2012年12月17日 (月)津波警報 そのとき私は
12月7日に発生した三陸沖を震源とする地震。宮城県の沿岸には一時、津波警報が出され、石巻市鮎川で1メートル、仙台港と福島県相馬港で40センチの津波を観測するなど、各地に津波が押し寄せました。そのとき、私は石巻市の報道室で取材にあたっていました。
【報道室では…】
12月7日、私は宮城県石巻市のNHK石巻報道室にいました。その日の取材も一段落した夕方。突然、室内がゆらゆらと横揺れし始めたかと思うと、とたんに揺れが強くなりました。すぐに室内の状況を原稿にしようと机に向かいましたが、揺れはなかなかやみません。机や本棚が大きく揺れていたため、倒れるのを防ごうと支えました。「長いな…」1分以上、もしかしたら2分ほど揺れが続いたのではないかと思います。
あとで確認すると石巻市で観測した震度は4。本棚などから物が落ちてくることはありませんでしたが、長い揺れに身の危険を感じました。ようやく揺れが収まったあと、仙台局から連絡が入り、揺れたときの状況を原稿にすることや津波のおそれがあるので注意しつつ高台にある報道室近くの公園を取材することになりました。
【避難している人たちは…】
地震発生から、それほど時間をかけずに外に出たつもりでしたが、公園に通じる道路はすでに避難を急ぐ人たちの車で渋滞。公園では、避難してきた人たちが不安そうに海の方を眺めていました。家族と連絡が取れず何度も何度も携帯電話をかけ続ける女性がいたほか、別々に避難して離れ離れになっていた家族同士が無事に会えてほっとしている様子も見られました。
避難してきた男性の1人に話を聞くと、「長い時間揺れたので、これは大変だと思って自分の判断で駆け上がってきました。津波が来なければいいですが、心配です」と話していました。
報道室で電話の中継で現場の様子を伝えた後、避難所になっている高校でも取材しました。高校にある施設の中の食堂や畳を敷いた部屋には、あわせて30人ほどが避難していました。そこで70代の男性は、「ようやく復旧が進んできたのに、ここで津波が来て被害を受けたとしたら、立ち直れないかもしれない」と不安をもらしていました。取材を進めている間に、地震発生からおよそ2時間後の午後7時20分、津波警報は解除されました。津波警報は去年4月以来。宮城県内で▼石巻市鮎川で1メートル、▼仙台港で40センチの津波が観測されました。
【震災の経験は生かされたか?】
では、震災の経験は生かされたのでしょうか?私が見た範囲では、高台の公園や高校には多くの人たちが速やかに避難していました。さらに翌日、石巻市の職員が1メートルの津波を観測した鮎川港などを点検する際に同行し、担当の職員に現地での様子を聞くと、「住民の避難はスムーズで特に被害はなかった」ということでした。去年の津波の記憶もあり、住民にはおおむね津波に対する避難の意識は浸透していると感じました。しかし一方で、担当の職員は、「地震は頻繁に起きているので、住民の避難の誘導や地震後の点検を細かく行いたい。油断は禁物だ」とも話していました。
震災から1年9か月。私が見た印象では、復旧・復興までには、まだ時間がかかりそうで、被災地の人たちの心にも震災の記憶は生々しく残っていると感じました。そうした意味で、いざというときの備えの気持ちはしっかりと持ち続けていると思います。一方で、被災地から離れた地域の人たちはどうでしょうか?徐々に記憶が薄れてはいないでしょうか?今回の地震と津波警報で、常日頃から、万が一に備え、避難経路、連絡手段、備蓄などの確認を怠らないことが重要だと、改めて強く感じました。
投稿者:宮本知幸 | 投稿時間:06時00分
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