2008年06月03日

2007年6・15集会の記録

【2007年6月15日の集会から】
二〇〇七年六月一五日に行なわれた「声なき声の会」の 六・一五集会 参加者の発言を発言順に抄録したものです。


柳下弘壽 先ほど本多さんがお見えになったので、現在、出前噺をされてるわけですから集団的自衛権その他、そのあたりから、お話いただけたらと思います。
本多立太郎 ただ今、和歌山に住んでおります本多立太郎でございます。私は60年安保の時にデモの中に実際に居って、樺美智子さんが亡くなった日は、警視庁へ抗議に押しかけた者の一人でございます。
 実は今年4月に93歳になりましたけれども、年をとるとだんだん気が短くなるものとみえまして、4月のある日、猛烈に腹を立てまして、出るやつも出るやつなら、出すやつも出すやつだと、あんなのを東京都知事に選ぶなんて何事だと。だから、おれはもう、これから4年間、東京の土は踏まんと腹を立てておりまして、しかし待てよ、6月15日はどうするか、6月15日は、まさか石原なにがしに投票した人は居らんだろうけれども、しかしやっぱり、みんなで選んだということになれば、やはり選挙というものは皆さんで選んだということになるし、その選んだということについては、黙っていられない。しかし待てよ、6月の声なき声には、けっして東京都民ばかりではないはずだと、近県ばかりじゃない、私も和歌山から、こうして押しかけてるわけで、だから都民の皆さんよりも、むしろ付近の皆さんのほうが多いかもしれない。じゃあこれはやっぱり6月15日だけでも参ろうかと。実は正直なところ一年にいっぺん七夕さんみたいに皆さんにお目にかかるのが老人の唯一の楽しみだったものですから、そうやって口実をつけて今日も出て参りました。
 しかし近頃の状況を見てますと、これは80になろうが90になろうが、黙って引っ込んでちゃ武士の一分が立たない。藤沢周平調になりまして、これからも一所懸命がんばりたいと思います。
 で、あの60年安保当時の皆さん、約20万の大衆が今こんにち、いったいどこへいっちゃったんだろうと。あの大衆は今どこでどうしているんだろうと、こういう気持ちがしてなりません。これから一人ひとり力を合わせて、やはり、この今の流れに抵抗していかなければ、やがて子供や孫たちから責められることになるんじゃないかという感じがいたします。とりとめありませんが一言申し上げます。
小形健治 神奈川県から来ました小形健治と申します。今思い浮かぶ事としては、小泉首相が靖国に参拝したときに、ネットだか、そういう形でたくさん集まった若い人たちが「ワーッ」といって、みんな携帯で到着した小泉首相を撮ったんですね。それを新聞の写真で見た記憶があります。なぜそうなるのかという非常に興味を引かれた、といっては問題は深刻なんですが、どういう気持ちで、そういう具合になるのかということが気にかかっています。
 もう一つは、母親と電話で話をしたときに、私の母親はだいぶ年をとりましたけれども生きているわけですが、戦争中に生きていたわけで、話をしている中で「満州事変の頃に似てるね」という話をしていました。事態は深刻というわけですけれども、そんなことが最近は心に残っています。以上です。
松本市寿 川崎から参りました松本市寿と申します。6・15というのは1960年から動き出しているわけですけれど、数えますと、すでに47年、その後生まれた方もみえてると思いますけれど、そういう長い会に、私も途中からですけれども顔を出しているのは、これが一番最長の会なんです。
 しかし、あの60年安保ということの意味はともかくも、あの時のショッキングな印象から、それをどういう形にせよ語りついで、こういうふうに6月15日に集まって来られるというのは、今日もどうかなと毎年思いながら来ているわけですけれど。
 あの時の興奮と、あの時の方向付けというのは、多少皆さんの中でいろいろ変質していると思いますし、しかし、思い出につながって、先程の本多さんの話じゃないんですけれど、皆さんの年一回の七夕のようなつもりであるにせよ、そういうきっかけというのは、私も長年生きてきて、いくつもあるわけです。それにしても、この6・15に、この池袋の勤労福祉会館に来られるっていうのは、懐かしいというか、あの時の思いをもういっぺん手探りで確かめ合おうと、いうつもりになってます。
 皆さん毎日の生活というので、あの60年安保からつながっているわけじゃなくて、みんなそれぞれの、なんというか、断絶を経て、それでも6月15日は行こうということで、来ていただいていると思うんです。
 その間、私は個人的には、28年前に良寛研究に軸足を移しました
 私は良寛に軸足を移してますから、現代と、どういうふうに向き合うかということを、良寛を現代に連れてきて話し合っているわけでありまして、だから、この平和運動というか、その安保体制うんぬんとか、今の集団的自衛権とか国民的な問題というのを、私は良寛に言わせようとしているわけでありまして、そこのところは、ずいぶん、この40数年の間に、個人の内部にも、彩りとか、組み合わせがいろいろ変わってきているなと思うんです。
 そのへんのことは、鶴見俊輔と良寛をないまぜにして次の答えを出さないといけないと思ってます。個人的にはそういうテーマで考えているところです。
浅輪雅夫 埼玉県から来ました浅輪といいます。6・15の会は3年前から出てます。先程本多さんがおっしゃった60年のあの人たちはどこへ行ったのかと、私もその一人で、言わば、あちらこちら放浪の末、やっぱりここに、生きてるうちに戻ってこられたということは、私はとても良かったと思ってます。
 私が今考えていることは、1960年6月15日を、私は少なくとも忘れないということです。忘れないということは、その事をもう一回考え直すということなんですけれども、考え直しているうちに、だんだん遡って、今、もう一つ忘れないようにと思っているのは、私は終戦の時に8歳でしたけれども、いくらかなりとも戦争の経験が私の体の中に残っています。戦争を忘れないということを、もう一つ考えています。私一人が忘れなくても、世の中に何の影響もないのかもしれませんけども、少なくとも忘れない人間が一人はいるということは、いいことだと考えています。今は、戦争を忘れないことと、6月15日を忘れないということを自分の頭で考えています。
鈴木弘之 初めて参加させていただきました、鈴木といいます。北区から来ました。母と父の弟5人全員戦死したんですけれども、私は戦後生まれなんですが、いなかで育った家に、その痕跡があちこちにありまして、それを子供の頃から学生、それから就職してからも、ときおり思い出す。それで考えたり物を読んだりということをしてたんですけれども、それだけではなんなんで、少しは外へ出てみようと、特に定年を迎える時期になったんで、それも何かしら心理的には影響があるのかも知れないんですけれども、要するに状況に関わるような人生でありたいというような気持ちが最近出てきまして、今日参加してきました。よろしくお願いします。
針生圭吉 埼玉県から来ました針生と申します。今日2回目でございます。前回いつだったかなと思い返してみたんですけれど、ちょうど小林トミさんが亡くなられた3年前の集会の時に初めて寄せていただきました。
 私は、このあいだ55歳になったんですが、60年安保の頃は小学校の2年生で、安保ごっこと言いますか、そういう世代でございます。どちらかと言うと私自身としては70年安保の世代と言いますか、ちょっと10年くらいの隔たりがあるわけです。
私の父が今年88歳になりますが、戦時中、空襲の経験も含めて、東京から横浜、全部焼けた話を子供の頃から聞かされました。また、中学くらいの時期にベ平連の活動の一端の,端っこのところに加わってたんですけれども、ベトナム戦争が北爆の頃を含めて非常に激化した時代のところで、父によく戦争の悲惨さなり、やってはだめなんだよと、人をあやめてはだめなんだよという中で育ってきました。
 それで、自分の子供が3人いますけれども、今一番感じていますのは、きちんと語りつないでいくということの難しさですね。戦争の実体験はありませんし、想像力をどういうふうに子供に身につけさせるかということでやってきたつもりでございます。このあいだ実は孫が生まれまして、これから更に、その語り継いでいくことの難しさというのを今非常に感じております。
 仕事のほうは生協に関わっておりまして、生協と言いますと平和なくして私たちの暮らしもないんだということで、自分の原点としても、身にしみて25年間やってきたわけですが、やっぱり生協の中でも世代が変わってくる中で、同様に語り継いでいくことの難しさ、自衛隊の問題一つ取っても、どちらかというと非常に今、内向きになっているのかなと、感じています。
 声なき声の会の活動については高校生くらいの頃から、ずっと印刷物など拝見させていただいているわけですけれども、やはり今、こういう時にあって、もう一度、自分の原点というのを、しっかり見つめたいなということで、今日は参加させていただきました。
今野 聡 私は練馬に住んでいる今野と申します。隣の針生さんと実は仕事で知ってまして、この6・15に針生さんが居られたって、ほんとにびっくりしたんです。去年だったかおととしだったか、生活協同組合にもこういう人居られるんだという、すごくその時針生さんのことが頭に残りまして、今日もここでお会いしました。
 私も6・15は仙台だったんですが、今日少し話しようと思ったのは、練馬区の議会のことです。私は区議会によく聞きに行くんですね。特に定年になって六、七年になる、これすごく楽しみなんです。今回の選挙では私の応援した人、何人かいたんですが、一番応援した人が50人の一番ビリで50番目で通りました。しかも朝の3時半から4時頃に最終的に当選がわかった。で51番目が共産党の人でした。70万人いる中で有権者は五十七、八万人いるんですが、練馬区ってのは、ものすごく多党化してまして、一人の会派の人が何人かいるんです。旧社会党が一番凋落してますね。私がなぜこれに出てるかっていうと、議会に行くと、ほとんど傍聴席は私一人なんです。これが戦後何十年たってある、地方議会の現実なんですね。ですから私のふるさとは宮城県なんですが、この6月に町長選が再選されます。このあいだの定例の選挙の時は5人立候補して5人とも定数に入らなかった。今ガラクタのような選挙戦を合併した町でやってます。
 練馬区のことを最後に一つだけ言いますと、この議会で聞いていると、先程もちょっと出ましたが、石原慎太郎さんのご威光が議会を圧倒してるんですね。国会のミニチュアで、私もときどきヤジを飛ばしたりしてるんですがね。もちろん不規則発言禁止という、そういう場所でやるので、いろいろ工夫・方法があるんです。50番目の議員さん、今議会始まったばかりで、まだ行ってないんですが、実に私が学んだのは、たった一人で発言するための知恵ですね。制限時間をどうしたら合法的に超えるか、これはひとりで闘う人には、こういう方法があるんだなと。一つだけ例をいいますと、最後に問題を区長に投げかける。その最後に、ほとんど三秒か4秒前に言うんです。そうすると、それからだいたい30秒か40秒やれるんですね。その時の自民党、公明党のヤジ、そのご本人は女性なんですがね、彼女に向かってヤジる。そのヤジの中で、この国のこの議会の中で、小さな議会の中で、戦争に向かって、どういうことがプログラムされているか、これ日本中で私たちはこういうことを体で学ばないといけない。これは小林トミさんが生前私に教えてくれた方法だなと思ってます。これ私が今、必死になってやっているわけです。
石山貴美子 文京区から来ました石山といいます。ずいぶん前に2回ほど声なき声には出席させていただきましたんですけど、それからずっとうかがってませんでした。そしたら今回お隣にいらっしゃいます安田さんが声をかけていただいたので、今またこういう会を大事にしなきゃいけないなと思って、今日出席させていただきました。よろしくお願いします。
安田つたゑ 安田でございます。60年の頃は私は立教大学に居りまして、そこから国会へ連日のごとく、夜もデモに行ってました。いま石山さんが、私が声をかけたとおっしゃったんですけど、石山さんはカメラマンで、とても素敵な写真を撮っていらっしゃるんです。で、声なき声のことも撮ったことがあるようなことも、おっしゃってました。
余川典子 余川と申します。『声なき声のたより』の復刻版を出していただいた出版社の思想の科学社で仕事をしています。
 私がなんとなく今感じるのは、自主規制みたいな感じ、恐ろしい話なんですけど、誰も何も言わないんだけど、どっかで、ひたひたと、みんながそんな風になって来てるんじゃないかなという感じがしています。 、そういう意味で言うと、思想の科学社から今度(二〇〇六年三月)出た本は、『戦争しない国』という本なんです。中村智子さんの「戦後民主主義に生きて」という副題がついて、とてもいい本です。
 思想の科学社というのは鶴見さんの設立だから、ちゃんとした理念もあって、来ていただくとわかるんですが、バーっと社の前面全部にチラシが貼ってあるような出版社なので、今更ということはないんですけど、でも私はなんか、どっかで、そういうのが自分の中にあるんじゃないかなという思いが、ある時ふっとして、それですごく恐ろしいなと自分で自分を見てそう思いました。だから、ある意味で言うと、小さなことでもいいし、隣にいる人に話しかけていくみたいな、そういう、なんていうか、反戦とか平和憲法とか、そういうことを続けていけるような自分でありたいというふうには思ってます。それだけです。
上原 隆 台東区から来ました。上原と申します。初めての参加です。実は私は最近、いろんなことが、よくわからなくなってきてて、声なき声の会のことはいろいろな本とかよく読んで、あるってことは知ってましたし、ほんとに6・15で国会前に献花してるのかどうか、ちょっとそれを確かめたくなって来ました。
 私の中で、48回も同じことをしている定点があるということを見たくてちょっと来ました。よろしくお願いします。
梶野 聡 自衛隊の方がいらっしゃるといけませんので、正確に自己紹介をさせていただきます。東京都老人医療センターという所で言葉の訓練を担当させていただいています、梶野といいます。自衛隊の調査官の方がいらしたら、ぜひしっかり書き留めてください。
 この会には十数年前くらいから参加しています。もちろん、きっかけは鶴見さんが著作でいろいろと6・15のことを書かれていたり、とか、気になっていて、それ以来、10何年か参加させていただいてます。トミさんがいらっしゃっていた月例会を楽しみにして来させていただいてたんですけれども、いま月例会はなく、年に一回来させていただいてるだけなんですが、皆さんの前でまだ50前の人間が言うのもなんですけれども、年をとってくると、いろんなことに腹が立つ。こんな大きなことが、まさか、6・15に参加してから十数年の間に教育基本法が「改正」されるなんて、思いもよらなかったですし、大きいこともいっぱいありますが、小さいことで言えば、たとえばわたしの勤務しているのは、わりと大きな病院で、研修医がたくさんいるんですが、若い医者の態度が、皆さんの前で私が「若い医者」というのも変なんですが、患者さんが目の前でエレベーターを待っているのに、平気で数人しゃべりながら、その患者さんを押しのけるようにエレベーターに入ってくる。そんな世界っていうのは、ありえないだろうというのが私の中の気持ちではあるんですけれど、実際にはもうほんとに、そういう些細なことで、いちいち腹が立つ。
 こういう医者に診てほしくないなあ、ということから、教育基本法が改正され、こういうところに自衛隊の人が来て、一所懸命メモをとって資料にするとかっていうような世の中から、もうなんか、いちいち腹が立つ。
 最後に鶴見先生が今年出された『詩と自由』という中で、これはどういうつもりで先生がお書きになったかわかんないんですが、すごく気になっているのがあって、一つだけ紹介させていただきます。詩なんですけど、
『まちがいは どこへ行くか
 まちがいは どこへ行くか
 遠くはるかに 世界を超えて飛び散っていく
 世界はなんと小さく見えることか
 錯誤を抱き取ることのできるものは なんと大きいか』
 なんか小さいことで怒っているよりも、もう少し大きいことで、なんかこう狂った社会に対して、せんとあかんのちゃうか、っていうのが今の思いです。
青柳知義 埼玉県の狭山市から来ました青柳です。この会には、ずっと十数年出ております。最近非常に思うのは、安倍晋三の答弁ですね。自分の弱点を突かれちゃうと、彼はなんと答えるかというと「それは失礼じゃないか」という言い方をするわけですね。それが非常に気にかかる。というのは、彼はそれを理解して反論するだけの言語能力が無いんじゃないかと。安倍内閣の官房長官であれ、幹事長でも、ほんとに言葉が軽いような気がして、こんな連中が権力を持つということは非常に恐ろしいなと思うんですね。言葉が軽いわけだから、事態の深刻さを捉える能力も無いわけで、だから、さっき柳下さんが言ったように、憲法、集団的自衛権のことでも、御用学者たちや評論家を集めて、やっちまおうということになってるんじゃないかと思います。それを、どういうふうに、くい止められるかということになると、僕らの手には負えない。さしあたりの課題は、やっぱり参議院で、そういう連中たちを、け落とすことが当面の課題じゃないかなと。個人的には、いろんなことやりたいと思うんですが、それが可能かどうかですね。そんな事を考えてます。
東 弘史 埼玉から来ました東と申します。去年初めて参加させていただきました。鶴見先生、吉川さん、市民の意見30のつながりで、声なき声にたどりついたり、あるいは、こういうところに参加させていただくようになったと自分では思っています。
 私は1941年5月生まれで、ちょうど半年後に戦争が始まる時に生まれて、言ってみれば、60年安保も20歳ちょっと前、65年のベトナム戦争も、70年のキリスト教会も、反戦万博とかで、ちょっと荒れて、70年安保、反万博、まあ、すべてに、なんか自分なりに充分な関わりをしてこないまま、今まで来たなっていう、それで、定年を迎えて、後ろめたさっていうのか、何かやり残したことを少しずつやっていけたらな、という思いがあります。
 靖国問題で騒がしくなった時に、私の兄も一人戦死してしてまして、長男ですけども、ずいぶん私と離れた兄なんで、どこでどういうふうにして死んだのか、というのを、ちょっと県に問い合わせしたら、「兵役歴」というのを送ってもらいました。ニューギニアの激戦の中で餓死ですね、病死っていうふうにはなってましたけど。いろんな話を読んだり聞いたりすると、ニューギニアの戦いというのはむちゃくちゃな戦いであったと。それまで私も、はっきりとそういう事柄に、突っ込んで受け止められなかったんですけれども、ようやく広島の呉あたりからフィリッピンの港々を経由して、ニューギニアの港まで行ったらしい。そのニューギニアのことを書いた本を何冊かあたったりして、ああ、こんなところで死んでいったのかなと、それで最後は靖国に行ってるのかなっていう、その思いをもう一回、私たちの母なんかにも、私の子供なんかにも伝えなきゃいけないのかな、という思い。そんなこんなで、この「声なき声」は無くしてはいけないのかなという思いも一つあります。以上です。
岩瀬 弘 神奈川県の三浦から来ました岩瀬です。元サラリーマンで、年金生活者です。昨年から岩垂さんの主宰している平和協同ジャーナリスト基金の仕事を手伝っています。
 私は60年安保の時代に育ちまして、デモもよく行ってました。昨年、岩垂さんから、この会に出ないかと誘われて、最初私は、戦犯みたいなもので、こういう会に出る資格はないと返事をしたら「この会に資格はいらない」と心強く言っていただきまして、で、昨年初めて出席して、国会にも行きまして、非常によかったなということで、今回が2回目の出席です。
 今までいろいろお話ありましたけれども、あれから、ここへ出席してから1年たつわけですけれども、その間に小泉から安倍に代わって、ものすごいスピードで、右傾化が進んだと。最近の安倍のやっているのをみたら、もうこれ何でもありです。全部やると。これはもう民主主義ではないなというふうに感じてます。
 まあ、卑近な例で言うと、例えば一番重要法案といわれた教育基本法、それから国民投票法。私も皆さんについて行かなきゃいけないので、いろいろ勉強しようと思いまして、岩波から『なぜ変える? 教育基本法』という本が、これは『世界』に掲載された、いろんな方のご意見が載せてある本ですが、これが出版されたのが去年の10月なんですよね。それで私が、この本を読み終わったのが11月ぐらいで、年末には「教育基本法」は衆院で可決成立。今年の『世界』2月号に書いてあるんですけど、教育基本法は名前は同じでも、中身は「教育国家統制法」と呼ぶべき法律で、私たちは戦後の大切な宝を失いましたと。これが、こういう拙速な方法で、可決されていく。
 それから、同じように「国民投票法」も同様でした。これも朝日新聞社の豊秀一さんが岩波のブックレットで『国民投票法』という本を4月に出してくれて、これも読んだら、翌月の5月に、これももう投票法案可決成立と。
 とにかく要するに、もう安倍さんというのは知性があるとは思えないし、言うことはうにゃむにゃ、先程どなたか言ってましたけども、しかし、やること相当したたかでして、どんどん突っ走ってくる。おそらく憲法改正についても、こういう手法でやってくるだろうと、こう思います。今の政府のやっているやり方は、これは極めて民主主義のルールを逸脱したものでファッショだと。
 今われわれは正念場に立たされているわけですけれど、7月の参院選、これはとにかく自民党を負かさなければいけないと。最近の世論調査などでは、かなり自民・安倍支持は落ちてきている。それから憲法についても、九条については、変える必要はないというのは過半数なんですね。だけど、為政者というのは、こういうのは、世論操作などで、いかようにでも誘導してくるだろうし、楽観はできないと思いますので、この、日本国憲法、とりわけ第九条については、これは、我々が敗戦の中からかちとった宝なんで、これだけは守らなくちゃいけないということで、微力ながら私もがんばりたいと思います。
池田敦子 今日初めて参加させてもらいました。神奈川県の座間から来た池田と申します。60年の6月15日のとき私は20歳でした。その時つき合ってたボーイフレンドの名前が安保と書いてアボといったんですね。その人が、いつもいつもデモに行くので、私は「なんで、あんたデモばかり行くの、なんで行くの」なんかそんな馬鹿なことを聞いて、彼に長々と行く理由を書いてもらったことを、今思い出してました。
 それから、なんだらかんだらして、もう何十年もたって、それで3年前に座間で沖縄出身の友達がいまして、その人が、辺野古に行くと言ったんで、私も辺野古の名前は聞いてたけど、どこにあるのかなって、「行く?」って言うから「行く」とか言って、それで向こうに行って、ちょうど座り込みの始まった頃だったんですね。3年前の5月で、そこでその現場に立って、それで、向こうの人たちに「座間もたいへんだね、何かの時には手伝いに行くよ」って言われた。その一言で、何か自分の今まで眠っていたものが、なんか目覚めたみたいに、辺野古の思いがすごく自分の中に身にしみて、それからもう20回くらい行ってると思うんですね、友達誘って。で、座り込みして、それで、そこから目が覚めて、座間でも第一軍団も来るということでシコシコと座り込みとかデモとかやってるんですけどね。
 みんなそれぞれ一人からで、自分の、自分から思ってやって、だから組織とか何にもなしでやってるから、広がりも、そんなにはないんですけど、でもやっぱり、意思表示はしないといけないと思って、夜はお酒とか呑みながらですけど、やってます。
 このあいだ、6月のいつだったかに、京都で龍谷大学の講座があって、そこで鶴見先生の話を聞いたんですね。すごく心が、なんか、なごやかというか、いっぱいに気持ちが良くなって、それで帰ってきて、それでまた今日ここで、お会いできて、私は、すごく今日ここに来て良かったと思ってます。
馬場宣明 杉並に住んでます、馬場といいます。60年のときは、北陸の福井で映写をしながら、ニュースで、東京では、こういうことやってるのかというふうな気持ちで見てました。それで70年近くなって、東京に来て、70年安保でようやく運動というものに関わるという、遅れてきた世代という感じはあるんですが。
 今さしせまった問題として原発に関わっています。電力会社による原発の事故隠しが次々と出てきていて、これはいったい、どういうことなんだろうと思っているところなんです。
 安倍首相のバックアップとして教育再生諮問会議とかで、山崎正和という座長が、「イラク戦争の大義」というのを、相変わらず認めて、「自衛隊が参戦したのは正しかった」というふうにに言ってるわけです。アメリカで、ブッシュでさえ「それは間違いだった」と認めているのに、相変らず、それに目をつむっている。ということは、教育をどうこうしようと言いながら、事実に目をつむる。そういう教育を目指す。安部が、こういうことを次々やろうとしている。これは人間性をなくすことにつながっていて、食品の偽装とか、建築のゴマカシ、それぞれが職場で、仕事をしながら、人間性をなくしている。
 それが原発の事故隠しにも、つながっていて、制御棒が落下して臨界事故が、何度もあったと。東海村の事故の前にあったのに隠して、無かったことにして、検証せずに大事故に至る。これを管理しているはずの経産省・保安院は、あまりにひどかったから、「今はもう時効だから、過去の事故を洗いざらい出せ」と。そうしたら次から次と1万何百件も出てきた。これではチェルノブイリのような、それを超える事故が、いつ起こっても不思議ではないと言う状況に来てしまっているなと思います。
 チェルノブイリ事故も、地震がきっかけという説もあり、地震大国の日本で、55基も原発をつくってしまった。この恐ろしさを感じています。
青木和子 松戸から来ました青木と申します。地元で図書館運動をやってるんです。でも、とにかく、どこを見ても元気がなくなることばかりなので、少し元気をいただけたらなあと思って、今年も寄せていただきました。
 たいして読書家でもない私が、なんで図書館運動を、と思うんですが、成り行き上やってるいうこともあるんですが、15年の活動の中で、図書館というのは、けっきょく、教育基本法とか憲法を支えるような民主主義の「とりで」ということが、よくわかりました。だから、日本という国が、図書館を重く見ない、というよりも、せっかくいい方向に進んでいるかなと思ったのを、また逆戻りさせようとしているのは、そういう市民を育てたくないんだなという、そういうのが、なんか見えるような気がします。文科省の教育が、すごくうまくいっちゃって、それで、こんな世の中になってるんじゃないかなっていうふうに、なんか図書館から見えてきたものが、いっぱいあります。
 私、昔、ベ平連に、ちょっとだけ参加していたんですけど、その時に学んだことが――違ってたら吉川さん訂正してください――言い出しっぺがやるとか、身銭を切るとか、やってる人の足を引っ張らないとか、そういうことでしたよね。それが今でも私の一番大事な、いつも、それを頭において、やっているつもりなんです。だから吉川さんは私の先生だと勝手に思ってますので「先生」と言っちゃったことがあるんです。
 とても大事なベ平連だし、声なき声なんですけども、一番根っこのとこには「息子を戦争で死なせたくない」というのが最初だったんです。今は息子は、その年からは、ちょっと外れたかなと思うので、今は「孫を死なせたくない」という気持ちが一番の根っこのところにあります。
 松戸というところは、わりと市の行政が良くないから、市民運動は、わりと活発なんだと思うんですね。いろんなグループがあって、5月3日の憲法記念日の集いというのが、60団体ぐらい、もうほんとに数ばっかり多くってもなあとも思うんですけど、でも、それだけのグループが一緒になって、「憲法記念日の集い」というのをやってます。講演をお願いしたり、アトラクションを入れたりして。それが市民会館という千何百人の会場が一杯になるんですよね。それはすごいなと思うと同時に、皆さん危機感を感じてるんだなと思うんですけど。
 ただ、出席される方が、高齢者が多くて、若者をどうやったら引き付けることができるんだろうというのが、私たちの、いつもの悩みです。これも文科省の教育がうまくいっちゃった結果なんだろうなあっていうふうに、ちょっと情けないですけど、そういうふうに思ってます。
 来年の6月15日は、もうちょっと元気が出るような世の中の流れの中で参加したいなって思ってます。
羽生康二 鎌倉から来ました羽生と申します。声なき声の会には、25年くらい前から参加し始めて、たぶん私、それ以来、珍しいことなんですが、6・15の集まりだけは欠席、休んでないと思います。
 二、三年前から戦争反対の詩の雑誌というのを仲間と始めまして、『命の籠』という、ちょっとキザな名前をつけましたけども、350円なんですけど、200円で買っていただこうと思っています。その横においてある『想像』というのは、私のワイフと二人でつくっている雑誌で、これは、ご自由にお持ちください。よろしくお願いします。
竹入マリ子 竹入といいます。去年は参加できなかったんですけど、今年は、私事ですが大手の企業に勤めておりまして、年が、うばすてじゃないんですが、今年の5月から子会社のほうに出向になりましたら、昨年は残業が厳しくて、こちらの会に参加できなかったんですが、子会社では残業しちゃいけないということで、こちらに参加できるようになって、なんとも不思議な状態なんですけれども。
 声なき声は、昨晩──話がとりとめないんですが──、父が「まだ続いてるのか」と言って、「明日出ますよ」と言ったら、「トミさんが亡くなったのに、まだ続いてるのか」って父が聞くもんですから、「いやいや、けっこう来ますよ」って言ったら「ほおっ」と言って。父はもう、選挙は自民党に入れちゃう人なんですね。ちらっと言ってたのは、「野党がだらしない、今は年金ばかり話してて、もっと大切なことがあるんじゃないか」っていうようなことを言って、父の言わんとしてることも、なんとなく分かるような気がするんですが、声なき声が、これだけの人数が続くっていうことは、すごい、いいことだなと思います。また来年も来ようと思います。
尾家順子 和歌山から参りました尾家と申します。私は図書館に勤めておりまして、今日のお休み1日とるのに、2カ月前から、とりたいとりたいと一所懸命根回しして、やっと取れたんですけれども、町村合併で、図書館が、どんなふうになっているのか手短にお話します。最初、引越ししたときは、南部川村という、人口7千ぐらいの村でして、その村で非常勤として、初めての経験だったんですけれども、公民館図書室の司書というのを10年させていただきました。そこでは所帯が小さいからというのもあるんですけれども、鶴見先生とか、池澤夏樹さんとか、澤地久枝さんとかっていう方々を公民館図書室でお招きすることができたんです。そして図書館費も、最初年間で30万円でした。けれども図書館はぜんぜんダメといいますか、資料費は削られるばかりですし、今は指定管理者制度のことを検討しろという話が出ておりますし、いろんな企画も、先程申しましたような方々はもちろんなんですが、それ以外のこともほとんど、もうダメで、ボランティアとかタダで来て頂ける方とか、そういう流れになっております。それで保育所に読み聞かせに言ったり、小学校にブックトークに行ったりということも、行くのは先生方がすればいいとか、ボランティアのお母さん方がすればいいということで、出ることすら、ままならないようになってるのが現状です。
 先程、図書館活動されてる方もありましたけど、もし、皆さんの中で、図書館を利用なさってて、図書館だからこそ、この資料に出会えて役に立ったとか、同じ司書さんが、ずっと同じ窓口に居てくれたから私にとってプラスがあったという経験をなさった時は、投書なりなんなりで、声に出していただくっていうのも、図書館をサポートしてくださる一つのやり方ではないかなと思います。
 もう一つ、子供の読書活動推進の法律ができましたけど、現場におりますと、子供たちは時間と、その年齢に見合った本と、一番最初の糸口をつけてくれる人というのがいたら、子供たちは、すごく本、好きだと思うんですね。だから、こんな法律つくるんだったら、むしろ「品位を養うための国会議員・読書活動推進法」なんかをつくってほしいって、すごく思います。
飯岡祐保 今のお話聞いてて、私の友人で図書館長を経験した人の話を聞いたことがあるんですけども、それを思い出しました。司書という専門職に、専門知識の無い人が、いきなり管理職になると、すごくけむったいみたいだったんですね。日本という国は専門職をまともに扱ってないんだなと思いました。
 それはさておき、九条に関して、「日本は今まで、他国の人の血を流してこなかった、戦死もしてない。それは九条のお陰だ」ということが蔓延していて。実はイラクでフランス軍の傭兵になった元自衛隊員が戦死してますよね。それで、もう、ついにここまで来ちゃったのかって、あの時思いましたし。いま、非戦闘地域ならぬバグダッドに、自衛隊の飛行機が往復してますよね。参戦しちゃってるんですよ、九条があっても。それで、どうしてそういうことを見過ごすようになっちゃってるのかっていう気持ちがとてもしてます。
 イラクで外交官が亡くなったり、一人の青年が捕虜になった時、小泉首相が「自衛隊は撤退させない」って発言したために殺されましたよね、公開処刑みたいに。そういうことが、次から次へ忘れられちゃうんだろう。ほんとに参戦しちゃってるのにっていう感じがして、この戦争、今やめさせない限り、日本は「平和憲法を守ってる」なんてことは、とうてい言えないと思ってます。
金井佳子 金井です。去年の9月まで水商売をしてました。四十何年やってましたが、去年やめたんです。私は呑み屋の通信っていうのを30年間やってたんですね。その店が「風童」っていう名前だったんで『風童通信』というのを出してたんです。それがちょうど60号になってやめたんです。
 それをなぜつくったかというきっかけは、32歳の男子が、イラクへ行って戦死をしたら、それは「国を守るために、名誉なことだ」って言ったというのを聞きましたが、それと同じことが、30年前に、福田(父)首相の時代に有事立法が出そうになったんですね。そのときうちへ来てる若者に、それをどう思うかって言ったら、やっぱり同じ答えが返ってきて、「それは国を守るために我々が行くっていうのは、徴兵制が出たら、行くっていうのは当たり前のことだ」というので、ちょっと私は仰天しちゃって、私は戦争を知ってる世代ですからね。それでとりあえず、何人かで合宿を始めて、そこから『風童通信』が始まったんです。その青年は学生だったんですけども、彼も合宿に参加してて、何年か一緒にやってたんですね。彼の姿勢の中には違ったものが出てきてただろうと、思ってます。そういうことっていうのは、やっぱり、気が付いた時にやっておくべきことなんだと。
 だから今、わりときちんとニュースを見てるんですね。テレビのニュースってのは、政治の、安倍の顔から始まって、最後はスポーツで終わる、、イチローとか松井とか。そういう同じような繰返しみたいな円の中に、見てる人が「ふわっ」と入っちゃう。そんな感じですね。
 だから、おばさんたちがハンカチ王子にどっと押しかけてるのを見てて、私はちょっと恥ずかしいんだけれども。彼女たちもどこかで息がつまってる。どこかへ飛び出していきたい。そんなのを、いつも抱えているんだろうと私は思うんですね。
 彼女たちのそれを恥ずかしいと思うのと、拉致問題で横田早紀江さんが渡米してブッシュと会ったときの、ブッシュの顔も恥ずかしそうだったけど、見てて私も恥ずかしかったんですね。拉致問題に関して、私にはやっぱり批判いっぱいあるんですよね。でもマスコミも誰も何も言わない。これは、公に言ってはいけないこととしてあるんですよね。
 さっき、病人を押しのけてエレベーターに入るって話。私は電車で同じような経験があるんですよね。中から老人がヨタヨタ出てきてるのを、下校時の女子学生が「ワーッ」と入ったんです。その時私は大きな声で「なにやってるの、あんたたち」って叫んだんです。そしたら一瞬みんな「シーン」として止まったんです。これは声を出すべきだと。そばにいる人が、大きな声を出して「年寄りが降りてからにしろ」って。
 だから今、『風童通信』がなくなって、メンバーと会って、という機会がなくなったんですね。インターネットで場をつくろうという話になってるんですけど、私はインターネットダメなんですよね。私としては、原稿用紙に向かってると、どんどん自分の中から、考えが言葉になってくるっていう習性しか持ってないもんだから。私にはインターネットはダメだけれども、なんとか『風童通信』はつなげていきたいなあとは思っています。
清水澄子 東久留米市から来ました清水と申します。声なき声の会は東京を離れていた2年を除いて20年以上ずっと6・15だけは来るようにしています。今までお話になった方とかなりダブってしまうような思いを同じように持ってます。だけれども、私の個人的なことを言うと、今親の介護のことで手一杯で、一昨年の暮れに母が脳梗塞で一月ほど入院してその後、都内に部屋を借りて、それ以来1年半ほど親の面倒を見てきて、その他にも、いろいろ見えてくるものがあるんですね。
 介護保険のこと、年金のこともそうだし、今問題になってるコムスンのことで浮上した介護の現場の問題など、以前はなんか頭では、ああ、こういう問題があるんだっていういうふうなことを、知ってはいたけれども、直面してみて、その現実に触れて、もう、あ然とするっていうようなことの連続だったんですね。
 実は父が2月に90歳で亡くなりまして、今、母一人になったから楽になったかと思うと全然そんなことはなくて、姉と介護を交代でやっていて、ヘルパーさん頼むほどではないんですけれども、やっぱり他の事がなにもできなくなってしまうんですよね。経済的な負担もしてるので、仕事もやめるわけにいかない。以前はいろんな集まりとか、出かけてたんですけど、なかなか難しくなってしまっています。自分のことだけで手一杯になっていて、一方、世の中では、いろんな、とんでもない法案が通ってしまったり、どんどんひどいことになってしまっている。だけど、何にもできない自分ていうのが、情けないっていうか、つらいなっていう思いでいます。
 でも今、金井さんが、電車に乗る時に大きい声で叱り飛ばしたっておっしゃってましたけれども、ああ、そういうことからでもできるなっていうふうに思いました。そんなことからでも、直接、政治とか社会のことに結びつかないことでも、できることがあれば、まず、やっていこうかなって思っています。どんどん悪い状況になっているけれども、来年は、もうちょっと晴れ晴れした気持ちで6・15を迎えられるようになればいいなと思ってます。
posted by luge at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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