遺伝医療をすすめる際に最低限必要な遺伝医学の基礎知識

1.遺伝医学の基礎知識 | 2.遺伝カウンセリング | 3遺伝子検査 | 4.染色体検査 | 5.出生前診断 | 6.日本人類遺伝学会認定医の到達目標

 
 
はじめに
1.遺伝子検査の意義
2.遺伝病の遺伝子診断の特殊性
3.遺伝病の遺伝子診断法
4.包括的遺伝子診療の必要性

 
はじめに
ヒトゲノム解析研究が現在急速に進められており,2003年にはヒトのもつ全てのDNAの一次構造が決定されるといわれている.最も広く用いられている遺伝病カタログである McKusick の Mendelian Inheritance in Man (MIM)の第12版(1998)には 8,587種の遺伝子,遺伝子産物および遺伝形質(遺伝疾患を含む)が記載されており,このうち1,644の遺伝疾患についてはすでに遺伝子の染色体上の局在が明らかにされている.ここに記載されたいわゆる遺伝疾患以外に,高血圧,糖尿病,心筋梗塞などの生活習慣病やアレルギー疾患,悪性腫瘍,感染症に対する抵抗性などほとんどあらゆる医療や健康の問題に遺伝や遺伝子が関係することが明らかとなっており,ヒトゲノムからの情報がさまざまなレベルで医療とくに予防医学の分野に応用されることは間違いない.このような近年の分子遺伝学の著しい進歩による成果はとくに診断の面で,遺伝子診断という形で医療現場に導入されつつある.一口に遺伝子診断といっても,その目的は遺伝疾患の診断だけではなく,感染症,悪性腫瘍などの精密診断の場合もあり,遺伝子診断という用語を用いる場合にはどのような内容の遺伝子診断であるのかを明らかにしておく必要がある.

 本稿ではさまざまな目的のために用いられている遺伝子検査を紹介し,遺伝子検査と遺伝子診断との違い,遺伝子診断の定義を明確にすることの重要性について述べる.さらに遺伝子診断の他の医学的診断との相違点および遺伝子診断を遂行する際の注意点を述べたのち,遺伝子診断法の概略について述べる.

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1 遺伝子検査の意義
培養困難な病原微生物の同定検査,抗生物質加療中や感染初期の病原微生物の検出,移行抗体が疑われた際の抗原検出,病原微生物の感染源調査,親子鑑定などの個人識別,さらに白血病・固形腫瘍の遺伝子レベルの病型診断や遺伝病の確定診断など従来の臨床検査では得られなかったさまざまな有用な情報が遺伝子検査により得られることがある.また迅速に結果が得られるので,培養に時間のかかる細菌の検出には威力を発揮する.さらにDNAは保存条件によっては安定しているため,パラフィン包埋切片,凍結生検材料,骨など過去の検体から検査ができる場合がある.

 遺伝子診断と遺伝子検査とは同義語として扱われることが多いが,根本的な意味の違いに留意すべきである.遺伝子検査は検査そのものを意味するが,遺伝子診断というのはこの検査だけではなく,検査前後のカウンセリングを含めた一連の診療行為全体を意味する.一口に遺伝子診断といっても,感染症の検査などカウンセリングを必要としないものから,遺伝病の発症前診断のように検査を受けるかどうかについての慎重なカウンセリングや検査後の結果の告知と長期に渡るフォローアップを必要とするものまで様々である.

 遺伝子検査は 1)自己に存在しない外来遺伝子を同定する場合(存在診断), 2)遺伝子の構造異常を解析する場合(これには体の一部の細胞におきた遺伝子変異すなわち体細胞変異を解析するものと,個体を構成する全ての細胞に存在する遺伝子変異すなわち生殖細胞系列変異を解析するものとがある), 3)遺伝子多型を用いて解析する場合 などがある.これらの遺伝子検査は次のような目的に用いられている

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1.1感染症の遺伝子検査
1.1.1 病原微生物ゲノムの同定と定量

 病原微生物ゲノムなど自己に存在しない外来遺伝子を検出・定量することにより,感染しているかどうかを診断する.不顕性感染の場合や起因菌かどうか判定困難な場合もあるので注意が必要である.

1.1.2 菌・ウィルスの種や株の同定

 抽出したDNAを種特異的なプローブとハイブリダイゼーションさせたり,適当な制限酵素で切断することにより,感染診断だけではなく,種や株の違いも鑑別できる.これにより,集団食中毒や院内感染における感染源や感染経路の推定が可能となる.

1.1.3 薬剤耐性や病原性を有する特殊菌株の同定

 感染微生物の薬剤耐性や病原性の有無は,その遺伝子の存在や変異を調べることにより容易に鑑別でき,治療方針の決定に役立てられることがある.バンコマイシン耐性腸球菌(VRE)の van 遺伝子や腸管出血性大腸菌(EHEC)のベロ毒素 vt 遺伝子の同定はその一例である.

1.2 悪性腫瘍に関係した遺伝子検査

悪性腫瘍に関係した遺伝子検査には三種類ある.一つ目はその個体に癌細胞があるかどうかの検査である.白血病細胞があるかどうかをキメラ遺伝子の存在の有無あるいは遺伝子再構成の有無で判断するような場合である.二つ目は採取した腫瘍組織のDNAを解析し,その悪性度を判断し,その後の治療方針に役立てようとするものである.放射線照射や抗癌剤に抵抗性を示す p53 の変異が採取した腫瘍細胞にあるかどうかを検出するような場合である.三つ目は遺伝性腫瘍の保因者かどうかの診断である.これは他の悪性腫瘍に関係した遺伝子検査と異なり,体細胞変異を検出するものではなく,生殖細胞系列変異を検出するものであり,2および3 で述べる遺伝病の遺伝子検査と同等に扱われるべきものである.

 

1.3 DNA多型解析

ヒトの染色体上には,個々人により異なった塩基配列をもつ部位が随所に存在する.表現型には影響を与えないので,これをDNA多型という.点変異,欠失,重複,反復配列数など種々の多型がある.これらの多型を適切に組み合わせて解析すると精度の高い個人識別が可能となる.この技術はおもに,親子鑑定や犯罪捜査など法医学の分野で用いられている.

 

1.4 遺伝病の遺伝子検査

遺伝病の発症に関係していると考えられる生殖細胞系列変異を同定するために行われる検査である.一般の臨床検査とは異なる種々の倫理的問題が含まれており,慎重な取り組みが必要である.以後,おもに遺伝病の遺伝子診断を中心に述べる.

 

個体を形成する細胞は全て同じ遺伝子構成を有する.したがって神経疾患であっても血液細胞など他の組織由来のDNAでも診断が可能である.個体が発生して以降,原則として遺伝子構成は変化しないので,人生のあらゆる時期に診断可能である.たとえば生まれる前に胎児由来の細胞を絨毛穿刺や羊水穿刺によって得ることにより,さまざまな遺伝疾患の出生前診断が可能である.また,通常臨床検査は病気を発症した人を対象に行われるが,血縁者に遺伝病が発生している場合,本人はその時点で全く健康であっても,リスクのある人を対象として将来その遺伝病が発症するかどうかについての発症前診断も可能である.遺伝子は血縁者間で共有されているので,個人の遺伝子情報が他の血縁者にも影響を与えることがある.さらに同じ遺伝病でも遺伝子変異は家系ごとに異なることが多いので,遺伝子診断を行う際には家系ごとに進める必要があり,煩雑である.

 以上のように従来の臨床検査とは異なる面が遺伝子診断にはあるので,これを行う場合には倫理的にも十分配慮する必要がある.遺伝病の遺伝子検査は次のような場合行われる.

1)患者を対象に遺伝疾患の確定診断のために行われる検査,2)遺伝子変異が明らかにされた患者の未発症の血縁者(出生前診断の場合は胎児)を対象として行われる検査,3)家系内の患者の遺伝子変異は明らかにされてはいないが,リスクのある人を対象におこなわれる検査,4)保因者スクリーニング検査 など

 1)はすでに発症している人を対象に行われる検査であり,本人に関しては通常の臨床検査とそれほど変わるところはない.しかし,その結果得られた情報が血縁者にも影響を及ぼす可能性があるので注意が必要である.人間ドックなどのスクリーニング的に行われる検査を除けば,通常の臨床検査は被験者に何らかの症状があり,すなわち病人を対象として行われるのが一般的である.2)の遺伝子診断は,現在は全く症状のない健康人が対象で,将来の発症の有無を的確に予想しうる可能性のある検査であり,この点が通常の臨床検査とは異なるところであり,また運用上注意が必要である.3)も2)と同様の注意が必要であるが,遺伝子変異が明らかになっていないので,検査した範囲で遺伝子変異がないことが,必ずしも発症を免れることを意味しない点,注意を要する.4)は白人における cystic fibrosis や黒人における鎌状赤血球症などのように,ある集団で保因者頻度の高い疾患がある場合に,保因者を検出するために行われるスクリーニング検査である.日本人ではとくに頻度の高い遺伝疾患は知られていないので,このカテゴリーに入る検査は現在のところ考えられていない.

 遺伝子診断を実用化するにあたって,最も注意が必要なのは上記2)と3)の場合である.これらの検査の目的は発症前診断あるいは感受性診断である.発症前診断とは遺伝子変異の有無が発症の有無と1:1に対応する場合をいう.一方その遺伝子変異を持っていると病気になる可能性は高くはなるものの,発症しないこともあるような場合,感受性診断という.それぞれ臨床上の扱い方が異なるので注意が必要である.

 遺伝病の遺伝子診断は個々人の健康管理には必ず役立てられる情報となるが,もしこの情報が勤務先,学校,保険会社などに漏洩されたとしたら,さまざまな差別が引き起こされる可能性がある.すべての臨床診断は当事者のメリットのために利用されなければならないという医療の原則からしても,遺伝子診断に関する守秘義務の徹底には特に注意を払わなければならない.またハンチントン病のように,遺伝子診断により将来発症することが確実に診断できたとしても,現在有効な治療法が開発されていない病気の場合,その発症前診断の是非については十分検討されなければならない.

 

遺伝疾患(genetic disease)とは決して遺伝する(inherit)病気の総称ではなく,遺伝現象を担っているものすなわち遺伝子あるいは染色体がその発症に関与している疾患をいう.遺伝疾患は現在では 1)メンデル遺伝(単一遺伝子)病,2)染色体異常,3)多因子遺伝病,4)ミトコンドリア遺伝病,5)体細胞遺伝病の五つに分類するのが一般的である.これら遺伝疾患の診断に用いられる検査を遺伝学的検査(genetic testing)というが,本稿では主にメンデル遺伝(単一遺伝子)病の診断に用いられる遺伝子診断法について述べる.

 メンデル遺伝病における遺伝子異常には,1)点突然変異(point mutation),2)欠失 / 挿入(deletion / insertion),3)遺伝子変換(gene conversion),4)3塩基反復配列数の増加(triplet repeat expansion)などがある.

 遺伝疾患の遺伝子診断の特徴として,多くの場合,家系ごとに遺伝子変異の部位が異なることである.したがって,ある遺伝疾患家系の遺伝子診断を行う場合,最初の一例目(発端者)の遺伝子異常を検出するのに多大な労力を必要とする.一例目の遺伝子異常がわかれば二例目からは比較的容易にその遺伝子変異を検出することができる.

 未知の点突然変異を検出するために現在よく用いられている方法は,1)疾患遺伝子のエクソンごとにプライマーを設定しPCR(polymerase chain reaction)法でゲノムDNAを増幅し,2)SSCP(single strand conformational polymorphism)法あるいはWAVEによるheteroduplex法で,正常コントロールと異なるパターンを示すエクソンを選び,3)そのエクソンについてシーケンスを行い,点突然変異を検出する,というものである.疾患遺伝子のエクソンの数が多い場合には大変な労力を要するので,疾患遺伝子が発現している組織が得られる場合にはその組織からmRNAを抽出し,reverse transcription (RT) 反応でcDNAを作成し,これをPCR法で増幅させ(RT-PCR法),このPCR産物をシーケンスする,という方法により点突然変異を検出することができる.

 発端者で遺伝子変異の部位が判明すると,他の家系構成員については,遺伝子変異部位を含むように設定されたプライマーを用いて,その genomic DNA をPCR法で増幅し,遺伝子変異部位が制限酵素で切れる,あるいは切れないという正常コントロールとは異なるパターンを検出することにより,遺伝子変異の有無を診断することができる.

 欠失 / 挿入や遺伝子変換の診断は,その異常部位が数塩基と小さい場合には点突然変異の検出と同様の方法で行う.異常部位が数十kb(千塩基)と大きい場合には,染色体標本を用いたFISH(fluoresence in situ hybridization)法で診断できる場合がある.

 3塩基反復配列数の増加の診断は反復数が多数の場合は Southern解析を必要とする場合があるが,一般にPCR法で診断可能である.

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さまざまな特殊性を内包した遺伝病の遺伝子診断には遺伝カウンセリングが必須である.遺伝子診断を前提とした場合,遺伝カウンセリングは以下の4段階でそれぞれ行われる.1)診断が確定し,病気の再発危険率など遺伝学的情報を提供し,遺伝子診断の可能性を示すとき,2)遺伝子診断に対する意志を再確認し,検査を行うとき,3)検査の結果に基づき診断内容を伝えるとき,4)その後の支援を行うとき.

 一般の医療では,患者は主治医の指示にしたがって治療を受けるというおもに主治医と患者だけの上下関係の枠組みによって行われている.遺伝子診断を臨床の場で応用していくためには,どうしても患者自身に方針を決定していただかなければならないので,この枠組みだけでは不十分であり,主治医とは異なる立場でさまざまな情報提供やカウンセリングを行う部門が必要である.このような倫理的問題に配慮しつつ,遺伝子診断情報を適切に医療の場で利用していく包括的診療システムを遺伝子診療と定義したい.遺伝子診療を行うためには以下の事柄が必要となる.

 1)遺伝カウンセリング,(患者・家族の心情,知識を理解した上で,わかりやすく説明),2)遺伝子検査(高度な遺伝子解析技術が必要),3)倫理的問題の解決(種々の専門家による検討の場が必要),4)遺伝子情報に基づく適切な治療(関連する診療科の密接な関係)

 ヒトゲノム解析をはじめとする分子遺伝学の進歩により得られる遺伝情報が今後益々医療の場で生かされてくるのは間違いがない.しかしながら,我国においては遺伝子情報をどのように利用していくかについての体制作りは極めて遅れている.我国では信州大学病院遺伝子診療部のように各診療科が協力しあって,遺伝子診療を推進する中央診療部的な部門を設立し活動していくことが現実的であろう.

 現在,臨床検査の場では感染症および悪性腫瘍関連の遺伝子検査が広く行われているが,今後,高血圧,糖尿病,心筋梗塞などの生活習慣病を含めた遺伝病に関係した遺伝子検査のニーズが高まってくることが予想される.遺伝子検査という技術は類似していても,遺伝病の遺伝子検査には従来の臨床検査の概念とは全くことなる事柄が含まれているので,検査を行う場合には十分な配慮が必要で,包括的な遺伝子診療システムの中で取り扱われるべきであることを強調したい.

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