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霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻 <発端>

.11 2007 「神霊界」より comment(0) trackback(0)
第一巻 <発 端>


 王仁(わたし)が明治三十一年旧二月九日、神使(しんし)に伴(とも)なはれ丹波穴太(たんばあなを)の霊山(れいざん)高熊山(たかくまやま)に、一週間の霊的修業(しうげふ)を了(を)へてより天眼通(てんがんつう)、天耳通(てんじつう)、自他神通(じたしんつう)、天言通(てんげんつう)、宿命通(しゆくめいつう)の大略を心得(しんとく)し、治教皇道大本(ちきょうこうどうおほもと)の教義をして今日(こんにち)あるに至(いた)らしめたるについては、千変万化(せんぺんばんくわ)の波瀾(はらん)があり、縦横無限の曲折(きよくせつ)がある。旧役員の反抗、信者の離反(りはん)、その筋(すじ)の誤解、宗教家の迫害(はくがい)、親族(しんぞく)、官権の圧迫、新聞雑誌、単行本の熱罵嘲笑(ねつばてうせう)、社会の誤解等、実に筆紙口舌(ひつしこうぜつ)のよくするところのものでない。王仁(わたし)はただただ開教後(かいけうご)廿四年間(にじふよねんかん)の経緯(いきさつ)を、きわめて簡単に記憶より喚起して、その一端(いつたん)を示すことにする。
 皇道大本には変性男子(へんじやうなんし)の神系(しんけい)と、変性女子(へんじやうによし)の神系との二大神系(しんけい)が、歴然として区別されてゐる。出口大教祖は国祖国常立尊の表現神として綾部の地の高天原に現はれ、神政出現の予言警告を発し、もつて神世出現(ヨハネ)の神業を専行し、水をもつて身魂(みたま)の洗礼を施(ほどこ)し、救世主(キリスト)の再生、再臨(さいりん)を待つてをられたのである。ヨハネの初めてキリストに対面するまでには、ほとんど七年(しちねん)の間(あひだ)、野(や)に叫びつつあつたのである。そして変性男子(へんじやうなんし)は女体男霊(によたいだんれい)にして、五十七才(ごじふしちさい)はじめてここに厳(いづ)の御魂(みたま)の神業(しんげふ)に参加したまひ、明治二十五年の正月元旦より、同(どう)四十五年(しじふごねん)の正月元旦まで、前後満二十年間の水洗礼(すゐせんれい)をもつて、現世(げんせ)の汚濁(をだく)せる体系一切に洗礼を施(ほどこ)し、世界革命の神策(しんさく)を実現したまうたのである。かの欧州大戦乱(おうしうだいせんらん)のごときは、厳(いづ)の御魂(みたま)の神業(しんげふ)の発動(はつどう)にして、三千世界(さんぜんせかい)の一大警告であつたのである
 変性女子(へんじやうによし)は瑞(みづ)の御魂(みたま)の神業(しんげふ)に参加奉仕し、をもつて世界万民(ばんみん)に洗礼を施(ほどこ)すの神務(しんむ)である。明治三十一年の二月九日をもつて瑞霊(ずいれい)の表現者として現はれ、大正七年(しちねん)二月九日をもつて前後満二十年間の霊的神業(れいてきしんげふ)を完成したのである。物質万能主義、無神無霊魂説(むしんむれいこんせつ)に、心酔塁惑(しんすゐるゐわく)せる体主霊従(たいしゆれいじゆう)の現代も、やや覚醒(かくせい)の域(いき)に達し、神霊(しんれい)の実在を認識するもの、日(ひ)に月(つき)に多きを加(くわ)へきたれるは、すなはち瑞霊の偉大なる神機発動(しんきはつどう)の結果にして、決して人智人力(じんちじんりょく)の致すところではないのである
 誤れる信者の中には、今日(こんにち)の皇道大本の発展と天下の覚醒は、役員信者の忠実熱心なる努力と結果なりと称すれども、いかに神智偉能ありとも、厳瑞二霊の深甚なる御経綸と、神界の御加護なくしては、一人(いちにん)といへども首肯(しゅこう)せしめ入道せしむることは出来ないのである。
 変性男子(へんじやうなんし)は五十七歳(ごじふしちさい)神世開祖(ヨハネ)の神業に入(い)り、爾来(じらい)二十有七年間(にじふいうしちねんかん)神筆(しんぴつ)を揮(ふる)ひ、もつて物質界の大革正を促進(そくしん)し、今や霊界に入(い)りても、その神業を継続奉仕されつつあるのである。
 つぎに変性女子(へいじやうによし)は三十年間の神業に奉仕して、もつて五六七神政(みろくしんせい)の成就(じやうじゆ)を待ち、世界を道義的統一し、もつて神皇(しんこう)の徳澤(とくたく)に浴(よく)せしむるの神業である。神業奉仕以来、本年をもつて満二十三年、残る七ケ年(しちかねん)こそ女子(によし)にとりて、最も重大なる任務遂行(にんむすゐかう)の難関である。神諭(しんゆ)に曰(いは)く、
  『三十年で身魂(みたま)の立替(たてかへ)立直(たてなほ)しいたすぞよ』
と。変性男子(へんじやうなんし)の三十年の神業成就(しんげふじやうじゆ)は、大正十一年の正月元日である。変性女子(へんじやうによし)の三十年の神業成就(しんげふじやうじゆ)は、大正十七年(じふしちねん)二月九日である。神諭(しんゆ)に、
  『身魂の立替立直し』
とあるを、よく考えてみると、水洗礼(すゐせんれい)の体系的革命(たいけいてきたてかへ)が三十年であつて、これはヨハネの奉仕すべき神業であり、洗礼の霊魂的革令(たてなほし)が前後三十年を要するといふ神示である。しかしながら三十年と神示されたのは、大要(たいえう)を示されたもので、決して確定的のものではない。伸縮遅速(しんしゆくちそく)は、到底免(まぬが)れない是は神界(しんかい)の御方針は一定不変(いつていふへん)であつても、天地経綸(てんちけいりん)の司宰(しさい)たるべき奉仕者の身魂(みたま)の研不研(けんふけん)によつて変更されるのは止むをえないのである。
 神諭(しんゆ)に、
  『天地(てんち)の元の先祖の神の心が真実(ほんと)に徹底了解(わかり)たものが三人(さんにん)ありたら、樹替樹直(たてかへたてなほ)しは立派にできあがるなれど、神界の誠が解(わか)りた人民が無いから、神はいつまでも世に出ることができぬから、早く改心いたして下されよ。一人(ひとり)が判(わか)りたら後(あと)の信者は判つてくるなれど、肝心の御方(おかた)に判らぬといふのも、これには何か一つの原因(わけ)が無けねばならぬぞよ。自然に気のつくまで待つてをれば、神業(しぐみ)はだんだん遅れるばかりなり、心から発根(ほつこん)の改心でなければ、教(をし)へてもらうてから合点(がつてん)する様な身魂(みたま)では、到底この大神業は務まらぬぞよ。云々(うんぬん)』
 実際の御経綸(ごけいりん)が分(わか)つてこなくては、空前絶後(くうぜんぜつご)の大革正の神業に完全に奉行することはできるものでない。実に神様は歯痒く思つて居らるゝでありませう。
 御神諭に身魂の樹替樹直(たてかへたてなほ)しといふことがある。大抵の信者は、比の身魂を混同して、ミタマといへば、霊魂のみのことと思つてゐる人が沢山(たくさん)にあるらしい。身(み)は身体(しんたい)、または物質界を指(さ)し、魂(たま)とは霊魂(れいこん)、心性(しんせい)、神界(しんかい)を指(さ)したまうたのである。すべて宇宙は霊(れい)は尊く、体(たい)が次ぎと成つて居る。身(み)の方面、即ち物質的現界の改革を断行(だんかう)されるのは国祖大国常立神(こくそおほくにとこたちのかみ)であり、精神界、神霊界の改革を断行したまふのは、豊国主の神(とよくにぬしのかみ)の顕現たる瑞(みづ)の御魂(みたま)の神権(しんけん)である。ゆゑに宇宙一切は霊界主であり、現界が従であるから、これを称して霊主体従(れいしゆたいじゆう)といふのである。
 大本の信者の大部分は眞正に神諭の了解が出来て居ないから、体的経綸の神業者ヨハネを主とし、霊的経綸の神業者を従として居る人が多い。否な全部体主霊従の信仰に堕落して居るのである。神諭に、
 『艮の金神が天の御先祖様、五六七の大神様の御命令を受けて、三千世界の身魂の立替、立直しを致すぞよ。それに就ては、天の神様に降りて御手傳遊ばすぞよ』
とあり(天の神様地に降りて御手傳遊ばすぞよ)との神示に注意すべきである。此間の神界の御経綸が分らなければ、皇道大本の眞相が解らぬ。眞相が解らぬから何時までも体主霊従の誤つた宣傳を続行して益々天地の大神の御経綸を妨ぐる事になるのである。神諭にも
 『途中の鼻高が我はエライと慢心いたして、神を尻敷にいたして居るぞよ』
とあるが、是が判つた人が、一日も早く出て来て欲しい。身と魂と一致して神業を完成するのは、三代の御用と云ふ事も、以上の消息が解つて来ない間は、實現するもので無いのである。神諭にも
 『此の大本は男子と女子との筆先と、言葉とで開く経綸であるから、外の教を持て来て開ひたら大変な間違ひが出来て来て、神の経綸の邪魔になるから、役員の御方心得て下されよ。慢神致して我を出したら、神の眞似を致して筆先を人民が出したら、何邊でも後戻りを致すぞよ。今は初発であるから、成る様に致して、御用聞いて貰はねばならぬなれど、五六七様がお出ましになりたら、男子女子の外は筆先は出されんぞよ』云々
と所々に示されてある。此の筆先と云ふ神意は新聞紙の事では無い。要するに役員さん等の発行されつゝある単行本の中でも、教義的意味を含んだものを指されたのである。何程人間の知恵や学文の力でも、深玄微妙なる神様の大御心が判るもので無い。故に大本の歴史に関する著述は差支えないが、苟(いやし)くも教義に関する著書は、神諭の解つた役員信者から根本的に改変して貰はぬと、何時迄も神様は公然(あつぱれ)と現はれ玉ふ事が出来ぬのであります。
 今迄の著書と雖(いへど)も、全部誤つて居るのでは無い。唯競技的意味のある箇所に限つて人意が混合して居るだけである。然し乍ら、假令(たとえ)一小部分でも間違つて居つては實に大変である。王仁は学者の意味を尊重して、今日迄は隠忍して和光同塵策を持して来たのであるが、最早今日と成つては信者も多く、又神霊界の読者も日に月に増加し、天下の注意を曳く如うに成つて来たから、黙視するに忍びず、涙を呑んで此の稿を書いたので在る。何程立派な神が憑つて、書を著はしたり、口で説いても根本の経綸は解つた神はない。皆近頃現はれる神の託宣や豫言は全部守護神が大本の神諭を探り、似たり八合の事を行つて居るもの斗りである。今後未だ未だ所々に偽豫言者、偽救主が出現して、世人を惑はせ、世人をして其の本末軽重を誤らしむる事が出て来るから、読者の深甚なる注意を望む次第であります。



 霊主体従の身魂を霊(ひ)の本(もと)の身魂(みたま)といひ、体主霊従(たいしゆれいじゆう)の身魂を自己愛智(ちしき)の身魂といふ。霊主体従の身魂は、一切天地(てんち)の律法に適(かな)ひたる行動を好んで遂行(すゐかう)せむとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもつて本懐(ほんくわい)となし、至真(ししん)、至善(しぜん)、至美(しび)、至直(しちよく)の大精神を発揮する、救世の神業に奉仕する神や人の身魂である。体主霊従(たいしゆれいじゆう)の身魂(みたま)は私利私慾(しりしよく)にふけり、天地(てんち)の神明(しんめい)を畏(おそ)れず、体慾(たいよく)を重(おも)んじ、衣食住にのみ心を煩(わずら)はし、利(り)によりて集まり、利によつて散(さん)じ、その行動は常に正鵠(せいかう)を欠き、利己主義を強調するのほか、一片(いつぺん)の義務を弁(わきま)へず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼(さいらう)のごとき不善の神や、人をいふのである。
 天(てん)の大神(おほかみ)は、最初に天足彦(あだるひこ)、胞場姫(えばひめ)のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木(しんぼく)に体主霊従(ちしき)の果実(くだもの)を実らせ、
  『この果実(くだもの)を喰(く)ふべからず』
と厳命(げんめい)し、その性質のいかんを試みたまうた。ふたりは体慾(たいよく)にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒(いか)りにふれた。
 これより世界は体主霊従(たいしゆれいじゆう)の妖気(えうき)発生し、神人界(しんじんかい)に邪悪分子の萌芽(ほうが)を見るにいたつたのである。
 かくいふ時は、人あるひは言はむ。
  『神は全智全能(ぜんちぜんのう)にして智徳円満(ちとくゑんまん)なり。なんぞ体主霊従(たいしゅれいじゅう)の萌芽(ほうが)を刈りとり、さらに霊主体従(れいしゅたいじゅう)の人体の祖を改造せざりしや。体主霊従の祖を何ゆゑに放任し、もつて邪悪の世界をつくり、みづからその処置に困(くるし)むや。ここにいたりて吾人(ごじん)は神の存在と、神力(しんりき)とを疑(うたが)はざるを得(え)じ』
とは、実に巧妙にしてもつとも至極(しごく)な議論である。
 されど神明には、毫末(がうまつ)の依估(えこ)なく、逆行的神業(ぎやくかうてきしんげふ)なし。一度手を降(くだ)したる神業(しんげふ)は昨日(きのふ)の今日(けふ)たり難(がた)きがごとく、弓をはなれたる矢の中途に還(かへ)りきたらざるごとく、ふたたび之(これ)を更改(かうかい)するは、天地(てんち)自然の経緯に背反(はいはん)す。ゆゑに神代一代(かみよいちだい)は、これを革正(かくせい)すること能(あた)はざるところに儼然(げんぜん)たる神の権威をともなふのである。また一度出(い)でたる神勅(しんちよく)も、これを更改(かうかい)すべからず。神にしてしばしばその神勅を更改し給(たま)ふごときことありとせば、宇宙の秩序はここに全く紊乱(ぶんらん)し、つひには自由放漫の端(たん)を開(ひら)くをもつてである。古(いにしへ)の諺(ことわざ)にも『武士の言葉に二言(にごん)なし』といふ。いはんや、宇宙の大主宰(だいしゆさい)たる、神明(しんめい)においてをやである。神諭にも、
  『時節には神も叶(かな)はぬぞよ。時節を待てば煎豆(いりまめ)にも花の咲く時節が参(まゐ)りて、世に落ちてをりた神も、世に出て働く時節が参りたぞよ。時節ほど恐いものの結構なものは無いぞよ、云々』
と示されたるがごとく、天地(てんち)の神明(しんめい)も『時(とき)』の力のみは、いかんとも為(な)したまふことはできないのである。
 天地剖判(てんちぼうはん)の始めより、五十六億七千万年(ごじふろくおくしちせんまんねん)の星霜(せいさう)を経て、いよいよ弥勒(みろく)出現の暁(あかつき)となり、弥勒(みろく)の神(かみ)下生(げしやう)して三界の大革正(だいかくせい)を成就し、松の世を顕現(けんげん)するため、ここに神柱(かむばしら)をたて、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示し、善を勧め、悪を懲(こら)し、至仁至愛(しじんしあい)の教(をしへ)を布(し)き、至治泰平(しぢたいへい)の天則(てんそく)を啓示(けいじ)し、天意(てんい)のままの善政(ぜんせい)を天地(てんち)に拡充したまふ時期に近づいてきたのである。
 吾人(ごじん)はかかる千万億歳(せんまんおくざい)にわたりて、ためしもなき聖世(せいせい)の過度時代(くわとじだい)に生れ出(い)で、神業に奉仕することを得ば、何の幸(さいはひ)か之(これ)に如(し)かむやである。神示にいふ。
  『神は万物普遍(ばんぶつふへん)の聖霊(せいれい)にして、人は天地経綸(てんちけいりん)の司宰(しさい)なり』
と。アゝ吾人はこの時をおいて何(いづ)れの代(よ)にか、天地(てんち)の神業(しんげふ)に奉仕することを得む。
 アゝ言霊(ことたま)の幸(さち)はふ国、言霊の天照(あまて)る国、言霊の生(い)ける国、言霊の助ける国、神の造りし国、神徳の充(み)てる国に生(せい)を禀(う)けたる神国(しんこく)の人においてをや。神の恩の高く、深きに感謝し、もつて国祖(こくそ)の大御心(おほみこころ)に報い奉(たてまつ)らねばならぬ次第である。




第二篇 幽界より神界へ <第一七章 神界旅行の四>

.10 2007 第一巻 霊主体従 子の巻 comment(0) trackback(0)
第二篇 幽界より神界へ


<第一七章 神界旅行の四 (一七)>

 神界の場面が、たちまち一変したと思へば、自分は又もとの大橋の袂(たもと)に立つてゐた。どこからともなくにはかに大祓詞(おほはらひ)の声が聞えてくる。不思議なことだと思ひながら、二三丁辿つて行(ゆ)くと、五十恰好の爺さんと四十(しじふ)かつかうの婦(をんな)とが背中合せに引着(ひつつ)いて、どうしても離れられないで踠(もが)いてゐる。男は声をかぎりに天地金(てんちかね)の神(かみ)の御名(みな)を唱へてゐるが、婦(をんな)は一生懸命に合掌して稲荷を拝んでゐる。男の合掌してしてゐる天(そら)には、鼻の高い天狗が雲の中に現はれて爺(ぢい)をさし招いてゐる。婦(をんな)のをがむ方をみれば、狐狸が一生懸命山の中より手招きしてゐる。男が行(ゆ)かうとすると、婦(をんな)の背中にぴつたりと自分の背中が吸いついて、行(ゆ)くことができない。婦(をんな)もまた行(ゆ)かうとして身悶(みもだ)えすれども、例の背中が密着して進むことができない。一方へ二歩行つては後戻り、他方へ二歩行つては、又‘あともどり’といふ調子で、たがひに信仰を異(こと)にして迷つてゐる。自分はそこへ行つて、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と神様にお願ひして、祝詞(のりと)を奏上した。そのとき私は、自分ながらも実に涼しい清らかな声が出たやうな気がした。
 たちまち密着してゐた両人(ふたり)の身体(からだ)は分離することを得た。彼らは大いに自分を徳として感謝の辞(じ)を述べ、どこまでも自分に従つて、
 『神界の御用を勤めさしていただきます』
と約束した。やがて男の方は肉体を持つて、一度地の高天原(たかあまはら)に上(のぼ)つて神業(しんげふ)に参加しやうとした。しかし彼は元来が強慾な性情(たち)である上(うへ)、憑依せる天狗の霊が退散せぬため、つひには盤古大神(ばんこだいじん)の眷族(けんぞく)となり、地の高天原の占領を企て、ために、霊は神譴(しんけん)を蒙(かうむ)りて地獄に堕(お)ち、肉体は二年後に滅びてしまつた。さうしてその婦(をんな)は、今なほ肉体を保つて遠く神に従ふてゐる。
 この瞬間、自分の目の前の光景は忽(たちま)ち一転した。不思議にも自分はある小さな十字街頭(じふじがいとう)に立つてゐた。そこへ前に見た八頭八尾(やつがしらやつを)の霊の憑いた男が俥(くるま)を曳(ひ)いてやつて来て、
 『高天原にお伴させていただきますから、どうかこの俥(くるま)にお召(め)し下さい』
といふ。しかし「自分は神界修行の身なれば、俥(くるま)になど乗るわけにはゆかぬ」と強(しひ)て断つた上、徒歩でテクテク西へ西へと歩んで行つた。非常に嶮峻(けんしゆん)な山坂を三つ四つ越えると、やがてまた広い清い河のほとりに到着した。河には澄(すみ)きつた清澄な水が流れてをり、川縁(かはぶち)には老松(らうしやう)が翠々(あをあを)と並んでゐる実に景勝の地であつた。自分はこここそ神界である、こんな処に長らくゐたいものだといふ気がした。また一人とぼとぼと進んで行(ゆ)けば、とある小さな町に出た。左方(さはう)を眺むれば小さな丘があり、山は紫にして河は帯(おび)のやうに流れ、蓮華台上(れんげだいじやう)と形容してよからうか、高天原の中心と称してよからうか、自分はしばしその風光(ふうくわう)に見惚(みと)れて、そこを立去(たちさ)るに躊躇した。
 山を降(くだ)つて少しく北に進んで行(ゆ)くと、小さな家が見つかつた。自分は電気に吸着(すひつ)けらるるごとく、忽ちその門口(かどぐち)に着いてゐた。そこには不思議にも、かの幽庁にゐられた大王(たいわう)が、若い若い婦(をんな)の姿と化して自分を出迎へ、やがて小さい居間へ案内された。自分はこの大王(たいわう)との再会を喜んで、いろいろの珍らしい話しを聞いてゐると、にはかに虎が唸(うな)るやうな、また狼が呻(うめ)くやうな声が聞えてきた。よく耳を澄まして聞けば、天津祝詞や大祓(おほはらひ)の声であつた。それらの声とともに四辺(あたり)は次第に暗黒の度(ど)を増しきたり、密雲濛々(みつうんもうもう)と鎖(とざ)して、日光もやがては全く見えなくなり、暴風にはかに吹き起(おこ)つて、家も倒れよ、地上のすべての物は吹き散れよとばかり凄(すさ)まじき光景となつた。その濛々たる黒雲(こくうん)の中より「足(あし)」といふ古い顔の鬼が現はれてきた。それには「黒(くろ)」といふ古狐(ふるぎつね)がついてゐて、下界を睥睨(へいげい)してゐる。その時にはかに河水(かはみづ)鳴りとどろき河中(かはなか)より大いなる竜体が現はれ、またどこからともなく、何とも形容のしがたい悪魔があらはれてきた。大王(たいわう)の居間も附近も、この時すつかり暗黒となつて、咫尺(しせき)弁じがたき暗(やみ)となり、かの優しい大王の姿もまた暗中(あんちゆう)に没してしまつた。ただ目に見ゆるは、烈風中に消えなむとして瞬(またた)いてゐる一つのかすかな燈光(とうくわう)ばかりである。自分は今こそ神を祈るべき時であると不図(ふと)心付(こころづ)き、「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」と「産土神(うぶすなのかみ)」をひたすら念じ、悠々として祝詞をすずやかな声で奏上した。一天にはかに晴れわたり、一点の雲翳(うんえい)すらなきにいたる。
 祝詞はすべて神明(しんめい)の心を和(やわら)げ、天地人(てんちじん)の調和をきたす結構な神言(しんげん)である。しかしその言霊(げんれい)が円満清朗(ゑんまんせいろう)にして始めて一切の汚濁と邪悪を払拭(ふつしき)することができるのである。悪魔の口より唱へらるる時はかへつて世の中ますます混乱悪化するものである。蓋(けだ)し悪魔の使用する言霊(げんれい)は世界を清める力なく、慾心(よくしん)、嫉妬(しつと)、羨望(せんばう)、憤怒(ふんど)などの悪念(あくねん)によつて濁つてゐる結果、天地神明の御心(みこころ)を損ふにいたるからである。それ故、日本(にほん)は言霊(ことたま)の幸(さち)はふ国とはいへども、身も魂(たましひ)も本当に清浄となつた人が、その言霊(ことたま)を使つて始めて、世のなかを清めることができ得(う)るのである。これに反して身魂(みたま)の汚(けが)れた人が言霊(ことたま)を使へば、その言霊には一切の邪悪分子(じやあくぶんし)を含んでゐるから、世の中はかへつて暗黒になるものである。
 さて自分は八衢(やちまた)に帰つてみると、前刻(さつき)の鬼、狐および大きな竜の悪霊(あくれい)は、自分を跡(あと)から追つてきた。「足(あし)」の鬼は、今度は多くの眷族を引連れ来たり、自分を八方より襲撃し、おのおの口中より噴霧のやうに幾十万本とも数へられぬほどの針を噴きかけた。しかし自分の身体(からだ)は神明(しんめい)の加護を受けてゐた。あたかも鉄板のやうに針を弾(は)ね返して少しの痛痒(つうよう)も感じない。その有難さに感謝のため祝詞を奏(あ)げた。その声に、すべての悪魔は煙のごとく消滅して見えなくなつた。
 ここで一寸(ちよつと)附言(ふげん)しておく。「足(あし)」といふのは烏帽子直垂(ゑぼしひたたれ)を着用して、あたかも神に仕へるやうな服装をしてゐた。しかし本来非常に猛悪(まうあく)な顔貌(がんばう)なのだが、一見立派な容子(ようす)に身を俏(やつ)してゐる。また河より昇れる竜は、たちまち美人に化けてしまつた。この竜女(りゆうぢよ)は、竜宮界の大使命(だいしめい)を受けてゐるものであつて、大神(おほかみ)御経綸の世界改造運動に参加すべき身魂(みたま)であつたが、美しい肉体の女に変(へん)じて「足(あし)」の鬼と肉体上の関係を結び神界の使命を台なしにしてしまつた。竜女(りゆうぢよ)に変化(かは)つたその肉体は、現在生き残つて河をへだてて神に仕へてゐる。彼女が竜女(りゆうぢよ)であるといふ証拠には、その太腿(ふともも)に竜の鱗(うろこ)が三枚もできてゐる。神界の摂理は三界に一貫(いつくわん)し、必ずその報いが出てくるものであるから、神界の大使命を帯(お)びたる竜女を犯すことは、神界としても現界としても、末代(まつだい)神の譴(いまし)めを受けねばならぬ。「足(あし)」の鬼はその神罰(しんばつ)により、その肉体の一子(いつし)は聾(つんぼ)となり、一女(いちぢよ)は顔一面に菊石(あばた)を生じ、醜い竜の匍匐(ほふく)するやうな痕跡(こんせき)をとどめてゐた。さて一女(いちぢよ)まづ死し、ついでその一子(いつし)も滅んだ。かれは罪のために国常立尊(くにとくたちのみこと)に谷底(たにそこ)に蹴落(けおと)され胸骨を痛めた結果、霊肉(れいにく)ともに滅んでしまつた。かくて「足(あし)」の肉体もつひに大神(おほかみ)の懲戒(いましめ)を蒙(かうむ)り、日に日に痩衰(やせおとろ)へ家計困難に陥り、肺結核を病んで悶死(もんし)してしまつた。
 以上の一男一女は「足(あし)」の前妻の子女であるが、竜女と「足(あし)」の鬼との間にも、一男が生れた。「足(あし)」の鬼は二人の子女を失つたので、彼は自分の後継者として、その男の子を立てやうとする。竜女の方でも、自分の肉体の後継者としやうとして焦つてゐる。一方竜女には厳格な父母があつた。彼らもその子を自分の家の相続者としやうとして離さぬ。「足(あし)」の鬼の方は無理にこれを引(ひき)とらうとして、一人の肉体を、二つに引きち切つて殺してしまつた。霊界でかうして引裂かれて死んだ子供は現界では、父につけば母にすまぬ、母につけば父にすまぬと、煩悶(はんもん)の結果、肺結核を病んで死んだのである。かうして「足(あし)」の鬼の方は霊肉ともに一族断絶したが、竜女は今も後継者なしに寡婦(くわふ)の孤独な生活を送つてゐる。
 本来竜女なるものは、海に極寒極熱(ごくかんごくねつ)の一千年を苦行し、山中(さんちゆう)にまた一千年、河にまた一千年を修業して、はじめて人間界に生れ出づるものである。その竜体より人間に転生(てんしやう)した最初の一生涯は、尼になるか、神に仕へるか、いづれにしても男女の交りを絶ち、聖浄(きよらか)な生活を送らねばならないのである。もしこの禁断を犯せば、三千年の苦行も水の沫(あわ)となつて再び竜体に堕落する。従つて竜女といふものは男子との交りを喜ばず、かつ美人であり、眼(まなこ)鋭く、身体(しんたい)のどこかに鱗(うろこ)の数片の痕跡を止(とど)めてゐるものも偶(たま)にはある。かかるに竜女に対して種々の人間界の情実(じやうじつ)、義理、人情等(とう)によつて、強(しひ)て竜女を犯し、また犯さしめるならば、それらの人は竜神よりの恨みをうけ、その復讐に会はずにはゐられない。通例竜女を犯す場合は、その夫婦の縁は決して安全に永続するものではなく、夫は大抵は夭死(えうし)し、女は幾度縁をかゆるとも、同じやうな悲劇を繰返し、犯したものは子孫末代まで、竜神の祟りを受けて苦しまねばならぬ。
                    (大正一〇・一〇・一九 旧九・一九 谷口正治録)


           常暗(とこやみ)の夜(よ)にもまがへる人心(ひとごころ)
               狐狸(きつねたぬき)も舌や巻かなむ


霊界物語 第二十一巻 <如意宝珠 申の巻>

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霊 界 物 語  第二一巻  <如意宝珠 申の巻



・序 文
総 説


<第 一 篇 千心万苦>
・第一章         高春山
・第二章         夢の懸橋
・第三章         月休殿
・第四章         砂利喰
・第五章         言の痣

<第 二 篇 是正滅法>
・第六章         小杉の森
・第七章         誠の宝
・第八章         津田の湖
・第九章         悔悟の酬

<第 三 篇 男女共権>
・第一〇章        女権拡張
・第一一章        鬼娘
・第一二章        奇の女
・第一三章        夢の女
・第一四章        恩愛の涙

<第 四 篇 反復無常>
・第一五章        化地蔵
・第一六章        約束履行
・第一七章        酒の息
・第一八章        解決



・口述日       大正一一年五月一六日~五月二一日
・口述場所      綾部 松雲閣



霊界物語 第二十巻 <如意宝珠 未の巻>

.09 2007 霊界物語 目次 comment(0) trackback(0)
霊 界 物 語  第二〇巻  <如意宝珠 未の巻



・序
・総 説 歌

凡 例


<第 一 篇 宇都山郷>
・第一章         武志の宮
・第二章         赤児の誤
・第三章         山河不尽
・第四章         六六六

<第 二 篇 運命の綱>
・第五章         親不知
・第六章         梅花の痣
・第七章         再生の歓
・第八章         心の鬼

<第 三 篇 三国ケ嶽>
・第九章         童子教
・第一〇章        山中の怪
・第一一章        鬼婆
・第一二章        如意宝珠
霊の礎 〔六〕
霊の礎 〔七〕



・口述日       大正一一年五月一二日~五月一四日
・口述場所      綾部 松雲閣、錦水亭


  

第二篇 幽界より神界へ <第一六章 神界旅行の三>

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第二篇 幽界より神界へ


<第一六章 神界旅行の三 (一六)>

 扇でたとへると丁度骨を渡つて白紙(はくし)のところへ着いた。ヤレヤレと一息(ひといき)して傍(かたはら)の芝生の上に身を横たへて一服してゐた。するとはるか遠く北方(ほつぽう)にあたつて、細い幽(かす)かな悲しい蚊の泣くやうな声で、「オーイ、オーイ」と自分を呼ぶいやらしい声がしてきた。自分は思案にくれてゐると、南方(なんぽう)の背後から四五人の声で自分を呼び止める者がある。母や祖母や隣人の声にどこか似てゐる。フト南方の声に気をひかれ気が付けば、自分の身体(からだ)はいつのまにか穴太(あなを)の自宅へ帰つてゐた。
 これは幽界のことだが、母の後(うしろ)に妙な顔をした、非常に悲しさうに、かつ立腹したやうな、一口に言へば怒つたのと泣いたのが一緒になつたやうな顔した者が付いてゐる。それが母の口を籍(か)つていふには、
 『今かうして老母や子供を放つておいて神界の御用にゆくのは結構だが、祖先の後(あと)を守らねばならぬ。それに今お前に出られたら、八十に余る老母があり、たくさんの農事(のうじ)を自分一人でやらねばならぬ。とにかく思ひ止(とど)まつてくれ』
と自分を引き止めて、行(ゆ)かさうとはささぬ。そこへまた隣家(りんか)から「松(まつ)」と「正(まさ)」といふ二人が出てきて、祖先になり代つて意見すると言つて頻(しき)りに止(と)める。二人は、
 『お前、神界とか何とか言つたところで、家庭を一体どうするのだ』
と喧(やかま)しく言ひくめる。その時たちまち老祖母の衰弱した姿が男の神様に変つてしまつた。そして、
 『汝は神界の命(めい)によつてするのであるから、小さい一身一家(いつしんいつか)の事は心頭(しんとう)にかくるな。世界を此(こ)のままに放つておけば、混乱状態となつて全滅するより道(みち)はないから、三千世界のために謹んで神命を拝受(はいじゆ)し、一時(いちじ)も早く此処(ここ)を立ち去れよ』
と戒められた。すると矢庭(やには)に「松(まつ)」と「正(まさ)」とが自分の羽織袴(はおりはかま)を奪(と)つて丸裸になし、それから鎮魂の玉をも天然笛をも引(ひつ)たくつて池の中へ投(ほ)り込んでしまつた。そこへ「幸(かう)」といふ男が出てきて、いきなり自分が裸になり、その衣服を自分に着せてくれ、天然笛も鎮魂の玉も池の中から拾うて私に渡してくれた。
 自分は一切の執着を捨てて、神命のまにまに北へ北へと進んで、知らぬまに元の天(あめ)の八衢(やちまた)へ帰つておつた。これは残念なことをしたと思つたが、もと来た道(みち)を‘すう’と通つて、扇形(おほぎがた)の道を通りぬけ白紙(はくし)の所へ辿りついた。その時、「幸(かう)」が白扇(はくせん)の紙の半ばほどのところまで裸のまま送つて来たが、そこで何処(どこ)ともなく姿を消してしまつた。やはり相変らず、細い悲しいイヤらしい声が聞えて来る。その時、自分の身体(からだ)は電気に吸ひつけられるやうに、北方(きた)へ北方(きた)へと進んで行(ゆ)く。一方には大きな河が流れてあり、その河辺(かはべり)には面白い老松(らうしやう)が並んでゐる。左側には絶壁の山が屹立(きつりつ)して、一方は河、一方は山で、其処(そこ)をどうしても通らねばならぬ咽喉首(のどくび)である。その咽喉首(のどくび)の所へ行(ゆ)くと、地中から頭(あたま)をヌツと差出(さしだ)し、つひには全身を顕(あら)はし、狭い道に立ち塞がつて、進めなくさせる男女(だんぢよ)のものがあつた。
 そこで鎮魂の姿勢をとり天然笛を吹くと、二人の男女は温順な顔付(かほつき)にて、女は自分に一礼し、
 『あなたは予言者のやうに思ひますから、私(わたくし)の家(いへ)へお入(はい)り下さいまし。色々お願ひしたいことがございます』
と言つた。その時フト小さな家が眼前(がんぜん)にあらはれてきた。その夫婦に八頭八尾(やつがしらやつを)の守護神(しゆごじん)が憑依してゐた。夫婦の話によれば、
 『大神(おほかみ)の命(めい)により神界旅行の人を幾人も捉へてみたが、真(まこと)の人に会はなかつたが、はじめて今日(こんにち)目的の人に出会ひました。実は私は、地の高天原にあつて幽界を知ろしめす大王(たいわう)の肉身系統(にくしんけいとう)の者です。どうぞ貴方(あなた)はこの道を北へ北へと取つていつて下さい、さうすれば大王(たいわう)に面会ができます。私(わたくし)が言伝(ことづけ)をしたと言つて下さい』
と言つて頼む。
 『承知した、それなら行つて来よう』
 こう言つて立ち去らうとする時、男女の後(うしろ)に角の生えた恐い顔をした天狗と、白狐(びやくこ)の金毛九尾(きんまうきうび)になつたのが眼(め)についた。この肉体としては実に善(よ)い人間で、信仰の強い者だが、その背後(うしろ)には、容易ならぬ物が魅入つてゐることを悟つた。そのままにして自分は一直線に地の高天原へ進んで行つた。トボトボと暫(しばら)くのあひだ北へ北へと進みゆくと、一つの木造の大橋(おほはし)がある。橋の袂(たもと)へさしかかると川の向ふ岸にあたり、不思議な人間の泣き声や狐の声が聞えた。自分はその声をたどつて道を北へとつて行(ゆ)くと、親子三人の者が寄つて集(たか)つて、穴にゐる四匹(しひき)の狐を叩き殺してゐた。見るみる狐は殺され、同時にその霊は女に憑いてしまつた。女の名は「民(たみ)」といふ。女は狐の怨霊のために忽(たちま)ち膨れて脹満(ちやうまん)のやうな病体になり、俄然苦悶しはじめた。そこで其の膨れた女にむかつて、自分は両手を組んで鎮魂をし、神明(しんめい)に祈つてやると、その体(たい)は旧(もと)の健康体に復し、三人は合掌して自分にむかつて感謝する。されど彼(か)の殺された四匹(しひき)の狐の霊はなかなかに承知しない。
 『罪なきものを殺されて、これで黙つてをられぬから、あくまでも仇討(あだうち)をせねばおかぬ』
と、怨(うら)めしさうに三人を睨(にら)みつめてゐる。狐の方ではその肉体を機関として、四匹(しひき)ながら這入(はい)つて生活を続けてゆきたいから、神様に願つて許していただきたいと嘆願した。
 自分はこの場の処置に惑(まど)うて、天にむかひ裁断を仰いだ。すると天の一方より天使が顕(あら)はれ、産土(うぶすな)の神も顕(あら)はれたまひて、
 『是非なし』
と一言(いちごん)洩(も)らされた。氏子(うぢこ)であると言ひながら、罪なきものを打ち殺したこの女は、畜生道へ墜(お)ちて狐の容器(いれもの)とならねばならなかつた。病気は治つたが、極熱(ごくねつ)と極寒(ごくかん)との苦しみをうけ、数年後に国替(くにがへ)した。現界で言へば稲荷下(いなりさげ)のやうなことをやつたのである。
 やや西南方にあたつてまた非常な叫び声が聞えてきた。すぐさま自分は声を尋ねて行つてみると、盲目(めくら)の親爺に狸が憑依し、また沢山の怨霊が彼をとりまいて、眼(め)を痛めたり、空中へ身体(からだ)を引き上げたり、さんざんに親爺を虐(いぢ)めてゐる。見ると親爺の肩の下のところに棒のやうなものがあつて、それに綱(つな)がかかつてをり、柱の真(しん)に取付けられた太綱(ふとづな)を寄つてたかつて、弛(ゆる)めたり引きしめたりしてゐるが、落下する時は川の淵までつけられ、つり上げられる時は、太陽の極熱(ごくねつ)にあてられる。そして釣り上げられたり、曳(ひ)き下されたりする上下の速さ。この親爺は「横(よこ)」といふ男である。
 なぜにこんな目に遇(あ)ふのかと理由を聞けば、この男は非常に強慾(がうよく)で、他人(ひと)に金(かね)を貸しては家屋敷を抵当にとり、ほとんど何十軒とも知れぬほど、その手でやつては財産を作つてきた。そのために井戸にはまつたり、首を吊つたり、親子兄弟が離散したりした者さへ沢山にある。その霊がことごとく怨念のために畜生道へ堕(お)ち入り、狐や狸の仲間入りをしてゐるのであつた。そのすべての生霊(いきりやう)や亡霊が、身体(からだ)の中からも、外からも、攻めて攻めて攻めぬいて命(いのち)をとりにきてゐるのである。
 何ゆゑ神界へ行(ゆ)く道において、地獄道のやうなことをしてゐるのを神がお許しになつてゐるかと問へば、天使の説明には、
 『懲戒(みせしめ)のために神が許してある。その長い太い綱は首を吊つた者の綱が凝固(かたま)つたのである。毒を嚥(の)んで死んだ人があるから、毒が身の中に入つてゐる。川へはまつた者があるから川へ突つ込まれる。これが済めば畜生道へ堕(お)ちて苦しみを受けるのである』
と。あまり可愛想(かあいさう)であるから、私(わたくし)は天照大御神(あまてらすおほみかみ)へお願ひして「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と唱へ天然笛を吹くと、その苦しみは忽ち止(や)んでしまつた。そして狐狸に化してゐる霊は嬉々(きき)として解脱(げだつ)した。その顔には桜色(さくらいろ)を呈してきたものもある。これらの霊はすべて老若男女(らうにやくなんによ)の人間に一変した。すると産土の神が現はれて喜び感謝された。自分もこれは善(よ)い修業をしたと神界へ感謝し、そこを立ち去つた。が、「横(よこ)」といふ男の肉体は一週間ほど経て現界を去つた。
 それからまた真西(まにし)にあたつて叫び声がおこる。猿を責めるやうな叫び声がする。その声を尋ねてゆくと、本当の狐が数十匹集まり一人の男を中において木にくくりつけ、「キヤツ、キヤツ」と言はして苦しめてゐる。その男の手足はもぎとられ、骨は一本々々砕かれ、滅茶々々にやられてゐるのに現体が残つたままそこに立つてゐる。自分はこれを救ふべく、神名(しんめい)を奉唱し型(かた)のごとく鎮魂の姿勢をとるや否や、すべての狐は平伏(へいふく)してしまつた。何故(なぜ)そんな事をするのかと尋ぬれば、中でも年老(としと)つた狐がすすみでて、
 『この男は山猟(やまれふ)が飯(めし)よりもすきで、狐穽(きつねおと)しを作つたり、係蹄(わな)をこしらへたりして楽しんでゐる悪い奴です。それがために吾々(われわれ)一族のものは皆(みな)命(いのち)をとられた。生命(いのち)をとられるとは知りつつも、油揚げなどの好きな物があれば‘つい’かかつて、ここにゐるこれだけの狐(もの)はことごとく命(いのち)をとられました。それでこの男の幽体現体共に亡ぼして、幽界で十分に復讐したい考へである。』
といふ。そこで私(わたし)は、
 『命(いのち)をとられるのは自分も悪いからである。それよりはいつそ各自(めいめい)改心して人界(じんかい)へ生(うま)れたらどうだ』
と言へば、
 『人界へ生れられますか』
と尋ねる。自分は、
 『生れられるのだ』
と答ふれば、
 『自分らはこんな四ツ足(よつあし)だから駄目だ』
といふ絶望の意を表情で現はしたが、自分は、
 『汝らに代つて天地(てんち)へお詫びをしてやらう』
と神々へお詫びをするや否や、「中(なか)」といふ男の幽体は見るまに肉もつき骨も完全になつて旧(もと)の身体(からだ)に復(かへ)り、いろいろの狐はたちまち男や女の人間の姿になつた。その時の数十の狐の霊は、一部分今日(こんにち)でも神界の御用をしてゐるものもあり、途中で逃げたものもある。中には再び畜生道へ堕ちたものもある。

                  (大正一〇・一〇・一九 旧九・一九 桜井重雄録)


               かくり世も現(うつつ)の世にも人々の
                    霊魂(みたま)ばかりは同じはたらき


               ささやけき心のまよひは忽ちに
                    魂(たま)は根底(ねそこ)の国に落ち行(ゆ)く


第二篇 幽界より神界へ <第一五章 神界旅行の二>

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第二篇 幽界より神界へ


<第一五章 神界旅行の二 (一五)>

 神界の旅行と思つたのは自分の間違ひであつたことを覚(さと)り、今度は心を改め、好奇心を戒(いまし)め一直線に神界の旅路についた。
 細い道路(みち)をただ一人、足をはやめて側眼(わきめ)もふらず、神言(かみごと)を唱へながら進み行(ゆ)く。そこへ「幸(かう)」といふ二十才(にじつさい)くらゐの男と「琴(こと)」といふ二十二才ばかりの女とが突然現はれて、自分の後(あと)になり前(さき)になつて踉(つ)いてくる。そのとき自分は非常に力を得たやうに思ふた。
 その女の方は今(いま)幽体となり、男の方はある由緒ある神社に、神官として仕へてをる。その両人には小松林(こまつばやし)、正守(まさもり)といふ二柱(ふたはしら)の守護神が附随してゐた。そして小松林はある時期において、ある肉体とともに神界に働くことになられた。
 細い道路(みち)はだんだん広くなつて、そしてまた行(ゆ)くに従つてすぼんで細い道路(みち)になつてきた。たとへば扇(あふぎ)をひろげて天と天とを合せたやうなものである。扇の骨(ほね)のやうな道路(みち)は、幾條(いくすじ)となく展開してゐる。そのとき自分はどの道路(みち)を選んでよいか途方に暮れざるを得なかつた。その道路(みち)は扇の骨と骨との隙間のやうに、両側には非常に深い溝渠(みぞ)が掘られてあつた。
 水は美しく、天は青く、非常に愉快であるが、さりとて少しも油断はできぬ。油断をすれば落ちこむ恐れがある。自分は高天原に行(ゆ)く道路(みち)は、平々坦々たるものと思ふてゐたのに、かかる迷路と危険の多いのには驚かざるを得ない。その中でまづ正中(せいちゆう)と思ふ小径(こみち)を選んで進むことにした。
 見渡すかぎり山もなく、何もない美しい平原である。その道路(みち)を行(ゆ)くと幾つともなく種々の橋が架けられてあつた。中には荒廃した危ないものもある。さういふのに出会(でくは)した時は、「天照大神(あまてらすおほかみ)」の御神名(ごしんめい)を唱へて、一足飛(いつそくと)びに飛び越したこともあつた。
 そこへ突然として現はれたのが白衣(びやくい)の男女(なんによ)である。見るまに白狐(びやくこ)の姿に変つてしまつた。「琴(こと)」と「幸(かう)」との二人は同じくついてきた。急いで行(ゆ)くと、突然また橋のあるところにきた。橋の袂(たもと)から真黒な四足動物(よつあし)が四五頭(しごとう)現はれて、いきなり自分を橋の下(した)の深い川に放り込んでしまつた。二人の連(つれ)も、共に川に放(はう)りこまれた。
 自分は道路(みち)の左側の溝(みぞ)を泳ぐなり、二人は道路(みち)の右側の溝を泳いで、元の道路まできた。前の動物は追(おひ)かけ来たり、また飛びつかうと狙ふその時、たちまち二匹の白狐が現はれて動物を追ひ払つた。三人はもとの扇形(あふぎがた)の処(ところ)に帰り、衣服を乾かして休息した。その時非常なる大きな太陽が現はれて、瞬(またた)くまに乾いてしまつた。三人は思はず合掌して、「天照大神(あまてらすおほかみ)」の御名(おんな)を唱へて感謝した。
 今度は三人が各自異なる道路をとつて進んだ。「幸(かう)」といふ男は左側の端(はし)を、「琴(こと)」といふ女は右側の道路(みち)をえらんだ。それはまさかの時、この路(みち)なれば一方が平原に続いてゐるから、その方へ逃げるための用意であつた。自分も中央(まんなか)の道路(みち)を避けて三ツばかり傍(かたはら)の道路(みち)を進んだ。依然として両側に溝がある。最前の失敗に懲りて、両側と前後に非常の注意を払つて進んで行つた。横にもまた沢山の溝があり、非常に堅固(けんご)な石橋(いしばし)が架(かか)つてゐた。不思議にも今まで平原と思つてゐたのに中途からそれが山になり、山また山に連(つら)なつた場面に変つてゐる。
 さうして其の山は壁のやうに屹立(きつりつ)し、鏡のやうに光つてゐるのみならず、滑つて足をかける余地がない。さりとて引き返すのは残念であると途方にくれ、ここに自分は疑ひはじめた。これは高天原(たかあまはら)にゆく道路(みち)とは聞けど、或(ある)ひは地獄への道路(みち)と間違つたのではあるまいかと。かう疑つてみると、どうしてよいか分らず、進退谷(しんたいきは)まり吐息をつきながら、「天照大神(あまてらすおほかみ)」の御名(みな)を唱へ奉(まつ)り、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を三唱(さんしやう)した。
 不思議にもその山は、少しなだらかになつて、自分は知らぬまに、山の中腹に達してゐる。幹の周り一丈(いちじやう)に余るやうな松や、杉や、桧の茂つてゐる山道(やまみち)を、どんどん進んで登ると大きな瀑布に出会(でくは)した。白竜(はくりゆう)が天に登るやうな形をしてゐる。
 ともかくもその滝で身を清めたいと、近よつて裸になり滝に打たれてみた。たちまち自分の姿は瀑布(たき)のやうな大蛇(だいじや)になつてしまつた。自分はこんな姿になつてしまつたことを、非常に残念に思つてゐると、下(した)の方から自分の名を大声で呼ぶものがある。姿は真黒な大蛇(だいじや)であつて、顔は「琴(こと)」といふ女の顔であつた。そして苦しさうに、のた打ちまはつて暴(あ)れ狂ふてゐた。よくよく見ると大きな目の玉は血走つて巴形(ともゑがた)の血斑(ちまだら)が両眼(りやうがん)の白いところに現はれてゐた。自分は蛇体になりながら、女を哀れに思ひ救ふてやりたいと考へてゐると、その山が急に大阪湾のやうな海に変つてしまつた。そのうち「琴(こと)」女(ぢよ)の大蛇(だいじや)が火を吐きながら、非常な勢(いきほひ)で、浪(なみ)を起して海中に水音(みづおと)たてて飛び込んだ。自分は水を吐きながら、後(あと)を追ひかけて同じく海に飛び入(い)つて救ふてやらうとした。されど、あたかも十ノツトの軍艦で、三十ノツトの軍艦を追ふやうに速力及ばぬところから、だんだんかけ離れて救ふてやることができない。そのうちに黒い大蛇(だいじや)はまつしぐらに泳いで遥かあなたへ行つて、黒い煙が立つたと思ふと姿は消えてしまつた。さうすると不思議にも海も山もなくなつて、自分はまた元の扇の要(かなめ)の道(みち)に帰つてゐた。
 今度は決心して一番細い道路(みち)を行(ゆ)くことにした。そこには人が五六十人と思ふほど集まつてゐる。見るに目の悪いもの、足の立たないもの、腹の痛むものや、種々の病人がゐて何か一生懸命に祈つてをる。
 道路(みち)にふさがつて何を拝んでをるかと思へば、非常に劫(がう)を経(へ)た古狸(ふるだぬき)を人間が拝んでをる。その狸は大きな坊主に見せてゐる。拝んでゐるものは、現体(げんたい)を持つた人間ばかりであつた。しかし一人も病気にたいして何の効能もない。自分は狸坊主(たぬきばうず)にむかつて鎮魂の姿勢をとると、その姿は煙のごとく消えてしまい、すべての人は皆(みな)病(やまひ)が癒えた。芙蓉仙人に聞いてみれば、古狸の霊(れい)が、僧侶と現はれて人を悩まし、そして自己を拝ましてゐたのであつた。その狸の霊を逐(お)ひ払つたとともに衆人(しうじん)が救はれ、盲人は見え、跛(びつこ)は歩み、霊は畜生道(ちくしやうだう)の仲間に入(い)るのを助かつたのである。
 衆人(しうじん)は非常に感謝して泣いて喜び、とり縋(すが)つて一歩も進ましてくれぬ。しかるに天の一方からは「進め、すすめ」との声が聞えるので、天(あま)の石笛(いはぶえ)を吹くと、何も彼(か)も跡形もなく消えて、扇の紙のやうな広い平坦なところに進んでゐた。

                (大正一〇・一〇・一八 旧九・一八 加藤明子録)


第二篇 幽界より神界へ <第一四章 神界旅行の一>

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第二篇 幽界より神界へ


<第一四章 神界旅行の一 (一四)>

 瓢箪(へうたん)のやうな細い道をただ一人なんとなく心(こころ)急(せは)しく進んでゆくと、背後(うしろ)の山の上から数十人の叫び声が誰(たれ)を呼ぶともなしに聞えてくる。
 そこで何がなしに後(あと)をふり返つて見ると、最早(もはや)二三丁も来たと思つたのに、いつの間にか、また元の八衢(やちまた)に返つてゐた。そこには地獄へ墜(お)ちて行(ゆ)くものと見えて、真黒(まつくろ)の汚い顔をしたものが打ち倒れてゐる。これは現界で今(いま)肉体が息を引き取つたもので、その幽体がこの所に横たはつたのであり、また先の大きな叫び声は、親族故旧(こきう)が魂呼(たまよ)びをしてをる声であることが分つた。さうすると見てをる間(ま)に、その真黒い三十五六の男の姿が何百丈(ぢやう)とも知れぬ地の底へ、地が割れると共に墜(お)ち込んでしまつた。これが自分には不思議でたまらなかつた。といふのは、地獄に行(ゆ)くのには相当の道がついてをる筈(はづ)である。しかるに、忽(たちま)ち急転直下の勢(いきほひ)で地の底へ墜ちこむといふのが、不思議に思はれたからである。とに角(かく)かういふふうになる人を限界の肉体から見れば、脳充血(なうじゆうけつ)とか脳溢血(なういつけつ)とか心臓破裂とかの病気で、遺言もなしに頓死(とんし)したやうなものである。そこで天然笛を吹いてみた。天の一方から光となつて芙蓉仙人が現はれ給うた。
 『一体地獄といふものには道は無いのでせうか』
とたづねてみた。仙人いふ。
 『この者は前世においても、現世(このよ)においても悪事をなし、殊(こと)に氏神の社(やしろ)を毀(こぼ)つた大罪(だいざい)がある。それは旧(ふる)い社(やしろ)であるからといふて安価で買取り、金物(かなもの)は売り、材木は焼き棄(す)てたり、または薪(たきぎ)の代りに焚いたりした。それから一週間も経たぬまに病床について、黒死病(ペスト)のごときものとなつた。それがため息を引取るとともに、地が割れて奈落(ならく)の底へ墜ち込んだのである。すなはちこれは地獄の中でも一番罪が重いので、口から血を吐き泡を吹き、虚空(こくう)を摑んで悶(もだ)え死(じに)に死んだのだ。しかもその肉体は伝染の憂ひがあるといふので、上(かみ)の役人がきて石油をかけ焼き棄てられた』
との答へである。そこで自分は、
 『悶え死(じに)をしたものは何故(なぜ)かういふふうに直様(すぐさま)地の底へ墜ちるのでせうか』
と尋ねてみた。仙人は答へて、
 『すべて人は死ぬと、死有(しう)から中有(ちゆうう)に、中有から生有(しやうう)といふ順序になるので、現界で息を引取るとともに死有になり、死有から中有になるのは殆ど同時である。それから大抵七七四十九日(しちしちしじふくにち)の間(あいだ)を中有といひ、五十日目から生有(しやうう)と言つて、親が定(き)まり兄弟が定(き)まるのである。ただし元来そこには山河(やまかは)、草木(くさき)、人類、家屋のごとき万有(ばんいう)はあれども、眼(め)には触れず単に親兄弟がわかるのみで、そのときの、幽体は、あたかも三才の童子(どうじ)のごとく縮小されて、中有になると同時に親子兄弟の情が、霊覚的に湧いてくるのである。
 さうして中有の四十九日間は幽界で迷つてをるから、この間(あひだ)に近親者が十分に追善供養をしてやらねばならぬ。又これが親子兄弟の務めである。この中有にある間(あひだ)の追善供養は、生有(しやうう)に多大の関係がある。すなはち大善(だいぜん)と大悪(だいあく)には中有はなく、大善は死有(しう)から直ちに生有となり、大悪はただちに地獄すなはち根底(ねそこ)の国に墜ちる。ゆゑに真(しん)に極善(ごくぜん)のものは眠るがごとく美しい顔をしたまま国替(くにがへ)して、ただちに天国に生まれ変るのである。また大極悪(だいごくあく)のものは前記のごとき径路をとつて、悶え苦しみつつ死んで、ただちに地獄に墜ちて行(ゆ)くのである』
と。自分はそれだけのことを聞いて、高天原の方へむかひ神界旅行にかからうとした。ところが顔一杯に凸凹(でこぼこ)のできた妙な婦人が、八衢(やちまた)の中心に忽然(こつぜん)として現はれた。自分の姿を見るなり、長い舌をペロリと吐きだし、ことさらに凹(くぼ)んだ眼(め)の玉を、ギロギロと異様に光らせながら、足早(あしばや)に神界の入口さして一目散に駆けだした。
 自分は・・・・・変な奴が出てきたものだ、一つ跡(あと)を追つて彼(かれ)の正体を見届けてくれむ・・・・・と、やや好奇心にかられて、ドンドンと追跡した。かの怪女(くわいじよ)はほとんど空中を走るがごとく、一目散に傍(かたはら)の山林に逃込んだ。自分はとうとう怪女の姿を見失つてしまひ、途方(とはう)にくれて芝生(しばふ)の上に腰を降(おろ)し、鼬(いたち)に最後屁(さいごぺ)嗅(かが)されたやうな青白いつまらぬ顔をして、四辺(あたり)の光景をキヨロキヨロと見まはしてゐた。どこともなく妙な声が耳朶(じだ)を打つた。
 耳を澄まして考へてゐると、鳥の啼(な)き声とも、猿の叫び声ともわからぬ怪しき声である。恐いもの見たさに、その聞ゆる方向を辿つて荊(いばら)を押しわけ、岩石を踏み越え渓流(けいりう)を渡り、峻坂(しゆんぱん)を攀(よ)ぢ登り、色々と苦心して漸(やうや)く一つの平坦なる地点に駆けついた。
 見ると最前みた怪女を中心に、あまたの異様な人物らしいものが、何かしきりに囁き合つてゐた。自分は大木(たいぼく)の蔭に身を潜(ひそ)めて、彼らの様子を熟視してゐると、中央に座を構へた凸凹(でこぼこ)の顔をした醜い女の後方(うしろ)から、太いふとい尻尾が現はれた。彼はその尻尾をピヨンと左の方へ振つた。あまたの人三化七(にんさんばけしち)のやうな怪物が、その尻尾の向いたる方へ雪崩を打つて、一生懸命に駆け出した。
 怪女はまたもや尻尾を右の方へ振つた。あまたの動物とも人間とも区別もつかぬやうな怪物は、先を争ふやうにして又もや、右の方へ一目散に駆け出した。怪女はまたもや尻尾を天に向つてピヨンと振りあげた。
 あまたの怪物は一斉に、天上目がけて投(ほ)り上げられ、しばらくすると、その怪物は雨のごとくになつて降(ふ)り来たり、あるひは渓谷に陥(おちい)り、負傷をするものもあり、あるひは荊棘(いばら)の叢(くさむら)に落込み全身を破り、血に塗(まみ)れて行(ゆ)きも帰りもならず、苦悶してをるのもあつた。中には大木にひつかかり、半死半生(はんしはんしやう)のていにて苦しみ呻(うめ)いてゐるものもある。中には墜落とともに頭骨(とうこつ)を打ち挫(くじ)き、鮮血(せんけつ)淋漓(りんり)として迸(ほとばし)り、血の泉をなした。
 怪女は、さも嬉しさうな顔色(がんしよく)をあらはし、流るる血潮(ちしほ)を片つ端から美味(うま)さうに呑(の)んでゐた。怪女の体(からだ)は見るみる太り出した。彼(かれ)の額部(がくぶ)には俄(にはか)にニユツと二本の角が発生した。口はたちまち耳の辺りまで裂けてきた。牙(きば)はだんだんと伸びて剣(つるぎ)のやうに鋭く尖(とが)り、かつ、キラキラと光りだしてきた。
 自分は神界の旅行をしてをるつもりだのに、なぜこんな鬼女(きじよ)のゐるやうな処(ところ)へ来たのであらうかと、胸に手をあてて暫(しばら)く考へてゐた。前後左右に、怪しい、いやらしい身の毛の戦慄(よだ)つやうな音がたまもや、耳を掠(かす)めるのである。自分はどうしても合点(がつてん)がゆかなかつた。途方にくれた揚句(あげく)に、神様のお助けを願はうといふ心がおこつてきた。
 自分は四辺(あたり)の恐ろしいそして殊更(ことさら)に穢(けが)らはしい光景の、眼(め)に触れないやうにと思つて瞑目(めいもく)し静座して、大声に天津祝詞を奏上した。ややあつて「眼(め)を開(あ)け」と教ゆる声が緩(ゆる)やかに聞えた。自分はあまりに眼前(がんぜん)の光景の恐ろしさ、無残(むごたらし)さを再びも目睹(もくと)することが不快でたまらないので、なほも瞑目(めいもく)の態度を持ちつづけてゐた。
 さうすると今度は、前とはやや大きな、そして少し尖(とが)りのあるやうな声で、
 『迷ふなかれ、早く活眼(くわつがん)を開(ひら)いて、神世(かみよ)の荘厳(さうごん)なる状況に眼(め)を醒ませ』
と叫ぶものがあつた。自分は心のうちにて妖怪変化(えうくわいへんげ)の誑惑(けふわく)と思ひつめ、・・・・・そんなことに乗るものかい、尻(しり)でも喰(くら)へ・・・・・と素知らぬふうをして猶(なほ)も瞑目をつづけた。
 『迷へるものよ、時(とき)は近づいた。一時(いちじ)も早く眼(め)を開(ひら)いて、神界の経綸(けいりん)の容易ならざる実況を熟視せよ。神国(しんこく)は眼前(がんぜん)に近づけり。されど眼(まなこ)なきものは、憐(あは)れなるかな。汝(なんじ)いつまで八衢(やちまた)に踏み迷ひ、神の命(めい)ずる神界の探険旅行に出立(しゆつたつ)せざるや』
と言ふものがある。自分は心の中(うち)で・・・・・神界旅行を試み、今かくのごとき不愉快なることを目撃してをるのに、神界の探険せよとは、何者の言(げん)ぞ。馬鹿を言ふな、古狸(ふるだぬき)奴(め)、大きな尻尾をさげて居よつて、俺が知らんと思つて居やがるか知らんが、おれは天眼通(てんがんつう)でチヤンと看破(かんぱ)してをるのだ。鬼化(おにば)け狸(たぬき)に他人は欺(だま)されても、おれは貴様のやうな古狸(ふるだぬき)には、誑(たぶ)らかされないぞ。見る眼(め)も汚(けが)れる・・・・・と考へた。そうするとまた前のやうな声に、すこし怒(いか)りを帯(お)びたやうな調子で、
 『貴様は道(みち)を知らぬ奴(やつ)だ』
と呶鳴(どな)る。
 そのとたんに目を思はず開(ひら)いて見ると、前の光景とは打つて変つた荘厳無比(さうごんむひ)の宝座(ほうざ)が眼前(がんぜん)に現はれた。その一刹那(いちせつな)、松吹く風の音(おと)に気がつくと、豈(あに)計らんや、自分は高熊山のガマの岩の上に端座してゐた。

                        (大正一〇・一〇・一八 旧九・一八 外山豊二録)


           世の為(ため)に生(うま)れ来(き)し身ぞ苦しけれ
                 ひとり千座(ちくら)の置戸(おきど)負(お)ひつつ


第二篇 幽界より神界へ <第一三章 天使の来迎>

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第二篇 幽界より神界へ


<第一三章 天使の来迎(らいがう) (一三)>

 自分はなほ進んで二段目を奥深く究(きは)め、また三段目をも探険せむとした時、にはかに天上から何ともいへぬ嚠喨(りうりやう)たる音楽が聞えてきた。
 そこで空を仰いでみると、白衣盛装(びやくいせいさう)の天使が数人の御供(おとも)を伴(つ)れて、自分の方にむかつて降臨されつつあるのを拝んだ。さうすると何十里とも知れぬ、はるか東南(とうなん)の方に当つて、ほんの小さい富士の山頂が見えてくるやうな気がした。
 自分のその時の心持(こころもち)は、富士山が見えたのであるから、富士山の芙蓉仙人が来たものと思つた。しかしてその前に降(お)りてきた天使を見ると、実に何とも言へぬ威厳(ゐげん)のある、かつ優しい白髪(はくはつ)の、そして白髯(しらひげ)を胸前(むなさき)まで垂(た)れた神人(しんじん)であつた。
 神人は自分に向つて、
 『産土神(うぶすなのかみ)からの御迎へであるから、一時(いちじ)帰るがよい』
との仰せであつた。しかし自分は折角(せつかく)ここまで来たのだから、今一度詳しく調べてみたいと御願ひしてみた。
 けれども御許しがなく、
 『都合によつて天界の修業が急ぐから、一(ひと)まづ帰れ』
と言はるる其(そ)の言葉が未(ま)だ終らぬうちに、紫の雲にわが全身が包まれて、ほとんど三四十分と思はるる間(あひだ)、ふわりふわりと上に昇つてゆくやうな気がした。しかしてにはかに膝が痛みだし、ブルブルと身体(からだ)が寒さに慄(ふる)へてゐるのを覚えた。
 その時には、まだ精神が朦朧(もうろう)としてゐたから、よくは判(わか)らなかつたが、まもなく自分は高熊山の巌窟(がんくつ)の前に端坐(たんざ)してゐることに、明瞭(はつきり)と気が付いた。
 それから約一週間ばかり正気になつてをると、今度はだんだん眠気(ねむけ)を催しきたり、ふたたび霊界の人となつてしまつた。さうすると其処(そこ)へ、小幡神社(をばたじんじや)の大神(おほかみ)として現はれた神様があつた。
 それは自分の産土の神様であつて、
 『今日(こんにち)は実に霊界も切迫(せつぱく)し、また現界も切迫して来てをるから、一(ひと)まづ地底の幽冥界を探究する必要はあるけれども、それよりも神界の探険を先にせねばならぬ。またそれについては、霊肉ともに修業を積まねばならぬから、神界修業の方に向へ』
と仰せられた。そこで自分は、
 『承知しました』
と答へて、命(めい)のまにまに随(したが)ふことにした。
 さうすると今度は自分の身体(からだ)を誰(たれ)とも知らず、非常な大きな手であたかも鷹が雀を引摑(ひつつか)んだやうに、捉(つか)まへたものがあつた。
 やがて降ろされた所を見ると、ちやうど三保の松原(みほのまつばら)かと思はるるやうな、綺麗な海辺に出てゐた。ところが先に二段目で見た富士山が、もつと近くに大きく見えだしたので、今それを思ふと三穂神社(みほのじんじや)だと思はれる所に、ただ一人行つたのである。すると其処(そこ)に二人の夫婦の神様が現はれて、天然笛(てんねんぶえ)と鎮魂の玉(たま)とを授けて下さつたので、それを有難く頂戴して懐(ふところ)に入れたと思ふ一刹那(いちせつな)、にはかに場面が変つてしまひ、不思議にも自分の郷里にある産土神社の前に、身体(しんたい)は端坐してゐたのである。
 ふと気がついて見ると、自分の家は‘つい’そこであるから、一遍帰宅(かへ)つて見たいやうな気がしたとたんに、にはかに足が痛くなり、寒くなりして空腹を感じ、親 兄弟姉妹の事から家政上の事まで憶(おも)い出されてきた。さうすると天使が、
 『御身(おんみ)が今人間に復(かへ)つては、神の経綸(しぐみ)ができぬから神にかへれ』
と言ひながら、白布(しらぬの)を全身に覆(おほ)ひかぶされた。不思議にも心に浮んだ種々(いろいろ)の事は打忘(うちわす)れ、いよいよこれから神界へ旅立つといふことになつた。しかして其(そ)の時持つてをるものとては、ただ天然笛と鎮魂の玉との二つのみで、しかも何時(いつ)のまにか自分は羽織袴(はおりはかま)の黒装束になつてゐた。その処(ところ)へ今一人の天使が、産土神(うぶすながみ)の横に現はれて、教(をし)へたまふやう、
 『今や神界、幽界ともに非常な混乱状態に陥つてをるから、このまま放つておけば、世界は丸潰れになる』
と仰せられ、しかして、
 『御身(おんみ)はこれから、この神の命(めい)ずるがままに神界に旅立ちして高天原に上(のぼ)るべし』
と厳命(げんめい)された。
 しかしながら自分は、高天原に上(のぼ)るには何方(どちら)を向いて行(ゆ)けばよいか判(わか)らぬから、
 『何を目標(めあて)として行(ゆ)けばよいか、また神様が伴(つ)れて行つて下さるのか』
とたづねてみると、
 『天の八衢(あめのやちまた)までは送つてやるが、それから後(のち)は、そうはゆかぬから天の八衢で待つてをれ。さうすると神界の方すなはち高天原の方に行(ゆ)くには、鮮花色(せんくわしよく)の神人(しんじん)が立つてをるからよくわかる。また黒い黒い何ともしれぬ嫌な顔のものが立つてをる方は地獄で、黄疸病(わうだんや)みのやうに黄色い顔したものが立つてゐる方は餓鬼道(がきだう)で、また真蒼(まつさを)な顔のものが立つてをる方は畜生道(ちくしやうだう)で、肝癪筋(かんしやくすじ)を立てて鬼のやうに恐ろしい顔のものが立つてゐる方は修羅道(しゆらだう)であつて、争ひばかりの世界へゆくのだ』
と懇切に教示され、また、
 『汝(なんじ)が先に行つて探険したのは地獄の入口で、一番易(やす)い所であつたのだ。それでは今度は鮮花色(せんくわしよく)の顔した神人の立つてゐる方へ行(ゆ)け。さうすればそれが神界へゆく道である』
と教へられた。しかして又、
 『神界といへども苦しみはあり、地獄といへどもそれ相当の楽しみはあるから、神界だからといつてさう良(よ)い事ばかりあるとは思ふな。しかし高天原の方へ行(ゆ)く時の苦しみは苦しんだだけの効果(かうのう)があるが、反対の地獄の方へ行くのは、昔から其(そ)の身魂(みたま)に罪業(めぐり)があるのであるから、単に罪業(めぐり)を償ふのみで、苦労しても何(なん)の善果(ぜんくわ)も来(きた)さない。もつとも、地獄でも苦労をすれば、罪業(めぐり)を償ふといふだけの効果(かうのう)はある。またこの現界と霊界とは相関聯(あひくわんれん)してをつて、いはゆる霊体不二(れいたいふじ)であるから、現界の事は霊界にうつり、霊界の事はまた現界にうつり、幽界の方も現界の肉体にうつつてくる。ここになほ注意すべきは、神界にいたる道において神界を占領せむとする悪魔があることである。それで汝(なんじ)が今、神界を探険せむとすれば必ず悪魔が出てきて汝を妨げ、悪魔自身神界を探険占領せむとしてをるから、それをさうさせぬやうに、汝を神界へ遣(つか)はされるのだ。また神界へいたる道路(みち)にも、広い道路(みち)もあればまた狭い道路(みち)もあつて、決して広い道路(みち)ばかりでなく、あたかも瓢箪(へうたん)を‘いくつも’竪(たて)に列(なら)べたやうな格好をしてゐるから、細い狭い道路(みち)を通つてゐるときには、‘たつた’一人(ひとり)しか通れないから、悪魔といへども後(あと)から追越(おひこ)すといふわけには行(ゆ)かぬが、広い所へ出ると、四方八方から悪魔が襲(おそ)つて来るので、かへつて苦しめられることが多い』
と教へられた。間もなく、神様の天使は姿を隠させたまひ、自分はただ一人天然笛と鎮魂の玉とを持ち、天(てん)蒼(あを)く水(みづ)青く、山また青き道路(みち)を羽織袴(はおりはかま)の装束(しやうぞく)で、神界へと旅立ちすることとなつた。

                       (大正一〇・一〇・一八 旧九・一八  外山豊二録)


           かくり世の状況(さま)明(あき)らかに示したる
                神の聖典(みふみ)は霊(たま)の真柱(みはしら)


霊界物語 第十五巻 <如意宝珠 寅の巻>

.04 2007 霊界物語 目次 comment(0) trackback(0)
霊 界 物 語  第一五巻  <如意宝珠 寅の巻


・序
・総 説 歌


<第 一 篇 正邪奮戦>
・第一章         破羅門
・第二章         途上の変
・第三章         十六花
・第四章         神の栄光
・第五章         五天狗
・第六章         北山川
・第七章         釣瓶攻
・第八章         ウラナイ教
・第九章         薯蕷汁
・第一〇章        神楽舞

<第 二 篇 古事記言霊解>
第一一章       大蛇退治の段

<第 三 篇 神山霊水>
・第一二章       一人旅
・第一三章       神女出現
・第一四章       奇の岩窟
・第一五章       山の神
・第一六章       水上の影
・第一七章       窟の酒宴
・第一八章       婆々勇

<第 四 篇 神行霊歩>
・第一九章       第一天国
・第二〇章       五十世紀
・第二一章       帰顕
・第二二章       和と戦
・第二三章       八日の月



・口述日        大正一一年三月三一日~四月四日
・口述場所       綾部 錦水亭



第二篇 幽界より神界へ <第一二章 顕幽一致>

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第二篇 幽界より神界へ


<第一二章 顕幽一致(けんいういつち) (一二)>

 自分が高熊山における、顕界(けんかい)と、霊界の修業の間(あいだ)に、親しく実践したる大略(たいりやく)の一端(いつたん)を略述してみたのは、真(ほん)の一小部分(いちせうぶぶん)に過ぎない。
 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如(ぜんあくいちによ)にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない。従つてまた、絶対の極楽(ごくらく)もなければ、絶対の苦艱(くかん)もないといつて良(よ)いくらゐだ。
 歓楽の内(うち)に艱苦(かんく)があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。ゆゑに根(ね)の国、底(そこ)の国に墜ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに、自己の身魂(みたま)より産出したる報いである。また顕界の者の霊魂(みたま)が、常に霊界に通じ、霊界からは、常に顕界と交通を保ち、幾百千万年といへども易(かは)ることはない。神諭に、・・・・・天国も地獄も皆(みな)自己の身魂(みたま)より顕出(けんしゆつ)する。故(ゆゑ)に世の中には悲観を離れた楽観はなく、罪悪と別立(べつりつ)したる真善美(しんぜんび)もない。苦痛を除いては、真(しん)の快楽は求められるものでない。また凡夫(ぼんぷ)の他(ほか)に神はない。言(げん)を換(かへ)ていへば善悪不二(ぜんあくふじ)にして正邪一如(せいじやいちによ)である。・・・・・仏典にいふ。 「煩悩即菩提(ぼんなうそくぼだい)。生死即涅槃(しやうじそくねはん)。娑婆即浄土(しやばそくじやうど)。仏凡本来不二(ぶつぽんほんらいふじ)」である。神の道からいへば「神俗本来不二(しんぞくほんらいふじ)」が真理である。
 仏(ぶつ)の大慈悲(だいじひ)といふも、神の道の恵み幸(さち)はひといふも、凡夫の欲望といふのも、その本質においては大した変りはない。凡俗の持てる性質そのままが神であるといつてよい。神の持つてをらるる性質の全体が、皆(みな)ことごとく凡俗に備(そな)はつてをるといつてもよい。
 天国浄土と社会娑婆とは、その本質において、毫末(がうまつ)の差異(さい)もないのである。かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、何ゆゑに神俗、浄穢(じやうゑ)、正邪、善悪が分(わか)るるのであらうか。要するに此(こ)の本然の性質を十分に発揮して、適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、附(ふ)したる仮定的の符号に過ぎないのだ。
 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、時(とき)と処(ところ)と位置によつて、善も悪となり、悪も善となることがある。
 道(みち)の大原(たいげん)にいふ。「善は天下公共のために処(しよ)し、悪は一人(いちにん)の私有に所(しよ)す。正心徳行(せいしんとくかう)は善なり、不正無行(ふせいむかう)は悪なり」と。何ほど善(よ)き事といへども、自己一人(じこひとり)の私有に所(しよ)するための善は、決して真(しん)の善ではない。たとへ少々ぐらゐ悪が有(あ)つても、天下公共のためになる事なれば、これは矢張(やはり)善と言はねばならぬ。文王(ぶんわう)一(ひと)たび怒(いか)つて天下治まる。怒(いか)るもまた可(か)なり、といふべしである。
 これより推(お)し考(かんが)ふる時は、小さい悲観の取るに足らざるとともに、勝論外道的(しようろんげだうてき)の暫有的小楽観(ざんいうてきせうらくくわん)もいけない。大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、神は大楽観者(だいらくくわんしや)であると同時に、大悲観者である。
 凡俗は小(せう)なる悲観者であり、また小なる楽観者である。社会、娑婆、現界は、小苦小楽(せうくせうらく)の境界であり、霊界は、大楽大苦(だいらくだいく)の位置である。理趣経(りしゆきやう)には、「大貪大痴(だいとんだいち)是(こ)れ三摩地(さんまぢ)、是(こ)れ浄菩提(じやうぼだい)、淫欲是道(いんよくぜだう)」とあつて、いはゆる当相即道(たうさうそくだう)の真諦(しんたい)である。
 禁欲主義はいけぬ。恋愛は神聖であるといつて、しかも之(これ)を自然主義的、本能的で、すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。これを拡充(くわくじゆう)して宇宙大に実行するのが神である。
 神は三千世界の蒼生(さうせい)は、皆(みな)わが愛子(あいじ)となし、一切の万有を済度(さいど)せむとするの、大欲望(だいよくばう)がある。凡俗はわが妻子(さいし)眷属(けんぞく)のみを愛し、すこしも他(た)を顧(かへり)みないのみならず、自己のみが満足し、他(た)を知らざるの小貪慾(せうとんよく)を擅(ほしいまま)にするものである。人の身魂(みたま)そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得(う)べき、天賦的本能(てんぷてきほんのう)を具備(ぐび)してをる。それで此(こ)の天賦(てんぷ)の本質なる、智(ち)、愛(あい)、勇(ゆう)、親(しん)を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。吾人(ごじん)の善悪両様(ぜんあくりやうやう)の動作が、社会人類のため済度(さいど)のために、そのまま賞罰二面(しやうばつにめん)の大活動を呈(てい)するやうになるものである。この大(だい)なる威力と活動とが、すなはち神であり、いはゆる自我の宇宙的拡大である。
 いづれにしても、この分段(ぶんだん)生死(しやうじ)の肉身(にくしん)、有漏雑染(うろざつせん)の識心(しきしん)を捨てず、また苦穢濁悪(くゑじよくあく)不公平なる現社会に離れずして、ことごとく之(これ)を美化し、楽化(らくくわ)し、天国浄土を眼前(がんぜん)に実現せしむるのが、吾人(ごじん)の成神観(せいしんくわん)であつて、また一大眼目(がんもく)とするところである。

                                  (大正一〇・二・八・王仁)



第一篇 幽界の探険 <第一一章 大幣(おほぬさ)の霊験(れいけん)>

.03 2007 第一巻 霊主体従 子の巻 comment(0) trackback(1)
第一篇 幽界の探険


<第一一章 大幣(おほぬさ)の霊験(れいけん) (一一)>

 一歩々々辛うじて前進すると、広大な池があつた。池の中には全部いやらしい毛虫がウザウザしてをる。その中に混(まじ)つて馬の首を四(よ)ツ合(あは)せたやうな顔をした蛇体で角が生えたものが、舌をペロペロ吐き出してをる。この広い池には、細い細い氷の橋が一筋長く向(むこ)ふ側へ渡してあるばかりである。後(あと)から「松(まつ)」「中(なか)」「畑(はたけ)」といふ鬼が十字形(じふじけい)の尖(とが)つた槍をもつて突きにくるので、前へすすむより仕方はない。十人が十人ながら、池へすべり落(おち)て毛虫に刺され、どれもこれも全身腫れあがつて、痛さと寒さに苦悶の声をしぼり、虫の鳴くやうに呻(うな)つてをる状態は、ほとんど瀕死の病人同様である。その上、怪蛇(くわいだ)が一人々々カブツとくはへては吐きだし、骨も肉も搾(しぼ)つたやうにいぢめてをる。自分もこの橋を渡らねばならぬ。自分は幸(さいはひ)に首尾よく渡りうるも、連(つれ)の人々はどうするであらうかと心配でならぬ。躊躇(ちうちよ)逡巡(しゆんじゆん)進みかねたるところへ、「三ツ葉殿(みつばどの)」と頭(あたま)の上から優しい女の声が聞えて、たちまち一本の大幣(おほぬさ)が前に降(くだ)つてきた。手早く手にとつて、思はず「祓戸大神(はらひどのおほかみ)祓(はら)ひたまへ清めたまへ」と唱へた。広い池はたちまち平原と化し、鬼も怪蛇(くわいだ)も姿を消してしまつた。数万人の老若男女(ろうにやくなんによ)の幽体はたちまち蘇生したやうに元気な顔をして、一斉に「三ツ葉様」と叫んだ。その声は、天地も崩れんばかりであつた。各人(かくじん)の産土(うぶすな)の神は綺羅星(きらほし)のごとくに出現したまひ、自分の氏子(うぢこ)々々を引連(ひきつ)れ、歓び勇んで帰つて行(ゆ)かれる有難さ。
 自分は比礼(ひれ)の神器を舟木に渡して、困つてをつたところへ、金勝要神(きんかつかねのかみ)より、大幣(おほぬさ)をたまはつたので、百万の援軍を得たる心地して、名も知れぬ平原をただ一人またもや進んで行(ゆ)く。
 一つの巨大な洋館が、儼然として高くそびえ立つてをる。門口(もんぐち)には厳(いか)めしき冥官(めいくわん)が鏡のやうな眼(め)を見張つて、前後左右に首(かうべ)をめぐらし監視してをる。部下の冥卒が数限りもなく現はれ、各自に亡人(もうじん)を酷遇(こくぐう)するその光景は筆紙(ひつし)につくされない惨酷さである。自分は大幣(おほぬさ)を振りながら、館内へ歩(ほ)をすすめた。冥官も、冥卒もただ黙(もく)して自分の通行するのを知らぬふうをしてゐる。「キヤツキヤツ」と叫ぶ声にふりかへると、沢山の婦女子(ふぢよし)が口から血を吐いたり、槍で腹部を突き刺されたり、赤児(あかご)の群(むれ)に全身の血を吸はれたり、毒蛇(どくじや)に首(くび)を捲(ま)かれたりして、悲鳴をあげ七転八倒(しちてんばつたふ)してゐた。冥卒が竹槍の穂で、頭(あたま)といはず、腹(はら)といはず、身体(しんたい)処(ところ)かまはず突きさす恐ろしさ、血は流れて滝となり、異臭を放ち、惨状目もあてられぬ光景である。またもや大幣(おほぬさ)を左右左(さいうさ)に二三回(にさんくわい)振りまはした。今までのすさまじき幕はとざされ、婦女子の多勢(おほぜい)が自分の脚下(あしもと)に涙を流して集まりきたり、中には身体(しんたい)に口をつけ「三ツ葉様、有難う、辱(かたじけ)なう」と、異口同音に嬉し泣きに泣いてをる。一天(いつてん)たちまち明光(めいくわう)現はれ、各人の産土神(うぶすなのかみ)は氏子(うぢこ)を伴(とも)なひ、合掌(がつしやう)しながら、光(ひかり)とともにどこともなく帰らせたまうた。天の一方(いつぱう)には歓喜にみちた声が聞える。声は次第に遠ざかつて終(つひ)には風の音(おと)のみ耳へ浸(し)みこむ。



第一篇 幽界の探険 <第一〇章 二段目の水獄>

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第一篇 幽界の探険


<第一〇章 二段目の水獄(すゐごく) (一〇)>

 自分は寒さと寂しさにただ一人、「天照大神(あまてらすおほかみ)」の神号(しんがう)を唱へ奉(たてまつ)ると、にはかに全身暖かくなり、空中に神光(しんくわう)輝きわたる間(ま)もなく、芙蓉仙人(ふようせんにん)が眼前(がんぜん)に現はれた。あまりの嬉しさに近寄り抱付(だきつ)かうとすれば、仙人はつひに見たこともない険悪(けんあく)な顔色(かほいろ)をして、
 『いけませぬ。大王(たいわう)の命(めい)なれば、三ツ葉殿(みつばどの)、吾(われ)に近寄つては今までの修業は水泡に帰すべし。これにて一段目は大略(たいりやく)探険されしならむ。第二段の門扉(もんぴ)を開(ひら)くために来たれり』
と言ひも終らぬに、早くもギイーと怪しい音がした一刹那(いちせつな)、自分は門内(もんない)に投込(なげこ)まれてゐた。仙人の影はそこらに無い。
 ヒヤヒヤとする氷結した暗い途(みち)を倒(こけ)つ転(まろ)びつ、地の底へ地の底へとすべりこんだ。暗黒で何一つ見えぬが、前後左右に何とも言へぬ苦悶(くもん)の声がする。はるか前方(まへ)に、女の苦しさうな叫び声が聞える。血腥(ちなまぐさ)い臭気が鼻を衝(つ)いて、胸が悪くて嘔吐を催してくる。たちまち脚元(あしもと)がすべつて、何百間(なんびやくけん)とも知れぬやうな深い地底へ急転直落した。腰も足も頭(あたま)も顔も岩角に打たれて血塗(ちみどろ)になつた。神名(しんめい)を奉唱(ほうしやう)すると、自分の四辺(しへん)数十間(すうじつけん)ばかりがやや明るくなつてきた。自分は身体(しんたい)一面の傷を見て大いに驚き「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を二度繰返して、手に息をかけ全身を撫(な)でさすつてみた。神徳(しんとく)たちまち現はれ、傷も痛みも全部恢復(くわいふく)した。ただちに大神様(おほかみさま)に拍手(はくしゆ)し感謝した。言霊(ことたま)の神力(しんりき)で四辺(しへん)遠く暗(やみ)は晴れわたり、にはかに陽気づいてきた。
 再び上(うへ)の方で、ギイーと音がした瞬間に、十二三人(じふにさんにん)の男女が転落して自分の脚下(あしもと)に現はれ、「助けて助けて」としきりに合掌する。自分は比礼(ひれ)をその頭上目がけて振つてやると、たちまち起きあがり「三ツ葉様」と叫んで、一同声を合(あは)して泣きたてる。一同の中には宗教家、教育家、思想家、新聞雑誌記者、薬種商(やくしゆしやう)、医業者も混(まじ)つてゐた。一同は氷の途(みち)をとぼとぼと自分の背後からついてくる。


第一篇 幽界の探険 <第九章 雑草の原野>

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第一篇 幽界の探険


<第九章 雑草の原野(げんや) (九)>

 雑草の原野(げんや)の状況は、実に殺風景であつた。自分は、いつしか又一人となつてゐた。頭(あたま)の上からザラザラと怪しい音がする。何心(なにごころ)なく仰向(あふむ)くとたんに両眼(りやうがん)に焼砂(やけずな)のやうなものが飛び込み、眼(め)を開(ひら)くこともできず、第一に眼の球(たま)が焼けるやうな痛さを感ずるとともに四面暗黒(しめんあんこく)になつたと思ふと、何物とも知らず自分の左右の手を抜けんばかりに曳(ひ)くものがある。また両脚(りやうあし)を左右に引き裂かうとするなんとも形容のできぬ苦しさである。頭上からは冷たい氷の刃(やいば)で梨割(なしわ)りにされる。百雷(ひやくらい)の一時(いちじ)に轟(とどろ)くやうな音がして、地上は波のやうに上下左右に激動する。怪しい、いやらしい、悲しい声が聞える。自分は一生懸命になつて、例の「アマテラスオホミカミ」を、切れぎれに漸(や)つと口唱(こうしやう)するとたんに、天地開明(てんちかいめい)の心地(ここち)して目の痛みもなはり、不思議や自分は女神(めがみ)の姿に化してゐた。
 舟木ははるかの遠方から、比礼(ひれ)を振りつつ此方(こつち)へむかつて帰つてくる。その姿を見たときの嬉しさ、二人は再会の歓喜に充(み)ち、暫時(ざんじ)休息してゐると、後(あと)より「松(まつ)」といふ悪鬼(あくき)が現はれ、光(ひかり)すさまじき氷の刃(やいば)で切つてかかる。舟木はただちに比礼を振る、自分は神名(しんめい)を唱へる。悪鬼は二三の同類とともに足早に南方さして逃げてゆく。
 どこからともなく「北へ北へ」と呼ばはる声に、機械のごとく自分の身体(からだ)が自然に進んで行(ゆ)く。そこへ「坤(ひつじさる)」といふ字のついた、王冠をいただいた女神が、小松林(こまつばやし)といふ白髪(はくはつ)の老人とともに現はれて、一本(いつぽん)の太い長い筆を自分に渡して姿を隠された。見るまに不思議やその筆の筒から硯(すずり)が出る、墨が出る、半紙(はんし)が山ほど出てくる。そして姿は少しも見えぬが、頭(あたま)の上から「筆を持て」といふ声がする。二三人の童子(どうじ)が現はれて硯(すずり)に水を注(つ)ぎ墨を摺(す)つたまま、これも姿をかくした。
 自分は立派な女神の姿に変化したままで、一生懸命に半紙(はんし)にむかつて機械的に筆をはしらす。ずゐぶん長い時間であつたが、冊数はたしかに五百六十七(ごひやくろくじふしち)であつたやうに思ふ。そこへにはかに何物かの足音が聞えたと思ふまもなく、前の「中(なか)」といふ鬼が現はれ、槍(やり)の先に数十冊づつ突き刺し、をりからの暴風(ばうふう)目がけ中空(ちゆうくう)に散乱させてしまうた。さうすると、又もや数十冊分の同じ容積の半紙が、自分の前にどこからともなく湧いてくる。また是(これ)も筆をはしらさねばならぬやうな気がするので、寒風(かんぷう)の吹きすさぶ野原(のはら)の枯草の上に坐(すわ)つて、凹凸(あふとつ)のはなはだしい石の机に紙を伸(の)べ、左手(ゆんで)に押さへては、セッセと何事かを書いてゐた。そこへ今度は眼球(めだま)の四(よつ)ツある怪物を先導に、“平(ひら)”だの、“中(なか)”だの、“木(き)”だの、“後(ご)”だの、“田(た)”だの、“竹(たけ)”だの、“村(むら)”だの、“与(よ)”だの、“藤(とう)”だの、“井(ゐ)”だの印(しるし)の入(い)つた法被(はつぴ)を着た鬼がやつてきて、残らず引(ひき)さらへ、二三丁先の草の中へ積み重ねて、これに火をかけて焼く。
 そこへ、「西(にし)」といふ色の蒼白(あをじろ)い男が出てきて、一抱(ひとかか)へ抜きだして自分の前へ持つてくる。鬼どもは一生懸命に「西(にし)」を追ひかけてくる。自分が比礼(ひれ)をふると驚いて皆(みな)逃げてゆく。火は大変な勢(いきほひ)で自分の書いたものを灰にしてゐる。黒い煙が竜(りゆう)の姿に化(な)つて天上(てんじやう)へ昇つてゆく。天上では電光のやうに光つて、数限りなき星と化してしまうた。その星明りに「西(にし)」は書類を抱へて、南の空高く姿を雲に隠した。女神の自分の姿は、いつとはなしに又元の囚人の衣(ころも)に復(かへ)つてをつた。俄然(がぜん)寒風(かんぷう)吹き荒(すさ)み、歯はガチガチと震うてきた。そして何だかおそろしいものに、襲はれたやうな寂しい心持がしだした。


             悪人を標準として造りたる
                 規定(おきて)の道の狭苦しきかな

             世を救ふメシヤの後魂(みたま)と知らずして
                 苦しめし果(は)て世の様(さま)を見よ

             神の道歩む身ながら根(ね)の国の
                 暗(やみ)探り行(ゆ)く人ぞ誰(たれ)なる




        

第一篇 幽界の探険 <第八章 女神の出現>

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第一篇 幽界の探険


<第八章 女神(めがみ)の出現 (八)>

 不思議に堪(た)へずして、自分は金色(きんしよく)燦爛(さんらん)たる珍玉(ちんぎよく)の明光(めいくわう)を拝して、何となく力強く感じられ、眺めてゐた。次第々々に玉(たま)は大きくなるとともに、水晶のごとくに澄みきり、たちまち美(うる)はしき女神の姿と変化した。全身金色(こんじき)にして仏祖(ぶつそ)のいはゆる、紫摩黄金(しまわうごん)の肌(はだへ)で、その上に玲瓏透明(れいろうとうめい)にましまし、白の衣裳と、下は緋(ひ)の袴(はかま)を穿(うが)ちたまふ、愛情あふるるばかりの女神であつた。女神は、自分の手をとり笑(ゑみ)を含んで、
 『われは大便所(かはや)の神なり。汝に之(これ)を捧げむ』
と言下(げんか)に御懐中(みふところ)より、八寸(はつすん)ばかりの比礼(ひれ)を自分の左手(ゆんで)に握らせたまひ、再会を約して、また元のごとく金色(こんじき)の玉となりて中空(ちゆうくう)に舞ひ上(のぼ)り、電光石火(でんくわうせきくわ)のごとく、九重(ここのへ)の雲深く天上(てんじやう)に帰らせたまうた。
 その当時は、いかなる神様なるや、また自分にたいして何ゆゑに、かくのごとき珍宝(ちんぽう)を、かかる寂寥(せきれう)の境域に降(くだ)りて、授けたまひしやが疑問であつた。しかし参綾後(さんれうご)はじめて氷解ができた。
 教祖の御話(おはなし)に、
 『金勝要神(きんかつかねのかみ)は、全身黄金色(わうごんしよく)であつて、大便所(かはや)に永年(ながねん)のあひだ落(おと)され、苦労艱難(くらうかんなん)の修行を積んだ大地の金神様(こんじんさま)である。その修行が積んで、今度は世に出て、結構な御用を遊ばすやうになりたのであるから、人間は大便所(かはや)の掃除から、歓(よろ)んで致すやうな精神にならぬと、誠の神の御用はできぬ。それに今の人民さんは、高い処(ところ)へ上(あが)つて、高い役をしたがるが、神の御用をいたすものは、汚穢所(きたないところ)を、美しくするのを楽しんで致すものでないと、三千世界(さんぜんせかい)の大洗濯(おほせんだく)、大掃除(おほさうぢ)の御用は、到底勤め上(あが)りませぬ』
との御言葉(おことば)を承はり、かつ神諭の何処(いづこ)にも記されたるを拝(はい)して、奇異(きい)の感に打たれ、神界の深遠微妙(しんゑんびめう)なる御経綸に驚いた。
 女神に別れ、ただ一人、太陽も月も星も見えぬ山野(さんや)を深く進みゆく。
       山深く分け入る吾(われ)は日も月も
          星さへも見ぬ狼の声
 冷たい途(みち)の傍(かたはら)に沼とも知れぬ汚い水溜(みづたま)りがあつて、その水に美しい三十歳余りの青年が陥(おちい)り、諸々(もろもろ)の虫に集(たか)られ、顔はそのままであるが首から下は全部蚯蚓(みみず)になつてしまひ、見るまに顔までがすつかり数万の蛆虫(うじむし)になつてしまつた。私は思はず、「天照大神(あまてらすおほかみ)、産土神(うぶすなのかみ)、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と二回ばかり繰返した。不思議にも元の美しい青年になつて、その水溜りから這(は)ひ上(あが)り、嬉しさうな顔して礼を述べた。その青年の語るところによると、
 『竜女(りゆうじよ)を犯した祖先の罪によつて、自分もまた悪い後継者となつて竜女を犯しました。その罪によつて、かういふ苦しみを受くることになつたのでありますが、今、あなたの神文(しんもん)を聞いて忽(たちま)ちこの通りに助かりました』
といつて感謝する。
 それから自分は、天照大神(あまてらすおほかみ)の御神号(ごしんがう)を一心不乱に唱へつつ前進した。月もなく、烏(からす)もなく、霜は天地(てんち)に充(み)ち、寒さ酷(きび)しく膚(はだへ)を断(き)るごとく、手も足も棒のやうになり息も凍(こご)らむとする時、またもや「天照大御神(あまてらすおほみかみ) 惟神霊幸倍坐世」と口唱(こうしやう)し奉(まつ)つた。不思議にも言霊(ことたま)の神力(しんりき)著しく、たちまち全身に暖(だん)を覚え、手も足も湯に入(い)りしごとくなつた。
 アゝ地獄で神とは、このことであると、感謝の涙は滝と流るるばかりであつた。四五十丁も辿(たど)り行(ゆ)くと、そこに一つの断崖に衝(つ)き当る。止むをえず、引き返さむとすれば鋭利なる槍の尖(さき)が、近く五六寸の処にきてゐる。この上は神に任(まか)し奉(まつ)らむと決意して、氷に足をすべらせつつ右手(めて)を見れば、深き谷川があつて激潭飛沫(げきたんひまつ)、流声(りうせい)物すごき中に、名も知れぬ見た事もなき恐ろしき動物が、川へ落ちたる旅人を口にくはへて、谷川の流れに浮いたり、沈んだり、旅人は「助けて助けて」と、一点張(いつてんばり)に叫んでゐる。自分は、ふたたび神号(しんがう)を奉唱(ほうしやう)すると、旅人をくはへてゐた怪物の姿は沫(あわ)と消えてしまつた。
 助かつた旅人の名は舟木(ふなき)といふ。彼は喜んで自分の後(あと)を跟(つ)いてきた。一人の道連れを得て、幾分か心は丈夫になつてきた。危(あやふ)き断崖を辛うじて五六十丁ばかり進むと、途(みち)が無くなつた。薄暗い途を行(ゆ)く二人は、ここに停立(ていりつ)して思案にくれてゐた。さうすると何処(どこ)ともなく大声で、
 『ソレ彼ら二人を、免(の)がすな』
と呼ぶ。にはかに騒々しき物音しきりに聞え来たり、口の巨大なる怪物が幾百ともなく、二人の方へ向つて襲ひくる様子である。二人は進退これ谷(きは)まり、いかがはせむと狼狽(らうばい)の体(てい)であつた。何ほど神号を唱へても、少しも退却せずますます迫(せま)つてくる。今まで怪物と思つたのが、不思議にもその面部(めんぶ)だけは人間になつてしまつた。その中で巨魁(きよくわい)らしき魔物は、たちまち長剣(ちやうけん)を揮(ふる)つて両人に迫(せま)りきたり、今や斬り殺されむとする刹那(せつな)に、白衣金膚(びやくいきんぷ)の女神が、ふたたびその場に光りとともに現はれた。そして、「比礼(ひれ)を振らせたまへ」と言つて姿は忽(たちま)ち消えてしまつた。懐中(ふところ)より神器(しんき)の比礼を出すや否や、上下左右に祓(はら)つた。怪物はおひおひと遠く退却する。ヤレ嬉しやと思ふまもなく、忽然(こつぜん)として大蛇(おろち)が現はれ、巨口(きよこう)を開(ひら)いて両人(ふたり)を呑んでしまつた。両人(りやうにん)は大蛇(おろち)の腹の中を探り探り進んで行(ゆ)く。今まで寒さに困つてゐた肉体は、どこともなく、暖(あたたか)い湯に浴したやうな心持(こころもち)であつた。轟然(ぐわうぜん)たる音響とともに幾百千丈(ぢやう)ともわからぬ、奈落(ならく)の底へ落ちゆくのであつた。
 ふと気がつけば幾千丈とも知れぬ、高い滝の下に両人(りやうにん)は身を横たへてゐた。自分の周囲は氷の柱が、幾万本とも知れぬほど立つてをる。両人は、この高い瀑布(ばくふ)から、地底へ急転直落したことを覚(さと)つた。一寸(いつすん)でも、一分(いちぶ)でも身動きすれば、冷(ひえ)きつた氷の剣(つるぎ)で身を破(やぶ)る。起きるにも起きられず、同伴の舟木を見ると、魚(うを)を串に刺したやうに、長い鋭い氷剣(ひようけん)に胴のあたりを貫かれ、非常に苦しんでゐる。自分は満身の力をこめて、「アマテラスオホミカミサマ」と、一言(ひとこと)つづ切れ切れ(きれぎれ)に、やうやくにして唱え奉(まつ)つた。神徳たちまち現はれ、自分も舟木も身体自由になつてきた。今までの瀑布は、どこともなく、消え失せて、ただ茫々(ばうばう)たる雪の原野(げんや)と化してゐた。
 雪の中に、幾百人とも分らぬほど人間の手や足や頭(あたま)の一部が出てゐる。自分の頭の上から、にはかに山岳も崩るるばかりの響(ひびき)がして、雪塊(ゆきだま)が落下し来(きた)り、自分の全身を埋(うづ)めてしまふ。にはかに比礼(ひれ)を振らうとしたが、容易に手がいふことをきかぬ。丁度鉄でこしらへた手のやうになつた。一生懸命に「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」を漸(やうや)く一言(ひとこと)づつ唱へた。幸(さいはひ)に自分の身体(しんたい)は自由が利(き)くやうになつた。四辺(あたり)を見れば、舟木の全身が、また雪に埋(うづ)められ、頭髪だけが現はれてゐる。その上を比礼をもつて二三回左右左(さいうさ)と振りまはすと、舟木は苦しさうな顔をして、雪中(せつちゆう)から全身をあらはした。天の一方より、またまた金色(こんじき)の光現はれて二人の身辺を照した。原野(げんや)の雪は、見渡すかぎり、一度にパツと消えて、短い雑草の原(はら)と変つた。
 あまたの人々は満面笑(ゑみ)を含んで自分の前にひれ伏し、救主(すくひぬし)の出現と一斉に感謝の意を表(へう)し、今後は救主とともに、三千世界の神業に参加奉仕せむことを希望する人々も沢山にあつた。その中には実業家もあれば、教育家もあり、医者や、学者も、沢山に混(まじ)つてをつた。
 以上は、水獄(すゐごく)の中にて第一番の処であつた。第二段、第三段となると、こんな軽々しき苦痛ではなかつたのである。自分は、今この時のことを思ひだすと、慄然(りつぜん)として肌(はだへ)に粟(あは)を生ずる次第である。




第一篇 幽界の探険 <第七章 幽丁の審判>

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第一篇 幽界の探険


<第七章 幽庁の審判 (七)>

 ここに大王(たいわう)の聴許(ちやうきよ)をえて、自分は産土神(うぶすなのかみ)、芙蓉仙人とともに審判廷の傍聴をなすことを得た。仰ぎ見るばかりの高座(かうざ)には大王出御(しゆつぎよ)あり、二三尺下の座には、形相すさまじき冥官(めいくわん)らが列座してゐる。最下の審判廷には数多(あまた)の者が土下座になつて畏(かしこ)まつてゐる。見わたせば自分につづいて大蛇(おろち)の川をわたつてきた旅人も、早すでに多数の者の中に混じりこんで審判の言ひ渡しを待つてゐる。日本人ばかりかと思へば、支那人(しなじん)、朝鮮人、西洋人なぞも沢山にゐるのを見た。自分はある川柳(せんりう)に、
 『唐人(たうじん)を入(い)り込みにせぬ地獄の絵』
といふのがある、それを思ひだして、この光景を怪(あや)しみ、仙人に耳語(じご)してその故(ゆゑ)を尋ねた。何と思つたか、仙人は頭(かしら)を左右に振つたきり、一言(ひとこと)も答へてくれぬ。自分も強(しひ)て尋ねることを控へた。
 ふと大王の容貌を見ると、アツと驚いて倒れむばかりになつた。そこを産土(うぶすな)の神と仙人とが左右から支へて下さつた。もしこのときに二柱(ふたはしら)の御介抱がなかつたら、自分は気絶したかも知れぬ。今まで温和優美にして犯すべからざる威厳(ゐげん)を具(そな)へ、美(うる)はしき無限の笑(ゑみ)をたたへたまひし大王の形相は、たちまち真紅と変じ、眼(め)は非常に巨大に、口は耳のあたりまで引裂け、口内より火焔(くわえん)の舌を吐きたまふ。冥官また同じく形相すそまじく、面(おもて)をあげて見る能(あた)はず、審判廷はにはかに物凄さを増してきた。
 大王は中段に坐せる冥官の一人を手招きしたまへば、冥官かしこまりて御前(ごぜん)に出(い)づ。大王は冥官に一巻(いつくわん)の書帳(しよちよう)を授けたまへば、冥官うやうやしく押(おし)いただき元の座に帰りて、一々罪人(ざいにん)の姓名を呼びて判決文を朗読するのである。番卒(ばんそつ)は順次に呼ばれたる罪人を引きたてて幽廷を退く。現界の裁判のごとく予審だの、控訴だの大審院(だいしんゐん)だのといふやうな設備もなければ、弁護人もなく、単に判決の言ひ渡しのみで、きはめて簡単である。自分は仙人を顧(かへり)みて、
 『何ゆゑに冥界(めいかい)の審判は斯(か)くのごとく簡単なりや』
と尋ねた。仙人は答へて、
 『人間界の裁判は常に誤判がある。人間は形の見へぬものには一切駄目である。ゆゑに幾度(いくど)も慎重に審査せなくてはならぬが、冥界の審判は三世(さんぜ)洞察自在の神の審判なれば、何ほど簡単であつても毫末(がうまつ)も過誤(くわご)はない。また罪の軽重(けいちよう)大小は、大蛇川(おろちがは)を渡るとき着衣の変色によりて明白(めいはく)に判ずるをもつて、ふたたび審判の必要は絶無なり』
と教へられた。一順(いちじゆん)言ひ渡しがすむと、大王はしづかに座を立ちて、元の御居間(おゐま)に帰られた。自分もまた再び大王の御前(おんまへ)に招(せう)ぜられ、恐(おそ)る恐(おそ)る顔を上げると、コハそもいかに、今までの恐ろしき形相は跡形もなく変らせたまひて、また元の温和にして慈愛に富(と)める、美(うる)はしき御面貌(ごめんばう)に返つてをられた。神諭に、
 『因縁(いんねん)ありて、昔からおに(鬼にツノを省いた字)神(がみ)と言はれた、艮(うしとら)の金神(こんじん)のそのままの御魂(みたま)であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いふに言はれぬ、優しき神であれども、ちよつとでも、心に身慾(みよく)がありたり、慢神(まんしん)いたしたり、思惑(おもわく)がありたり、神に敵対心(てきたいごころ)のある人民が、傍(そば)へ出て参りたら、すぐに相好(さうがう)は変りて、鬼か、大蛇(おろち)のやうになる恐い身魂(みたま)であるぞよ』
と示されてあるのを初めて拝(はい)したときは、どうしても、今度の冥界にきたりて大王に対面したときの光景を、思い出さずにはをられなかつた。また教祖をはじめて拝顔(はいがん)したときに、その優美にして温和、かつ慈愛に富める御面貌を見て、大王の御顔(おかほ)を思ひ出さずにはをられなかつた。
 大王は座より立つて自分の手を堅(かた)く握りながら、両眼(りやうがん)に涙をたたへて、
 『三葉殿(みつばどの)御苦労なれど、これから冥界の修業の実行をはじめられよ。顕幽(けんいう)両界のメシヤたるものは、メシヤの実学(じつがく)を習つておかねばならぬ。湯なりと進(しん)ぜたいは山々なれど、湯も水も修行中には禁制である。さて一時(いちじ)も早く実習にかかられよ』
と御声(みこゑ)さへも湿(しめ)らせたまふた。ここで産土の神は大王に、
 『何分よろしく御頼(おたの)み申し上げます』
と仰せられたまま、後(あと)をもむかず再び高き雲に乗りて、いづれへか帰つてゆかれた。
 仙人もまた大王に黙礼して、自分には何も言はず早々に退座せられた。跡に取りのこされた自分は少しく狼狽(らうばい)の体(てい)であつた。大王の御面相(ごめんさう)は、俄然(がぜん)一変してその眼(め)は鏡のごとく光り輝き、口は耳まで裂け、ふたたび面(おもて)を向けることができぬほどの恐ろしさ。そこへ先ほどの冥官が番卒を引連れ来たり、たちまち自分の白衣(びやくい)を脱がせ、灰色の衣服に着替(きがへ)させ、第一の門(もん)から突き出してしまつた。
 突き出されて四辺(あたり)を見れば、一筋(ひとすじ)の汚い細い道路(みち)に枯草(かれくさ)が塞(ふさ)がり、その枯草が皆(みな)氷の針のやうになつてゐる。後(あと)へも帰れず、進むこともできず、横へゆかうと思へば、深い広い溝が掘つてあり、その溝の中には、恐ろしい厭(いや)らしい虫が充満してゐる。自分は進みかね、思案(しあん)にくれてゐると、空には真黒な怪しい雲が現はれ、雲の間(あひだ)から恐ろしい鬼のやうな物が睨(にら)みつめてゐる。後(あと)からは恐い顔した柿色の法被(はつぴ)を着た冥卒が、穂先(ほさき)の十字形(じふじがた)をなした鋭利な槍(やり)をもつて突き刺さうとする。止(や)むをえず逃げるやうにして進みゆく。
 四五丁ばかり往(い)つた処(ところ)に、橋のない深い広い川がある。何心(なにごころ)なく覗(のぞ)いてみると、何人(なにびと)とも見分けはつかぬが、汚い血とも膿(うみ)ともわからぬ水に落ちて、身体中(からだぢゆう)を蛭(ひる)が集(たか)つて空身(あきみ)の無い所まで血を吸うてゐる。旅人は苦(くるし)さうな声でヒシつてゐる。自分もこの溝を越えねばならぬが、翼(つばさ)なき身は如何(いか)にして此(こ)の広い深い溝が飛び越えられやうか。後(あと)からは赤い顔した番卒が、鬼の相好(さうかう)に化(な)つて鋭利の槍をもつて突刺さうとして追ひかけてくる。進退これきはまつて、泣くに泣けず煩悶(はんもん)してをつた。にはかに思ひ出したのは、先ほど産土の神から授かつた一巻(いつくわん)の書である。懐中(くわいちゆう)より取出し押しいただき披(ひら)いて見ると、畏(かしこ)くも『天照大神(あまてらすおほかみ)、惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)』と唱(とな)へたとたんに、身は溝の向ふへ渡つてをつた。
 番卒はスゴスゴと元の途(みち)へ帰つてゆく。まづ一安心して歩(ほ)を進めると、にはかに寒気(かんき)酷烈(こくれつ)になり、手足が凍(こご)えてどうすることも出来ぬ。かかるところへ現はれたのが黄金色(こがねいろ)の光であつた。ハツト思つて自分が驚いて見てゐるまに、光の玉が脚下(きやつか)二三尺の所に、忽然(こつぜん)として降(くだ)つてきた。


霊界物語 第十二巻 <霊主体従 亥の巻>

.01 2007 霊界物語 目次 comment(0) trackback(0)
霊 界 物 語  第一二巻  <霊主体従 亥の巻


・序 文
総 説 歌


<第 一 篇 天岩戸開 〔一〕>
・第一章          正神邪霊
・第二章          直会宴
・第三章          蚊取別
・第四章          初蚊斧
・第五章          初貫徹
・第六章          招待
・第七章          覚醒

<第 二 篇 天岩戸開 〔二〕>
・第八章          思出の歌
・第九章          正夢
・第一〇章         深夜の琴
・第一一章         十二支
・第一二章         化身
・第一三章         秋月滝
・第一四章         大蛇ケ原
・第一五章         宣直し
・第一六章         国武丸

<第 三 篇 天岩戸開 〔三〕>
・第一七章         雲の戸開
・第一八章         水牛
・第一九章         呉の海
・第二〇章         救いの船
・第二一章         立花嶋
・第二二章         一嶋攻撃
・第二三章         短兵急
・第二四章         言霊の徳
・第二五章         琴平丸
・第二六章         秋月皎々
・第二七章         航空船

<第四篇 古事記略解>
第二八章         三柱の貴子
・第二九章         子生の誓
第三〇章         天の岩戸


・口述日       大正一一年三月六日~三月一一日
・口述場所      綾部 松雲閣


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