敵意に満ちた射るような視線を向けられたのは15年前。人生で一度きり。それも幼子からだ。フィリピン・ルソン島南部のバタンガス州サンタクララ地区での体験▲
日本の政府開発援助(ODA)による、同地区のバタンガス港拡張工事。住民にとっては寝耳に水。立ち退きを拒むも、政府軍や警官隊が強制退去を強行した。銃や催涙弾まで使い、流血の惨事に。ショックで死亡したお年寄りもいると聞いた▲
根こそぎ村と住居を奪われ、避難生活を強いられていた子どもからの視線だった。「日本人は帰れ!」「ODAは出て行け!」。記者として一番つらかった体験。現実を日本に伝えたい―といくら説明しても、最後まで心が開くことはなかった▲
ODAでインドネシアに建設された多目的ダムのため「移住を強いられた」として、現地住民5900人が日本側に損害賠償を求めた訴訟。控訴審判決で先日、東京高裁は訴えを退けた。届かぬ叫び▲
途上国への「国際貢献」が訴えられるという構図自体が、援助手法の見直しを迫る。先進国・日本の開発手段を、そっくり輸出すればどうなるか。無駄な公共工事が地域を分断し、貴重な自然さえ奪ってきた歴史。それが海外でも繰り返される▲
流血や訴訟にまで至る「開発援助」とは、いったい何なのか。あの子どもの視線は、成長したいまも日本に向けられていよう。