「誰かのため」の行動なんてありえない

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2012/12/23


為末さんがすばらしいツイートをしています。


「誰かのため」だけでは続かない

僕自身3年ほどNPO支援をしており、仲間たちとテントセンという団体もやっていたりするのですが、これは「困っている人のため」というよりは、完全に「自分のため」にやっています。


NPO支援がどのように自分のためになっているかというと、

・社会的意義(やりがい)、自己肯定感を感じることができる
・人脈が広がる
・将来的なビジネスの種まきになる
・たくさんの人を助けることで、セーフティネットになる

というあたりになるでしょうか。完全にエゴです。「NPO支援なんて立派ですね」と言われますが、まったく立派なつもりはありません。実益を兼ねた趣味みたいなものですね。


そもそも「誰かのため」にやる無償の活動って、長続きするわけがありません。僕もそういうモチベーションで動こうと思ったことが何度かありますが、せいぜいもって1週間です。大金でも貰えれば別なんでしょうけど。


為末さんがいうように、「誰かのため」にやることは、かえって自分を苦しくします。相手からの期待した反応がないと、貢献をした相手が「恩知らず」に見えてきてしまうものです。恩知らずは自分がつくりだすものです。恩なんて送るもんじゃありませんね。


僕が大好きな中島義道氏の言葉を思い出します。自分のエゴであることを無意識的に隠し、「あなたのために無償で貢献する私」でいようとする、ずる賢い人たちも世の中には大勢います。

「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」

ああ、この言葉はとりわけ虫酸が走るほど嫌いです。それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいるとかんちがいしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかも狡いからです。


どんな行動を取るにせよ、100%「誰かのため」なんてありえないと自覚すべきです。自分が「誰かのため」に何かをしていると感じたら、それは全力で疑って掛かるべきです。

凝ったクリスマスプレゼントを用意するのも「愛する彼女のため」ではなく、「自分のため」です。「愛する彼女のため」という言葉の裏には、「聖夜にいちゃいちゃしたい」という、どうしようもなく人間的なエゴが隠れているはずですからね。

ドメスティック・バイオレンスなんかも構造は同じで、「お前を愛しているからこそ殴る」と彼らは自分を偽っているといえるでしょう。本当は、ただ無性に殴りたいだけなのに。


人間なんですから、あらゆる行動は結局、自分を守るため、自分の快楽のためです。「誰かのため」と思い込みたい気持ちもわかりますが、そういう欺瞞は捨てて、自分のエゴを全力で認めたほうが人生は楽になると思います。


関連本。為末さんの新刊が出ていますね。前作「走る哲学」はかなり痺れたので新刊も購入。