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Contents-目次-

未来派
平戸廉吉
神原泰
ダダイズム/アナキズム
辻潤
高橋新吉
吉行エイスケ――売恥醜文
萩原恭次郎
シュルレアリスム
モダニズム
春山行夫
北園克衛=橋本健吉
視覚詩-コンクリートポエトリー/ヴィジュアル・ポエトリー-



当ページは、西洋から発した未来派,DADA,シュルレアリスムの影響から始まった日本の前衛詩/実験詩にアウトラインを引いたうえで、視覚詩の海外動向にも目を向けている。中野嘉一「前衛詩運動史の研究 モダニズム詩の系譜」(沖積舎)四方章夫「前衛詩詩論」(思潮社)をとくに参考にした(この両書は存在を知ったとき本当に感動しました)。ページ制作動機は2つある。まず、現代詩とは何なのかという後世世代から見た正直なところのよく分からなさを解消するため散文詩に注目したが、そこから改め、現代詩以前の前衛詩に注目することが良いと考えた。次に、目につく詩という思想を抜きにした評価軸に(いわゆる頭では分かってはいながらも)寄る自分から脱するには、逆にときに過剰に視覚的である前衛詩/実験詩から背景にある思想を確認していくことが良いと考えた。つまり、思想を作品に見たいという遅れてきた残党のような気分を2009年末の今、抱えている。そして、この2点を総じて、大正〜戦後詩にある〈日本〉という過去を知ることは豊かだと考える(これら以前にあたる漢詩については齋藤希史「漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界」(NHKブックス)に感銘を受けた)。また、辻惟雄「日本美術の歴史」(東京大学出版会)でアニミズムとともに強調される あそび かざり に対し神津朝夫「千利休の「わび」とはなにか」(角川選書)にて示される わび さび を重視するのは、学生時代のときに読んだ椹木野衣「日本・現代・美術」(新潮社)が示すところの〈悪い場所〉という概念がいまだ心に深く根ざしているからに違いなく、ゆえに、ここではその根源の1つニヒリズムとは違う照射を実験する(大正ダダ以後の)詩人たちの軌跡を追いたい。追従ではなく、例えば辻潤にも魅力を感じる僕が、その日本を舞台にした両側の遺産を知ること。精神のあり方の開拓をエメラルドに行いたい。

大正以前の詩壇

外山正一/矢田部良吉/井上哲次郎という学者たちによって書かれた「新体詩抄」(1882,明治15)にて〈西洋ノ風ニ模倣シテ一種新体ノ詩ヲ作リ出ス〉〈明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ〉と語られたその7年後、森鴎外らの訳詩集「於母影」から〈新体詩〉は始まる。やがて象徴詩、口語自由詩を経て、大正6年レストラン「ミカド」にて川路柳虹によって初めて詩壇/詩話会が組まれる。大正8-1919-年そこから「日本詩集」発行。大正10年に分裂、多くの詩壇が現れ、そして大正11年「散文が詩といへるか」論争に遡ること大正10年12月、平戸廉吉による「日本未来派宣言」が放たれ、さらに大正12年2月「ダダイスト新吉の詩」が刊行された。

川路柳虹(かわじ りゅうこう 1888-1959)
口語自由詩の詩人。1918年に曙光詩社をおこし同人「炬火-たいまつ-'1921」等を主宰。でその詩を読むことができる。1922年「未来派及び立体派とその詩歌」など美術評論家でもある。

link Wikipedia-現代詩
link 明治.大正.昭和初期 詩集目録  

 

平戸廉吉「合奏」――画像クリック先参照


未来派

マリネッティは〈自由語=言語の無秩序駆使法〉をもってアナキズム→ファシズムへと展開し、マヤコフスキーは自由語の克服をもってコミュニズムにいったが、平戸廉吉はニヒリズムをもって出発したため自由語を形式主義に捉え本来の思想的内容を抹殺した/そこでは未来派ではなくなっていると「前衛詩運動史の研究」では述べられている。そして、ニヒリズムからの出発がどう展開されるかについてはダダの項目を参照。
平戸廉吉(1893-1922)
川路柳虹の曙光詩社に入り「炬火」の同人となる。マリネッティが1909年に宣言し森鴎外が同年に翻訳した「未来派宣言」の影響を受ける。1921年チラシ「日本未来派宣言」を東京日比谷の街頭で撒布。萩原恭次郎、高橋新吉、神原泰らが支持。平戸廉吉の詩に関してはココで読める。以下、「日本未来派宣言」から2つ引用する。

〈神の専占物は凡て人間の腕に征服され、神の発動機は、今日、都会のモートルとなり、百万の人間性の活動に与かる。〉

〈街街街街街街街街――人人人人人人人人――病む〉

平戸廉吉はアナロジー(似たものをもって説明する技法)を信奉している。

link Wikipedia
神原泰(1898-1997)
詩人から絵画へ展開。平戸廉吉より早く未来派の詩を実験していた。
自動車の力動 〈後期立体派〉
鋭角、鋭角、鈍角
鈍角、鋭角、鋭角、鋭角、音
音の体積
運動の体積、光の欲望、光の感情
色、光、光、光、色、音
鋭角、鋭角、鋭角、円の一片

 
螺旋、波紋、衝動、神経的衝動
雑音の諧調
太陽に反逆する街道
白、黒、灰、紫
地を這い、地を這い、地を征服す
鋭角、鋭角、鋭角

1920年「第一回神原泰宣言書」発表。1922年、古賀春江/中川紀元らと絵の団体「アクション」結成。また、モダニズム詩誌「詩と詩論」に参加していたが「超現実主義の没落」を発表し離脱〈超現実主義が(……)「如何なる階級或は如何なる層」をも、その文化をも代弁しなかつた事は、看過されてはならない。(……)超現実主義者は徹頭徹尾個人である事を誇り、自らを一段と高い雲上に居ると考へる事によつて自らの階級をさへ自覚しようとしなかつた。かくて、彼等は自らが属する階級からさへも孤立した〉、そして「詩・現実」(1930 / 全5冊)を飯島正/北川冬彦らと創刊する。 

link Wikipedia  

 

「売恥醜文」にて告知されたが実現しなかったカフェー・ダダ




萩原恭次郎「死刑宣告」からの一遍





ダダイズム/アナキズム

ダダイズムが日本に最初に紹介されたのはおそらく黒岩涙香の創刊したゴシップ報道の先駆的新聞「万朝報 1892-1940」の文芸欄1920.8/15(大正9年)で、その記者、若月紫蘭と羊頭生の両氏によって批判的ながらも彼の地の時代考証を織り交ぜた冷静な文面となっている(羊頭生は紫蘭と同一人物? 若月紫蘭1879-1962は「人と芸術」創刊の他、「古浄瑠璃の新研究」、戯曲集「滅び行く家」などの著作を持つ国文学者/劇作家/演劇研究家)

この1923-24年にピークに達する大正ダダはドイツの思想家スチルネルの影響が濃いとのことで、東洋的ニヒリズムがダダイズムに目をつけたという印象を持つ。ニヒリズムをたとえて、現象的見方として〈一種の革命的な気分に感傷と頽廃をふくませ、その心にうっ積する虚無感に点火しながら、若い焦心の雰囲気の中を泳いだ〉とする一文は分かりやすい。〈ヨーロッパのダダイストの多くはマルキシズムにゆき〉日本においては〈多くのダダイストはマルキストの陣営に吸収され、ごく一部分がアナキズムやモダニズムに低迷して今日に及んでいる〉と「前衛詩運動史の研究」にあり、〈社会的不満を変革に結びつけ、アナキズム詩運動に発展させたのが「赤と黒」の出現であった〉と述べられている。

辻潤(1884-1944)
畑に家を建てるまでにある小伝をぜひ読んでほしい。日本的順応主義に抵抗するうえでのダダイストを名乗り、身をもって遂行した人物。アナーキスト大杉栄と繋がる伊藤野枝(婦人解放運動家)の前夫(辻まことを子に持つ)。ロンブローゾ「天才論」、デ・クインシイ「阿片溺愛者の手記(告白)」、スタンレイ・マッコウア「狂楽人日記(響影)」、オスカー・ワイルド「ド・ブロフォンデス(獄中記)」、ジョウジ・ムウア「一青年の告白」、マックス・シュティルナー(スチルネル)「唯一者とその所有(自我教)」等を翻訳する他、多くの雑文を記し、著書に昭和5年「絶望の書」などがあり、高橋新吉・林芙美子を世に送り出し、宮沢賢治を早くに評価し、また、吉行エイスケ・佐藤春夫・武者小路実篤・北原白秋・谷崎潤一郎・萩原朔太郎ら多くの文壇人に愛される。ニーチェいわくの超人に対し、低人(谷底に住む没落人のような意)という造語を作り、僕は現在の社会制度に於いて如何なる職業にもありつくことを好まない甚だアンチソシャルな人間なのだ。等、労働など社会人としての義務を拒み、酒と放蕩生活を続け、戦争による世俗の悪化を経て自室で餓死した。幸徳秋水「平民新聞」、中里介山著「大菩薩峠」、親鸞「歎異抄」等を愛読。雑文「だだをこねる」からも引用しとこう。〈まったくわれながらアイソのつきる野郎ではある。おまけに気じるしときているので念が入りすぎている。どうかんがえてみても乞食になるよりほかになるものがないからそれでまあやってるわけなんだが乞食も決して楽じゃないね。〉

>一九三二(昭和七)48歳
> 三月 精神に異状を呈し、天狗になって、羽根が生えた、といって屋根から
>飛びおりたり、街頭をどなり歩くようになり、青山脳病院の斎藤茂吉博士の診
>察を受け、幡ヶ谷の井村病院に入院す。
 への回想(辻潤「天狗になった頃の話」より)引用元ページ

〈こんど発病してからの自分のやった行為や、自分のまのあたり見たヴィジョンはかなり素晴らしいもので(と言うのは病人のウワゴトだと思っていただきたい)、自分が『天狗』になったり『役の行者』になったりしたらしいが、ハタ目にははなはだ滑稽に思われるかもしれんが、患者自身にとっては極めて深刻な体験で、『死線』を突破したようなかんじがしているのである。これはおなじような経験をもった人にだけわかることで、説明のしようもなく、なんとも言いようがないから、そのままにして置くが、自分では、生涯の中でこれほど異常な事柄に接したのは初めてで、この世ならざる『世界』にしばらく彷往したような気がして、醒めてからは、ちょうど『愚き物』が離れたように、『神かくし』に遇った子供のように、ウスボンヤリして今でもいるのだが、自分の見た『夢の世界』は、決して忘れられそうもないのである。所謂『現実』の世界というものが、それにくらべるとまるでみんなウソのような気さえしているのである。それを誇張したり、得意になって餞舌ったりしたら、自分はまた病院へ逆戻りしなければならないことになりそうだからやめておくが、『現実、現実』とさも確からしい顔をして、なんの疑いも狭まないような人達を、一度、みんな気狂いにしてみたいと考えている。そうしたら、その人たちは、今迄自分たちがひどく気が狂っていたのだ、という自覚に到達することでもあろう。〉

作家・武林無想庵(1880-1962)の弟=三島寛は精神科医で「辻潤―芸術と病理」の著者

link 青空文庫 辻潤のひびき Wikipedia
高橋新吉(1901-1987)
断言はダダイスト (冒頭より)
DADA一切を断言し否定する   
無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く
創造に湧く一切のものは実在するのである
るす
留守と言へ   
ここには誰も居らぬと言へ
五億年たつたら帰つて来る

1920年に小説「焔をかゝぐ」で「萬朝報(万朝報)」に入選したのちダダ紹介記事に衝撃を受けて詩人となる。有名な詩「皿」を収録する「ダダイスト新吉の詩 '1923;大正12;」は上の辻潤による編纂(のちに高橋新吉は辻潤にこういっている。〈君はあたかも外形によって内容までをソンタクする、無茶で浅薄で話にならん〉)。中原中也の「高橋新吉論」では〈高橋の芸術と生活とはアカデミシヤンの様子ぶつた芸術に対する又、平俗的幸福の生ぬくい生活に対する徹底的の反抗と挑戦とである〉と述べられている。1924年に小説「ダダ」刊行とともにダダを放棄し形而上詩人となる。〈私のそれまでに読んでいたニーチェとかスチルネルとか、ドストエフスキーとかダダとは異質の思念が、朧げながら感ぜられたのである。〉〈私は、ダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている。〉小説は他に「精神病者の多い町」がある。精神分裂病(統合失調症)に悩む。1928年以降仏教・禅への関心を高め1971年に英訳、禅ポエムの詩人との評価を得る。「禅と文学 1970」には「ダダ・シュルレアリスムとその遺産」「日本のダダ」「日本のダダイズム運動」が入っている他、1971年に「ダダと禅」を刊行。著書多数。
link もう一つの仏教学・禅学 高橋新吉と菅野青顔 人の感情のすれ違いのこと Wikipedia
遠地輝武(1901-1967)
ダダイズム→プロレタリアの詩人。詩集「夢と白骨との接吻 '1925」の他、評論も手掛ける。詩誌「赤と黒」の壺井繁治による小論あり。
link 
吉行エイスケ(1906-1940)
ダダイスト詩人→モダニズム作家。樹の森でその詩を読むことができる。岡山出身、「ダダイズム」創刊。辻潤/高橋新吉との交流があり、1924年に「賣恥醜文(売恥醜文)」(清沢清志との共同編集である信州のダダイズム雑誌、エログロナンセンス的、辻潤の詩が掲載されている)、1926年に「虚無思想研究」を創刊。若くして亡くなった。「或る夜のオナニ」などの詩がある。子に作家の吉行淳之介がいる。
鴉 (小説,冒頭より)
三平は宿屋の一室で昨夜湯桶から首だけ出してへらへら笑った薬品の臭のする芸者の手情的な感覚に耽思して一人ほくそえんでゐたとき赤ぶくれのした娘が突然あらはれた
すると宿屋の女豚がなよなよと廊下を這つていぢけた一蔑を流すと消えてしまつた

link Wikipedia
萩原恭次郎(1899-1938)
ダダイズムからアナキズムへ。最初期の抒情詩/農民詩という作風からダダへ移る際には平戸廉吉の存在を経ている。生前の詩集は「死刑宣告 1925」「断片 1931」の2作。1923年「赤と黒」創刊(壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎。のち林政雄、小野十三郎が参加。有島武郎の資金による)、高橋新吉の詩作を評価していた壺井繁治による編集「赤と黒」第一集には〈詩とは? 詩人とは我々過去の一切の概念を放棄して、大胆に断言する!(……)詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉に爆弾を投ずる黒き犯人である!〉という宣言がある(萩原恭次郎による編集は二集目以降でアナキズム傾向/社会性が強まっていく)。また、美術系統における日本ダダ先駆誌「MAVO -マヴォ- 1923-1925」に5号から参加している(柳瀬正夢、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の5人による。意識的構成主義だが自然主義特有の経験主義を含んでいる)。また1927年に岡本潤、小野十三郎、草野心平といったアナキスト系詩人らと「バリケード」を創刊(1929年から「前衛文学」と改題)。後期は農村生活の現実を経て民族主義へ向かう。

代表作「死刑宣告」はここでかなり読める(引用もそこから行う。ちなみに手元には長隆舎書店版;昭和46のものがあり旧字/縦書き)。序章から引用すると〈私は私の詩集に「野獣性なる人間的なる愛の詩集」と名づけたく思う程の、いわゆるデカダンを排斥する者である〉〈何者かを神聖化していねば、安心していられない群羊!(……)汝自身を定形によって住まわせねば安眠出来ぬ神経衰弱者!〉〈詩人は詩をつくり、詩人とは詩とは何ぞや?を完全に答えられねば何等かの権利を有しないと思うような心!(……)猿め!〉〈次行まで丁寧に運搬せしむ役を放棄せしめよ!各行各自に独立せしめよ!(……)また絶叫であらしめよ!〉〈しかして、われわれの美は平静とクラシックの美と宗教的整調と重厚と獣性と処女性とボロ布れと南京虫と貴婦人と自動車と入りまじってもまだ、私達の欲する美とはいわれない!〉〈われわれの詩は全部でない!一部である〉〈善悪の批判を超えて、あらゆる権力を越えて罪悪に至るまでの過程をふくむ、直行する意志である〉〈あらゆる奴隷よ去れ!汝自身のおこがましくも微弱なる良心までも!〉ひたすら詩を書きつけていたようだ。詩集例言には〈とにかく詩集としてみようと思ったのは、実に最近の気持である〉とある。

「死刑宣告」は萩原恭次郎ちょうど20代前半にあたる5年間の詩が収録されている。そして「死刑宣告」前半に感じられるのは下の「墓場だ 墓場だ」に見られるような厭世観であり、ダダのように一切を否定することが微動だにしないゼロを予感させるのではなく、むしろ動力となっている辺りに表現としてのアナーキーというかパンクというかそういうものを感じさせ、今のオタク言説からすれば中二病と言われかねず、いやこの感覚を密封し取りだせることに意義があるのだ、その感覚を忘れず肯定していくことにこそ意義があるのだ等、面倒臭い言葉の防波堤を作る必要に迫られる弱さもある。半ばに入ると「惡夢を嚙んでゐる自殺者」「孤獨は無我夢中に遁走する」とやたらカッコいいがあえてひっくり返せばナルシシズムに逃げ込んだかのようなタイトルが続く。が、後半になると、下の「日比谷」に見られるようにふっきれて個は確立し、文字は大小上下左右様々に回転し巨大な矢印のような記号が散らばり(無題)ときに視覚詩のごとくだ(露臺より初夏街上を見る)。仮に視覚要素を棚に上げたとしても下の「生活」のように作者の心情はもはや散文的なかたちでは現れない、成層圏を突破したかのような清々しさを予感させる。強い。

墓場だ 墓場だ 〈前半より〉
借金!
仕事をするのが嫌だ!
墓場のやうな萬年床の上で
寢そべって――――何をするのも嫌だ!

 
賃金を貰ふのは嫌だ!
要らないものを貰ふやうに嫌だ!
借金!
  金 金 金 金 金 金 金 金
資本主義の金だ!
借金をふやすのが一番好い!
生活 〈末尾より〉
踊れ!
漏電だ! 銅だ! 電流が切れた!
闇の闇だ! 破滅の破滅だ!
破片だ!
經濟だ! 組織だ! 終りだ!
生靈は天國へ飛んだ!

link アナキスト詩集 雪の下(『日比谷』論含む)
link 「コレクション・都市モダニズム詩誌」 監:和田博文 / ゆまに書房(2009.5)
link 「秋山清著作集第11巻 アナキズム文学史」ぱる出版(2006.12)


1924-1926 GE.GIMGIGAM.PRRR GIMGEM -ゲエ・ギムギガム・ブルルル・ギムゲム-(G・G・P・G)
野川孟/隆兄弟が創刊し、二号以降に橋本健吉(北園克衛)が編集した前衛詩誌。北園克衛はこれを日本初のネオダダイズム詩誌として(生理的/自然主義的な)これまでの辻潤/高橋新吉らによるダダと区別した(シュルレアリスムの影響はまだなく幾何学的芸術やヒュームと共鳴していた)。野川隆は〈叡智的自由は勝つ〉と謳う。掲載作品はどうやら橋本健吉が突出しているようだ。  

 





モダニズム

春山行夫(1902‐1994)
名古屋で高踏派/象徴主義詩誌「青騎士」(1922-24 / 通巻15号)を佐藤一英らと創刊(最終号は同人=井口薫花の追悼号)。第一詩集「月の出る街」を刊行した1924年に上京、1926年「日本近代象徴主義詩の終焉」によって佐藤一英と萩原朔太郎(感情詩派/自由口語詩派)の論争を批判。「青騎士」の名残を持った象徴主義詩誌「謝肉祭」(1924 / 全4号)を近藤東らと創刊。そして1928年に「詩と詩論」(1928-33 / 通巻14号)の創刊同人となり翌年から編集を受け持ちそれを引き継ぐ雑誌として「文学」(1932 / 全6号)創刊。「現代の芸術と批評叢書」シリーズを刊行し、1931年に「詩と研究」を発表。また、神原泰と論争(「反動的超現実主義者の没落批判――神原泰は何故没落せねばならぬか」'1930)。「詩法」「新領土」創刊。

ALBUM(白い少女)
白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女
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麦稈の籠 〈部分〉
百合の花は百合の花に百合の花の百合の花へ百合の花が百合の花の百合の花を百合の花は百合の花に百合の花で百合の花へ百合の花が百合の花の百合の花を百合の花は百合の花を見せることを普通の思考の思考を思考する思考の思考を思考する思考を思考する思考の思考で思考する思考の思考で思考することは純粋な菫色のインク壷から貴婦人が驚く夕暮の香気に白色の海洋の巨大な星の心臓の隅の気候を彩色する丘の首環を訪問する不幸なピアノの個人的な沈黙に震へる古典的な太陽の秘密に酔ふ梨の木の徐かな影の傾斜よりも狭い中庭の家禽の一枚の羽根を迂回する暴風の単純な語彙を理解せんとする白堊の百合の花は百合の花に百合の花で百合の花へ百合の花が百合の花の百合の花を百合の花は百合の花に百合の花で百合の花へ百合の花が百合の花を見せる思考である。

link 名古屋の詩人達(四季・コギト・詩集)
西脇順三郎
「……美のための芸術という考えは宝石に加工することであるにすぎない。また炭をダイヤモンドにするという意味にすぎない。僕の求める文学は炭でもダイヤモンドでもない。だが炭を透明な光線にあてることである。アリストテレスの文学論としては炭の真似をすることがポエジーであると考えるし、美のための文学論者は炭をダイヤモンドにすることを考えている。僕の求める文学は透明な光線をつくることである。文学をつくるということは光線にあたる思考をつくることであると思った。」
北園克衛=橋本健吉(1902-1978)
モダニズム詩人、デザイナー、図書館員。三重出身。兄に彫刻家の橋本平八。機関誌「VOU」主催(全160号,1935-)。詩誌「マヴォ」「GE.GIMGIGAM.PRRR GIMGEM」「ネオ・ドナチ・コメット 1926 ※演劇中心の雑誌、宇川慶一郎らによる」「薔薇・魔術・学説 1927」に関わる(のちにダダ関係を回想し〈殆ど技術上の悪夢にすぎなかった〉〈芸術は発狂のシステムではない〉と述べている)。バウハウスからの影響がある。1950年代、室内で日常品を造型的にセッティングし撮影する「プラスティック・ポエム」を編みだす。
link 北園克衛文庫
link 北園克衛.com
link Wikipedia
link 詩と詩論  

 




視覚詩-コンクリート/ヴィジュアル・ポエトリー

新国誠一
高橋昭八郎
ペ/ージ論
link   

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