ホーム > アンチエイジングについて

アンチエイジングについて

私は、医者になって今年の1月で27年、形成外科医として23年、横浜FCクリニックを開業して10年1ヶ月になります(2010年1月現在)。

今の時点での自分の考えを書きます。

これは非常に長いので、興味の無い方はスルーしてください。

この内容は将来修正していくかもしれません。

少なくとも表現等の若干の訂正及び加筆はしていくと思います。 (初稿 08/6/14-最新改訂 10/1/25)



ここでは、美容医療からみたアンチエイジングについて述べたいと思います。


美容とアンチエイジング




近年では、アンチエイジングというフレーズが一般的にも普及しています。私も使用していますから、当たり前ですね。

美容に対する悩みは、十代くらいから幅広い年齢層でみられます。 自分の美に対する悩みには、加齢からくる悩みもあります。たとえ若い頃に自慢の二重だった方でも、年齢と共に二重の幅が狭くなってくるのです。何とかしたいという気持ちが強くなる方も、多いことでしょう。

これから先を読めばおわかりになりますが、私は、「アンチエイジング」というフレーズ自体には抵抗があります。

ここでは、アンチ+エイジングという「抗老化」という概念ではなく、「自分なりのエイジングにたいする向き合い方」 について書いています。

アンチエイジングというと若い方には無縁と思われるかもしれませんが、私は根本的な悩みは同じ方向であると思っています。

ですので、若い方はいわゆるアンチエイジングを「その時に自分が理想と考えている美に近づこうとする試み」に置き換えても良いと思います。

つまり、自分の心が思っている「美」から自分の顔が離れていると感じた場合の考え方とも言えます。





アンチエイジングに対する疑問




そもそも、アンチエイジングの「アンチ」は、抵抗や反抗など、「~でない」や、「反対の~」という意味です。また、アンチエイジングの「エイジング」の意味は、加齢など、歳をとることや時間経過に伴って衰退する過程を指しています。

ということは、アンチエイジングとは「加齢に抵抗する」という意味を持ち、抗老化とも呼ばれ、老化を防止することとして若返りの意味にもなります。

その若返りを目的とした医療や美容、整形などは、「アンチエイジング医療」や「抗老化医療」といわれています。

そう書いてあります。

「そう書いてあります」と書いたのは、この「アンチエイジング」という言葉が普及しており、広く一般的に認知されている言葉だということを意味します。

だから、私もこのホームページでも見出しとして使用しているように、皆様とのコミュニケーションの目的では使用していますが、個人的には「アンチエイジング」という言葉自体に実は「抵抗」があるのです。

言い換えれば、「本当に「若返り」は可能なのか?」ということを考えているのです。



一般的に世間で行われていることは、その年齢における健康を増進していること、年齢よりはしわが少ないなどの肌質改善、年齢に比較しての体力増進であり、あくまでも「若かった頃の再現」です。

実際に細胞が若返っているわけではありません!



免疫学では、「抗体」と「抗原」という言葉があります。この「抗体」は、英語では「アンチボディ」と言います。まさに直訳ですね。

交代は、抗原という人体に影響を与える物質に結合してその効果を無くします。いわば中和することでその効果をプラマイゼロ、チャラにする物質です。

ですので、この「抗体」の「抗」は意味があるのです。「対抗」するべき対象物が存在するからです。



所で、一方の「アンチ・エイジング」の場合は同じ意味なのでしょうか。

そもそも、対抗すべき対象である「加齢」は、実際に対抗できるものでしょうか?

勝てるものでしょうか?



私は、現実的には「加齢は不可避なこと」と認識しています。

以上の理由から、「アンチエイジング」という言葉自体には抵抗を感じていいるのです。


でも以上の問題は、私の横浜FCクリニックでの診療内容にはまったく影響ありませんので、ご心配は不要です。

施術は施術としてちゃんと行っておりますから、ご安心ください。



ただ、この話はさらに先があるのです。結論から言いますと、実は私の中ではこの問題はすでに解決しているのです。


アンチエイジングでないとすると?





アンチ以外にアンチエイジングと類する内容を意味する適切な言葉はないのでしょうか。

話は変わりますが、私が大学を卒業してすぐに入った医局は川崎医科大学 附属川崎病院 整形外科でした。

もう25年以上も前のことになりますが、その頃すでに「キー・ワード」があったのです。

その整形外科は街中の総合病院で、整形外科の中で専門ごとに別れて診療をしていました。そして、部長先生は病院長も兼任されていましたが、専門的には「外傷」を担当されていました。整形外科領域で外傷を扱うということは、骨折を扱うことになります。

その部長先生が骨折を整復してギプス固定をしたあと、レントゲンで確認する時に良く使う言葉がありました。

「よし、これでアクセプトしよう」です。



このアクセプト(accept)ですが、意味は受け(入れ)る, 受け取る,受諾する, 応じる,容認する、という意味です。

先生の技術は素晴らしかったので、治療結果は勿論良いのですが、言葉の意味からいうとすべてを受け入れるということになります。

先生は「この状態、結果で治療を進めていこう」という意味で言われていたのだと思いますが、このアクセプトという単語は、「アンチ」の代わりとして私のイメージにピッタリ来るのです。



という訳で、アクセプトの形容詞であるアクセプタブル(acceptable)が候補になりました、というか「これしかない!」という感じです。

これで私の中でのエイジングに対するフレーズが出来上がりました。



「アクセプタブル・エイジング」です。

直訳すれば「容認する加齢」です。



ちなみに「適切な」という意味では、他にもスイータブル(suitable)という形容詞があります。

意味は「適当な、好都合な 、似合う」です。ただ、suitという名詞には、「都合が良い、適合する」という意味のほかに名詞では「訴訟、告訴」という意味があるので、ちょっとひきました。なんかいやですね。

他にも、フィット(fit)という単語があります。これは、「適当[至当]な、適した、適任の、健康な」という意味があるので良いと思うのです。

ただ、「フィット・エイジング」では、私としては発音がなんとなくしっくりしない(フィットしていない?)という気がします。



ということで、私の中では「アンチエイジング」に代わる言葉は「アクセプタブル・エイジング」に独断的に決定しました。

このアクセプタブル・エイジングの意味は次回に書きますが、大事なことですので先にちょっと言っておくと、

単に「そのままがいい」とか、「諦めろ」という意味ではありませんよ!




アクセプタブル・エイジングって何?




アクセプタブル・エイジングとは、今までに書いていますように、私の造語です。

私の中にあるイメージを書きます。



1 まず結論から書きますが、自分の「老い」を楽しむことです。少なくとも今の自分を否定したり、逃避してはいけないと思います。そんな戸籍年齢にはこだわらないことです。



今の自分をまずは認めること。ここからスタートします。その結果、今の自分に満足するも良し、気になるところがあれば治そうとするも良し、そのままを容認するも良し、変わりたいと思う自分も容認するのです。

仏教では「心身一如」という言葉がありますが、まずは「身」を認めるのです。そしてそれに対応する「心」の動きも認めるのです。そうしてバランスの取れた「心身」にするのです。



3 だから、世間一般で言われる「いわゆるアンチ・エイジング」も肯定しています。美容手術もケミカルピーリングもシミのレーザー治療も肯定しています。「治したい」という心の願望も認め、応援するのです。ですから、「このシワを取りたい」というご希望も「このシミを取りたい」というご希望もOKです。また、「私は今のままでいいです」という方がおられても結構なのです。その時のご自身の体と気持ちを大切にしてください。



4 しかし、あくまでも「アンチ」ではありません。加齢に対抗するわけでも、戦うわけでもないし、そもそも勝てるものではないのです。太陽が東から昇り西に沈むのを止められないように、「加齢」自体は不可避なことであると認識することが大切です。



5 高齢になってきますと、「老い」の向こう「死」を漠然と感じたり、恐れたりすることも、アンチ・エイジングに拍車をかけているのかもしれません。



6 「不老不死」を追い求めることは「現代の錬金術」と同じであると思います。少なくとも、今の医療ではまだ完成されていません。しかし、この人生を意味のあるものとするために、肉体を管理することや心を見つめることは意義のあることだと思います。



言い換えれば「不老不死」ではなく「満老満死」です。

また、造語を勝手に作ってしまいました。

これは「満ち足りた老」であり、「満ち足りた死」です。これは充実した人生をおくり、しっかりと生きた後、この人生に納得して死を迎えることです。

勿論、「満ち足りた死」なんて机上の空論かもしれません。実際にはジタバタするでしょうけど 、私の理想の死に方として、最後にこの人生を肯定して死にたいという思いがあります。



7 「北風と太陽」という童話がありますが、この童話での北風と太陽の立場から言えば、アンチ・エイジングは力ずくでコートを脱がそうとした北風でしょうか。一方、アクセプタブル・エイジングは無理矢理という考えではなく、本人が納得の上でコートを脱ぐようにさせた太陽的発想になります。



8 アクセプタブル・エイジングは、「今の自分」を認めた上で、さらに磨きをかけていこうという考え方です。



9 現実的に顔のシワ治療をされたい方も、「加齢」を精神面から考えようとする方も、すべて心の反応であると認識し、肯定します。極端に言えば、それぞれの方の「脳の反応」なのです。



以上、徒然なるままに書きましたが、もう少し詳しく説明していきます。


まず今の自分を認めることがスタートです



アクセプタブル・エイジングはまずは自分の「加齢」を容認することです。

少なくとも否定したり、逃避してはいけないのです。できれば楽しむくらいの境地である方がいいと思います。

しかし、そんなことを言うと、「年を取ることを楽しめるわけがないじゃないの!」という声が聞こえてきます。

そもそも何故アンチ・エイジングを望みたくなるのでしょうか?

「綺麗でいたい、若さを維持したい」、「体力を維持もしくは増進したい」という欲望も理由の一つでしょう。

他には、現時点で結構ご自身の「美」に自信、満足感がある方もおられるでしょう。その方たちの場合は、「今の優越感やプライド、自己満足感を維持したい」をいう気持ちもあると思います。しかしその結果、際限なく続く欲求から「あせり」などを感じて、その状況に対抗しようとします。そして、さらなる焦りを生じます。

これらの状況の根源はなんでしょうか。私は、そのキーワードは「何かと比べる」だと思います。

何と比べているかというと、「昔の自分」であったり「今、自分の周りにいる自分より若い人たち」であったりするのです。

「比べる」ことは「基準を作る」ということになります。その基準から判断しているのです。

でも、その基準って絶対的な、普遍的なものでしょうか?

「昔の自分」といってもいつごろの自分を基準にされるのかで違ってくるでしょう。また、周りの人と比べる場合も、その周りの人たちの年齢層が違えば、当然比較した結果も違ってきます。

そして一番大事なポイントになることは、その「判断」自体を、その人自身が行うということです。ですから、これも人によって違ってくるのです。

私の外来にも、顔のシワを治したいという希望で来られる方もたくさんおられますが、皆さんそれぞれ治したいといわれる部分が違っています。

額のシワを気にされる方もおられれば、いわゆる法令線を気にされていたり、目じりのシワであったりします。

今度は「それぞれ顔が違うのだから当たり前じゃないの!」と言われるかもしれませんね。

だとしたら、「比べること」はどうなのでしょうか。やっぱり無理があるとは思いませんか?

自分自身も時間と共に変わっていく存在なのです。と、同時に周りの他人とも考え方が違うのです。

そうだとしたら、客観的に比べることができる基準はどこにもないとは思えませんか?

結局「比べる」ことは、「今の自分」を否定していることと同じなのです。



「比べてはいけないのだったら、今のままでいいんじゃないの?治そうとする事もいけないのじゃないの?」 という方もおられるでしょう。

確かに、「人間はあるがままでよい」という考え方があります。

書店で、宗教や思想に関する書籍をおいてあるところには、 そのような考え方について書かれている本がたくさんあります。私も何冊か読んだことがあります。

それで私も悩んだことがあります。「あるがままでよい」という考え方からいうと、私が行っている形成外科、美容外科の領域の治療は間違っていることにはならないか?という疑問です。

これについては、次項にしましょう。


「あるがまま」と美容治療の折り合い





「あるがままでいいんだよ」という考え方ですが、私は、これは基本的に「今、悩みなどを持っていて不安な気持ちが強い人」にとっての一種の治療薬のような言葉と思います。

たとえば、他人と自分を比べることで強い劣等感を持っている人 や自信をなくしている人は、幻であるにもかかわらず自分が作ってしまった基準より自分を下に置いています。

そういう人に対して、「比べることはないんだよ。自分は自分でこの世に一人しかいないかけがえのない存在なんだ。そのままの自分に自信を持ってください。 」というメッセージをこめての言葉と思います。

「比べる」という呪縛を解いているのです。

いわば病気の人に治療薬を投与するようなことです。そう理解することで、気持ちが楽になる人への薬です。



一方で、すでに日ごろから「あるがまま」 に生きられている方は、おそらくこのような悩みは持たないはずです。

ですので、そのような方には「あるがまま」というメッセージは不要なのです。

ちょうど健康な人に薬が必要でないのと同じです。

ですので、「あるがまま~」は、万人向けのメッセージではないと思います。



それから、この「あるがまま」とはどこまでの範囲をさしているのでしょうか。

実は、この解釈が美容との折り合いをつけることになるのです。

私は、「あるがまま」とは身体のみのことをさしているのではなく、その身体に共に存在する「心」もさしていると考えます。つまり「あるがままの心でいいんだよ」ということです。

ですから、もしも今の自分の身体について悩むことがあってそれを治したいと思うのなら、その心に起きたその思いもあるがままでよいと考えるのです。

ということは、もしもシワを治したいと思う人はそうすれば良いし、頬のたるみの治療をしたい という方は、ご自身の方針に合った手段を選べばよいのだと思います。

つまり、「あるがまま」という考え方も美容的な治療を受けたいという気持ちも共存できるということになります。



今の自分に満足するもいいし、気になるところがあれば治そうとするもいいのです。そのままを容認することも、変わりたいと思う自分も容認することです。

私は、「年なんだから仕方ないのだ」とか「年なんだから諦めろ」と言っているわけではありません。

また、「(外見上も)そのままでいいんだよ」と言いたいわけでもありません。

「今の自分を変えたい」という気持ちが起こるようであれば、その気持ちも容認しますし、「今のままでいい」と考えるなら、それでいいと言っているのです。

なんでもありです。

ただ、大事なことはその気持ちが「諦め」の気持ちからくるものであったり、現実を逃避または否定している状況ではいけないということです。

納得の上で「今のままでいい」と思う場合はそれでよいのですが、もしも現状に満足しているわけではないのなら、対応策を考えた上で、その時点で再び現状を維持するのか何かを試みるのかという判断をしてほしいのです。

だから、その方にとって必要があれば「いわゆるアンチ・エイジング」も肯定しているのです。いかなる手段を選ぼうとも、その運命を背負えばよいのです。

その運命を背負うというとなんだか大変そうですが 、そういう意識を持つだけで違うと思うのです。これは私も以前、横浜FCクリニックのブログにある日記に書いたことがあります。

現実的に、私もいわゆるアンチ・エイジングとしての施術を行っております。そのことを否定する気はありません。むしろ、「現状を何とかしたい、改善させたい」という気持ちを尊重したいのです。


人生を「学び」と表現すると、「どの手段を選んでも、それぞれにおける学びがある」ということになります。


今の自分を容認(アクセプト)して人生(エイジング)を過ごそう




「アクセプタブル・エイジング」は、今の自分を認めた上で、さらに磨きをかけていこうという考え方です。

そして、物質的・現実的思考を重視した方にとっても、精神面を重視した思想に重きを置かれている方にとっても、共存できる考え方なのです。

「心に起こった思い」を元にしてこれからのアクションを開始するのですから、単に選択肢が違うだけです。

それぞれが立派な一手なのです。

だから、言い換えればこの人生で「自分で納得した一手」を打って欲しいということです。

ただ、何をするのもありといいましたが、「周りがするから自分もする」ではなく、「自分にとっては~だから~したい」という考え方を持つことは必要ではないでしょうか。

自分の心で決めたこと」を優先してください。 ただし、自分と他人に危害を加えることは駄目です。人間はただでさえ大なり小なり周りに迷惑をかけているのですから。

これを、私は横浜FCクリニック・ブログ日記で「背負う」こととも表現しました。



今の社会では多くの誘惑するものが出現し、次から次へとめまぐるしく移り変わっていきます。

ですから、自分で「今何をすべきなのか」「自分は何がしたいのか」を見極めていかないと、自分の生き方がわからなくなります。

どうしても周りを見てしまうし気になってきます。その結果「比べてしまう」という魔の回路に入ってしまいます。

「比べる」人生で一番楽な生き方は、「回りを見ながら、なんとなく流れに乗っていよう」という生き方です。そういう人生も、それなりに「一つの人生」ですから、否定はしません。

死ぬ時に「この人生でよかった」と思えるのでしたら、それでいいです。



ですが、もしも自分の生き方を変えたいと思われる方は、定期的には自分の生き様を見直すことが必要なのではないかと思います。

「これでいいの?」「他にやるべきことはないか?」という気持ちです。

自分の生き方を決めるための材料として周りを見つめることは、有意義なことだと思います。



そして、自分の次の一手を納得して、容認して(アクセプトして)打つ歳の取り方(エイジング)をしていれば、いつの間にか時間は経っています。

それでよいのではないかと思います。

楽しいひと時って、時間の経つのが早いですね。

それと同じに考えてください。

アクセプタブル・エイジングのその先




私は、「加齢」の向こうにある「死」への恐れも、アンチ・エイジングに気持ちが走ることに拍車をかけているのかもしれないと思っています。

現実的には、認知症になることへの不安や、動けなくなることへの不安があると思います。

自分もつらいし、周りの者にも迷惑がかかるということで、不安だらけになります。



でも、これは実際にどうなるかはわかりません。

私も明日ポックリ死ぬかもしれないし、長生きできるかもしれません。でも長生きといっても、寝たきりになってしまうかもしれません。

家族やもし施設にいれば施設の人に、それなりの迷惑をかけることになるでしょうね。



ここに至っては、私も回答と呼べるものは持ち合わせておりませんが、考え方が一つはあります。



初期の仏教の経典に、「一夜賢者の偈」があります。

これは短いお経です。


一夜賢者の偈中部経典131



過ぎ去れるを追うことなかれ

未だ来たらざるを願うことなかれ

過去 そはすでに捨てられたり

未来 そはいまだいたらざるなり



されば現在するところのものを

それがあるところにおいてよく観察すべし

揺らぐことなく 動ずることなく

そを見極め そを実戦すべし

ただ今日まさになすべきことをなせ



たれか明日死のあるを知らんや

誠にかの死の大軍と逢わずというのはあることなし

かくのごとく よく見極めたるものは

心をこめ昼夜怠ることなく実戦せん

かくのごときを一夜賢者といい

または心鎮まれるものとはいうなり




「一夜賢者」というのは、お釈迦様のように完全に悟りを開いたという人(賢者)は非常に少ないが、一晩くらいの短い時間であれば「悟り」に近づける人はいるだろうということで名づけられたそうです。

今風に言えば「プチ賢者」です。



私はこの偈が好きなのですが、何故この偈をここに書いたかといいますと、御覧のように「今」と「死」について両方とも書いてあるからです。



「たれか明日死のあるを知らんや   誠にかの死の大軍と逢わずというのはあることなし」と書いてありますように、「誰でも明日にでも死ぬかも知れないのだ。今までにも死ななかったという人はいないのだ」ということです。



確かに人間の死亡率は100%なのですよ。

でも、暗い気持ちにはならないでください。

これは単なる事実です。

一夜賢者は、昨日も未来も重視しません。

あるのは「今」だけであるという考えです。



この偈を私のなかで解釈すると、


今までのことにもこだわらず

未来のことにも心配せず、不安も持たず

今、目の前にあることをよく観て

楽しみながら、やるべきことをやろう

いつ死ぬかはわからないが

少なくとも死ぬまでは、何かを、やれることをやろう

ジタバタするしかできないなら、しっかりとジタバタしよう
それでOK


これが私のゴールですか、まだ今この心境には至っておりません。(^_^;)

今後、私の運命がどうなるかは、わかりません。
この考え方も変わるかも知れません。

でも、それまでは、こんな感じで生きたいと思っています。

なんだか、アクセプタブル・エイジングから臨終の場まで来ちゃいました。
いいんですかね。

まあ、人生や生き方を見つめながら診療を行う美容クリニックが一つくらいあってもいいでしょうか。

長い文章を読んでいただき、本当にありがとうございます。

m(_ _)m

横浜FCクリニック形成外科
お問い合わせ