いわき市平

 

内郷 館山 政美

(1) 

 平(たいら)はいわき市の中心であるが、住所表示は大きく2つに分けられる。すなわち平のあとに字(あざ)が付く地域と、付かない地域である。字が付く住所は平の中心に位置する狭義の平地区であり、明治16年に成立した、平町にほぼ一致する。本来、平と言えるのは字の付く地域だけである。

平町は昭和12年に平窪村と合併し平市となった。その後、昭和254月に飯野村(谷川瀬、北白土、南白土、上荒川、下荒川など)同年5月に神谷村(上神谷、下神谷など)と合併する。昭和29年に夏井村、高久村、豊間町(豊間、薄磯、沼ノ内)草野村(泉崎、下神谷など)、さらに赤井村の一部と合併し現在のいわき市平を形成するに至る。

従って、例えば平(上中下)平窪、平豊間、平赤井、あるいは平谷川瀬、平(南北)白土、平(上下)荒川など字の入らない住所は(狭義の)平ではないことを意味し、平に続く住所は合併前の村名を表わしている。

 昭和4年平町教育会編集の「郷土読本」1)に、

「我が町は本県の東南部郡の中部にあって、東は夏井川をへだてて、神谷村・平窪村に境し、西北は好間川によって好間村に、南は古川(筆者注・現在の新川)西は新川を挟んで飯野村・内郷村と相接している」とある(図1)。以後この狭義の平(「平」と表示)を中心に話を進める。

図1.平(彩色した部分が「平」である)

(2)

一般住宅の郵便番号が970-8026の地域が「平」に概ね一致する。(ただし大きな事業所は特別の郵便番号を持っているので、「平」でも番号が異なる。例えばいわき市役所は970-8686 いわき郵便局は9708799である)しかしいくつか例外がある。平字作町、平字愛谷町は郵便番号970-8026で住所に字も付いているが、旧飯野村・北白土の一部でであって「平」ではない。

一方、イトーヨーカドー平店近くに字が付かない「平」の住所がある。すなわち平六町目(〒970-8051)、平禰宜町(〒970-8052)、平正月町(〒970-8053)、平鎌田町(〒970-8054)の4箇所で、明らかに「平」に含まれる。これらの住所ができたのは平成11年で、それまでの住所は字立町であった。

2.「平」で字のない住所

図2でやや濃く彩色した部分が旧・字立町で、西側の五町目に接したところが平六町目になった。この時イトーヨーカドー平店の住所が字禰宜町から平六町目に変わったようである。(郵便番号は今でも970-8026)東側は字禰宜町に接するところは平禰宜町に、字正月町接するところは平正月町に、字鎌田町に接する部分は平鎌田町に変更された。現在平字禰宜町という住所はない。ところが郵便番号でみると平禰宜町3-1のひまわり信用金庫の郵便番号は970-8052だが、平禰宜町5-2にある行政書士事務所の郵便番号は970-8026で「平」の番号である。字禰宜町と平禰宜町が並存していたことを示唆するもので、なかなか複雑である。

(3)

「平」の地名で他と少し違うのは一町目〜五(六)町目までの「ちょう」が丁ではなく町であることである。「平」以外では京都市上京区、中京区や新潟県佐渡市相川などで町目と表示するところがあるが、比較的稀な表記である。本来「町」というのは一定の長さ、1町=60間(約109m)の区切りを言う2)3)。実際に京都あるいは札幌などの街並みは1区画が60間、約109?になっている。しかし「平」では各町目の区画の長さは150m〜220mでみな異なり、60間毎に並んでいる訳でない。加えて字十五町目という住所もあるが、途中の数字(六〜十四)の町目は元々ない。従って、「平」の場合、町目は町場の区切りではあるが、町割に沿った番号というより、歴史的な街の名前、すなわち固有名詞である。実際十五町目は南北朝期からの地名である4)。(平町は、明治16年、現在の常磐線より北側の北目村、本町通り沿い西側の長橋村、東側の町分−まちわけ−村、そして本町通りの南裏の十五町目村が合併してできた町である)

一町目〜五町目は古くからの住所で、字が付き、平字一町目〜平字五町目が正式な住所表示である。前述の通り、字の付かない六町目は最近になってできた住所である。しかし「ろくちょうめ」さらに「ななちょうめ」という呼び名は以前からあった。ちなみに平禰宜町にあるセブンイレブンの店舗名は「いわき平7丁目店」である。

古い地図で調べてみると、元和8年(1622年)岩城平城内外一覧図(図3)に足軽町の表示があり、字立町はかつて足軽町と呼ばれていたことがわかる。元禄9年(1695年)ごろの地図7)でも同様である。一町目〜五町目はその頃も現在と同じ表記である。ところが戊辰戦争直前の地図になると立町に変わる。(図4)

3.元和8年 岩城平城内外一覧図

図4. 戊辰戦争直前の地図

磐城平藩戊辰戦争日録(漆原家記録)5)に「新川町より五町目、菩提院町へ敵進み入り辰町に於いて一の大砲を備え頻に鎌田・・・」とあり、立町は方角を表す辰(平城から辰=南東)の当て字であろうとされる6)。江戸中期の磐城平城下の地図には立町の表示が見え、いつの時点で足軽町から立町になったかは不明だが、とにかく平成11年までは字立町が正式な住所表示であった。

時代が下がって明治、大正期の地図には立町の表記しかなく六丁目、七丁目は見えない(図5、図6)なお、大正5年の地図では五町目を五丁目、立町を立丁と表示している。

図5. 明治末ごろの地図

図6.大正6年 平町市街全図

ところが、昭和初期の地図から、六丁目、7丁目が記載されるようになる。(図7、図8)遅くともこの頃には、本町通りは西から東に「いちょうめ」「にちょうめ」・・・「ろくちょうめ」「ななちょうめ」と呼ばれていたと推定される。

図7.昭和5年職業別略図

図8 昭和29年 平市地図

江戸時代の地図図3)や古文書7)では町目と表示されているが明治以降は丁目と表示されることが多くなる。昭和初期に出版された史料でも一町目〜五町目とするもの89と一丁目〜五丁目1011とするものがある。昭和4年の「郷土読本」1)を見ると、本文には一丁目〜五丁目と記載し、添付の地図では一町目〜五町目となっている。町と丁が混在し、厳密に区別されていなかったことが分かる。おそらく固有名詞としての字一町目〜字五町目とは別に、通りの通称としての一丁目〜七丁目の表示が並存していたと思われる。同じ音で、同じ場所を指すのだから会話の上では何の問題もない。立町というより、六丁目七丁目のほうが場所もわかりやすい。

固有名詞でなければ町と丁は違いがない。町は街の当て字として使われることがあるために何か賑やかで村よりは都会という印象をもつ。しかし広辞苑によれば、町は田の畔、土地の区切りとあり、一般に境界を意味する。その区切りの長さが60間で、この意味では「区」の当て字である3)。住所に使う限り町と丁は同じ意味となる2)

(4)

いわき市平には明治団地、郷ヶ丘、中央台などのニュータウンがある。もちろん字は付かない。郷ヶ丘、中央台での区画は丁目で表示される。ここでの一丁目、二丁目は固有名詞ではなく、区切りの記号である。

 明治団地は言うまでもなく、郷ヶ丘も高齢化が進み、程なく中央台にも高齢化の波が訪れる。一方で「平」には高層のマンションが建つようになり、私の住む鷹匠町では自宅周囲で新築する家が増えている。

日本の場合、高齢化が急激に進んでも、これらニュータウンが直ちにゴーストタウン化するとは思えないが、大きな問題を抱えていることは明らかである。例えば交通の不便さであり、高齢化により今後ますます深刻さを増すであろう。これからのいわきを考えるとき、集約化はひとつの解決策と思われる。しかもインフラを考えれば、「平」への集約化が現実的であるように思う。

字の付く住所は何か田舎臭い印象がある。しかし、いわき市平に於いては、字こそが中心地を意味し、いわばステータスであることを示すために拙文を書いた。

 

 

参考

1)平町教育会:「郷土読本」,昭和4

2)今尾恵介:「住所と地名の大研究」新潮社

 平成16年:200

3)高木稲水:「ふるさといわき抄」いわき春秋社 昭和53年:139

4)「角川日本地名大辞典 福島県」角川書店 

昭和56

5)いわき市:「いわき市史」昭和62年;第9巻: 964

6)高木稲水:同上:176

7)いわき史料集成刊行会:「いわき史料集成」

昭和62

8)諸根?一:「石城郡町村史」昭和4

9)平第一小学校:「郷土史」昭和8年ごろ

10)黒澤常葉:「石城郡郷土大観」昭和3

11)平市役所:「概説平市史」昭和34

 

地図出典

図1、図2: 筆者作成

図3、図5、図6、図8:いわき市総合図書館蔵 を複写

図4: 諸根?一「いわき郷土史」歴史図書社

 昭和52年 添付資料

図7: 複製図筆者保有