米長邦雄さん死去:ブログに「遺言」 盤外でも幅広く活動
毎日新聞 2012年12月18日 11時56分(最終更新 12月18日 13時37分)
将棋界の顔として長年にわたり活躍した、米長邦雄永世棋聖が18日、69歳で亡くなった。現役棋士を引退後も、普及活動や日本将棋連盟の経営に精力的に取り組み、最後までメッセージを発信し続けた。
ホームページ「米長邦雄の家」には、さまざまなコンテンツがある。その一つ「まじめな私」で11月25日、「最後の時」と題し、遺言ともとれる言葉を記した。
「最近、自分はいつ、どのような形で人生を投了することになるのか考えるようになりました。一日でも長く、大いに笑い、健康な日々を過ごしたいと願ってはいるのですが、いつかは必ずその日がやってくることも覚悟しておかねばならない」。自らの最期を一局の将棋にたとえ、終局に向けての構想を明らかにした。
さらにその1週間後、「最後の時(2)」とし、「振り返ってみると、60才までの勝負師人生、その後の経営者としての人生に分けられるような気がします」と分析した上で、「俗人の生前指示についても書いておきたい。相続、告別式の手配等です」と記した。
その分析通り、60歳以降、日本将棋連盟の要職に就いてからは、数々の改革を断行した。05年、61年ぶりの棋士編入試験実施による、瀬川晶司アマのプロ入り▽08年からの名人戦を毎日、朝日両新聞社の共催に▽将棋連盟の公益法人への移行−−。いずれも、米長さんの強力なリーダーシップで実現した。
弁も立ち、文章もよくした。財界人、文化人、さらに芸能人と交友範囲も幅広く、盤外での活動も注目を浴びた。99年から07年まで東京都の教育委員を務め、教育問題についても発言。また、将棋界の内外での奔放な言動で、物議を醸し、親しまれてきた。代表的な一つが「私は菜の花のようなもの。トウがたってから実を結ぶ」。49歳11カ月で悲願の名人を獲得した翌日(93年5月22日)。名人にかけた思いと、大願成就した気持ちを表現し、熟年世代を勇気付けた。【金沢盛栄】
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米長さんは93年に出身地の山梨県富士川町(旧増穂町)の名誉町民となった。志村学町長は「突然の訃報に驚いている。幼少時から厳しい修行を積み、『さわやか流』と呼ばれた棋風を貫き、将棋の普及と発展に貢献した。将棋界にとっても町にとっても大きな存在を失った」と悼んだ。
◆米長永世棋聖のタイトル履歴◆
【名人】1期(第51期−1993年)
【十段】2期(第23期−1984年度〜24期)