■特攻を語り継ぐ■
「回天の母」と呼ばれた、おしげさんこと倉重アサコさんは、昭和60年、ある遺言を残してこの世を去った。78歳だった。 生前、おしげさんは18歳の2人の少年が出撃するのを見て、「どの人も死なせたくないけれど、まだ幼な顔が残るこの2人は、ことさら私の胸をえぐるのでした。『これが戦争というものなのだ』。そう自分にいいきかせて、じっと耐えるしかありませんでした。」と語っていた。遺言は、「ええか。私の骨は海にまいて。子供たちが海の中で待っているから。絶対、海に入れてよ。子供たちと酒を飲むから」おしげさんの遺骨は、回天を考案した黒木博司が訓練中に殉職した海域にまかれた。 回天の故障で帰還した吉留文夫さん(80歳)は語る。「帰ってきたのは自分の責任で、戦友に合わす顔がないというのが正直な気持ちだった。映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。出撃するときは、お互い『先に逝ったら、靖国神社でおれの席を取っておけよ』が合言葉になっていた。本当におれの席があるのかどうか。いずれ、みんなの待つ靖国神社にいくという気持ちが残っているんですね。2回も生きて帰ってきたのが自責の念として強く残っていて、回天のことはあまり話したくなかった。でも、いまの日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのかを子供や孫に伝えないといけないと思うようになった。海に手をつけると、戦友が水の中から『おい』って声をかけているような気になる。戦争の悲しみは、もう再び繰り返してはなりませんし、神風や回天のような、絶対に死ぬとわかった兵器による特攻は、絶対に避けなければなりません。けれどもお国のため、みんなのために死んでいった若い人たちの心は、いまの若い人たちにも伝えておかねばならないと思います。」 |