AFTER CHAPTER
After Chapter 牧瀬紅莉栖についてあなたが知りうる全てのこと
地下室に厳重な鍵をして、わたしたちは外に出た。
日本の空は、今日もいい天気だった。
いつのまにかすっかり夜になって、空には黄金色のコインみたいな月と、いくつかの星が瞬いている。
夜の風は優しい。
――いろんなものが、砕けて消えた。
長い戦いだった。
本来あってはならない岡部の記憶死。
3人の『送信者』との戦い。
そして終わりのない“エンドレスナイン”での、自分との戦い。決意。
岡部の復活。
そして、戦いは終わった。
戦いが終わったのなら、あとするべきことは、たったひとつ。
「岡部」
「なんだ?」
岡部が振り返り、わたしを見る。
言うべきことは無数にある。
伝えるべきことはいくらでもある。
わたしは口を開いた。
「少し……歩かない?」
夜の道を、わたしたちは歩いた。
「ねえ、岡部――今の岡部はどこまで経験しているの? どこまで知ってるの?」
「お前の質問が意図していることが俺の想像通りだとするなら……『全て』だ。全て知っている。お前が経験したことも、俺が経験したことも、全て知っている。俺が『記憶死』を起こしたことも、終わりのないループの世界線のことも、全て」
「そう」
「詳しい理論は俺には分からん――だが、少なくともこれだけは言える。紅莉栖、お前が頑張ってくれなかったら、俺は記憶死したまま、2025年に死んでいただろう。――本当に、感謝している」
そんな。
感謝されるいわれなんてない。
わたしは岡部を、閉じ込めた。
自分だけのものにしようとした。
その罪が、許されるわけじゃない。
「岡部。あんたは、これからどうするの?」
「どうするの、とは?」
「……もう。聞かなくても分かってるくせに」
これからすべきことなんて、ひとつしかない。
α世界線からの脱出。
まゆりの死の回避。
今、岡部の手元にはすべてのカードがある。
もし昨日の状態――岡部が記憶死した状態のまま、β世界線へ脱出してしまったら、岡部は記憶死したままだったはず。
でも、今はもうそんなことは起こらない。
何も障害なんてない。
「SERNへのハッキング。するんでしょう?」
「ああ。……そのつもりだ」
岡部はわたしの目を見ないで告げる。
……やっぱり。
「そう。そりゃ……そうよね。そうすべきよ」
「すでにラボにはダルを待機させてある。SERNへのハッキング準備は完了だ。あとはボタンを押せば、SERNのデータベースにアクセスし、すべてのきっかけとなった『最初のDメール』を削除することができる」
「そしてそのメールを削除すれば、β世界線に移動できる、ってわけか」
そしてまゆりは助かる。
そしてわたしは死ぬ。
「いいのか?」
岡部がつぶやく。
「怖く、ないのか?」
いつか、同じ質問をぶつけられたことを思い出す。
でも心は揺れない。
「そりゃ怖いに決まってる! ――と、言いたいところだけど、いいの。もう決めたことだから。未来に怯えるより、もっと大事なことを考えなくちゃならないって、分かったから」
未来を選ぶこと。
それが、わたしに許された権利。
その言葉を聞いて、岡部の表情が曇った。
「そうか。それがお前の結論なのだな」
「そうよ」
「……そうか」
岡部は――何かを言おうとして、ためらっていた。
「何? なにか言いたいことでもある?」
「実は……俺はまだ、躊躇っている」
……はあ?
何を今さら、こいつは。
「なに言ってるのよ。まゆりを助けるんでしょう? それでSERNの構築するディストピアを回避するんでしょう? それが阿万音鈴羽の――橋田鈴教授の、願いだったはずでしょう?」
「……そのとおりだ」
「だったら、やるべき。SERNへハッキングして、β世界線へ移動すべきよ。だって、あんたは最初にわたしにそう言ったのよ。自分はどちらの世界線を選ぶか、もう決めてきた、って」
「そのとおりだ。お前がそれに賛成していることも知っている。だが……他にも何か、方法が……」
「終わりのない48時間ループ世界なら、お断りよ。わたしは自分の意思で、あのループ世界を脱出したんだから。しっかりしなさいよ、岡部」
「……本当に、いいんだな?」
「岡部」
わたしは岡部の目を見る。
岡部の瞳は、すこしだけモスグリーンがかかっている。
わたしの好きな目だ。
「わたしは、あなたを選ぶ。あなたが進むべき道を選ぶ。あなたは一言、こう言えばいいだけ――『やれ、紅莉栖』って。その一言だけで、わたしは世界と戦えるわ。戦って、完全勝利してやる。ほら、今回も勝った。勝ってここにいるでしょう? だから、あなたは進んで。前に。わたしのことを忘れないでいてくれさえすれば――わたしは、それだけで、いいから」
偽りのない本心。
ようやく言葉にすることができた。
「だから、ね? ラボに行きましょう。橋田を待たせてあるんでしょ? あんまり待ちぼうけさせちゃうと、怒ってハッキング手伝ってくれなくなるかもしれないぞ」
「……俺には、まだ、考える時間が……」
「考える時間ならたっぷりあったはずでしょう? 7000回以上もタイムリープして。……まあ、いいわ。とにかくラボに一旦行きましょうよ。結論はそれから」
話しているあいだに、星が数を増したようだった。
囁くような夜風が道を通り抜ける夏の秋葉原を。
わたしたちは、歩いた。
わたしはそれを、決して忘れないようにしようと思った。
† † †
「おー、牧瀬氏、おかえり。なんか久しぶりに会った気がするっすなー」
「そう?」
ラボに戻ると、橋田が出迎えてくれた。
なんだか懐かしささえ感じてしまう。
シャワー室の『修理中』の張り紙が中途半端にはがされて垂れ下がっているのが、なんとなくおかしい。
「オカリンオカリン、言われたとおりSERNへのハッキング準備いつでもおk」
「そうか。ご苦労」
「んー、それにしてもなんで突然、今なん? ハッキングはイクナイ、とかってずっと止めてたくせに」
「いや……実はこちらの準備がまだ」
岡部の煮え切らない言葉をさえぎるように、わたしは言った。
「いいわよ橋田。いつでもOK」
「あ、そうなん?」
「ちょ、お前、紅莉栖……!」
慌てて止める岡部。
「いいのよ、これで。わたしはもう、ぶれたりしないわ」
「しかし、紅莉栖、お前……」
「なあ、オカリン、牧瀬氏」
橋田がわたしたちの言い合いに割ってはいる。
珍しく真剣な顔。
「僕はいつまでも待つお」
静かな、けれど力のこもった声。
「オカリンと牧瀬氏の気持ちが固まるまで、僕は何日だってここにいるお。決意が固まったら、連絡くれたらおk。だから――」
橋田はキャップを深めにかぶって、腕を組んだ。
「オカリン、めいっぱい悩んでくれ。そんで後悔するな。後で後悔なんかしたら、このラボの右腕である僕が許さない。絶対にだ」
「ダル……」
橋田には――今回の顛末を話していない。
岡部も話していないだろう。
だから橋田は、知らないはずだ。
このままではまゆりが死ぬことも、ハッキングを完了させればまゆりが助かることも。
そして、わたしが死ぬことも。
なのに。
「……ありがとう、橋田」
自然と声が出た。
「ちょっと岡部と外で話をしてくるわ。大丈夫、何日もかからないから。すぐ連絡する」
「しかし紅莉栖、お前は……」
「しょうがないでしょ。ここで悩んでたって結論なんて出ないんだから。ちょっと海の風に当たりましょ」
「海?」
† † †
東京湾の風は涼しい。
それは、日中に暖められた陸の空気が海へと戻るときに、海面で冷やされるからだ。
わたしたちは船の上にいた。
船っていっても、手漕ぎボートや屋形船といった類の船じゃない。大型で白亜の、遊覧用客船だ。
ここ東京では、港区の湾岸沿いまで電車で足を伸ばせば、いくつもの遊覧客船に乗ることができる。出発の20分前までなら乗船できて、けっこう手軽に東京湾のクルーズを満喫できる。金額も――まあ、岡部のゲームソフト2本分くらいだ。これぐらいの散財は、許してもらおう。
客船には、夫婦のカップル、大学のサークルらしい男女グループ、田舎から観光に出てきたらしい親子4人なんかが、東京湾から見える夜景を見たり、レストランで食事をしたりしている。ちょっとした息抜き。甲板では年老いたギター弾きが、乗船客のために古いブルース・ソングを歌っている。
わたしたちは、レストランには行かないで、クルーズ船のデッキの欄干にもたれていた。
背後のゲストルームでは、会社の集まりなのか、スーツを来たサラリーマンたちが歓談に花を咲かせていた。
べつにクルーズ客船っていったって、そうロマンチックなものじゃない。東京のどこにでもある、都会の一区画だ。
わたしは岡部と、とりとめのない話をした。
これまでのこと。今回の事件のこと。ループする世界線のこと。
そして、これからのこと。
岡部はどうにかして、α世界線でもβ世界線でもない、第3の世界を目指すのだという。
「考えたのだがな、これは理論的に可能なことのように思えるのだ……紅莉栖も、まゆりも死なない世界線を探す。鈴羽の使ったような物理タイムマシンをもってしても探し当てることは相当困難だが、不可能ではない」
「そうね。不可能じゃないかもしれない。まあ、相当低い確率だろうけど」
「その世界線はきっとあるのだ。そんな気がする。まゆりも紅莉栖も死なず、ディストピアは訪れず、皆が笑顔で暮らせるような、そんな世界線が――」
わたしは黙って考える。
そんな世界線は、あるのかもしれない。
いや――
「いいことを教えてあげましょうか、岡部」
「何だ?」
「その世界線は、実在するわ」
「……!?」
驚いてこちらを見る岡部。
「いいえ、どんな世界線だって存在する。だって世界線は無限にあるんだもの。あらゆるバリエーションのわたしたちが存在しうる。……それに実は、少しだけ計算してみたこともあるの。どういう世界線への条件なら、αでもβでもない世界線に行けるのか」
「ほ、本当か? どういう条件なのだ! どうして今まで黙っていたのだ!」
「だって――それは、事実上、移動が不可能な世界線だから」
「――不可能?」
「その世界は、理論上は確かにある。移動条件も、分かっている。それはね、岡部。『タイムマシンが決して開発されない世界』っていう条件なの。もしタイムマシンなりDメールなりが存在できたら、必ず過去への干渉が起こる。そうするとどんな形であれ、必ずアトラクタフィールド因子がはたらくわ。だからこのα世界線からは『そこ』に行けない。同じ理由で、β世界線からも行くのは不可能よ」
「では……結局、どうやってもその世界線には行けないのではないか!」
「そうよ。最初にそう言った。けどね岡部。あんたはそこを目指して」
「…………」
「これはあんたにしかできない。その世界線――未来の分からない、運命の存在しない世界線へは、あんたにしか行けない。もちろんその『理想の世界線』に行けば、あんたのその能力、“リーディング・シュタイナー”は価値を失う。タイムマシンが存在しないんだからね。そしてもしそこで不幸なことが起こっても、タイムマシンはない。世界線を選びなおすことはできないわ。それでも――」
「――分かった。俺はその世界線を目指す」
はっきりと、岡部は断言した。
その目には決意が宿っている。
「……あーあ。残念だな。その世界線にもし岡部がたどり着いたとしても、その時わたしは、今の記憶をぜんぶ失ってるんでしょ? ……なんだか卑怯よね。岡部だけぜんぶ覚えてて、わたしは何も知らないなんて」
「そうか。もしこの先お前と再会できることがあっても……お前は、何も、覚えていないのか」
岡部が今さらのように驚く。
「そうよ。今ごろ気がついたの?」
ラボメンとしての日々も。
『送信者』たちと戦ったことも。
それどころか、岡部という人間のことさえ。
わたしは、忘れてしまう。
β世界線に行けば、わたしは消える。
そしてもし再び別の世界線に行けたとしても――わたしは、もう、今のわたしではない。
記憶は人格。
やっぱり、あらゆる意味において、この記憶と経験を持つというわたしは、ここで死ぬんだ。
「なあ……紅莉栖。やっぱりダルには帰ってもらって、ハッキングは明日に」
「だらしないなあ、もう!」
予想はしてたけど。
岡部はまだ躊躇っている。
「そんなことだと思ったから、実はさっき橋田に電話して、PCのプログラムに細工してもらったのよ」
「細工……?」
「そう。SERNのハッキングは、ある自動プログラムによって実行されるの。そのプログラムは、1分におよそ1%の確率で実行されるようにセットされてる。というか、そういうふうに橋田に設定してもらったのね。今ラボでは、無人の自動実行プログラムが、1分ごとにハッキング実行の自動判定を行ってるわ」
「――それは、お前、ひょっとして――」
1分間に1%。
それ自体は、低い確率だ。
じっさい、ラボを出てから今までの1時間強のあいだ、ハッキングは実行されなかった。
わたしがまだ無事にここにいることから、それがわかる。
けど、これから先はどうか分からない。
1分に1%――その確率が、どれほどのものか。
「計算してみるといいわ。1分間に1%の確率とした場合、50分では50%じゃないのよ。累乗計算だから、ハッキングが実行される確率はおよそ39.5%。2時間で70.1%。3時間で83.1%。今だいたい1時間くらい経ったから、ざっと45%のハッキング確率をくぐり抜けてきたことになるわね」
「なるわね、ってお前、いいのかそれで……!」
「いいのかって、何で?」
「そんな大事なことを、確率なんかに任せて! 本来そういうものは、もっと――もっと何というか、きちんと決めるべきだろう!」
「いいのよ、これで」
「しかし……」
「これくらいがちょうどいいの。だって、普通こんなもんでしょ? 別れの瞬間なんて、こういうのが普通。わたしたちがそう自由に選べるほうが珍しいわ。だから、これでいいのよ」
「紅莉栖……」
わたしは海風に髪をあそばせる。
こうすることは、ずっと前から決めていたこと。
「確率から言って、あと1時間かそのくらいで、わたしは消える。もちろん1分後かもしれないし、ひょっとしたら明日まで持つかもしれないわ。でもわたしはいつか必ず消える。そういうものでしょう?」
「お前……強く、なったな」
しみじみと言う岡部。
「なによ、わたしは元から強いです」
それでもやっぱり。
本当のことは言えなかった。
こんなだまし討ち的な確率論で消える本当の理由は、岡部には言えなかった。
だって、恥ずかしすぎるんだもの。
別れる瞬間の、わたしの泣き顔を見られたくないから、なんて――
「なあ、紅莉栖」
岡部が海を見たまま言った。
「お前はループする世界線のことを覚えているか?」
岡部の問いかけ。
もちろん、忘れるわけがない。
「忘れたくっても、忘れられそうにないわ」
「あの時――」
少し呼吸を置いてから、岡部は言った。
「――雨の山の中で、お前は言ったな。『俺のことが好きだ』と」
「っ…………!!」
い、いきなり何を言い出すのか。
びっくりして息が止まっちゃったじゃないか。
「な、なによ突然……! いったいいつの話を持ち出すのよ!」
「いや……あのときの返事を、俺はまだしていないと思ってな」
へ?
――返事?
「返事って……なに、どういう返事?」
「分かっているのに聞き返すのはよせ。お前は自分の気持ちを言った。それに対する、俺の気持ちをちゃんと伝えていなかっただろう?」
ああ。
そういうことか。
返事――もらってなかったっけ。
そういえば、答えらしい答えは、ちゃんともらってなかったようにも思う。
でも、ねえ。
あんなことまでしておいて、ねえ。
「そう――それで、今、教えてくれるんだ。返事」
わたしはすっかり答えてもらった気になっていたけど。
そうやって改めて問いかけられると。
「教えてくれるの?」
「……俺は」
岡部の真剣なまなざし。
ドキドキしてくる。
「俺は……まゆりを死なせたくなかった」
「え?」
突然出てくる、まゆりの名前。
そりゃあ、岡部とまゆりは幼馴染で、お互いのことをよく知ってる、切っても切れない縁なんだろうけど――
どうして、今?
「まゆりを死なせないために、俺はいろんな敵と戦った。くじけそうになっても、体中を殴られ蹴られても、それこそ銃で撃たれようと、俺は立ち止まらなかった。タイムリープし続けた。それは、まゆりのことが大切だったからだし――それこそ自分の命よりも、守らなくてはならないものだったからだ」
「岡部……」
「SERNやディストピアなんて関係なく、俺はまゆりの命が――まゆりの生命だけが大事だった。他のものはどうでもよかった」
岡部は語る。
偽りのない本心を。
「……………………………………………………………………………………だが今、まゆりが、死んでもいいとすら思っている」
「岡、部……?」
「まゆりの命の替わりは存在しない。でも紅莉栖、お前の命はもっと――まゆりの命よりも、いや、まゆりも含めた世界全体の命よりも、大切なんだ。それは俺が、お前のことを、絶対にもう二度と、今後一生かかっても決して変わらない思いで、大切に思っているからだ」
そこで、岡部はこちらを向いた。
変わらぬ涼しげな瞳に、微笑みをたたえて。
「紅莉栖、好きだ」
「…………」
「紅莉栖、大好きだ」
「…………」
「紅莉栖、お前だけだ。俺にはずっと、お前しかいない。これからも」
…………どうして。
……どうして、今わの際になって、こんな……
「そ、う…………」
そう答えるのがやっと。
言葉にならない想いが、わたしの胸をしめつける。
「お前がいつ消えるか分からないと言われて――ようやく伝える決心がついた」
見ると、岡部の指が小刻みに震えている。
耳まで赤い。
顔は、緊張に震えそうな表情を、必死に引き締めている。
「岡部……あ」
ありがとう。
そう言おうとして、言葉がつかえた。
わたしの喉も、震えている。
言葉にならない。
言葉にならない気持ち。
でもわたしたちは、確かにそのとき、その気持ちを交換した。
「で、でも……まゆりが死んでもいいなんて、そんなこと、思ってないでしょう」
「いや」
岡部はまっすぐに見て、言う。
「本当だ」
嘘をついている顔じゃない。
岡部はこういう嘘はつけない。
「もしお前がそう望むのなら――俺はお前と、このα世界線で生きていく。俺が死ぬ2025年までに、何かの本格的な対策を見つければいいだけだ。お前がそう望みさえすれば」
本気だ。
岡部はどこまでも本気だった。
だからこそ。
「ありがとう、岡部。……でも、まずはまゆりを助けて」
岡部はうなずく。
わたしの言うことなんて全部分かっている、とでもいうように。
「わたし、いつまでも待つ。あなたが迎えに来てくれるのを――どこか別の世界線で、別の秋葉原で、いつまでも待つからね」
「ああ。……必ず迎えに行くよ」
わたしは手を差し出した。
「ほら、約束の握手。いわゆる欧米的スタイルってやつ?」
「ふっ、クリスティーナよ、こういうときだけ欧米人ぶりおってからに」
岡部は笑いながら、わたしの手を握った。
しっかりとした感触。
岡部の大きな手。
一瞬、なにもかも投げ出して、永遠にこの手を握っていたいという衝動にかられる。
でも、わたしはそれをしない。
わたしは自分の生き方を自分で決める。
それがわたし――牧瀬紅莉栖だから。
海の遠くのほうで、小さく、汽笛のようなものが鳴った。
それは茫漠とした海の水に吸い取られて、遠雷のように海の上に響いた。
「――漁船が近づいたのかな?」
岡部が汽笛のしたほうを見る。
見ると、クルーズ船の針路にたまたま居合わせた漁船が、衝突しないように遠くから警笛を鳴らしたようだった。
クルーズ船と漁船は、慣れた様子で針路を変え、離れていく。
わたしたちの乗る船が航路を変えたために、一瞬、船が大きく揺れた。
デッキにいた乗客たちが、バランスを崩して一瞬たたらを踏む。
「おっと」
岡部も、ほんの少しだけ足をずらして、自分の体重を支えた。
――ありがとう、岡部。
大好きだよ。
「……ふう。少し揺れたな」
また静かな航行に戻ったデッキを踏みしめて、岡部はつぶやいた。
「大丈夫だったか? なあ紅莉……」
岡部は握手している自分の手を見た。
そこには、誰もいなかった。
影も形も。
岡部はひとり、デッキの上に立っていた。
海風が吹いていた。
「………………紅莉栖」
誰にともなく、つぶやく。
視線が周囲をさまよう。
またいつもの悪戯じゃないかと。
物陰からひょっこり姿を現すんじゃないかと。
それから、岡部は自分のケータイを取り出して、着信履歴を見る。
もちろんそこに、彼の助手の名前はない。
ラボメンだった年下の少女の名前はない。
どこにも。
「……………………そうか紅莉栖。お前は、行ったか」
すべてを悟ったような目で、岡部は海を見た。
ざざ、ざざ、と穏やかな波の音だけが聞こえていた。
岡部は考える。
たぶんこの船の名簿には、自分ひとりが乗船したことになっているだろう。
乗客名簿には、牧瀬紅莉栖の名前すらないだろう。
「お前は……幸せだったか?」
岡部はデッキの欄干にもたれる。
眼下の海を見る。
「そういえばお前に、一言だけ、伝えてない言葉があったな……」
眼の下に広がる海は、細かい三角形の波が立っていて、止まることなく動いている。
だから、簡単には分からない。
水面に、いくつもの水滴が落ちても、波紋が見えることはない。
「『好きだ』や『すまない』……お前にはいろんな気持ちを伝えたが……紅莉栖、俺は、お前にまだ『ありがとう』と言っていなかったな……」
水滴が、いくつも。
岡部の瞳から流れ落ちても、誰にも分からない。
「ありがとう、紅莉栖……」
瞳から、涙が。
とどまることなく、流れ落ちる。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……! 紅莉栖、お前がいてくれてよかった……! お前がいてくれたおかげで、俺は……っ!」
デッキの乗客が、遠巻きに岡部を眺める。
突然泣き崩れた男に、何事だろうと。
7000回を超えるタイムリープを実行し、いくつもの世界線を横断し、そしてたった今、世界を救った男は、恥も外聞もなく、ただ手すりにもたれて泣きつづけた。
ただひとりの少女のために。
彼が生まれて初めて本気で好きになった、たったひとりのパートナーのために。
声もなく、泣きつづけた。
† † †
“リーディング・シュタイナー”。
それは、量子論で言う観測効果の一種だ。
その事実はすでに、牧瀬紅莉栖が看破している。
観測効果とは、量子力学で言うところの、『観測者が観察しているかいないかで、実験の結果が変わってしまう』効果のことを指す。
たとえば、電子銃の二重スリット干渉実験では、観察者がスリットに入る電子の挙動を『見ている』ときと、『見ていない』ときとで、干渉縞の模様が違うことが確認されている。
これは量子論で有名なパラドックス、『観測者がただ見るだけで、物理現象が変わってしまう』――つまり『観測そのものに物理効果がある』という奇妙な現象のことを指し、物理学会でもまだ統一見解を見ていない、近代物理学の謎のひとつである。
観測者が、粒子に触れもせず、ただ見ているというだけで物理現象に影響を及ぼすなど、常識ではとうてい考えられない。
だが、『シュレディンガーの猫』の思考実験が示すとおり、この世界はもともと、人間の常識的物理観からは遠く離れた現象が、当たり前に起こる世界だ。
その『非常識な』物理現象は、主に極小の世界、電子などの素粒子が運動するとき、支配的になる。
そして――人間の『脳』はまさに、神経パルス、すなわち電子が支配する世界。
そこでは量子的な現象、つまり常識ではとても信じられないような現象が、当たり前に起こっている。
トンネル効果によって電子が壁をすり抜けることも。
不確定性原理によって思考が確率的にしか決められないのも。
すべて、脳の中の幽霊――『電子』が作り出す、幻の宮殿だ。
そこでは何でも起こりうる。
そして“リーディング・シュタイナー”は、そういった脳の特異性が生み出す、一種の『世界誤認』に過ぎない。
たとえば、脳の記憶をつかさどる海馬に、ある種の電子孔、ホール因子を持つ人間がいたとする。
この電子孔は、珍しいものではない。半導体などには当たり前に含まれ、電子の流れをコントロールしている。
電子孔とは文字通り、電子がひとつ入るポケットのようなものだ。
だが電子は粒子であると同時に波でもあるため、低い確率でひとつのポケットに2つ以上の電子が蓄積されることがある。
狭いポケットの中に電子の球がふたつ、ぎゅうぎゅう詰めになっている図を想像してもらえばいい。
さらに電子は確率的な存在のため、ポケットの壁を越えて、壁の向こうへと『にじみ出す』。
この、にじみ出した電子が、周囲の脳パルスと相互作用し、一種の極小回路のように振るまうことがある。
それは質量にしてわずか0.0000001グラム。
埃の重さの何万分の一しかない極小回路。
それでも、その回路は一兆の一兆倍個という、膨大な電子を閉じ込めている。
これにより、その『孔』を持つ人間は、世界を観測するという脳の基本的機能を『奪われる』のだ。
厳密には、海馬傍回からウェルニッケ野に至る中枢神経回路、ここに『電子孔』があると、その人間はいわゆる観測効果を起こせなくなる。
それは一種の疾患。
世界が変わっても、それを『観測』できない。『認識』できない。
世界とは、矛盾を許さない一種のストーリーのようなものだ。
アトラクタフィールド理論とは、『どんな人間も、同じものを同じように観測したら同じように認識しなくてはならない』という、量子論の超々基礎を、別の言い方で表現したものに過ぎないのだ。
同じストーリーの中にいる限り、登場人物はすべて、同じ世界を見ていなくてはならない。
過去を変えると、このストーリーが別のバージョンに変わる。
それが量子論における、たくさんの科学者が実際に証明した『観測効果』の一種だ。
だが、脳に疾患――『電子孔』を持つ人間は、この観測を行うことができない。
世界が変わっても、脳に新しい情報をインストールすることができない。
過去が変わって、『これが新しい世界の情報だから、ちゃんと覚えてね』と世界に新設定集を渡されても、それを読むことができないのだ。
この結果、前の世界線のことしか覚えていられない。
情報を上書きすることができない。
――これが、“リーディング・シュタイナー”の正体。
これが、岡部倫太郎の脳内で起こっていることだ。
そして、牧瀬紅莉栖は――
そのことを、理解していた。
† † †
秋葉原は今日も晴れ。
街はたくさんの人でにぎわっていた。
ここ数日続いた晴天のせいで、青空は宇宙まで見えそうなほど青く澄み渡っている。
その完全な青の空の下、いろんな人種のいろんな年齢の人たちが、めいめいの方向に向かって歩いている。
風は熱く、エアコンの排気と制汗剤のにおい、それから種々の人たちが生み出す、肌と汗のにおいが混じっている。
フリルの衣装を着た少女たちのメイド喫茶への呼び込み。
タイムセールを告げる大型電気店の宣伝。
秋葉原クローズフィールドの陸橋を歩く黒いスーツのビジネスマンたち。
その頭上では、ビルの壁面にある大型街頭ビジョンが、最近売れ出したヴィジュアルバンドのPV映像を流している。
ケバブを売る露店の外国人が、道に迷った同じく外国人と、地図を覗き込みながら何か相談している。
アニメキャラのコスプレをした女子3人組が、楽しそうに笑いながら横断歩道を歩いていく。
みんなが、それぞれにとっての目的のために、それぞれにとっての秋葉原を楽しんでいる。
その中で、ひときわ目立つ、大きな銀色のキャリーケースを引きずる人影がひとつ。
携帯電話を片手に、人ごみの秋葉原を、直線に歩く人影。
人ごみをかき分けるでもなく、避けるわけでもなく、その行く道を中心に、人波がふたつに割れていく、切れ味のいい果物ナイフのような足取りで、その人影は歩く。
左手は銀色のキャリーケースを引っ張りながら。
右手ではケータイを耳に当てながら。
人ごみの秋葉原を。
汗ひとつかかずに。
凛として歩いている。
「え? ――だから、悪かったって」
携帯電話に向かって、話しかける。
「うん。そう。――嫌だなあ、そんなわけないじゃない」
荷物を持つ足取りは軽い。
ブラウンの髪が、熱風になびく。
赤のボウタイにパープルブルーのラインのシャツ。
クリームブラウンのパーカーとショートパンツ。
「うん。だから、記者会見、ちゃんと開けたの? ――ごめんね、見にいけなくて。せっかく誘ってくれたのに。うん。うん。――タイムマシン、だっけ? ううん、分かんない。でも、パパならできるよ」
携帯電話に向かって、明るく話しかけながら。
大通りを、東に向かって歩いていく。
もうひとり、大通りを、西に向かって歩いていく人影がある。
皺のついた白衣。
ぼさぼさの黒髪。
単に剃るのが面倒だから生えたままの、無精髭。
足元はサンダル。
左手はポケットの中。
そして右手は、クリムゾンレッドのストレート型ケータイを持って。
「うん? ああ。――なに、忘れた、だと?」
ケータイに話しかけながら、顔をしかめる。
「おいおい。それでは未来ガジェット9号機のお披露目会はどうするのだ。ミスターブラウンに、さんざん自慢してしまったぞっ! おいダル、ちゃんと聞いているのか?」
人ごみをまるで気にせず、気ままな速度で歩いていく。
「なに? まゆりが? ――ジューシーからあげナンバー1を買って来い、だと? いつから俺はパシリになったのだ。お前っ、俺がまゆりのために何回タイムリープを繰り返してっ、しかもその後も、このシュタインズゲート世界線に来るためにどれだけ苦労したと――っ」
西から来た人影と。
東から来た人影が。
すれ違う。
「――っ!」
白衣のほうの人影が、言葉を失う。
彼の横を、栗色の長い髪の毛がたなびいてすれ違い、去っていく。
慌てて振り返る。
その視線の先には。
「ま……」
岡部倫太郎が、叫ぶ。
「牧瀬、紅莉栖っ!?」
キャリーケースが止まる。
ゆっくりと、振り返る。
岡部倫太郎を見る。
ケータイを耳に当てたまま。
――自分の名前を呼んだ男を、見る。
「ま……牧瀬紅莉栖だな! そうだな?」
岡部倫太郎が慌てて駆け寄る。
その息が、上がっている。
「え……」
キャリーケースにもたれながら、不思議そうに首をかしげる。
「そうですけど……あなた、誰?」
「っ…………」
岡部倫太郎が口をパクパクさせる。
伝えたいことがあるのに言葉が出てこない、とでもいうように。
「おっ……お前は、牧瀬紅莉栖だ。そうだな!?」
「だから、そうだって言ってるでしょ……どうしてわたしの名前を? どこかでお会いしましたっけ?」
岡部は反射的に、相手の肩を両手で掴んでいた。
「ひゃ……っ!」
「お前は牧瀬紅莉栖だ! 俺は……岡部倫太郎、ラボメンナンバー001にして、世界を混沌に導く者、鳳凰院凶真だっ!」
「いっ……痛い、ちょっと、離して……」
「こ、混乱するのも分かる。だが怪しいものじゃない、説明すれば、ちゃんと分かる!」
「離してくださ……痛い、離してよ!」
大きな声に驚いて、岡部がようやく気づいたように両手を離す。
「す、すまん……悪気があったわけじゃなくてだな、これは、その」
「もう……いい加減にしてください。警察呼びますよ!」
岡部は狼狽して、一歩下がる。
「いや、何もしない。何もしないから聞いてくれ、お前はここではない別の世界線で、俺たちと一緒にタイムマシンを開発した。そしてそのタイムマシンを使って、過去を変えたんだ! 今は過去を変えた影響でその時の俺たちの関係は“なかったこと”になっているが――お前はまぎれもなく、俺のパートナーなのだ、牧瀬紅莉栖っ!」
「はああああ? ちょっと……何? いきなり何言ってるの?」
「なあ、思い出せないか? ほんの少しも? タイムリープマシンの実験や、IBN5100を使ったハッキングや、『送信者』たちとの戦いを? お前は俺のために、命を賭けて戦ってくれた! 今では“なかったこと”になったが――お前は俺の、命の恩人なんだ!」
「や、やめなさいよ……! なに、何なの? 何なの急に?」
「お前と別れた後、世界は確かに、『まゆりの死なない世界線』――β世界線に移行した。しかしその世界では、お前はやはり、ラジ館で刺され――死亡することが確定してしまっていた! だから、俺は――」
「ちょ、ちょっと」
「だから俺は、さらに未来から届いた、30代の未来の俺自身に指示されながら、物理タイムマシンを使ってこの世界に到達した。お前があの時言ったとおり、『タイムマシンが決して発明されない世界線』を目指してな。だから俺は、中鉢博士が完成させようとしていた論文、『中鉢論文』を盗もうとした何者かと戦い、中鉢論文そのものも焼却処分した。この世界では、もう二度とタイムマシンが生まれることはない」
「ここが! お前が予言した、あの世界線! 『シュタインズゲート』なんだ!」
「すべて、お前がいなくては、成し遂げられなかったことだ……牧瀬紅莉栖、お前が、世界を救ったんだ……」
岡部が、ふたたび肩を握り締める。
「頼むっ、思い出してくれ! いや、思い出さなくてもいい……どうか、怖がらないでくれ。俺は、怪しいものじゃない……お前の仲間だ、クリスティーナ……っ」
「あなた何? アレな人? ……言ってることがぶっとびすぎてて、何が何だか……第一、タイムマシンなんて存在するわけないでしょ」
「いいや、あるんだ! それは確かにある!」
「じゃあ、どんな動作原理なのか教えてください。30秒以内で。じゃなきゃ、わたし帰りますから」
「い、今か?」
「なに、やっぱり嘘? 妄想? 電波ですか? はい、5秒経過」
「まっ……待て! 分かった、答える! だから待て! ええと、いいか。タイムマシンの動作原理はだな。まずブラックホールがあってだな……」
「10秒経過」
「その……むむぅ、ブラックホールに、リフターで電子を注入してだなあ……裸の特異点という状態を作り出して、その……アレだ、そこが過去とつながっているから、だから……」
「馬鹿馬鹿しい。どうして裸の特異点が過去につながってるんですか? はい残り10秒」
「そっ、それは……? あれ、お前に教わったっけ? 裸の特異点は……リング状で……あれ、この場所では重力が無限大なのに無限大じゃなくて……んん? 違った、そこに電波が吸い込まれると……アレがアレで……ああなって、電波がこう、びゅーんと過去方向に飛んで……」
「…………」
「いや待て、そんな目をするのはよせ! 分かっている、何もかも分かっているのだぞう、この俺にはっ! いいか、こう科学的に、カー・ブラックホールにはすごい力があってだな……! いや知らんが、お前が言うにはこう、宇宙がヤバイ的な、そんな力があってだな……!」
「………………っ」
岡部は気がつく。
相手の肩が震えていることに。
下を向いて、口を押さえていることに。
「…………っ、くくっ、くくくっ」
汗まみれでしどろもどろ、必死に身振り手振りで弁明する岡部。
その姿がビルのガラス壁面に映っている。
岡部の必死な姿は、はたから見ても滑稽で。
ガラスに映るもうひとりの人影――は、口を押さえて、お腹に手をあてて、
「っ……くくっ、ぷぷぷ、ふふ、あはははははははははははっ!」
――人影は。
というか。
――わたしは我慢できず、笑い出してしまった。
「ぷぷぷぷっ、何よそれ、すごい力って! ブラックホールだからすごい力があるって、重力が無限大なのに無限大じゃないとか! なにそれ? 裸の特異点で宇宙がヤバい? ぷぷっ、あははははははははっ!」
「おっ、おおおお俺はっ」
「あはははは、もう、ホント馬鹿ねえ。ちゃんと覚えときなさいよ、それくらい。あのねえ、言っておくけど、わたしはちゃんと教えたわよ? あんたが覚えてないだけ」
「……………………え」
「まったく、大した能力者だこと」
わたしは、キャリーケースに腰掛けて足を組む。
「はい、答え合わせ。いい? アインシュタインが否定したように、ブラックホールの特異点は相対性理論が破綻する物理的な仮想点。そこでは時間は空間の関数であるという、相対性理論の原則が通用しないの。だからその特異点強度によっては、電波みたいなミクロな物質は、今を中心にして過去から未来へと引き伸ばして存在できる。そのおかげで、メールが過去に飛ぶのよ。分かった? IQ170の天才マッドサイエンティスト――鳳凰院凶真さん?」
呆然とする岡部。
目の前のことが信じられないのだろう。
「な、紅莉栖……? お前、でも、え?」
「まったく、ちょっとは期待したんだけどなあ? あんたが世界を救う本物の科学者になってバリバリ稼いでくれてれば、わたしは引退して、平和に主婦でもやってればいいやって思ったんだけど、いやはや。まだまだヒヨコちゃんね、この鳳凰院は」
「な……お前、ひょっとして」
「いやーそれにしても楽しかった。岡部のあのうろたえよう。何が『俺は怪しいものじゃない』よ。岡部は24時間、年中無休で怪しいっつうの……うぷぷ、あーいやいや、笑った笑った」
「お前……俺のことを、覚えて、いるのか?」
「あのねえ。あんたには何度も言うようだけど、まあいいわ。何度だって言ってやる」
わたしは一呼吸おいてから、言った。
「わたしを誰だと思ってるの?」
呆然としている岡部。
「いつかわたし、言ったわよね。リーディング・シュタイナーの動作原理が分かった、って。あの時の言葉は嘘だったけど、その後やっぱり気になって、調べたの。っていうのは――過去のわたしが、って意味だけど。あんたの脳波データを保存したときに、ついでに解析にもかけて、レポートに残してたのね。それを引き継いで、わたしはリーディング・シュタイナーの動作する理由を突き止めた。やっぱり予想したとおり、観測効果の一形態で、岡部には通常備わっている脳の認識機能が欠けているために、記憶継続現象が起こってるんだと分かった」
わたしはすらすらと続ける。
「あとは簡単。まず記憶を過去に送ってから、タイムリープマシンの機能を応用して、わたしの脳にも一時的な欠落状態を作る。その状態で世界線が移動すれば、わたしも記憶継続現象を起こせる、ってこと」
「待てよ、つまり、お前は……」
「そう。つまりわたしも、『リーディング・シュタイナー』を使えるの。まあ、あらかじめ準備した機械の力を借りないといけない、不完全な能力だけどね」
「おいおい……お前……」
岡部があきれた顔で言った。
お前、どこまで無敵なんだ……?
わたしはふふん、と鼻を鳴らしてから、跳ねるように立ち上がった。
「さて、行きましょ!」
「い、行くって、どこに?」
「決まってるでしょ、ラボよ! みんなわたしのこと忘れてるはずだから、もう一回自己紹介しないとね! いちおう、あんたが紹介する、って形をとらないといけないでしょう? ま、あんたがうまく辻褄のあった紹介をできるとは思えないから、横に立ってるだけでいいわ! さーあ、みんなに、っていうか特に天王寺綯ちゃんに、どんな顔で挨拶すればいいかしらー?」
くるりと回るように立ち上がって、歩き出す。
「ほら、何してんの! 置いてくわよ、岡部!」
「ん? ん、ああ……」
岡部は釈然としない様子でついてくる。
わたしは颯爽と歩いてく。
「な、なあ紅莉栖」
「なによ、岡部?」
岡部は顎に指をあてて、首をかしげている。
「さっきお前が言った台詞だが……」
「な、何よ?」
「いや……『俺が本物の科学者になってバリバリ稼いでくれてれば、お前は引退して、平和に主婦でもやってればいいやって思った』とかいう台詞……確かさっき、お前が言ったんだよな?」
「え? あ、いや、そ、そうだったかしら?」
「どういう意味だ? どうして俺がバリバリ稼いだら、お前は主婦をしていいことになる? ラボに科学者はふたりもいらん、ということか? いや、そうじゃないよな。べつに席がひとつしかないわけじゃないし。うーむ、だとすると……?」
「わ、ちょ、おま、何考えて」
岡部は首をひねって立ち止まっている。
「なにやら裏の意味が隠されているような気が……ううーむ、なあ紅莉栖、あの言葉は一体どういう、んぐむんっ!?」
岡部の口をふさいでやる。
力いっぱい。
――わたしの唇で。
「んん……っ、ぷはっ!? お、おお、おい紅莉栖、い、いきなり何をっ!?」
「へーんだ! あんたが馬鹿なことばっかり考えてるから、答えを教えてやったの! そういう意味よ! 分かった? 分かったらはやくついて来なさい!」
「あ、おい、紅莉栖!」
大通りを、踊るように駆けていく。
夏の秋葉原、その大通りを。
どこまでも青く晴れ渡った空には、透明な風が吹き抜けていく。
世界がわたしたちを、どれだけ狙っても。
悪意がわたしたちを、どれだけ歪めても。
わたしたちは、決して屈しないだろう。
わたしたちは、決して負けないだろう。
わたしたちには、未来があるから。
誰にも汚すことの出来ない、可能性があるから。
それは可能性のお話。
わたしたちの間にたしかに存在する、時間と未来に関するお話。
わたしたちの未来はどこまでも続いていくけど。
わたしたちの選択と戦いはいつまでもそこに在るけど。
このお話は、いったんここで、お終い。
エル・プサイ・コングルゥ。
未来は確かに、そこにあるものだから――
<牧瀬紅莉栖のエンドレスデイドリーマー 了>