第一巻 <発 端> 王仁(わたし)が明治三十一年旧二月九日、神使(しんし)に伴(とも)なはれ丹波穴太(たんばあなを)の霊山(れいざん)高熊山(たかくまやま)に、一週間の霊的修業(しうげふ)を了(を)へてより天眼通(てんがんつう)、天耳通(てんじつう)、自他神通(じたしんつう)、天言通(てんげんつう)、宿命通(しゆくめいつう)の
大略を心得(しんとく)し、
治教皇道大本(ちきょうこうどうおほもと)の教義をして今日(こんにち)あるに至(いた)らしめたるについては、千変万化(せんぺんばんくわ)の波瀾(はらん)があり、縦横無限の曲折(きよくせつ)がある。旧役員の反抗、信者の離反(りはん)、その筋(すじ)の誤解、宗教家の迫害(はくがい)、親族(しんぞく)、
官権の圧迫、新聞雑誌、単行本の熱罵嘲笑(ねつばてうせう)、
社会の誤解等、実に筆紙口舌(ひつしこうぜつ)のよくするところのものでない。
王仁(わたし)はただただ開教後(かいけうご)廿四年間(にじふよねんかん)の経緯(いきさつ)を、きわめて簡単に記憶より
喚起して、その一端(いつたん)を示すことにする。
皇道大本には変性男子(へんじやうなんし)の神系(しんけい)と、変性女子(へんじやうによし)の神系との二大
神系(しんけい)が、歴然として区別されてゐる。
出口大教祖は国祖国常立尊の表現神として綾部の地の高天原に現はれ、神政出現の予言
と警告を発し、
もつて神世出現(ヨハネ)の神業を専行し、水をもつて身魂(みたま)の洗礼を施(ほどこ)し、救世主(キリスト)の再生、再臨(さいりん)を待つてをられた
のである。ヨハネの初めてキリストに対面するまでには、ほとんど七年(しちねん)の間(あひだ)、野(や)に叫びつつあつたのである。
そして変性男子(へんじやうなんし)は女体男霊(によたいだんれい)にして、五十七才(ごじふしちさい)はじめてここに厳(いづ)の御魂(みたま)の神業(しんげふ)に参加したまひ、明治二十五年の正月元旦より、同(どう)四十五年(しじふごねん)の正月元旦まで、前後満二十年間の水洗礼(すゐせんれい)をもつて、現世(げんせ)の汚濁(をだく)せる
体系一切に洗礼を施(ほどこ)し、世界
革命の神策(しんさく)を
実現したまうたのである。かの欧州大戦乱(おうしうだいせんらん)のごときは、厳(いづ)の御魂(みたま)の
神業(しんげふ)の発動(はつどう)にして、三千世界(さんぜんせかい)の一大警告であつたの
である。
変性女子(へんじやうによし)は瑞(みづ)の御魂(みたま)の神業(しんげふ)に参加奉仕し、
霊をもつて世界万民(ばんみん)に洗礼を施(ほどこ)すの神務(しんむ)である。
明治三十一年の二月九日をもつて瑞霊(ずいれい)の表現者として現はれ、大正七年(しちねん)二月九日をもつて前後満二十年間の霊的神業(れいてきしんげふ)を
完成したのである。物質万能主義、無神無霊魂説(むしんむれいこんせつ)に、心酔塁惑(しんすゐるゐわく)せる体主霊従(たいしゆれいじゆう)の現代も、やや覚醒(かくせい)の域(いき)に達し、神霊(しんれい)の実在を認識するもの、日(ひ)に月(つき)に多きを加(くわ)へきたれるは、すなはち
瑞霊の偉大なる神機発動(しんきはつどう)の結果にして、決して人智人力(じんちじんりょく)の致すところではない
のである。
誤れる信者の中には、今日(こんにち)の皇道大本の発展と天下の覚醒は、役員信者の忠実熱心なる努力と結果なりと称すれども、いかに神智偉能ありとも、厳瑞二霊の深甚なる御経綸と、神界の御加護なくしては、一人(いちにん)といへども首肯(しゅこう)せしめ入道せしむることは出来ないのである。 変性男子(へんじやうなんし)は五十七歳(ごじふしちさい)神世開祖(ヨハネ)の神業に入(い)り、爾来(じらい)二十有七年間(にじふいうしちねんかん)神筆(しんぴつ)を揮(ふる)ひ、もつて
物質界の大革正を促進(そくしん)し、今や霊界に入(い)りても、その神業を継続奉仕されつつあるのである。
つぎに変性女子(へいじやうによし)は三十年間の神業に奉仕して、もつて五六七神政(みろくしんせい)の成就(じやうじゆ)を待ち、
世界を道義的統一し、もつて
神皇(しんこう)の徳澤(とくたく)に浴(よく)せしむるの神業で
ある。神業奉仕以来、本年をもつて満二十三年、残る七ケ年(しちかねん)こそ
女子(によし)にとりて、最も重大なる任務遂行(にんむすゐかう)の難関である。神諭(しんゆ)に曰(いは)く、
『三十年で身魂(みたま)の立替(たてかへ)立直(たてなほ)し
といたすぞよ』
と。変性男子(へんじやうなんし)の三十年の神業成就(しんげふじやうじゆ)は、大正十一年の正月
元日である。変性女子(へんじやうによし)の三十年の神業成就(しんげふじやうじゆ)は、大正十七年(じふしちねん)二月九日である。神諭(しんゆ)に、
『身魂の立替立直し』
とあるを、よく考えてみると、
水洗礼(すゐせんれい)の体系的革命(たいけいてきたてかへ)が三十年であつて、これはヨハネの奉仕すべき神業であり、
霊洗礼の霊魂的
革令(たてなほし)が前後三十年を要するといふ神示である。しかしながら三十年と神示されたのは、大要(たいえう)を示されたもので、決して確定的のものではない。伸縮遅速(しんしゆくちそく)は、到底免(まぬが)れ
ない。
是は神界(しんかい)の御方針は一定不変(いつていふへん)であつても、天地経綸(てんちけいりん)の司宰(しさい)たるべき奉仕者の身魂(みたま)の
研不研(けんふけん)によつて変更されるのは止むをえないのである。
神諭(しんゆ)に、
『天地(てんち)の元の先祖の神の心が真実(ほんと)に徹底了解(わかり)たものが
三人(さんにん)ありたら、樹替樹直(たてかへたてなほ)しは立派にできあがるなれど、神界の誠が解(わか)りた人民が無いから、神はいつまでも世に出ることができぬから、早く改心いたして下されよ。一人(ひとり)が判(わか)りたら
後(あと)の信者は判つてくるなれど、肝心の
御方(おかた)に判らぬといふのも、これには何か一つの原因(わけ)が無けねばならぬぞよ。自然に気のつくまで待つてをれば、神業(しぐみ)はだんだん遅れるばかりなり、心から発根(ほつこん)の改心でなければ、教(をし)へてもらうてから合点(がつてん)する
様な身魂(みたま)では、到底この
大神業は務まらぬぞよ。云々(うんぬん)』
実際の御経綸(ごけいりん)が分(わか)つてこなくては、空前絶後(くうぜんぜつご)の
大革正の神業に完全に
奉行することはできるものでない。
実に神様は歯痒く思つて居らるゝでありませう。 御神諭に身魂の樹替樹直(たてかへたてなほ)しといふことがある。
大抵の信者は、比の身魂を混同して、ミタマといへば、霊魂のみのことと思つてゐる人が沢山(たくさん)にあるらしい。身(み)は身体(しんたい)、または物質界を指(さ)し、魂(たま)とは霊魂(れいこん)、心性(しんせい)、
神界(しんかい)を指(さ)したまうたのである。すべて宇宙は
霊(れい)は尊く、体(たい)が
次ぎと成つて居る。身(み)の方面、即ち物質的現界の
改革を断行(だんかう)されるのは国祖大国常立神(こくそおほくにとこたちのかみ)であり、精神界、神霊界の
改革を断行したまふのは、豊国主の神(とよくにぬしのかみ)の
顕現たる瑞(みづ)の御魂(みたま)の神権(しんけん)である。ゆゑに宇宙一切は霊界
は主であり、現界が従であるから、これを称して霊主体従(れいしゆたいじゆう)といふのである。
大本の信者の大部分は眞正に神諭の了解が出来て居ないから、体的経綸の神業者ヨハネを主とし、霊的経綸の神業者を従として居る人が多い。否な全部体主霊従の信仰に堕落して居るのである。神諭に、
『艮の金神が天の御先祖様、五六七の大神様の御命令を受けて、三千世界の身魂の立替、立直しを致すぞよ。それに就ては、天の神様に降りて御手傳遊ばすぞよ』
とあり(天の神様地に降りて御手傳遊ばすぞよ)との神示に注意すべきである。此間の神界の御経綸が分らなければ、皇道大本の眞相が解らぬ。眞相が解らぬから何時までも体主霊従の誤つた宣傳を続行して益々天地の大神の御経綸を妨ぐる事になるのである。神諭にも
『途中の鼻高が我はエライと慢心いたして、神を尻敷にいたして居るぞよ』
とあるが、是が判つた人が、一日も早く出て来て欲しい。身と魂と一致して神業を完成するのは、三代の御用と云ふ事も、以上の消息が解つて来ない間は、實現するもので無いのである。神諭にも
『此の大本は男子と女子との筆先と、言葉とで開く経綸であるから、外の教を持て来て開ひたら大変な間違ひが出来て来て、神の経綸の邪魔になるから、役員の御方心得て下されよ。慢神致して我を出したら、神の眞似を致して筆先を人民が出したら、何邊でも後戻りを致すぞよ。今は初発であるから、成る様に致して、御用聞いて貰はねばならぬなれど、五六七様がお出ましになりたら、男子女子の外は筆先は出されんぞよ』云々
と所々に示されてある。此の筆先と云ふ神意は新聞紙の事では無い。要するに役員さん等の発行されつゝある単行本の中でも、教義的意味を含んだものを指されたのである。何程人間の知恵や学文の力でも、深玄微妙なる神様の大御心が判るもので無い。故に大本の歴史に関する著述は差支えないが、苟(いやし)くも教義に関する著書は、神諭の解つた役員信者から根本的に改変して貰はぬと、何時迄も神様は公然(あつぱれ)と現はれ玉ふ事が出来ぬのであります。
今迄の著書と雖(いへど)も、全部誤つて居るのでは無い。唯競技的意味のある箇所に限つて人意が混合して居るだけである。然し乍ら、假令(たとえ)一小部分でも間違つて居つては實に大変である。王仁は学者の意味を尊重して、今日迄は隠忍して和光同塵策を持して来たのであるが、最早今日と成つては信者も多く、又神霊界の読者も日に月に増加し、天下の注意を曳く如うに成つて来たから、黙視するに忍びず、涙を呑んで此の稿を書いたので在る。何程立派な神が憑つて、書を著はしたり、口で説いても根本の経綸は解つた神はない。皆近頃現はれる神の託宣や豫言は全部守護神が大本の神諭を探り、似たり八合の事を行つて居るもの斗りである。今後未だ未だ所々に偽豫言者、偽救主が出現して、世人を惑はせ、世人をして其の本末軽重を誤らしむる事が出て来るから、読者の深甚なる注意を望む次第であります。 霊主体従の身魂を霊(ひ)の本(もと)の身魂(みたま)といひ、体主霊従(たいしゆれいじゆう)の身魂を自己愛智(ちしき)の身魂といふ。霊主体従の身魂は、一切天地(てんち)の律法に適(かな)ひたる行動を好んで遂行(すゐかう)せむとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもつて本懐(ほんくわい)となし、至真(ししん)、至善(しぜん)、至美(しび)、至直(しちよく)の大精神を発揮する、救世の神業に奉仕する神や人の身魂である。体主霊従(たいしゆれいじゆう)の身魂(みたま)は私利私慾(しりしよく)にふけり、天地(てんち)の神明(しんめい)を畏(おそ)れず、体慾(たいよく)を重(おも)んじ、衣食住にのみ心を煩(わずら)はし、利(り)によりて集まり、利によつて散(さん)じ、その行動は常に正鵠(せいかう)を欠き、利己主義を強調するのほか、一片(いつぺん)の義務を弁(わきま)へず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼(さいらう)のごとき不善の神や、人をいふのである。
天(てん)の大神(おほかみ)は、最初に天足彦(あだるひこ)、胞場姫(えばひめ)のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木(しんぼく)に体主霊従(ちしき)の果実(くだもの)を実らせ、
『この果実(くだもの)を喰(く)ふべからず』
と厳命(げんめい)し、その性質のいかんを試みたまうた。ふたりは体慾(たいよく)にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒(いか)りにふれた。
これより世界は体主霊従(たいしゆれいじゆう)の妖気(えうき)発生し、神人界(しんじんかい)に邪悪分子の萌芽(ほうが)を見るにいたつたのである。
かくいふ時は、人あるひは言はむ。
『神は全智全能(ぜんちぜんのう)にして智徳円満(ちとくゑんまん)なり。なんぞ体主霊従(たいしゅれいじゅう)の萌芽(ほうが)を刈りとり、さらに霊主体従(れいしゅたいじゅう)の人体の祖を改造せざりしや。体主霊従の祖を何ゆゑに放任し、もつて邪悪の世界をつくり、みづからその処置に困(くるし)むや。ここにいたりて吾人(ごじん)は神の存在と、神力(しんりき)とを疑(うたが)はざるを得(え)じ』
とは、実に巧妙にしてもつとも至極(しごく)な議論である。
されど神明には、毫末(がうまつ)の依估(えこ)なく、逆行的神業(ぎやくかうてきしんげふ)なし。一度手を降(くだ)したる神業(しんげふ)は昨日(きのふ)の今日(けふ)たり難(がた)きがごとく、弓をはなれたる矢の中途に還(かへ)りきたらざるごとく、ふたたび之(これ)を更改(かうかい)するは、天地(てんち)自然の経緯に背反(はいはん)す。ゆゑに神代一代(かみよいちだい)は、これを革正(かくせい)すること能(あた)はざるところに儼然(げんぜん)たる神の権威をともなふのである。また一度出(い)でたる神勅(しんちよく)も、これを更改(かうかい)すべからず。神にしてしばしばその神勅を更改し給(たま)ふごときことありとせば、宇宙の秩序はここに全く紊乱(ぶんらん)し、つひには自由放漫の端(たん)を開(ひら)くをもつてである。古(いにしへ)の諺(ことわざ)にも『武士の言葉に二言(にごん)なし』といふ。いはんや、宇宙の大主宰(だいしゆさい)たる、神明(しんめい)においてをやである。神諭にも、
『時節には神も叶(かな)はぬぞよ。時節を待てば煎豆(いりまめ)にも花の咲く時節が参(まゐ)りて、世に落ちてをりた神も、世に出て働く時節が参りたぞよ。時節ほど恐いものの結構なものは無いぞよ、云々』
と示されたるがごとく、天地(てんち)の神明(しんめい)も『時(とき)』の力のみは、いかんとも為(な)したまふことはできないのである。
天地剖判(てんちぼうはん)の始めより、五十六億七千万年(ごじふろくおくしちせんまんねん)の星霜(せいさう)を経て、いよいよ弥勒(みろく)出現の暁(あかつき)となり、弥勒(みろく)の神(かみ)下生(げしやう)して三界の大革正(だいかくせい)を成就し、松の世を顕現(けんげん)するため、ここに神柱(かむばしら)をたて、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示し、善を勧め、悪を懲(こら)し、至仁至愛(しじんしあい)の教(をしへ)を布(し)き、至治泰平(しぢたいへい)の天則(てんそく)を啓示(けいじ)し、天意(てんい)のままの善政(ぜんせい)を天地(てんち)に拡充したまふ時期に近づいてきたのである。
吾人(ごじん)はかかる千万億歳(せんまんおくざい)にわたりて、ためしもなき聖世(せいせい)の過度時代(くわとじだい)に生れ出(い)で、神業に奉仕することを得ば、何の幸(さいはひ)か之(これ)に如(し)かむやである。神示にいふ。
『神は万物普遍(ばんぶつふへん)の聖霊(せいれい)にして、人は天地経綸(てんちけいりん)の司宰(しさい)なり』
と。アゝ吾人はこの時をおいて何(いづ)れの代(よ)にか、天地(てんち)の神業(しんげふ)に奉仕することを得む。
アゝ言霊(ことたま)の幸(さち)はふ国、言霊の天照(あまて)る国、言霊の生(い)ける国、言霊の助ける国、神の造りし国、神徳の充(み)てる国に生(せい)を禀(う)けたる神国(しんこく)の人においてをや。神の恩の高く、深きに感謝し、もつて国祖(こくそ)の大御心(おほみこころ)に報い奉(たてまつ)らねばならぬ次第である。
第一章 <霊山修業 (一)>高熊山(たかくまやま)は上古(じやうこ)は高御座山(たかみくらやま)と称し、のちに高座(たかくら)といひ、ついで高倉(たかくら)と書(しよ)し、つひに転訛(てんくわ)して高熊山となったのである。丹波穴太(たんばあなを)の山奥にある高台(たかだい)で、上古(じやうこ)には開花天皇(かいくわてんのう)を祭(まつ)りたる延喜式内(えんぎしきない)小幡神社(をばたじんじや)の在(あ)つた所である。武列天皇(ぶれつてんのう)が継嗣(けいし)を定めむとなしたまうた時に、穴太(あなを)の皇子(わうじ)はこの山中(さんちゆう)に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老(こらう)の伝説が遺(のこ)つてをる霊山である。天皇はどうしても皇子の行衛(ゆくへ)がわからぬので、やむをえず皇族の裔(えい)を捜しだして、継体天皇(けいたいてんのう)に御位(みくらゐ)を譲りたまうた
のであります。またこの高熊山には古来一つの謎が遺(のこ)つてをる。
『朝日照る、夕日輝く、高倉の、三ツ葉躑躅(みつばつつじ)の其(そ)の下(した)に、黄金(こがね)の鶏(にはとり)小判千両埋(い)けおいた』
昔から時々名も知れぬ鳥が鳴いて、里人(さとびと)に告げたといふことである。
王仁(わたし)は登山するごとに、三ツ葉躑躅(みつばつつじ)の株は無いかと探してみたが、いつも見当らなかつた。
昨九年(くねん)の春、
信者と倶(とも)に登山にて休息してをると、
王仁(わたし)の脚下(あしもと)に、その三ツ葉躑躅(みつばつつじ)が生えてをるのを見出(みいだ)し、初めてその歌の謎が解けたのである。
『朝日照る』といふ意義は、
天津日嗣天皇(あまつひつぎてんのう)の御稜威(みいづ)が
旭日東天(きよくじつとうてん)の勢(いきほひ)をもつて、八紘(はつかう)に輝きわたり、夕日輝くてふ、
西洋諸国までも
皇徳を光被(くわうひ)したまふ黄金時代(わうごんじだい)の来(く)ることであつて、この霊山に神威霊徳(しんいれいとく)を
秘めおかれた神界の謎である。 『三ツ葉躑躅(みつばつつじ)』とは、
三の御魂(みたま)、瑞霊(ずゐれい)の意である。ツツジの言霊(ことたま)は、
万世一系天壌無窮(ばんせいいっけいてんじょうむきゅう)の皇運を扶翼し奉(まつ)る神人(しんじん)の意である。『小判千両埋(い)けおいた』大判(おほばん)は上(かみ)を意味し、小判(こばん)は下(しも)にして、確固不動(かくこふどう)の権力を判(ばん)といふのである。すなはち小判は小幡(こばん)ともなり、神教顕現地(こばん)ともなる
のである。穴太(あなを)の産土
小幡神社(うぶすなおばたじんじや)の鎮座(ちんざ)ありしも、御祭神(ごさいじん)が開花天皇(かいくわてんのう)であつたのも深い神策(しんさく)のありませることと、恐察(きようさつ)し
得るのである。これを思へばアゝ明治卅一年(さんじふいちねん)如月(きさらぎ)の九日、富士浅間神社(ふじせんげんじんじや)の祭神(さいしん)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の
神使(しんし)、
芙蓉仙人(ふようせんにん)に導かれて、当山に
王仁(わたし)が一週間の
神示の修行を命ぜられたのも、決して偶然(ぐうぜん)ではない
のであります。
神示のまにまに高熊山に出修(しゆつしう)したる
王仁(わたし)の霊力発達の程度は、非常に迅速(じんそく)であつた。汽車よりも飛行機よりも電光石火(でんくわうせきくわ)よりも、すみやかに霊的研究は進歩した
のである。たとへば幼稚園の生徒が大学を卒業して、博士の
位置に進んだやうな進歩であつた。過去、現在、未来に透徹(とうてつ)し、神界の秘奥(ひおう)を窺知(きち)し得ると共に、現界の出来事なぞは数百年数千年の後(のち)まで知悉(ちしつ)し得られたのである。しかしながら、すべて一切神秘に属し、今日(こんにち)これを詳細に発表することのできないのを遺憾(ゐかん)とする
次第である。故に王仁(わたし)が前後一週間に於ける修行に依りて肉体霊魂上に得たる神徳の結果を発表する事にのみ、留(と)めて置(お)かうと思ふ。
第二章 <業(げふ)の意義 (二)> 霊界の業といへば世間一般に深山幽谷(しんざんいうこく)に入(い)つて、出世間的難行苦行(しゆつせけんてきなんぎやうくぎやう)
の事とのみ考へてをる人が多いやうである。跣足(はだし)や裸になつて、山神(さんじん)の社(やしろ)に立籠(たてこも)り断食(だんじき)をなし、断湯(だんたう)を
なし、火食(くわしよく)をやめて、神仏に祈願を凝(こ)らし、妙(めう)な動作
を為し、異行(いぎやう)を敢(あへ)てすることをもつて、徹底的修行が完了したやうに思ひ誇る人々が多い
のである。
すべて業(げふ)は行(ぎやう)である以上は、顕幽一致(けんいういつち)、身魂一本(しんこんいつぽん)の真理により、顕界(けんかい)において可及的大活動(かきふてきだいくわつどう)をなし、もつて天地(てんち)の経綸(けいりん)に奉仕するのが第一の行である。たとへ一ヶ月でも人界(じんかい)の事業を廃(はい)して山林に隠遁(いんとん)し、怪行異業(くわいぎやういげふ)に熱中するは、すなはち一ヶ月間の社会の損害であつて、いはゆる神界の怠業者(たいげふしや)、
亦は罷業者(ひげふしや)である。すべて神界の業(げふ)といふものは現界において生成化育(せいせいくわいく)、進取発展(しんしゆはつてん)の事業につくすをもつて第一の要件と
せねばならぬ。
今日(こんにち)の大本(おほもと)の
或る一部の人士(じんし)の
様に、何事も『惟神(かむながら)
々々』といつて
難(なん)を避け、易(やす)きに就(つ)かむとするは神界より御覧に
成ると、実に不都合不届至極(ふつがふふとどきしごく)の
奴と
曰(い)はねばならぬのである。少しも責任観念といふものがないのみか、侭(つく)すべき道を(みち)を侭(つく)さず
して神業(しんげふ)の妨害斗(ばか)り為し乍ら
却つて神界
へ対して不足ばかりいつてゐる。これが
大本内部の黄泉醜女(よもつしこめ)である。
神諭に、
『
綾部の大本へは世界の落武者が出て来るから用心
をせよ』
といふことが示され
てある。神界の業といふものは、そんな軽々しき容易なものではない。
王仁(わたし)が前に述べた様に山林に分入(わけい)りて修行(しうぎやう)することを批難しておきながら、かんじんの御本尊(ごほんぞん)は一週間も高熊山(たかくまやま)で
行(げふ)をしたのは、自家撞着(じかどうちやく)もはなはだしいではない
かとの反問も出るであらうが、しかし
王仁(わたし)はそれまでに二十七年間(にじふしちねんかん)の
俗界(ぞくかい)での修行を遂行(すゐかう)した。その卒業式ともいふべきものであつて、生存中ただ一回のみ空前絶後の実修(じつしう)であつたのである。
世には釈迦(しやか)でさへ檀特山(だんとくざん)において数ケ年の難行苦行をやつて、仏教を開(ひら)いたではないか、それに僅(わず)か一週間ぐらゐの業(げふ)で、三世(さんぜ)を達観(たつくわん)することを得(う)るやうになつたとは、あまりの大言(たいげん)ではあるまい
かと、疑問を抱(いだ)く人々もあるであらうが、釈迦は印度国浄飯王(いんどこくじやうぼんわう)の太子(たいし)と生れて、社会の荒き風波(ふうは)に遇(あ)うたことのない坊ンさんであつたから、数年間の種々(しゆじゆ)の苦難を味(あじ)はつたのである。
王仁(わたし)はこれに反し幼少より極貧の家庭に生れて、社会のあらゆる辛酸(しんさん)を嘗(な)めつくしてきたために、高熊山に登るまでに顕界(けんかい)の修行を了(を)へ、また幾分(いくぶん)かは幽界の消息にも通じてをつたからである。
それ故僅か一週間位で修業の功を顕はしたのである。