酒呑童子(しゅてんどうじ)とは、平安時代の京都付近で暴れまわったとされる日本史上最大最強の鬼である。彼のエピソードがのちに能、歌舞伎、映画、祭にされたり、その退治刀が天下五剣のひとつ「童子斬り安綱」として伝わるなど、日本の文化史上に遺した影響は非常に大きい。酒顛童子、酒天童子、朱点童子と書かれることもあるが、多くの場合「酒呑童子」とされる。
概要
酒呑童子は丹波・丹後国境にある大江山の主峰・千丈ヶ嶽、あるいは山城・丹波国境の大江山(大枝山)の老ノ坂峠※1を本拠地とし、多くの鬼を部下に抱えていたと言われる。外見は身のたけ2丈(約6m)、角が5本、目が15個もあり、頭と胴が赤、左足は黒、右手は黄色、右足が白、左手が青という体色だったと言われる。この色は五行思想の影響のようだ。
よく演劇で描かれる彼の退治話(いわゆる「大江山」)は、おおむね次のようなものである。
正暦のころ、都では若君や姫君が失踪する事件が相次いだ。この事態を重く見た朝廷が、安倍晴明に占わせると、京の西北にある大江山の鬼の仕業であることが判明する。藤原道長の命により退治に向かったのは、すでに勇名を馳せていた源頼光(みなもとのよりみつ)とその四天王である渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)※2、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、そして藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の六人であった。
大江山に向かう途中、一行は老人、山伏、老いた僧、若い僧で構成された旅人に遭遇する。彼らは「酒呑童子には大勢の部下がいる。武士姿で正面から挑んでも酒呑童子に近づくことは難しいので、山伏に化けなさい※3」と助言するとともに、「神便鬼毒酒」と兜を与える。実は頼光らは出発前に石清水八幡宮、日吉、住吉、熊野大社に詣でており、助言者らはそこに祭られていた神の化身であった。
助言に従って進んだ一行は、鬼の命令で洗濯をさせられている貴族の娘に出会い、彼女の案内で童子の居城である「鉄の御所」へたどりついた。山伏姿のおかげで童子に面会できた頼光は「都で評判の酒です。これで一夜の宿を」と神便鬼毒を渡すと、名前通り酒好きな童子はまんまとこれに乗って部下ともども酔っ払い、自らの生い立ちを語りだした。
「俺は越後の生まれで山寺に入れられ、稚児として育てられたが、そこの法師と争って刺し殺してしまい、比叡山へ移り住んだ。だがある時、伝教大師(最澄)という僧が現れ、俺を追い払ったのでやむなくこの大江山に移った。しかし今度は弘法大師(空海)という僧が登ってきて俺を封じ込めた。――今はそういう強い法力を備えた者がいないので、なに不自由なく暮らしていられる。
ところが最近、気がかりな噂を耳にした。京に源頼光という武勇日本一の大悪人がいて、家来である四天王と藤原保昌とともに我々を討とうとしているというのだ。彼らのために、最近は京に近づけないでいる」
そのうち、酒呑はふと山伏らの正体に気づきかけたが「釈迦は進んで鬼神の餌食になったという故事があります。仏門に仕える我々は頼光のような悪人ではありません」などと言ってうまくごまかした。このあと渡辺綱が舞を披露し「年を経て、鬼の岩屋に春の来て、風や誘いて花を散らさん(嵐に散る桜のように、鬼どもの命を散らす)」と歌ったが、そこに込められた意味に鬼たちは気づかなかった。
こうして時間稼ぎをしているうちに神便鬼毒が効き始め、鬼たちは痺れとともに眠りに落ちてしまう。好機とばかりに武者姿に戻った頼光らの前に、神の化身たちが再び現れる。「よくぞここまで来た。我々が鬼の手足を鎖で四方の柱へ縛りつけてやろう。頼光は酒呑の首をとり、他の物は残りの鬼を斬り捨てよ」と告げた。
頼光らの動きを察して、酒呑童子は目を開くが神便鬼毒が効いて動けない。「情けなしよと客僧たち、いつわりなしと聞きつるに、鬼神に横道なきものを(客僧たちよ。お前たちの言葉を信じたのにこの仕打ちか!我々鬼は卑怯なことなどしなかったのに!)」と訴え、これが酒呑の辞世句となった。斬り飛ばされた首は、一度頼光に襲いかかったものの、神の化身に与えられた兜により防がれ、むなしい抵抗に終わった。
※1 原典は老ノ坂の方ではないか、という説がある。
※2 説明不要とは思うが、足柄山の金太郎である。
※3 童子らと山伏には関わりがあり、警戒心がゆるかった。
渋川版「御伽草子」では、源頼光らが酒呑童子の出した血肉(もちろん人間の)を食らって信用を得たのち、神便鬼毒を差しだして鬼たちの自由を奪い討ち取った、と血なまぐさい様相が描かれている。
出生
酒呑童子の出生については、いくつかの説がある。有力なのが以下の二つ。
- 国上寺「大江山酒顛童子絵巻」説
桓武帝の皇子・桃園親王の家臣・石瀬俊綱は、親王が越後に流された際、従者として連れ添い越後の砂子塚に移り住んだ。彼はなかなか子宝に恵まれなかったため、妻とともに信濃戸隠山へ参拝祈願しつづけたところ、めでたく懐妊。その子は母の胎内に三年も留まりつけた末、ようやく生まれ、外道丸と名付けられた。彼は並ぶもののない美貌の主であったが、手のつけられない暴れん坊となり、懸念した両親によって弥彦山の国上寺へ稚児に出された。
これによって外道丸の行状はおとなしくなったものの、その美貌ゆえに多くの女たちを惹きつけた。やがて外道丸に恋した娘たちが次々死ぬ、という不吉な噂が立つようになった。彼はこれまでもらった恋文をすべて焼き払おうとタンスを開けたところ、もうもうと煙が立ち込めて苦しさのあまり気を失う。目が覚めると、外道丸は見るも無残な鬼と化していた。しばし呆然とした彼だったが、やがて身を躍らせて天高く飛び上がり、戸隠山方面へ姿を消した。 のちに大江山に移り住み、酒呑童子と名乗るようになったという。
戸隠山信仰の中心は、その山にもともと住んでいた九頭竜信仰にあり、この説をとると酒呑童子は九頭竜の子という側面を持つ。親から出生年代を推定すると、酒呑童子は退治されるまで200年近く生きていたことになる。
- 奈良絵本「酒典童子」説
こちらの説だと酒呑童子は伊吹山の神=ヤマタノオロチの子ということになっている。こちらでもやはり寺の稚児であり、大酒のみだった。ある時、祭礼でかぶった鬼の面が取り外せなくなり、やむなくそのまま鬼となったのち、茨木童子と意気投合して京を目指したという。
ちなみに酒呑童子や茨城童子といった鬼の名前につく「童子」とは、寺に出されて高僧に仕えるようになった者のこと。20歳以上を中童子、さらに歳をとると大童子という。本来は僧になってしかるべき者たちなのだから、彼らの多くに問題行動が多かったのは確かである。僧に仕えても更生しなかった、という理由で鬼化人物の代名詞として見られていた。
童子斬り安綱
源頼光が酒呑童子を斬ったとされる太刀。安綱は平安末期における伯耆の国の名工。三条宗近、古備前友成らとともに銘が残るもっとも古い刀工である。
この太刀は室町時代以来、足利将軍家が所有していたが、十三代義輝のときに織田信長の手にわたり、豊臣秀吉を経て、徳川家康に移った。徳川二代将軍秀忠は、結城秀康の子・忠直に娘を嫁がせる際、引き出物として持たせている。その忠直が乱心によって九州豊後に流されると、嫡男光長は越後高田へ転封となる。その後、越後騒動によって光長は四国松山城へ預けられ、家は縁者が継いで作州津山松平家となって続き、同家によって童子斬安綱も伝えられた。現在は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されている。
刀剣鑑定の本阿弥家による名物帳(享保四年の作)には「松平越後守殿 童子切安綱 長さ二尺六寸六分(約81㎝) 不知代(だいしらず)。丹州大江山に住す通力自在之山賊を、源頼光公此太刀にて討し故と申伝候」とある。刀身の実寸は刃長80㎝、反り2.7㎝、元幅2.9㎝、先幅1.9㎝。拵え(装具)に関しては江戸期の作である。
天下五剣の一本として名高いが、この「天下五剣」というカテゴリは明治期になって生まれたものなので、一部歴史ゲームなどで取り入れているのは、やや問題がある。
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読み:シュテンドウジ
初版作成日: 12/03/11 19:28 ◆ 最終更新日: 12/04/04 07:32
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