政治【日本よ】石原慎太郎 真の大同とは何か2012.11.5 03:13

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【日本よ】
石原慎太郎 真の大同とは何か

2012.11.5 03:13 石原慎太郎

 地方の行政を担当してみると中央の政治を司る者たち、国家官僚にせよ国会議員にせよその視界がいかに狭窄(きょうさく)しているかがよく分かる。

 政治、行政に関していえば彼らの地位は最高ということなのかも知れないが、それはあくまで明治維新に始まる近代国家としてこの国が取り入れた、幕府に代わる中央集権体制に依るものでしかない。現代の世界を眺めれば日本の政治の態様はむしろ異様なものでしかない。

 昭和の時代に入って軍部が絶対的存在となり、それに対抗して心ある官僚たちが合理を主張した頃には、いわばアンチテーゼとしての官僚には柔軟で複合的な発想力があったが、敗戦の後の経済復興の成功に伴って国家の官僚は軍に代わりテーゼ、絶対的存在となり政治家をしのぐ国家の支配者となりおおせた。その証左に国会議員にも多くの官僚が跋●(ばっこ)し、地方の行政を支配する知事もその六割以上が中央官庁の出身者という現況だ。

 そして国家官僚の特質は彼らが豪語するように、それぞれの役所の所行を絶対とする継続性、一貫性ということだが、それがこの国の官僚の矜持(きょうじ)伝統とするならこの変化の時代に行政が対応出来る訳がない。摩擦の末に経済産業省を辞めた人物がテレビでいみじくも吐露していたように、そのせいで彼らは自分の責任で白黒つけなくてはならぬ事態の折には現場に踏みこむことなどなしにまず保身のためにそれを棚上げするか、過去の規範で割り切るしかしないというのはまさに正直な告白だろう。そして現今の政治家、政党にはそれを是正する勇気も能力もない。

 地方がその現況に応じて行政の仕組みを変え新しい取り組みをしようとしても、いつも硬直した中央の規範に阻まれことは進まない。中央官庁の独善による財政の破綻を糊塗(こと)するために堅持されている、先進国には例を見ない単式簿記などという会計制度はその端的な事例だが、もっと卑近な例を上げれば私が預かってきた東京都には、都と国が合資の「東京メトロ」と「都営」という二つの地下鉄がありともに的確な利益をあげているが、同じ駅に二つの会社の電車が入りそこで乗り換えて利用するお客が多いのに運賃の体系が異なり、二つを合併させてお客の利便を図ろうとしても、後者が後発でいま現在は借財を抱えているというだけで将来の黒字化は歴然としているのに国はそれに応ぜず、ホームの壁にあるドア一枚を開ければ乗り換えのお客は階段を上って反対側のホームまで下りずにすむのにそのドアさえ開けようとはしなかった。

 あまつさえ財務省は火の車の財政の補填(ほてん)に大黒字のメトロの株を国と共に売れと都に迫ってきた。こんな株安の時代に質の高い企業の株を売る馬鹿はいないはずで、国が売るなら都がそれを買い取るといったら何の沽券(こけん)でかそれには応じなかった。

 国運をも左右する都の私や、第二の大都市大阪を預かった橋下徹氏にして初めて痛感する中央政治の硬直を国家国民のためにこそ是正する政治を実現しようという大きな眼目のための連帯連合を私は提示しているが、そのためにこそ心ある政治家、政党は駒を連ねて進むべき時と信じている。

 原発や消費税の問題は決して小異ではないという声も聞くが、ならばこれらの問題について、仮にもワンディケイド(十年)のタイムスパンでの経済なり財政の緻密なシミュレーションが行われその上での結論が導き出されているかといえば、そんな気配はどこにもありはしない。

 橋下現大阪市長がいう政治家が尊重すべきふんわりした民意というのは旨い表現で、これに媚(こ)びればポピュリズムに堕しかねないが、今国民の抱いている最大のふんわりした民意とは、とにかくこの政治の体たらくを何とかしてくれということに他なるまい。

 二十一世紀に入ってから日本が自然科学分野で獲得したノーベル賞の数は全ヨーロッパに匹敵するというのに、文明の進歩に致命的な意味を持つ科学や技術分野で際だった能力を持つこの国がその力を活用しきれずに刻一刻凋落(ちょうらく)していくこのありさま、それへの他国のあなどり、その中で無為のまま我慢を強いられている国民のいらだち、それこそが最大の民意ではないのか。

 それを慰撫(いぶ)し、期待に応えてこの国を真に強いしたたかなものに変えていくためにも、硬直した官僚支配を崩壊させ真の民意を体現する政治体制を今実現させなければ、この国はあのタイタニック号のように敢えなく沈んでいくに違いない。私が多くの仲間に、小異を捨てて大同に応じていこうと呼びかけている所以(ゆえん)もそこにあるのだが。

 振り返ってみれば近い歴史から学ぶものは沢山あるはずだ。明治維新という国家の大脱皮がいかにおこなわれたかを思いなおせばいい。徳川幕府を倒し近代国家たる新政府を誕生させたのは、それまで戦までして互いに反目していた薩摩と長州の連合だった。それに、それぞれ意見の違った佐賀や土佐の藩が呼応して明治維新は成ったのだ。

 新政府誕生の後また互いの反目もあったが、それを淘汰(とうた)することで近代国家としての成熟はあった。既存のいろいろな政党の綱領の違いなんぞに国民の関心はありはしない。他者の挫折、破滅を好む一部のメディアはその違いをあげつらうだろうが、実は真の大同が何であるかを彼らにも証すことが我々の責任ではあるまいか。

●=雇の隹が邑

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