子どもが出来ない負い目から聖子は崇徳院を避けるんですね?
ひとりの男として、自分の妻からの安らぎも崇徳院にはないのか、という悲しさが大きかったです。
監督も、この場面は「崇徳の悲しみをふんだんに表現したい」ということで、照明も薄暗い中で撮りました。義清と心で会話する無言のお芝居になるようですが、演じるのは難しくないですか?
画面で見ると、御簾を隔てて2人は直接顔を合わせることができない…というように見えますね。
実は崇徳院からは外が明るいので、義清の様子が若干見えるんです。でも、義清からは全く見えないので、「何も言わないという演技」が向こうに伝わっていると思いました。顔が見えずとも通じ合っている仲ではあるはずなので、お互いにそういうお芝居になっていると思います。義清との深いつながりを感じましたが、「友情」が「愛情」に変わったということはないのですか?
愛情は…否定はしませんが、崇徳院も佐藤義清も歌を好み、その他にも「芸能」や「芸術」に造詣が深いので、やはり抱くのは同じ趣味を持つ深い「友情」だと思います。
しかも崇徳院はそれさえも楽しめるような状況でない中で、趣味を一緒に楽しめる相手がいるというのがどれだけ大きい事かと思います。心が枯れ果ててしまっている崇徳院が、唯一潤いを感じる時間なので、それが簡単に「愛」ということだけではないと思います。
もちろんそこに愛というものがあったとしても、愛だけでもかなりいろいろと複雑な感情があると思うんです。義清との関係は愛が重要ではない位、他の様々な要素で2人はつながっているのではないでしょうか。お互い心を許しあう友としての想いの方が僕は強いのではないかな…と思っています。