ウランバートルの投票所 ブログ用.jpg


11月21日午前、ウランバートルのガンダン寺へ。ここはチベット仏教に基づいて1809年に建てられた大きな寺で、かつてのウランバートルには高い建物がなかったので、どこからでも見えたとのこと。
20世紀、旧ソ連のかいらい国家となったモンゴルは、スターリンとコミンテルンの「指導」の下、仏教に大弾圧がくわえられた。ガンダン寺に大仏があるが、これは2代目。初代のものはスターリンがロシアに持ち去り、破壊したとのこと。ひどいヤツやな、スターリン。

午後、市内の中学校でウランバートル市議会議員選挙を取材する。中学校の体育館が投票所になっているのは、日本とそう変わらない。違うのは「投票の機械化」だ。
人々はまず、免許証に記載されている指紋チェックを受けて、投票用紙をもらう。用紙には各党から立候補している6人の候補者の名前があらかじめ書かれていて、その中の2人をマークシート方式で塗りつぶす。
投票箱はなく、代わりに黒い機械が2つ。マークシートで塗りつぶした箇所をこの機械に読み込ませて、投票終了。投票時間は朝の7時から夜10時。基本的には開票しなくても、すぐに当選者が判明する仕組みだ。
投票所の奥に机が3つ並んでいて、そこにおじさんが座っている。彼らは政党の代表者。人民党、民主党、人民革命党。この投票所で不正が行われていないか、監視しているのだ。

投票終えた人にインタビュー。ざっと20人程度に聞く。民主党に入れた人が多かったが、ちらほら人民党も。人民革命党はいなかった。モンゴルは人民党と民主党の2大政党制なのだ。民主党は現在の市場主義、資本主義を推進する立場で、人民党はかつての社会主義的な部分を復活させていく、というところだと思うが、レンスキーは「どっちも一緒。腐っている」と手厳しい。
有権者に「原発と最終処分場について、考慮しましたか?」と聞いていったが、全員「今回の選挙では原発問題は争点ではなく、考慮していない」という回答だった。大統領が「他国の原発のゴミを受け入れない」と宣言し、この疑惑にふたをしたので、国民には安心感があるようだ。
情報があまり外にでないし、「他国のゴミを受け入れない」とは、行政用語として読むと「自分のゴミは受け入れる」ことなのだが。

飛行機の時間が迫ってきた。ウランバートルの町は今日もスモッグで煙っている。増え続ける人口、電力需要。マイナス40度まで落ちる厳冬期を乗り切るためのエネルギー。そんな状況の中で、この国は本当に原発を拒否し続けることができるのだろうか?
今やモンゴルは「NATOの準会員」で、アフガンやイラクにも派兵している西側の一員だ。そして日本とモンゴルはFTAを結んだ。日本には核のゴミを埋める場所がない。
デタラメ春樹こと班目原子力安全委員長が、かつてインタビューに応えて「(最終処分場を受け入れる自治体は)最後は金でしょ?80億でダメならもっと積めばいい。必ず(受け入れ自治体は)出てきますよ」とうそぶいていたのを思い出す。

チョイル ブログ用.jpg 写真はチョイル郊外100㌔のところ、旧ソ連がウランを探屈していた。

11月20日、午前8時ウランバートルを出発し、中南部の町チョイルに向かう。チョイルまで250㌔、そしてモンゴルにしては珍しく道路が舗装されているので、3時間くらいで着く。
11時過ぎ、チョイル着。ここはゴビスンベル県の県都。ゴビスンベル県は相撲の日馬富士の出身地だ。今度相撲中継を見てみよう。「ゴビスンベル県出身、伊勢が先部屋」というアナウンスが聞けるはず。
チョイルは思ったより大きな町で、鉄道の駅もあり、レストランも旧ソ連が建てた5階建ての団地群もある。
実は、ここチョイルに核の最終処分場が作られるのではないか、とスクープしたのが毎日新聞だ。やるな、毎日新聞。(私も連載してたよ!)
当初、モンゴル政府はここに原発を造る計画だったようだ。しかしここには原発を冷やす川も湖もない。原発はダミーで、最終処分場ではないか、との疑いだが、あのスクープ記事がモンゴル語になって現地の新聞、テレビで紹介されたため、ここは候補地ではなくなった、と思う。人のウワサも75日、将来、こそっとここに持ってくる可能性がないとは言えないが。
このチョイルから100㌔ほど草原を南へ下ったところに、ハラトゥというウラン鉱山がある。何もない草原を突っ走ると、遊牧民のゲルがあり、ゲルの向こうにゴツゴツした岩肌が見える。ゲルから人相の悪いおじさんが出てきた。遊牧民ではない。警備員だ。「何しにきた?」と威圧的態度だったが、こちらが4人と多数なので、警備員の対応がしどろもどろになってくる。
最初、「ウラン鉱山なんかないよ」と言い切っていたのが、だんだん「いや、実は旧ソ連が…」という話になり、「試掘していた」と変わっていく。
警備員を車に乗せて、ウラン鉱山へ。鉱山の入り口ゲートにはカギがかかり、看板の文字は完全に削られている。おそらく放射能を示していたであろう、三角の看板。車ではゲートを越えられないので、徒歩で入る。ガイガーは2〜3マイクロ。やはりウランが眠っているのだ。
この鉱山は、現在探屈権を中国企業が取得しているようだ。鉱山の中にかつてのロシア人労働者の家と、重機を動かすためのガソリンスタンド。ウラン鉱山には採掘権と探屈権があって、ここは地中に探査用の機器を入れて、ウランを探屈中だったようだ。
ここハラトゥはマルダイと同じく、周囲は見渡す限りの大草原なので、遊牧民以外、工事が始まっても気づく人はいないだろう。確かにここなら、最終処分場になる可能性はある。
ハラトゥからチョイル、そしてチョイルからウランバートル。本日も合計600㌔に及ぶ長旅だった。モンゴルは広い。そして人口密度は低い。日米の原子力ムラの人々は、決してモンゴルをあきらめていないと思う。

ノモンハン戦勝記念碑 ブログ用.jpg


11月18日午前9時にチョイバルサンを出発。町の出口のところに「ノモンハン戦争勝利記念碑」がある。左に旧ソ連軍の戦車、右には小さめの日本軍の戦車。中央にこの戦争を勝利に導いたソ連軍のジューコフ将軍(だと思う)。
ノモンハン戦争は、日本陸軍+満州国軍VSモンゴル、ソ連連合軍の戦いで、2万人以上が殺された悲惨な戦争だった。発端は領土問題。満州国とモンゴルの国境線を、ハルハ川に引こうとする日本&満州と、ハルハ川よりかなり東側、現在の国境に線を引くモンゴル&旧ソ連の争いだ。

歴史に、「もし」や「たら」はないが、もしこの戦争に日本&満州が勝っていたら、満州国が少し広くなり、結果として中国の面積が少し広がっていたことになる。満州国軍といっても実際は内モンゴル人が兵士となって闘っていたので、モンゴル人にとっては同族同士の争い、いや、大国日本とソ連に翻弄された中での無用な戦争だったと言える。
実際、モンゴル人にとってはこの戦争に勝利し、社会主義国となってソ連の衛星国となったが、スターリンとコミンテルンの「指導」により、次々とリーダーたちが殺害され、チベット仏教徒も殺されていった。かといって、満州国に従属されれば、当時の日本陸軍に弾圧されただろうし、どっちに転んでも虐げられていく歴史になるのだが。

チョイバルサンを出ると、ずっと草原の中の悪路。8時間かけてウンドルハーン。そして5時間半かけてウランバートル。途中休憩を入れて合計14時間車の中。さすがに疲れきったので、夜食もとらずに爆睡。

11月19日、ウランバートルで街行く人にインタビュー。まずはバス停。質問は2つ。「あなたは核の最終処分場がモンゴルに来る計画を知っていますか?」
知っている人には賛成か反対かを重ねてたずねていく。2番目は「モンゴルに原発を造る計画があるのを知っていますか?」。
ざっと20人くらいに聞いた。ウランバートル在住の人々はほとんど知っていて、そして知ってる人は最終処分場には全員反対だった。原発については、6対4くらいの割合で反対が多かった。知らない人は地方から来た学生や遊牧民たちだった。特に遊牧民はまったく聞いたことがないという反応。彼らの土地に作られる計画なのだが。

ウランバートルの中心は歩行者天国になっていて、零下10度くらいだが、人々は元気に通行している。その中に所在無さげに通行人をぼんやり見ているおじさんたちの一群。
彼らは、いわゆる「マンホール、アダルト」。住居がないので、厳冬期に下水で暮らす。1万トグルグ(約600円)渡してインタビュー。
—寒いでしょう?
「凍え死にそうだよ。俺たちには身分証明書がないので、仕事にあぶれてしまうんだ」。
—夜はマンホールの下で寝ているの?
「いや、今はマンホールにカギをかけられているので、入れない。団地の中に忍び込んで、階段の踊り場で寝ている」

普段寝ている団地へ。モンゴルの5階建て団地は、寒さを防ぐために入り口にドアがついている。ドアを開けて中へ。1階と2階の間の踊り場に小さなヒーターがあって、おじさんたち3人は、ここで身体を寄せ合って眠る。汚れた衣服に酒やけの赤ら顔。インタビュー中に団地の居住者が通り過ぎると、おじさんたちは両手をあわせて「すいません」と詫びる仕草。居住者に嫌われたら出ていかざるを得ないので、なるべく穏便に接しているという。

なぜこのおじさんたちに身分証明書がないのか?
それは刑務所である。酒に酔ってケンカして人を傷つけ、刑務所に。刑務所から出てきたら、モンゴルは社会主義国から「民主化」され、別の国になっていた。免許証やパスポートを更新しないと、身分証はもらえない。しかし「おつとめ中」に両親が亡くなり、身分を証明する人がいない。証明書がなければ、仕事に就けない。社会主義時代と違って、自由経済なので、物価はどんどん上がっていく。その結果、マンホールに住み、そこを追い出され、団地の踊り場に住む。ホームレス歴10年だ。

今、ウランバートルには高級車があふれ、町にはルイヴィトンやグッチなどのおしゃれな看板。豊かになったように見えるが、ホームレスも増えた。グローバル化、新自由主義の下で、格差は急拡大している。
ホームレスのおじさんたちは、最終処分場のことも原発のことも知っていた。
「自然を大事にしないモンゴル人が増えて、草原に車からゴミを放り投げるヤツがいる。そんなゴミを掃除しないといけないのに、なんで他国の原発のゴミを受け入れる必要があるのか」。酒くさい息で一気にまくしたてる。
このおじさんたちの方が、政府の役人よりまともではないか、と思えてしまうのだった。

残土と立て札.jpg


11月17日、午前9時にダシュバルバルを出発し、再びマルダイへ。まずはかつてのウラン鉱山へ。鉱山は草原の中に巨大な穴ぼこを形成していた。ウランの露天掘り。その深さは300㍍近くまで掘り進められ、横穴は700㍍ほどあったとか。旧ソ連がここで採掘していたのが80年代から96年頃まで。その間、この地域はモンゴル人立ち入り禁止だった。ウランを採掘していた労働者の中には、旧ソ連時代の囚人たちも含まれていたという。かつての囚人たちが掘り進んだ鉱山は、現在、雨水が溜って池になっていて、その水が凍り付いている。鉱山への道は閉ざされ、池に降りていくことができないので、土手のところでガイガーカウンターで計測。0、3〜0、4マイクロシーベルト。あの凍りついた池まで、この土手から数十㍍はある。池の水は何シーベルトなのだろう?
鉱山の土手をおりたところにかつての鉄道跡がある。ここで採掘されたウラン鉱を、この鉄路でシベリアまで運んだ。シベリアにはウラン濃縮工場があって、そこで濃縮ウランが作られた。80〜90年代であるから、冷戦時代だ。そのウランの一部はロシア製核兵器になっているのだろう。
鉄路は現地のモンゴル人が引きはがして持ち去った。線路のない鉄道跡地が小高い丘となって、延々と北へ延びている。
かつて鉄道だった丘のすぐ近くにウラン鉱山から出た残土が積み上げられている。KEEP OUTという立て札一枚。放射能のマークと英語だけなので、遊牧民には理解できないだろう。
残土にガイガーカウンターを置く。ピーピー。一瞬にして数字は30マイクロシーベルトを超えて警戒音を発信する。そんな残土が小学校の体育館くらいの量で放置されている。
鉱山から10キロほどのところに、労働者のための団地と一軒家。団地は全部で15棟あって、全てが破壊されている。ガレキになった5階建ての団地。ガイガーカウンターをガレキに置くと、2〜3マイクロシーベルト。長年のウラン採掘でコンクリートも鉄骨も汚染されている。
一軒家に現地の人々が10家族住んでいる。みんなここにウラン鉱山があったことは知っているし、ウランが危険であるとは聞いたことがある。しかし、だからといってどうすることもできない。幸いなことに、ここには学校がないので、子どもたちは数十㌔離れたチョイバルサンの小学校に行く。学校に行っている間は被曝しないだろう。
草原の中、道なき道を西へと進む。ランドクルーザーで悪戦苦闘しながら1時間ほど行くと、突然巨大かつ立派な建物が現れる。中国の企業がここでウランの探掘権を得て、操業を開始しているのだ。門には警備員がいて、撮影禁止、進入厳禁だ。
この新しいウラン鉱を背に、やはり草原を30分ほど走ったところに遊牧民のゲルを発見。ブリヤート族の老夫婦が、ここに井戸を掘って家畜に水を与えている。冬はこの周辺で遊牧し、夏になると北側、つまりロシア側の山裾で家畜を育てる。彼らは近所にウラン鉱があることは知っている。しかしウランがいかに危険であるか、は知らされていない。そして近年、井戸水の水位低下にも悩まされている。「雨が少なくなった」のと、もしかしたら「鉱山で掘り進められた坑道が水脈を切った」のかもしれない。
もちろん、ここの遊牧民たちに中国企業からのお知らせやあいさつはない。遊牧民からすれば、「勝手に草原を掘られている」状態だ。
マルダイからチョイバルサンまで、草原の中の悪路を戻る。「核のゴミ」を埋めるとすれば、ここは有力な候補地だ。それは①首都ウランバートルから極めて遠い。②少数民族の村で、人口も少ない。③基本的に西風が吹くので、もし放射能が漏れても中国東北部、旧満州に流れていく。
モンゴル政府は今のところ、「核のゴミを受け入れない」と宣言している。しかしそれは「他国の核のゴミ」である。
日米政府は今、東芝や三菱、日立など原発企業と一体となって、ベトナムやトルコ、ヨルダンなどに原発を輸出しようとしている。その際に売り込みたいのが、「核燃料も廃棄物もトータルで面倒見ますよ」ということ。
つまりモンゴルで掘られたウランで原発を動かして、「ウランの生産地」にゴミを持っていく。モンゴルはNATOと互恵的関係を結んでいる。米国にとって「核の拡散」になるが、同盟国ならOKだ。核の管理と原発ビジネス。そんな商売に日米モンゴルが水面下で絡んでいる、という図式だろう。

さて、チョイバルサンからウランバートルへ。約700㌔の草原を走る。広大なモンゴルの手つかずの自然。ここに原発は似合わない。風がびゅーびゅー吹いているし、厳冬期でも太陽は輝いている。風力や太陽光で十分エネルギーはまかなえる。

チンギスハーンの像 ブログ用.jpg


11月15日、ウランバートルを出発。レンスキーが、反核を訴える新聞500部とドイツ製のガイガーカウンターを積み込む。この新聞を現地の人々に配りつつ、ウラン鉱山を取材するのだ。2〜3日分の食料を買い出して、いざ出発。
目的地はモンゴル東部の町チョイバルサン。チョイバルサンというのは、社会主義時代のモンゴルの指導者の名前で、良くも悪くもかつてのモンゴルを象徴する人物。近隣する大国中国、ソ連からモンゴルの独立を勝ち取ったのだが、旧ソ連スターリンの「指導」の下で、多くのラマ僧、対立する政治家を殺害した人物でもある。宗教弾圧、対立する政治家の粛正という点では「ちょい悪サン」ではなく、「大悪サン」なのだ。
モンゴルでは、このような政治家の名前をそのまま使っている町があって、まぁ日本でいえば、新潟県長岡市を「田中角栄」と呼んでいるようなものだ。
ウランバートルから東へまずは舗装道路が続く。零下10度の氷の世界だが、ランドクルーザーは快適に飛ばす。数十㌔行くと、銀色に輝くチンギスハーンの巨大な像。チンギスハーンがここで育ったとのこと。像の高さは53㍍あり、ニューヨークの自由の女神より高いそうだ。舗装道路をひたすら東へ。夕闇が迫り、夜の帳が下りる。

午後8時、雪の中ウンドルハーンという町に到着。草原の中に突如町が現れるという感覚で、町の灯りにホッとする。遅い夕食をすませ、さらに東へ。
ウンドルハーンからチョイバルサンまでは、草原の中に刻まれたワダチを行く。真っ暗闇の中で、時折ワダチが分かれていく。地図もカーナビもないのに、運転手のドルチェは、的確にチョイバルサンへのワダチを選んでいく。「経験だよ。何度も行ってるから」。ドルチョが笑う。
深夜1時、うとうとしていたら突然車が止まる。「パンクだ」。ドルチョが慣れた手つきでタイヤ交換。見上げれば満天の星空。天の川が見える。これだけの星空を見たのは、95年、砂漠化が進むタンザニアのドドマ以来。
さらに東へ草原を走る。「オオカミだ!」レンスキーが叫ぶ。指笛を鳴らし、草原を逃げるオオカミを追いかける。モンゴル人にとってオオカミは大変縁起のいい動物で、本日遭遇したのは「白オオカミ」。オオカミの中でも最も縁起が良いのは白いオオカミだそうな。
草原の中、デコボコ道をランドクルーザーは飛ばしていく。時折頭を天井にぶつけそうになるくらいの悪路だったが、午前5時、無事、チョイバルサンに到着。ホテルにチェックインして午前11時まで泥のように眠る。
闇の軽油 ブログ用.jpg

11月16日、チョイバルサンでガソリンを入れておかないと、草原で立ち往生する。ガソリンスタンドへ。ガソリンは売っているが軽油はない。私たちの車はディーゼルのランドクルーザーなので、軽油がないと困る。スタンドの横では闇で売る業者が、値段を吊り上げて売っている。背後に政治家がいるのか?こいつらは間違いなく「ちょい悪さん」である。
チョイバルサンの小さな街を出ると、広大な草原が広がる。地平線までずっと雪の白と枯れた草の茶色。車のワダチが一筋、延々と続いている。
草原のデコボコ道を走ること2時間、突如、14〜15ほどある団地群。鉄筋コンクリートの団地の周囲には、壊れた家屋。ここが目的地のマルダイだ。
マルダイでは1980年代後半から96年にかけて、旧ソ連がウランを掘り出していた。この壊れた団地と家屋は、鉱山労働者のための社宅だったのだ。
粉々に破壊された家屋と、そのまま残っている家屋が点在する。イラクやシリアで見た空爆を思い出すが、戦争で破壊されたのではなく、地元のモンゴル人が鉄筋やコンクリートを持ち運んだのである。
その中に煙突から煙が上がっている家を発見。旧ソ連時代のウラン鉱労働者の社宅に、ちゃっかりと住み着いているのだ。
夕刻5時、あたりは暗闇に包まれる。冬のモンゴルは日照時間が短い。マルダイの、この壊れた社宅群の中の一軒に泊めてもらおうと交渉するが、電気も人数分の毛布もない。
仕方なく、マルダイ宿泊をあきらめ、北に数十㌔離れたダシュバルバルという町をめざす。真っ暗闇の中、ドルチェは間違うことなく草原を行く。地図もないし、カーナビもコンパスもない。経験だけで目的地に着くことができるのは、やはり彼の中に遊牧民の血が流れているのだろう。
「山の形や点在する丘の数などを見て、方向が分かる」というからたいしたものだ。
ダシュバルバルの安宿 ブログ用.jpg

午後7時、ようやくダシュバルバルに到着。村で一軒しかない安宿に泊まり、モンゴルウォッカで乾杯。このモンゴルウォッカと水餃子は癖になるなー。


モンゴルの原発を巡る状況について、昨日取材したことを書く。
まず、モンゴル政府には原子力発電所の立地計画がある。場所はおそらくウランバートルから南東へ、数百㌔のドルノゴビ県、チョイルあたり。付近にウラン鉱山があり、燃料の「生産地と消費地が近接」している。
そしてさらに問題なのが、日米政府とモンゴル政府が、モンゴルのどこかに「核廃棄物最終処分場」を設置しようとしている疑惑である。
11年5月9日に日本の毎日新聞が、このチョイル近辺に、「核廃棄物処分場立地か?」という大スクープ記事を書いてくれたので、モンゴル国内で反核運動が盛り上がり、政府は一旦は否定したことになっている。
曰く「他国の核廃棄物を受け入れることはありません」。
これで、多くの国民は安堵しているのだが、「他国の廃棄物」は受け入れない⇒「自国の廃棄物は受け入れる」のではないか?と、レンスキーたちは危惧しているのだ。
では、自国のウラン廃棄物の受け入れ場所はどこか?
その候補地が本日から取材するマルダイだ。マルダイはウランバートルから北東へ700㌔以上。やはり付近にウラン鉱山があり、鉱山は地下250㍍、横穴700㍍以上の大規模なもの。現在は中国資本が採掘権を持っていて、中に入るのは許可されないかもしれない。
ちなみにこの鉱山群は、かつての旧ソ連が掘ったもので、旧ソ連の核兵器に使われたもの。鉱山労働者は、旧ソ連の囚人たちだったという。
心強いことに、現在、モンゴル国民の大多数は、核廃棄物最終処分場の建設に反対している。しかし日本の原子力ムラをご覧になれば分かるように、このプロジェクトには莫大な利権がからむ。反対運動が切り崩しに会い、金で丸め込まれていった福井県や福島県の例もある。
それでは、ウランバートルからマルダイへの長旅に出発する。ネットが使えなくなることが予想されるので、ブログは更新できないかもしれない。
降雪の状況次第だが、2〜3日後にはウランバートルに戻って来れると思う。
その前にスノーブーツとオーバーを。何しろ零下10〜20度、そして強風の世界が待っているのだ。
では行ってきます。

ウランバートル火力発電 ブログ用.jpg ウランバートルでモクモクと煙を上げる火力発電所。公害問題になりつつある。

世界で一番寒い首都はモンゴルのウランバートルだそうだ。モスクワあたりも寒そうだが、冬のウランバートルは零下40度まで下がるというから、その寒さは半端ではない。
11月14日午後4時、そのウランバートルのチンギスハーン国際空港。午後4時で零下8度。通訳レンスキーの車で市内へ。まず目につくのが、モクモクと煙を上げる火力発電所。ウランバートルは電力事情が悪く、しばしば停電するという。人口が急増してた割にインフラ整備がまだ整っていないので、特に電力事情が悪い。そんな状況を逆手に取って、原子力発電所の建設計画がこの国にもある。
ホテルにチェックインして、明日からの取材日程を相談。11月中旬はすでに極寒の冬で、明日からめざす村は、道中、雪で通行できなくなっているかもしれない。ウランバートルは、まだビルが障害物となって強風は吹かないが、明日からは大草原の村である。考えただけで縮み上がりそう。
モンゴルの実情については、また明日のブログで。

アリーと トルコのホテルで ブログ用.jpg 国境を越えてトルコのホテルへ。ロビーで運び屋アリーと無事帰還記念撮影。

9月11日午後10時、無事トルコとの国境アトマ村まで戻ってきた。自由シリア軍兵士モハンマドの家で、シャワーとお茶。ほぼ3日ぶりのシャワー。このアトマ村は比較的安全地帯なので、電気もお湯もOK。普段何気なく暮らしている、この「普通の生活」が、何物にも代え難いものであることを痛感する。ここでは空爆に脅えなくてもいいし、通学路で撃たれることもない。アトマ村からトルコ国境までわずか数㌔。車で30分も走れば、国境の緩衝地帯だ。
モハンマドがトルコ側の運び屋アリーに電話している。後は、あの国境を暗闇の中、歩いて越えていくだけだ。

午前1時、アリーから電話。トルコ国境警備隊の警備も薄くなったようで、今なら越えれる、との連絡。
自由シリア軍の兵士たちとハグし、モハンマドの車に乗り込む。闇の中、オリーブ畑のあぜ道を行く。トルコ側の灯りが見えてくる。
車を降りて、ビデオカメラのスイッチを入れる。ナイトショットモードにして、「今から国境を越える」と自分を撮影。モハンマドの先導で、ビデオカメラを回しながら国境のフェンスへ。闇の中から難民家族が現れた。手には家財道具。この穴を越えて行くのだ。サラームアレイコム(こんばんは)小声であいさつし、難民家族を撮影。
「ヤッラ、ヤッラ」(早く早く)。鉄条網に気をつけながら穴を越える。トルコ側に出た。難民たちは、草むらを真っすぐ進んで行く。

ここで私は躊躇した。穴のところで待っているはずの運び屋アリーがいない。
「アリーがいない場合は、フェンスにそって右へ真っすぐ行け」とモハンマドがアドバイスしてくれていた。1人でフェンス沿いに真っすぐ進むか、それとも難民家族と一緒に草むらを行くか。

1人で行くことにした。フェンス沿いを歩く。私は超ド近眼なので、時折穴ぼこに足を突っ込んでは転びかける。
「参ったなー。アリーはどこや」。途方に暮れかけた時、草むらの中でピカピカと白い光。
あれか。光は100㍍以上離れている。あそこにアリーがいるのか。おそるおそる近づいていく。光はじっとこちらを照らしてくる。あの光は罠か?逃げるか?行くか?
逃げようがなかった。行くしかない。光に向かって進む。アリーであってくれ!
祈りながら闇を行く。その光の主は…。

トルコ軍だった。

「ここで何をしている」「ここは撮影禁止だ」「日本人か?どちらへ送ってほしい、トルコか、シリアか?」
最後の最後で大失敗。数人のトルコ軍の背後にアリーがいた。そう、アリーは軍に拘束され、私を違法に運んでいる「現行犯」で捕まり、穴まで来れなかったのだ。
「違法出入国」「撮影禁止地域の撮影行為」「国家機密漏洩」…。私の頭の中を様々な「罪状」がぐるぐる回る。撮影したテープは没収。留置場へ。日本大使館への連絡。新聞記事…。あーぁ、最後にやらかしたなー。2日、いや下手すれば1週間は塀の中かなー。(私は同様の罪でパキスタン軍に拘束されたことがある)
ビデオカメラを奪われ、回していたテープは没収。トルコ軍人がアリーと私に、「連行する!」と叫んだと思った。
アリーはといえば、「国境でカメラを回したらダメだ!」と私を叱責。
こいつと一緒に事情聴取か…。

とぼとぼとアリーの後を行く。
あれ?軍人は?
ついて来ないぞ。軍人たちは同じ場所で、さらに灯りを灯し続けている。
これってもしかして…。
アリーの家まで早足で歩く。
「アリー、俺たちは捕まらないの?」
「お前が撮影していたテープの没収だけだよ」
その場で、へなへなと座り込んだ。よかった、シリアのテープを守ることができた。刑務所にも行かなくていいんだ!
アリー、み、水をくれ。
助かった!貴重なテープ、証拠がまだ私の手の中にある!
ということで、私は辛うじてシリア〜トルコ国境を越え、こうして取材素材を守ることができた。
ありがとうトルコ軍(笑)!

※シリアの映像は、9月27日(木)午後6時半〜 大阪市立いきいきエイジングセンターで報告させていただきます。

空爆の煙 ブログ用.jpg アサド軍の空爆。ミグ戦闘機で民家を撃つ。一発の空爆で数十人が殺される。

9月11日午前5時起床。起きたのは私だけで、兵士たちはすやすや眠っている。戦闘が激化して2ヶ月。兵士たちにとって、爆音もズシーンと体に響く振動も「蚊に刺された程度」なのだろうか。
午前7時前、ようやく明るくなってきたので隠れ家のベランダから外の景色を撮る。大通りの向こうにモスクのミナレットが見える。無人の町。ドーンという爆音。鳩がビックリして一斉に飛び立つ。
隠れ家の出入り口から思い切って外へ。大通りの向こう側に警備の兵士たちがお茶を飲んでいる。小走りに兵士たちのところへ。
「アハランワサハラン(ようこそ)中国人か?」「いや日本人だ。アレッポの惨状を撮影に来た」。片言のアラビア語でジャーナリストであることを説明する。
兵士たちによると、昨晩聞いたあの爆音は、地対地ミサイル、ハウワーンというもので、一晩で22発撃ち込まれたという。そんな話をしていたら、「俺に着いてこい。爆撃の跡を見せてやる」と1人の兵士。
危なくないか?いや、銃声が止んでいる今、撮影のチャンスかも。せっかくだ、撮れるものみんな撮ろう。
兵士の後ろをついて狭い路地を行く。大通りに面したところで兵士が立ち止まる。「サラーサ、イスナー、ワーヒダ(3、2、1)。ゴー」
ロケット弾で破壊された民家 ブログ用.jpg


走り出す兵士の後をついて、大通りの景色を撮る。通りの中央分離帯のところに大穴。2日前の空爆によるものだ。モスク周囲の商店街が粉々になっている。昨晩の22発のうち、1発がここに当たったようだ。すすだらけの黒くなった商店。2階から煙がまだあがっている。
大通りの対岸にも路地があって、そこに駆け込む。どうやら路地に入っていれば、撃たれることはないようだ。
さきほどのお茶を飲んでいた場所まで戻ると、昨晩のハウワーン地対地ミサイルの破片が並んでいる。「撮れ撮れ」と兵士たち。アサドがいかにひどいことをしているか、報道してくれ、と。
その中に、「俺はヤバニーヤ(山本さんのこと)の棺を担いだよ」という兵士あり。山本さんの殺害現場は、ここからそれほど離れていないのだ。
慣れないアラビア語で取材していると、「グッドモーニング」。学生風の若者が通りを横切ってやってきた。「英語少ししゃべれるよ」。それはありがたい。名前は?「ハッサン・ミット。略してサムと呼んでくれ」。
サムはガスマスクを持っていた。3日前、知り合いの自由シリア軍兵士が、アサド軍兵士を捕まえて所持品を奪ったところ、銃や簡易爆弾(IED)の他にガスマスクがあった。アサド軍が化学兵器を使っているか、使おうとしている証拠だ。サムが使い方を実演する。湾岸戦争でイスラエル市民に配布されたものと同じタイプか?
サムを通訳としてアレッポの町を行く。旧市街の商店街。ほとんど全てシャッターが下ろされ、中には焼けて黒くなった店も。商店街の道路に兵士が寝ている。ホームレスではない。戦闘が激化してから、ずっとここに寝泊まりして、町を防衛している。
最前線の防衛ラインへ。土のうが積まれ、兵士が銃を構えている。アサド軍支配地域とはどれくらい離れている?と聞くと、約300㍍。
ビデオカメラのズームで撮影。あのラウンドアバウトは、すでにアサド側なのだ。
大通りを行くと、長蛇の列に出くわす。
「パンを買いにきた人々だ。戦争になり、パン屋が爆撃された。パンを待つ人々を撮る。ビデオカメラが珍しいのか、この虐殺に抗議するためか、たちまちカメラの前に黒山の人だかり。「アサドを倒せ!」と叫び出す。いつの間にか「自由シリア国旗」を肩にした子どもたちが数人、カメラの前で踊り出す。
パンの行列を後に、さらに町の様子を取材。道ばたに黒こげになった大型のバン。アサド軍兵士を運ぶ車を、自由シリア軍が銃撃した。バンの他に大型バスや戦車が破壊されて、放置されている。
新築商業ビルが粉々になっている。道路にはガラスの破片がギッシリ。さらに行くと、異様なにおいが鼻につき始める。
生ゴミを街角で燃やしている。
「アサドはゴミ収集車を空爆した。町を不衛生にしようとしたんだ。伝染病を流行らせようとね」。
ゴミの山の中で、金目のものを拾い集める少年2人を撮影していたら、ドーンという大きな爆音。近いな。
ゴミの山に別れを告げ、さらに進むと、もうもうと煙が立ちこめているのが見えてきた。さっきの爆音。あれはミグ戦闘機からの空爆で、なんと団地の方角から黒い煙。かなり大きな爆撃だ。おそらくあの一発で何十人と殺されただろう。あの団地に住んでいる人々が、すでに避難してくれていればいいのだが。
煙に向かって進むが、あの空爆の場所に近づきすぎるのは危険だ。まだ上空には戦闘機がいて、次の空爆を狙っている。
町の中心部にも大きな空爆跡。一昨日の空爆、一発の爆弾で70人が殺された。ビルの地下には大きな穴があき、その穴に水道水が溜って池になっている。穴の中にはベッドの枠、鏡台、時計、食卓など生活用品が水の中に沈んでいる。
「危ないぞ!」。サムが注意する。上部の壁が崩れ落ちる危険があるので、中に入ることができないらしい。
70名が殺されたビルのすぐそばのビルでは、住民たちが避難を始めていた。軽トラックに家財道具を積む人々。アレッポから地方都市へ逃げる予定だ。確かにここに住み続けるのは危険すぎる。アレッポは人の住めない町になりつつある。
無事、元の隠れ家に戻る。午後2時頃、戦闘がピークに。あちこちでパンパンパンと銃撃戦の音がこだまする。シュルシュルシュルーと不気味な音がして、ドッカーンと爆音が続く。ハウワーン(地対地ミサイル)の連射。生きた心地がしない。隠れ家の兵士は「ノープロブレム」と笑うが、すぐ先のモスクに落ちて、モスクから煙が上がっている。20㍍ほどしか離れていない。
夕刻4時、ようやく「ハウワーンの雨」が止む。弾切れか?
ハウワーンが止まったと思ったら、今度は戦闘ヘリがやって来た。空から銃撃している。地上から応戦しているのだろう、パンパンパンという銃声が響く。これ以上、ここにとどまるのは危険だ。アナダンへ帰るという兵士たちがいるので、その車に乗せてもらうことにする。

自由シリア軍の隠れ家の前で ブログ用.jpg


午後5時。アレッポの町を出る。上空にはまだアサドのヘリがいる。この車が狙われるかどうか、「神のみぞ知る」。運を天にまかせて、ゴーストタウンとなったアレッポの町を突っ走る。アレッポの市街地を抜けるのに約30分。緊張の時間、ヘリからの銃撃はなかった。マーシャアッラー(神の祝福あれ)。
アレッポを無事抜けることができた。やがて日没。もう大丈夫だ。アナダンまであと2時間。あとはトルコとの国境を無事越えられるかどうか、だけだ。

隠れ家 から外を見る ブログ用.jpg 隠れ家のベランダから外の景色。2階がパーマ屋で3階が寝室。この日だけで20発以上のロケット弾が飛び込んできた、死ぬかと思った。


アナダンからアレッポまでわずか10キロだが、途中にアサド政権支配地域があるので、直線コースでは入れない。時計回りに大回りして、自由シリア支配地域だけを通って、アレッポをめざす。途中、戦闘機が上空に現れると、その度に車を物陰に隠してやり過ごす。
やがて日没。闇の中をぐねぐねと走ること1時間、国道らしき大通りに出ると、車は全速力で突っ走る。前方に破壊されたバスやトラック。もしかして、ここが…。

「アレッポに入ったよ」と運転手。人口約600万人と言われているシリア第2の都市アレッポ。しかし大通りには破壊された戦車や自動車が無惨な姿をさらしていて、通行人はほぼゼロ。電気が足りてないのか、街灯はもちろん、民家の灯りもまばら。商店はほとんど全てシャッターを下ろしている。
ゴーストタウンだ。
ウーウー。闇の中、サイレンが響き一台の救急車が止まった。怪我人が運び込まれた様子。病院の受付には銃を構えた兵士が数人。住民たちが怪我人を治療する、「地下病院」だ。
撮影したい、止めてくれ!と叫ぶも、「ダメダメ。病院は撮影禁止だ」。
猛スピードで、車はとある商店街の迷路のような一角に滑り込んだ。

「着いたよ」。兵士たちが迷路のような路地に20人ほどたむろしている。古ぼけたビル、1階が散髪屋で2階がパーマ屋。この2階のパーマ屋が、兵士たちの隠れ家になっていた。「サラームアレイコム」。次々と差し出される右手。それぞれに握手してから、「中国人か?」「いや日本人だ」。

パーマ屋の狭い店内では、兵士たちがせっせとカラシニコフ銃に弾を込めているところだった。その中に英語をしゃべる若者がいた。ファラーク。彼の父親がイスラム党の幹部だったため、父アサドが彼の父を弾圧。父アサドはイスラム主義者を危険視して、徹底的に弾圧していた。80年代父は国外追放となった。ファラークはシリア人でありながら、ヨルダンで生まれ、ドバイ、アブダビなどを点々として育った。だから英語がしゃべれるのだ。このシリア内戦で、生まれて初めて故郷の土を踏んだ。彼にしてみれば、今のアサドは、先代からの恨みの対象。
ファラークからひとしきり状況を聞く。「今日だけで戦車を4台もやっつけたよ。最近はこちらにも(自由シリア側)新しいロケット弾が入ってくるようになったからね」。主にカタール、サウジなど湾岸諸国から対戦車砲などが流入しているようだ。

午後10時、やることがないので3階に上がって早めに眠る。それにしても疲れた。パンパンパン。銃声が聞こえる。やがて眠りについた…。
うとうとしはじめたその時、ドッカーン、ドッカーンと2発の爆音で叩き起こされる。近いぞ!もしロケット弾、戦車砲がこのビルに飛び込んできたら…。私の隣では兵士4人がすやすやと眠っている。こいつら、怖くないのか。天井を見上げる。昼間見た、ぺしゃんこになったビルを思い出す。もしあの天井が落ちてきたら、俺は確実に圧死してしまう。隠れようがない。トイレの中の方が柱が多くて安全か?いやそれともベランダの方が…。そんなことを考えていたら、またドッカーン!「おい、さっきより近いぞ。大丈夫か」。さすがに兵士2人がムックリと起きて、「アラー、アクバル」一言叫んで、また眠り出す。
よーこんな状態で寝てられるなー、と感心するも、こちらは恐怖で寝られない。51歳で死ぬのは、まだ早すぎるなー、遺書を書いとかなあかんかな、妻と子ども、実家の両親は泣くだろうな、世間を騒がせるのはイヤだな、などの考えが頭をぐるぐる回っていく。

さらにドカーン、ドカーン、ドカーン。続けて4発入った。その後、タタタッタタ、と乾いた銃声。ボン、ボン、というロケット弾の発射音。こちら側からも反撃しているようだ。さすがに兵士が起き出して、状況を確認している。
「大丈夫だ。いつものことだよ」。4人の兵士が、またすやすやと寝始める。

「あー、大変なところに来てしまったなー」。後悔先に立たず、ドーンドーンという爆音に、「当たれば仕方がないんだ。どうせなら即死の方がいいな」。轟音に慣れつつ、あきらめつつ、自分の人生、命って何だろうと考え始めたのが午前2時頃。するとあれほど入ってきたロケット攻撃がピタッとやんだ。そうか、相手側兵士も眠るんや。戦争とは日常生活の中の非日常。撃ち疲れて、あるいは「今日はこれぐらいにしといたろ」みたいな感覚で日々を過ごしているのだ。
ようやくまどろみ出す。夢の中ではなぜか亡くなったおばあちゃんが出て来た。
おばあちゃんが救いにきてくれたのかな?

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