4 双城街とビーフン | |||
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1999年台北双城街の風景 |
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台北に長期滞在していた1987〜1989年頃、双城街にあった双城飯店(Hotel Castles)を常宿にしていた(後にワンルームマンションに移動した)。この双城街はとても面白い街で米軍が駐留していたころの米国人の溜まり場らしくPubがところどころに見受けられ何となくヤンキーの香りがする。そして、夜になるとたくさんの屋台が軒を並べる。 この中の一軒で鵝肉つまりガチョウの肉を看板に掲げている店があった。この店に行くと厚いまな板でガチョウの肉を中華包丁で骨ごとガンガンと切り分け小皿で出される。これをむしゃくしゃ食べる。香菜の入った汁ビーフンも一緒に食べる。ここの店主は日本語を話す本省人で口数は多くないが真面目そうな感じのおやじさんだ。 日本時代を懐かしんで話す。 私もその話を楽しそうに聞く。 外地にあってほっとする瞬間だった。 それから10年後この双城街に来てみた。 私の常宿にしていた双城飯店は社長の郭さんが他界され、今は経営者が変わったのかホテル名が変わり、そしてそれは一見してラブホテルと分かる風貌に変わっていた。 夕方から屋台が増えるため一旦出直してきた。鵝肉のおやじさんに会いたいためだ。行ってみたら屋台は同じなのに作っている人が若い人だった。あら、おやじさん他の人に権利を売ってしまったのか?他界したのか?と心配しその若い人に10年前の話をした。 勿論私の拙い中国語で聞いたのだ。その青年曰く、あの親父さんは自分の父なのだという。親父さんは元気なのでご心配なく、最近はいつも屋台に居るわけでなく時々来るよ!とのことだった。 ああ、安心した。1988年当時のこのおじさんの店のビデオがあるので是非今度御覧頂きたい。 |
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3 台湾の映画館−国旗掲揚!起立! | |||
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長期業務出張で台北に居た。月曜日から土曜日まではきっちり仕事をするが、日曜祭日はしっかり休む。この為、暇を持て余してしまう。そんな時にゼネコンのK氏から映画に誘われた。 映画は「インナースペース」だった。映画は勿論英語で字幕は(何たってここは台湾だから)中国語になる。英語を聞き取るしかない。ただ、映画というのは面白いもので、筋書きがはっきりしているこの手の映画は言葉が分からなくても何となくどういう映画であるかは判ってくるのだ。 この日に映画を見ているときには気がつかなかったが、次に台北で出来たお友達と映画を見に行った時驚いた。何と、映画が始まる前に青天白日旗の映像が放映され、国歌が流れる。客は全員起立!映像及び国歌が終わるのを待っている。私は戸惑ったが一応廻りにあわせた。現在はどうだか分からないがあの時はぶったまげた。 |
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2 タクシーと濱椰 | |||
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1999年8月台湾では大変にお世話になった郭さんのご子息が結婚されるとの連絡をいただきお祝いのため来台した。桃園空港からタクシーに乗り台北に向かった。ところがあまりに綺麗なタクシーなのに驚いた。何故なら、僅か十年前のタクシー運転手は態度も悪く車も汚れていて決して褒められたものではなかったからだ。 生にんにくを車内でがりがり食べている運転手(臭かった!)、濱椰(ピンロウ)と呼ばれる噛みタバコをくちゃくちゃやりながら運転している運転手。 この濱椰運転手は運転中時々扉を開けて濱椰の噛みカスと赤い液をペッペッと道路に吐き捨てながら走る。街を歩いていると道路が真っ赤になって汚れている場所をよく見つけたが、アレである。こんな運転手はいつのまにか姿を消してしまったのだろうか? 1987〜1989年頃台北に滞在していた頃の話だ。現場事務所の裏にあった四川料理屋さんに誘われた。 ビールを飲んでいい気持ちで四川料理を食べている時にこの濱椰(ピンロウ)を勧められた。濱椰は試したことはあるがあまり面白いと思ったことは無かった。濱椰屋さんは町の中にたくさんあり、独特の看板を出して商売をしていたのを覚えている。 赤い汁は飲み込むのだといわれた。この濱椰は覚醒作用があるらしく、そのうち目の前がグラングラン揺れて午後はとても仕事が出来るような状態では無かった。濱椰と酒との組み合わせはかなり効くということがこの時知った。 |
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1 「犬が去って豚が来た」(復刻版) | |||
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2003年10月24日、宋美齢女史が逝去した。いくつかの新聞を見た。新聞によっては享年106歳であったり、104歳だったり、まちまちだったが十分往生したと思う。台湾は宋美齢が死んで初めて台湾の歴史のうち幕の一つが降りたのだろう。中国の新聞「人民日報」はホームページの中国語版で特集を組み、歴史として普通に報道していて感慨深かった。 歴史を紐解くと台湾は色々な支配者が現れては消える不幸な歴史だったといえるのかもしれない。ポリネシア系の原住民が住んでいた島に福建省方面から漢民族が現れ平地から原住民を追い出した。帝国主義の頃になれば欧米列強が支配、日清戦争の後日本が支配、日本の支配が終わったと思ったら今度は外省人だ。 台湾住民は当初、蒋介石及び国民党率いる外省人がやってくることに歓迎したそうだ。やっと自由になれるのだと思ったのだろう。ところが、やってきたのは弾圧、奪略、汚職。 当時の外省人から受けたひどい状況を悲しんだ本省人はガミガミ犬のように怒鳴る日本人が去って薄汚い心を持った外省人が来た事を: 「犬が去って豚が来た」 と喩えたそうだ。 本省人にしてみれば助けてくれると信じていた同胞からひどい仕打ちをされたわけでショックは大きかったようだ。いやだいやだと思っていたかつての支配者「日本人」の方がまだ良かったと考える人も少なからずいたらしい。外省人は台湾を解放しに来たのではなく大陸から逃げてきて台湾を奪取したに過ぎない。本省人がたまりかね外省人に対して爆発したのが1947年2月28日に起きた2・28事件だったのだろう。あるきっかけから本省人が暴徒化していったこの事件、本省人が外省人をしらみつぶしに探した。外省人を探すのはいとも簡単だった。 日本語をしゃべれないのが外省人である唯一の証拠だったのだから・・・慌てた政府は本省人の民主化を約束し時間稼ぎをしている間大陸から軍隊を基隆に上陸させ、徹底的に本省人の弾圧を行った。 結局本省人は外省人にだまされたことになる。こんなことがあったのも手伝い日本人の方がまだ良かったということになったのだろう。 2・28事件については他に詳しく書いている人もいるだろうからそちらを読んでほしい。 蒋介石へのイメージは日本人として子供の頃決して悪いものではなかった。敗戦国の日本に対して賠償金の請求の放棄をした人であり、又、ある意味大変な親日的だったと思っていた。ところが台湾に来て色々な事を知るに付け蒋介石に対する評価に日本と台湾との間では温度差があることに大変驚いた。そんな蒋介石も1975年に逝去し、副総統だった厳家淦が総統に、そして1978年には長男の蒋経国が総統になった。 蒋経国は国民党独裁としての総統を世襲したがその後色々な民主化の政治をしていったらしい。民主化ということに関しては李登輝総統の方が目立って見える。しかしながら、実は蒋経国が民主化の下地を作っていたといえる。総統を民選するなど総統の民主化を進めた李登輝総統だったが民進党の陳水扁総統に成った時は驚いた。 あの民進党が? 私が台湾に仕事で通っていた頃、民進党は審議の最中にテーブルはひっくり返すはちゃめちゃな事をする政党だと思っていた。聞くと今は随分違うらしい。そして2001年には民進党が与党になってしまった。あの独裁していた国民党が野党に転落。世の中は変わるものだと思う。 今、民進党は台湾独立を党綱領としているが、中国は統一を主張している。二つの中国を認めないわけだ。どちらが正しくてどちらが間違っているとは思っていない。然しながら私は一つ一つ自由を勝ち取ってきた台湾住民が今本来の意味で解放され自分の足で歩き出し、そして自分の未来を決める自由を持つべきだと考える。 |
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