今週の本棚:2012年「この3冊」/下(その2止)
毎日新聞 2012年12月16日 東京朝刊
◇村上陽一郎(東洋英和女学院大学長・科学史)
<1>魂について−−治癒の書 自然学第六篇=イブン・シーナー著、木下雄介訳(知泉書館・6825円)
<2>神学大全=トマス・アクィナス著、稲垣良典訳(創文社・刊行中)
<3>ピアニストのノート=ヴァレリー・アファナシエフ著、大野英士訳(講談社選書メチエ・1890円)
通常の紙上では、なるべく邦人のオリジナルをと心がけている。ここでは翻訳を。
<1>アヴィセンナのラテン語名で知られるイスラム世界最大の学者の重要な著作の邦訳。近代語訳を造るだけでも業績となる世界だが、精密な日本語に置き換えることの労苦と、それによる恩恵に敬意を籠(こ)めて。
<2>先人の訳業を継いで、現在第三部を中心に訳者が、じっくり腰を据え、詳細な注、索引などを付して刊行中のもので、未完ではあるが、読書界の話題の一つとしたいので、敢(あ)えて。出版し続ける書肆(しょし)にも敬意を。
<3>ピアノ演奏界の異才が日本の読者へ書き下ろした。禅に深く傾倒し、お寺にピアノを持ち込んでシューベルトのソナタを魂で弾く著者のノート。断片的で多少追いかけ辛(づら)い文章だが、率直な評言もあって無類に面白い。
◇持田叙子(のぶこ)(日本近代文学研究者)
<1>歌集 美しく愛(かな)しき日本=岡野弘彦著(角川学芸出版・3200円)
<2>火山のふもとで=松家仁之著(新潮社・1995円)
<3>漁師はなぜ、海を向いて住むのか?−−漁村・集住・海廊=地井昭夫著(工作舎・2940円)
<1>日本文学のはじまりとともに萌(も)え出た歌の背おう魔的にながながしい歴史性を、これほど意識してうたう歌人は稀有(けう)。とりわけ桜花詠の伝統の陰翳(いんえい)ふかい復活がみごとである−−<散る花の 空に舞ひたつ花醍醐(だいご)。われの命の果ての日を見む>。
<2>冒頭、網戸ごしに流れこむ森の青く冷たい空気が美しい。浅間山の噴火が、この「夏の家」の物語に濃い影をおとす。堀辰雄を代表とする軽井沢文学は、そういえば火山の存在を軽視してきた。魅惑的な文体とともに、その意味でも画期的な作品。
<3>宮本常一に私淑し、長年を漁村研究にささげた建築家・地域計画家の遺稿集。海と交感する漁村のゆたかな空間創造性に着目し、そこから未来の地域社会のイメージや防災の知恵を汲(く)む。災禍ゆえに漁師は高台に住み、職住分離すればよしとする施策にも、周到な配慮を促す。
◇本村凌二(東大名誉教授・西洋史)
<1>カエサル 上・下=エイドリアン・ゴールズワーシー、宮坂渉訳(白水社・各4620円)