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信仰者、就中佛教徒は謙虚であらねばならない。「自分はこれだけの○○をしたのだ」などは
拙稿「冨士宗学研究 黒川和雄君の支離滅裂な妄論を破す」にも書いた「何でも自分信仰」である。そもそも人間として見苦しい姿である。
プロゴルファーの石川遼君が多額の義捐金を寄付せられたる由。仮に同君が「俺はこれだけの寄付をしたのだ。如何だ、偉いだろ」などと云ったならば慢心であるが、同君は己の功績を自慢せずにクールである。それが同君の好感度を上げている理由の一つであろう。
「アメリカ創価学会員約100名を脱会させる。正信会・ロサンゼルス支部を丸ごと壊滅させる」などと嘯いている者がいるそうであるが、本当に斯様な功績があるのならば、「皆さんのお力で脱会させることが出来た、壊滅することが出来た」と謙虚に述べるものであるが、功績が実際にないからこそ、己を大きく見せて不実虚言で飾るのである。講頭を詐称、また大富豪と不実虚言で飾るのもそれである。虚しくはないのであろうか。慢の至りあれば、虚しく思う気持ちも忘れてしまうようである。
御妙判に曰く「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(四条金吾殿御返事・八風鈔)云々と。
東日本大震災において、「日蓮正宗の被災地寺院は無慈悲である」などと云っている者がいるとも聞いている。しかし他宗寺院と違って日蓮正宗寺院は当詣道場であり、避難するに相応しい施設ではない許りか、それでも本宗寺院は避難者を数週間に亙って受け入れていた。またボランティアの為に開放している被災地寺院もある。ただ日蓮正宗側として、本宗寺院側としてそれを功績であるなどと公表していなかったから、他宗教の者が「日蓮正宗の被災地寺院は無慈悲」などと心ないことを云うのである。被災地の御僧侶方や講中の方々は御苦労を重ねておられるが、「自分はこれだけの○○をしたのだ」とは自慢しないのである。
さて、インターネット上において神佛の御名(みな)を僭称する者がいるそうである。どのような経緯や理由があって僭称しているのかは知らないが、人間として謙虚さのなさを疑われるものである。以前、「日蓮さん」や「天照大神」の御名をネット上でニックネームにしている者がいた。彼らは信仰者ではなかったが、私は俄に注意したことがある。
ネット上において「法華講の四天王」を自称したり、そう呼ばれて悦に入っている者がいるそうである。呼ばれているのならば、「私は四天王ではない」と否定すべきであるが、否定しないところが慢心の表れであろうとも思う。四天王とは大持國天王、大増長天王、大廣目天王、大毘沙門天王の総称である。須彌山の四洲を守護する神様(天部)である。もちろんその御本地は久遠元初自受用報身如来である日蓮大聖人様と拝し奉るべきである。
産湯相承事に曰く「十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは一体異名にして、本地垂迹の利益広大なり。日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり。十羅刹女と申すは、諸神を一体に束ね合はせたる深義なり。日蓮の日は則ち日の神、昼なり。蓮は即ち月の神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は水より生ずる故なり。又是生とは日の下の人を生むと書きたり。〔本門下種の口伝〕日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。今久遠下種の壽量品に云はく『今此三界皆是我有主君の義なり 其中衆生悉是吾子父母の義なり 而今此処多諸患難国土草木 唯我一人能為救護師匠の義なり』と云へり。三世常恆の〔佛と聖人同体の口伝〕日蓮は今此三界の主なり。『日蓮大恩、以希有事、憐愍教化、利益我等、無量億劫、誰能報者』なるべし」と云々。
本地垂迹の御法門から拝すれば、四天王に限らず、神佛の御名を騙る者は御本佛を僭称したことにもなるのである。何とも怖ろしい謗法罪障であろう歟。
「法華講の四天王」を自称している者が「西の四天王」と名乗っているそうである。西の四天王とは御本佛宗祖日蓮大聖人様が十界大漫荼羅御本尊様にお認めの大廣目天玉のことである。即ち「西の四天王」を名乗ることは、御垂迹・大廣目天玉を僭称することであり、御本地佛・日蓮大聖人を僭称する謗法行為なのである。即ち己を本佛だと云っているに等しいのである。
俗語として、双璧、三人組、三羽烏、御三家、四人衆、七奉行等々の指折り言葉と同じように、「四天王」と云うこともあるが、信仰者、就中佛教徒が自らを「四天王」と名乗るなどは、あってはならないことであろう。第一、己を称賛するなどは佛教では自讚毀他の制戒を犯すことであり、佛教徒が絶対にしてはならない行為であり、世間においても俗物根性の表れとしか思われないのである。
私は演藝が好きで、若い頃は寄席にも通ったものである。浅草演藝ホール、鈴本演藝場などは近い為よく通ったものだ。少し足を伸ばして末廣亭にも遊びに行ったものである。落語をこよなく愛したが、「玉川カルテット」と云う藝人さんも面白かった。「金も要らなきゃ女も要らね。私ゃも少し背が欲しい」と云うフレーズを聴けば御存知の方も多いと思う。彼(か)の僭称四天王は四人であるそうだから、「カルテット」では駄目なのか?何故そこまでして「四天王」に拘るのであろうか。自らを「四天王」と僭称し、また「四天王」と呼ばれることに拘泥しては佛教徒とは云えまい。
日本民族は優秀であり、謙虚である。一般の諸芸流派の高弟でも「師匠○○先生門下の末席に身を置かさせて頂いている」と云う。ところが「俺は師範代だ、如何だ、参ったか」などと自讚毀他を犯せば人格を疑われるものである。一般世間においておや、況んや佛法である。まして信仰者が神佛の御名を騙るなどは。
- 2011/06/22(水) 07:00:00|
- 徒然雜感|
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