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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2012-09-30 物事の本質だったり世界の真理を理系的に考えてみた このエントリーを含むブックマーク

 ネットで東浩紀氏の文庫本に中森明夫氏が書いたあとがきが面白いという書き込みがあったので読んでみた。そこでは東氏の先輩として柄谷行人さんが紹介されていて、要するに東浩紀は柄谷行人の歩んだ道をなぞっているという指摘がされていて確かに面白かったのだが、じゃあ、柄谷行人とはどういうひとなのかと興味を持ち、わりあいに氏の最近の本である世界史の構造という本を序文だけ読んでみた。


 その本で柄谷氏が試みているのはどうやらこういうことらしい。マルクスは資本主義下での商品交換を元にした経済的下部構造の上に国家や民族のような上部構造が成立すると主張したが、商品交換以外にも贈与や略取のような交換様式も考慮にいれて経済的下部構造を考えることによって、上部構造である国家のみかけの自立性を仮定しなくても、世界が説明できるはずだという主張だ。


 氏の主張が正しいかどうかを判断するのは、ぼくなんかの素人の手に余るのだが、このマルクスの上部構造と下部構造の概念をどう解釈するのが正しいかという議論は、文系的な言説では非常によく見る光景である。


 文系のひとたちのこういう物事の本質を見定めようという真理への探究に対する態度を理系的に解釈するとどういうことだろうかと考えてみた。


 物事の本質というのはなにか?これはようするに世界というものが人間にとって複雑で情報が膨大すぎてよくわからないから、簡単に考えてみる、ということだ。つまり膨大な情報を整理して、ごく少ないキーとなる情報に置き換えて考えると頭がすっきりするということだ。なぜすっきりするかというと膨大な情報だと人間は理解できないけど、少ない情報に減らせば理解できるようになるからだ。うまく情報を減らせたとき、人間は物事の本質を掴んだ!とかいう気になる。


 そう考えると、物事の本質を追究するというのはうまいデータ圧縮アルゴリズムを見つけるというのに近い。このアナロジーをつかってちょっと人間の思考についてのモデルを考えてみた。


 人間の思考というはたらきを思い切り抽象化し、外部の世界からAバイトのデータをインプットし、そのデータを解釈した結果のBバイトのアウトプットをおこなうブラックボックスとする。


 できるだけBバイトを小さく出来れば物事の本質っぽくなるはずだ。


 例としてそう、なんでもいいんだけど、たとえば「世の中はしょせんカネだ」という命題を世界を理解する圧縮アルゴリズムとして考えてみよう。


 そうすると、このアナロジーが成立するための必要条件がはっきりとしてわかりやすい。


 「世の中はしょせんカネだ」というのが物事の本質であり世界の真理であるとしても、この圧縮アルゴリズムで扱えるデータ=世の中の出来事というのは、世界のごく一部の現象についてだけだということだ。


 ようするに文脈があり、物事の本質というのはある前提条件や制約条件の中でしか成立しないものであるということがひとつ。


 もうひとつ分かるのは、物事の本質というものは世の中の情報量の圧縮アルゴリズムとして考えると、ある一面の情報しか再現していない非可逆圧縮であるということだ。


 データ圧縮の方法としては可逆圧縮と非可逆圧縮の2種類がある。ZIPでくれ、とかいう慣用句がネットにあるが、ZIP形式でファイルを圧縮した場合は可逆圧縮であり、解凍するとまったく同じ元のファイルが再現される。ところが音楽や動画などで使われるmp3や動画のMPEG形式のデータ圧縮は、とてもデータが小さくなるかわりに少し音質や画質が元よりも悪くなるのはご存じだろう。より高い圧縮をしてデータを小さくすればするほど元の音楽や映像が劣化する。


 そう考えると、世の中で物事の本質や世界の真理とかと呼ばれているものの大半は圧縮アルゴリズムと考えるとかなり出来の悪い精度の低いものばかりだということが分かる。冒頭の上部構造とか下部構造の議論もまあある程度の妥当性があるのだろうけども、音声の圧縮アルゴリズムとしたら、mp3なんかとは比べないものにならないほど元の音声の再現性は低い。昔の8ビットパソコンでビープ音で音楽を鳴らしてみたとかはちょっと古い例だが、他の例えだと、よくピアノで人間のセリフを弾いてみせるという芸があるが、「あー、ほんとだ、そういわれてみれば、そういう風に聞こえる!」ぐらいの再現性しかないものが物事の本質としてありがたがられているのが実態ではないか。


 別にそれが悪いといっているわけではない。人間が世の中を理解する能力というのはその程度が限界だということだろう。いま書いている記事だって、当然ながら、その限界を超えているものではない。人間が発見した物事の本質の中で、可逆圧縮といえるものがあるのかというと、抽象化された現実だけを扱えばいい論理学も含めた数学ぐらいじゃないかと思う。理系の学問といえども現実を扱うものは物理学とかですら精度の高めの非可逆圧縮でしかない。


 物事の本質を情報の非可逆圧縮アルゴリズムと捉えるアナロジーで分かることのひとつに、抽象度の高い=現実の再現性の低めの物事の本質に対してさらに抽象度の高い物事の本質みたいなものとらえようというはたらきを重ね合わせると、どんどん現実の再現性が悪くなっていくだろうことだ。写真をPhotoshopで加工する場合はRAW形式のデータをつかったほうが出来が良いことは常識だ。すでに圧縮のかかっているJPEGの写真を元に加工をすると、モアレがでやすくなったりして、汚くなる。加工するなら元のデータに近いものを使うほうがいい。


 ぼくが文系の文章でよく出会う高度に抽象化された概念にさらに抽象化された理屈を重ね合わせてそのまま空想の世界に飛び去っていくのならまだしも、現実に舞い戻ってきてこれが真理だと解説をするスタイルに生理的な違和感を感じるのもここらへんが原因だ。いかにそれが高度に階層化された緻密な論理構造をもっていたとしても、いや、むしろ、だからこそ、でてくる結論を怪しく感じる。


 もうひとつこのアナロジーを考えていて、思ったのは、ネットのひとびとが好む物事の真理というのは、現実の再現度が高い情報圧縮アルゴリズムというより、アルゴリズムそのものが単純なものだということだ。


 元々、人間が物事の真理を追い求めるのは現実が複雑で情報量が多すぎてわかりにくいからだ。だから、ものごとを簡単に理解しようと情報を減らそうとする。そこで、ふつうのひとは、現実の再現精度も高い複雑なアルゴリズムよりは、現精度は悪くても大胆に情報を大幅に圧縮してくれて、しかも簡単なアルゴリズムをより真理だとして好む。


 しかも、いったん真理だとされたものはその真理の現実の再現度の高さがどれほどのものなのかは無視されて一人歩きをすることが多い。

 

 とまあ、情報の圧縮アルゴリズムとして物事の本質とか世界の真理を考えると、しょせん、そういうのは圧縮しすぎて、精度の低くなった現実でしかないし、あんまり神秘性を感じて盲信するのは本当に危険だなあと思ったという話です。

futureeyefutureeye 2012/10/01 10:01 興味深いブログなのでコメントします。
文系での物事の本質の追究は、「データ圧縮」というよりはむしろ「自然法則の発見」により近いのではないかと思っています。
例えば、「リンゴが木から落ちた」という自然界での現象から「万有引力」という自然法則を導き出す作業に似ています。

この仮説が正しいと仮定した場合には、次のステップで問題になることは、「データの再現性」ではなく「導き出された自然法則の信頼性」です。理系分野では、新たに発見された自然法則が正しいか否かが実験等によって検証されます。そして、検証の結果正しいと判断された後には、その自然法則が広く工学分野に応用され、世の中に役立ちます。

文系での物事の本質の追究は、このような追求結果の検証により白黒はっきりさせる術がない点だと思いますが、どう思われますか?

2012-07-10 クリエイター視点と消費者目線 このエントリーを含むブックマーク

ここ数年のオリコンランキングを見ると、上位はAKBとジャニーズばっかりだ。この現状について音楽好きのひとたちが嘆いていたり非難するひとたちの記事は定期的に見る。


また、ライトノベルや深夜アニメなどのサブカルチャーの程度が低すぎるみたいな話もよく聞く。


問題と指摘されている点をまとめるとだいたい次のようなかんじではないか。


・ 商業主義がいけない。ユーザの欲望に安易に媚びた結果、似たようなもの、質の低いコンテンツばっかりになる。

・ 本当にコンテンツを愛するファンが欲しい作品が登場しない。売れない。

・ これは世界の中でも日本だけの特徴であって恥ずかしい。


この現状認識についてはいろいろ各人によって賛同、異論があるようだが、ちょっと違った角度で現在のコンテンツを巡る状況を考えてみたい。


そもそも質の高いコンテンツとはなんだろうか。一般に対比される芸術性と大衆性という切り口で考えると、商業主義は大衆性と結びつきやすいので芸術性が低いというのが質の低さだろうかというと、どうもそう単純な話でもなさそうだ。一部の少数のマニアではなく万人の心に訴えるコンテンツのほうが素晴らしいものだという考え方も強くあるからだ。


芸術性と大衆性という切り口で考えた場合は、両方を兼ね揃えているコンテンツが質の高いコンテンツであるという定義にいったんはしておこう。


さて、コンテンツの起源について考えてみる。社会的、商業的に考えるとグーテンベルグの印刷術の発明が大量複製されたパッケージコンテンツのはじまりだろうが、コンテンツに対する愛情だったり尊敬あるいは畏敬の念とかいう感情の発生であれば、もっと人類の起源とかに遡る話だろう。それはまわりの自然には存在しない非日常的なものに対する驚き、センス・オブ・ワンダーといったものだろう。


まあ、なので非日常的な驚きを与えてくれるものであれば、そもそも人工物である必要もないわけで自然の中でも非日常的な自然に遭遇した場合にもそういう感情は発生したはずであるし、そちらのほうがむしろ最初にあったに違いない。そういう驚きを与えてくれるものを人間が自らつくりはじめたのがコンテンツの起源だろう。


この説明だと驚きを与えてくれる世の中のものはすべてコンテンツとなってしまうが、すくなくともコンテンツではなくアートというのであれば、その定義はおおむね正しいように思える。そしてアートがコンテンツになる条件はアートが人間にとってなんらかの機能性を伴って切り出せるときだ。絵画、彫刻、音楽とかいったものは人間にとってなんらかの役割を与えられたアートである。


前置きに少し時間を取られたが、そういうコンテンツの起源から考えた場合に、現代のコンテンツってどういうものだろうと考えると、いろいろ矛盾を抱えていることが分かる。


自然にないびっくりするものということでいえば、ぼくらの自然ってなんだろう。ぼくらは自然の中にはもはや生きていない。たとえばぼくがいまキーボードをタイプしているパソコンや携帯電話。こんな不思議なものはない。200年前の人間からすれば当時のどの絵画よりも写真を見た方がよほどびっくりする。自然にはありえないほどなめらかでたいらな表面をもつ机や窓ガラスだってそうだ。神の国の工芸品だ。


同時代でみてもどういうことが起きているか。


音楽を考えてみよう。簡単な例をあげると、一般消費者が日常で聞く音楽はCD音源であるがここの完成度が一番高い。音楽が好きなひとはライブにいって、よりひどい演奏、より下手くそな生声と雑音のなかで音楽を聴く。アイドルの歌なんて見下されることが多いが、優秀な作曲家がついてPVにお金をかけたり、歌は加工されまくって、最終的なコンテンツの完成度はやはり高いといわざるをえない。こういう環境の中でぼくらはコンテンツを愛して消費している実態がある。


現代において、コンテンツの質の高さをどうやって定義すればいいのかは非常に難しいというほかはない。


ぼくらは過去の人間が生みだして蓄積した素晴らしい人工物の中ですでに生きていて、その上で現在生きている人間がちょこっとしたものをつくって競いあっているのがコンテンツというものの実態なのだ。ぶっちゃけもっとすごいものはいっぱいあるけど、それはすでにあるから忘れることにして、範囲を意図的に限定して競争しているのだ。


そのなかでコンテンツの質の高さをクリエイターがいうとき、それは現在であるコンテンツをつくる制約条件をはっきりわかっているひとたちの間でしか価値観は共有できないだろう。つまりはクリエイター自身とコアなファンだけだ。


クリエイターの立場を理解しない一般消費者にはまったく関係ないのだ。


一般消費者の立場から、驚き=センス・オブ・ワンダーを与えてくれるものを素晴らしいという価値観を追求するとどうなるか。それはネットの掲示板とかでよくみる”批評家”ぶったユーザ達を見ればわかる。えらそーに好き勝手な決めつけをしてコンテンツを良し悪しを断じる彼らこそが、現代において古代人同様にもっとも人間的なかたちでコンテンツを捉えているひとたちだ。


いま、ぼくらは神の国に住んでいる。より高みにある神の国に憧れるのも、より人間的な地上の国に憧れるのも、ぼくらにとっては等価なのだ。

momi_18momi_18 2012/07/24 16:38 はじめまして。
そもそも芸術性というものに川上さんがどういう概念を持って話しているのか、過去の芸術と現在の大衆の結びつきをどういう角度から理解しているのか、一口にコンテンツといっても方向性が違うので質の定義が難しいとされるコンテンツとはここでは何をさしているのか、もっと川上さんがどういう立場にたって意見しているのかが知りたいです。
で、そういう疑問を持ちつつ何となく、紐解くと、ファインアートは驚きそのものに価値があるわけではないと思います。驚きに対する感受性の新たな方向性をつくっていくことが意義だと思いますし、
大衆性は完全に一つの価値観が浸透した上で成り立っていて、理解されていると思います(それと大衆性はある程度の人数が集まってはじめて形になると思うので一個一個の個性を追求したところで広い意味では何も生まれないかと思います)
クリエイターと消費者で温度差が生まれるのは、大人が消費者ってところにあると思いますが、大人はテクスチャのみを切り取った鑑賞で好きになるのは困難かと。やっぱり作品のもつ、色んな引き出しが気になるし。そう思うとクリエイターのバックグラウンドにおいてる念頭に共感できるかどうかだと思います。
関係ないですが私は川上さんが好きです。
おわり。

2012-06-30 文明が退化していることを発見した12の事実 このエントリーを含むブックマーク

現代は野蛮だから、子供は平等に財産を相続する。昔のひとは賢かったから、長男だけが相続し、せっかく集めた財産が散逸しない仕組みをつくった。


現代は野蛮だから、戦争では本気で人間を殺し合う。昔のひとは賢かったから、戦争してもときの声をあげて威嚇しあったりして人間ができるだけ死なないように戦う。代表者だけ戦う一騎打ちなんて大変に知的な発明もした。


現代は野蛮だから組織のリーダーは実力で決めようとして争いが絶えない。昔のひとは賢かったから、リーダーは世襲で決めることにして後継者を巡る組織の混乱を防いだ。


現代は野蛮だから、世襲する自分の後継者は自分の血を受け継いだ子供を選ぶ。昔のひとは賢かったから、世襲する自分の後継者はまったく血がつながってなくても、できるだけ優秀な子供を捜してきて養子にした。


現代は野蛮だから、自分たちのリーダーも同じ人間だからと尊敬しないし、厳しく欠点を指摘して引きずりおろす。昔のひとは賢かったから、リーダーと決めた人間は無条件に敬うことにしてもりたてる。


現代は野蛮だから、民主主義で話し合い、だれもが正しいと思わない結論で国を動かす。昔のひとは賢かったから独裁者が正しいと思った結論で国を動かす。


現代は野蛮だから、神を信じないかわりに、この世界は自由と平等と博愛で動かすべきだと信じる。昔のひとは賢かったから、自由、平等、博愛なんかでなく、もっと地に足をつけてこの世界の現実を見つめた。そしてあの世での平等な裁きと楽園を信じた。


現代は野蛮だから、親も子供もそれぞれ自立した平等な個人である。だから、親は子供も個人として尊重するし、成長した子供は親の面倒をみない。昔のひとは賢かったから、子供は親の所有物だった。だからたくさん産むし、子供は親の面倒を見た。


現代は野蛮だから、すべての人間は平等であり、身分制度はないと子供に嘘を教えるから鬱病になる。昔のひとは賢かったから、身分制度はちゃんと情報公開して、子供には分をわきまえるということを教えるから、平安な心で人生を過ごすことができる。


現代のギャンブラーは野蛮だから、ギャンブルに不正はなくだれもが平等に負ける競馬やパチンコや宝くじなのに自分だけは勝てると信じている。昔のギャンブラーは賢かったから、賭け事とは八百長をするのが当たり前で自分だけは勝てると信じていた。


現代のオタクは野蛮だから、見た目オシャレだし、彼女もいるし、友達も多い。昔のオタクは賢かったから服を買いにいく服を持たず、友達もつくらない。だから、好きな趣味にお金をすべて使えた。



科学技術の発達している現代に生きているからといって、昔のひとよりも自分は頭がいいはずと思っているとしたら大間違いですね。

Pseudonym_ZPseudonym_Z 2012/07/01 16:58 現代は野蛮だから、こういうことを書いたり言っちゃったりする人がいる(無論、僕も含めて)。昔の人は賢かったから、こういったことを言わないし、書かず、ただじっと我慢して、行動で世の中を変えようとした。
今昔について語るのは別に構わないですが、そもそも自分が本当に正しいことを言っているのか、あるいは客観的立場に立てているか、熟慮した方がよろしいのでは?

minigorira2005minigorira2005 2012/07/01 20:45 +12000を生む仕組みを作る時に出た、-12の事実に注目してみた。

taobaoyosikotaobaoyosiko 2012/07/02 10:23 タオバオ代行タオバオ新幹線の中国担当楊です、どうぞ宜しくお願いします、
いい文章ですね、勉強になりました、今日の中国は少し雨が降りそうです、
http://www.taobaoshinkansen.com/feature.html

tukarerakuttukarerakut 2012/07/02 16:48 読めてない人がコメントしてる気がします。
まあそんな事より振り込みお願いします。

ig623uueig623uue 2012/07/09 20:43 独裁政治は独裁者以外に支配される危険が強いですけどね。
摂関政治とか執権政治みたいに。

kendukendu 2012/09/11 09:23 ネタやとおもうんですけど、マジレスしたら負けなのですかね?
昔っていつの時代やねんとも思いますけど、昔は呪術的なことがあったので人をいけにえにしたりしてましたけど。それでも賢いんですかね?江戸時代だって、武士階級で男が生まれなかったらお家取りつぶしですぜ。奴隷階級に生まれたら、人生オワコンだろう。

2012-06-23 いいベンチャーの企画ってなんだろうと考えた このエントリーを含むブックマーク

先週、札幌のIVSというイベントでベンチャー企業が自分のサービスをプレゼンするLaunch Padというのがあったのだが、これが予想以上にレベルが高くて素晴らしかった。日本のベンチャーもなかなか捨てたもんじゃないし、これから可能性がまだまだあるかもと認識を改めた。


というわけで彼らのプレゼンをみていて思ったことを書いてみる。


ベンチャー企業にとって、いい企画とはなにか?価値のある企画とはどう定義すればいいのか。とか、いうことを考えてみたのだ。


結論を先に書いちゃうと、今回、こういう場での企画の善し悪しの判断は、斬新さ、リアリティ、プレゼンの3つの要素だなと思った。そしてこの3つはお互いに依存関係にあり、どれかひとつあるいはふたつだけあればいいというものでもないということだ。


そして、この3つの中でもっとも難しいのがリアリティである。Launch Padのレベルが高いとぼくが思ったのは、このリアリティのレベルが高かったからに他ならない。リアリティがないと斬新な企画であっても魅力的には思えないし、いくら素晴らしいプレゼンをしていても心を打たないのだ。


ではリアリティとはどういうものなのか、リアリティをどういう場合に人間は感じるのかについてのパターンは一通りではなく、いくつかある。ちょうど今回の同率1位のクラウドワークスとV-sidoが非常に対称的な例になっているので説明をしたい。


まずはクラウドワークスである。クラウドで待機している時間労働者に仕事を発注できるというアイデアは独創的であり、類似のサービスはない。うまくいけばマーケットの大きさも結構ありそうだ。ただ、これだけで斬新な企画だと感心するほど人間は甘くない。本当にそれでビジネスが回るのか?そちらに興味がいく。するとすでにそれで多数の案件が決まっていて、ちゃんとサービスが成立しているという見事なプレゼンテーションがおこなわれる。そこで一挙にこの独創的なビジネスモデルにリアリティが与えられ、素晴らしいサービスに思えてくるのだ。


もうひとつの同率1位の片方であるV-sidoについてはどうだろう。プレゼンは素晴らしかった。ワクワクした。ぼくもこれが今回のナンバーワンだと思った。なぜ、ナンバーワンだと思ったのかを自分でも自答してみたのだが、やっぱりこういうベンチャーの企画というのは人々を驚かせ、すごいと思わせる、なんだかよくわからないけど可能性を感じさせる、そういったことがもっとも重要なのだろうと思う。ところが、こちらのほうはクラウドワークスとくらべてビジネス的な実績はない。いまつくっているロボットについての説明で、それがどれぐらいのニーズがあり、儲かるのかがさっぱりわからない。でも、このプレゼンテーションに多くの人はリアリティを感じた。それはなぜかというと、技術とノウハウが本物に見えたからだ。たんにアイデアだけ面白いことを思いついたわけではなく、十分に先行者メリットがあるだろう蓄積をプレゼンテーションによって感じたからだ。同様のサービスとしては入賞しなかったが、ChatPerfというものも非常に面白く可能性を感じた。


斬新さという意味ではクラウドワークスほど独創的なサービスではなく、すでに既存の類似サービスがあるものについてはより高いレベルのリアリティが要求されるだろう。類似サービスがあるなか、どういう差別化をおこなっていくかという説明は、やはりそれで結局ユーザはついているのかとかいうなんらかの実績がないとリアリティを持たない。そんな競合のすでにいるEC分野でのWhytelistやチケットストリートがきちんと現時点での実績をそれなりの説得力をもってプレゼンテーションしていたのは印象深かった。


プレゼンテーションされた多くは実サービスとして稼働しているものが大半だったが、まだ、実際には運用されていないサービスもあった。一位のV-sidoもその類ではあるが、他にはMatch AlarmやSmarty Smileなどがある。まだ、現実にないサービスだととりあえずはプレゼンテーションが面白くないと話にならないが、このふたつはその点では合格点だったといえる。特にMatch Alarmは会場の反応だけでいえば、一位のV-sidoに匹敵する評判を得ていた。まだ実ユーザがいないサービスだといくら斬新なアイデアで面白そうに見えても、要求されるリアリティの高さはより厳しくなるのは当然だろう。Match Alarmは理想の出会い系サイトとして会場の評判は良かったが、あれだけ男性に都合のいいシステムで女性ユーザがサクラなしに成立するかどうかは実際にサービスみてみないと判断は難しいというのが正直なところだろう。Smarty Smileについては着眼点は悪くないにしても、本当にそれでクリティカルマスを超えるカレンダーサービスになるかどうかの道筋についてはプレゼンテーションでは明らかになっていない。むしろリアリティのあるマーケティング手段でもはっきり分かっていたほうがいいだろう。


というわけで以上を簡単にまとめるとリアリティの必要度の高さで比較すると


  独創的で競合のいないサービス < 競合はいるけど、差別化するアイデアがあるサービス


  すでに運用されているサービス < まだ運用されていないサービス < アイデア段階のサービス


という関係があり、


リアリティをどうやってもたせるかについての方法については


  すでに運用されているサービスの場合 −> どれぐらい使用されているかの実績


  まだ運用されていないサービスの場合 −> 技術力やノウハウの蓄積量


  アイデア段階のサービスの場合 −> とにかく難しい。


といったところだろうか。


とにかく札幌でのLaunch Padはたいへんに面白かった。

2012-06-06 E3で思った任天堂とWii Uの今後 このエントリーを含むブックマーク

今日はE3の初日ということで、午前中にノキアシアターで行われた任天堂の発表会を見てきました。前日、前々日とおこなわれたマイクロソフトとソニーの発表会と比較して、日本でネットから見ていた視聴者の評価は圧倒的にトップで、とりあえず任天堂ファンとしては一安心しました。


しかし、任天堂のE3でのプレゼンテーションのうまさというのは伝統があって、Nintendo 64やGamecubeの時代。一時期、完全にサードパーティーが見放していた冬の時代にも任天堂はE3での展示自体は毎回、大成功。ユーザーの評価も高く、我が道をいくというかんじで、ソニーやマイクロソフトの人たちは不気味さを感じながらながらも任天堂は眼中にないというポーズをとってお互い競争しているといった雰囲気が印象的でした。


いつまでたっても売れ続ける任天堂ソフトのじわ売れとクリスマス商戦の圧倒的な強さ、E3でのユーザへの評判の良さ、業界の覇者の地位を一時失っていたときにも任天堂の底知れぬ強さにはみんなが一目をおいていたものです。


まあ、しかし、今年は日本人が少なかったです。前回のE3来たのは何年前か忘れましたが、そのときも日本人の少なさにびっくりした記憶が残っていますけど、今年のE3は少ないどころのレベルじゃなく、もはや日本人を見つけることすら難しかったぐらいに絶望的に日本人がいない。気持ちいいぐらいにいません。


そんなわけでカンファレンスで任天堂アメリカの社長がダンスゲームのプレゼン中に、ダンスゲームのプレイヤーの衣装を簡単にチェンジできることを、任天堂アメリカの社長みたいに簡単に日本からコントロールして交換できるんだというジョークを飛ばして会場が涌いたときにも、とてもドキドキして素直に笑うことができませんでした。いや、ちょっときつすぎでしょ。ほんと、今回、大丈夫か日本と心配になりました。


さて、今回の発表会の感想を正直にいうと、Wii Uのコントローラが本当に必要なのかの疑問への回答は任天堂はうまくできなかったと思います。ただ、それで心配する気にはならなかった。そこが任天堂の凄いところです。


任天堂が心配されるのはいまにはじまった話じゃないのです。むしろ、DS/Wiiの大成功した後のこの数年間が例外だったのです。もともと任天堂の戦略はいまいち意味不明なのです。


Nintendo 64もGameCubeもみんなこれで本当に大丈夫なのか?なんか間違っているんじゃないかと思ってました。


で、実際にそのときは任天堂は冬の時代でした。それを打破したのはもちろんDS / Wiiの大成功ですが、よくよく思い出してみると、DSとWiiもみんな不安に見守っていたのはまったく同じでした。


特にWiiのコンセプトがあまりにもあざやかで、しかも予想を裏切る大逆転を見せたため任天堂の戦略の凄さというのに伝説が生まれました、考えてみれば任天堂の大逆転に決定的な影響を与えたのはWiiではなく、DSでした。DSが発売されたとき、みんな本当にデュアルスクリーン+タッチパネルが画期的だと思ったでしょうか?Wiiは画期的だった。マイクロソフトはすぐにKinnectを対抗して開発しました。でも、PSPはいまだにデュアルスクリーンではなく、タッチパネルでもない。だれもあのDSの最大の特徴を成功要因だとは判断していないわけです。


DSを勝たせたのはソフト。それも任天堂が自社開発したソフトの力です。


今回もWii Uというハードの仕様にみんなが納得しているわけではないでしょう。でも、結局は任天堂の純正ソフトがWii Uの機能をいかしたびっくりする体験を与えてくれるのでしょう。


任天堂はそういう勝負をできる世界で唯一の会社です。


そういえば、今回、ニンテンドーランドという仮想テーマパークが発表されましたが、前日、ディズニーランドで今月中旬にオープンするカーズランドを見せてもらいました。カーズランドは素晴らしい出来だったのですが、もっと印象的だったのはディズニーのひとの言葉です。ファイナンス部門のひとがテーマパークの製作もコントロールしていたらいいものはできない、お金をかけてクオリティの高いものをつくったらお客が喜んで、それは結局ビジネス的にもプラスになる結果を生むことができるということを証明してファイナンス部門のひとにも分かって欲しいんだ、というようなことをいっていたのが印象的でした。


これはコンテンツをつくる仕事に携わるひとすべてにあてはまる言葉でしょう。


任天堂もそういう勝負をしています。

そもそもゲーム機を安くしてソフトで回収するという、いまでは当たり前のゲーム機のビジネスモデルを最初につくったのは任天堂です。


まあ、ゲーム会社だってそんなもんですけどね。カプコンみたいにばくちみたいな商品開発をしつづける会社がある業界というのはやっぱりすごい。


たぶん、年末に発売されるだろうWii Uは最低6台、そしてラウンチタイトルは全部3つずつを自分一人だけ用として購入するつもりでいることをあらかじめここに宣言しておきます。応援とかじゃなく、たんに欲しいもん。全部の部屋と実家とか自分が移動する場所すべてにおかなきゃ。