
スーパーヒーローの原作者は、やはりスーパー放送作家!
高垣葵 先生

プロフィール: '28 年神奈川県・出身。北大文学部卒。脚本家。戦後、民間放送発足時より、ラジオ・テレビ・舞台の数多くの作品を発表。代表作は『1丁目1番地』『空中都市
008 』など多数。のち、若手俳優養成劇団「劇団ノルテ」を結成、現在に至る。ドキュメンタリーも数多く手がけられており、 '93
年、ラジオ『死刑の構図』(ニッポン放送)では各賞を受賞。
藤子作品での原作
・ 1959 『海の王子』(高垣氏の原作は第 9 回まで)
・ 1961 『チイちゃん』(テレビ番組「わんぱくパトロール」より)
■二人で一人 ―とても印象深く記憶しています。
―藤子先生とのお付き合いはどのような形で始まったのでしょうか?
藤子さんもまだ若若しくてね、僕も若かったけど(笑)、何回か打ち合わせしたのを覚えています。確か放送局のロビーに雑誌社の人と見えて。印象は覚えてますよ。お二人で一人の名前というのでね、藤子さんはすごい面白い存在だったんですよ。当時そんな人いないですからね。
―設定つくりは、どこまでご担当されたのでしょうか。
僕らが原案を書くとき必ず雑誌社の人は絵になりやすいものをって注文されるんです。藤子さんはきっと絵になりにくいや、って思われたに違いないんだけどね。
ほとんど指定通りやっていただいてますよ。当時、内容は編集者と僕らで決めて、漫画家が参加するのは本当に最後だったんですよ。
―『海の王子』には何かヒントになったものはあるのでしょうか?
あるとき新聞を見てたら四国にすごい古い時代の潜水艦があったという記事を発見したんです。しかも木造の。それは面白いっていうんで、当時書いていたラジオ時代劇『高丸菊丸』で木造潜水艦が出てきて暴れまわるという話を書いて、それが元ですね。押川春浪さんの『海底軍艦』のような感じですね。
『海の王子』は、確か二回目か三回目までしか書いていなんです。僕の名前が書いてあるんだけど、後の方になると多分違う人が書いていたと思います。と言うのも、テレビ局とラジオ局の仕事が殺到していて、あまり漫画原作は集中して書いてられなかったんです。失礼だけど、漫画の原案というと、その頃はちょっと遠慮したい仕事だったような気もします。
―それまでも漫画原作というのは書かれていたのでしょうか?
ええ。テレビ番組やラジオ番組がヒットすると、雑誌の付録にするからって、短くしてとか、もっと伸ばしてと言われて、その原案を書いたりしていました。
当時は台本を持っていって漫画家が書くんじゃないんですよ。原案は原案でこっちが書かないといけなかったですね。昔は漫画をテレビにすることはなかったんですよ。テレビ番組が漫画になったんです。何かやると、原案をくれとやって来るのがだいたい漫画でしたね。
『海の王子』のラジオドラマ化も多忙のため実現も、忙しくて駄目だったんじゃないかなぁ。
●『海の王子』(
'59 )執筆当時の高垣先生は、NHKテレビ『ホームラン教室』( '56 年より四年間放映)、NHKラジオ『一丁目一番地』( '57
年より八年間放送)、TBSラジオ『パパいってらっしゃい』( '58 年より九年間放送)、日本テレビ『快傑黒頭巾』( '59 年より四年間放映)、TBSテレビ『夕やけ天使』(
'60 年より三年間放映)等を手がけており、最も多忙を極めていた時期。特に『一丁目一番地』は大ヒットし、『海の王子』の連載前年の
'58 年から '59 年にかけて『一丁目一番地』『続』『続々』と映画も作られた。

喫茶店で執筆する若き日の高垣先生(アサヒグラフ 1961.1.20 号)
■一日に二四〇枚書きました
―『チイちゃん』(藤子F先生がコミックを作画)
の原作『わんぱくパトロール』はどんな番組だったんですか
当時、テレビで帯というのは、クレージーキャッツの『おとなの漫画』だけでした。そのとき、日本テレビが、子供番組を帯でやりたいって、始めたものです。夕方六時になったら、毎日放映するのです。
割と評判も良くて、漫画にしようということにもなったんだと思います。漫画の『チイちゃん』については、全部藤本さんの方で描かれていたんじゃないでしょうか?漫画のための原案は書いていないような気がします。
―帯番組ならではのご苦労は
?
僕は一時期、帯番組を八本書いてたんですよ。だから一日二四〇枚ぐらい書かないと、どこかで穴が開いた。最初は一ヶ月でいいから書いてくれと頼まれるんですよ。書くと、もう一クールやってくれと頼まれてね、それで八年延びたのが『あさって奥さん』っていう変な番組でね。『パパいってらっしゃい』っていう中村メイコの番組も『一丁目一番地』も一年という約束だったんだけど、それがどんどん延びて、それが積もり積もるから結局そういう風になっちゃって。
僕は喫茶店で書いてたんですよ。そこに朝日放送の人が来て待ってる、NHKの人が来て待ってる、こっちには文化放送が来て待ってる、書いちゃ渡して、お待たせしました、その変わりコーヒーいくらでも飲んでくださいって、そんなことを連日やってました。
―プロットの確認や推敲などは?
あの頃は書き出したらミスはしなかったですね。帯番組の台本を後ろ側から書いたこともありますよ。後に出る役者が旅に出るからって。まず、金・土と書いて、月・火・水・木と飛行機の中やホテルで書いて。最後にバっと、あわせるとちゃんと一つの話になるわけですよ。
■放送と出版は職種が違う
―『快傑黒頭巾』はお父様(児童文学者・高垣眸氏)の作品ですね。
倅(せがれ)という事で、親父の原作の脚本を書かされました。親父の書いたものは、四百字詰で四百枚なんです。そのまま放送すると六時間そこそこで終わっちゃうんです。それを例えば日本テレビは三年間くらい続く番組にしろって来るわけですよ。仕様がないからこっちで作っちゃうわけ。そうすると、赤鬼という目明しの悪役が出て来るんだけど、そいつを黒頭巾が一撃のもとに退治して、「これに懲りて以後行いを慎めよ」なんてシーンが出てくるわけ。でも、その通りやると三〇秒経たないうちに、そのシーン終わっちゃうから、赤鬼をなかなか殺さないで一週間くらいもたしていると、今度は親父が電話掛けてきて、「おまえ、わしはあんなこと書いてないぞ
!! 」って。親子喧嘩になってね(笑)。よく人がお父さんの関係でやってるんでしょって言うんですけど、小説家と放送作家ってぜんぜん違うんですよ。放送局は、六〇分のものを書けとか、時間でくるんですよ。ところが雑誌社は、一〇枚の原稿を頼むって、そういう依頼をするんです。似たようなものだけど、全然違うんですよ、職種が。
―貴重なお話をいただき、有り難うございました。
取材:ポール館・てふてふ
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はみ出し高垣先生情報 ●
●「劇団ノルテ」は一文字ライダーこと佐々木剛氏やささきいさお氏を輩出、現在も活動中。この8月にも先生の脚本・演出による非業の死を遂げた悲劇の画家モジリアーニの生涯をテーマにした公演を上演。また、桜美林大学「市民講座」等、講演も多数。現在は東京立川の朝日カルチャーセンターほかでシナリオ講座ももたれている。
●安孫子先生の「少年時代」に高垣眸先生(葵先生のお父様)が書いた冒険小説「豹の眼」(じゃがーのめ)が登場しています。進一がタケシに貸す本です。
劇団ノルテHP
空中都市
008 研究サイト
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