1975年に行われた出入国管理行政発足25周年記念行事のひとつに、法務省入国管理局職員からの論文募集がありました。私はそれに応募し、「今後の出入国管理行政のあり方について」の表題で論文を書きました。その論文が優秀作に選ばれました。私は論文の中で「在日朝鮮人の処遇」について、以下のように述べています。


<在日朝鮮人はすでに日本に定着しており、もはや本国に帰る存在ではない。日本定住を前提に法的地位の問題、国籍の問題などを考えなければならない。結論的には、将来は日本国民になってもらうのが望ましいが、それを押しつけるわけにはいかないので、在日朝鮮人がすすんで日本国籍を取得しようという気持ちになるように、「開かれた日本社会」を作る必要がある。>

<日本社会が在日朝鮮人に教育と就職の機会均等を保障し自由競争の場を提供するようになれば、在日朝鮮人は日本社会で生きる希望を見い出すであろうし、在日朝鮮人の中からその「能力」や「職業」によって高い社会的評価を受ける者が進出してくるだろう。そうなれば、日本人の朝鮮人観もおのずから変化していくであろうし、日本への帰化を積極的に肯定する方向でのコンセンサスが在日朝鮮人社会に形成されていくであろう。>


1977年12月に、これに加筆した論文を自費出版の形で公表しました。この論文は「坂中論文」という通称で呼ばれ、在日コリアン問題を考える上での不可欠な文献となりました。


 論文が発表された時代においては、「日本の役人が在日コリアンの生き方、処遇のあり方を論じるのはけしからん」という空気が在日コリアン社会で支配的だったこともあってか、ほうぼうから「同化を推進するものだ」などと批判され叩かれました。しかし、「坂中論文」は、入管と在日コリアン団体の双方に考え方の転換を迫るものとなりました。


 1970年代後半から、在日コリアンの将来の生き方について、日本国民になるのがいいのかどうかはともかくとして、日本に定住することを前提として議論されるようになりました。


 それまでは、民族団体と在日コリアンの多くは、「日本は仮にいるだけで、いずれは本国に帰るのだ」と言っていました。1959年から1984年まで、北朝鮮への帰国運動が続きますが、1960年・1961年が最盛期で、1970年代に入ると、北朝鮮に帰る人はガタッと減ります。それでもまだ建前としては、本国へ帰るのだと主張していました。しかし、1980年代の初めごろになると、在日コリアンの間に定住志向が高まり、本国に帰るとは言わなくなりました。