヤマト》のかたを戀つゝ、領布《ヒレ》ふらすもと、吾邦人の彼にあるが、傍よりかなしみて、よめるなり、
 
或|有和曰《ヒトノコタヘウタ》
 
101 柯羅倶爾能《カラクニノ》、
如(シ)2上註1、
 
基能陪傭※[こざと+施の旁]々志《キノヘニタヽシ》、
柵上爾立志《キノヘニタヽシ》也、たゝしは、多知《タチ》の延言也、
 
於譜磨故幡《オホバコハ》、
大葉子者《オホハコハ》也、
 
比禮甫羅須彌喩《ヒレフラスミユ》、
領布振爲(17オ)所v見《ヒレフラスミユ》也、ふらすは、ふるの延言ともいふべし、
 
那※[人偏+爾]婆陛武岐底《ナニハヘムキテ》、
簸波方向而《ナニハヘムキテ》也、はじめ難波より、舩出せしなれば、難波の方へむきて、とはいへる也、釋紀に、向(テ)2日本(ノ)方(ニ)1、振(ルハ)2領布(ヲ)1、慕(フ)2故郷1也、といへり、そのこゝろなり、
 
第二十二(ノ)卷 豊御食炊屋姫《トヨミケカシキヤヒメ》天皇、 【三首、推古天皇、】
 
二十年春正月、辛巳(ノ)朔、丁亥、置2酒宴《オホミキメシテトヨノアカリシタマフ》群卿(ニ)1、是日大臣、上2壽歌1曰《サカホガヒタテマツリタマハク》、
 
102 夜須彌志斯《ヤスミシシ》、
句、
 
和餓於朋耆彌能《ワガオホキミノ》、
句、以上上に註が如し、
 
※[言+可]句理摩須《カクリマス》、
隱坐《カクリマス》也、延喜式祝詞に、天御蔭《アメノミカケ》、日御蔭 登 隱坐 ※[氏/一]《ヒノミカケトカクリマシテ》、とあるかくりますにて、こゝは天皇の覆《オホハ》れかくります、天(17ウ)津御蔭《アマツミカケ》といふ意也、
 
阿摩能泥蘇※[言+可]礙《アマノヤソカケ》、
天之八十蔭《アマノヤソカケ》也、八十《ヤソ》は、限りなきの祝言《ホキコト》、かげは、上にいふ天御蔭《アメノミカケ》、日御蔭《ヒノミカケ》の蔭にて、こゝは即日の御影をいひて、天皇を比し申せり、阿麻《アマ》といひ、阿米《アメ》といふは、論あり、萬葉卷(ノ)三の解にいふを、併考べし、
 
異泥多々須《イテタヽス》、
出立爲《イテタヽス》也、日の出たゝす也、たゝすは、たつの延言か、
 
瀰蘇羅嗚彌禮磨《ミソラヲミレハ》、
眞空乎見者《ミソラヲミレバ》也、そらは、虚空をいふ言にて、天《アマ》と同義にあらず、神武紀に、從v天《アメ》降《クタラバ》者當v有2天垢《アメノカホ》1、從v地|來《キタラハ》者當v看2地(ノ)垢《カホ》1、實(ニ)是(レ)|妙美之虚空彦者歟《マクハシノソラツヒコトイフモノカ》とあり、是にて天《アメ》と虚《ソラ》との別ちを知べし、こゝも天津《アマツ》日影の出たゝす、虚空《オホソラ》を見ればといふ意也、
 
豫呂豆余珥《ヨロヅヨニ》、
萬代爾《ヨロヅヨニ》也、日の萬(ノ)代にかはらぬもて、祝せり、萬葉巻(ノ)十三、巻(ノ)十九に、天地《アメツチ》、日月共《ヒツキトトモニ》、萬代爾《ヨロツヨニ》、といへる意也、
 
※[言+可]句志茂餓茂《カクシモカモ》、
如是毛冀《カクシモカモ》也、我大王《ワカオホキミ》は、萬代に、かく大座《オホマシマ》せと、冀祝《ネカヒホキ》奉るなり、
 
知余珥茂《チヨニモ》、
千世爾毛《チヨニモ》也、
 
※[言+可]句志茂餓茂《カクシモカモ》、
如(シ)2上註1、
 
知余珥茂《チヨニモ》、
句、
 
※[言+可]句志茂餓茂《カクシモガモ》、
この二句、疑らくは、重複衍文なるべし、
 
※[言+可]之胡(18オ)彌底《カシコミテ》、
恐而《カシコミテ》也、天皇を、かしこみ奉りてなり、
 
菟伽倍摩都羅武《ツカヘマツラム》、
將仕奉《ツカヘマツラム》也、
 
烏呂餓彌弖《ヲロガミテ》、
折屈而《ヲレカヽミテ》也、釋紀に云、私記(ニ)云、乎禮加々無《ヲレカヽム》也、とあり、禮《レ》を呂《ロ》に轉し、一つの加《カ》を略ける也、屈拜するをいふ、今をかむといふ言は、即この呂《ロ》を省けるもの也、
 
菟伽倍摩都羅武《ツカヘマツラム》、
如2上註1、
 
宇多豆紀摩都流《ウタヅキマツル》、
歌就奉《ウタツキマツル》也、釋記(ニ)云、私記(ニ)云、師説(ニ)云、献《タテマツリ》2此歌(ヲ)1弖《テ》、加之津支奉也《カシツキマツルナリ》、とあり、此説可v從、歌とは、この壽詞《ホキコト》をいふ、就《ツク》は、上景行紀の歌に所v謂、前就君《マヘツキミ》の就《ツク》にて、いつく、かしづくの、就《ツク》に同じく、つかへ奉るをいふ言也、
 
天皇和曰、
 
103 摩蘇餓豫《マソガヨ》、
眞蘇我與《マソガヨ》也、私記(ニ)云、摩者《マハ》、眞之《マノ》義也、蘇我者《ソガハ》、大臣(ノ)之名也、といへり、豫《ヨ》は、喚かけたる詞也、みよし野の、よし野、佐檜《サヒ》の隈《クマ》、ひのくま、など重ねたると、同じさまの發語《マクラコトハ》ぞ、
 
蘇餓能古羅破《ソガノコラハ》、
蘇我之子等者《ソガノコラハ》也、契冲(ニ)云、蘇我《ソガ》は、高市(ノ)郡の地名、宅(18ウ)地をもて氏とす、宗我《ソガ》とも書りと云(ヘ)り、子等《コラ》とは、親しみ、睦しむ稱なる事、上に云、
 
宇摩奈羅摩《ウマナラバ》、
馬在者《ウマナラハ》也、馬子《ウマコ》といふ名によせて、かく詔へるか、
 
辟武伽能古摩《ヒムカノコマ》、
日向之駒《ヒムカノコマ》也、彼國より、良馬を出したりけむ、私記に、日向(ノ)國、出2千里(ノ)駒1、といへり、
 
多智奈羅磨《タチナラバ》、
太刀在者《タチナラバ》也、
 
句禮能摩差比《クレノマサヒ》、
呉之眞鋤《クレノマサヒ》也、私記に、良剱之名也、とあり、上崇神紀の歌にいへるが如く、神代紀に蛇韓鋤之劔《ヲロチノカラサヒノツルギ》、とあるを、一書には、蛇之荒正《ヲロチノアラマサ》、とあり、この二つを、相照らして考るに、韓《カラ》は、假字、あから也、あからは明白の義にして、褒詞《ホメコト》、【から衣、から玉など、皆あからなるべきよし、上にいへり、】このあを省きては、加良《カラ》といひ、良《ラ》を省きては、阿良《アラ》《マヽ、入力者》といふ、鋤《サヒ》は、和名抄に、※[金+專]、國語(ノ)註(ニ)云、【音愽、漢語抄(ニ)云、佐比都惠、】鋤(ノ)屬也、とあれば、鋤《サヒ》は農具にして、佐比《サヒ》といふものなるを、眞瑳比《マサヒ》の、瑳比《サヒ》の假字に、用ひたる也、【この事、崇神紀の歌にいふべきを、わすれてこゝにいふにこそ、】眞瑳比《マサヒ》の眞瑳《マサ》は、眞亮《マサヤ》の略語、比《ヒ》は美《ミ》に通ふ言にて、身《ミ》なるべく、【今も、刀の身と云り、】刀劍の刃《ハ》の、亮《サヤカ》なるを、いふ言なるべし、【既に崇神紀の歌にいへり、】かくて句禮《クレ》といふ言の意を考るに、呉《クレノ》國より渡り來しものに、附いふ言のみにあらす、おほかたは稱美《ホメ》の詞也、紀中に見えたる、呉織《クレハトリ》、穴織《アナハトリ》、或は、漢織《アヤハトリ》とある、穴《アナ》も、漢《アヤ》も、賞歎の詞、【この言、萬葉卷(ノ)三、あをによしの發語の、別記に云、】是に准《ナズラ》へて、呉《クレ》も、稱美の言な(19オ)るを知るべし、
頭注、○くれ竹、くれなゐも、稱美の言と見うべし、
 
字倍之※[言+可]茂《ウヘシカモ》、
諾志哉《ウヘシカモ》也、志《シ》は、助辭、
 
蘇餓能古羅烏《ソガノコラヲ》、
如(シ)2上註1、
 
於朋枳彌能《オホキミノ》、
大王之《オホキミノ》也、天皇の御自稱なる事、萬葉巻(ノ)三の別記に、例をあげて、委しくいへり、
 
菟伽破須羅志枳《ツカハスラシキ》、
令v仕羅志枳《ツカハスラシキ》也、天皇のつかはしめ給ふといふ意、羅志《ラシ》は、語(ノ)辭、下の枳《キ》は、上の諾之哉《ウヘシカモ》とある、かもの助辭を結へる也、
 
二十一年十二月、庚午(ノ)朔、皇太子《ヒツキノミコ》、遊2行《イテマス》於|片岡《カタヲカニ》1時、飢者|臥《コヤセリ》2道(ノ)垂《ホトリニ》1、仍(チ)問(タマフニ)2姓名1而不v言、皇太子|視《ミソナハシテ》v之(ヲ)、與《アタヘ》2飲食(ヲ)1、即(チ)脱《ヌキテ》2衣裳《ミソヲ》1、覆(テ)2飢者(ヲ)1而|言《ノリタマハク》、安臥《ヤスクコヤセ》也、則歌曰、
 
104 斯那提流《シナテル》、
科立有《シナタテル》也、しなとは、山坂の、階級あるをいふ言、師の冠辭考、しなてる、しなさかるの條に、いはれし所、詳也、かたとか(19ウ)かるは、比羅※[加/可]駄《ヒラカタ》、小額田《サヌカタ》、彼方《ヲチカタ》のかたにて、山の高き所を云言なれば、さる意もて、いひつゞけたる發語なり、
 
箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》、
片岡山爾《カタヲカヤマニ》也、河内(ノ)國、石河郡なるよし、師云へり、
 
伊比爾惠弖《イヒニヱテ》、
飢v飯而《イヒニヱテ》也、宇惠《ウヱ》の宇《ウ》を省けり、
 
許夜勢屡《コヤセル》、
所臥《コヤセル》也、萬葉に、反側の二字を、こいまろびとよみたる、古伊《コイ》は、こやる也、古事記の歌に、都久由美能《ツクユミノ》、許夜流許夜理母《コヤルコヤリモ》、とあるは、弓を伏をいへり、
 
諸能多比等阿波禮《ソノタヒトアハレ》、
彼旅人可v憐《ソノタヒトアハレ》也、
 
於夜奈斯爾《オヤナシニ》、
無親爾《オヤナシニ》也、いにしへ親とは、父母を云が中に、殊には、母をさしていへり、
 
那禮奈理鷄迷夜《ナレナリケメヤ》、
汝將v生哉《ナレナリケメヤ》也、生《ナリ》とは、大祓詞に、成出牟天乃益人《ナリイテムアメノマスヒト》、といへる成《ナリ》にて、世に生るをいふ、汝《ナ》は、母《ハヽ》なしに、生《ナリ》出けむや、母《ハヽ》もあらむにと、詔ふ意也、
 
佐須※[こざと+施の旁]氣能《サスタケノ》、
刺竹之《サスタケノ》也、この刺《サス》は、師説もあれど、己が按は、笹竹《サヽタケ》なるべくおもへり、【佐須《サス》と、佐《サ》々は、相通へり、】さるは允恭紀の歌に、佐瑳餓泥能《サヽカネノ》、區茂能於虚奈比《クモノオコナヒ》、とあるも、再按に、小竹《サヽ》の本《ネ》の、節込《ヨコム》といふ意に、冠らせたる發語なるべくおもへば、こゝも彼に同じくて、小竹《サヽタケ》の込《コム》とかゝれるを、古《コ》と伎《キ》と、(20オ)相通へば、枳彌《キミ》にいひつゞけさせ給へるなるへし、さてさゝといふ名は、その葉のさやく音の、さゝと聞ゆれば也、猶萬葉卷(ノ)七に、神樂聲波と書て、さゝ波とよめる解に、いへる言有、併考べし、
 
枳彌波夜那祇《キミハヤナキ》、
君者哉無《キミハヤナキ》世、君は無かといふ意、母あり、君あらば、かく飢て、死せじものを、と詔ふなり、
 
伊比爾惠弖《イヒニヱテ》、
如(シ)2上註1、
 
許夜勢流《コヤセル》、
如2上註1、
 
諸能多比等阿波禮《ソノタヒトアハレ》、
如(シ)2上註1、
 
第二十三(ノ)卷、 息長足日廣額《オキナカタラシヒヒロヌカノ》天皇、【一首、舒明天皇、】 
 
於v是|摩理勢《マリセノ》臣、進(テ)無(シ)v所v歸《ヨル》、及(チ)泣哭《イサチテ》更(ニ)還(リテ)之居(ルコト)2於家1十餘日《トヲカアマリ》、泊瀬(ノ)王忽(ニ)發(テ)v病薨(マシヌ)、爰(ニ)(20ウ)摩理勢臣《マリセノ》曰、我(レ)生(リトモ)之|誰《タヲカ》特《タノマム》矣、大臣將v殺2境部(ノ)臣(ヲ)1、而興(テ)v兵(ヲ)遣(ル)v之、境部臣聞(テ)2軍至(ルト)1、率《ヰテ》2仲子|阿椰《アヤヲ》1、出(テ)2于門(ニ)1坐《ヰテ》2胡床《アクラニ》1而|待《マテリ》、時(ニ)軍至(テ)乃(チ)令(テ)2來目《クメ》物部(ノ)伊區比《イクヒヲ》1、以(テ)絞(ル)v之(ヲ)、父子共(ニ)死、乃(チ)埋2同處(ニ)1、唯兄子|毛津《ケツ》逃2匿《ニケカクル》于尼寺(ノ)瓦舍《カハラヤニ》1、即(チ)※[(女/女)+干](セリ)2一二(ノ)尼(ヲ)1、於v是一(ノ)尼|嫉妬《ウハナリネタミシテ》令《セリ》v顯《アラハ》、圍(テ)v寺(ヲ)將《ス》v捕(ント)、乃(チ)出(テ)之入(ル)2畝傍山《ウネヒヤマニ》1、因(テ)以(テ)探v山(ヲ)、毛津《ケヅ》走《ニケテ》無v所v入、刺(テ)v頸(ヲ)而死(ヌ)2山中(ニ)1、時人歌(21オ)曰、
 
105 于泥備椰摩《ウネヒヤマ》、
畝傍山《ウネビヤマ》也、高市(ノ)郡にありて、むかしも今も、名高き山也、
 
虚多智于須家苔《コタチウスケド》、
木立雖v薄《コタチウスケド》也、うすけれども、といふを略きて、かくいふ、萬葉集に、欲《ホシ》けど、遠けど、などあまたあり、
 
多能彌介茂《タノミカモ》、
憑哉《タノミカモ》也、たのみとしてかも、といふ意、
 
氣菟能和區呉能《ケヅノワクゴノ》、
毛津之壯子之《ケヅノワクゴノ》也、延喜式、神名帳に、大和(ノ)國高市(ノ)郡、毛都和既《ケツワケノ》神社あり、毛津《ケヅ》が靈を祀るかと、契冲がいへるは、あらじかし、氣津和既《ケツワケ》は、稻の靈にして、和區呉《ワクゴ》とは、別なるべし、
 
虚茂邏勢利祁牟《コモラセリケム》、
將2隱有1《コモラモリケム》也、こもらしたりけむ、といふを、約めたるなり、
 
第二十四(ノ)卷、 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇、【七首、皇極天皇、】
 
(21ウ)元年是歳、蘇我(ノ)大臣|蝦夷《エミシ》、立(テ)2己(カ)祖廟(ヲ)於葛城(ノ)高宮(ニ)1、而|爲《ナス》2八※[人偏+(八/月)](ノ)之舞(ヲ)1、遂作v歌曰、
 
106 野摩騰能《ヤマトノ》、
大和之《ヤマトノ》也、
 
飫斯能※[田+比]稜栖嗚《オシノヒロセヲ》、
忍之廣瀬乎《オシノヒロセヲ》也、契冲云、葛上郡の北、忍海郡なれば、彼處にある河の、廣瀬をいふ也、廣瀬河は、忍海の北に、葛下郡にありて、その北の廣瀬郡にある、河の名なれば、それならぬ事明らけし、といへり、己(レ)いまだ其地を、くはしく知らねば、暫契冲か説によりぬ、さて押忍の字を、おしに用ふるは、もとより假字にて、おしは大の意、おふしの約言なるべし、【大河内を、凡河内といふ、是なり、】さるは神代紀に、忍穗耳(ノ)尊を、一書に、大耳(ノ)尊と有もて知るべし、忍海部の名も、此大廣瀬につきての名と、知らるめり、
頭注、○稜を、ろの假字に用ひたるは、和名抄、相模(ノ)國、餘綾【與呂岐、】と見えたるによれば綾と稜と同音の字にて知るべし、
頭注、○几河内、安閑紀、作2大河内(ニ)1、
 
倭柁羅務騰《ワタラムト》、
將v渡登《ワタラムト》也、
 
阿庸此柁豆矩梨《アヨヒタツクリ》、
脚帶手※[刷の立刀が又]《アユヒタヅクリ》也、庸《ヨ》は、呉音にて、由《ユ》の假字に用ひたるか、また由《ユ》と與《ヨ》と相通へば、あよひともいふか、已《ステ》に、安康紀の歌に見えたり、手※[刷の立刀が又]《タツクリ》の手《タ》は、手《タ》わすれ、手《タ》ばかるの手《タ》にて添言、つくりは、つく(22オ)らひの約りたる也、萬葉卷(ノ)十七にも、和可久佐能《ワカクサノ》、阿由比多豆久利《アユヒタツクリ》、と見えたり、
 
擧姶豆矩羅符母《コシツクラフモ》、
腰※[刷の立刀が又]毛《コシツクラフモ》也、腰の邊をもつくらふ也、腰のあたりをも、取つくらふ也、さてかく歌へる意を、しひて考るに、忍《オシ》の廣瀬《ヒロセ》を渡らんとするは、かしこくも天位を窺※[穴/兪]《ウカヽフ》を比し、阿由比《アユヒ》つくらひ、腰つくらふは、彼天位を窺※[穴/兪]《ウカヽフ》かために、祖廟を立、八※[人偏+(八/月)]の舞をなし、自ら僭せるふるまひを比して、かくはいへるにやあらむ、腰つくらふは、俗に云したづくらひの意也、
 
二年冬十月丁未(ノ)朔、壬子、蘇我(ノ)大臣|蝦夷《エミシ》、縁(テ)v病(ニ)不v朝、私(ニ)授(テ)2紫冠(ヲ)於子入鹿(ニ)1、擬《ナソラフ》2大臣(ノ)位(ニ)1、復呼(テ)2其弟(ヲ)1、曰(フ)2物部(ノ)大臣(ト)1、大臣之祖母(ノ)、物部(ノ)弓削《ユケノ》大連之妹(ナリ)、故因(テ)2母財(ニ)1、取(ル)2威(ヲ)(22ウ)於世(ニ)1、戊午蘇我(ノ)臣入鹿、獨(リ)謀(テ)將d廢(シテ)2上宮(ノ)王等(ヲ)1、而立(テ)2古人(ノ)大兄(ヲ)1、爲(ント)c天皇(ト)u、于v時有(テ)2童謠1曰、
 
107 伊波能杯※[人偏+爾]《イハノヘニ》、
於2岩上1《イハノヘニ》也、本書(ノ)下文(ニ)云、以(テ)2伊波能杯《イハノヘヲ》1、而喩2上宮1と有(リ)、
 
古佐屡渠梅野倶《コサルコメヤク》、
小猿米燒《コサルコメヤク》也、下文(ニ)云、以(テ)2古佐屡《コサルヲ》1、而喩(フ)2林(ノ)臣(ニ)1、【林(ノ)臣(ハ)入鹿也、】以(テ)2渠梅野倶《コメヤクヲ》1、而喩v燒(ニ)2上宮(ヲ)1、とあり、上宮は、豐聰《トヨトミヽノ》皇太子の、班鳩(ノ)宮にて、山背(ノ)大兄(ノ)王は、その宮におましましゝなり、
 
渠梅多※[人偏+爾]母《コメタニモ》、
米※[こざと+施の旁]爾毛《コメタニモ》也、だにもは、舊説に、なりともといふ意ぞといへるは、この歌にとりては、よくあたれるに似たれど、萬葉集に、この言のおほかるは、さる意にては、叶はぬ多し、師説に、たゞに也といはれしも、あたらず、後の歌にも、おほかたは副《サヘ》といふ助語に近く用ひて、小《イサヽカ》異《コト》也、今按に、萬葉集に、共の字を、佐倍《サヘ》とよみ、またむたといふにも、同じ共の字を用ひたり、彼是に通し書たるは、その意の近ければ也、(23オ)故考るに、※[こざと+施の旁]爾《タニ》は、牟多爾《ムタニ》の略語なるべし、【上を、風の、神のと、のの用語を加ふるときは、下を體に、牟多といひ、上を風を、神をと、をの助語を加へて、體にいふ時は、下をだに、或はだにもと、用に受る例と知べし、】この意もて、※[こざと+施の旁]爾《タニ》といふ意の出たる、いにしへの歌をあつめて、考なば、その意はおのづから、おもひ得なむものぞ、
 
多礙底騰褒※[口+羅]栖《タゲテトホラセ》、
奪而通爲《タゲテトホラセ》也、たげは、手揚《テアケ》也、吾郷の俚言に、ものを盗取るを、たげるとも、又あげるともいへり、俗言に、膳をあげるなどいふも、あげるは、取る也、【萬葉卷(ノ)二に、妻毛有者《ツマモアラバ》、採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》、とあるは、つみてとるといふ言にて、同言同意なり、】山背の王の、山|隱《コモ》り給ふに、せめて米なりとも、奪て通らせと也、下文に、四五日之問、淹2留於山(ニ)1、不v得2喫飲1、とある即(チ)この應なり、
 
歌麻之々能烏膩《カマシシノヲヂ》、
山羊之老翁《カマシヽノヲヂ》也、和名抄(ニ)云、爾雅註(ニ)云、※[鹿/靈の巫なし]羊、【力丁反、或(ハ)作(ル)v※[羊+靈]、和名加萬之々、】大2於羊1而大角(ノ)者也、とあり、烏膩《ヲヂ》は、老翁の稱、神代紀に見えたり、下文(ニ)云、山背(ノ)王頭髪|班雜毛《フヽキテ》、似(タリ)2山羊(ニ)1、又云、棄2捨《ステテ》其宮(ヲ)1、匿2深山(ニ)1相也、とあり、引合て考べし、
 
三年夏六月癸卯(ノ)朔、乙巳、志紀上(ノ)郡言(サク)、有v人於(テ)2三輪山(ニ)1、見(ル)2猿(ノ)晝睡(ヲ)1、竊(ニ)執(テ)2其臂(ヲ)1、不(23ウ)v害2其身(ヲ)1、猿猶|合v眼《メフサキテ》歌曰、
 
108 武※[舟+可]都烏爾《ムカツヲニ》、
向津峰爾《ムカツヲニ》也、
 
多底屡制羅我《タテルセラガ》、
所v埴制羅之《タテルセラガ》也、萬葉卷(ノ)七に、向津峰爾《ムカツヲニ》、立有桃樹《タテルモヽノキ》とも、向岳之若楓木《ムカツヲノワカカツラノキ》、とも見えたれば、この制羅《セラ》も、木の名なるはしるけれど、いかなる木にや、考る所なし、その木は、枝葉の軟《ヤハラカ》なる木ゆゑ、柔手《ニコテ》とはつゞけたるにやあらむ、又按に、制羅《セラ》を、背等《セラ》に通(ハ)して、背等《セラ》が柔手《ニコテ》とは、つゞけたるにもやあらむ、
 
※[人偏+爾]古禰擧曾《ニコデコソ》、
柔手乞《ニコテコソ》也、乞は、例の助辭、禰は、漢音奴禮(ノ)切、又乃禮(ノ)切、とあれば、こゝは泥《テ》の假字に用ひたるなるべし、紀中、漢音を用ひし例も、おほければなり、
 
倭我底嗚騰羅毎《ワガテヲトラメ》、
吾手乎將v取《ワカテヲトラメ》也、柔《ニゴ》やかなる手もてこそ、わが手をばとらめ、といふ意なり、
 
柁我佐基泥《タカサキデ》、
誰柝手《タカサキデ》也、萬葉卷(ノ)十三に、所v掻將v柝《カヽレサケム》、鬼乃四忌手《シコノシキテ》、といへる是也、【今本に、所v掻將v折《カヽレヲレン》、とある折は、拆の誤にて、掻さく如き、鬼《シキ》の醜手《シキテ》といふ意か、また皹將v拆手《カヽリサケムテ》といふ意か、いづれにまれ、醜きおそろしき手をいふ言なるは、こゝと同じ、】柔手《ニコテ》に對て、恐ろしき手をいふ、
 
佐基曾曾母野《サキデソモヤ》、
柝手曾毛哉《サキテソモヤ》也、誰がさき手ぞや、といふ(24オ)意、毛《モ》は、例の助辭なり、今本基佐泥とあるは、上下に誤れるものと、契冲云(ヘ)り、さる例多かり、
 
倭我底騰羅須謀野《ワカテトラスモヤ》、
我手捕爲毛哉《ワガテトラスモヤ》也、誰がさき手もて、わが手をとるや、といふ意、かくて惣(ベ)ての意は、猿を、上宮の山背(ノ)王にあて、向つ峰に立てる制羅《セラ》は、山背(ノ)王に相向ひ立る背等《セラ》にて、入鹿にあて、その背等が、あらぶる事なく、柔《ニゴ》やかなる手もてこそ、わか手をはとらめ、誰が醜《シコ》の拆手《サキテ》もて、わか手をとらすやと也、誰拆手《タカサキテ》云云は、入鹿が軍將等を遣して、山背(ノ)王を、膽駒《イコマ》山に、捕奉らんとする、前兆と見《ミ》べし、
 
其人驚2恠(テ)猿(ノ)歌(ヲ)1放捨而去(ル)、此是《コハ》經《ヘ》2歴數年(ヲ)1、上宮(ノ)王等、爲2蘇我(ノ)鞍作(カ)1、圍(レタマフ)2於|膽駒山《イコマヤマニ》1之|兆《シルシ》也、  已に二年十一月大兄(ノ)王は、子弟妃妾と一時に、自(ラ)經死給ふよし、上に見えたるに、三年六月の條に、此是《コハ》經2歴數年(ヲ)1、上宮(ノ)王等、圍2於膽駒山(ニ)1之兆也、とあるは、錯簡せるものか、またははやく有つる事を、後に志紀(ノ)部の人の申せしまゝに、こゝに擧つるものか、よく柯v考、
 
(24ウ)戊申於2劍(ノ)池蓮(ノ)中1、有(リ)2一(ツノ)莖二(ツノ)萼者《ハナフサナルモノ》1、豐浦(ノ)大臣妄(ニ)推(テ)曰、是(ハ)蘇我(ノ)臣|將《スル》v榮之|瑞《シルシナリ》也、即(チ)以(テ)2金(ノ)墨(ヲ)1書(テ)、而獻(ル)2大法興寺(ノ)丈六(ノ)佛(ニ)1、是月國内(ノ)巫覡等、折2取《ヲリトリテ》枝葉(ヲ)1、懸2掛《トリシテヽ》木綿(ヲ)1伺2大臣(ノ)度v橋之時(ヲ)1、爭(テ)陳《マヲス》2神語入v微之説《カムコトノタヘナルコトヲ》1、其巫|甚多《サハナリ》、不v可2具(ニ)聽1、老人等曰、移v風之兆也、于v時有2謠歌《ワサウタ》三首1、其(ノ)一(ニ)曰、
 
109 波々魯々爾《ハロバロニ》、
遙々爾《ハロ/\ニ》也、この言の、萬葉集に多かるは、みな遠《トホ》き意なれど、こゝは幽《カス》かなる意と聞ゆめり、
頭注、今本に ○はろ/”\を、波波魯々《ハハロロ》と書るは、いにしへの書格《カキサマ》なり、
 
渠(25オ)騰曾枳擧喩屡《コトソキコユル》、
言曾所v聞《コトソキコユル》也、言とは、巫等か所v謂、神語入微の説なるべし、
 
之麻能野父播羅《シマノヤフハラ》、
嶋之籔原《シマノヤフハラ》也、嶋は、大臣の宅地の名、終に籔原《ヤブハラ》とならむ兆なるべし、以上釋紀に所v註也、下文云、於v是(ニ)或人(ノ)説(テ)2第一(ノ)謠歌(ヲ)1曰、此即(チ)宮殿(ヲ)接2起於嶋(ノ)大臣(ノ)家(ニ)1、而中大兄(ト)與2中臣(ノ)鎌子(ノ)連1、密(ニ)圖(リ)2大義(ヲ)1、謀v戮(ト)2入鹿(ヲ)1之兆也、云云、
 
其二(ニ)曰、
 
110 烏智可柁能《ヲチカタノ》、
彼方《ヲチカタ》之也、この遠智《ヲチ》は、大和國、高市(ノ)郡なる、越《ヲチ》といふ地にて、方《カタ》とは、上に見えたる、比羅加駄《ヒラカタ》のかた也、天智紀に、小市岡上《ヲチノオカノヘ》と見えたる、是なるべし、
 
阿波努能枳々始《アハヌノキヽシ》、
阿波野之雉《アハヌノキヽシ》也、萬葉卷(ノ)七挽歌に、鏡成《カヽミナス》、吾見之君乎《ワカミシキミヲ》、阿波乃野之《アハノヌノ》、花橘之《ハナタチハナノ》、珠爾拾津《タマニヒロヒツ》、と見えたるも、この高市(ノ)郡|越《ヲチ》なる、野なるべし、雉《キヽシ》は、上に出、こゝまでは響《トヨモ》さずといはむ、料の序也、
 
騰余謀作孺《トヨモサズ》、
不v令v響《トヨモサズ》也、とよもすの言も、上に出たり、
 
倭例播禰始柯騰《ワレハネシカド》、
我者雖v寐《ワレハネシカド》也、下文(ニ)云、此即(チ)上宮(25ウ)王等性順都(ラ)無(テ)v有v罪、而爲(ニ)2入鹿1見v害、雖v不2自報1、天使v人誄v之兆也、といへる、不2自報1とあるにあたれり、
 
比騰曾騰余謀須《ヒトソトヨモス》、
人曾令v響《ヒトソトヨモス》也、人ぞとは、中(ノ)大兄(ノ)皇子、藤原(ノ)大臣にあたり、令v響は、入鹿を誅給ふにあたれり、天使v人誅v之といへるは、是なり、
 
其三(ニ)」曰、
 
111 烏麻野始※[人偏+爾]《ヲマヤシニ》、
小林爾《ヲハヤシニ》也、婆《バ》と、麻《マ》は、同音にて、相通へり、林(ノ)臣によせたるか、
 
倭例烏比岐例底《ワレヲヒキレテ》、
吾乎引入而《ワレヲヒキレテ》也、いを省くは、古言の例也、
 
制始比騰能《セシヒトノ》、
殺爲人之《シセシヒトノ》也、日本紀に、奉v殺の字を、しせまつると訓《ヨミ》しは、古言也、死を、志《シ》とも、志爾《シニ》ともいふは、字音にあらず、萬葉集に、人の死をいふとて、黄葉《モミチハ》の過去君《スキニシキミ》とあるは、死去君《シニイニシキミ》也、【須疑《スキ》の約|志《シ》、伊爾《イニ》の伊《イ》を省く、】是をもて、按に、奉v殺は、過去爲奉《スキイナセマツル》也、されはこゝも、志勢斯《シセシ》なるを、志勢《シセ》は、世《セ》せの一言に約れば、せし《殺爲》人とはいへる也、
 
於謀提母始羅孺《オモテモシラズ》、
面毛不v知《オモテモシラス》也、
 
伊弊母始羅孺母也《イヘモシラズモヤ》、
家毛不知哉《イヘモシラスモヤ》也、下文(ニ)云、此即(チ)入鹿(ノ)臣、忽(ニ)於(テ)2宮中(ニ)1、爲2佐伯(ノ)連(26オ)|子《コ》麿|稚《ワカ》犬養(ノ)連網田(カ)1、所v斬之兆也、といへり、斬《コロ》せし人の、面も家も知らず、誰と知らずもやあらん、といふ意也、又按に、終《ハテ》の也は、心なく添たる文字にて、訓すて有なむか、萬葉卷(ノ)二に、朝霧乃如也《アサキリノコト》、夕霧乃如也《ユフキリノゴト》、と書る也(ノ)文字に、同じかるべきか、この例なきにしもあらず、
 
秋七月東(ノ)國|不盡《フジ》河邊(ノ)人、大生部(ノ)多《オオ》、勸(メテ)2祭(ルコトヲ)v虫於村里(ノ)之人(ニ)1曰、此者《コハ》常世神《トコヨカミ》也、祭(ル)2此神(ヲ)1者、致(ス)2富(ト)與《トヲ》1v壽、巫覡等遂(ニ)詐2託《マジハリツヽケ》於神語(ニ)1曰、祭(ル)2常世神(ヲ)1者、貧人《マツシキヒトハ》致(シ)v富(ヲ)、老人《オイヒトハ》還(ル)v少(ニ)、由(リテ)v是(ニ)加勸《マス/\スヽメテ》捨(テ)2民(ノ)家財寶(ヲ)1、陳(テ)v酒(ヲ)陳(テ)2菜六畜於路(ノ)側(ニ)1、而|使《シメテ》v呼曰、新(シキ)富入來(レリ)、都鄙之人、(26ウ)取(テ)2常世(ノ)虫(ヲ)1、置(キ)2於清座(ニ)1、歌※[人偏+舞](テ)求(ム)v福(ヲ)、棄2捨《ステヽ》珍財(ヲ)1、都(テ)無(シテ)v所v益、損費極(テ)甚(シ)、於v是葛野(ノ)秦(ノ)造河勝、惡(テ)2民所1v惑、打(ツ)2大生部(ノ)多(ヲ)1、其巫覡等恐(テ)休《ヤム》2其勸(ノ)祭(ルコトヲ)1、時(ノ)人便(チ)作v歌曰、
 
112 禹都麻佐波《ウツマサハ》、
太秦者《ウヅマサハ》也、釋紀(ニ)云、河勝(ノ)之姓也、契冲云、古語拾遺に秦酒公、進仕(テ)蒙v寵、詔(テ)聚(テ)2秦氏(ヲ)1、賜(フ)2於酒公(ニ)1、仍(テ)率2領《ヒキヰテ》百八十種(ノ)勝部(ヲ)1、蠶織貢v調、充2積庭中(ニ)1、因(テ)賜(フ)2姓宇豆麻佐(ヲ)1、【言(ハ)隨v積埋(ミ)益(フ)也、所v頁絹錦、軟2於肌膚1、故秦(ノ)字、謂2之波※[こざと+施の旁](ト)1、】と見えたり、といへり、今按にこの埋益の釋は、いまだ盡(サ)ざるに似たり、猶考べきなり、
 
柯微騰母柯微騰《カミトモカミト》、
神登毛神登《カミトモカミト》也、此|登《ト》は、言をせちにいふとき、添る助語也、萬葉卷三別記、言登《コトト》の條に詳也、
 
枳擧曳倶屡《キコヱクル》、
所v聞來《キコヱクル》也、流言の、聞え來るをいふ、
 
騰擧預能柯微乎《トコヨノカミヲ》、
(27オ)當世之神乎《トコヨノカミヲ》也、
 
宇智岐多麻須母《ウチキタマスモ》、
打消給爲毛《ウチケチタマハスモ》也、けちを約めて、岐《キ》といふか、又は打令消座毛《ウチケタシマスモ》か、いづれにまれ、彼流言を、打消たるをいふなるべし、又は打分牟毛《ウチキタムモ》か、分を、きたとよむは、地名に、大分と書て、おほきたといへるあり、【和名抄可v考】きたとは、切(リ)分つ事にて、割《キザ》むといふも、同言也、【塞《フサク》を、ふたぐ、といへるに同じ、】さてますは、牟《ム》の延言にて、岐多牟《キタム》也、かく見る時は、常世神といふは、即(チ)大生部多をさしいふ言にて、それを打斬《ウチキリ》、はふらせるを、いふなるべし、
 
第二十五(ノ)卷、 天萬豐日《アメヨロツトヨヒノ》天皇、 【三首、孝徳天皇、】
 
大化五年三月乙巳(ノ)朔、戊辰、蘇我(ノ)臣|日向《ヒムカ》、※[言+潜の旁]《シコチテ》2倉山田(ノ)大臣(ヲ)於皇太子(ニ)1曰、僕之異(27ウ)母兄《アガママイロネ》麻呂、伺(ヒテ)3皇太子(ノ)遊(フヲ)2於|海濱《ウナヘタニ》1而、將《ス》v害(ト)v之(ヲ)、將(ルコト)v反其(レ)不v久、皇太子信(タマフ)v之(ヲ)、云云、喚(テ)2物部(ノ)二田(ノ)造《ミヤツコ》鹽《シホヲ》1、使v斬2大臣(ノ)之頭(ヲ)1、云云、皇太子(ノ)妃《ミメ》、蘇我(ノ)造媛《ミヤツコヒメ》、聞(テ)2父大臣(ノ)爲(ニ)v鹽(カ)所1v斬、傷(リ)v心(ヲ)痛(ミ)※[立心偏+宛]《アツカフ》、惡(テ)v聞(コトヲ)2鹽(ノ)名(ヲ)1、所以(ニ)近(ク)2侍(ル)造媛(ニ)1者(ハ)、諱(テ)v稱(ルコトヲ)2鹽(ノ)名(ヲ)1、改(テ)曰2堅鹽《キタシト》1、造媛遂(ニ)因(テ)v傷(ニ)v心、而致v死(ヲ)焉、皇太子聞(テ)2造媛|徂逝《シニヌト》1、愴然傷※[立心偏+且]《カナシミイタミタマヒ》、哀泣極甚、於v是野中(ノ)川原(ノ)史《フビト》滿、進(テ)而奉(ル)(28オ)v歌(ヲ)々曰、 其一、
 
113 耶麻鵝播爾《ヤマガハニ》、
山川爾《ヤマカハニ》也、山なる川をいふ、
 
烏志賦柁都威底《ヲシフタツヰテ》、
鴛鴦双居而《ヲシフタツヰテ》也、雌雄《メヲ》並びをるをいふ、鳥には必ゐるといひて、をるとはいはず、萬葉卷(ノ)四に、爾保杼里能《ニホトリノ》、布多利那良※[田+比]爲《フタリナラヒヰ》、ともよみたり、
 
※[こざと+施の旁]虞※[田+比]豫倶《タグヒヨク》、
副宜《タグヒヨク》也、萬葉卷(ノ)四に、草枕《クサマクラ》、※[羈の馬が奇]行君乎《タヒユクキミヲ》、愛見《ウツクシミ》、副而曾來《タクヒテソクル》、四鹿乃濱邊乎《シカノハマヘヲ》、同卷に、人毛無《ヒトモナキ》、國母有粳《クニモアラヌカ》、吾妹子與《ワキモコト》、携行而《タツサヒユキテ》、副而將座《タクヒテヲラム》、この二つのたぐひ、相そひをる意、こゝと全同じ、
 
※[こざと+施の旁]虞陛屡伊※[莫/手]乎《タクヘルイモヲ》、
所副妹乎《タクヘルイモヲ》也、妹は、造媛をさし申せり、
 
多例柯威爾鷄武《タレカヰニケム》、
誰歟將率《タレカヰニケム》也、誰か率《ヰ》て去《イニ》けんといへる也、その死《シ》せるをいふ、
 
其二
 
114 模騰渠等爾《モトコトニ》、
毎本爾《モトコトニ》也、本とは、木艸の莖をいふ言也、
 
婆那播左該騰摸《ハナハサケドモ》、
(28ウ)花者雖v開《ハナハサケトモ》也、花とは、すべて木艸の花をいふ、是をしも、木の花とのみ思ふは、非也、萬葉卷(ノ)二十に、とき/\の、波奈《ハナ》はさけども、なにすれぞ、波々登布波奈《ハヽトフハナ》の、佐吉低《サキテ》こすけむ、とあるも、鼠麹艸の花にて、草花なるをおもふべし、
 
那爾騰柯母《ナニトカモ》、
何登歟毛《ナニトカモ》也、騰《ト》は、とての意の登《ト》、下の母は、例の助語なり、
 
于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》、
愛妹之《ウツクシイモガ》也、下に、于都倶之伎《ウツクシキ》、阿俄倭柯枳古弘《アガワカキコヲ》、萬葉卷(ノ)三に、愛《ウツクシキ》、人纏而師《ヒトノマキテシ》、など見えたり、愛《ウツク》しむ妹なり、造媛をさして申せり、
 
磨※[こざと+施の旁]左枳涅來農《マタサキデコヌ》、
又咲出不v來《マタサキデコヌ》也、または再の意、去年の花は、又咲出れども、死せる妹は、再不v來といふ意也、さて花の咲を、女のゑめるに譬いへる事、古歌に例おほし、咲とは、即ゑむ也、續日本後紀の歌に有(リ)、その解にいへる言をも、併せ見べし、
 
皇太子|慨然頽歎《ナケキマシテ》、褒美曰《ホメタマハク》、美矣《ヨキカモ》悲矣《カナシカモ》、乃(チ)授(テ)2御琴(ヲ)1而|使《シメ》v唱《ウタハ》、賜2絹四疋、布二十端、綿(29オ)二※[果/衣](ヲ)1、
 
白雉四年、是歳《コトシ》太子《ヒツキノミコ》、奏請曰《マヲシタマハク》、欲3冀(クハ)遷(ムト)2于|倭京《ヤマトノミヤコノ》1、天皇不v許(タマハ)焉、皇太子乃(チ)奉(テ)v率2皇祖母(ノ)尊、間人(ノ)皇后、并(ニ)皇弟等(ヲ)1、徃(テ)居(マス)2于倭(ノ)飛鳥河邊(ノ)行宮(ニ)1、于v時公卿大夫百官(ノ)人等、皆隨(テ)而遷(ル)、由(テ)v是(ニ)天皇恨(テ)欲(テ)v捨(ムト)2於國位(ヲ)1、令《シム》v造(ラ)2宮(ヲ)於山崎(ニ)1、乃(チ)送(テ)2歌(ヲ)於間人(ノ)皇后(ニ)1曰、
 
115 ※[舟+可]娜紀都該《カナキツケ》、
小木着《カナキツケ》也、かな木は、小木の名なるよし、師説大祓詞の考に見え、宣長が後釋に詳也、小木を、馬の足に結び(29ウ)着て、ほだしとするをいふ、といへり、
頭注、○和名抄云、鉗、【加奈岐、】以(テ)v鐵束v頸也、とあるは、から文字を擧しのみにて、こゝのいにしへは、ほだしにも、小木を用ひし也と、師いへり〕
 
阿我※[舟+可]賦古麻播《アガカフコマハ》、
我飼駒者《アカカフコマハ》也、
 
此枳涅世孺《ヒキデセズ》、
引出不v爲《ヒキテセズ》也、駒にほだしを着て、引出せぬを、皇后を外にも出し給はず、ふかくかしづき給へりしに、譬させ給へるか、
 
阿我柯賦古麻乎《アガカフコマヲ》、
如(シ)2上註1、
 
比騰満都羅武箇《ヒトミツラムカ》、
人將v見歟《ヒトミツラムカ》也、皇后の、天皇の大御前を放《サカ》り奉りて、ひとり倭《ヤマト》にいでましゝは、あだし人に見え給ひつらむかと、二ほゝろを疑ひませる、たとへ言なり、
 
第二十六(ノ)卷、天豐財重日足媛《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇、【八首、齊明天皇、】
 
四年五月、皇孫|建王《タケルノミコ》、年八歳(ニシテ)薨(マス)、今城(ノ)谷(ノ)上(ニ)起《タテヽ》v殯《アカリノミヤヲ》而|收《ヲサム》、天皇|本《モト》以(テ)2皇孫(ノ)有(ルヲ)1v順、而器(30オ)重v之(ヲ)、故(レ)不v忍v哀(ニ)、傷慟《イタミタマフコト》極(テ)甚(シ)、詔(テ)2群臣(ニ)1曰、萬歳千秋之後、要《カナラズ》合2葬於|朕《ワガ》陵(ニ)1、廼(チ)作v歌曰、其一、
 
116 伊磨紀那屡《イマキナル》、
在2今城《イマキナル》1也、大和國高市(ノ)郡にあり、雄略紀に、新漢槻本《イマキツキモトノ》南(ノ)丘、と見えたる是也、萬葉集に、今木の嶺とも、今城の岳ともあり、今まゐりの韓人《カラヒト》をおかれしよりの、名なるべし、
 
乎武例我禹坏爾《ヲムレガウヘニ》、
私記(ニ)云、小山之上也、とあり、武例《ムレ》は、山をいふ、韓語《カラコト》と見えて、紀中三韓の事を記せし所には、山の字に、おほく牟禮《ムレ》と訓《ヨミ》を付たり、今來《イマキ》は、韓人の居《ヲ》りし所なれば、そこの山を、韓人の、牟禮《ムレ》と呼しより、おのづから名におひ來りて、おむれとはいひたりけむ、
 
倶謨娜尼母《クモタニモ》、
雲※[こざと+施の旁]爾毛《クモダニモ》也、※[こざと+施の旁]爾《タニ》の意は、上にいへり、ここは、なりとも、といふ意に近し、
 
旨屡倶之多々婆《シルクシタヽバ》、
驗發者《シルクシタヽバ》也、建王《タケルノミコ》を葬埋せし小山が上に、雲だに(30ウ)しるく立ば、皇孫のかたみと、見つゝしぬびまさむとの意也、釋紀に、見2殯葬之煙(ヲ)1、悲歎無v類之由也、とあれど、この時いまだ火葬あらねばあらざりけり、古傳に、人死する時は、黄泉《ヨミ》にいたるといへど、【萬葉卷(ノ)五に、男子古日が死を悲める歌に、和可家禮婆《ワカケレハ》、道行之良士《ミチユキシラジ》、末比者世武《マヒハセム》、之多敝乃使《シタヘノツカヒ》、於比弖登保良世《オヒテトホラセ》、卷(ノ)九に、丈夫之《マスラヲノ》、荒爭見者《アラソフミレバ》、雖生《イケリトモ》、應合有哉《アフベクアレヤ》、宍串《シヽクシロ》、黄泉爾將待登《ヨミニマタムト》といへり、是等黄泉國に行といふ傳也、】又一つには天《アメ》に上《ノボ》るとも傳へし也、【萬葉卷(ノ)二に、王者《オホキミハ》、神西座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマクモノ》、五百重之下爾《イホヘノシタニ》、隱賜奴《カクリタマヒヌ》、同卷、久堅之《ヒサカタノ》、天所知流《アマシラシヌル》、君故爾《キミユヱニ》、月日毛不知《ツキヒモシラニ》、戀渡鴨《コヒワタルカモ》、卷(ノ)五に、布施於吉弖《フセオキテ》、吾波許比能牟《ワレハコヒノム》、阿射無加受《アザムカズ》、多々爾率去弖《タヽニヰユキテ》、阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》、是等全く、死者は、天に上るといふ傳なり、集中多かり、】しかればこゝも、皇孫の天にのぼりしまゝを、しぬびますがゆゑに、雲をしも、かたみとはおもほしめす也、また萬葉卷(ノ)十一に、雲谷《クモダニモ》、灼發《シルクシタゝハ》、意遣《ナクサメニ》、見乍爲《ミツヽモシナム》、及直相《タゝニアフマテニ》、とあるは、相聞の歌にて、遠く放《サカ》りをる妹があたりに、立る雲をいへるなり、
 
那爾何部皚柯武《ナニカナケカム》、
何歟將嘆《ナニカナケカム》也、形見としぬびます雲だに、しるく立ならば、何か嘆く事のあらん、と詔ふ也、
 
其二、
 
117 伊喩之々乎《イユシヽヲ》、
所射鹿乎《イユシヽヲ》也、私記(ニ)云、言(ハ)被v射之鹿也、といへり、
 
都那遇※[舟+可]播坏(31オ)能《ツナグカハベノ》、
繋河邊之《ツナクカハヘノ》也、萬葉卷(ノ)十六に、所射鹿乎《イユシヽヲ》、認河邊之《トムルカハヘノ》、とあり、今舩人の言に、山をつなぐといふ言あり、さるは海上より、遙に山を認《トメ》おくをいへば、こゝにつなぐとあるも、萬葉に、認《トム》るとあるも、同意也、上影媛の歌に、しゝ自《ジ》もの、みづくへごもり、といへるを併按に、被v射鹿は、水を飲むために、河邊に行なるか、さて鹿の通ふ所の若草は、靡伏せば、路を認る意に、いひつゞけさせ給へる成べし、
 
倭柯矩娑能《ワカクサノ》、
若艸之《ワカクサノ》也、以上わかきといはん料の序也、上に引る萬葉の歌に、いゆししを、認《トム》る河邊《カハビ》の、和草の、身若可倍爾《ミノワカカヘニ》、佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》、とあるは、和《ワ》の下に、可《カ》の字を脱せるものにして、こゝと同じ序歌なり、
 
倭柯倶阿利岐騰《ワカクアリキト》、
稚有伎登《ワカクアリキト》也、
 
阿我謨婆儺倶爾《アガモハナクニ》、
我不思爾《アガモハナクニ》也、私記(ニ)云、我孫|齒《ヨハヒ》雖2童稚(ト)1、有(リ)2老成之意1、故彌々追(テ)感慕乎、といへり、幼稚の御子とは、おもほしめさず有きといふ意也、今の言に、おとなしく有けりといふ言也、
 
其三、
 
(31ウ)118 阿須箇我播《アスカガハ》、
飛鳥河《アスカガハ》也、高市(ノ)郡の川の名也、大宮所近きあたりの河なり、
 
瀰儺蟻羅※[田+比]都々《ミナギラヒツヽ》、
水霧相乍《ミナキラヒツヽ》也、【里阿《リア》の約め羅《ラ》】、萬葉集に、水霧相《ミナギラヒ》とも、天霧相《アマギラヒ》とも見えたり、霧相《キラフ》は、即(チ)字の意なり、
 
喩矩瀰都能《ユクミヅノ》、
逝水之《ユクミヅノ》也、建王の早世を、流るゝ水の速きに、譬させ給へる也、といへり、
 
阿比娜謨儺倶母《アヒダモナクモ》、
間毛無毛《アヒタモナクモ》也、二つの毛《モ》は助辭、ゆく水の、間斷なきを、御思の、ひまなきに、譬させたまへるなり、
 
於母保喩屡柯母《オモホユルカモ》、
所v念哉《オモホユルカモ》也、
 
天皇時々|唱而悲哭《ウタヒテカナシミタマフ》、
 
冬十月庚戊(ノ)朔、甲子、幸《イテマシタマフ》2紀(ノ)温湯《イテユニ》1、天皇憶(テ)2皇孫建(ノ)王(ヲ)1、愴爾悲泣《カナシミイサチテ》、乃(チ)口號曰、
 
其一
 
(32オ)119 耶麻古曳底《ヤマコエテ》、
山越而《ヤマコエテ》也、
 
于瀰倭柁留騰母《ウミワタルトモ》、
海雖v渡《ウミワタルトモ》也、二句紀(ノ)國に、いてます道のさま也、宣長が説に、是を證として、山には、越《コエ》といひ、海には、渡《ワタ》るといひて、海川に、越《コユ》といふ例はなきよしいへれど、萬葉集中、海にも川にもこゆといふ例あり、考へし、
 
於母之樓枳《オモシロキ》、
面白《オモシロキ》也、こは大御心に、愛《ウツク》しく慕《シタハ》しく、おもほしめす意、萬葉卷(ノ)十四に、おもしろき、野をなやきそね、ふるくさに、にひくさまじり、おひはおふるかね、とある初句は、こゝのおもしろきと、同意也、
 
伊麻紀能禹智播《イマキノウチハ》、
今城之内者《イマキノウチハ》也、建王を葬埋せし、今城の内、小山がうへなり、
 
倭須羅※[まだれ/臾]麻自珥《ワスラユマジニ》、
不v所v忘爾《ワスラルマジニ》也、※[まだれ/臾]《ユ》は、留《ル》に同じ、わするまじと也、私記(ニ)云、師説、難v忘之義也、といへり、
 
其二、
 
120 瀰儺度能《ミナトノ》、
水門之《ミナトノ》也、
 
于之褒能矩娜利《ウシホノクダリ》、
潮之下《ウシホノクダリ》也、今も汐《シホ》の滿來るを、あげ汐と(32ウ)いひ、汐の干行《ヒユク》を、さげ汐、またさがり汐ともいへり、
 
于那倶娜梨《ウナクダリ》、
海下《ウナクタリ》也、潮の下りゆくが如く、大御舩の、紀國へ、下り行くなり、
 
于之盧母倶例尼《ウシロモクレニ》、
後毛遙爾《ウシロモクレニ》也、くれは、遙《ハロカ》に遠《トホ》きを云言にて、萬葉卷(ノ)五に、道乃長手遠《ミチノナカテヲ》、久禮久禮等《クレクレト》、卷(ノ)十三に、奥津波《オキツナミ》、來因濱邊乎《キヨルハマビヲ》、久禮久禮登《クレクレト》、獨曾吾來《ヒトリソワハク》、など見えたり、遠く放《サカ》り行とき、後《ウシロ》の見えずなり行を、いふ言と聞ゆれば、くれは、暗《クラ》き意にやあらん、可v考、
 
飫岐底※[舟+可]※[まだれ/臾]※[舟+可]武《オキテカユカム》、
當而歟將v往《オキテカユカム》、也、建王を、殘し置給へるを、かなしみ給へる也、
 
其三、
 
121 于都倶之枳《ウツクシキ》、
愛《ウツクシキ》也、上に出たり、
 
阿餓倭何枳古弘《アガワカキコヲ》、
吾稚子乎《ワカワカキコヲ》也、吾《ワガ》とは、親む詞、わかき子は、建王の、をさなく、おましまししを、詔ふ、
 
飫岐底※[舟+可]※[まだれ/臾]※[舟+可]武《オキテカユカム》、
如2上註1、
 
詔《ノリゴチテ》2秦(ノ)大藏(ノ)造萬里(ニ)1曰、傳(ヘテ)2斯《コレノ》歌(ヲ)1、勿(レ)v令(ルコト)v忘2於(33オ)世(ニ)1、
 
六年十二月丁卯(ノ)朔、庚寅、天皇|幸《イテマス》2于|難波《ナニハノ》宮(ニ)1、天皇方(ニ)隨(ヒテ)2福信所v乞之意(ニ)1、思《オモホス》d幸(シテ)2筑紫(ニ)1、將c遣《ツカハサムト》救(ノ)軍(ヲ)u、而|初《マヅ》幸(シテ)v斯(ニ)備(タマフ)2諸(ノ)軍器(ヲ)1、是歳欲d爲2百濟(ノ)1將(ト)uv伐2新羅(ヲ)1、乃(チ)勅(シテ)2駿河(ノ)國(ニ)1造(ル)v舩(ヲ)、已(ニ)訖(テ)挽(テ)至2績麻郊《ヲミノヌニ》1之時、其舩夜中無(シテ)v故艪舳相反(レリ)、衆知(ヌ)2終(ニ)敗(ンコトヲ)1、科野(ノ)國言(ス)、蠅群(テ)向v西(ニ)飛2踰《トヒコユ》巨坂(ヲ)1、大(サ)十圍許、高(サ)至(レリ)2蒼天(ニ)1、或(ハ)知(レリ)2(33ウ)救軍(ノ)敗績之恠(トイフコトヲ)1、有2童謠1曰、  そも/\この童謡よ、荷田(ノ)東麻呂の秘説とて、あなるは、今本の文字の次《ナミ》によみて釋せり、その説しひ言のおほければ、或人の後勘を添たるあり、そも猶しひたりとおぼしき事ぞ、おほかりける、宣長が玉がつまに、この謠《ウタ》を擧て、甲子の字は、そこよりよみはじむるしるしぞとて、説をなせれど、今本に引合せて考るに、文字たらはず、その説も、うべなひがたき事ぞましれりける、いへはえに、しひ言のみ出くめれば、知るべからぬは、知らずとて有なむを、さてやまむも、口をしくて、かにかくおもひめぐらすに、今本の文字の次《ナミ》のまゝによみては、いかにとも心得がたし、既に釋紀にも、文字を置かへて釋せり、もとよりかく書紛はしたるものにや、又は後にみだれたるものにや、いづれ錯《アヤマ》れるものとおもへば、その文字をひとつ/\ものに書つけて、まづ同じ文字のみをならべみるに、烏※[こざと+施の旁]能陛烏《ヲダノヘヲ》、歌理鵝理能《カリガリノ》、騰和美倶羅賦《トワミクラフ》、といふ言の、ふたつあるに、歌理鵝理能《カリガリノ》、倶羅賦《クラフ》、といふ言は、今ひとつあり、故是等の、同じ文字を拔とりて、その餘の文字を、入れかへよみ試るに、いかによみても、甲子の二字の衍れるは、他の文字の、入みだれたるものか、または甲午の誤にて、八月甲午の朔に、(34オ)官軍唐兵のために、敗績せるしるしか、然らば甲午の二字は、歌のはじめか、終に有べき也、今右の二字を除きて、よみ試る事、左の如し、
 
122 麻比羅矩都《マヒラクツ》、
眞比羅夫《マヒラブ》、田來津《タクツ》也、眞《マ》は、例の添言、比羅夫《ヒラブ》は、後將軍、引田(ノ)臣|比羅夫《ヒラブ》也、夫《ブ》の一言を省けるは、とみに知るまじく謠《ウタ》へる也、田來津《タクツ》は、朴井田來津《エノイノタクツ》也、二年八月白江村の敗に、朴(ノ)井|田來津《タクツ》仰(テ)v天(ヲ)而誓、齧(シテ)而瞋(ル)、殺(テ)2數十人(ヲ)1於v焉戰死、と見えたる、この人なるべし、田《タ》の一言を省けるは、是も知るまじくうたへる也、この二士や、こたびの軍に、拔群《スグレ》て事をとり、勇をも振《フルヒ》たりけむ、故《カレ》諸將の中に、殊更にこの二士をあげて、うたへるものか、
 
於社幣※[こざと+施の旁]能《オサヘダノ》、
押由之《オサヘタノ》也、おさへは、萬葉卷(ノ)二十に、天皇《スメロギ》の、遠《トホ》の朝廷《ミカド》と、白縫《シラヌヒ》、筑紫《ツクシ》の國は、あたまもる、於佐敝《オサヘ》の城《キ》ぞと、聞食《キコシヲス》、とある於佐敝《オサヘ》にて、百濟のために、新羅の寇《アタ》を防く、於佐敝《オサヘ》也、田としもいへるは、下に鴈々《カリ/\》の、稻を喰ふよしを、いはむとて成べし、
 
乎※[こざと+施の旁]都倶例々《ヲダツクレヽ》、
小田作禮々《ヲタツクレヽ》也、小田作るとは、官軍の、新羅を防く、備をなせる也、作れゝといへるは、下に婆《バ》の助辭を加へて、心得る格也、古歌の長歌には、この例おほし、
 
鳥※[こざと+施の旁]能陛烏《ヲタノヘヲ》、
小田之上乎《ヲタノヘヲ》也、
 
歌理鵝理能《カリガリノ》、
雁々之《カリ/\ノ》也、かり/”\(34ウ)と重ねたるは、おほくの鴈の、聚れるをいふなり、是は、唐兵の、襲來れるにあたれり、
 
騰和美倶羅賦《トワミクラフ》、
撓喰《タワメクラフ》也、多と登は、通しいふ、常の事也、小田の上に、多くの鴈の聚來て、稻をたわめ喰ふ也、是は官軍の、敗績せる兆ならん、
 
烏※[こざと+施の旁]能陛烏《ヲタノヘヲ》、
如2上註1、
 
歌理鵝理能《カリガリノ》、
如2上註1、
 
騰和美倶羅賦《トワミクラフ》、
如2上註1、
 
歌理鵝理能倶羅賦《カリガリノクラフ》、
雁々之喰《カリ/\ノクラフ》也、かく同じ言を、再三かさねいふは、言の切(チ)なるが故也、
 
歌理能騰與美《カリノトヨミ》、
雁之響《カリノトヨミ》也、とよみの言は、上に出、鴈の鳴動《ナキトヨ》み來りて、押田《オサヘダ》の稻を、喰あらせる也、是は唐兵の襲來りて、官軍の拔れし、兆とこそおぼゆれ、
 
七年秋七月甲午(ノ)朔、丁巳、天皇崩(マフ)2于朝倉(ノ)宮(ニ)1、冬十月癸亥(ノ)朔、己巳、天皇(ノ)之喪歸(テ)(35オ)就《ツケリ》2于海(ニ)1、於v是皇太子、泊(リテ)2於一所(ニ)1、哀2慕(マシテ)天皇(ヲ)1、乃|口號曰《ウタヒタマハク》、
 
123 枳瀰我梅能《キミカメノ》、
君之目之《キミカメノ》也、目《メ》とは、見る事のよし、上に云、
 
姑褒之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《コホシキカラニ》、
戀敷隨爾《コヒシキカラニ》也、比《ヒ》と保《ホ》と通へば、こほしきは、こひしき也、萬葉卷(ノ)五に、古保之枳《コホシキ》、故保斯苦《コホシク》、など見えたり、しき、しくは、語(ノ)辭、からには、ながらにの略語、萬葉集中、おほく、隨の字をあてたり、又隨意の二字、隨の一字をも、まにまとよめるあり、彼是を併せて、ながら、或はからは、まにま、或はまゝに、といふと、同意なるを知べし、こゝも、戀しきまゝにとこゝろ得て、違はじよ、
 
婆底々威底《ハテヽヰテ》、
泊而居而《ハテヽヰテ》也、私記(ニ)云、泊(テ)v舩(ヲ)居(ル)2於海浦(ニ)1也、といへり、泊とは、舩の到り上るをいふ言なれば、前文に、歸(テ)就2于海(ニ)1、泊2於一所(ニ)1、といへる、即是にて、暫(ク)同じ所に止り居給へるを、かくは詔ませる也、
 
※[舟+可]矩野姑悲武謀《カクヤコヒムモ》、
如是哉將戀毛《カクヤコヒムモ》也、毛《モ》は、例の助辭、
 
枳瀰我梅弘報梨《キミガメヲホリ》、
君之目乎(35ウ)欲《キミカメヲホリ》也、目《メ》とは、見るをいひ、ほりは、欲《ホリ》也、君を見まくほりすといふ意、萬葉におほき詞也、以上契冲が所v註、いと詳なり、
 
第二十七(ノ)卷、 天命開別《アメノミコトヒラカスワケノ》天皇、 【五首、天智天皇、】 
 
九年夏四月癸卯(ノ)朔、壬申、夜半之後、災(アリ)2法隆寺(ニ)1、一屋(モ)無(シ)v餘《ノコリ》、火雨雷震、五月童謠(ニ)曰、
 
124 于知波志能《ウチハシノ》、
打橋之《ウチハシノ》也、神代紀に、於《ニ》2天安河《アマノヤスノカハ》1亦《モ》造打橋《ウチハシツクラム》、とあり、萬葉卷十に、はたものの、※[足+搨の旁]木《フミキ》もちゆきて、天河《アマノカハ》に、打橋わたす、君が來んため、源氏物語枕册子等にも見えたり、何處にもとり移して渡す橋なれば、移し橋也と、宜長いへり、
 
都梅能阿(36オ)素弭爾《ツメノアソビニ》、
頭之遊爾《ツメノアソヒニ》也、萬葉卷(ノ)九に、大線之《オホハシノ》、頭爾家有者《ツメニイヘアラハ》、とあり、催馬樂、竹河に、太介加波乃《タケカハノ》、波之乃川女那留也《ハシノツメナルヤ》、とうたへれば、萬葉の頭の字をも、つめと訓《ヨム》べく、こゝの都梅《ツメ》は、頭の義なるを知るべし、あそびは、心をやる言のよし、上に云(ヘ)り、
 
伊提麻栖古《イテマセコ》、
出座子《イテマセコ》也、子《コ》は、親《シタ》しみ睦《ムツマ》しむ詞、ここは、朋友を誘ふなり、
頭注、○ますといふ言、後にはもはら崇《アガメ》詞にて、いでましといへば、天皇の行幸をいふ事となりぬれど、上古は、しかにはあらず、萬葉集にも、妹はいますなどよみて、常言にも用ひたり、猶萬葉卷(ノ)三の解にもいへり、可2併考1、
 
多麻提能伊※[革+卑]能《タマテノイヘノ》、
玉代之家之《タマテノイヘノ》也、玉代は、大和(ノ)國高市郡の地名、仁徳紀、四十年の條に、阿我能胡《アガノコ》乃(チ)献(テ)2己(ガ)之私地(ヲ)1、請(フ)v免v死(ヲ)、故納(テ)2其地(ヲ)1赦(ス)2死罪1、是(ヲ)以(テ)號(テ)2其地(ヲ)1曰(フ)2玉代《タマテト》1、と見えたり、攝津(ノ)國住吉のあたりにも、今猶|玉手《タマテ》といふ地名有、法隆寺の邊にも、さる地名有にや、可v尋、家とは、即(チ)法隆寺をさしていへるか、
 
野※[革+卑]古能度珥《ヤヘコノトニ》、
八重込之外爾《ヤヘコミノトニ》也、こは、込《コミ》の略語、今の言にも家の多く立|重《カサ》なれる處を、家込《イヘコミ》といへり、【人ごみなといふも、同じ意也、】、前文に、一屋無v餘、とあれば、家ごみなる事知るべし、又按に、やへ古は、八重加支《ヤヘカキ》の、略轉にやあらん、
 
伊提麻志能《イテマシノ》、
出座之《イテマシノ》也、
 
倶伊播阿羅珥茄《クイハアラニゾ》、
悔者不v有曾《クイハアラニゾ》也、阿羅爾《アラニ》は、萬葉に、不v知を、志良爾《シラニ》、不v飽を、阿加爾《アカニ》、後の歌に不v得を、えにといへると同例にて、くゆる事はあらずぞ、といふ意なり、
 
伊提(36ウ)麻西古《イデマセコ》、
如2上註1、
 
多麻提能※[革+卑]能《タマテノヘノ》、
如2上(ノ)註1、伊《イ》の言を省けるは、いさゝか上と、言をかへたる也、是ぞ古歌の例なる、
 
野※[革+卑]古能度珥《ヤヘコノトニ》、
如2上註1、かく歌へるは、火災あるべければ、家込《イヘコミ》の所を、外《ト》に出て、遁れよとの、さとしなるべし、
 
十年春正月是月以(テ)2大錦下(ヲ)1、授2佐平余自信沙宅紹明(ニ)1、云云、以(テ)2小山下(ヲ)1、授(ク)2餘達率等五十餘人(ニ)1也、童謠曰、
 
125 多致播那播《タチバナハ》、
橘者《タチハナハ》也、釋紀(ニ)云、以(テ)2異國(ノ)人(ヲ)1喩(フ)v橘(ニ)也、といへり、
 
於能我曳多曳多《オノガエタエダ》、
己之枝枝《オノカエタエタ》也、
 
那例々騰母《ナレヽトモ》、
雖v所v成《ナレヽトモ》也、なるとは、實《ミ》を結ぶをいひて、譬たる意は、彼異國(ノ)人の、或(ハ)閑(ヒ)2兵法(ニ)1或(ハ)(37オ)解v藥(ヲ)、或(ハ)明2五經(ヲ)1、或(ハ)閑(ヒ)2於陰陽(ニ)1て、その才藝の、各々なれる業の別なるを、かくはいへるなるべし、
 
※[こざと+施の旁]麻爾農矩騰岐《タマニヌクトキ》、
玉爾貫時《タマニヌクトキ》也、釋紀(ニ)云、言(ハ)五月五日、爲v付2藥玉(ヲ)1採v之義也、といへり、萬葉卷(ノ)五に、吾屋前之《ワカヤトノ》、花橘乃《ハナタチハナノ》、何時毛《イツシカモ》、珠貫倍久《タマニヌクヘク》、其實成奈武《ソノミナリナム》、とあり、おなじ意なり、
 
於野兒弘※[人偏+爾]農倶《オヤジヲニヌク》、
同緒爾貫《オヤシヲニヌク》也、おやじは、同の古言也、萬葉にもしかあり、その才藝は、おの/\別なれども、榮爵に預る事は同じくて、共に朝廷の臣列に貫せるを、たとへたる也、
 
十二月癸亥朔、乙丑、天皇崩(ス)2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉|殯《アガリス》2于新宮(ニ)1、于v時童謠曰、
 
其一、
 
126 美曳之弩能《ミエシヌノ》、
眞吉野之《ミヨシヌノ》也、曳《エ》と與《ヨ》と、相通ふ言、奴《ヌ》は、野の古言也、
 
曳之弩能阿喩《エシヌノアユ》、
(37ウ)吉野之細鱗魚《ヨシヌノアユ》也、吉野河なる鮎《アユ》也、神武紀に、及(テ)2縁v水西行(ニ)1、亦有(リ)2作(テ)v梁取v魚(ヲ)者1、天皇問v之、對曰、臣(ハ)是|苞苴擔之子《ニヘモチカコナリ》、此(ハ)則|阿太養※[盧+鳥]部《アタノウカヒヘ》之始祖也、とあるは、吉野川にて、鮎を取れる者也、それより後、萬葉集の歌には、吉野川の年魚を、御食津物《ミケツモノ》に奉るよし、見えたり、
 
阿喩擧曾播《アユコソハ》、
鮎乞者《アユコソハ》也、乞《コソ》は助辭、
 
施麻倍母曳岐《シマヘモエキ》、
島邊毛吉《シマベモエキ》也、川にも嶋《シマ》といへるは、川島(ノ)皇子と申(ス)御名あり、萬葉卷(ノ)十三に、島傳《シマツタヒ》、雖見不飽《ミレドモアカニ》、三吉野乃《ミヨシヌノ》、瀧動々《タキモトヾロニ》、落白波《オツルシラナミ》、とあり、鮎《アユ》こそは、嶋邊《シマベ》に居るがよろしきを、といふ意、こそをきにてむすふは、古歌の格也、
 
愛倶流之衛《ヱクルシヱ》、
嗚呼苦惠《アヽクルシヱ》也、愛《ヱ》は、阿々《アヽ》といはんが如し、下の惠《ヱ》は助語、神武紀の、辭被惠禰《シヒヱネ》、※[人偏+嚢]被惠禰《タヒヱネ》の註に、委しくいへるが如し、
 
奈疑能母騰《ナギノモト》、
水葱下《ナキノモト》也、なぎは、今水あふひといふものゝよし、萬葉卷(ノ)三、殖子水葱《ウヱコナギ》の、下註に云(ヘ)り、和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、※[草がんむり/(索+攵)]【胡谷反、】菜、生2水中(ニ)1、可v食者也、楊氏漢語抄(ニ)云、水葱、【奈木】、一(ニ)云、※[草がんむり/【索+攵】]菜、とあり、
 
制利能母騰《セリノモト》、
芹之下《セリノモト》也、和名抄(ニ)云、陸詞切韻(ニ)云、芹【音勤】、菜、生2水中(ニ)1也、本艸(ニ)云、水芹、【下渠斤(ノ)切、和名、世里、】味甘平無v毒、一名(ハ)水英、と見えたり、
 
阿例播倶流之衛《アレハクルシヱ》、
吾者苦惠《アレハクルシヱ》也、島邊《シマベ》こそ、鮎の居《ヲ》るべき所なるに、水葱が下、芹がもとに、鮎のある(38オ)は、くるしかるべき也、さるは大友(ノ)皇子の、處地をはなれて、山中に入て縊《クビレ》れ給ふ、さとしなるべし、
 
其二、
 
127 於瀰能古能《オミノコノ》、
臣之子之《オミノコノ》也、おみとは、宮づかへ人を云(フ)言のよし、上に註、
 
野陛能比母騰倶《ヤヘノヒモトク》、
八重之紐解《ヤヘノヒモトク》也、萬葉卷(ノ)四に、一重《ヒトヘ》のみ、妹が結はむ、帶をすら、三重《ミヘ》結《ムスブ》べく、吾身はなりぬ、とあり、八重《ヤヘ》といへるは、彌重《イヤヘ》にて、甚しくいはむとて也、さてそを解《トク》とは、官軍の諸將、大友皇子を、八重《ヤヘ》に取圍めるを、その圍を破り解んとするに、たとへたるなるへし、
 
比騰陛多爾《ヒトヘタニ》、
一重太爾《ヒトヘタニ》也、だにの言は、僻按を、上に註せり、
 
伊麻柁藤柯禰波《イマタトカネバ》、
未v解者《イマタトカネハ》也、いまだとかぬにといふ言にて、萬葉にいと多き助辭《テニハ》也、官軍のかこみは、いまだ一重だに解ぬに、といふ意也、
 
美古能比母騰矩《ミコノヒモトク》、
皇子之紐解《ミコノヒモトク》也、皇子の軍の、速《スミヤカ》に敗れたるを、譬たる也、
 
(38ウ)其三、
 
128 阿箇悟馬能《アカゴマノ》、
赤駒之《アカゴマノ》也、
 
以喩企婆々箇屡《イユキハヽカル》、
伊行憚《イユキハヽカル》也、伊《イ》は、そへ言、憚《ハヽカル》は、行くべき駒の、行難《ユキガタク》するをいふ言、萬葉卷(ノ)三、不盡(ノ)山の歌に、白雲母《シラクモヽ》、伊去波伐加利《イユキハハカリ》、とあり、その意を、考併すべし、
 
麻矩儒播邏《マクズハラ》、
眞葛原《マクズハラ》也、
 
奈爾能都底擧騰《ナニノツテコト》、
何之傳言《ナニノツテコト》也、つたへ言するは、何事ぞといふ意、
 
多柁尼之曳鷄武《タタニシエケム》、
直爾志將v吉《タヽニシエケム》也、赤駒の行憚るが如く、憚て人傳に傳言《ツタヘゴト》せんよりは、直《タヽチ》にいひ寄給ひなば、和睦し拾ふ事もあらむにと、いふ意と聞ゆ、この歌、萬葉卷(ノ)十二、相聞の歌に入たり、以上三首の童謠の意、推按かくのごとし、後人なほよく考てよ、
 
  寛政十一年七月、於2山城(ノ)國愛宕郡眞葛原之旅寓(ニ)1考畢、
 
                      荒木田神主久老 花押
 
曰本紀歌解槻乃落葉下卷 終
 
歌は神代の神の神語されは上つ代のまことの道をしらんとおもはゝ歌の意をうまくとくへきことなるを世々の物しり人たちたゝ文字と文章とをのみくはしく論ひて歌をはおろそかに物せしはいかなる心そやわか父神主(1オ)そを常にいきとほろしくおもひ給ひて此紀の歌をちうさくせられつる也さるをゆゑありて久しく人の家にうつもれて世にしれる人なかりしをこたひ京の長谷川菅緒ぬしい師恩を報むとてさくりいたして板にゑ(2オ)らするは子の身にとりては神路の山のうへもなき神幸なりけりさてもしのあやまりともをもくはしくかむかへ正しく物すへきことなれと久しくうもれたる事なれは一日もはやく公にせんとて菅緒ぬし(2ウ)もろともこゆるきのいそきて大かたに正してゑらせつる也見ん人あしきはあしとあらためよきはよしとうへなひてそをなとかめそかくいふは其神主の家つける子荒木田久守
  もろこしにおひぬやまとの櫻木に(3オ)槻の落葉のにほふうれしさ
 文政元年十一月名古屋の里の旅寓にしるす
(3ウ)                    五十槻園藏板
 
              〔2009年12月26日(土)午後12時50分、入力終了〕
              〔2010年8月2日(月)午後16時3分、修正終了〕
  第四 琴歌譜
 
(504) 琴歌譜    □は傍書ヲ本文中ニ加ヘタル印
          【】は衍字ヲ消シタル印
諸音樂之具、種類雖v多、求2其雅旨1、莫v過2琴歌1、琴歌相須、猶〔□で囲む〕如2伉儷1、是以、絃歌相違遠、則一節之中、隔成2胡越1、絃歌相和、則四坐之上、同2於水乳1、禮云、樂者中和之紀、亦斯之謂歟、故今雙2陳琴歌之調1、散述2曲絃之圖1、以v朱爲v絃、以v墨爲v歌、乃禀2先【而】師1、是非2新意1、又依2點句之形1表2歌聲1、其句者振顔強發之聲、此有2五種1、點者忽短衝止之聲、此有2二種1、雙者共彈織難之節、丁者徐隨微息之聲也、又以2甲乙六干1配2於六絃1、依v次當v絃、以別2絃名1、【外一絃爲v甲、二絃爲v乙、三絃爲v丙、四絃爲v丁、五絃爲v戊、六絃爲v已、】其指絃相當依v圖可v見也、琴歌之趣大※[氏/一]《【マヽ】》如v圖、但其委曲須2師範1耳、
茲都歌、
美望呂爾《ミモロニ》、都久也多麻可吉《ツクヤタマカキ》、都吉〔□で囲む〕《ツキ》【譜によりて加ふ】安萬須《アマス》、多爾可毛與良牟《タニカモヨラム》、可美乃美也碑等《カミノミヤヒト》、
(505)【御室《みもろ》に、築《つ》くや玉垣、築餘す、誰《た》にかも依らむ、神の宮人】
 【譜】
右古事記云、大長谷若建命坐2長谷朝倉宮1治2天下1之時、遊2行美和河1之時、邊有2洗v衣童女1、其容姿甚麗、天皇問2其童女、汝者誰子1、答曰、己名謂2引田赤猪子1、天皇詔2汝不v嫁v夫今將1v召、故其女仰2待天皇之命1既經2八十歳1、天皇已忘2先事1徒過2盛年1、而賜v歌云、時赤猪子之涙泣※[半/心]濕2其所v服之丹摺袖1、答2其大御歌1而詠2此歌1者、此袁記《【マヽ】》與v歌異也、
一説云、彌麻貴入日子天皇々子卷向玉城宮御宇、伊久米入日子伊佐知天皇、與2妹豐次入日女命1登2於大神美望呂山1、拜2祭神前1作歌者、此袁記《【マヽ》似2正説1、
歌返
之萬久爾乃《シマクニノ》、安波知乃《アハチチノ》、美波良乃之乃《ミハラノシノ》、佐禰己自爾《サネコジニ》、伊己之毛知支天《イコジモチキテ》、安佐川萬乃《アサツマノ》、美爲乃宇へ爾《ミヰノウヘニ》、宇惠川也《ウヱツヤ》、安波知乃《アハチノ》、美波良乃之乃《ミハラノシノ》、
【島國の、淡路の、三原の篠、さ根|掘《こ》じに、い掘じ持ち來て、朝妻の、御井の上に、植ゑつや、淡路の、三原の篠】
難波高津宮御宇大鷦鷯天皇納2八田皇女1爲v妃、于v時、皇后聞大恨、故天皇久不v幸2八田皇女所1、仍以戀2思若姫1之、於d平群與2八田山1之間u作2是歌1者、今校(506)不v接2於日本古事記1、
 【譜】
一説云、皇后息長帶日女越2那羅山1望2見葛城1作歌者、
一古事記云、譽田天皇遊2※[獣偏+葛]淡路島1時之人歌者、
片降
由布之天乃《ユフシテノ》、可美可佐伎奈留《カミカサキナル》、伊奈乃保乃《イナノホノ》、毛呂保爾之弖與《モロホニシテヨ》、許禮知布毛奈之《コレチフモナシ》、
【木綿垂の、神が崎なる、稻の穗の、諸穗にしてよ、是|云《ちふ》もなし】
 編者いふ、許禮知布は枯落穗《かれちほ》の訛、奈之は奈久の誤か、
 【譜】
高橋扶理
美知乃倍乃《ミチノヘノ》、波利止久奴伎止《ハリトクヌキト》、之奈女久毛《シナメクモ》、伊不奈留可毛與《イフナルカモヨ》、波利止久奴支止《ハリトクヌキト》、
【道の邊の、榛と櫟と、しなめくも、いふなるかもよ、榛と櫟と】
 【譜】
(507)短埴安扶理
乎止米止毛《ヲトメトモ》、乎止女佐比須止《ヲトメサヒスト》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多毛止爾萬伎弖《タモトニマキテ》、乎止女佐比須毛《ヲトメサヒスモ》、
【少女ども、少女さびすと、唐玉を、袂にまきて、少女さびすも】
 【譜】
伊勢神歌
佐者可流《サハカル》、於保比留女乃《オホヒルメノ》、佐支川可比《サキツカヒ》、與々余々《ヨヨヨヨ》、佐支川可比《サキツカヒ》、佐支川可比《サキツカヒ》、伊久也奈支《イクヤナキ》、伊久也奈支《イクヤナキ》、佐支川可比《サキツカヒ》、
【さはかる、大日〓《おほひるめ》の、先使《ききつかひ》、よゝよゝ、先使、先使、生柳《いくやなぎ》、生柳、先使、】
 【譜】
天人扶理
阿米比止乃《アメヒトノ》、川久利之多乃《ツクリシタノ》、伊之多波《イシタハ》、伊奈惠《イナヱ》、伊之多波《イシタハ》、於乃乎川久禮波《オノヲツクレハ》、可和良止《カワラト》、由良止奈留《ユラトナル》、伊之多波《イシタハ》、伊奈惠《イナヱ》、伊之多波《イシタハ》、伊奈惠《イナヱ》、
【天人の、作りし田の、石田は、いなゑ石田は、已男《おのを》作れば、かわらと、ゆらと鳴る、石田は、いなゑ、石田は、いなゑ】
 【譜】
(508)繼根扶理
川支禰布《ツキネフ》、也末之呂可波爾《ヤマシロカハニ》、安支川波奈布久《アキツハナフク》、波奈布止毛《ハナフトモ》、安可波之毛乃爾《アカハシモノニ》、安波須波也末之《アハスハヤマシ》、
【つぎねふ、山城川に、秋つ花ふく、花ふとも、吾《あ》が愛者《はしもの》に、逢はずは止まじ】
 【譜】
庭立振
爾波爾多都《ニハニタツ》、布々支乃乎止利《フフキノヲトリ》、之都伊豆伊川良《シツイツイツラ》、伊止古世利可世《イトコセワカセ》、安可止支止《アカトキト》、之良爾和加禰波《シラニワカネハ》、之川伊川伊川〔二字□で囲む〕《シツイツイツ》【譜によりて補ふ】良《ラ》、宇知於己世乎止利《ウチオコセヲトリ》、
【庭に立つ、法吉《ふゝき》【鶯の古名ならむ】の雄鳥、しついついつら、【鶯の鳴聲をかたどりて囃詞とせしならむ】愛子兄《いとこせ》我見、曉《あかとき》と、知らに我が寢ば、しついついつら、打ち起せ雄鳥】
 【譜】
阿夫斯弖振
阿布之弖比利比《アフシテヒリヒ》、多久佐波奴毛乃乎《タクサハヌモノヲ》、宇萬良爾乎世《ウマラニヲセ》、乎者可支美《ヲハカキミ》、宇萬良爾禰也《ウマラニネヤ》、
【あふして拾《ひり》ひ、たくさはぬものを、旨《うま》らに食《を》せ、伯母が君、旨らにねや】
(509) 【譜】
山口扶理
夜萬久知《ヤマクチ》、於保須可波良乎《オホスカハラヲ》、宇之波布武《ウシハフム》、爲者不牟止毛與《ヰハフムトモヨ》、多美奈布美曾禰《タミナフミソネ》、
【山口、大菅原《おほすがはら》を、牛は踏む、猪は踏むともよ、民な踏みそね】
 【譜】
大直備歌 與2片降1同歌、唯音節別耳、
 【譜】
正月元日余美歌
蘇良美豆《ソラミツ》、夜 止乃久爾波《ヤマトノクニハ》、可旡可良可《カムカラカ》、阿利可保之支《アリカホシキ》、久爾可良可《クニカラカ》、須美可保之支《スミカホシキ》、阿利可保之支久爾波《アリカホシキクニハ》、阿伎豆之萬也萬止《アキツシマヤマト》、
【空見つ、大和の國は、神隨《かむがら》か、有《あり》が欲しき、國隨か、住《すみ》が欲しき、有が欲しき國は、秋津島大和】
卷向日代宮 御宇大帶日天皇久御2坐於日向國1、厭2邊夷之處1、懷2倭國之宮1、斯乃述2眷戀之情1作2懷舊之歌1、
 【譜】
字吉歌
(510)〔写真有り〕近衛公爵家藏
(511)美奈蘇曾久《ミナソソク》、於美能遠等米《オミノヲトメ》、保※[こざと+施の旁]理刀利《ホタリトリ》、可多久刀禮《カタクトレ》、【一説云、刀良左禰《トラサネ》】茲多何太久《シタカタク》、夜可多久刀禮《ヤカタクトレ》、保太利刀良須古《ホタリトラスコ》、
【水灌ぐ、臣の少女、秀※[缶+尊]《ほたり》執り、堅く執れ、【一説云、執らさね、】下かたく、彌堅く執れ、秀※[缶+尊]執らす子】
 
古事記云、大長谷惹達命坐2朝倉之宮1治2天下1之時、長谷之百枝槻下爲2豐樂1、是日亦【卷《春》】日之遠杼比賣獻2大御酒1之時、天皇作2此歌1、一云、大長谷天皇未v即位間、初欲v殺2兄坂合部黒日子皇子〔二字□で囲む〕與甥目弱王1、此時二王子遁行到2於葛木津【守】村大臣家1匿、天皇遣v使乞、臣固爭不v出、二王子與大臣並可《【マヽ】》v殺、此時大臣女子韓日女娘、注云即天皇妃也、見2真父被1v殺而、即哀傷作歌者、
 【譜】
片降
阿良多之支《アラタシキ》、止之乃波之女爾《トシノハシメニ》、可久之己曾《カクシコソ》、知止世乎可禰弖《チトセヲカネテ》、多乃之支乎倍女《タノシキヲヘメ》、
【新しき、年の始に、斯くしこそ、千歳をかねて、樂しきをへめ】
 【譜】
長埴安扶理
(512)可波可美乃《カハカミノ》、可波々利乃支乃《カハハリノキノ》、宇止介止毛《ウトケトモ》、都伎之禰毛知波《ツキシネモチハ》、宇可良止曾毛布《ウカラトソモモフ》、
【川上の、川榛の木は、疎けども、舂米《つきしね》持は、親族《うから》とぞ思ふ】
 【譜】
自餘小歌同2十一月節1
七日阿遊※[こざと+施の旁]扶理
多可波之乃《タカハシノ》、美可爲乃須美豆《ミカヰノスミツ》、阿良萬久乎《アラマクヲ》、須久爾於伎弖《スクニオキテ》、伊弖未久乎《イテマクヲ》、須久爾於伎天《スクニオキテ》、奈爾可奈可許々爾《ナニカナカココニ》、伊天々乎留《イテテヲル》、須美豆《スミツ》、
【高橋の、みか井の清水《すみづ》、あらまくを、すぐにおきて、いでまくを、すぐにおきて、何か汝が此處に、出でてをる、清水】
大帶日子天皇々后【到の一字脱か】尾張國、孕任忽焉臨v産、以2使者1奏天皇1、即時遣2使者1召上到2春日穴杭邑1所v生2王子【稚帶日子太子1、】天皇大歡※[立心偏+喜]即歌者、
 【譜】
 
伊須乃可美《イスノカミ》、布留乃也末乃《フルノヤマノ》、久末可都米《クマカツメ》、旡都萬呂可毛之《ムツマロカモシ》、可可都米《カカツメ》、夜豆萬呂可毛之《ヤツマロカモシ》、旡都萬之美《ムツマシミ》、和禮許曾許々爾《ワレコソココニ》、伊天々乎禮須美都《イテテヲレスミツ》、
(513)【石《いす》の上、布留の山の、熊がつめ、むつまろかもし、鹿がつめ、やつまろかもし、むつましみ、われこそ此處に、出でて居れ清水】
 【譜】
阿佐可利爾《アサカリニ》、奈世可止保理之《ナセガトホリシ》、波之乃佐伎《ハシノサキ》、久比乎與呂之美《クヒヲヨロシミ》、可比乃延乃《カヒノエノ》、都伎乎與呂之美《ツキヲヨロシミ》、和禮許蘇許々爾《ワレコソココニ》、伊弖天乎禮須美都《イテテヲレスミツ》、
【朝獵に、汝兄《なせ》が通りし、橋の前《さき》、杭を宜しみ、かひの柄の、つきを宜しみ、われこそ此處に、出でゝをれ清水】
 【譜】
十六日節酒坐歌二
許乃美伎波《コノミキハ》、和可美支奈良須《ワカミキナラス》、久之乃可美《クシノカミ》、止許與爾伊萬須《トコヨニイマス》、伊波多々須《イハタヽス》、須久奈美可美乃《スクナミカミノ》、止余保支《トヨホキ》、保吉《ホキ》〔二字□で囲む〕【譜によりて補ふ】毛止保之《モトホシ》、可无保支《カムホキ》、保支《ホキ》〔二字□で囲む〕【同上】久留保之《クルホシ》、萬川利己之美伎曾《マツリコシミキソ》、阿佐須乎西《アサスヲセ》、佐佐《ササ》、
【この御酒は、我が御酒ならず、酒《くし》の神、常世に坐す、右《いは》立たす、少御神《すくなみかみ》の、豐壽ぎ、壽ぎもとほし、神壽ぎ、壽ぎ狂ほし、祭り來し御酒ぞ、乾《あ》さず食《を》せ、ささ】
 【譜】
許乃美支乎《コノミキヲ》、可美介无比止波《カミケムヒトハ》、曾乃川々美《ソノツツミ》、字須爾太天《ウスニタテ》、宇太比川々《ウタヒツツ》、可美(514)介禮可《カミケレカ》、毛之《モシ》、未比川々《マヒツツ》、可美介禮可《カミケレカ》、毛之《モシ》、己乃美支乃《コノミキノ》、安也爾宇太々乃之《アヤニウタタノシ》、佐々《ササ》、
【此の御酒を、釀《か》みけむ人は、其の鼓、臼に立てゝ、歌ひつゝ、釀みけれか、もし、舞ひつゝ、釀みけれか、もし、此の御酒の、あやに轉樂《うたたの》し、ささ】
 【譜】
茲良宜歌
阿志比支乃《アシヒキノ》、夜萬多乎豆久利《ヤマタヲツクリ》、夜萬多可良《ヤマタカラ》、【一説云、也萬多可美《ヤマタカミ》、】志多比乎和之西《シタヒヲワシセ》、【一説云|布須世《フスセ》】志多止比爾《シタトヒニ》、利可止布豆萬《ワカトフツマ》、志多奈支爾《シタナキニ》、和可奈久豆萬《ワカナクツマ》、【一説云、可多奈支爾《カタナキニ》、和可奈久豆萬《ワガナクツマ》】許曾許曾伊毛爾《コソコソイモニ》、夜須久波多布例《ヤスクハタフレ》、
【足引の、山田を作り、山田から、【一説云、山高み】 下樋を走《わし》せ、【一説云、伏《ふす》せ】 下訪ひに、我が訪ふ妻、下泣きに、我が泣く妻、【一説云、片泣に、我が泣く婁】 昨夜《こそ》こそ妹に、安く膚觸れ】
 【譜】
酒坐歌二縁記
日本記《【マヽ】》云、磐余稚櫻宮御宇息足日※[口+羊]天皇之世、命2武内宿禰1、從2品※[こざと+施の旁]皇子1、令v拜2角鹿笥飯大神1、至2自角鹿1、足日皇太后宴2太子於大殿1、皇太后擧v※[酉+觴の旁]、以壽2于太(515)子1、因以歌之、
茲良宜歌縁
日記《【マヽ】》曰、遠明日香宮御宇雄朝孺稚子宿禰天皇代、立2木梨輕皇子1爲2太子1也、※[【女/女】+干]2聞母妹輕大娘皇女1、乃悒懷少息、仍歌者、今案古事記云、日本記《【マヽ】》之歌與2此歌1尤合2古記1、但至2許曾己曾之句1、古記不v重耳、【古歌抄云、雄朝豆萬稚宿禰天皇與2衣通日女王1、寐時作歌者、】
 
琴歌譜一卷   安家書
  件書希有也、仍自2大歌師前丹波掾多安樹手1傳寫 天元四年十月廿一日、
 
右琴歌譜高野氏の囑により假名を加へ、訓を註す、原本歌詞は題目の直下に細字二行に記せり、今閲讀の便の爲に別行大字とせり、譜は繁にして今理解しかぬる點多きによりて略せり、但歌詞の誤脱を譜によりて補正すべき所多少存せり、それらはとりて註記せり、訓の註はなほ明かならぬ所少からず、疑を存して、世の識者の教を俟つ、
 昭和二年三月三日
                          山田孝雄
 
           〔2009年12月31日【木】午前10時2分、入力終了〕
 
『日本歌謡集成 卷一 上古編』高野辰之編、1989.3.20【原版1942年】、東京堂出版
 
(1)解説
         第一 古事記歌通釋
 
 改めて古事記と日本書紀との成立上の差異や、價値の多少を論ずべき場合でないが、古來日本書紀ばかりが尊重せられたこと.本居宣長が賀茂眞淵の旨をうけて古事記の研究を大成してから、反動的に古事記の重んぜられてゐることだけは述べて置きたい、宣長が三十五年間にわたる古事記三卷の研鑽は、彼の古事記傳四十四卷と也、古事記の含む歌一百十一首も亦博引旁證遺漏無き迄に解き明かされた、隨て其の一首の爲に幾葉の紙面が費されてもあつて、歌詞を擧ぐるを主とし解義を從とする此の歌謠集成の趣旨には合致しない處がある、
 凡そ古事記傳を拔萃して要領を得たものは、吉岡徳明の古事記傳略十二卷で、これには宣長の所説以外に傾聽すべき説述も添加せられてゐる、よつて專ら此の書に就いて歌詞の解義に關する部分を抄出して、古事記歌通釋の基礎とした、
 古事記の歌の解義には早く契沖の厚顔抄があり.眞淵に古事記和歌略注があり.其の門人の内山眞龍に次に述ぶる古事記詩歌註がある、又後れては橘守部に稜威言別がある、此等を參照して異説の紹介に力を須ひるも亦決して無用の業でないが、必ず多岐繁冗に陷るべきを虞れて,これには徳明の抄出せる釋義の他には稜威言別から多少採ることに止めた、但他の三書にも創見は存するのであれば、特に古謠の攻究に心を潜められる方はいふ迄もなく此等の書を繙かるべきである、
 挿入した寫眞版二葉は著名な眞福寺本で、應安年中の寫に係るもの、現存古事記中最も古く、明治三十八年國寶に(2)指定されたものである、
 
         第二 古事記謠歌註
 
 賀茂眞淵の門人、内山眞龍の著、此の書の特長は歌の構造を解明せる點に存する、すなはち歌の句毎に漢字譯と略解を加へ、終に語句の斷續を明かにして、幾段幾句となして示したものである、著作年代は明かでないが、文化九年其の著日本紀類聚解を正親町公明に勸められて朝廷に献上した前後とでも見るべきであらうか、此の古事記謠歌註は曾て刊行されたことがなく、著者自筆本の存否も不明で、わづかに平田門下の神田息胤の手寫によつて傳へられたものである、最も厚顔抄と古事記傳とに導かれてゐるらしく、語句の釋義は決して精到の域に進んでゐないが、歌格即ち歌の構造を究明したことは、前人の研究に幾歩をか進めたことであつた、歌格は橘守部の長歌撰格短歌撰格の二著が名高く、眞龍の此の書は全く世に埋れてゐたのである、眞能が八十といふ長壽で歿したのは文政二年の八月二十二日であり、守部が長歌撰格を草したのは此の年の三月であつた、さうして撰格の刊行されたのは近く明治に入つてからである、私は守部が本居派の學説に對して一家の言を立てたのを偉とすることは決して人後におちない積りでゐるが、歌格研究に於ては眞龍は守部の先行者であり、其の足跡の大きく且つ鮮かであつたことを認めるのである、而して私の此の所説を確めるには、眞龍が此の著作をなした年代を明かにすることが第一の捷徑である、序もなければ、跋もない此の書はどことなしに稿本のまゝで終つたものらしく思はれる、天下は廣く藏書家は多い、どなたが眞龍の稿本又は寫本に於て年記のあるものを珍襲してゐられないとも限らない 其の方には是非それを公にして我等の蒙を啓いて貰ひたいのである、
 
(3)         第三 日本紀歌之解
 
 伊勢の荒木田神主久老の著、くはしくは日本紀歌解槻の落葉、上中下三卷、寛政十一年七月京都の眞葛原の旅寓で脱稿したことが卷末に見えてゐる、刊行は文政に入つてからで、門人の長谷川菅緒の努力によつたものである、久老の子の久守が跋文にその事を録して文政元年十一月云々と書いてゐる、此の年後れても翌二年の春には印本が世に出たことであらう、書の内容は書名によつて明かである、凡そは契沖の厚顔抄の跡を追つたもので、宣長等の所説を參酌してあるものと見てよい、
 挿入した寫眞は日本書紀古本集影の中から借用したもので、原本は岩崎文庫の所藏、
 
         第四 琴歌譜
 
 近衛家に傳へられた上古歌謡の和琴譜である、かつて京都帝國大學附屬圖書館に寄托されてゐる原物によつて雜誌藝文【第十六年第一號】の上に佐佐木信綱博士が之を紹介されたことがある、歌詞の訓み方に就いては、特に山田孝雄兄を煩はして附し、一二編者の私見を添加した、
 原本は長さ一丈四尺八寸許の卷子本で、縦九寸六分、天地並びに縱に墨界を施して記してある、書寫の年代は卷末に
  琴歌譜一卷        安家書
    件書希有也仍自大歌師前丹波椽多安樹手傳寫  天元四年十月廿一日
とあるので明かである、此年昭和三年を去ること九百四十七年以前圓融天皇の御宇に謄寫された貴重文献なのであ(4)る、大歌師は大歌所の歌師又は和琴師となすべきであらうが、多氏の系圖の上には安樹といふ名が見えぬとのことである、
 何|扶理《ぶり》と稱する歌十八種二十一首を載せて、其の琴譜をも示したものであるが、其の十三首は記紀萬葉集等從來知られてゐる書や記録の中には見えてゐないと聞かば、歌謠史料として如何に至貴至重のものであるかが會得せられるであらう、此の卷子本の原本なるものは圓融天皇の時よりはもつと古く或は平安朝時代の初めに成つたのであるかも知れぬ、和琴の奏法は今よく傳つてゐないので、曲風に就いての類推をも爲し得さうもないのをつく/”\遺憾におもふ、又譜には異體の符が多く現行の活字版では示し難いので一切省略することにしたが、挿入の寫眞版によつて其の一端を推察せられたい、此の寫眞は古書複製會本に據つたのである、
 
         第五 佛足石和歌集解
 
 奈良藥師寺の南門を入れば左手に佛足石堂があつて、堂内には高さ一尺七八寸、幅三尺強、奥行二尺五寸許の立方形をなす安山岩らしい石の上面に、佛の足跡を刻し、其の石の後に佛足石歌碑が立ててある、碑の高さ六尺二寸、幅一尺五寸五分、これに佛足讃歎の歌十七首、生死呵責の歌四首を上下の二段に分つて彫りつけてある、歌體は短歌の最終の句を反覆したが如き三十八音より成りて、類例を萬葉集の歌古和讃神樂歌等に求めて判ずれば、恐らくは諷誦せられたもので、佛足石落慶の日に參集した人々の作であらうと思ふ、拾遺和歌集に
    光明皇后山階寺にある佛跡にかきつけ給ひける
  三十餘り二つのすがたそなへたる昔の人のふめる跡ぞこれ、
とあつて、それが此の碑面の第二の歌に近いので、碑は最初山階寺即ち興福寺にあり、歌もすべて皆光明皇后の御作(5)でないかとも考へられるが、古く僧契冲・僧潮音・狩谷※[木+夜]齋等の間に論究せられて、※[木+夜]齋が古京遺文に掲げた考説が最も精確である、曰く
  右歌碑建在佛足石之後、所※[金+雋]歌廿一首、其十七首咏賛佛跡、四首呵責生死、碑嘗罹※[うがんむり/火]、以故四邊有剥脱者、中亦有磨※[さんずい+こざと+力]不存者、其剥脱而後人取舊文禰刻者、今圏以別之、其磨※[さんずい+こざと+力]不存者、從野呂氏※[莫/手]本填入、亦匡以識之、第二首歌拾遺和歌集栽之云、光明皇后自書于山階寺佛蹟、皇后崇奉佛教、其吟咏想當如比、按義楚六帖載西域記云、佛在摩渇※[こざと+施の旁]國波※[口+託の旁]離城、石上印留跡記、奘法師親禮聖迹、自印將來今在坊州玉華山※[金+雋]碑記讃、皇后蓋倣此也、契冲律師曰、山階寺即興福寺、或云佛跡石及此碑古昔在興福寺、後移置藥師寺、然第十五首詠藥師佛則似從來在於此、方外友西教寺潮音駁之曰、第十五首使用客醫舊醫之事見涅槃經、亦喩釋迦之教勝於餘教、非謂藥師佛、契師之言非是、愚按第九首第十四首並云舍加乃美阿止非謂藥師佛明矣、雖是寺安藥師像又有釋迦佛跡石亦何害、拾遺集在山階寺之説恐傳聞之誤或以爲移建者、以碑見在藥師寺不與拾遺集合、臆度爲説不足據也、潮音近日考證記文註釋和歌並精審可據、以有寄書此不贅、
 印本となつて世に出たのは寶暦二年幕醫野呂元丈の努力によつて成つた佛足石碑銘を最初とし、和歌の解説は山川正宣の此の著を以て最秀のものとする、
 正宣は攝津池田の人、文政年中功を竣へて其の十年五月に公刊したが、天保八年の火災に版木を燒き、同十三年に至つて再刻して世に弘めたのである、此の集成に收めたのは一に其の再刻本に據つてゐる、
 
         第六 古風土記歌
 
(6) 風土記勘進の命は和銅六年に下り、降つて延長三年の太政官符に見えてゐる、此の間常陸・出雲・播磨・肥前・豐後此の五箇國のがわづかに遺存して古風土記を以て目されてゐる、記紀萬葉集以外の古謠が此等の中に散見するので、今輯めて此の一部を立てたのであるが、訓及び註は一に栗田寛氏の標註古風土記及び纂訂古風土記逸文の中より歌に關する部分を抄録した、歌謠集成の意よりすれば歌の抄出だけでも責は免るべきであるが、餘りに難解澁晦のものがあるので、栗田翁の釋義を拜借したのである、
 挿入せる寫眞版播磨國風土記は三條西伯爵家の藏を古書複製會で複製したものから採つたのである、原本は楮紙卷子本で、平安朝の中期より少し後の寫らしいといふことである、
 本卷原稿の作製及び校合に關しては文擧士石川彌太郎君が擔當してくれられたのである、これも明に記して同君の援助を受けた記念とする、
 
  昭和三年二月十一日
                   高野辰之識
 
第一 古事記歌通釋
〔以下略〕
 
 
 
 
琴歌譜【佐伯常麿校注】 〔校註国歌大系 第一卷【古歌謡集全】、1976年10月10日、復刻版、講談社発行、原版、国民図書株式会社編【1928年】、〕
 
(77)  景行天皇御製
   正月元日|讀歌《よみうた》
そらみつ 大和《やまと》の國は 神がらか 有りが欲《ほ》しき 國からか 住みが欲しき 有りが欲しき國は あきつ島大和
 
頭注、○そらみつ 大和の枕詞、 ○神がらか 國がらか 古義は、神故歟、國故歟、岡部氏考には、からは、隨【ナガラ】の畧と、 ○有りが欲しき 住みが欲しき 有つて欲しい、住んで欲しい、 ○あきつ島 大和の枕詞、
 
   阿遊陀曲《あゆだぶり》の歌三首
高橋の 甕井《かめゐ》の清水《すみづ》 あらまくを 直《すぐ》におきて 出でまくを 直ぐにおきて 何か汝《な》が こゝに出でて居《を》る 清水
   ○
石《いす》の上《かみ》 布留《ふる》の山の 熊が爪《つま》 六爪《むつま》ろかもし 鹿《カ》が爪 八爪ろかもし 睦ましみ 我こそ こゝに出でて居《を》れ
   ○
朝狩《あさがり》に 汝夫《なせ》か通りし 橘の前《さき》 杭《くひ》を宜《よろ》しみ 峽《かひ》の江の 著《つ》きを宜しみ 我こそ こゝに出でて居《を》れ 清水 清水
   十六日の節、酒坐《さかくら》の歌二首
(78)この御酒《みき》は わが御酒ならず 酒《くし》の神 常世にいます 岩立たす 少御《すくな》神の 豐祝《とよほ》ぎ 祝ぎもとほし 神祝《かむほ》ぎ 祝ぎくるほし 奉《まつ》り來し 御酒ぞ あさず 飲《を》せ さゝ
 
頭注、○わが御酒ならず 我が釀した御酒ではない、 ○常世にいます 少彦名神は神代紀「熊野より常世郷に行く、」とあるからいふ、 ○岩立たす 少彦名神は常世に行つて後、石に刻まれて諸國の路傍又は神社などに建てられてあるからいふ、 ○祝ぎもとほし 祝ぎくるほし 共に祝ひかへすの意、 ○あさず飲せ 餘さずめしあがれ、 ○さゝ いざ/\の畧、
 
   ○
この御酒を 釀《か》みけむ人は その鼓《つゞみ》 臼に立て 歌ひつゝ 釀みけれかもし 舞ひつゝ 釀みけれかもし この御酒の あやにうた樂し さゝ
 
頭注、○その鼓臼に立て 上代は鼓を打ち歌を唄ひ舞ひつゝ、酒を釀したものと見える、 ○うた樂し 宴樂し、
 
  天武天皇御製【短埴安曲《みじかはにやすぶり》】
孃子《をとめ》ども 孃子さびすと 唐玉《からたま》を 手本《たもと》に纏きて 孃子さびすも
 
頭注、○孃子ども云々 この歌は、五節の舞姫の起原とするもの、 ○孃子さびす 孃子らしくいよいよ美しくかう/”\しいのをいふ、 ○手本 袂、
 
  讀人しらずの歌
   片降《かたおろ》しの歌
木綿垂《ゆふし》での 神が前《きき》なる 稻《いな》の穗の 諸穗《もろほ》に垂《し》でよ これちふもなし
 
頭注、○木綿垂での 木綿を垂でて祭する、 ○諸穗 十分實の入つた穗、 ○これちふもなし これといふ惡い穗もなく、これちふ、一説に枯れ乳穗と、
 
  高橋曲《たかはしぶり》の歌
道の邊の 榛《はり》と歴木《くぬぎ》と しなめくも 云ふなるかもよ 榛と歴木と
 
頭注、○しなめく しなやかに色めく、 ○云ふなるかもよ 榛と歴木とは無骨だといつてゐるものがある、
 
   伊勢神歌
さはかる 大日女《おほひるめ》の 先使ひ よゝゝゝ 先使ひ 先使ひ 活《い》く柳活く柳 先使ひ
 
頭注、○さはかるの歌 内容詳かでない、神前の柳の活々として居るのが、神の先躯の從者であるやうに見えるとのとの意か、 ○大日女 天照大神、
 
(79)   天人曲《あめひとぶり》の歌
天人《あめひと》の 作りし田の 石田は稻植《いなゑ》 石田は おのを作れば かわらと ゆらと 鳴る 石田は稱植 石田は稻植
 
頭注、○おのを作れば 己等の作る他の穀物を作れば、 ○かわらとゆらと鳴る から/\と鳴つて適せない、
 
   繼根曲《つぎねぶり》の歌
つぎねふ 山城川に 蜻蛉《あきつ》鼻《はな》吹《ふ》く 嚔《はな》ふとも 我《あ》が愛《は》しものに 會はずは止まじ
 
頭注、○つぎねふ 山城の枕詞、 ○蜻蛉鼻吹く嚔ふとも 蜻蛉が鼻息して居るよし、鼻息して居ても、
 
   庭立曲《にはたちぶり》の歌
庭に立つ ※[草冠/欠]《ふゞき》の雄鳥《をとり》しつ いついつら いとこ夫《せ》我が夫《せ》 曉《あかつを》と知らに 我が寢はしつ いつら うち起せ 雄鳥《をとり》
 
頭注、○天の雄鳥しつ ※[草冠/欠]の傍に居る雄鷄が鳴いた、 ○いついつら 何處に居る/\、 ○いとこ夫 我がいとしい夫、
 
   阿夫斯弖曲《あふしでぶり》の歌
あふしてしりひたくさはぬものを 甘《うま》らに食《を》せを 我が君 甘らにねや
 
頭注、○あふして云々の歌 意味未詳、
 
   山口曲《やまぐちぶり》の歌
山口の 大菅原《おほすがはら》を 牛は蹈む 豕《ゐ》は蹈むともよ 民《たみ》は踏みそね
 
頭注、○山口の大菅原 山口の神の領し給ふ大菅原、 ○民な蹈みそね 牛豕は仕方がないが、人は蹈むな、
 
   片降《かたおろ》しの歌
新《あら》たしき 年の始めに かくしこそ 千年を兼ねて 樂《たの》しきをへめ
 
頭注、○かくしこそ云々 かういふ樂しい日のやうにして、千年を祝つて欒しく暮らして行かう、
 
   長埴安曲《ながはにやすぶり》の歌
(80)川上の 川榛《かははり》の木の 疎《うと》けども 次ぎし寢もちは 族《うから》とぞ思ふ
 
頭注、○川榛の木の疎けども 川榛の木の枝のまばらのやうに、うと/\しいけれども、 ○次ぎし寢もちは 引き續いて寢て待てば、 ○族とぞ思ふ 漸次情愛が出て來て家族と思ふやうになる、
 
  仁徳天皇御製
島國《しまぐに》の 淡路の 三原の篠《しの》 さ根こじに いこじ持ち來て 朝妻《あさづま》の 御井《みゐ》の上に植ゑつや 淡路の 三原の篠
 
頭注、○さ根こじに さは接頭語、根込めに、
 
  木梨輕太子《きなしかるのみこ》の御歌
   志良宜歌《しらげうた》
あしびきの 山田を作り 山田から 下樋《したぴ》を走《わ》しせ 下問《したど》ひに 我が問ふ妻 下泣きに 我が泣く妻 今夜《こぞ》こそ 妹に 安く膚《はだ》觸《ふ》れ
 
頭注、○あしびきの 山の枕詞、 ○山田を作り 山に田を開墾すること、 ○下樋を走しせ 地中に樋を埋めて水を走らせ、 ○下問ひ 心中に戀ふること、 ○安く膚觸れ 心安らかに妹と寢ることが出來たと喜んだのである
 
  引田|赤猪《あかゐこ》の歌【茲都歌《しづうた》】
三諸《みもろ》に 築《つ》くや玉垣 築《つ》き餘し 誰にか依らむ 神の宮人
 
頭注、○三諸 三輪神社、 ○築き餘し云々 築き餘しは、齋きに齋いてなほ餘りある事との解があるが、前の天皇の御歌に答へ奉れる歌とすると、すでに年老いたから、老後は神に仕ふる宮人を頼みにして、一生を送るより外ないとの意らしい、
 
  雄畧天皇御製【宇吉歌《うきうた》】
水灌《みなそゝ》ぐ 臣《おみ》の孃子《をとめ》 秀※[缶+尊]《ほだり》取り 堅く取れ 秀※[缶+尊]取らす子
 
頭注、○水灌ぐ みづ/\しいうら若い、 ○秀※[缶+尊] 高く盛り上がつた形の陶器、即ち瓶子、 ○堅く取れ しつかりと持つて酌をせよ、
 
琴歌譜 終
 
参考、高野辰之『日本歌謠史』1926年1月20日より、
 
  琴歌譜の發見 大正十三年四月近衛公爵家から京都帝國大學へ寄托された古書の中から「琴歌譜」と題する卷子本が見出された、大歌所の大歌師の家にあつたものを傳寫したもので、六絃の和琴に合せで謡つた古歌の譜本である、奥書に天元四年十月廿一日【圓融朝】とあつて、原本はもつと/\古い時代恐らく平安朝の初めに成つたものだらうといふことである、これに
 茲都歌《しづうた》 歌返 片降《かたおろし》 高橋扶理《たかはしぶり》 短|埴安扶理《はにやすぶり》 伊勢神歌 天人扶理《あめひとぶり》 繼根扶理《つぎねふぶり》 庭立振《にはにたつぶり》 阿夫斯弖振《あふしてぶり》 山口扶理《やまぐちぶり》 大直美《おほなほび》歌 正月元日|余美歌《よみうた》 宇吉《うき》歌 長埴安扶理 十一月七日阿遊※[こざと+施の旁]扶理 同十六日節酒坐歌 茲良宜歌《しらげうた》【【訓は私に附したるもの】】
の十八種二十一首の歌を載せてあつて、佐々木信鋼博士の考定では、其の八首は記紀の中に見出し得るが、他の十三首は從來の文献に全く無いものだとのことである、一二の例を示せば、
【高橋扶理】美知乃倍乃《ミチノベノ》、波利止久奴伎止《ハリトクヌギト》、之奈女久毛《シナメクモ》、伊不奈留可毛與《イフナルカモヨ》、波利止久奴伎止《ハリトクヌギト》、
【正月元日余美歌】蘇良美豆《ソラミツ》 夜萬止乃久爾波《ヤマトノクニハ》、可旡可良可《カムガラカ》 阿利可保之支《アリガホシキ》、久爾可良可《クニガラカ》
 スミガホシキアリガホシキクニハアキツシマヤマト【【片假名は私に附したるもの】】
の類で、此の十三首は記紀に收められなかつたものと見るべきであらうといふ、これによれば、平安朝の初迄は上古の謠ひぶりが多少の時代化は被りながらも遺つてゐたことになる、予はまだ現物を目撃してゐないので、取りあへず佐々木博士の紹介【藝文、大正十四年一月號所載】を紹介して置く、此の琴歌譜によつて多少なりとも上代の曲風を想察すべき手がかり得られたなら、眞にそれを學界の慶事としなければならぬ、
 
 
續史籍集覽第五冊所収、明治二九年二月一一日【大正六年三月二五日、五版】権田直助著、近藤瓶城編、近藤出版部発行
 
(1)南京遺響例言
古事記、日本紀、萬葉集に載たる外に、續日本紀よりこのかたの史典、其【ノ】他群籍どもの中に雜【リ】出たる古風の歌どもを、こたみ採※[手偏+庶]【ヒ】て、それがことのこゝろを考へしるして、古學のたづきとす、さて古事記、日本紀に出たる歌をものぜざるは、まづ古事記なるは、既く本居氏古事記傳に委くときあかして、ことのこころ大概彼【ノ】書にそなはり、日本紀なるは、契冲が厚顔抄、荒木田氏解等もあれば也、しかはあれども、それひたぶるに、其【ノ】説どもに從ふべしとにはあらねど、彼二紀どもなるは、歌數も甚多く、はた續日本紀よりこのかたなるとは、こよなくかはりて、いとも/\上【ツ】代の風體なれば、それ一【ツ】にものせむは、たやすきことならねば、そはしばらくさしおきて、今は續日本紀より以來なるを、ものしつる也、又此【ノ】餘に新撰萬葉、日本紀竟宴歌、及神樂催馬樂、風俗歌等の古本の眞字書あれども、そはこたびの注釋にはもらせり
(2)○此【ノ】書もろ/\のふみどもを采録《トリシル》すに、年【ノ】序《ツイデ》に拘はらず、史典の類に出せるを初に載、さて群籍の類なるをば、よりくるに從ひて、次々に載つるなり
○凡續日本紀、日本後紀等の書に出たる歌の、類聚國史、其【ノ】他群籍の中に重出たるを、再本章に載むはいとわづらはしければ、前に出せる書の歌の條下に、事跡の相違、謌詞の異同を參注したるのみ也、群籍の中にても、前に出たる歌の再出たるをば、前に出たる歌の條下に參注して、本章にはぶけること上の定の如し
○載るところの本朝月令、丹後風土記、播磨風土記の類は、今其【ノ】全書世に傳らねば、年中行事秘抄、釋日本紀、元々集等の諸者に引ところをとり、録してそのよし標書の下に注す
○風土記の歌の類、闕文多くして解得がたきあり、其は姑【ク】疑をのこして、後の考をまつ
(3)○もろ/\のふみの中に出たる歌の、古事記、日本紀、萬葉集に出たると、もはら同歌なるをば省きて注さず、はた元は同歌ながら、句々|大《イタ》く異り、別歌の如くなるをば載
○凡【ソ】載るところの歌の前後の文《コトバ》の謌の趣にあづからざるは、大かたに略き引て、筆紙の費をなさす、なほ委く事實を知むとおもふ人は、本書につきて見べし
○續日本紀【ノ】歌の中に、はやく本居氏、歴朝詔詞解にかつがつ注したるもあり、又熱田縁起なるは、古事記傳に注せり、今本居氏説とて引たるは、みなそのふみどもによれり、又日本後紀に出たる長歌は、さきに荒木田氏解ありて、其【ノ】説のとるべきをば引つるなり
○續日本紀以下の史典、及群籍の假字づかひは、言の清濁こと/”\くは正しきにあらず、故【レ】今は必しもその字には拘らすして、上古の格に從て、後【ノ】世音便の清濁はとらず
(4)○枕詞は、おのが萬葉集枕詞解あれば、彼【ノ】解に讓りて大方にはふきいへるところ多し
凡【ソ】ことばに、上古、中古、近古の差別あるが中にも、上古なるは、いとも/\みやびかに正しければ、うるはしくは古書に則《より》て正しものすべきこと也、大抵言語の頽れたるは、寧樂【ノ】朝の季つ方よりのことゝおほゆされど、ひたぶるにいづれの書のうへをも、古書によりて正さむとせば、かへりてものそこなひとなることもあり、さればよくその心しらひしてものすべきことぞかし、一【ツ】二【ツ】云ば、申をば麻袁須《マヲス》、恭をば爲夜麻布《ヰヤマフ》といふそ、古書なるとおほゆるを、寧樂【ノ】朝のすゑつかたよりは、麻宇須《マウス》、宇夜麻布《ウヤマフ》と云り、かゝれはこれらをも、あながちに古言ぞ正しきとて、寧樂朝の季已後の書のうへにても、麻袁須《マヲス》、爲夜麻布《ヰヤマフ》とやうによまむは、かへりて時代の差別を混淆《ウシナ》ふことなれば、今も其【ノ】心してものせる類甚多し、餘はみな准へ知へし
(5)○凡【ソ】古歌の意を解むとするには、まづそのよみ人の本意を、よくもあしくも味見むことを要《ムネ》とす、さるをひたすら言語の本義を詳に辨むとするは、緊要のことにあらず、まづ一首のおもむきと、ことばのつかへるやうとをつらつら考へてこゝろみざれば、作者の本意に達【ラ】むことかたかるべし、さるは同じ言ながらも、用ひたる處に從て、其【ノ】趣異ることあれば也、故【レ】今此【ノ】注書も其【ノ】心もてものしつるなり
○凡【ソ】古【ヘ】の書籍は、中古已來、古を稽る人をさ/\なかりしが故に、文字を誤りもし、脱しもしたるまゝに傳へもてきぬれは、そをよく考へ正さずては、古【ヘ】の意にかなふまじきことなるを、近き代古學みさかりにおこなはれてより、萬葉集をはじめ、もろ/\の書どもをよむに、その闕誤あることをしりてぞ、校へ訂すことにはなれりける、然るをこの頃の庸學《ナマモノシリ》のともがらは、おのが心まかせに、此は誤字ぞとて、たやすく改め換るは、中々に成書をみだすわざにして、いとも/\あさましく(6)うれたきわさなりけり、抑々古書の文字のうたがはしからむをば、あまねく類本を参へわたし、ひろく古籍古言をよみこゝろみて、たしかにその例證あらむには、是を據として改め訂すべきことにこそあれ、かゝれば今おのが此【ノ】注書も、私意もて謾に改めかふるやうのことはせざる也、あまねく數本を校へ合【セ】て、その正きに從ひ、はた古徴ありて、たちまちそのあやまりなることのいちしるきをば、しばらく訂しなほして、其よし注釋にことわれり
 
(1)南京遺響上
                 飛鳥井雅澄 著
 
續日本紀歌注
[卷十四]天平十四年五月壬戌、天皇御【シテ】2大安殿【ニ】1宴【ス】2群臣【ヲ】1、酒酣【ニシテ】奏《ツカヘマツル》2五節【ノ】田※[人偏+舞]【ヲ】1、訖【リテ】更【ニ】令2少年【ノ】童女【ニ】蹈歌【セ】1、又賜2宴【ヲ】天下有位人并諸司【ノ】史生【ニ】1、於是六位以下【ノ】人等、皷《ヒキテ》v琴【ヲ】歌【テ】曰【ク】、
 
此【ノ】條、類聚國史卷七十二、歳時【ノ】部三、十六日踏歌【ノ】條に載○天皇は、聖武天皇なり○蹈歌は、持統天皇【ノ】紀に、七年正月|丙午《十六日》云々、是日漢人等|奏《ツカヘマツル》2蹈歌【ヲ】1、八年春正月辛丑、漢人奏2請蹈歌1、【請は衍文なるべし】癸卯唐人奏【ル】2蹈歌【ヲ】1など見へたり、和記に、今【ノ】俗云2阿良禮走《アラレハシリト》1、師説【ニ】、此【レ】謌曲之終、必重2稱萬年阿良禮【ト】1今改【テ】云2萬歳樂【ト】1、是【レ】古語之遺也、公事根源に、蹈歌節會をば、あられはしりのとよのあかりとも申すにや、或はあられまじり、と宣命の譜にはよめり云々と見えたり、上文に、天平二年春正月
 
頭注、京の水 正月十六日蹈歌の御節會は天式帝の御時はじまりて聖武天皇
 
〔補足説明、上卷は、續日本紀より日本後紀まで、中卷は、續日本後紀から三代實録まで、下卷は、古語拾遺、熱田大神縁起、大日本靈異記、聖徳法王帝説、聖徳太子傳暦、本朝月令、常陸風土記、丹後風土記、播磨風土記、肥前風土記、太神宮儀式帳、佛足石碑の歌謡を載せている、注の方法は古義とほぼ同じで、引用が大半である、語釈はだいたい古義にもあったようなものが多く、それほど価値あるものとも思えない、作者は、鹿持雅澄だが、書中では、はじめ、飛鳥井雅澄、とあり、終わりに、藤原雅澄、とある、〕
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