本日は徒然なるままに、だらだらといま思っていることを記してみたいと思います。さて、今朝の新聞各紙に掲載されていますが、昨夜は米国のソン・キム6カ国協議担当特使(下の写真右)が外務省の斎木昭隆アジア大洋州局長を訪ね、1日から3日までヒル国務次官補とともに訪朝して行った米朝協議について「詳細な説明」を行いました。説明会は約1時間続いたのですが、ようやく出てきたキム氏も、同行してきたシーファー駐米大使も、待ちかまえていた記者団に何も語らず、ほとんど無言で去っていきました。
よく記者クラブ制度の批判で、「記者クラブに座っていて、発表文を書いていればすむのだから楽なものだ」というものがあります。でも実際は、発表されることなんてこの程度であり、それに独自の取材で肉付けしていかないと、記事にはならないことがほとんどだというのが実感です。これは外務省だけでなく、他の官庁担当でも同じだと思うのです。本日は記者クラブ論がテーマではないのであまり触れませんが、この問題に関しては正当なご指摘とともに、的外れな批判もけっこうあるように率直に感じています。
余談ですが、記者の仕事のかなりの時間は、こうして役所や国会などの廊下や政治家・警察官などそれぞれの相手の自宅近くの屋外で、ひたすら取材対象が出てくるのを「待つ」ということに費やされます。特に若手のときは、1日のうちこうしてただ待つだけの仕事(時間)が長く、10数時間を数えることだってそんなに珍しくないと思います。昨夜も外務省の廊下で、他社の記者が「記者の仕事なんて…」とこぼしていましたが、私も毎朝、毎昼、毎夜、ただ待つことを繰り返していた時代は、「貴重な人生の時間の浪費だ」としみじみ思っていました。そんな仕事を自分で選んだのだから仕方ありませんが。
さて、この米朝協議の内容について産経はキム氏の来日に先立ち、8日の朝刊で「ヒル国務次官補が1日に北朝鮮を訪れた際に基本合意した核施設の検証手順の内容が明らかになった。米国などが施設を査察する場合には北朝鮮側の合意が必要というもので、北が寧辺の核施設稼働再開の動きを進めたのを受け、譲歩を行った形だ」と書いています。短い記事ですが、事実関係にアクセスしうる政治家や官僚らさまざまな人物に取材をしてつくられます。この点については、外務省の発表文では一切触れていません。また、他紙も書いていません。
この記事の中ではさらに、政府筋が「非常に遺憾だが、米国は近く北朝鮮のテロ支援国家指定を解除する」との見通しを示したことにも言及しています。米朝間で一定の合意ができたことで、米国は近く指定解除に踏み切るというのが現時点での政府の見方ですが、これも公式見解としては出てこない言葉です。
ただ、ある外務省幹部は8月上旬の時点で「もうブッシュ政権にはこの問題で何も期待していない」と話していました。駐米大使をはじめ、日本側がいくら口を酸っぱくして指定解除は行うべきでないと米政府関係者に説いても、米側は日本の主張を理解できないというのです。逆に、北朝鮮が核施設の無能力化を中断し、稼働再開に向けた動きを進めると、日本側が「北朝鮮のいつものブラフだ」との意見には見向きもせず、北の反応を真に受けてすぐに譲歩してでもそれを止めようとするというのです。
ブッシュ政権としては、新大統領が来月決まるともう後はただ余生のようなものなので、来年1月の任期切れまで北朝鮮が大人しくしてくれさえすればそれでいい、という感じなのでしょう。日本側は何度も、クリントン政権末期に北朝鮮にすり寄った失敗例を引いて、その二の舞となるなと言ってきたそうですが、もう指定解除の流れは止められないと見ているようです。日本は拉致問題などをめぐる交渉で、北朝鮮の恫喝、脅し、ブラフ、駆け引き、約束の不履行などをたくさん経験してきていますが、米国はそういう点も学習していないのかもしれません。
本日は国会議員会館をうろうろしていて、某議員と衆院解散が当初の予想より先に延びた件について意見交換をしました。その際、解散の有力なタイミングの一つとして、新テロ対策特別措置法案を成立させ、その足で北京で開催されるアジア欧州会合(ASEM)に出席し、帰国した直後というものがあり得るという話になりました。つまり今月末ごろですね。そして話題の流れの中で、米国がそれ以前にテロ支援国家指定解除を行うことも、麻生政権にとっては一定のダメージになるだろうな、とも。
北朝鮮はいつも日朝よりも米朝を優先させますし、選挙結果で政権交代が起きるかもしれない今の時期に、拉致問題その他で日本に花を持たせるようなことはしないでしょうしね。まして、金正日総書記の重病説が飛び交う今とあっては。
さて、その北朝鮮と親密な関係が指摘されている政治団体に、日本教職員組合がありますね。その点については、2007年4月10日のエントリ「お薦めの書『いいかげんにしろ日教組』と教育現場」でも少し触れています。せっかくなのでこの本の写真も載せておきますが、主に三重県教組の想像を絶する恐ろしくもでたらめな実態が詳細に記されています。
この本が引用しているところによると、月刊「正論」平成14年12月号に載った対談「拉致事件に知らんぷり あなたたちの非常は忘れない」の中で、弊紙の石川水穂論説委員(三重県出身)が次のように語っています。
《僕が許せないのは日教組。日教組は社会党が訪朝したころから、何度も訪朝団を出しているんですね。1972年(昭和47年)に代表団15名が、北朝鮮を訪問して連帯強化の共同コミュニケを発表した。77年9月から10月にかけても訪朝団を派遣している。ちょうど、めぐみさんが拉致されたころですよ。あと、1991年11月にも友好連帯の合意書も交わしている。》
《自分たちがそういう思想を温めている分には何もいいませんけど、それを児童生徒に吹き込むというのは許しがたいと思うんですね。過去に学校で北朝鮮の革命歌『白頭山の歌』を歌わされた人を、大勢知っていますよ。》
この点については、著者の松浦氏も本の中で「彼ら(三重県教組)は北朝鮮と『連帯』してきたのである。三重県出身の私のゼミの学生は中学時代、北朝鮮の革命歌『白頭山の歌』を教えられている」と書いています。まあ、長年日教組委員長を務め、「ミスター日教組」とも呼ばれ槙枝元文氏は、北朝鮮から「親善勲章第一級」を授与されているくらいですから、不思議はありませんが。
きょうは話がころころ転がります。日教組つながりですが、元神奈川県教組委員長で、後に日教組を批判する側となった小林正元参院議員は「教育再生」(平成19年10月号)で、次のように語っています。
《日教組は、教師は労働者だと言っています。労働者ということは、労働時間は短いほうがいいということです。ゆとり教育も学校5日制も総合学習も日教組が言い出したことで、文部省は全部受け入れました。》
で、昨日のことですが、下のような古い写真を自分の過去資料の中から見つけました。私は資料を捨てるのが嫌いなので整理整頓は苦手ですが、捨てずに置けば、こうしていつか役に立つものだとも思っています。脱線しました。これは1995年9月に開催された日教組の定期大会(村山政権下、文部省との和解だと騒がれたときです)を取材したときにコンパクトカメラで撮った写真を、さらにデジカメで接写したものです。元の写真も下手な上に色あせていますし、読み取れないでしょうが、10項目示された方針の中で、次のようにあるのが目につきました。
2.「ゆとりと希望」の教育をすべての学校で実現しよう
3.完全学校五日制早期実現。カリキュラム改革をすすめよう
写真はまだ開会前の教師たちが会場に入り始めたときのものです。このときの定期大会では、文部省との和解路線への転換を打ち出した日教組中央へのヤジが凄まじく、「安保廃案、反天皇制を方針に盛り込め!」「戦いを続けることが大事だ!」などの怒号が飛び交っていました。いやはや、なんともはや。
この年の4月には、自民党文教部会の勉強会に呼ばれた日教組の横山英一委員長が、「戦後、教育が荒廃した責任の半分は日教組にあります」と率直に認め、出席議員たちの喝采を浴びていました。この「教育荒廃の責任の半分は日教組」という点については、槙枝氏も私のインタビューに同様のことを述べていたのは、以前のエントリで紹介したと思います。しかし、それから13年が経った今も、日教組問題は何も解決されていないという気がします。
by hhonda
班目原子力安全委員長が証言し…