2008.6.15集会 続き その3
吉川さんに続いて
黒川
黒川創です。僕は1961年の6月15日が誕生日なので、今日で47歳になったんですけれども、自動的に樺さんの48年目のご命日なんですが、もうあと2年で50周年ということなんですが、自分の少年時代を考えますと50年というのは天文学的な数字で、自分が50年後って、生きているとは思えなかったし、でもこの年齢になると結構50年なんてそばなんだなと感じる気持ちの方が強くて、それは自分が結構いい年になったせいもあるんでしょうが、もう一つは周囲ににいらっしゃる方が48年目にいらっしゃった方が結構そのままお元気で・・。というのは、あんまり深く考えているわけではないのですが、人の寿命の延びというのは、一種の思想史的な変化を孕んでいるような感じがします。例えば、明治の方でも50年後の証言を残すということで、話しを聞きにいったりするといろいろ話して下さるということはあったでしょうが、今、48年前の課長さんだった方が、まだ身体を運んで、ここにいらして、国会の南門まで行かれるわけですよ。自分の体を動かせるという、それは後期高齢者の保険の問題等々はあるんですが、実際に肉体的な条件ということが、そういう問題さえも生むぐらいの延びがあると言うことは、大変なことだと思うんです。というのは、よく以前から戦争経験の継承みたいな言葉が・・、自由主義的な集まりの中からよく言われましたけど、結構それは眉唾というか、自分の気持ちにピタッと来ないというか、自分の経験じゃないものは継承できるかというと、そうとう怪しい、怪しむにいたる余地があると思うんですよ。むしろ50年かけて一人の人間が、自分の考えを変えたり、読み直したり、考え直したりしながら50年後もある場所に身体を動かして行くと言うことは、相当、同じ事をやっていると言うことではなく、意味の読みかえとかと言うことを含めて、自分の経験の継承なわけですよね。あるいはそれよりずっと年の若い僕とか、僕よりずっと下、子どもくらいの世代の方も今日はお見えになっているわけですけども、一緒にその人たちがパッチワークのように、立ち混じるというか、そこでお話を伺ったり、あるいは議論したり、じっと見てたりするということが出来るというのは、継承しているんではなくて、また新しい、僕なら僕、若い方なら若い方自身の経験の経験としてあるわけで、そういうふうにお元気で長生きして、その人たちにとっても経験の更新であったり、あるいはその人達と立ち混じることで一人一人の新しい経験を生んだりするっていう条件は、かなりこの時代ならこの時代で変わってきていることがあるように、感じを、あの、考えることが、この頃多いなと思っています。ちょっと我田引水なんですけど、我々京都で「編集グループSure」っていう小さい出版の、自分たちのプライベートスペースというか、手作業で本を作って、郵便でお送りするというような、出版をしていまして、そこで鶴見さんにも当初からお知恵をお借りしてやっているんですが、そこでは50年どころじゃなくて、鶴見さんがもう70年前に、東大ならぬアメリカの大学でプラグマティズムを学ばれた頃の経験というか、勉強をもう一度解釈し直すと、どういうことになりますかというお話を1年くらいかけて伺った記録が、この「たまたまこの世界で生まれて」という本なんですけれども、こういう本にしております。吉川さんにならって宣伝になっていますが、これは2300円の税サービスということで、何冊かお持ちしたんですけれども、あと鶴見さんに企画をたてていただいて、何人かの方に座談をして頂いているんです。我々よりも若いメンバーも入るような形で鶴見さんと山田慶兒さんという科学史家の方が、大変面白い話しをして下さいまして「鶴見俊輔と考える」という全五巻のシリーズなんですが、これが第一巻目で、第二巻目は柳瀬睦男さんという上智の学長もされた物理学者なんですけれども、カソリックの神父さんで、ある意味では先ほどから話されている学生運動とは違う立場を持たれた、もともとはリベラルな方なんですが、学生運動が取り留めもなくなって仕方なく、むしろ機動隊を入れる決断をされた方ですね、副学長という立場で。それを含めて科学と信仰の間というテーマで鶴見さんとお話下さってまして、これは2つ1200円で、何冊か今日持ってきてみましたので、ご興味のある方は、お声をかけて下さり、是非読んで頂きたいなと思います。という宣伝の方にいってしまいました。失礼します。
瀧口
私も「編集グループSure」で本を作っています。瀧口と申します。声なき声の会には、初めて今日来たんですけど、たくさんの方がいらしてちょっとビックリしました。私の母がアイヌで、父は山梨県人なんですけど、そういうこともあって、私は赤ちゃんの時から、家の母が、社会運動とか、その頃よくあった地域民衆史運動というのかな、そういう講習会に出かけたりしていて、運動というか、社会を明るくする運動に私はよく、子どもの時、連れていかれていたんですけど、私の記憶によると、そう言うところにいくと、話し合うと言うよりも、なんか偉い先生が今日来ているかどうかとか、握手をしあっているおじさん達とか、そういう記憶があって、ずっとアレルギーみないなものを持っていたんですけれども、Sureで本を作るようになって、鶴見さんのお話を伺ったりとか、その流れで九条の会にいったり、べ平連の会にいったりしているうちに、運動にもいろいろあるし、人もいろいろいるんだなということが分かって・・、運動に対する疑いみたいなものがあって・・、今、アイヌの若い子立ちはラップで、アイヌのことを歌ったりとか、踊りでいろいろ表現したりとか、私もがんばって欲しいと思うんですけれど・・、そのアイヌの若い人たち対しても私は疑いを持っていて・・、疑いながらも参加するっていうんでもいいかなと思って参加しました。今日は一応、念のためSureの本もこんなに持ってきたので、よろしければ声をかけて下さい。
鶴見
杉並からまいりました鶴見といいます。2003年に一度ここに伺ったことがあって、それ以来5年振りに来ました。記録のために申し上げておきますと、2003年にはこの形ではなくて、普通に机が縦に並んでいて、普通のセミナー室と変わらない形だったんですが、断然この配置の方がいいなあと思っています。たまたま20代前半の学生と話すことが多いんですけれども、私としては、彼、彼女らから荒削りでもいいから、青臭い、堅実な話し、意見というものを聞きたいんですけれども、最近の若い人って擦れてきていて、なかなかそういう話しを聞けないんですね。私の聞き方が悪いのか、もう少し時間をかけて聞く必要はあると思っているんですけれども、この場所に参加してみて、いい意味での青臭さ、あるいは堅実な話しというものが、みなさまの年齢とは別に、良質な部分が青臭い形で残っていると、ずっと私感じています。そこから翻ってみますといい意味での青臭さというのは年齢とは別なんだなということを考えております。それを運動という形態でなくても、個という部分でもいいから、これからも言い続けていけたらいいなと思っております。
久保田
足立区の北千住からまいりました久保田と申します。週刊金曜日の「市民運動掲示板」にこの会のことが載っておりまして、それをみて参りました。全くこの会のことは存じておりませんでした。大変な席に座ってしまったなと後悔しております。亡くなった方の亡くなった意味というものは生きている方にあるのだと思います。今日は、樺さんの亡くなったということをどのように、その志というか、そういうものを受け止めて、その志を、今日の自分の現実の中に、どのように位置づけておられるのかということを学びたくて参りました。この話し合いのシステムを見ましても、この会の主旨、あるいはなさろうとしていることが感じられます。私自身は、今、最大の問題として憲法九条を守っていきたいということにかけております。66%が改悪反対、22%が改悪をやむを得ずとしているのでしょうか、支持しているということでしょうか、朝日新聞の先月の発表でありましてけれども、だけどこの数字は変わるし、すぐに後退するし、非常に可変なものだと思います。1年前までは逆だったわけですから・・。この22%がゼロになるまで、変えるの賛成という声が無くなるまで、いろんな形で、いろんな所で頑張っていきたいと思います。護憲というとネガティブな感じがするんですけれども、「国際公約」としての憲法九条をいろんな形で、世界に発信することによって、できれば世界が、各国が九条を憲法にするということがどのくらい現実性のあるものか分からないですが、がんばっていきたいなと思います。守るということ、最大の守りというのは、攻めなんじゃないかと思います。だから変えるのを阻止するのでなく、それをもって世界に発信していくことが大事なんじゃないかと今、考えております。
青柳
青柳です。埼玉県の狭山市から来ました。60年安保の頃はデモの渦の端っこにいたりして、その後もべ平連運動の中にもいたことがあります。朝のNHKラジオの6時50分から「今日は何の日」というコーナーがあるんですよね。今日は耳を澄まして聞いていたんですが、60年安保のことについては一言も語ってないんですよ。2〜3年前までは、60年安保のことも、樺美智子さんの死のことも、話したことが聞いたことがあったんですが、(会場から「今日やっていましたよ」との声)・・。今日やっていた?。あっ、じゃあ、聞き違いです、すいません。それはよかった、ホッとしました。会長が替わったんで、NHKはそこまで統制したかなと怖れていたんですが・・。安倍内閣が倒れて、この1年ある程度精神衛生がいいんですね。ちょっとですけど。それが最大の罪を犯したこと、許せないことは、教育基本法を「改正」したことですね。これが教育現場にどれほど大きな悪影響を及ぼしてくるかということを怖れているんです。相手は、長い時間をかけて国民を作り替えていくということを狙っているわけで、一時的に新聞の世論調査なんかで、護憲派とか、憲法九条改悪反対とかの勢力が大きくなったとしても、次の次の世代をねらって、教育現場を若い世代から締め上げてくる、頭の中を改造してくるということに、注目しておく必要があるんじゃないかと思うんですね。私にとって、ここに来る意味というのは、私自身がどこまでブレているか、あるいは流されてしまっているかを、再点検するという意味合いでみなさまの話を、貴重な話しを伺っております。年をとると守りの生活、姿勢が多くなるんですが、ささやかなことでやっていることは、親がもうだいぶ高齢で、88歳で、ちょっと認知症も始まっているんで、どうしても郷里に帰って介護の一端を担わなくてはならないってことで、月一回、一週間から十日くらい、新潟県の長岡、田中角栄の旧地盤だったところで、越山会の強いところです、ここに帰って、そこに私の仲間達がいるんですね。そういう生活をしている内に、ただ酒を飲んで世間話をしているだけじゃつまらないということで、ちょっと呼びかけたんです、憲法自身を呼んでみないかと。そして乗り気になった者が4〜5人出てきて、そして昨年一年間かけて、日本国憲法全文1条から最後まで読みました。そしていろいろな議論をして、そしたら友人が英文のものもあるよということで、こんどはそれに挑戦してみようということになって、いまみんなで四苦八苦しながら、単語をひいて読んでいます。内閣・・・あのー、長くなるので、これで失礼します。
小形
神奈川県から来ました小形と申します。平和の問題を考える中でこの会にも参加しています。ここ何年か連続して参加しています。最近平和の問題を考えるときに何が大切かということを漠然と考えたりしていたんですが、例えば15年戦争の時に亡くなった方々の文章、どういう具合に亡くなっていってかなどという文章をみたりすると、この人たちも私と同じように肉体をもって暮らして、だけども誰かのために自分の人生を終わりにさせられたと思うんですね。で、そういう終わりにした人たちに対する怒りとかは、あるわけですけど、亡くなったそういう方たち私と同じように血が流れていて、肉体があって、そういうところから考えをスタートすべきかなと思います。抽象的な人間というのはいないわけで、みな感情はあるし、血は流れているし・・、と言うところですね。だから私にとっては、会ったことも見たこともない人ですが、感情豊かで感覚的なものを持っている人たちだと思えます。そこからスタートして理屈としての平和の方に行くべくではないか、と感じています。だからスターラインがどこにあるか、イデオロギーの平和からスタートすると、長続きはしないような気がするんですね。そんなことを少しづつ考えながら、平和の問題を考えようと思っています。
田中
東京の田中と申します。今日この会に出席させて頂いたのは、和歌山の奥の方で本多さんがいろいろとご活躍されていると、また十数年ぶりに、本多さんと苦楽をともにされている尾家さん、この方の翻訳の本と本多さんの三冊の本を今年になって頂戴いたしまして、それを読みまして、是非本多さんにもお目にかかって、いろいろお話を伺いたい、ということが第一の目的で参加させていただきました。ここでたくさんの方々から、古いお話しから最近のお話まで、いろいろな形で、それぞれの所で運動をされている方たちのお話を伺って、私のこれからの人生の糧になることもあろうかと思って拝聴しています。特に私は、平和の問題というのは最大の重要な問題ですし、きわめて軍事的な行動がさかんに行われている状況の中で、最大の課題だと思いますが、同時に日常の命と生活を守るという問題ですね、これは一緒になっていく大事な問題と思っております。みなさんご覧になった方もいると思いますが、マイケルムーアの「シッコ」という、だいたい医療関係を中心にした映画が上映されて、ブッシュ・・、一億円の罰金を支払わされたそうでうけども、この中ではカナダを始めとして、もちろんアメリカが中心ですけども、アメリカの医療の実態とカナダ、イギリス、フランス、ヨーロッパの医療がどういうものであるのかということ、最後にキューバが出てくるわけですけれども、いわゆるヨーロッパの民主主義の中に育った人を代言する医療の問題が非常に詳しくのっているわけですが、それに対比してアメリカがどんな悲惨な状態であるかということが出ているわけですけれど、そういうものを見まして、今の日本で行われようとしている、まさに大量の姥捨て山、というのは私は正しくないだろうと思いますが、今の政権による大量の殺戮行為であると、そういうところまで思い詰めているわけであります。それは私自身の家族も問題も含めまして、周辺に住んでいるの80歳前後、あるいは80歳以上の方々がどんな悲惨な状況にんばっているか、それがますますひどくなって毎年二千二百億円を削ってですね、すすめていこうということがはっきりしているわけですけれども、あるいは食の問題、年金が少ないと、どうやって食べていくかという問題を含めまして、今の日本は大変な問題にぶつかっているとそういうふうなことにあわせて軍事的な、特にアメリカの要請によって、軍事行動を中東まで広げていこうということについて、大変な問題が日本の私たち国民に突きつけられているんじゃないか、私はベトナム戦争のハノイのトンキンワン事件の前に、使節団の人たちとハノイに行っています。現在に至るまでベトナムとの関わりを持っているわけですけれども、あれはまったく嘘であったと、これはイラクの問題と同じなわけですけれども、そこにどれだけの犠牲者が出ているのかそれに日本が追随をしている、そういうふうな問題について私たちはどういうふうに考えたらいいだろうか。60年安保の話しが出ましたけれど、ああいう大きな高揚の時期があったわけです。最近「光州5・15」という映画が、小さな映画館でやっているわけですが、光州の市民の人たちがチョンドファンの軍事行動に対して反対をしたのか、あれから大分時間が経ちましたけど、民衆の心の中に残っていて、アメリカが押しつける牛肉の問題で百万の人たちを動員できるという今日の状況ですね、こういうことは私たちがもっと真剣に考えなくちゃいかんことだと、また私たちも力があると、先ほどは本多さんのほうから世界九条の会が大変な盛会であったとご報告がありましたが、そうことを聞くに付けそう思いますけど、今日はどちらかというとみなさまの話を良く聞くということで伺ったわけであります。どうも失礼いたしました。
金井
金井です。あのー先月、5月11日に現代企画室の太田昌国さんという人が、今年・・、ちょっと補聴器はずさないと、自分の声が響いて来ちゃっておかしな具合なんで、聞こえないんですよほとんど、(鶴見さん「女優じゃないですか」)、いやーだから鶴見さんに、女優にもピンからキリまであって、さっきの詩の中じゃないけれども、私はやっぱり、芝居を昔やっていたから・・、鶴見さんがいう女優って言うのはものずごく、ある批判が入っているから、あまりきちんと受け取らない方がいいと思うんですけれども・・。太田昌国さんが今年キューバ学校というものを年三回やるというもんで、その初回に、キューバ危機のときに絵描きさんで行っていた富山妙子さんと太田昌国さんのキューバ、まあよもやま話し、それと私に岩田弘の「グァンタナモ」の朗読をやってくれないかと、それが2月に話しがきたんです。私は昔、芝居をやっていたけれども、朗読って言うのは成功したためしがなかったんですよ。もういっぱい朗読をしてきた、岩田さんの「長い塀」もやったことがあるし、最後の朗読って言うのは42年前に、ボルヘルトの散文詩、あの「戸口の外」を書いた、24歳で死んだドイツの作家ですよね。そのボルヘルトの散文詩を太田省吾、この間亡くなったけれども、その太田省吾の演出で5人の女優がやったんですよね。で、それが最後で詩の朗読、42年前。ホントに詩の朗読というのは成功したことがないんですよ。吉本さんの廃人の歌とか、ロルカとか、芝居屋って言うのは、舞台がオフの時は割と朗読の会というのをやるんですよ、訓練のために。で、だいたい失敗する、できない、というのはやはり、韻にのせちゃうとすっぽ抜けて行っちゃうんですよね、中が。で、もう朗読というのはやるまいと思っていたんだけれども、まあ一人芝居で20年前にやって、とにかく20年間、全然人の目の前にさらしたことが無かった我が身を。それはちょっと待ってもらったわけね、お返事するまで。だけど岩田さんの「グァンタナモ」の最後の第四章の最初の言葉っていうのは、「グァンタナモ我々の夢のかけら」から始まるんです。これは4つのパートになっていて「グァンタナモ我々の夢のかけら」でその次もあって、次が「グァンタナモ夢のかけら」になるんです。で最後が「かけら」だけになるんです。で、その最後の「かけら」のところで彼は、「我々に、我々を、君らにつないでくれ」っていう詩があるわけなんです。その次に「君らを我々にくれ」っていうんですよ。で、最後は「遺言によって傷だらけのクローム鉄鋼のように」っていうので終わるんだけれど、私はこの何行かを立って、最後まで伝えられるかどうか、若者に。それから、これは自信がなかったんですね、自分の中にそれだけの力があるかどうか。だけどこれは私の最後、75歳の正念場であると、私はこれで、人の前で何かを演ずることは終わるだろうと、でこれは私への挑戦であると思って、太田さんにやるって言ったんですよ。それで自信がないから、昔の、60年代に一緒にやっていた自由劇場の演出家だった水元っていうのに、一緒に見てもらいながら、二人でその「グァンタナモ」を作り上げたんだけれど、出来たかどうかは、とにかく最後まで立っていられたというぐらいのことなんだけれど・・。その当時、あおのキューバ危機の時、アメリカが海上を封鎖した時に、フランスのアニア・フランコというのが、キューバに行っていて、それで「キューバの祭り」を書いていて、私は、それを30ぐらいの時に読んでいたんですね。で、それをもう一度読みかえしてみて、今回。で、その時にフランスの女性だから、熱狂とつぶさに見るクールさというのが今でも生きているんですよね。で、私が、丁度それを読んだ頃というのは、60年安保の2〜3年後ですよね。で、まだ私の中に何かが残っている。60年安保。毎日出かけていった自分の情熱というのが、それが重なって生きているって言う感じ。アニア・フランコの「キューバの祭り」は。で、よくぞ太田さんが私に呼びかけてくれた。太田さんと私では、だいぶ違うんだけれど。太田さんが私に「グァンタナモ」を与えてくれたことに、すごく感謝しているんですけれども。私は、その力がまだ、まあ自分への挑戦ですから、少し残っているというふうに、私は自分の中に、そう思ったんです。で、立ってられた、ひっくり返らなかった、とにかく。そんなようなことが先月ありました。どうも。
余川
思想の科学社の余川です。今日は、あの、さっきラジオで言ってましたよって、いったんですけど、今日も本当は、仕事で押しつぶされておりまして、鶴見さんの顔をまともに見れないなと思って、本当は来たくなかったんです。それは余計な話しですけれども、すいません、ちょっと思想の科学の宣伝をさせて頂きますと、60年分のダイジェストというものを作っています。これは多分、日本の出版の中では類を見ないものだと思っています。量といい、巾といい、理念といい、とにかくそれは、このままいくとちゃんと出ますので、出たときにはどこかで必ず見て下さい。それがありまして・・、それから今日は日曜日だというので、なぜか思想の科学社に声なき声の会の集会がありますかという電話がたくさん入りました。いままでこんなことはなかったことなので、えっとか思って、ますます私は行くのがつらいなと思っていたんですけど、朝のラジオで、今日は樺美智子さんが亡くなった日ですと、ちゃんと言いました、NHKのラジオで。それで、ああ行こうと思って来ました。で、私は日本だけじゃなくて世界中がなんか、パレスチナとかイラクとか見ているとうんざりしちゃう感じになってて、若者には抗ガンガン?が流行っているとか、それで環境ホルモンで精子ができないという話しを聞くと、ああ人間はこのまま滅びるとかって、すぐ突っ走って考えるぐらいの人なので、なんか絶望的な感じに最近はなっています。でも、声なき声のここに来ると違うんですよね。ここに来る人たちというのはずーっと昔からそうなんですけど、やっぱすごい人たちだと思っています。1年間ずーっと、こう、なんて言うのかな、維持していけるんですよね、その生活を。そういうのっていうのは、いつも背筋がピンと、ここに来るとなります。それだけです、すいません。あっ、もう一つだけ、すいません。さっき鶴見さんが褒めて下さいました羽生康二さんの「昭和詩史の試み」っていうんですけど、それは思想の科学社から出させてもらいました。よろしくお願いします。
道場
初めて参加しました、道場親信と申します。僕は1967年生まれなんですけれども、1960年の6月15日には、国会の前にいなかったんですけれども、1992年の6月15日には国会の前にいました。それは何であるかというと、PKO協力法が6月15日に通過したんですけれども、そのデモに、一ヶ月ちょっとの間ですけど毎日国会のデモに行っていました。それが個人的な60年安保というとなんですけれども、自分自身が戦後の日本というのはある限界を持っていて、それは突破されないだろうという、どちらかというと安心感を持っていたんですけれども、それが実際には、どんどん成長し大きくなってしまった自衛隊をついに海外に出すという、そういう事態に立ち至って、いよいよ出てしまうという危機感の中で、一ヶ月くらい国会に通ったというのがきっかけでありました。で、結局、そこで法案が通ってしまって、自分が楽観していた戦後というのは何だったんだとか、戦後の平和主義というのは自衛隊を出す段階に至ってしまった、これはどういう事態だろうかと考えて、それ以降戦後史だとか、戦後の平和運動史だとかを勉強するようになりました。それで、その少し後くらいでしょうか、新聞を見ましたところ、かつて本か何かでちらっと見たことのある声なき声の会が、毎年、まさにその6月15日に国会に集まっているという新聞記事を見まして、すごく驚いたというか、こういう会がまだ続いているのかと感心をもったことがあったんですけれども、その後も時々新聞に報道されているものですから、今年こそ行こうと思いながら、毎年6月15日で、おそらく7分の1の確率でしか日曜にあたらないものですから、ウィークデーとあたってしまうとどうしても、仕事とぶつかっちゃったりとかですね、いろんなことで参加することができませんでした。過去にも2回くらい献花にはせめて駆けつけたいと思って、仕事がおわってからですね、国会通用門前に行ったことがあったんですけれども、国会を2周回っても人の影が見えなかったりですとか、警官に花をもった人たちが来なかったかと聞いたらですね、来なかったと嘘をつかれたりとかですね、そういう経験をしていて、結局、今日初めてみなさんにお会いすることが出来ました。声なき声の旗も見ることができて、とても感激しているですけれども、この会の持っている意味とかは、すでにみなさんいろんな形で語られて来ていたんですけれども、何て言うんでしょうか、1960年というのは、本当にもはや48年も前のことで、そこから持続されている様々な人のつながりと志のつながりというものが、持っている重みというものをどういうふうに伝えたらいいのかわからないんですけれども、少なくともここへ来るとその一端に触れることができるという、そう言う場所なのかなというふうに思いました。私自身は運動の場所に関わる、何か自分なりの志をもって関わるというときに、最初の出発点は、先ほどイデオロギーから出発することはできないと発言された方がいましたけれど、私自身は、何であれ、出発してもですね、それが持続できない時というのがあるだろうと思いますから、逆にそういうときに、人が、どういう出発点をもう一度さがすのかとか、どういうふうに自分自身のあり方というものを考えていくのか、ということが、その後を規定してくると思っていまして、おそらく92年の自分というのは、非常に楽観的であり、戦後というものをよく理解しない、そういう青年であったと思いますけれども、そこから今日、もう少し戦後というものを考えてみるような、第一段階の転向、まだ本格的な転向ではありませんけれど、を遂げたと言う意味で、この16年を、6月15日という日を一つのつなぎ目として、これからも考えていきたいと思っています。終わります。
湯浅
横須賀から来ました湯浅と申します。考えてみますと、70年の時は札幌におりまして、札幌べ平連の尻尾についておりました。それでこちらに来まして何年になりますか、この会に、やはり尻尾についております。たぶんこのまま尻尾について、持続だけはしていこうかなと考えております。
東
埼玉から来ました東と申します。3回目です。鶴見先生と吉川さんの「市民の意見30」に入れさせてもらって、ここに導かれたという次第です。ある新聞で、画家がイラクの死者を数字だけに留めておけなくなった。その人を、一体一体を描きたくなったって、人間の形を一人一人を書いていく作業を始めているという紹介がありまして、何万人、数字にすればイラクの死者は、何万人といういろいろな説があるんでしょうけれど・・、アメリカの死者が四千を越えて、9.11を越えた死者と、イラクのあれ以来の死者が10万前後って言っていいんでしょう、あるいは7〜8万とか、相当な巾があったりして、その一人一人の死者を、数字で何万というふうに置き換えて見過ごす事が出来なくなったという一人の芸術家のモチベーションというのは、ちょっと教えられる思いとその死者に責任がある日本のいままでの政治のあり方、あるいは国民のあり方ということを考えております。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも相当な死者を傍らに見ながら、日本は特需で今の繁栄を得ていた、その死者に対する思いとか、自分たちがそういう政府を抱いているという思いということに関して、私は負い目をもって、ここに参加している一人なんですけれども、吉川さんの話にあるように、最高裁は絶対許す・・、聞かない、まあ、横浜事件再審の運動に関わっているんですけれども、あれ以来、司法はなんら変わっていないと、裁判官が自ら、書類を全部焼き捨てて、その書類がないから再審は無理だというような論理とか、そういう日本の動きをそのままにしているのは、日米安保の分水嶺じゃないですけれど、雨がどっち側に流れるかということで、ずいぶん、こっち側に流れないのかという無力感があるわけですけれども、九条で本当に守ってきたといいながら日本は戦争をしてきたという、姜さんという在日の先生が話されていたように、長くなってすいません、自衛隊を解体とか、対談の中で言ったりしていますよね。それは、雑談の中で言ったのじゃなくて、自衛隊を解体して、今ずごい地球上の災害の人たちに対する救援隊に変換できれば、スマトラとかすごい死者が出ましたし、もう需要は必ずあると、戦争をしている暇はないんだと、今、九条に潮目が変わったのはそういう思いなんじゃないかなと、個人的には感じていて、もうちょっと、そういう思いを伝えられないか、広げられないかなと、そういう思いです。
佐々木
中野から来ました佐々木と申します。献花には3年前から参加させていただいておりまして、今日は、今年は日曜日ということもありまして、この会から間に合う形になりました。と言いましても、今日も若干遅れての到着になったのですが、私も1961年生まれで、同じ61年生まれの方がいらっしゃるということに、とても心強いなという気持ちをいたしております。出身が岩手なものですから、昨日は実家の母親の安否確認だけはとれたんですけれども、内陸の方の親戚やらの状況が一切つかめないなかったので、それを昼にかけてようやく無事であるということと、被害がさほどのことはなかったと確認できたので、こちらに駆けつけることができたんですけれど。6月15日というと明治29年の三陸大津波の日でもあるわけでして、私たち三陸の人間にしてみれば、その記憶というものがとても大きくて「人民を信ぜずして信じる」ということに繋がるんですけれど、私の郷里は釜石、新日鉄のあった釜石なんですけれど、昔の写真をみるとまるっきり違う町並みが登場するんですね。明治29年に失われるまでの町並み、それから、復興して昭和8年の津波で失われるまでの町並み、それが今度は昭和20年の大空襲で焼かれて、艦砲射撃で千人近い人が死んでしまう・・、その度に、これが同じ街なのかという、それを見極めるのがせいぜい背景の山並みで偲ぶ感じ、というぐらい街がかわっていく。でもその度に、復興してきたんですね。60年当時、私が育った60年代の町の状況みはどうかというと、新日鉄の盛んな時期でありましたから、新日鉄はじめ国鉄の労組も強く、活気があって、事あらば、大人の男たちが、例えば火事だとなれば、消防団の連中がもうわーっと出てきて、猛スピードで走る消防車に飛び乗っていくという、そういう、いざっていうときの大人達はすごいもんだなというようながありましたので、60年当時なんかも組合は、それいくぞとなれば、列車を仕立てて上京するというような、そういう、大人って言うものはすごいもんだな、やるときはやるもんだなと子供ながらに見てきたものですから、東京に行ったら、大木さんのフォークゲリラとかも見ていたものですから、俺は大人になって東京へ行ったら、新宿へ行ってフォークゲリラになって歌おうと思っていたわけ。上京したら一番先に新宿西口に行ったんだけれど、本当に通路になっちゃっていて、本当にここで歌を歌っていたのかななんて、誰か来ないかとずーっと待っていたんです。それでぼんやり自分なりには思想をみがき、詩の心言葉をみがいて
それが平和に繋がれば、としたのが9.11以降に、ガンと殴られたような気持ちで、自分が頑張っている気持ちではダメだ、その時に何をやるか、何をやってきたんだと他人に聞かれて、こうやりましたといえる行動をとってなかったら、これ言い訳も出来ないという気持ちで、焦燥に駆られたような気持ちで、デモに出かけ、その中で大木さんに出会い、新宿西口で立つようになりという形で、今日まで来ているんですけれども・・。それで今日、防災訓練しているのか、津波の訓練でもやっているのかと聞いたら、いや今日は夏祭りで、魚市場で魚焼いていっているらしいよっていうんで、なんか呑気なことやっているなと思って、せいぜい昨日の今日なんだから、防災訓練くらいやってくれよと思うんだけれど。人間というのは忘れちゃうもんなんだな、どんな街を全滅にさせちゃうくらいの災いがあっても忘れちゃうもんなんだな。でもそれを復興していける力もある。またやられておきながら、それでも立ち上がる、それを他の国に攻められ、殺されながらもやって、60年安保の時もそうやって街の人たちも盛り上がった。今はどうか、全然、立ち上がった気概というものがないんじゃないか、でも、絶対ある、人間には絶対それがある、という強い強い確信があって、それに触れたくて、ここにくればやっぱりいるっていうね。最初に言葉を発する人たちがいるはずだ、東京にきたらそれがいるんだという気持ちで来ているので、今日はとても嬉しい気持ちです。
満田
私は集会とデモが大好きな満田です。よろしくお願いします。今年の東大の五月祭は学生運動のトークをやっていました。それを聞いて、その当時動いていた人の、委員長だか副委員長だか、知りません、もう忘れちゃったんですけど、その人たちが東大の学生達に伝えていて、五月祭だから、いいいことだなと思って、それで家に帰って聞いたら、知らないって言うし、だから私はこういう集会とデモが大好きな満田ということで動いていきたいと思います。以上です。
上原
上原隆と申します。この会には去年と今日とで2回目です。今年の方が落ち着いて集会に参加できて、いい話が聞けて、なんかとてもいい時間が流れているなって気がします。来年もまた来て、参加していきたいなと思います。よろしくお願いいたします。
西村
埼玉県入間市から初めて参加しました西村と申します。初めてなんですけれども、声なき声の会は40年ぶりです。私、19歳まで神戸にいたんですけれども、神戸の繁華街で三宮センター街というのがあるんですが、そこの入り口のところで月に一回ビラをまいている人たちがいたんですね。あの君本雅久(「きみもとまさひさ」の漢字?)さんという詩人の方ですとか、あとは文学が大好きなOLの方とか、造船所で働いている労働者の方とか、いろんな人がいたんですが、たくさんはいなかったですね、10人いなかったと思うんですけれども。たぶん高校3年生だったと思うんですけれども、べ平連、当時神戸の場合にはヤングべ平連というのがありましてね、緑のヘルメットをかぶってジグザグデモをしたり、戦闘的だったんですけど、私と同世代かちょっと上の人たちがいたと思うんですけれど、どうもあれは危なそうだから、ちょっとあそこへ行くのは止めておこうと。でもやはりベトナムでたくさんの人たちが殺されていると、しかも当時神戸港には第六突堤というのがあったんですけれど、米軍がそこを使って、ナパーム弾を送り出すような役割を果たしていたようなんですね。ですから、高校生でいろんなことはまだよく分かっていなかったんですけれども、やはり自分が住んでいる神戸港からそういうものが運ばれてたくさんの人が殺されている。黙っていて良いんだろうかという気持ちはすごく強くあったので、声なき声の会の集会に参加して、初めて神戸港にデモに行きました。で、その後、出かけられるときは出かけて、いろんなお話しを聞いたりしたんですけれども、その後、大学に入りまして、声なき声の会とは離れてしまったんですけれども・・。で、個人的なことを申し上げますと、60年安保の時に、樺さんが属した第一次ブンドが社共にかわる新しい労働者の政党、まあ、こうしたことを呼びかけられたことの何十分の一かは、声なき声の会は無党無派なわけですけれども、有党有派で信頼できる存在は、やはりあって欲しいし、あるべきだろうと。で、私の出来ることは本当にささやかですけれども、出勤前にP3Cが入間基地に入ってくるといえば、夜中起きてとりあえず抗議に行くと、ところが向こうもさるもので一日ずらされて、空振りしちゃったんですけれども、そういうことをやったり、あるいはささやかなサークルですけれども、埼玉労働者クラブというグループで、毎週「資本論」を読むとか、そういう活動を細々ですけれどもやっています。40年ぶりなんだなって、なんだかいろいろなことを今日感じさせていただきました。ありがとうございます。
細田
細田です。1970年にですね、べ平連のデモに参加して、その後声なき声の会に関わって30数年経ちました。このところ毎年、1年が経つのがすごく早いなと感じています。で、この6..15集会は、この一年間にどんなことがあって、どんなことをしてきたのかなと振り返る機会と思って、集会にきています。時間がないのであまりしゃべれませんけれど、そうやって長く続いてきたということは、すごく大事なことだなと思っています。さっき、2003年はこういう会場になっていなかったということが指摘されて、思い出したんですけど、あの時は会場が長くて、最初はこういうふうに作ったんですけど、おかしかったんんで止めたんです。ですから、記憶ですので、いいかげんなところもありますが、こういう形で集会を持つことが主です。それからPKOで6.15の時に国会で出会ったということについてですが、あのとき共同で、声なき声の会とそのPKOのデモの人たちと南門のところで集会をやった記憶があります。本多さんが確かその時に発言をされて、なかなか良い集会ができたなと思っています。そんなところで次の方に回します。
飯岡
飯岡と申します。今、樺さんの話が盛んにでましたけど、事実、私は彼女が亡くなった時に、学園葬をやりまして、その場にいた人間なんですね。で、その時は全部が研究室ごとに授業をやめて、60年安保の話しをしますということに、どんな頭の固い先生も協力なさったんですね。私がそれからずっとここの会に来ていたんじゃなくて、自衛隊が初めて海外に出るようになったときに、それが違憲だという訴訟がおこりまして、そこに参加をしていましたときに、なるべくそういう動きがあるということをいろいろなところに伝えましょうというので、ここのトミさんにも聞いてもらおうと参加したのが最初です。カンボジアから自衛隊を引き上げて下さいというのが最高裁の段階で、何か知りませんけれど、私一人の本人訴訟になってしまったんです。それはどうしてかというと、もうゴラン高原にも常駐するようになっちゃったし・・、あちこちでどんどんどんどん訴訟団が次々に出てくることに対応しなきゃいけないというので、もう負けるってわかっているから、カンボジアはもう高裁でやめようというか、正直なところ、引き受け手がなくなったんです、弁護団の。で、本人訴訟ならできるっていうんで、なんで私がそれをやってしまったかというと、カンボジアに行ったときに、たまたま「ボランティアだからできること」という本を書いた方が、その印税でカンボジアに小学校を作る運動をしている場面に出くわしたんですね。そこへ行って話しているうちに、私は最高裁まで行ってやるつもりだと口を滑らしてしまったんです。言った以上は最後までと思っていたもんですから。で、その方は選挙ボランティアとしてカンボジアに入ったぐらいですから、自衛隊には賛成だったんですね。ただ私はおかしいと思うと言ってしまった手前、やらざるを得ないと言いますか、で、案の定、その大阪とか福岡とか、全部統一してやっていたのに、判決文はたった数行で、訴えの利益はないという、要するにカンボジアの場合は自衛隊を引き上げて終わってしまっていると、そういうことだったんですね。憲法論議で却下じゃないんです、訴えの利益がないということでなんです。私は最高裁というものに愛想をつかして、そういう運動に関わるのは一切やめようと心に決めたんですね。そしたら名古屋高裁で初めて違憲判決がでましたよね、イラクで自衛隊機が運用されているのは違憲であると。なんだ私は早まったかと、思ったんですけれども、あそこまでねばった人がいたからああいう判決が出たんで、今後もねばれば、高裁の段階では出るかもしれない。そうすれば少なくとも、あんまり大手をふって海外に出ることは、控えられるかもしれない。まあやってみなければわかりませんけど、そういう感想を持ちました。それで今日、みなさまにお見せしたいのは、これ(三角の小旗)、今日持ってきたんですよ。これは、細田さんが、まだトミさんがご存命の時に作りますからといって、作ったんですよ。で、私、国会に持って行くつもりで、一度も持って行ったことないんですよ。実に忘れん坊で、当日になると、ケロッと忘れてしまうんですよ。でも今度は、まだ日が明るいうちなので、今日は持ってまいりました。
西川
大阪から来ましたんで、遅くなってしまいました。さっき着きました。あまりしゃべるべき言葉がないんで、ただ、ここに6.15で来ることによって、自分が、歴史の中である、いまこの瞬間にあって、人と関わっていることを確かめる原点として出発するために、ここに来て、また新たに自分で考えながら生きていきたいと思います。
椎野
神奈川県の川崎から参りました椎野和枝と申します。もう先ほどのいろんな運動をなさってきた方々のお話を伺っておりますと、私が転勤者で、どの会に入ってみなさんと行動できるかということを常に考えながら、色々なところをさまよって来てたものですので、こういうふうに歴代の運動の歴史を語る人が居られるところに来ますと、本当に身の引き締まる思いがいたします。ここでまた身を正すと云いますか、そういうことを一年に一回出席させていただくときには、自分の身に課しているような気がします。ちょっとこの5月に行動しましたことをご報告いたします。2005年、思想の科学のシンポジウムに小田実さんがパネラーとして来られたときに、また「市民の意見30の会・東京」主催で憲法のことをお話なさった際に「僕はこういうふうに東京によく来ているんだから、君たちも芦屋の集会に来て下さい、関西に来て下さい」と呼びかけられ、それに応じて私は、芦屋の小田さんのグループに参加しました。「市民の意見30・関西」の会です。その小田さんが去年(2007年7月)亡くなられました。本当は、その年の秋小田さん自身が果たされるはずだったドイツの市民の人たちとの「日独平和フォーラム結成20周年記念」交流会に、小田夫人の玄順恵さん、娘さんのならさんと、会員の総勢16人で、この5月に行くということになりました。私も参加いたしました。その日独の市民の交流会で、感激する場面がいくつかございましたことをみなさんにぜひお伝えしたい。向こうでは市民との交流の集会を何回か持ちました。「ベルリン・9条の会」で、ドイツの人から5月に日本の幕張の集会にに行ってきましたという発言を聞きました時、まさに“世界の憲法九条”になっていると感激しました。向こうの市民の集会は教会の集会所で開かれ、ちょうどこれくらいの人数でした。幕張のことを言う中高年の人は日本に何回か来ている様子でした。そこは中高年の市民が多かったんですけれども、その後訪れたハレでは、大学生の平和運動をしている青年たちとも出会って話しました。市民団体が入っている「改革の家」というところでは、NPOで青年達と市民がずっと活動しているという人たちのミーティングにも参加しました。そこで、若い人たちが、私たちがいつも見慣れているあのピースの七色の大きな旗など示し、非暴力で社会は変えられるの精神でいること、この声なき声があるように、みんなで戦争反対デモ、講演会、ワークショップを開いている方法論など自分たちの日常の活動を語ってくれました。本当に勢いがありました。ドイツで兵役拒否をしている青年達を、日本のNPOの人たちが受け入れているという現実も、向こうに行って私は学びました。夜、寝られないくらいの日々さえありました。今回のドイツへの旅のプランは、幕張にも参画し、大阪での世界の9条の会でも活躍していた、阪大の木戸衛一さんによるもので、「ドイツ抵抗運動記念館」、修道院跡のブライテナウ強制収容所など、数々の施設の見学の体験を私たちに与えてくださいました。ドイツは国が戦争に関する資料館をまともに向き合って作っているのを強く感じました。私たち昼は見学、夕方から夜は集会で意見を交換しながら、小田さんは亡くなられたけれども、その志を日独の市民の互いが今回の交流で、あらたに深めたのではないかということをお伝えしたいと思います。
柳下
すいません。この会場が5時までなので、手短にお願いします。
北村
北村三津子です。国会南門にいきましょう。
丸山
丸山と申します。事実婚で夫妻別姓運動をやっています。今年還暦を迎える全共闘世代です。2年後の2010年は、樺さんが亡くなってから50年になるので、安保はいらない半世紀の声なき声の会ということで、こういう集会、集いを開きたいと思いますので問題提起します。それはなぜかというと、ここに集まって語るということだけじゃなくて、樺さんは行動を起こしたので、南門で亡くなっていたんですね。ですから今日、そこに掲げてあるような、横断幕をもって、半世紀にあたる2010年にはデモをしたいと思います。
柳下
どうもありがとうございました。すいませんが、行かれる人はもう国会の方に行って下さい。
2009年03月17日
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