凡夫と聖賢
私は之までよく凡夫凡夫といふ事を申しましたが、一般の人々は凡夫といわれても、格別何とも思うて居らないやうでありますが、凡夫の凡の字は「おろかなり」と云う意義であります。又、凡の字は「すべて」という意義であります。で、凡夫と申すは総ての人は愚かなりといふことなのであります。なぜ愚かであるかと申せば、広大無辺の宇宙に遍満実在し大自由大自在無碍にして、絶大無限の偉能を作為する、宇宙大精神の発現したる大我なることを悟らず、僅か五尺の体躯の小我のみに執着し、迷妄苦患不自由の生活を為し、永劫不死の活生命の光明体たる理我に生きずして、現世死滅の暗黒なる物我にのみ没頭し、須ゆの間も純真為楽の生活を為し得ざるが故であります。
之に反し、我は宇宙大精神の発現したるものなることを悟り、常に宇宙の大法則に準拠したる生活を為し、永劫不死の生命に生き霊力を顕現して、大自由大自在光明無碍真乎為楽の境地に安住するところのものを聖賢と申すのであります。この聖賢と申すのを凡夫らが見ると、どうも変わって見えるのであります。或者は聖賢を称して莫迦といひ、又或者は山師詐欺師と罵り、又或物は無欲の無為漢なりと嘲り、又その霊力によって済度されたる者は神仏なりと崇敬讃仰する。しかし、見らるるところの本体は同一人であるにも拘らず、凡夫らの目にはなぜ種々なる相に映るのでありませうか。もとより聖賢と凡夫の思想の差は天地霄壌もただならざるものがありますが、聖賢そのものの本体は毫些の片影だになき明鏡の如きものであって、何も包蔵する影とてないのであります。然るに凡夫等はこれを悟らず、この明鏡に対ひて自己の姿の映りたるを見て、聖賢の形相なりと誤認し妄りに兎角の批評を為しつつあるので、即ち聖賢を批評するのは其実自己批判を為しつつあるのであります。何と云う愚かなことではありませんか。また聖賢は無量無限の大知識であります。それを凡夫等はその有する僅か一尺にも足らぬ、小知識の尺度を以ってその全部を測り得たるごとく妄信し、臆面もなく大知識に対し悪罵妄
評を為すが如き、真にその痴態憫然に堪えないのであります。
佛神天の字義
佛といふ字は人と弗から造られて居ります。弗という字は「アラズ」という義であります。即ち佛とは「人に非ず」ということです。人に非ずとは、凡人に非ずということで、無明界に迷いの生活を為して居る者でなく、光明界に安住するところの者をいふのであります。
神といふ字は、示すと申すの二字から出来て居ります。これは、「宇宙の真理を示し申す。」という義であります。真理は光明であり絶対であります。而してまた、真理は空であります。しかして、空なるものは心であります。故に神という字の訓はココロと申します。しかし、その心は暗黒の心でなく、光明の心を申すのであります。光明の心は至誠の精神であります。
天といふ字は、二と人から作られて居ります。この二人とは陰陽をいふのであって、相対性であります。相対は二元であります。真理の本体は一元であって、一元に帰入してこそ大悟正覚を成就することが出来るのであります。然らば、儒教の教祖孔子は二元宗かと申せば、さうではない。孔子は天の奥に太極なるものを認識して居る。この太極は一元であり、絶対性をいふたのであると私は信ずるのであります。