(本)安田浩一「ネットと愛国 在特会の闇を追いかけて」

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2012/12/26


これはすごい本ですね!読み応えのあるノンフィクション。買ってよかったです。


「ネトウヨ」の実態を浮き彫りに

・日の丸を掲げているのは一見、「右翼」というパッケージにはほど遠い連中である。周囲を威圧するかのようににらみを利かすコワモテが1人、2人いないわけではないが、彼らの多くは、スーツ姿のサラリーマン風であったり、おとなしそうなオタク風の若者であったり、ジーンズ姿やOL姿の若い女性であったり、あるいはくたびれた感じの初老の男性であったりと、服装も雰囲気も年代も、まるでまとまりがない。

・「朝鮮学校無償化反対」「外国人参政権反対」「外国籍住民への生活保護支給反対」「領土奪還」—掲げるスローガンはいわゆる右派的な主張であるが、在特会は自らを「右翼」と名乗ることはせず、「行動する保守」だと自称している。実際、会員の多くは右翼・民俗派の活動に参加した経験を持たず、ネットの掲示板などで「在日叩き」をしている「ネット右翼」が目立つ。

・在特会の活動のほとんどは「ニコニコ動画」や「Ustream」といったネット上の動画投稿サイトで生中継される。視聴した者によって、それがさらに他の動画サイトにもコピーされるだけでなく、ブログやツイッターを通してリンクが張られる。(中略)ネットユーザーはたとえデモや街宣の場にいなくとも、いつでも在特会のこうした活動を目にする機会が与えられているのだ。

・在特会のある幹部が、私にこっそりと打ち明けた話がある。桜井は、自分の演説を効果的に見せるために、懸命に練習を積んでいるのだという。

・取材を進めていくなかでさらに確信を深めたことだが、在特会の会員は、どれだけ薄汚い罵りの言葉を口にしても、加害者としての意識など微塵も感じていない。うしろめたさもない。むしろ彼らは自らが「被害者」であることを強調する。

・「我々は一種の階級闘争を闘っているんですよ。我々の主張は特権批判であり、そしてエリート批判なんです」「だいたい、左翼なんて、みんな社会のエリートじゃないですか。かつての全共闘運動だって、エリートの運動にすぎませんよ。あの時代、大学生ってだけで特権階級ですよ。(中略)そして言うまでもなくマスコミもね。そんなエリートたちが在日を庇護してきた。だから彼らは在日特権には目もくれない。」(米田)

・真実—在特会に関係する者の多くが好んで使う言葉の一つだ。「真実に目覚めた」「真実を知った」。リソースとなったのは、いずれもネットである。新聞、雑誌、テレビによって隠蔽されてきた真実が、ネットの力によってはじめて世の中に知られることになった。(中略)気が付けば周囲は敵ばかりだ。学校もメディアも行政も。そのうえ最大の敵である在日が、今日も大きな顔して世の中を闊歩している。

・私には在特会の会員が口にする「在日」なる文言が、無機質な記号のようにも感じられた。在日と一括りにされる人々の顔も、表情も、生活も、歴史も、風景も、そこからはディテールがまるで浮かび上がってこない。日本の危機をあらわす、あるいはすべての矛盾と問題をひもとくブラックボックスのような存在として、都合よく使われているような気がした。

・この運動は、あくまでもネットを媒介として進められる。けっしてリアルな人間関係から生まれたものではない。そのあたりが労働運動や学生運動との大きな違いだ。要するに”オルグ”というものが存在しない。そのための酒場や喫茶店も必要としない。鍋を囲んで説得し……などという七面倒なプロセスは、最初からすっ飛ばされている。

・在特会の主張には必ずといってよいほど「被害者である日本人」が盛り込まれる。だからこそ目的のためには、いかなる手段も浄化されると考えているのだ。

・「入会して驚いたのは、本気で朝鮮人を恐れていた人が多かったことです。真顔で『朝鮮人を根絶やしにしないといけない』と訴える人が、かなりいた。活動で知りあった女性は『日本を支配しているのは在日』だと本気で信じていましたからね。その一方で、朝鮮人は満足な教育も受けていない劣等民族などと罵っているわけですから、考えてみれば、そんな民族に支配されている日本人というのは、相当に情けないことになる。しかしそうした矛盾に気がつかないほどに、僕自身も一時期は在特会の雰囲気に感化されていたのは事実です(元・在特会幹部)

・在日が必要以上に「守られている」と喧伝し、日本人が「貶められている」と訴えた。やがてそれが、「外国人のくせに福祉にただ乗りしている」「税金を食い物にしている」といった、いわゆる「フリーライド」論を形成するに到った。旧宗主国の責任としてわが国が在日に対して設けた補完的な権利が、いつのまにか特権だとして槍玉にあげられたのである。

・在特会にさじを投げた「大人」たち—中村、西村、水島の3人とも、ほぼ同じ時期に学生運動を経験していたこともそうだが、全員が期せずして同じことを口にしたのが私にはとても興味深く感じられた。「在特会には思想がない」。だから保守でも右翼でもないのだと、3人は共通する「見解」を示した。

・「連中は社会に復讐してるんと違いますか?私が知っているかぎり、みんな何らかの被害者意識を抱えている。その憤りを、とりあえず在日などにぶつけているように感じるんだな」(元・在特会会員)

・私は在特会やその周辺を取材する中で、あらゆる”被害”を耳にしてきた。「マスコミにダマされた」「裏切られた」「日教組教育の洗脳を受けた」「外国人に職を奪われている」「外国人優先のおかげで日本人の福祉が後退した」等々。「そうした不満や不安を、うまく掬い上げることに成功したのが在特会だと思いますよ」

・「そのとき、主にアカデミズムの人々は、ネットは議論に向かないメディアだと逃げ出してしまったんです。気持ちはわかりますけどね。学者は罵声と対峙することは苦痛でしょうから。多くの左派やリベラルも、ただしいことは声高に訴えなくても必ず世間に浸透する者だという素朴な正義感を持ち出して、ネット言論に関わることを敬遠しました。ネットを甘く見ていたというか、軽んじていたのでしょう」(渋井)

・「在特会という”肩書”は、ときに通行手形みたいな役割を果たすんですよ。一応、市民団体を名乗っていますから、抗議に向かえば役所も大企業も、びくつきながら応対してくれるわけです。僕らからすればずっとエリートの連中が神妙な顔つきして、「すみません」って言って頭を下げてくれたりする。これ、けっこう快感に思えたこともありました」

・社会に憤りを抱えた者。不平等に怒る者。劣等感に苦しむ者。仲間を欲している者。逃げ場書を求める者。帰る場所が見つからない者—。そうした人々を、在特会は誘蛾灯のように引き寄せる。いや、ある意味では「救って」きた側面もあるのではないかと私は思うのだ。

結論は想定の範囲内だったのですが、それでも、非常に示唆に富んだすばらしい内容です。


この件に限らず、ネットには自らを弱者の側に置き、匿名の正義を振りかざそうとする人たちが蠢いています。彼らは自らの弱さに安住し、被害者意識をもって、「どうしてくれるんだ!」と叫びます。常に「救済される側」なんですね。自らを強者の側に置くための努力は、何かのきっかけでもないかぎり、能動的にすることはありません。

僕は問題解決の重要性を語り続けています。自分を「一時的な強者」として認識し、社会のほころびを直していくことに邁進すべきでしょう。マッチョではありますが、抗議以上のアクションをしないのは、非生産的な態度だと考えます。自分もコストを負担しないといけないわけです。

もっとも、こうした「正論」は、残念ながら正義を帯びた弱者の方々には届かないのでしょう。弱者であるがゆえ、彼らはこういうマッチョな道理で動けるはずはありませんし、それでいいと彼らは甘んじています。

僕ら「一時期な強者」は、そんな弱者の存在を認め、仕組みの中に取り入れながら、問題を解決していくことが求められるのでしょう。彼らのような弱者を排斥することは(少なくとも現段階では)容易ですが、彼らに光を当てて、言い分を聞いて、はじめて対立は解消されるはずです。


オルテガは「弱い敵」との共存というコンセプトを唱えています。

オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としていますが、これはとてもたいせつなことばだと思います。「弱い敵」ですよ。「強い敵」とは誰だって、しかたなしに共存します。共存するしか打つ手がないんだから。でも「弱い敵」はその気になれば迫害することだって、排除することだって、絶滅させることだってできる。それをあえてしないで、共存し、その「弱い敵」の立場をも代表して、市民社会の利益について考えることのできる人間、それを「市民」と呼ぶ、とオルテガは言っているのです。

これまたマッチョな道ですが、こういう難題を超えてこそ、市民なのだとオルテガは説いているわけです。これも「正論」なのですが、僕はただしいと信じるので、できる範囲で努力したいと思います。


というわけで、ネット文化を考える上では必読ともいえる一冊なので、関心がある方はぜひ。久々に痺れた一冊です。