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【平成24年12月28日発行分】
>窮地に立つ日顕と配下の邪義班
>逃げ回る日顕に「二度目の敗北」を通告
>改革同盟の松岡氏、宗門側の愚問を論破
鼻笑。フェイクよ、それは違うだろう。
>〈比較する妙〉の相待妙が〈比較を絶した妙〉の絶待妙に帰一すると説くが、全く意味不明である。
>それでは相待と絶待の区別がなくなり、結局は絶待の一元論に陥るだろう。
フェイクよ。此の離脱ハゲの脳髄は本当に大丈夫なのか。呆笑。
抑も、日蓮大聖人の仏法に於いては、三大秘法の南無妙法蓮華経法こそが唯一絶対であり、其の他の
諸法は須らく南無妙法蓮華経に具足されるのである。つまり、是れこそが究極の絶待妙ではないか。
つまり其れこそは、離脱ハゲが形容して批判する処(ところ)の『絶待の一元論』ではないのか。
よいか、相待と絶待の区別がなくなる、と離脱ハゲは心配しておるが、抑も相待と絶待は区別される
べきものなのである。
本因妙抄、二十四番勝劣の十四に曰く『彼は相待開会を以て表と為し、此は絶待開会を以て表と為す』
と。(新編 1682)
果たして御文中『此は絶待開会を以て表と為す』とは、応に離脱ハゲが批判する所の「絶待の一元論」
であろうが。つまり其れを「本迹」に置き換えれば、絶待妙は「本」であり、相待妙が「迹」となる
のである。つまり、迹が在って本が有るのではなく、本が在って初めて迹の理が示されるのである。
仍ってそこに勝劣が生じるのであり、つまりは文底秘沈の南無妙法蓮華経こそが、最大最勝たる絶待
の一元であり、そこに相待と絶待の区別が為されるのである。
小笑。其れにしても、此の様な理(ことわり)も理解出来ぬ離脱ハゲを、よくもまぁ持ち上げるものよ。
なぁ、フェイクよ。哀。
お前らこそは、百六箇抄を云云する前に、先ずは相絶の二妙を勉強しなさい。
>(離脱ハゲの)容赦のない質問で日顕を土壇場に追いつめた。日顕には寿命の縮む思いの贈物である。
呆笑。ったく、フェイクの頭の無さがよく判る文言である。
お前らは本当に「幸せ」であるよな。哀笑。
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