「それじゃあお薬取ってくるから、先生、きちんと寝ててくださいね!」
 小さな子供が駆けていく。
 幾度となく櫻の季節が過ぎ去って。
 わたしはもうすっかりおばあさんになってしまって。
 それでもこうして先輩を待ち続けて……
 もうすっかり待ちくたびれた、ある早春の日。
 最近体が思うように働かなかったわたしは、少し体調を崩して、寝込んでしまった。
 昔から風邪という物で熱を出した事がなかったので、この歳になって初めての風邪ひきとなる。
 そういえば姉さんが風邪をひいたところも見たことがない。そういう家系なのだろうか。
 と、不意に衛宮邸の電話が鳴り出した。
 誰だろう。ぼんやりとした頭で、体を引きずるようにして受話器を取る。

「はい、もしもし。衛宮ですが……」

 その先からは、



『……もしもし……あー、桜、か?』



 懐かしい、彼の声が――――







 万華鏡の想い――――幸せな夢――――








 久々の休日だというのに、遠坂邸の掃除に招かれるようないつも通りの日常。
 そんな割に合わない午前中を終え、居間――ロビーというのだろうか――でくつろいでいる時。
 何気ない会話が、以前閉じ込められた不思議箱の話になった。
 ありえたかもしれない場所へと繋ぐ空間。万華鏡の世界。
 ありえたかもしれない、という響きが気になったのか、セイバーがセイバーらしからぬ提案をした。
「……今一度、使ってみてはどうでしょう?」
 あまりに意外な発言だったが、
「……そうね。あの女が何者なのか、突き止めたいし」
 自分が何者かを突き止めたいというえらく哲学的な事を仰る遠坂先生の一声により、再び、あの箱に入る事になったのだった。
 ちなみに、箱に入る係は俺――衛宮士郎と、遠坂の二人。
 セイバーは外で箱開け要員として待機している。
 新しく買い換えた(が、ほとんど使っていない)遠坂の携帯電話を持って、箱の中へ。
 あの時かけた番号にかけろと脅されるが……冗談じゃない。
 あんな修羅場を経験するのはもうたくさんなので、間桐の家は避けて、我が家へ電話する事にした。
 後で履歴を消せば、機械オンチな遠坂はどこにかけたのかわかるまい。
 数回の呼び出し音(コール)。
 五回くらい鳴ったあたりで「出ないから切る」と言いかけて、
『はい、もしもし?』
 受話器の奥からか細い女声が聴こえた。
 聴き覚えのある声。少し違和感を感じるが、ほぼ毎日聴いているあの優しい声だ。
「……もしもし……あー、桜、か?」
 今度はどうなる事やらと、頭を抑えながら、俺はそう呼びかけた。





               ◆





『……もしもし……あー、桜、か?』
 ぼんやりとした、バツの悪そうな声。
 特別低くもなく、特別高くもない穏やかな響き。
 何もかもが、あの頃のまま。
 わたしだけの味方になってくれると誓った、あの遠い日々の――――
『……えーっと、桜、じゃないのか?』
 さらにバツの悪そうな声。どうやらわたしはあまりの出来事に、しばらく声を失っていたらしい。
 しかし、
「……あ……の……、」
 うまく、声が出ない。言葉を、紡げない。
 何よりも、今まで信じて待っていたというのに、信じられない。
 そう困っていたら、その声の主さんは、
『えっと、衛宮士郎なんだけど……この番号、俺の家のであってるよな?』
 そう、わたしの不安を簡単に吹き飛ばしてくれた。





               ◆





『……せん、ぱい、ですか……?』
 ようやく答えが返ってきた。遠坂が耳を寄せてくる。
 どぎまぎしながら、ああ、と答えた。
「ああ。桜だろ? どうしたんだ、なんか声も少し変じゃないか?」
『え、――あ、それは、今風邪をひいていて……』
 あれ、桜風邪ひいてたのか。朝はそんな素振り一切見せなかったのに。
 ……って、この桜は別の所の桜なんだから、関係ないか。でもまあ、心配なのには変わりない。
「大丈夫か?」
『あ、はい…………あの、』
「ん?」
『ホントに、本当に、先輩……?』
 ……? 俺じゃなかったら何だと言うのだろう。
「ああ、正真正銘の衛宮士郎だけど」
 そう答えると、少し息を呑むような音が聴こえ、
『……やっと、帰って来てくれるんですね』
 そう、心の底から安堵したような声が聞こえた。
 遠坂と顔を見合わせる。お互い、よく意味が分かっていない。
 と、その間を縫うかのように、桜の声が続く。

『先輩……今、どこにいるんですか?』

『わたし、待ちくたびれちゃいましたよ?』

『もっと早くに、帰ってきてくださいよ』

『でも、先輩が無事で、本当に良かった――――』

 矢継ぎ早に紡がれる言葉。なんだか、妙だ。これではまるで――――
「……あー、待ちくたびれたっていうのは大げさじゃないか? 今朝も会ったわけだし……」
 以前の異次元遠坂と話した時のような違和感ではない。この桜は、紛れも無い桜だ。
 だがしかし、そう、何か、時間の軸が決定的に違うような、違和感がある。
 こちらの問いに、少しだけ息を呑んで。桜は、まるで何もなかったかのように答えた。
『ふふ、先輩にはそう感じても、わたしにとっては何十年っていう長い時間みたいでした』
「――――――――」
 心臓が震える。手に汗が出てきて、うまくケータイを持てない。
 これじゃあまるで――――
 決定的な不安を思考する寸前。不意に、ケータイが遠坂に奪い取られた。



               ◇



「もしもし、桜?」
 衛宮くんから奪い取った携帯電話に呼びかける。
 受話器の向こうで『え?』という軽い驚きの声がして、のんびりとした返事が続いた。
『あれ、姉さんですか? 今、先輩は遠坂のお屋敷にいるんですか?』
「……ええ、そうよ。少しばかり、いてもらってる」
 言葉を選びながら、慎重に受け答えをする。
 わたしの心の中は、もう既に後悔の念でいっぱいになってしまっていた。
 隣で不安そうな顔をしている衛宮くんに、人差し指で黙っておくように指示し、
話題をふられないようにこちらから会話を続ける。
「……どうだった、久しぶりの衛宮くんの声は」
『昔と、全然変わってなかったです。本当に、何もかも、あの頃のままで……』
「あの頃…………そうね。懐かしいわ。もう何年になるんだっけ?」
『さぁ……もう、かれこれ七十回は櫻を見たのは覚えてるんですけど』
(な、七十回……!)
 つまり、およそ七十年後の桜と、わたしは会話している事になる。
 チラリと横を見ると、衛宮くんも驚いているようだった。
 動揺を隠し、尋ねる。
「……ええと、桜、体調は?」
『えへへ、久しぶりに先輩の声を聴いたらよくなっちゃいました。
……あ、あの子、姉さんの所へ薬を取りに行くって言ってたのに、無駄になっちゃいましたね』
「……あの子?」
『ええ。あの……えーっと、名前、なんでしたっけ。ほら、』

『姉さんの、お孫さんの、あの子』

 もう年だから忘れちゃいました。と笑う桜の声が、耳に入ってそのまま抜けていく。
(今、なんて……?)
 わたしの、遠坂凛の、孫――――?
 それはつまり、桜は、そんな年になるまで士郎の事を待って――――!?
 喉が固まる。わたしは声を出せず、それは良くないと思いながらも、士郎が手から携帯電話を取る事を止められなかった。



               ◇



「もしもし、桜か?」
 ケータイを遠坂から取り上げて、話しかける。
 これ以上、この桜と話をしていてはいけない。
『あれ、先輩? 姉さんは?』
「ああ、遠坂は何か用事が出来たみたいで、ちょっと出てった。
 ごめんな桜。すぐに帰るから、もう少し待っててくれ。
 ……俺が帰ったら、一緒に夕飯の支度をしよう。材料は買って行くから、今日は久しぶりに混ぜご飯でも作ろう」
『――――はいっ、了解しました!』
 本当に嬉しそうな桜の声。
 罪悪感に胸を蝕まれる。それは隣にいる遠坂も同じようだった。今にも泣き出しそうな顔をしている。
 その重たい感情から逃げるように「じゃあ切るぞ」と呟いて。



『はい。
 先輩? …………これでようやく、約束の櫻を二人で見れますね』



 俺の知らない、俺との約束。
 その言葉に、自分の無神経さを呪いながら、俺は通話終了ボタンを押した。





               ◆





 ガチャリと電話が切られる音。ツーツーと鳴る無機質な音も、今日は心地良かった。
 先輩が帰ってくる。
 それだけで、わたしはすっかり元気になってしまった。
 受話器を置く。廊下を自室へと戻りながら、中庭に埋まった櫻の木を見やる。
 なんと言って自慢しよう。いや、それよりももっと大切なのは、彼に会った時になんて言うかだ。
 やっぱり「おかえりなさい」だろうか。それとも、「ありがとう」だろうか。
 もしも「老けたな」とか言われたらどうしよう。
 様々な思いが胸中を去来する。
「そうだ」
 一緒にご飯を作るのだ。まずはともかく、下ごしらえだけでもしておこう。
 そう思って踵を返した途端、
「――――あれ?」
 カクンと膝が落ちた。
 腕にも力が入らず、わたしはそのまま廊下に突っ伏してしまった。
 はぁ、と大きな息吹が肺からこぼれる。
 どうやら、先輩が帰ってくると分かった途端、力が抜けてしまったみたいだ。
 ……そういえば風邪も引いていたんだっけ。どうにも睡魔が襲ってくる。
 倒れた時の顔の向きが中庭向きでよかった。そのおかげで、あの何もかもを包むような櫻の花が――贖いの花達が、よく見える。
 薄く白んだ花弁が、細くもくっきりとした幹を覆って、春風に揺れている。
 舞い落ちる花びらと、それを取り囲む花々は、まるで季節外れの雪のよう。
 仕方ないし、せっかくこれだけ綺麗なのだから、少しだけ休もう。
 体が動かないから、このままでいいや。ますます櫻が見える位置でよかった。
 ほんの少し寒い。
 もしかしたら風邪が悪化して、先輩に見つかったら、怒られるかもしれないけれど、もうこのまま眠ってしまおう。
 苦しんだ分、果たされようとしている約束。
 自分の責任だから、自分で償えと言ったあの言葉を。
 わたしはついに、まっとうできたのだ。
 贖いは終わった。彼はきっと、褒めてくれる。





 だから。今ならきっと、幸せな夢が見られるだろう――――











あとがき
 まとまりが悪かったり、歯切れが悪いのは、わざとです(笑)
 さて、HEAVENS FEELノーマルとhollowのクロスオーバーとでも言いましょうか。
 hollowを終えて、一番最初に思いついた話がこれでした。
 想いの力は、誰も簡単に侵す事はできない……そんな気持ちの話です。

                                                 こきひ
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