くらし☆解説 「"ひらがな"はいつから?」2012年12月14日 (金)

柳沢 伊佐男  解説委員

「くらし☆解説」です。
きょうは、わたしたちが普段使っている文字、ひらがなの歴史を取り上げます。
京都市にある平安時代の遺跡で、ひらがなが書かれた資料として、最も古い段階の土器が見つかり、注目を集めています。
柳沢伊佐男解説委員に聞きます。

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岩渕)
ひらがなを書いた土器が、なぜ、注目されているのですか?

柳沢)
ひらがなの歴史を塗り替える発見だったからなんです。
ひらがなは、これまで、10世紀に成立したと考えられていたのですが、今回の土器はさらに古く、誕生の時期がさかのぼることになったのです。
 
岩渕)
どんな土器なのですか。
 
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柳沢)
見つかったのは、すべて土器のかけらで、表や裏に墨で字のようなものが書いてあります。
それが当時の「ひらがな」でした。
 
岩渕)
「け」や「あ」などと書いてありますよね。

柳沢)
すぐに読めるものもありますが、多くは私たちが使っているひらがなと形が異なります。
いまの形は、明治時代に定められたものなんです。
それまでは複数の字体があり、専門家は、形だけではなく、筆の運びなども考えて、ひとつひとつの文字を解読しているそうです。
 
岩渕)
今回の土器の発見で、ひらがなの歴史が、どのくらい古くなるのですか?

柳沢)
土器は、9世紀後半のものと判断されていますので、これまでより、半世紀ほど、さかのぼることになります。
 
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ひらがなが書かれた資料としては、これまで10世紀初めに編さんされた「古今和歌集」が最も古い段階のものとされてきました。
 
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そのルーツは、漢字の音や訓で、日本の言葉を表記する「万葉仮名」といわれています。
和歌などを記す際、こうした表記が使われていました。
その漢字の字体を崩し、さらに簡単にしたものが、「ひらがな」になったというわけです。
万葉仮名が広く使われていたのは、飛鳥時代から奈良時代にかけてで、ひらがなが広まったのは、平安時代からになります。
今回の土器にも、同じようにひらがなが書かれていましたので、これが最も古い段階の資料になります。
 
岩渕)
でも、どうしてこの土器が9世紀後半のものとわかるのですか?

柳沢)
さまざまな根拠があります。
 
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土器が見つかったのは、京都市の発掘現場でした。
これまで掘られたことがない、地表からおよそ1メートル下の場所を調べたところ、土器のかけらがまとまって見かりました。
その土器の形は、平安京で使われた9世紀後半の土器の特徴と一致していました。
また、当時の文献では、ここに9世紀後半に活躍した藤原良相(ふじわらのよしみ)といわれる貴族の屋敷があったと書いてありました。
こうした証拠をもとに、土器は、9世紀後半のものと判断されたのです。
 
岩渕)
ここに住んでいた藤原良相というのは、どんな人物だったのですか。

柳沢)
右大臣をつとめた平安時代の有力貴族でした。
文学や仏教に通じ、屋敷にはさまざまな花が植えられていて、花見の宴に天皇が訪れることもあったということです。
今回の土器が見つかった場所なんですが、実は、当時、池のほとりだったと考えられています。
 
岩渕)
屋敷に池があるなんて優雅ですね。

柳沢)
敷地の広さは、1.4ヘクタールあったと推定されています。
池の近くには、展望台のような施設の跡も見つかっています。
そこで宴会が催され、その時使われたのが今回の土器だったと考えることもできそうです。
 
岩渕)
でも、なぜ、土器にひらがなを書いたのですか?

柳沢)
その答えになるかもしれないのが、「かつらきへ」と読むことができる土器なんです。
 
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当時は、濁音の表現がなかったということですので、「かつらき」の「き」の部分が濁れば、「葛城」と解釈できると考えられています。
この「葛城へ」というフレーズは、神楽を披露する歌にも使われています。
当時の文献に、貴族の屋敷で神楽が奉納されたという記述があることや、土器に和歌を書く例も見つかっています。
こうしたことから、藤原良相の屋敷で宴会が催され、集まった貴族や歌人が、披露された歌などをうつわに書き留めた可能性も考えられています。
 
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別の資料として、さまざまなひらがなが書かれた直径およそ14センチの皿があります。
その中で「ひとにくしとお(も) はれ」と読める部分があります。
人憎しには、「にくたらしい」という意味や「うっとうしくもあるが、かわいらしい」という解釈がありますが、これが歌の一部分か、文章のくだりなのかは、よくわかっていません。
 
岩渕)
それぞれ、1100年以上も前の土器というのに、文字がはっきり残っていますよね。

柳沢)
土器は、粘土の地層の中に埋まっていたそうです。
水や空気などを遮断する状態だったことから、墨の文字が流れたり、薄れたりすることなく、残ったということです。
 
岩渕)
ほかの土器には、どんなことが書かれていたのですか。

柳沢)
国文学や古代史の専門家が、解読作業にあたっているのですが、なかなか情報が得られていません。
今回見つかった土器は、完全な形のものがひとつもなく、文字も断片的です。
その上、いまのひらがなと違って字体が1種類ではなく、似た字も多いため、全体の文脈がわからないと、欠けている文字を推定することもできないといいます。
調査にあたった専門家も「ひらがなが数多く書いてあったので、たくさんの解釈ができると思っていたが、なかなか難しかった」と話しています。
 
岩渕)
ひらがなの歴史を塗り替える貴重な資料なのに、なんとか解読はできないのでしょうか。

柳沢)
あまり悲観的にはならずに「研究は始まったばかり」と前向きに捉えるべきだと思います。
来年3月には、今回の調査結果の報告書が出る予定ですので、そこから研究者の議論が本格化します。
多くの人の目に触れることで、土器に書かれたひらがなが、ある歌の一節だと気づいたり、手本にした文章を突き止めたりする可能性は高いはずです。
それらは、日本の文字の歴史をひもとくだけでなく、当時の貴族のくらしを描き出すことにもつながります。
そうした研究の積み重ねで、さらに多くの成果が得られることに期待したいと思います。