横綱松と報恩軍配

善 養 寺


 最後に墓地を歩く。まず「金子家之墓」は、幕内錦谷(にしきだに)のもの。東京は四谷の坂町に大正元年 9月 1日誕生、本名を金子元五郎という。 錦島部屋( 8代・関脇大蛇潟)から昭和 4年 5月に初土俵。四股名は錦島部屋と四谷から取ったもの。16年 1月の入幕、18年 5月再入幕に当たって有明五郎と改名し、 同時に 5代式守秀五郎を兼ねた。20年11月引退、幕内を 5場所経験しているし、幕内で番附を上げたこともあるが、勝ち越しはない。 一時 1人ながら弟子を養成したことがあったが 3年で廃業してしまった。その後、二男(養子)が部屋所属の行司として31年 5月初土俵、32年 5月に行司部屋ができるまで 1年ほど属していた。 なおこの行司はのちの34代木村庄之助である。34年 7月20日歿、戒名は「錦谷院有祥明元居士」。

 もう一つ、「石田家之墓」は、昭和最初の大関能代潟の墓である。秋田県藤里町の農家の二男、明治28年 4月 5日の生まれ。本名は石田岩松。 草相撲の強豪として「田舎大関」と呼ばれ、大正 3年 7月に巡業でやってきた関脇大蛇潟(のちの 8代錦島)の弟子となった。 当時の錦島部屋は 7代(幕内大蛇潟)が当主だったが病身だったため、実質的には関脇大蛇潟が運営していたようだ。 4年 1月に初土俵、緊張しすぎの気負けが続き 1勝 4敗の不成績、あえなく序二段尻に落とされた。入幕は10年 5月、12年 5月に横綱栃木山と引き分け相撲を取り、14年 1月に関脇。 15年の両場所は 8勝 3敗で、その前も 8勝 2敗 1分(優勝旗手)という好成績、見事大関に推された。左四つでじっくり取る型で横綱常ノ花の苦手として鳴らし、 昭和 3年 3月には10勝 1分で優勝も飾っている。大関在位は22場所、晩年も幕内上位を務め、11年 5月に引退したときにはもう41歳だった。引退前場所にも小結になっている。 9代立田山として定年制施行まで協会に在り、36年元日限りで退職の後は双葉山の時津風部屋の顧問として遇されていた。48年 6月 8日歿。 棹石右側面に「初代大関能代潟錦作 秋田県山本郡藤里町字滝ノ里出身」と刻まれている。戒名は「大関院偉能松寿居士」。

  3代木村宗四郎の「岡根家之墓」もあるはずなのだが、雨がひどく、寒くてならぬので調査打ち切りとし、江戸川沿いのバス停に向かうことにした。 さすが川っぷち、雨ばかりか風も強く、余計にずぶ濡れになった。再び寺の方を見やれば、「影向の松」の大看板。 西の横綱亡き現在、しかも番附編成もない日本名松番附であるから、再びアイデアマンが登場しない限りは、不動の一人横綱であり続ける。
筆者の訪問日:平成22年 9月27日・この文もその当時の資料によっている。
前頁へ  前画面に戻る