崇徳院が配流される時、とても寂しく見送りもない出発だった…と言われていますね?
崇徳院がさらし者のように輿に乗って進んで行くと、道行く人がひそひそ話をするのが聞こえて来る…。そしてまさに流されると言う時に、どこからか西行の歌声が聞こえてきます。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはんとぞ思ふ」
でも、西行は現場にはいないんですよ。西行は別の場所で歌っていて、聞こえるはずのない歌声が崇徳院には聞こえてきてしまうという設定です。
この時は、鳥羽院と崇徳院が「いつかは(親子として)ひとつになって欲しい」という風に取れましたが、今回の場面で西行からこの歌を聞かされると、「今はお互いに離れ離れになるけれど、いつか必ず会おう」という励ましのメッセージに聞こえます。
聞こえない声が聞こえてしまう程、つながりは深いんでしょうね?
そうだと思います。崇徳院にとって大切な人は数人います。それは息子の重仁親王、寄り添ってくれていた教長、そして歌を通して心を交わしあえた…この物語の中では唯一の友として信じている西行も、わずかな大切な人の中のひとりですから。特に崇徳院は西行を求めていましたし、西行も崇徳院を求めていました。それがこういう形で歌を詠んでくれて送ってくれ、メッセージを投げかけてくれたと言う場面で演じることが出来たのは嬉しかったです。もちろん、史実ではないのですが。
未知の地、讃岐でこれから崇徳上皇は暮らすことになります。
以前、興味深い話を『平清盛ナイト』で聞きました。(5月11日に東京で開催されたトークショー。井浦さんもゲストとして参加)都と讃岐は遠く感じますが、罪人を配流する場所としては比較的近いらしいのです。もしかしたら信西や後白河天皇はそれなりの配慮をしたのかもしれません。二度と都に戻れない身になったけれど配流された場所が讃岐で、海の向こう側にいつも都を思えるギリギリの遠からず近からずの場所だった。讃岐の地で崇徳院がどこまで打ちひしがれたのかというのは、大変興味深いです。