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「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しき雑談。
 

宇都宮徳馬氏のこと

2012年12月28日 23時43分50秒 | 神秘

前回、学生時代に選挙を手伝った宇都宮徳馬氏のことについて触れた。人望の厚い人なので自分から申し込んだのだろうが、調べてみたら父親は陸軍大将、戦前は共産主義者で獄中転向組の人物と分かった。田中清玄と共通項があり、昔からこういうタイプが好きだったのだろう。戦前の大学生は大抵が共産主義だったので別に珍しいことではない。大事な部分だけを引用抜粋する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC

獄中で転向を表明、釈放。その後、株式相場で満州事変に関係した軍需企業の株式に投資し、大金を得る。これを資金に1938年、医家向けの製薬会社、合資会社ミノファーゲン製薬本舗を設立し、同社社長に就任。また会社経営の傍ら、「高杉俊輔」のペンネームで読売新聞経済欄に寄稿し、軍部や革新官僚に対する批判を行った。

第二次世界大戦後、1952年の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で旧東京都第2区から出馬し、初当選を果たした。1955年の保守合同により、自由民主党結党に参加。宇都宮は石橋湛山や三木武夫らの系譜に連なり、外交面で平和共存外交、日ソ・日中・日朝国交回復を主張。保守派の中では異色の存在であり、最左派に位置していた。またアルジェリア戦争に際してアルジェリア民族解放戦線(FLN)を援助し[1]、1959年9月にはアルジェリアの戦場を視察した。

しかし、自民党内では石橋湛山の引退後、最左派の宇都宮は右派から疎まれ、入閣も阻まれる等、党内で孤立していく。1975年、東京都知事選挙への立候補を一旦表明するが、断念(代わって同じ旧東京2区選出の石原慎太郎が衆議院議員を辞職して出馬したが、3選出馬した美濃部亮吉知事に敗れた)。1976年、ロッキード事件や金大中事件への日本政府の対応や三木おろしに抗議し、自民党を離党。さらに衆議院議員も辞職した。

同年、第34回衆議院議員総選挙には無所属で旧東京2区から出馬し、当選。同じく無所属の鳩山邦夫(鳩山一郎元首相の長男の次男、孫で地盤継承者)、麻生良方と共に衆院無党派クラブを結成し、代表に就任(1978年に解散)。1979年の第35回衆議院議員総選挙では落選した。翌1980年、第12回参議院議員通常選挙に東京地方区から無所属(新自由クラブ・社会民主連合推薦)で出馬し、当選。この立候補は、民社党が擁立した栗栖弘臣が有事法制の制定を公約に掲げたことに危機感を募らせたためであった。同年、宇都宮軍縮研究室を設立し、月刊誌「軍縮問題資料」を発刊した。

1986年、第14回参議院議員通常選挙に際し山本コウタロー、國弘正雄、片岡勝らが平和運動を主体にした政党「ピース・スタジオ」を立ち上げ、宇都宮を比例代表名簿1位に据えての立候補を企図したが、宇都宮は三木から「20億円かかるぞ」と言われ、断念した。その後、小杉隆の説得に応じて新自由クラブの比例代表名簿1位に登載され、比例区で当選する。

人物

軍縮と対共産圏平和外交を主張したため左派に位置づけられることが多いが、徹底した経済規制緩和を主張した実業家でもあり、計画経済への反対にとどまらず混合経済や公営企業にも反対し教育の民営化を主張していた。農地改革は「封建的要素の払拭」の面で一応評価するものの、政府による農業統制の強化につながり自由な農業経営が妨げられることに懸念を示していた。

また労働運動への警戒も表明していたが、共産主義・社会主義勢力とは相互寛容関係の構築を目指していた[3]。

かつて北朝鮮の国家主席金日成と会談した際、既に後継者を金正日と決めていた金日成に対し「政治家は一代限りにすべきです」と諫言した。これに対して金日成は「本当の友人の直言はうれしいものだ」と微笑みながら応じたという。

売春汚職事件で読売新聞記者が「売春汚職、宇都宮徳馬自民党衆議院議員を収賄容疑で召喚必至」と報じた。しかし、これはガセネタであり、宇都宮は読売新聞・検察関係者を名誉毀損で告訴し、読売新聞記者の立松和博が名誉毀損容疑で逮捕された。立松は不起訴処分となったものの、読売新聞は社会面トップに五段抜きの異例の取消記事を掲載する一方で、立松を懲戒休職・左遷させた。伊藤榮樹『検事総長の回想―秋霜烈日』によると、宇都宮の収賄被疑は、検察内部から立松への情報提供者を突き止めるため、意図的に流した偽情報であった。
_____________________________

ブログに時間を取りすぎているので、簡単に書くが、この人物はバランスの取れたロマンチストだと思う。私が応援したのは自民党を離党した後だろうがどの選挙だったのか覚えていない。

三角大福戦争と言われていた時期、私は4人とも好きだった。今の政治家と比べるとこの時代はスケールが違っていた。
 見栄えが悪いので人気は無かったが福田首相は「カミソリ福田」と言われて頭も切れユーモアもあり、私は好きだった。田中角栄は清濁併せ呑む人情家で、ロッキード事件はアメリカに嵌められたと思っている。大平正芳は敬虔なクリスチャンで「政治にあまり期待してはいけない」と発言したときは感動した。三木武夫はロッキード事件が無ければ首相になりえないクリーンなイメージの人物だが同時に策略家でもあった。

今思い出すとあの頃は戦国時代のようで、鈴木善行、中曽根(担ぎ手の無い「オンボロ神輿」と言われた)辺りからグンと人物の大きさが落ちた気がする。
 
では失礼します。
ジャンル:
コラム
キーワード
衆議院議員 宇都宮徳馬 ロッキード事件 アルジェリア 新自由クラブ 山本コウタロー 微笑みながら 不起訴処分 第34回衆議院議員総選挙 第35回衆議院議員総選挙
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