キモい男、ウザい女。 / 二村ヒトシ
プロフィール
アダルトビデオ監督。1964年六本木生まれ。慶應義塾幼稚舎卒で慶應大学文学部中退。Dogmaからリリースした『美しい痴女の接吻とセックス』『ふたなりレズビアン』『妹に犯されたい』『集団痴女』『すべての女性があなたより背が高い世界』『マ○コがマ○コに恋をする理由(わけ)』各シリーズで、画期的なエロ演出を数多く創案。現在は、MotheRs(痴女専門)・美少年出版社(女装っ子専門)・LADY×LADY(レズ専門)・欲望解放(本人のセックス専門)の4つのAVレーベルを主宰・経営するほか、ベイビー・エンターテイメント、ソフト・オン・デマンド、エスワン、ムーディーズ等からも監督作品を発売。また今年よりソフト・オン・デマンド制作部門であるSODクリエイト社の顧問(若手監督への「エロとは何か」指導を担当)にも就任。
著書に『恋とセックスで幸せになる秘密』(イースト・プレス)。
『すべてはモテるためである』(イースト・プレス/文庫ぎんが堂)も12月1日に新装改訂版が発売。
公式サイト:nimurahitoshi.net
twitter:@nimurahitoshi / @love_sex_bot
第8回 消費と浪費と恋と愛【哲学者とAV監督の対話 ⑤】
恋愛, 二村ヒトシ, 性, 國分功一郎
「消費」と「浪費」の違いについて、考えてみたことはありますか?
國分 二村さんが書かれている「ナルシシズムに陥らずに【自己肯定】を目指すことが、幸せに生きる方法だ」というのは、まったく、その通りだと思います。でも【自分を肯定する】って、ほんとうに難しいことですよね。心にあいた穴が《その人の悪いところ、あるいは弱点》であると同時に《いいところ、あるいは魅力》でもあることは、なかなか自覚できない。
二村 自分の弱点を理解しながら、こだわりながら、それを善用して生きていくためには、時間も経験も《学び》も必要だし、なによりも自分自身と向かいあわないといけない。この対談の第一回で『ジョジョ』の話をしましたが、言ってみれば【自己肯定】って「自分のスタンドを使いこなせるようになる」ってことですから(笑)。
國分 僕は《自分の判断の基準》が、ずっと「ふらふらしてる」と感じていました。生き方というものを教わっていないからです。それは僕の弱点なんだけど、でも逆にそれが僕の《馬力》になって、じゃあ「方法」ってどういうことなんだろう、「正しい/正しくない」の基準はどうやって決めることができるんだろうって猛烈に考えたりしたんですよね。それで「哲学を仕事にしよう」と思えた。だから僕は、ある意味、恵まれていたんだと思うんです。
二村 國分さんはご著書『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)のなかで【浪費と消費】という話をなさっています。対談もそろそろ終わりに近づいたので、この國分さんのお考えと、僕の言う【恋愛における自己肯定】の話を、結びつけてみたいんですが。
普通だと《浪費》は悪いこと、《消費》は良いことだとまでは言わなくても「人間が生きていく上で、せざるをえないこと」だと認識されてると思うんですが、國分さんの倫理学では逆なんですよね。
國分 ボードリヤールという社会学者・哲学者が「浪費と消費」についておもしろいことを言いました。彼は《浪費》を「必要を超えて《もの》を受け取ること、吸収すること」と定義している。たとえば自分が生きていくためには必要ないかもしれない豪華な食事を食べたり、高価な洋服を着る。結果、浪費は人に満足をもたらします。ものを受け取ること、吸収することには限界があるからです。
二村 胃袋の限界を超えて食べ続けることはできないし、一度にたくさんの服を着ることはできない。だから浪費は「どこかでストップする」。むしろ一般の「むだづかい」というイメージと逆ですね。
國分 でも、一方の《消費》には「限界がない」。なぜなら現代において消費の対象は《もの》ではないんですよ。人は消費をするときに、物に付随する意味や、情報を消費している。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であるとも言っています。ちょっと難しく言うと、消費されるためには、物は記号にならなければならないんです。
二村 《記号》という言葉が出てくると、話を僕の専門の《セックス》とも結びつけたくなるんですけど。人は記号的なもの(巨乳とか女子高生とか)に発情する場合と、信号(「あなたが好き」「あなたとセックスしたい」というシグナル)に発情する場合とがある。前者の方が《男性的な欲望》だとされていますが、女性だって記号(メガネ男子とか)に興奮する場合もあります。そして、たしかに「記号を消費すること」には量的限界がないな……。
國分 一方、自覚的に《浪費》して「贅沢を楽しむ」には、その《もの》を《味わう》ための訓練や、学びが必要なんです。
二村 バブルのころは浪費こそが「自分は金持ちだ」という記号でしたが、いまや消費は「生きるため」ではなく「なんとなく、みんながしているから」しちゃっている行為なんですね……。広告で《記号》や《情報》を売って、消費のシステムを作って「世の中を豊かにする」のが経済社会が発達していく過程だったんでしょうが、現代のコンビニやファストフードでの売れ残り廃棄などの話を聞くと、かえって贅沢を楽しむことの方が「物を大切にしている」かんじがします。
國分 そして、人間は《消費すること》に追い立てられていると、「暇」がなくなって、いそがしく暮らしているのに「退屈」してくるんです。毎日同じことをしていると、なんだか「これは自分じゃない」というような気がしてくる。だが、暇があれば人間は《考える》ことができるし、時間をかけて《浪費を楽しむ》ことができる。
二村 國分さんのご著書を読んで、僕は「資本主義社会における《消費》は、恋愛至上主義における《恋》と同じなんじゃないか」と思ったんです。
誰もが恋というものは「したほうが良いこと、すると幸せになれる、できない人は人間として間違ってる」と思いこまされている。そう思いこませているのは《広告》であり《物語》です。『恋とセックスで幸せになる秘密』(イースト・プレス)にも詳しく書きましたが、僕は「恋というのは他人の存在を使って、自分の【心の穴】を埋めようとする行為」だと思います。
なぜそれが國分さんの言う《消費》と同じかというと「きりがない」からです。
國分 女性にも「女同士だと恋愛の話ばっかりしていて嫌だ」と言う人も中にはいますが、やはり大多数の女性の間では恋バナというか「私はいまこの人が好きなの」「ときめいているの」というネタを持っていないとダメだという不文律があるらしいですね。それは、まずひとつ、メディアから情報を提供されて「恋をしなきゃ……」と煽られているからでしょうね。
二村 「人間は恋をするものだ」という若い世代の常識が、ほとんどの女性と、多くの非モテの男性とを圧迫しているのは間違いありません。その常識でトクをしているのは、ヤリチンの男性だけです。
女性誌に書いてある「恋する女は美しい」とか「こういう男は、こうオトせ」みたいな記事は、あれは全部《消費をうながす広告》だと思うんですが、その一方で「どういうふうに人を愛することが、あなたを幸せにするのか」を一人一人が考える方法を、誰も教えてくれません。
クリスマスって、本来は「あらかじめ自分の存在が肯定されていること」を実感する日なんです
國分 よく僕は、大学の授業でも「感情の《あらわし方》は、学ばないと身につかない」と言うんです。キレる人というのは「怒り方」を正しく学んでいないので、溜まっていく怒りの出し方がわからなくて、突然暴れだしたりしてしまうわけで。
それと同様で「愛する」とか「恋する」っていう感情も、学ばなければならない《仕方》なんです。二村さんのおっしゃる通り、人間は生まれ育っていく過程で、かならず「親との葛藤」で【心の穴】をあけられる。
二村 その【心の穴】を埋めようとして、人は他人を求めて、恋をしてしまう。
國分 もしも人間に【心の穴】がなかったら、なにかを欲することもなく、おたがいに惹かれあうこともないロボットのような存在でしょうね。考えてみれば《共同体》や《社会》の起源も【心の穴】なのかもしれません。
《社会の作り方》をみんなで考えなければならないように、それぞれの人にふさわしい《恋し方》や《愛し方》があるはずなんですが、それを「どう考えればいいのか」学ぶ場所も暇もないんですよ。そして自分の【心の穴】に気づかず「だって、恋って、しちゃうものでしょう」と開き直ってしまう。
二村 女性誌の恋愛論は「恋をすること」や「女であろうとすること」を勧めますが、女性たちが「それは自分たちに服や化粧品を売り、デートや旅行をさせるための、一種の広告なんだ」ってことをわかった上で、情報に踊らされるんじゃなくて、自分にとっての《いい恋愛》《贅沢な恋愛》ができる相手との関係を楽しめるんならいいんだけど。現代の女性の多くは《浪費》じゃなくて《消費》として恋をさせられていて、恋は「みんながするものだ」「するのが自然なことだ」「好きになっちゃったんだから、しかたがない」と思っているから、ヤリチンにひっかかったりして苦しくなるんじゃないかと。
國分 《消費》と《恋》が同じだと指摘されたということは、二村さんが《浪費》に対応させたいのは、もしかしたら……。
二村 はい。僕は『恋とセックスで幸せになる秘密』で、《恋すること》と《愛すること》は、まったく逆のことだと書きました。他者を求めて「欲しがる」ことが《恋》で、自分自身に恋することがナルシシズムです。「より良い自分になろうとすること」も。
そして他者を《愛する》ことは、その人を「ただ肯定すること」です。自分の【心の穴】をちゃんと見つめて、寂しさを埋めるための恋をせず「いまの自分をそのまま愛すること」ができたら、それが自己肯定です。
対象となる《もの》を、ちゃんと愛していないと「贅沢な浪費」ができないように、相手と自分を吟味して肯定していないと《いい恋愛》はできない。
人々が、つい《消費》に走って暇を失って退屈してしまうのは、自己肯定しにくい社会だから、みんながそれぞれ「自分の仕方」を得ていないからだと思います。自分の人生を愛する気持ちがないと《浪費》なんてできない、「自己肯定しよう」という意志を持たないと、國分さんのおっしゃる《浪費》も、他人と自分を愛することも、できないんじゃないでしょうか。
國分 まったくその通りだと思います。でも、愛する仕方を学ぶというのは難しいですね。ただ、《浪費》を《消費》から区別しておくこと、《愛》を《恋》から区別しておくことは大切ですね。
二村 ちょっと話が飛躍しますが、たとえば、クリスマスという行事がありますよね。毎年来るもので、今年も来ますけど(笑)。「クリスマスこそ消費社会の演出であり広告であり、みんな踊らされているんだ」なんてことは近年言われるようになってきましたが。
それにしても、なぜ「恋人がいない人」が、街を彩るクリスマスのイルミネーションを見て、寂しい気持ちにならなければならないんでしょう? おかしな話ですよ。その一点だけでも「消費を煽る社会は、おかしい」です。
僕はキリスト教徒じゃないですから正確には理解してないかもしれませんが、キリストが生まれたということは「神の愛」を表現している、クリスマスの期間は、すべての人が(恋人がいない人も)あらかじめ神様からは存在を肯定されているのだ、ということを思い出す季節であるべきですよね?
むしろクリスマスこそ「いまは恋人がいなくても、自分は神から愛されてる(生きている)んだから大丈夫」と思っても、いいんじゃないでしょうか。そのことを思うために、夜のイルミネーションは神々しくて美しいんじゃないでしょうか。
なんて、僕が一人で言ってても、クリスマスに寂しくなる人は、寂しくなっちゃうとは思うんですが。
國分 恋人と美味しい食事を食べて、ホテルに行ってセックスするなんて、クリスマスと何の関係もありません! まったくおかしな話なんですよ! クリスマスというのは、すべての人が神様から肯定されていると感じるためのものというのは全くもって仰る通りです。僕も信仰はもってないんですけど、自分を肯定するということは、もしかしたら自分は神によって肯定されていると感じることと近いかもしれませんね。クリスマスはむしろ自分のことを考えるきっかけにしたいですね。
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)など。
Twitterアカウント:@lethal_notion