為末さんがすばらしいツイートをしています。
「誰かのため」だけでは続かない
人が人に親切にしたり優しくしたり、NPOの活動等で実際に支えたりする時に、僕は無償の行為等無いと思っている。必ずそこに何かがあり、その何かが得られるからこそ行動する。全く理由も無いものに人は行動を起こさない。貢献も同じだと思う。
— 為末 大さん (@daijapan) 12月 22, 2012
僕自身3年ほどNPO支援をしており、仲間たちとテントセンという団体もやっていたりするのですが、これは「困っている人のため」というよりは、完全に「自分のため」にやっています。
NPO支援がどのように自分のためになっているかというと、
・社会的意義(やりがい)、自己肯定感を感じることができる
・人脈が広がる
・将来的なビジネスの種まきになる
・たくさんの人を助けることで、セーフティネットになる
というあたりになるでしょうか。完全にエゴです。「NPO支援なんて立派ですね」と言われますが、まったく立派なつもりはありません。実益を兼ねた趣味みたいなものですね。
そもそも「誰かのため」にやる無償の活動って、長続きするわけがありません。僕もそういうモチベーションで動こうと思ったことが何度かありますが、せいぜいもって1週間です。大金でも貰えれば別なんでしょうけど。
だから親切も優しさも、相手の反応に期待し過ぎてやるとやればやるほど苦しくなる。あくまで自分がやりたいからやっているというスタンスに立てるかどうか。返してもらう為に貸す人もいる。親切には感謝すべきだと信じて親切を押し付ける人もいる。
— 為末 大さん (@daijapan) 12月 23, 2012
為末さんがいうように、「誰かのため」にやることは、かえって自分を苦しくします。相手からの期待した反応がないと、貢献をした相手が「恩知らず」に見えてきてしまうものです。恩知らずは自分がつくりだすものです。恩なんて送るもんじゃありませんね。
僕が大好きな中島義道氏の言葉を思い出します。自分のエゴであることを無意識的に隠し、「あなたのために無償で貢献する私」でいようとする、ずる賢い人たちも世の中には大勢います。
「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」
ああ、この言葉はとりわけ虫酸が走るほど嫌いです。それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいるとかんちがいしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかも狡いからです。
どんな行動を取るにせよ、100%「誰かのため」なんてありえないと自覚すべきです。自分が「誰かのため」に何かをしていると感じたら、それは全力で疑って掛かるべきです。
凝ったクリスマスプレゼントを用意するのも「愛する彼女のため」ではなく、「自分のため」です。「愛する彼女のため」という言葉の裏には、「聖夜にいちゃいちゃしたい」という、どうしようもなく人間的なエゴが隠れているはずですからね。
ドメスティック・バイオレンスなんかも構造は同じで、「お前を愛しているからこそ殴る」と彼らは自分を偽っているといえるでしょう。本当は、ただ無性に殴りたいだけなのに。
人間なんですから、あらゆる行動は結局、自分を守るため、自分の快楽のためです。「誰かのため」と思い込みたい気持ちもわかりますが、そういう欺瞞は捨てて、自分のエゴを全力で認めたほうが人生は楽になると思います。
関連本。為末さんの新刊が出ていますね。前作「走る哲学」はかなり痺れたので新刊も購入。