斎藤 環 さん(精神科医)
自らの体を傷つける自傷行為、食べることを拒否する拒食症、そして社会に出ること、働くことを拒否するひきこもり。現代に特有のこうした症状には、いちがいに原因を特定できない困難さがつきまとっています。しかし、どれもリアルに自分という存在を感じることができない。そんな感性がそれら症状の背景にはありそうです。どうしていま、リアルな自己像を人は持てなくなっているのでしょうか。
まともさや成熟は自明な規範としてはもはや機能していません。いまの世界で強力に作用している幻想は情報とコミュニケーションでしょう。これらはかなり広く共有されている幻想です。現代人がまともさを確保しようと思えば、つきつめればコミュニケーションに頼るしかない。最低限、人とつながっていればまともな人間として生きていけるのではないですか。
ひきこもっている人も渋谷や池袋にたむろしている若者もコミュニケーションを媒介にすることで、これまで言われていたような成熟とは言えないまでも、人とつながるために必要な能力を見いだせるのではないでしょうか。
それにしても一番困難なのは人をそういうふうに動機づけることです。言い換えれば人に欲望を持ってもらうことが非常に難しい。こういう時代に人を動かすとしたら、人をどうかして誘惑するしかない。その誘惑すらも非常に難しいのは、突き詰めると「何がリアルなのか」という問題に行きつくからです。
しかしいまや、リアルすらも自明ではない。身も蓋もない言い方をするなら、個人個人が信じるリアリティで生きていくしかないわけです。欲望やリアルについて一般的に語ることが、そもそも困難になっている。
精神分析の基本的な発想ですが、例えば、いま目の前にコーヒーカップがあります。これは自明なものでなく言葉があってはじめて認識できること。人間の欲望もそうで、その根底は言葉によって支えられています。言葉は実体がなく、その実体のない言葉に欲望は支えられているので人間の欲望には最終的な満足はあり得ない。
動物の本能に性欲や食欲があげられますが、人間のそれは似て非なるものです。さすがに食欲は生理的欲求だと思うでしょう?けれど拒食症のような摂食障害を考えてください。体は健康なのに食欲はなくなってしまう。心のありようがちょっと変わるだけで人間の食欲なんて消えてしまう。人間の欲望はいかに言葉に支配されていて、言葉が心のありようを形作っているかの証です。
性欲についても女性とセックスしたいというだけではない。女性の足に憧れたり身につけたものに憧れたりと、ずれたところに欲望が集中する場合もあれば、ホモセクシュアルというのもある。これもやはり欲望の不安定さや、欲望が言葉で支配されていることの端的な現れです。
欲望が言葉でできていることは、その多様性を保証すると同時に、欲望の不確かさで人間を苦しめることにもなる。だから人間の欲望は死ぬまで本当に満たされることはない。満足の幻想はかいま見るかもしれないけど、リアルな満足はけっして得られない。
このことをラカンという人は「神経症」と呼んでいます。神経症は精神医学でいえば、強迫神経症だとか不安神経症だとか病気の名前ですが、ラカンは人間という存在自体がそもそも病んでいると、ある種悲観的に捉えています。人間の欲望も行為も、それがよいものであろうと悪いものであろうと病気の症状のようなものなのだという見方です。それは言葉を獲得してしまった人間の定めだというわけです。
ひきこもる人とずっと関わってきたので、これはバランスをとらなくてはと思い、ある仕事で池袋や渋谷にいる若者から話を聞いたことがあります。彼らは非常にいきいきしている。それはコミュニケーションのせいなんですね。仲間とつながっている楽しさで彼らは生きる欲望を維持している。そのため個人の独立した自我については考えなくてすんでいる。
彼らが口々に言うのは「独りになるのは不安。みんなといるときでしか自分でいられない」。みんなと携帯で話したり、たまって話しているときは「自分らしさ」の手応えを感じるわけです。
あんな都会のど真ん中にいるのに、彼らの語ることはまるで村人か、どこかの部族みたいで、内容の乏しい話や広がりのない内輪の恋愛話を延々とやっている。仲間であることを常に確認しあっているだけで、僕からすれば生産性や創造性はきわめて乏しいと思えるんです。
社会に関心がないわけではないけど、あくまで「部族」というフィルターを通して見ている感じです。象徴的なのは彼らがインターネットをほとんどやらないこと。携帯やメールを頻繁に使って、仲間うちのつながりを確認するけれど、その外側の世界を知る必要は感じていないんです。
ひきこもっている若者はその対極で、自分が何のために生きているかわからない。他者とのコミュニケーションがないから、自分が承認される機会も持てない。自分のあるべきポジションについてずっと悩み続けている。
彼らは活字やフィクションにも親しんでいて、狭い節穴から俯瞰するように世界を見ている。渋谷や池袋にたむろしている若者とひきこもりが両極端だとすると、その中間はおたくです。
おたくはある意味閉じていて、世間から受け入れられないことを自覚しているが、おたく同士は非常にコミュニカティブです。「部族」同士で連帯し、コミケなどで盛んに情報交換している。おたく共同体のあり方には、ひきこもりを救済するヒントがあると思います。
そうです。でも、ひきこもっている人はおたくをバカにしているんですね。「アニメ好きのロリコンなんかになりたくはない」と言う。けっこうハマれる素質は持ってるはずなんですが。
ひきこもる人たちの緩い共同体をどうやったら作れるかが今後の課題です。私がひきこもりについて盛んにマスコミに露出して語っているのは、「ひきこもっているのは自分だけではない」と知ることでちょっと楽になったり、彼らの共同体が形成されやすくなるのではないかと考えたからです。
ある意味、不健全ですよ。彼らは仲間で固まっているので、一歩その仲間の外に出ると自分探しが始まってしまう。だからカルトに行きやすい。ところが、ひきこもりはカルトに行かない。セルフカルトなんです、「俺が一番偉い」という。
ある研究所が一般の人を対象に行ったアンケートで、およそ3割の人が身近にひきこもりがいると答えています。ひきこもりは自然治癒が起こりにくいので、いったんひきこもると蓄積する。70年代からひきこもりが始まったと考えると、その数はいまや50万人から100万人に及んでいると考えられます。それと、男性のほうが圧倒的に多い。
おたくを研究してわかりましたが、男はまず自分の主体をたてないと欲望を抱けないんです。「自分は男で、こういう社会的地位がある」と主体がはっきりしているほど欲望は持ちやすい。ひきこもっている人は社会的には地位がゼロで、自分にとっても自分の価値はゼロ。自分の欲望がわからないので社会に参加する意欲も起こってこない。これが悪循環となる。
女性は意外に主体をたてなくても欲望を持てるんですよ。ただ孤独でいたくないので関係性を欲望する傾向にある。今でも「就職しなくても結婚すればいい」といった考えを持つ人もいますし、それがある程度許されるなど、男性に比べて社会的地位にこだわらなくてもいい。そういう意味で社会的地位への執着は強くないように思えます。そういう執着がなければ当然、ひきこもらなくてもいい。
どうも旧来のフェミニズム理論は成り立たない気がします。これまで男も女も同じ欲望の形式を持つべきだという結果、平等主義的にこだわってきたきらいがあるけど、欲望のあり方や主体の立て方が根本的に異なる以上、こうした非対称性に基づいた新しい理論が必要になってくると思いますね。
惰性と忙しさですね。目先の仕事をこなすということに尽きます。立派なことを言わないといけないときは「ひきこもりを救いたい」とか言いますが。それもまんざら嘘ではないけど、個人的には人間関係の中での「成り行きでなんとなく」が最大の動機づけで、崇高な使命感なんてないですよ。だから、せめて人間関係の質は大切にしたいですね。
いやらしい言い方をすれば、自分の欲望を持つことも大事にしたいが、人々の欲望を観察したいという欲望もある。何かに夢中になっている人を見ることが嬉しいんです。
よく「男女関係が乱れている」と息まく人もいますが、僕はうれしくなるんですね。路上でいちゃいちゃしているカップルを見ると「ああ、まだ欲望は健在だ」とうれしくなっちゃう。
かっこ悪くてもなんでもいいからとにかく欲望を持ってくれ!という感じです。そうでないと人が人の形を保てなくなりますよ。
僕は自分が思春期を乗り越えたと思っていないんですね。成熟という発想は自分についてはやめようと思っています。おたくという生き方も思春期的なものを残しながら生きています。
年端もいかない美少女に欲情できるのに、現実にはロリコンではない。小さな女の子が好きな男は当然ロリコンであると考えがちですが、そこが欲望の多様なところで、おたくは欲望のモードを切り換えることができる。アニメと日常のモードを切り換えられるわけです。僕は彼らを通じて欲望を場面に応じて使い分けることを学んだ。
昔みたいに何かを捨てたり断念したりするような成熟の仕方は難しくなっている。そうなってくると自分の中のモードを切り換えるしかないかと思います。
成熟を考えるとき、性的な問題は欠かせない。ひきこもりは性的なパートナーが得られないという大きな問題があって、そこが本人の葛藤を長引かせてもいるんですね。
やはり僕自身、あるていど成熟を実感できたのは異性との関係が生まれて以降ですから、性的なものを抑圧するばかりではなくて、それをどう学習させるかを考えないといけない。
つきつめれば、性的なものでしか人間の成長は確認できないと思うんです。性的関係とはたんにセックスだけじゃなく、他者への共感や思いやりといった、コミュニケーション・スキルが欠かせません。僕は成熟の二大要素として、「情緒的な交流能力」と「欲求の実現を待てること」を考えていますが、二つとも恋愛経験を通じて学ぶことが一番でしょう。まあ、成熟を意図しなくてもいいから、友情と恋愛を大切にしてほしいですね。友情も恋愛の一種ですから。
Tamaki Saitou
斎藤 環
精神科医。1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門群卒業。
【斎藤 環さんの本】
『社会的ひきこもり―終わらない思春期』(PHP研究所)
『文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラー』(青土社)
『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)