船で渡るしかなかった香川県ですが、坂出市と岡山県倉敷市を結ぶ瀬戸大橋がつながったことで、陸路の移動も便利になりました。
崇徳上皇も850年あまり前に、この瀬戸内海を渡って香川に来ました。
なぜ香川だった?
広い日本の中で、どうして崇徳上皇は香川に配流されることになったのでしょうか?
坂出市教育委員会社会教育課の増田鉄平主事によりますと、
「天皇・上皇が流された他の例から、配流先はその人物の罪の重さと再起される危険性を考えていると思います。
例えば承久の乱を起こした後鳥羽上皇は都から遠い隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へと流されました。一方の崇徳上皇は反撃する心配もないので、陸路より早く移動でき海運の発達した香川がよいだろうということになったんでしょう。
また坂出に滞在されたのは国府(府中)があったので、生活の様子などを都にすぐ伝えることができたからだと思われます。」
ということです。都から近いとはいえ、生まれた場所を離れるのは心細かったでしょうね。
上皇は、直島に立ち寄った後に坂出に着いたという説もありますが、そのお話はまたあらためて…。
香川着岸の地・松山地区
保元の乱(1156年)に敗れた崇徳上皇が香川にはじめて到着した場所として伝えられているのが、坂出市の松山地区です。
現在の坂出市の中心部から東に4キロ余り、県道(さぬき浜街道)沿いに石碑が建てられています。石碑には、「崇徳天皇御着船地 松山津」と記されていました。
「津」というのは港のことです。当時は坂出の玄関口だったのでしょう。上皇は、讃岐の国司(役人)に護送されて到着したと考えられます。石碑とともに置かれた説明板に、上皇が詠んだとされる歌が書かれていました。
浜ちどり 跡はみやこへ かよへども
身は松山に 音(ね)をのみぞなく
保元の乱について記した軍記「保元物語」には、香川に到着した上皇が都を恋しく思って詠んだとされています。
一方、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、香川に流された後、来世の安泰を願って写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと写本に添えてこの歌を朝廷に送ったとされています。
いずれにしても上皇は、都を思い続けていたのでしょう。
唯一の救い・・・?
宮中で孤立し、御后の藤原聖子との間にも子どもができなかった崇徳上皇ですが、女房の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁皇子を授かりました。
その大切な家族は一体どうなってしまったんでしょう?重仁皇子は出家し都に残されますが、当時の歴史物語『今鏡』の中に、
「上達部・殿上人、ひとり参るもなく、一宮(重仁)の御母の兵衛の佐と聞え給ひし、さらぬ女房一人二人ばかりにて、男もなき御旅住みもいかに心細く朝夕に思し召しけむ」という記述があるようです。
どうやら、側室の兵衛佐局も一緒に香川に渡っていたようです。京の都を離れるのは辛かったと思いますが、愛する人と一緒にいられる事は、崇徳上皇にとって心の支えになったのではないでしょうか?