LAST CHAPTER

Last Chapter 牧瀬紅莉栖のエンドレスナイン



そこでは、わたしは11歳の少女だった。
そして同時に18歳の今の姿だった。
そしてまた同時に30歳の『タイムマシンの母』だった。
風景は高速写真のように不自然に過ぎ去り、自分以外のものの輪郭は戯画的に揺らめいていた。
わたしは白くてまた黒い場所に立っていた。
時間は急激かつ緩慢だった。
時間は折り重なっていて、因果は不連続で、すべての事象は瞬間で終わりまた永遠に続いた。

わたしたちは思った。
「こんな世界線はまちがっている」と。
わたしたちは思った。
「わたしの願いが叶えられていない」と。
わたしたちは思った。
「こんな世界が、わたしの世界のはずがない」と。
わたしは生きてきた。
もがきながら、それでも生きてきた。
誰にも理解されず、それでも物理を勉強してきた11歳の時代。
父親に憎まれ、心をきしませながら生きてきた18歳の時代。
最高の天才ともてはやされ、その実監禁され研究を強要された凍える30歳の時代。
運命に翻弄され、削りとられ、抉りとられ、損なわれながらも、必死に生きた。
それが無意味だったなんて、そんなのありえない。

「そうではない」
岡部が言った。
それは少年の岡部であり、青年の岡部であり、壮年の岡部だった。
わたしたちは向き合った。
「お前はいつもどこかで、決断を他人に預けてきた」
岡部の容赦ない言葉。
「そんなことない」
「わたしはいつだって、自分の欲しいものを手に入れようとがんばってきた」
「本当に?」
岡部の言葉が一千の黒い鴉になってわたしの体に突き刺さる。
「物理を志したのは、父親が見せてくれる美しい理論と幻想に、自動的に反応しただけではないのか?」
岡部が無表情に問う。
「秋葉原でラボメンになったのは、岡部倫太郎に頼まれ、またDメールという興味深い実験対象に、自動的に反応しただけではないのか?」
岡部が無表情に問う。
「タイムマシンの母となったのは、SERNに強要されたからではないのか?」
岡部が無表情に問う。
「違うのか? そこにお前の選択はあったか? お前の自由意志はあったか?」
わたしは首を振る。
答えられない。
「でも、それが選択でないと言うのなら、人の選択は幻想にすぎない」
「そうだ、お前の選択は幻想だ。お前は何も選んではいない」
岡部の姿がぼやけ、何重にも重ねて映し出される。
ラボで笑っている岡部。
夜の道を歩いている岡部。
まゆりを抱いて絶叫している岡部。
ビルの階段で、牧瀬紅莉栖を抱きしめる岡部。
すべての岡部が、いっせいにこちらを見て、無表情に告げる。
「お前は、運命の、奴隷だ」

わたしの体は融ける。
わたしの瞳はガラス玉にすぎず、わたしの身体は藁束にすぎず、わたしの心は壊れたスピーカーにすぎなかった。
闇の中で、わたしはゆるやかに、死を想う。
死だけが、確かな法則だった。
なにもないこの世界で、いつか死ぬという事実だけが、わたしにそっと寄り添っていた。
そして死の恐怖を自分の分身のようにかき抱きながら、
――わたしは眠ったまま、目覚めた。


†  †  †


目を開くと、わたしは明るい場所にいた。
色とりどりの光が、わたしの網膜に飛び込んでくる。
窓の向こうの空の青、木々の緑。室内をいきかう、さまざまな人たちの色あざやかな服。
テーブルのクリーム色。店内の明るい照明。
遠くで蝉の音が聞こえている。
夏の空気とエアコンの匂い。料理の匂いもする。
――ええと。
――なんだっけ?
わたしは自分を見る。
デート用の服を着て、ランチを食べている。
それが今のわたし。
ってことは、これは、何? 何だっけ?
なにか大事なことを、しなくちゃいけなかったような。
なにか大きな戦いの最中だったような……
頭の中でなにか重大なことが思い出されようとしている。けれど記憶は、さらさらの水のようにこぼれて、うまく思い出せない。
それより、なんだか、心地がいい。
空気はなんだかしばらくぶりに嗅いだみたいに新鮮で、肺の細胞が喜んでるみたいだ。
すごく頭がすっきりしている。なんだか、すごくよく寝た後みたい。
空気はよく乾いていて涼しく、太陽はまぶしい。
生まれ変わったみたいだ。
というより、なんだか――
「べつの世界に来たみたいだな」
わたしは声に出して言ってみた。
「何を言っているのだ、我が助手よ?」
目の前の岡部が返事をした。
パスタを口に運びながら、不思議そうな顔でわたしを見ている。
ああ、岡部か。
「ああ、なんでもない。なんか急にね、不思議な感じが――」
…………。
…………岡部。
…………岡部?
岡部が、いる?
岡部が……ほんものの岡部が、わたしの目の前に?
「お……かべ? ホンモノ? ニセモノじゃ、ない?」
「何を言っているのだクリスティーナ。俺は俺に決まっているじゃないか。他に何がある?」
岡部。
世界線。タイムリープ。アトラクタフィールド。
記憶死。ノイズメモリー。天王寺綯。
岡部を神にするだけの簡単なお仕事。

「…………っ」
記憶がフラッシュバックのように蘇る。
未来の記憶を“思い出す”。
そうだ。
わたしは岡部を記憶死から助けるために、天王寺綯と戦っていた。
そして何もかもを失った。
だから取り戻すために、タイムリープし時間をさかのぼった。
そして――
「岡部っ!」
気づいたら、わたしはテーブル越しに岡部に抱きついていた。
「おっ、ちょ、っ、クリスティーナ?」
両腕に岡部の細い体を強く抱きしめる。
テーブルの食器ががちゃがちゃと鳴る。
本物だ。
本物の岡部の体。ぬくもり。声。
頭の中をさまざまな情報が一気に駆け抜ける。
気づいたら、わたしは岡部の口に自分の唇を押しつけていた。
髭のチクチクした感触。
オリーブオイルの匂い。
「…………っ!」
助けたかった。
元の姿に戻してあげたかった。
でも、それ以上に、わたしは岡部に助けてほしかった。
そばにいて、一緒に悩んでほしかった。
だって――やっぱり、あんな敵、わたしじゃ勝てっこ、ないよ――!
「っ……クリスティーナ、すごく嬉しいが、こ、これはさすがに、その、人目とか……!」
………………あ。
わたしは慌てて離れる。
周囲の人が、ひそひそと、あるいは生暖かく、わたしたちを見守っている。
あらあら、はしたない。こんな公共の場で。私も若い頃はねえ。そうねえ。
――ちょ、やべえ。
わたしは一体なにをした。
自分の椅子に戻り、衣服を整える。深呼吸。そして深呼吸。お冷やのコップをカラになるまで一気に飲み干し、だん、とテーブルに置く。
深呼吸。
「…………なんてことするのよ、この変態、ケダモノっ」
「いや、今の俺悪くないだろう!?」
「まあ岡部の変態っぷりは、今にはじまったことじゃないけど?」
「……おのれ助手め、いきなり言動がぶっとびすぎだぞ。突然の抱擁プラス接吻プラス罪なすりつけとは。天才をこじらせて、とうとう脳回路がショートしたか」
何その天才をこじらせるっていう発想。厨二か。
「いやその、そうじゃなくてだな……」
頭がようやく冷静さを取り戻し、まともな思考モードになる。
「……岡部、今日は何月何日だっけ?」
「……は? 今日、か? 自分のケータイで確認すればいいではないか」
「いや、そうじゃなくて。何月何日なのよ?」
「……8月14日だが?」
「14日の、何時何分?」
「何時何分か、だと? お前、ひょっとして、その質問……」
「いいから、答えて。何時何分なの?」
岡部は自分のケータイをちょっと見てから、
「昼の12時10分だが。それが一体、どういう」
「……そう」
タイムリープは、成功したってことか?
未来から来た真の『タイムマスター』である天王寺綯=牧瀬紅莉栖が、あっさりタイムリープを許すわけないと思ってた。何らかの形でタイムリープに横槍を入れてくるんじゃないかと思ってたけど。けっこうあっさり成功したものね。
いや、油断はならない。彼女の干渉は、これからはじまるのかもしれない。
最悪の場合、あの『二次世界線結節』を仕掛けてくる可能性さえある。そうしたらわたしは、その二次世界線結節をふたたびキャンセルするために奔走しなければならなくなる。
ま、その対策はいくつかもう考えてあるんだけど。
「さて岡部くん。わたしもうランチ食べたし、出ましょうか」
ハグアンドキスを目撃された現場に、いつまでもいたくない、というのが本音。
「いや、その前に俺からも質問だ、紅莉栖」
岡部がテーブルに身を乗り出す。
「――お前、タイムリープしているな? 違うか?」
……!?
なぜ?
なぜ岡部が、それを知ってる?
「ケータイの着信を取ったかと思うと、いきなり様子がおかしくなった。それから『今は何時何分か?』という質問。これは俺がタイムリープした後、よくする質問だ。まさかとは思うが――お前も、タイムリープマシンを、使ったのか? 一体なぜ?」
……なるほど。
この世界線の岡部は、この時すでに、タイムリープを経験してるのか。
わたしの主観では――わたしの経験では、わたしと岡部は2度、ここでランチを食べている。
1度目は、わたしも岡部も何も知らない、一度もタイムリープしたことのない状態のとき。
2度目は、岡部からすべてを教えられたうえで2人タイムリープし、もう一度なぞるように一度目のデートを再現したとき。
「じ、じゃあ逆に訊くけど岡部、岡部はタイムリープしてるの?」
岡部はじっと何か考え込んだあと、答える。
「……している。何度も。だが、そうやってお前から尋ねられたのは、初めてだ」
だとすると……。
「じゃあ、わたしとこうやってランチを食べるのは、何回目?」
「ラボでたまにカップラーメン食べたり、サンボで牛丼食べたりしただろう」
「そういうのじゃなくて、この店で、8月14日にランチするのは? 初めて?」
「そういう意味か。……いや、初だ」
だとすると、わたしが経験した2つのうち、どちらの世界線でもない、第3の世界線に来てしまったのだろうか。
そうだ。
今がどういう状況なのか、これがどういう状態の世界線なのか、簡単に確かめる方法がひとつある。
「岡部、さっき自分が、タイムリープしたことがあるって言ってたな?」
「ああ」
「それじゃあ――訊くけど、いったい何回くらいタイムリープした?」
岡部は少し考えてから、答えた。
「そうだな。鈴羽を見送った時、フェイリスのカードバトルを助けた時、るかとデートした時、桐生萌郁が刺された時、いくつかの世界線を経験したが――合計のタイムリープは、確か20、いや22回といったところか」
なるほど。
やっぱりそうか。
「じゃああんたは知ってる? このままβ世界線に行くと、わたしが死ぬ、ってこと」
「死ぬ……? お前がか? 死ぬわけがないだろう。殺したって死ななさそうなくらい元気ではないか、お前」
やっぱりか。
やっぱり、知らないのか。
「なら説明してやる。いい? β世界線に行くには、『牧瀬紅莉栖が刺された』っていうメールをキャンセルしなくちゃならない、その結果起こることは、つまり――」
わたしは説明してやった。
岡部から教えられた話を、そっくりそのまま。
SERNのエシュロン。IBN5100でのハッキング。
それに伴って起こる世界線の移動。そこではわたし、牧瀬紅莉栖は、ラジ館のビル内で何者かに刺され死んだこと。
「馬鹿な……それでは……」
さすがの岡部も理解しはじめたらしい。
顔色が青ざめている。
「残念ながらホント。これはすでに決定された事項」
「し、しかし何か手があるはずだ。タイムリープマシンはすべてを可能にする。いくら何でも、何か裏道か抜け穴みたいなものがあるはず――」
「ないな」
あったらどれだけ良かったか。
「ない。まゆりを助ければ、わたしが死ぬ。わたしを死なせたくなかったら、まゆりは見殺し。どちらかしか助からない。これはわたしの結論でもあるし、あんたの結論でもある」
7000回以上も繰り返しタイムリープした男の結論。
決してひっくり返せない、ハードなロジック。
「どっちかっていうとわたしが不思議なのは、どうして岡部、あんたがそれに気づいてないのか、ってこと」
わたしは今言った内容のことを、ほかならぬ岡部から聞いた。
そしてその事実を、まだなにも知らない岡部に話している。
――なにかが妙だ。
時間のパラドックスが生じている。
いや、パラドックスが生じること自体は問題じゃない。タイムリープは物理パラドックスを起こさないかわり、情報のパラドックスを起こす。それはある意味で当たり前のことで、いまさら驚くことじゃない。
問題は、パラドックスの生じ方にパラドックスが生じていること。
2重のねじれ。
パラドックスのパラドックス。
「岡部のリーディング・シュタイナーは、タイムトラベルする第3者からすれば、ひとつの世界線変更履歴として機能する。それはリーディング・シュタイナーの能力が、今まで経由した世界線をすべて記憶している、って特性のせい。つまり岡部に聞けば、今まで世界はどういう変わり方をして、どういう世界線を経由してきたかが分かる」
「それは――そうかもしれないな」
「おかしいのはその後」
わたしはパスタを食べながら続ける。
「わたしは、7000回以上タイムリープした……つまり、あなたより『もっと後の岡部』に会ったことがある。そのわたしがタイムリープして過去に戻り、20回しかタイムリープしてない岡部に会う。これはパラドックスじゃない? しかも普通のパラドックスではなく、リーディング・シュタイナーの履歴記憶能力に生じた矛盾、パラドックスのパラドックス」
一息ついて、両手を挙げる。
「意味が分からないわ」
「分からんといえば俺のほうが分からん」
「アトラクタフィールド理論によれば、世界線はいくつもスイッチして移り変わっていく。でもこの世界は、いつものルールが通用してない」
「まあ、そうといえばそうかもしれんが……」
「ひょっとして、この世界線は普通の世界線じゃないのか? あるいはタイムトラベラーの岡部にも、いくつかのバージョンがある?」
ううむ。
可能性はどれも考えられる。
「よ、よく分からんが、それがそんなに重要な問題なのか?」
「大した問題じゃないわ。普段ならね」
そう、もしこれがいつものタイムリープなら大した問題じゃない。
でも――
タイムマスター。
牧瀬紅莉栖。
彼女があのとき、タイムリープマシンに何か仕掛けていたとしたら?
何かの仕掛けで、この世界線に『意図的に』わたしを飛ばしたのだとしたら?
可能性はじゅうぶんにありうる。
「――分かった。それで俺は、何をしたらいい?」
「何を、とは?」
「何って、方法を考えるのだろう? まゆりを死なせず、かつお前が殺された事実を回避する方法を。俺は何だってやるぞ」
「そ……そっか。岡部はやるつもりなのね? 世界線の変動を。まゆりを死なせない方法を、探すつもりなのね?」
「無論だ。そしてお前も救う」
「そっか……」
胸にいくつもの思いが去来する。
言葉にならない思いが心臓をしめつける。
「わかった」
覚悟を決めるときだな。
「でもそれには、まずこの世界線を脱出する必要があるな。この世界線は特殊なの。普通のやりかたじゃ脱出できない。それにはわたしが、今までどういう戦いをしてきたのか教えておかないと。……長くてむちゃくちゃ理不尽な戦いだった。あの戦いを無駄にしたくないから」
わたしは立ち上がる。
「場所を変えましょう」
岡部は素直についてきた。

ラジ館の屋上、立ち入り禁止になった修繕中の最上階。
わたしはそこで、今までに起こったことすべてを岡部に話した。
岡部の記憶死、3人の『送信者』との戦い、そして真の黒幕、『タイムマスター』。
昼下がりの熱風の中で、岡部は黙ってそれを聞いていた。
いろいろショックを受けていたみたいだけど、やっぱり一番ショックだったのは、自分が記憶死してそのまま2025年に死ぬことと――それを引き起こした敵が、未来の牧瀬紅莉栖だったこと。
「では……俺たちは、その未来の紅莉栖――タイムマスターの狙いを阻止しないと、あるべきβ世界線には行けない、ということなのか?」
「おそらく、そうね」
「そんなこと……不可能に近いのではないか? 未来の牧瀬紅莉栖には絶対に勝てないんじゃないか? 当たり前だが、未来の人間は過去に何が起こったか知っている。今お前がこうしてあがいていることも、すべて知っていることになる。それこそ、何をやっても無駄――お見通し、なのでは?」
「そうとも限らないわ。たとえば今、岡部がハッキングをかけてβ世界線に移行したとして、未来のわたしはそれを予見することはできない。未来のわたしにとって、過去は『β世界線への移行などされなかった』ものでしかないから」
わたしは続ける。あらかじめ岡部が達するであろう結論のひとつを。
「だからこの戦いに勝つ最もシンプルな方法は、岡部が今すぐ最初のメールを取り消し、β世界線に移行してしまうこと。そうすれば未来のわたしも手出しできない」
「ひとつ問題がある。分かって言ってるだろ、クリスティーナ」
「何?」
「それを今やるとお前が死ぬ」
「まあね……」
いろんな要素がある。
現状に対する謎もすごくたくさんあって、変数が多すぎる。
情報を集めていくつかを定数にしないと、わたしは方程式の解を導き出せない。
とにかく、することを考えないと。
「最初にすることは、ひとまずこの世界線で何が起こるか確認することよ」
「何が起こるか……というと?」
「大事なのはふたつ。岡部へのノイズメモリー着信が起こるか。まゆりの死は起こるか。これが起こるかどうかで、今後の対策の方針はずいぶん変わってくるわ」
「まあ、お前が言うのならば、そうなんだろうが……それで、それぞれが起こる予定時刻は?」
「岡部の記憶死着信が14日の午後19時18分。今からおおよそ6時間後。まゆりの死は、以前聞いた話が確かなら16日の19時前後。これは今から54時間くらい後ね。どちらかが起こったら、それを回避する方法を軸に対策を立てましょう。わたしの予想では、たぶんどちらも起こるだろうと思うけど――」
岡部はうなずいた。
その目には覚悟が浮かんでいる。
けれどわたしの心には不安があった。
岡部の記憶死。まゆりの死。
どちらも二度と体験したくない、できることなら忘れ去ってしまいたい経験だ。
それでも、わたしはまた、向き合わなくてはならないというのか――


†  †  †


結論から言おう。
どちらも起こらなかった。
より正確に言うなら――岡部の記憶死は起こらなかった。そしてまゆりの死については、確認することすらできなかった。
なぜなら、まゆりの死を確認する前に――
時間が、巻き戻ったから。


†  †  †


ラジ館での相談のあと、わたしたちはひとまず移動することにした。
例の尾行――確か波倉滝尾とかいう、わたしたちを監視する男をまくためだ。
わたしたちはタクシーで品川駅まで行き、新幹線に乗って東京駅で降りた。人ごみにまぎれて改札を降りる、と見せてふたり別々に別れ、わたしだけ別の新幹線に乗る――と見せかけて発車直前に降り、それぞれ別のタクシーで新宿に向かった。時間を遡れるタイムマスターならともかく、普通の尾行ならこれで十分撒けるはずだ。
そしてわたしたちは、岡部に届くであろうノイズメモリー着信を待った。
時間は、忘れもしない午後19時18分。
わたしたちはそれを、夕方の新宿駅前のスタベでじっと待った。
だけど、いくら待っても着信は来ない。
予定の19時18分を過ぎ、20時を過ぎ、21時を過ぎた。
人通りもまばらになり、夜の街の明かりが灯りはじめた。
ノイズメモリー着信が来ない。
素直に考えれば、これは――嬉しい。
『二次世界線結節』とやらは、キャンセルされたんだろうか?
牧瀬紅莉栖は、もうわたしたちに干渉しないことにしたんだろうか?
分からない。
これだけでは何も確定的なことは言えない。
岡部は記憶死を起こさなかったけど、謎はまったく明らかにされないまま、わたしたちは帰ることもできず、ラボで夜を過ごした。
次の日は橋田に頼んで、いろんなことを調べてもらった。天王寺裕吾の家に地下室はあるか。天王寺綯は普通に小学校に通っているか。――つまり、未来からの攻撃、タイムマスターの策略の痕跡はあるか、合法的な方法から、非合法なハッキングまで、すべて試してもらった。
答えは痕跡なし。
天王寺綯は普通の小学生。天王寺裕吾の家に地下室なんてない。
未来からの侵略者なんて、陰も形も痕跡もなかった。
でも、だとすると、わたしの記憶の中にあるあの敵たちは一体なんだったんだろう?

なにも分からないまま、表面上だけはしごく穏やかに、8月15日は過ぎていった。
そして次の日、8月16日、わたしと岡部がラボで今後についての相談をしているとき、突然『それ』はやってきた。
岡部の姿が歪んだ。
岡部になにか起こったのかと一瞬思ったけど、そうじゃなかった。ラボの景色全体が、わたしの視界そのものが歪んで、波打っていた。
「なっ……!」
目の前にあるすべてのものが像を失い、ぐにゃりと溶けていくような感覚。世界に波線形のノイズが走る。重力が方向を変え、足元の床が波打つ。
耐えられずに、わたしは思わず目を閉じた。
こめかみの奥に、虫が這っているようなじわじわした痺れ。
強烈な眩暈。

痺れと眩暈がようやく治まって、ゆっくりと目を開けたとき――
――わたしは目を疑った。

色とりどりの光が、わたしの網膜に飛び込んでくる。
窓の向こうの空の青、木々の緑。室内をいきかう、さまざまな人たちの色あざやかな服。
テーブルのクリーム色。店内の明るい照明。
遠くで蝉の音が聞こえている。
夏の空気とエアコンの匂い。料理の匂いもする。
そこは――ラボじゃ、なかった。
――そんな。どうして。
それは、わたしが2日前にいた、UPXのイタリアンレストラン、『トラッティーニ サリエリ』だった。
わたしの目の前に並ぶランチのメニューも、まわりのお客さんの顔ぶれも、まったく同じ。
そして、目の前の岡部も――
「ね、ねえ岡部、今、今って……」
「…………クリスティーナ」
岡部は焦点の合わない目で、空中の一点を見ている。
「これは一体――どういうことだ?」
一瞬、なにを言ってるのか分からなかった。
わたしは、自分だけが時間を2日さかのぼって、岡部はそのままなんだと反射的に思っていた。
けど。
「俺とお前は、さっきまでラボにいた。まゆりを救うために今後どうするかを相談していた。そうしたら突然眩暈がして、気づいたらここにいた。……違うか?」
そうだ。
そのとおりだ。
記憶が継続している――?
いや、それだけじゃない。ふたりとも、同じ継続した記憶を持っている?
どういうこと?
「か、確認しましょう。その相談は、まゆりの死をどうやって回避するか。6時間後くらいに迫ったまゆりが死ぬ時間のために、何をしておくべきか。その話だった、わよね?」
「そうだ。その時俺は、まゆりの心臓麻痺を少しでも早く治療するために、大学病院に行くべきと主張した。それに対して紅莉栖は、死は過程ではなく結果だから、そんなことをしても無駄だと主張し、そこで意見が対立した」
まったく同じだ。
「じゃあ、その前の日はどう? わたしたち、何をしてた?」
「その前の日は、ダルに依頼して天王寺綯の正体を探っていた。その前の日は――お前がタイムリープしてきて、『送信者』とか、タイムマスターとか、ややこしい話を始めた」
「わたしの主観と……まったく、同じだ……」
つまり……わたしと岡部は、ふたりで時を遡った?
ケータイの時刻を確認してみる。
8月14日の12時10分。
時間が――巻き戻ってる。
間違いない。
「いったい、どういうことなの?」
まったくわけが分からない。
混乱している。
これは今までになかった、まったく新しい事象だ。
これまでの現象は3つだけ。時間を記憶だけがさかのぼる『タイムリープ』、メールを過去に送り、場合によっては世界線の大変動を起こすことのできる『Dメール』、そして世界線の大変動を唯一無視できる能力『リーディング・シュタイナー』。それらだけだったし、実際その3つの現象で今まで起こってきた因果のすべてが説明できた。
でも、今のはできない。
まったく新しいことが起こった。
まだ新しい時間理論があったのか? 岡部や橋田鈴教授に教えてもらったアトラクタフィールド理論は、あれが全てではなかったのか?
あるいは、未来の人間でも気づいていないような、時間支配の新たな論理を――未来の牧瀬紅莉栖は、発見したのか?
わからないことだらけだ。
でも、ひとつ確かなことは――
「大丈夫か、紅莉栖。顔色が悪いぞ」
岡部。
今回の問題に立ち向かうのは、わたしひとりじゃない。
岡部がいる。
リーディング・シュタイナーの能力を持ち、わたしよりも多い回数のタイムリープをこなした、岡部――わたしの岡部倫太郎が。
不思議なことに、その事実ひとつで、わたしは完全に持ち直した。
よぉし。
岡部の前だ。ひとつびしっと決めないとな。
「大丈夫! 平気。わたしに任せて。いくつか仮説もあるし、プランもあるわ。まずは現状を整理しましょう。それから、この時間の巻き戻りが何に起因していて、どういう条件で起こるのかを確かめましょう。話はそれからよ」
「そ……そうか……お前が言うなら、そうなのだろう」
「ええ、任せてちょうだい。わたしだって、タイムマスターとの戦いのなかで、相当成長したのだぜ? こんな時間の巻き戻りくらい、すぐに法則を見つけ出してやるわよ!」
元気いっぱい宣言した。
ぜんぶ嘘だったけれど。

まずは現状を整理する必要があった。
まず、時間の巻き戻りはどういう場合に起こるのか?
試しに一度、まったく同じ行動で2日を過ごしてみた。
するとやはり、8月16日で時間は巻き戻り、14日にタイムリープしてしまった。
おそらく、これは何度も同じ時間を繰り返すタイプの現象なんだろう、とわたしは当たりをつけた。
これを確かめるために、わたしたちはまず、別々に分かれて時間を過ごしてみた。
岡部はまゆりを連れて京都へ。わたしは東北へ新幹線で向かった。
でも8月16日の12時10分になると、突然眩暈がして立っていられなくなり、気づいたら――UPXのイタリアンレストランに座っていた。目の前にはパスタと岡部。
やはり時間は巻き戻った。
それでは、次はこちらから時間を戻してやることにした。ラボにあるタイムリープマシンを使って、UPXのランチより前に跳ぼうとしたのだ。結論からいえば、これは失敗。何度やっても、どんなに過去に跳ぼうとしても、UPXのランチの現場に着いてしまう。それより前の時間に戻れない。
4,5回繰り返して、どうやらこれは何をやっても『巻き戻り』は発生してしまうらしい、という結論に達した。
もちろん巻き戻りなんて自然に起こる現象なわけがないから、きっとなにかの条件があるんだ。わたしたちはその条件を満たしてしまっているために、同じ48時間を繰り返すことになってしまったのだ。
そう、巻き戻りする時間はきっちり48時間。
巻き戻ると、時間は8月14日に戻り、あたりまえだけどすべての事象はリセットされる。
人の記憶も。壊れたものも。
一度、橋田に起こっていることをすべて話し、記録しておいてもらうように頼んでみた。でも48時間が経つと、すべては“なかったこと”にされた。記録もすべて消滅していたし、橋田は話したことをみんな忘れていた。
「なあ、これは本格的に、あれでは……タイムマスターとやらの攻撃ではないのか? こんな支離滅裂な状態を、説明なんてできるわけがない」
「仕方ないわねえ。もっとしっかりしなさい! きっと論理はあるんだわ、なにかの法則が。弱音を吐くのはいいから、もっと観察して、なにかの条件がないか探して!」
おかしいのは1点だけ。
『強制的だ』ってこと。
タイムリープマシンもなしに、わたしたちがどこにいようと、強制的に48時間巻き戻されてしまうことだ。
そこに何かのヒントがあるような気がした。
ためしに強力な睡眠薬を飲んで、巻き戻りの数時間前にがっちり意識を失ってみた。
それでも次に気がつくと、わたしはUPXのレストランで平然とパスタを食べていた。
それならばいっそ、と次は思い切ってアメリカ行きの航空便に乗ってみた。それでも、ヴィクトル・コンドリア大学の近くまで戻ったところで、意識ブラックアウト。目を開けると、イタリアンランチと岡部。
何度目かの『巻き戻り』のとき、ダイバージェンス・インディケーターを確認したことがある。
その数値は、目を覆いたくなるようなシロモノだった。

凾cIVERGENCE=0.9999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999a?‡a?a??a

表示が、振り切っている。
ダイバージェンスを表示するカードのディスプレイに、びっしり埋まるように9の文字の羅列。
最後のほうは表示がおかしくなっていた。
最初に見たとき、表示は小数点11桁だった。
しばらくすると、表示は14桁から15桁くらいに増加した。
そして今、9がどこまでも続いている。
――終わりのない9。
どこかで、聞いたような……。
そうだ。
タイムリープする前の、牧瀬紅莉栖の言葉を思い出す。

『世界線自体がぶつぶつに千切れた不連続の世界線、なんてものもある。わたしはその世界を『エンドレスナイン』と名づけた。――理由はすぐに分かるわ』

――エンドレスナイン。
終わりのない9の世界線。
これが、そうなのだろうか?
今わたしの身に起こっている現象が、それなのだろうか?

数字の1を3で割ると、答えは0.333333333……という、3が無限に続く答えになる。
これに3をかけると、どうなるか。
もともと1だったものを、÷3して×3したんだから、1に戻らなくてはおかしい。
でも計算上はそうはならず、0.999999999999……となる。
理論上は限りなく1に近く、けれど決して1には到達しない、1の無限近傍世界。
――もしこの世界線が、そうだとしたら。
世界線1%――わたしたちの目指す、β世界線に無限に近いながらも、決して同質にはならない、無限に9の続く世界線なのだとしたら。
牧瀬紅莉栖はこの世界のことを、『世界線自体がぶつぶつに切れた不連続の世界線』と表現した。
そんなことがあるんだろうか。
世界線は通常、無限の過去から、無限の未来まできちんとつながった、一本の長い長い線だとわたしは理解している。
そうではなく、ところどころが千切れ、断面のある、ぶつ切りの世界線。
そんなものがあるというのか? いや、そもそもそんな世界、存在できるのか?
確かに、時間はなめらかに連続しているわけではなく、時間の1単位が積み重なってできている。
時間をどんどん分割していくと、最後にはこれ以上分割できない時間の最小単位、プランク時間にたどり着く。
時間がシームレスで連続しているというのは、人間の主観が導き出す謝った認識でしかない。
――それでも。
たとえば、牧瀬紅莉栖が言う『ぶつぶつに切れた不連続な世界線』というのが、わたしたちの経験する48時間のことで、この48時間の前と後がぷっつり途切れた世界――短く切られた糸くずのような、短い世界線だったとしよう。
ここに未来はなく、過去はない。ただ切り取られて独立した48時間だけがあるとしたら。
そうすると大きな問題がある。
どうしてわたしと岡部だけが、その中で記憶を継続したまま時を繰り返すのか。
時間の終わりである8月16日の12時10分になったとき、なぜわたしたちの記憶は吸い出され、48時間前に遡行させられ、8月14日の12時10分に戻され、ふたたび脳に記憶を注入されるのか。
もちろん、どんなに混沌とした世界線だろうと、記憶が自然に巻き戻ることなんてありえない。かといって何の設備もなしに、人の記憶を過去に戻すこともまた不可能だ。
分からないことだらけだった。
「なあ紅莉栖。この繰り返しは本当に回避できるのか? 俺たちはちゃんと、元の世界線に戻ることができるのか?」
「だいじょーぶよ。わたしという頭脳があるんだし、加えて……こういっちゃ何だけど、時間だけならいくらでもあるんだから。のんびり構えていきましょう」
「そ、そうか。なにか策はあるのか?」
「もちろん、あるわ。それも山のようにある。このわたしの脳細胞を持ってすれば、いくらでも対策につぐ対策、プランにつぐプランが、湯水のようにわいてくるのだぜ。とにかく岡部、あなたはわたしの言うとおりにすればいいの。わたしの指示どおりにさえすれば、全部バッチリの完璧なんだから。頼りにしていいわよ、岡部!」
「そ、そうだな……! フ、フハハ、貴様もなかなかやるではないか、クリスティーナ。良かろう、未来人だか何だか知らないが、この俺が敵のたくらみを華麗に退けてくれよう! フゥーハハハハハハ!」
まったく。
ちょっと元気つけさせてやると、すぐ調子に乗るんだから。


わたしと岡部は、『時間脱出作戦』と名づけたこの作戦のために(命名者わたし)、岡部の大学に向かっていた。
「何度言えば分かるのだ、クリスティーナ! 作戦名は『エクソダス・オブ・エタニティ』に決まっているだろう。注釈すると、韻を踏むのが最近のマイブーム」
「却下。そして却下。第一、永遠からの脱出だったら、オブじゃなくてフロムでしょ? まったく、よくそれで大学受かったな」
「フゥーハハハ、俺は本番に強いのだ! ここ一番になると、宇宙の大いなる意志から電波的なメッセージが届くのだよ!」
「自慢するな。あと同じ大学の生徒に謝れ」
東京メトロ丸の内線に揺られることしばらく。
岡部の通う大学、東京電機大学にやってきた。
東京電機大学は、東京は神田錦町にある工学系の大型私立大学だ。キャンパス敷地面積70万平方メートル、学生数1万人。理系だけでこの人数は非常に多い。芝浦工業大学、東京都市大学、工学院大学と並んで、私立4工大のひとつである。岡部も橋田も、ここの1回生。神田、御茶ノ水、神保町に隣接していて、立地がばつぐんに良い。一度はおいで、東京電機大学。
――というような岡部の説明を聞きながら、わたしたちは大学のキャンパスを眺めた。
わたしは日本では一応高校生だけど、すでにアメリカで大学院まで行ってるから、大学のキャンパスはなんとなく『帰ってきたなあ』っていう感じがする。
さて、それでは一体なんのために、わたしたちが大学のキャンパスにやってきたのかというと。


†  †  †


「ねえ岡部」
「しっ、静かにしていろ」
「ねえ岡部」
「いいから静かにしろ」
「ねえ岡部、ねえねえ岡部」
「静かにしろと言っているだろうクリスティーナ、何度言わせるんだ」
「ねえ岡部、わたしたちなんでこんなことしてるの? っていうかこれ何?」
「見て分からんか。大学の授業を受けている」
「いや、なんで?」
「なんで? 大学はたいてい、夏期休暇中も希望者のために特別講義をどこもやっているものだ。今受けている授業もその一つ」
「いや、そうじゃなくって」
「心配するな助手よ。日本の大学は出席とかけっこうアバウトだ。これだけでかい部屋での講義となると、見たことのない生徒が2、3人まじっていたところで誰も気づかん」
「うん、そういうことじゃなくてね? どうしてわたしたちは授業受けなくちゃなんないの?」
「お前が言ったのではないか?」
「言ってない。断じて言っていない」
「いや、言ったのだ。時間巻き戻りの謎を解明するためには、大学の授業を受けるのが必須なのだ」
「理屈がわからん」
「今にわかる……おっと、新しい問題だ。さあ助手よ、今の問題を回答用紙に書くのだ」
「え? あの問題? いいわよ、エンドサイトーシスが……NMDA受容体で、だから……で、ホメオスタシスを崩す、っと。できたわ」
「はいいただきー。おおー、さすがはアメリカ大学院生、答えがそれっぽい。というわけでこれは岡部倫太郎の名前で提出させていただきます。クックック、これで単位は手に入ったも同然」
「……おい」
「おいおい、あまりそんなに近くで睨むな。授業中イチャイチャしているカップルだと思われるぞ」
「……っ、誰が……!」
「まったく、クリスティーナよ、公衆の面前でのマナーというものを教わらなかったのか?」
「くっ、マナーについて他の誰に注意されたとしても今ほど腹は立たん……!」
「先ほどの質問にちゃんと答えてやるとだな。今講義をしているのが俺の研究室の先輩で、装置を使わせてやるかわりに自分の授業に出ろ、というのだ」
「はあ、どうしてまた?」
「分からん。本人に聞け」
「本人って、いま教壇に立って授業してる女の人?」
「そうだが」
「20代後半くらいで、長い黒髪で、メガネかけたあの女の人?」
「説明っぽく言うとそうだ」
「わたし、その前にひとつの疑問があるんだけれど」
「何だ?」
「え、いや、あの人の服装って――あれよね? わたしの見間違いでなければ、あの人、どう見てもブラしかつけてないんだけど」
「…………………………そうか?」
「いやいや、どう見てもブラ一丁でしょ!」
「いや、俺には普通のスカートに見えるが」
「スカートはね。下半身は普通のロングフレアスカート。問題は上、上半身! ブラ以外なんもつけてないじゃないの。あれって公衆わいせつ物陳列罪とかにならないの? 法的に大丈夫?」
「いや、あの人はいつもああいう格好だが」
「もっと問題だよ!」
「心配することはないと思うぞ。あれはブラのように見えるが、れっきとした着衣だ。大学の生協で売っていた。『着衣面積がとっても少なく涼しいタンクトップ』という名前で販売されていたから、あれは着衣だ」
「どこがよ! フロントホックついてるじゃん!」
「…………………………そうか?」
「あんたの目は何のためについてるんだ? びっくりしたときにびょーんと飛び出て驚きを表現するためか? 100人に聞いたら100人は『あれはブラだ』って言うわよ間違いなく」
「なんだ、授業にブラつけて出る講師が気に入らないのか?」
「気に入らないとかいう問題じゃなくて、これが現実だと理解できない。っていうか、なんか驚くタイミングを逃した」
「まあ、あの人は特別だからな。お前ほどではないが、優秀なドクターだ。俺の研究室の先輩はあんな感じの変人ばかりだが、みんな優秀なのだ」
「いや、理系に変な人が多いのは知ってるけど。どうして授業中にブラなの?」
「なんでも暑いからなのだそうだ」
「そこだけ普通の理由……?」
「さあ、授業が終わったぞ。さっそく講師先生にご挨拶だ」
「……不安だわ……」


チャイムが鳴る。
教室の大学生たちが、ばらばらと教室から出ていく。
さて噂のブラ講師は、教卓で授業道具をまとめているところだった。
「先輩、きました」
「あら倫太郎。来てたのぉ?」
「来てたのぉ、じゃないですよ先輩。先輩が呼んだんでしょう。実験施設を使わせて欲しいなら講義に出ろ、と」
「そうだったかしらぁ?」
「そうですよ。なあ紅莉栖、謎を解くためには、この大学の実験施設が必要なのだったな?」
「え、わたし?」
「なに呆けた顔をしてるのだ。お前が頭のレントゲンを撮りたいと言ったから、俺はこうしてツテをたよって先輩に頼み込んだのではないか」
「ああ――そういう話の流れだったのか」
かいつまんで説明することにする。
「そう。わけあって、脳の3次元画像診断、fMRI装置を使わせてほしいんです」
fMRI、日本語で言うところの機能的核磁気共鳴画像診察装置――は、早い話が脳の活動をレントゲンのように診察する診断装置である。脳のどこが活動しているかを、非侵襲的、つまり頭を切り開かずに診察することができる。
わたしはこの『終わりなき48時間』を脱出するために、自分の脳の状態を知ろうと考えた。
いちばん科学的にありうるのは、脳になにかを埋め込まれてるんじゃないか、ってこと。
もちろんわたしはそんなグロテスクな改造手術を受けたおぼえなんてない。ないけど、なにしろ相手は未来の技術だ。何かわたしの知らない技術で、脳にタイムリープマシンに似たなにかを埋め込まれている可能性だってある。
というか、ケータイもなしに記憶を書き込むとか、何か埋め込まれたとでも考えないと、今の状態が説明できない。
ってことで。
「いきなりぶしつけなお願いで申し訳ないのですが、fMRI装置を使わせてもらえないでしょうか?」
「そういうコト? なら、ええ、断るわ」
「そうですか。よかっ……って、えええええ?」
断られた。
いまの断る流れか?
「ちょっ、先輩。話が違うではないですか。俺は先輩が、授業を受けに来てくれたら装置を使っていい、と言うからこうして夏休みなのに足を運んでですね」
「忘れたわぁ……そんな前のこと。ふあぁ、眠い……」
「前って、昨日の話じゃないですか!」
「私、8時間以上前のことは、過去なのよねぇ……」
むにゃむにゃ、と言いながら退散しようとする先輩殿。
おいおい。
「ど、どうするのよ岡部! いきなり『時間脱出作戦』終了の危機じゃない!」
「俺に言われても……」
へどもどする岡部。
「いいですかドクター先輩。わたしたちにとって、fMRIを使えるかどうかというのは、今後の人生をおおきく左右する問題なんです。今ここでOKをいただかないと、非常に困るんです!」
「そうは言われてもねぇ……私、実験で忙しいしぃ……?」
くねくねと困った顔をする先輩。
「どこが忙しそうなのですか先輩。先日電話をかけたとき、先輩自宅で乗馬マシンに乗りながら電話に出てたじゃないですか」
「そーね、あのときは連続8時間だったわぁ。さすがに疲れたわねぇ……」
「そ、そんなに乗ったら、内股の皮膚がすりむけるのでは……」
「そんなことはいいから!」
岡部を押しのけて前に出るわたし。
「こうしましょうドクター先輩。わたしが実験を手伝ってあげます。だからその報酬として、fMRI装置を使わせてください」
「えっ」
「えっ」
同時に声をあげる岡部とドクター先輩。
もはやこの手しかないのよ。
「どうです? なかなか悪くない条件だと思いますが」
「それは……ありがたいけどぉ。お嬢さん、そんなことできるの?」
「わたしこう見えても、アメリカのヴィクトル・コンドリア大学の大学院生なんです。あの『サイエンス』にも論文が載ってるんですよ! きっと力になれると思うんです!」
「いや、クリスティーナ、それはその、やめておいたほうが……」
止めようとする岡部を尻目に、ドクター先輩の顔がぱっと輝く。
「あらぁ、それじゃ適任ねぇ! さっそく実験に協力してもらおうかしら」
やった!
これで道がひらけた。
「ええ、任せてください。何でもやりますよ、理論構築から実験セッティング、メンテナンスまで何でも来いです」
「あのな紅莉栖さん? こちらの先輩の実験テーマはだな、少し変わっておってだな……」
「いいわよ、是非お願いするわぁ。じゃ、服を着替えて、実験室に来てちょうだい」
「服? このままでもいいと思うのですが。ひょっとしてクリーンルームですか?」
「いいえ」
ドクター先輩は、なんか妖艶な感じでにんまり笑った。
「被験者服よぉ」


†  †  †


で。
何が何やら分からないままわたしはクリーム色の被験者服に着替えさせられ、実験室に連れてこられた。
そこには中世の拷問道具を思わせる、十字架型の拘束装置がどしんと鎮座しておられた。
なんというか、めくるめく嫌な予感。
「じゃあ、そこに横になってぇ」
てきぱきと装置をつなげ、わたしは気づいたら拘束装置に横になっていた。
両手両足が、黒いベルトで固定される。
う、動けない……、これって……。
「岡部! 岡部どこだ!」
「あらぁ。この部屋は男子禁制よ。倫太郎には外で待機してもらってるわぁ」
ほがらかに言うドクター先輩。
だ、男子禁制?
「すとっ、ストップ、ドクター先輩の研究テーマって、一体なんなんですか?」
「あら? まだ言ってなかったかしら。『物理的外部刺激に対する人体皮下組織の外形的挙動とその経時的マッピング』よぉ」
「ひ、皮下組織……? 物理的刺激……?」
めくるめく嫌な予感、1ランクアップ。
「もう少し詳しく言うとねぇ、物理的反復刺激で脂肪組織と乳腺細胞がどのくらい肥大化するのを、時間と強度でマッピングする、っていう実験なの」
にゅ、乳腺細胞?
「あ……あの、それが細胞系の実験なのは分かったんですが、いったいそれは何のための、何を目的とした実験なのです? あとさっきから何でわたしのバストをメジャーで測ってるんでしょう?」
「うふふ」
答えろよ!
「さあ、測定装置はすべて万端整ったわ! それでは、純粋なる学術的興味に端を発する、生物学実験をはじめまーすぅ♪」
アームのようなものが両側から伸びてきて、わたしの胴をつかむ。
アームの先端にはプローブ……というか、もうなんかクッションの入った指? みたいなのが並んでいる。
めくるめく嫌な予感がゲージを振り切りました。
「せっ、先輩、これって、この実験の目的って、ひょっとして……!」
「だいじょーぶ、胸の状態は各種センサーでモニタリングしてるから。危なくないから」
「いや、じゃなくて、なんでこの刺激アーム、わたしのむっ、胸をっ、掴んでいるのでしょう……!?」
「あらあらぁ、またまたぁ」
口に手を当ててわざとらしく笑う先輩。
これはっ、いかん、てっ、貞操の危機……!
「それではこれより新たな被験者による脂肪組織刺激実験、またの名を『本当におっぱいは揉むと大きくなるのか実験』をはじめまーすっ♪」
「ちょ、おま待っ、こんなの人体実験っ、へ、ヘルシンキ宣言に違反して」
「そーれスイッチオン♪」
容赦なく入るスイッチ。
動き出すアーム。
「あっ、ちょっと、そ、待、やっ」

いやあああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……


†  †  †


「…………」
「だ、大丈夫か……紅莉栖?」
控え室。
わたしはがっくりと肩を落として座っている。
隣でおろおろする岡部。
「……っ、う、恨むからな、岡部……」
「い、痛かったかやはり? うーむ、男子には想像のできん領域の痛みだからな……」
「いや、痛かったわけではないけど……」
正直なところ、なんだかわけが分からなくなって、あんまり記憶がない。
「そ、そうか」
なんと声をかけたらいいか分からないらしい。
「しかし先輩もあれだな、べつにアメリカの大学院出とか全然関係なく、単に18歳の被験者サンプルが欲しかっただけだったな」
「う、うう……そんなん誰だっていいじゃない……」
「いやあそれにしても意外だったのは、紅莉栖の乳が揉むほどあったということがぶべらっ!?」
思い切りはったおした。
「あ、あんたは殺されたいのかっ!? 女子には想像できん領域の痛みを与えてほしいのかっ!?」
「ぐおっ、なんか久しぶりだこのツッコミ感……」
控え室ですったもんだしていると。
「はーい、お疲れ様ぁ」
先輩が帰ってきた。
「あ、お疲れ様です」
「ちょっ、ひどいじゃないですかドクター! わたしにあんなひどいことするなんて! アメリカだったら訴訟ものですよ!」
「あーら、なかなか可愛かったわよ。いい声で鳴くから、私ついコーフンして装置の出力上げちゃった」
「そ、そんなんでいいのか実験って! というかコーフンするな!」
「まあ、先輩らしいですよ」
「ええー? そんなんでいいの?」
「とにかく、おかげでいいデータが取れたわぁ。なにかお礼をしないとね。えーと、何だったかしら?」
おーい。もう忘れてるよこの人。
「fMRIを使わせてもらう約束でしょう?」
「ああ、そうだったわね。じゃ、ついてきて」


……というひと騒動のあと、わたしたちはようやくfMRIを使わせてもらうことができた。
fMRIは早い話が磁気を使って頭の中の血流の様子を調べる装置で、日本にもそういくつもない最先端の装置だ。装置のサイズは部屋まるまるひとつ分を占めるほど大きく、使う電力も半端じゃない。
というわけなので、『使わせて』と言ってそう簡単に使わせてくれるような代物じゃないことは確かだ。それを考えるとまあ、多少の犠牲はやむをえない、と言えなくもないが……
いずれ岡部からはこの記憶は抹消しなければならないな。
ともかく。
現代のfMRIでは、その人が『いま何を見ているか』まで、ある程度は識別できるくらいの分解能を持っている。さらに外部刺激に対する反応を見ることで、その人がどんな記憶を持っているかまでも、精度の差こそあれ推定することができる。
ようするに、わたしの作ったVRヘッドギアの大親分みたいなやつだ。
今回はわたしと岡部の脳になにか細工がされていないか、外部から3次元映像を作って判断することになる。

――実験自体は、とどこおりなく終了した。
そして待つことしばらく。
わたしと岡部は、実験を終えて、解析結果が出るのを待っていた。
そこに件のドクター先輩がやってくる。
「はぁい、お待たせぇー」
ドクター先輩は左手に書類の束、右手にコーヒーの紙杯、そして格好は相変わらずブラにスカート。
うーん、だんだん慣れてきている自分が怖い。
「か、解析結果は?」
「自分で見たほうが早いわねぇ。ハイこれデータ」
先輩から紙の束を受け取り、ぱらぱらとめくっていく。
実験前提となる磁気強度、地磁気の影響誤差、体表血流のキャンセルなどなど各種のデータが続いたあと、本命の画像診断結果がプリントされたレポートが出てくる。
なめるように読む。
わたしの脳の断面図。
べつにこれといって特徴のない、ごく普通の女子未成年の脳だ。
だけど何かあるはず。何かがあるはずだ。
でなくては説明がつかない。
きっと何か異常か、でなければ埋め込まれた小型装置が見つかるはず――
めくる。
レポートをどんどんめくっていく。
「どうかしら、何か見つかったぁ?」
「――いいえ」
息をついてレポートを閉じる。
「特にはなにも。ごく普通の、健康な脳画像でした」
岡部のほうも見たけど、特に異常なし。
ひょっとしたらタイムリープを繰り返してる岡部には何かの兆候が見えるんじゃないかなと思ったんだけど。
何もない。
ごく普通に生きてきた、ごく普通の脳だ。
「うーん、おかしいな。絶対何か見つかると思ったのに……いや、だとすると……」
「お、クリスティーナが思考モードに入った」
「へぇ。考え込んじゃった。これが倫太郎のカノジョのクセ?」
「そうなのです。天才少女なので――って、今なにか変なこと言いませんでした?」
「え、カノジョじゃないのぉ?」
「いやいやいや。彼女じゃいやいやいや。違いますよいやいやいや」
「顔がニヤけてるわよ」
「いやいや。仮にニヤけてたとしてもそれはSERNの陰謀ですよ。いやーほんと参ったなSERNの奴ら!」
「ええい、やかましい! 考え事ができないじゃないかっ!」
と。
「――あ、そうだ岡部、大事なこと忘れてた!」
「ん?」
「いま、時間! 時間いま何時?」
「時間だと? 今はだな16日の12時……あっ!」
「んー? どうしたのぉ?」
「ドクター先輩っ! いきなりですけど、わたしたち時間がないんです! 12時10分になったら、帰らなくちゃならないんです!」
「……へぇ」
「それでですね、絶対に聞いておかなくちゃならないことがあって、今早急にお答えいただきたいんですが、よろしいですか!?」
「うん……まぁ、いいわよ」
「最初に見たときから聞こうと思ってたんですけど、なんでブラしかつけてないんですか?」
岡部が『え、そこ!?』という顔でわたしを見た。
「ブラ? いやぁねぇ、これは『着衣面積がとっても少なく涼しいタンクトップ』といって――」
「そのネタはもーいーですから」
「だってぇ、暑いんですものホントに。実験室はクーラーついてないし。できることなら下もパンティだけになって歩き回りたいくらいよ。ほら、昨今の萌えアニメだって、パンティ一丁くらいじゃあんまり騒がないじゃない。この程度の視覚刺激、どうってことないと思うのよねぇ」
「いやいや、画面の中はともかく、現実でそれやったら法的にアウトですから」
「ねえ、お嬢さん。あなたは知っているかしら? かのジョン・レノンも言っているのよ。『人生はブラの上を歩くようなものだ』と」
言ってねぇ。
「と、とにかくっ。その格好はやめてください。目の毒ですから。それに加えて、さ、さっきの実験! もう、断りもなく人のむ、胸をいじったりして! 論文にするにしても、ぜったいわたしの名前は出さないでくださいよ! あんな実験されたのがバレたら、もう顔出して外歩けないんだから!」
「だーいじょうぶよぉ、ちゃんと無記名。被験者のプライバシーはこれでもちゃんと守るんだからぁ。……………………覚えてたら」
「今なにかぼそっと言いませんでした!?」
「いーえ?」
うーむ、信用ならない。
いや、でもこの48時間は『なかったこと』になるのか?
だとしたら今ここで何されても、実験の結果は明日に持ち越されることはない……?
うーん……だとしたら……。
「まー、いいです。いろいろと協力してくれたことに免じて、胸の実験の件は忘れてあげます」
「早く大きくなるといいわねぇ、あなたのちっぱい」
「……前言撤回。一生忘れん。恨んでやる」
「まーねー、私も他に3つくらい研究課題抱えてるのよねぇ。倫太郎おスミつきの天才少女さんに、ホントは色々と手伝ってもらいたいんだけど」
「なんだ、そういうのを最初に頼んで下さいよ」
「……でも、まあいいわぁ。なんだか忙しそうだし、あなたたち」
ドクター先輩は、さみしそうにふっと笑った。
「どうせ……12時10分になったら、二度と戻ってこないんでしょう。違う?」
え……
わたしは反射的に岡部を見る。
岡部の顔も驚いて固まっている。
「どうして……二度と戻ってこない、と?」
彼女にはもちろん何も話していない。
わたしたちが……48時間に閉じ込められた、タイムリーパーだってことは。
「何だかねぇ……そんな感じがしただけ。ほら、あなたたち、ちょっと儚い感じ、するのよね。量子にじみを起こした波動関数みたく、存在が希薄になってる、っていうかぁ」
分かんない、とドクター先輩は笑った。
そうだ。
時間が巻き戻ってしまえば、この人と出会ったことも“なかったこと”になってしまう。
この人だけじゃない。48時間のあいだに起こったこと、出会ったひとはみんな“知らない人”に戻る。
次に会っても、この人はわたしのことが誰だか分からない。
なにか、言わなくてはならない気がした。
永遠に別れる人に対して、言うべきちゃんとした言葉。
そういうのがこの世にはあるはずなのだ。
岡部を見る。
「…………」
岡部は何も思いつかないらしく、うつむいて目をそらしていた。
わたしが言うべきだ。
もう二度と会えない人に送る、おわかれの言葉。
――なにも思い浮かばなかった。
もちろん、浮かぶはずがない。わたしは今までそんなふうには生きてこなかった。突然訪れる別れなんて考えたこともなかった。この2週間が異常すぎたんだ。秋葉原に来てから過ごした2週間、わたしは誰かと別れてばかりいる。そしてそれに少しも慣れない。
「あっ、あの!」
何も考えつかなかったけど、それでも口は動いた。
「あの――わたし、先輩とあ

眩暈。

世界が歪む。
地面が消失する。
身体感覚がぐにゃぐにゃに曲がっていく。
立っていられない。
世界が水あめのように溶けて回転し、重量が行き先を失って前後左右上下でたらめに引っ張る。
待っ――――――
わたしは手を伸ばした、ような気がした。
伸ばした手が闇にたべられて、世界が暗転する。口の中にまで闇が侵入し、時が――、時が、

次に気がついたら、目の前には食べかけのパスタ。
レストランの店内は、48時間前に見た風景とまったく同じだった。

「……岡部?」
「俺は……ここにいるぞ」
岡部が手を握ってくる。
「大丈夫か、紅莉栖。さっきまでの出会いは“なかったこと”になった。だが心配するな、またやり直すことだってできる。お前が望めば、もう一度先輩に会いに行っても……」
わたしは考える。
岡部の言うとおりだ。
わたしがそう望めば、やり直すことだってできる。
「……ううん、いいや」
少し考えてから、わたしが出した結論はそれだった。
「いいのか?」
「うん」
べつに、いい。
誰との関係が白紙に戻っても、べつにいい。
だってそれを覚えてるのはわたしだけじゃない。
わたしひとりが繰り返してるんじゃない。
わたしは、ひとりじゃないんだから。
「ねえ、岡部……」
「……なんだ?」
わたしは、つとめて元気に、にっこり笑ってみせる。
「べつの店に行かない? さすがにパスタ……飽きちゃった」


†  †  †


その日もよく晴れていた。
空はきれに澄みわたり、街路樹ではミンミンゼミが元気良く鳴いていた。
ループしている48時間がたまたまずっと夏まっさかりの良い天気だったから、わたしたちはここしばらく雨というものを見ていなかった。
まあ、いいや、とわたしは思った。晴れてることはいいことだ。
そんなカラッと晴れた低湿度・高気温のなか、わたしたちは自転車に2人乗りして近所の図書館に向かっていた。
「ほーらほら、速度が落ちてるわよ鳳凰院凶真! そんなんじゃこの坂道、登りきれないぞ!」
「ふぬっ……なんの、我が、力をもってすればっ、こんな、坂道、ごときっ……!」
岡部は顔を真っ赤にして自転車をこいだ。
わたしは2人乗りの後ろの席で、岡部に指示を飛ばす。
「だらしないなあ。ラボの中で機械いじりばっかりしてるからだな。もっと鍛えなきゃ」
「48時間で、どうやって体を鍛えろと、いうのだっ、っく、ぬぬ……!」
あ、速度落ちてきた。
「坂を上りきれそうになかったら、右手の悪霊の力を使ってもいいぞ、鳳凰院凶真!」
「きっ、貴様、助手のぶんざいで、好きなこと言いおって……っ、ふぬ、ぬううぁぁっ!」
「そうだ、行け凶真! 行け、守りを捨てろぉ!」
はしゃぐわたしを乗せて、自転車は坂道を下りはじめる。


図書館に来た目的はふたつ。
ひとつめは、時間跳躍理論についてもう一度ちゃんとした理論構築をするため。
橋田鈴教授の“学力テスト”のときにひらめいたカー・ブラックホールに関する理論は、それだけで分厚い学術書がひとつできあがるくらいの巨大な理論のごく一部だ。
ちゃんと時間をかけて正しく理論構築してやれば、きっと役に立つ。
世界線移動理論、アトラクタフィールド理論とどこかできっとつながっているはずなのだ。
きっとその先には、この48時間しかない世界線から脱出する理論につながるはず。
たぶんそのはずだ。
きっとこれで正しいはず。
「……さて」
というわけで、わたしは図書館で調べものをすることにした。
図書館は空調がきいていて涼しい。
2人乗りで疲れた岡部は、図書館のテーブルでへたばっている。行儀が悪いことこの上ない。
平日ということもあって、図書館に人はほとんどいなかった。学生らしい男女が数人、調べものをしてるくらいだ。
空気を吸い込むと、古い紙の匂い。
誰かが本のページをめくる音だけが聞こえてきて、それがかえって静かさを際立たせている。
この建物だけ時間の流れかたが違っているみたいだ。
なんか落ちつく。
「さあ、はじめますか!」
わたしは声に出して、机に筆記用具を広げる。
まずは相対性理論の復習からはじめよう。
時間はたっぷりある。

――ひとまずこのくらいかな、と思って肩のほぐれを揉んだ頃には、もうすっかり日は落ち、夕暮れ時になっていた。
図書館に閉館のアナウンスが流れる。
岡部は自分の勉強をやってたはずだけど、もうすっかり飽きて机につっぷして寝ちゃっている。
やれやれ。
わたしは勉強道具をまとめて立ち上がる。
体には心地よい疲れ。ひさしぶりにちゃんと勉強した、って感じ。
図書館を見渡す。
窓の高いところから、オレンジ色に染まった光が落ちて、壁の一方に茜色の空間をつくりだしている。高いところにある埃の粒がそれを反射してキラキラ輝いて、図書館全体を漂っている。背の高い本棚のあいだをオレンジの光の結晶がたゆたっている。
遠い昔、いつかどこかで見たものを思い出させるような、そんな景色だった。
今日は有意義な一日だった、と思わせる景色だった。
明日も頑張ろう。
「ほら岡部、帰るわよ。起きなさい」
「んぁ?」
「んぁ、じゃない。ほらもうヨダレ拭いて。顔にノートの跡ついてるわよ? まったく、だらしないんだから」
岡部の片づけを手伝って、一緒に帰った。
2人乗りで帰る途中、どこかの家からカレーをつくる匂いがした。


――その次の日も、わたしたちは図書館で勉強をした。
次の日は岡部もちょっとは真面目に勉強した。そうそう、図書館に来た目的のもうひとつは、岡部の勉強を見てやること。
というのも、岡部がこんなことを言い出したからだ。
『紅莉栖の世話になりっぱなしは申し訳ない。俺も将来のために、ちゃんと勉強をしておきたい』
なんでも将来ほんもののマッドサイエンティストになって、タイムマシンを作るのだそうだ。
――ま、動機はかなりアレだけど、やる気になったのはいいことかな。
というわけでわたしたちは勉強道具を持って、またしても図書館にやってきた。
わたしは一般相対性理論の分厚い本。岡部はそれを横目に見ながら、普通の大学生用の量子力学資料を読んでいた。
途中で『う゛ー、わからん』とか『飽きたのだー!』とか言い出す岡部をなだめすかしながら、なんとか勉強を続ける。
おかげで途中から岡部への講義時間みたいになってしまった。
「いい、岡部? ケータイの電波が電話レンジのブラックホールを潜り抜けられるのは、それがものすごーく小さいからなの。つまり光子と呼ばれる、波でありながら粒子である超小粒の粒子ね。これだけ小さいと、光子の挙動はわたしたちの常識とはぜんぜん違う動きを示す。これは量子論の基本だし、タイムリープマシンの基礎でもあるのよ」
「しかし波でありながら粒子でもあるって、わけがわからん。天才少女でありながらツンデレでもある、というのとはわけが違うぞ」
「誰がツンデレだ!」
「だ、誰もお前のこととは言っていないっ……!」
――というようなやりとりをしつつ。
わたしたちは、勉強を続けた。
次の日も。
その次の日も。
ある日には岡部が体調が悪いとかいって休むものだから、自宅に様子を見に行ったら案の定サボってゲームをしていた。だって難しいからちょっとだけ休みたいのだと文句を言う岡部をはったおして、無理矢理図書館に連れて行く。
ある日には、ちょっと息抜きにと図書館にある普通の本を読んだ。わたしは海外ミステリーのハードカバー、岡部は当たり前のようにマンガ本を読んでいた。まったくそういうのばっかり読んでないで少しは活字文化を頭に入れたら、と忠告したんだけど、岡部が物凄く薦めてくるのでちょっとだけマンガ読んだらそれが面白くて、止まらなくなってしまった。帰りながらマンガのエンディングの意味はああだこうだと岡部と議論をした。
ある日には、岡部の勉強がはかどって、ずいぶん前に進んだ。
ある日には、わたしの勉強が煮詰まっていてうまくいかず、ヴァアアアーってなった。
次の日も、次の日も――わたしたちは一緒に勉強した。
図書館でいつも変わらず勉強した。
当たり前のように勉強した。
それは終わりのない48時間なのだから、いつまでも続くはずだった。誰かの邪魔なんて入るはずがなかった。
わたしたちは誰かに邪魔されることもなく、図書館に行っては勉強して帰る、という日々を繰り返した。
ある日、岡部はわたしに問いかけた。
「――なあ、紅莉栖。お前、大丈夫か?」
「大丈夫って、何が?」
「同じ48時間を繰り返して、辛くならないのか? この時間から脱出するのは、お前の悲願なのだろう? それなのに一行に大きな進展もなくて、お前は我慢できなくはないのか? 苛立ったりはしないのか?」
「も、もちろん苛立ってるわよ。早くしなきゃと思ってるわよ。でもね、焦ったって仕方ないでしょう? とにかくわたしは、絶対にこの時間から抜け出さなくちゃならないんだから。失敗は許されないんだから。まったく完璧に確実にループから抜け出すための理論を確立して、ばっちり元に戻らなくちゃ。そのためにはちゃんとした準備が必要。少しくらい時間がかかるのは、仕方ないわ。わたしは慎重なのよ」
「そうか。……もとの世界に戻りたいんだな、お前は。応援するが、あまり根を詰めるなよ」
「え? ……うん。そ、そうね」
今の岡部の言葉に、なにか引っかかるものがあった。
ほんとうにちょっとした引っかかり。でも確かに違和感があった。
何だろう。
違和感の正体を知ろうとして自分の感情をさぐってみたけど、そこにはもう明確な何かは残っていなかった。
――疲れてるのかな。

そう、きっとわたしは疲れているのだった。
同じ場所で勉強ばかりしているのも、良くないのかもしれない。
そこでわたしたちは、勉強を一日休んで、街に出ることにした。
秋葉原の街は休日も平日も変わらない。メイド喫茶の呼び込み、電気ショップの明るい街頭アナウンス、めいめいに行きかう人たちの話し声。
「むうー、このPC、最新型は安くなったな……我がラボのPCも新調するか」
「はいはい、48時間ループから抜け出せたらね。どうせ今買ったって、あとで買った事実はリセットされるんだから。買い物もいいけど、それを忘れないでよ」
わたしたちは秋葉原の電気街を歩いて回った。わたしたち、っていうかまあ、岡部の趣味につきあって歩いた、ってだけなんだけど。
わたしたちは街頭テレビの新作アニメ予告編を見たり、露店でクレープを買って食べたり、本屋で立ち読みをしたり――いろんなことで時間をつぶした。
本当は、ラボのみんなも誘うべきだったのかもしれない。
橋田やまゆりと一緒に来るべきだったのかもしれない。
でも、それは気が引けた。
なぜって、彼女たちの記憶は48時間経ったらリセットされるのだ。どんなに楽しい思い出や記憶も、そのときが来れば消滅してしまう。思い出を共有できない。
あの時は楽しかったね、と言っても何の話? と返されるのは目に見えていて、そうなるのが少し嫌だった。
わたしが思い出を共有できるのは、岡部とだけ。
だから岡部とふたりで行動するのは、いわゆる必然。
仕方のないこと。
そう、仕方のないことなのよ。やむをえず、48時間ループのパートナーが岡部だったから、こうして一緒にいるの。
それ以外の、わたしの希望とか、そういうのはないんだから。
――と、ともかく。
岡部との電気街めぐりは、いろんなことがあった。
萌えフィギュアの店で岡部が真剣に鑑賞をはじめるので横にいて恥ずかしかったり、人生初・メイド喫茶デビューしたり(意外と普通だった)、PCソフトショップのエロゲーコーナーに迷い込んだり(こっちはえらい所だった)、秋葉原の映画館で映画を観たり。
いいことなのは、お金を気にしなくていいことだった。
いくら散財しても、48時間後には支払いは“なかったこと”になるわけだから、つまり全財産使いきったっていいわけだった。
買い物の事実も“なかったこと”になるので、買うもののチョイスは一考が必要だけど、普段しない贅沢もたくさんした。
いつもは1段のアイスを3段重ねにしたり。
近距離の移動にもタクシーを使ったり。
値下げされてない新作のゲームを買ったり。
――そうそう、岡部が新しいハードで出たゲームをどうしてもやりたい、と言い張って困ったりした。
それはハードで3万円、ソフトで1万円もする新しいゲームで、3Dの世界でゾンビを撃ちまくる、というシューティングゲームだった。
普段は貧乏学生のはずの岡部が、これ幸いとばかりに高い買い物をしたがったのだ。
「いいんだけど岡部、それ48時間で消滅するのよ? ゲームなんか途中までしかできないんだし、そうしたら余計ストレスたまるんじゃない?」
「クックック、案ずるでない我が助手よ」
岡部が手のひらで顔を隠して悪役笑い。
嫌な予感がした。
「なぜならこのゲーム、俺は48時間でクリアするからだっ!」
えー。大丈夫かそれ。できなかったらどうするんだ。
「心配ない、このゲーム、聞くところによると1人プレイではクリアするのが大変だが、2人プレイであれば比較的簡単にクリアできるそうなのだ」
「……はぁ」
「だから大丈夫!」
「……はぁ。………………………………っえ、なに、わたしもやるの!?」
「それ以外の何だと思ったのだ」
「いや、だってわたし、こういうゲームやったことないわよ?」
「大丈夫だ、お前はアメリカで実際に銃を撃ったこともあるのだろう? それに比べれば大したことはない」
「いや、でもほら、例えば……………………」
……………………。
…………………………………………。
別に、いっか。
「分かったわ、やりましょう」
「おお、協力してくれるか!」
「でも足引っ張っても謝らないわよ?」
「構わん、女性と一緒に協力系のゲームをやる、というのは、男ゲーマーなら誰もがあこがれるシチュエーションなのだ」
……そんなもんなのか?
「そんなもんなのだ」

というわけで。
わたしたちはラボでゲームをすることにした。
『時間を有効活用するために、一度14日に戻るぞ!』と、岡部が妙に気合の入った計画を立てたため、わたしたちは一度時間の巻き戻りを待ってから、ラボでゲームをはじめた。
新作ゲームとソフトどころか、『最新のグラフィックを最大限楽しむべき』と岡部が主張して、大型液晶テレビまで買った。
あわわわわ、いくらお金使ってもいいとはいえ、さすがにここまで高い買い物を連発すると少しビビる……。
冷蔵庫には食料完備。
眠気覚ましのコーヒー完備。
本格的である。
岡部は本格的にやる気である。
仕方がないので、つきあってやることにした。
ゲームはどうやら、バイオテロによって街にゾンビウイルスがばら撒かれた世界のようだ。主人公の男性とパートナーの女性はテロの拡大を食い止めるべく、ゾンビをばしばし撃ちながらテロリストを追いつめていく、というストーリー。テロリストのボスが主人公の昔の因縁の敵だったり、パートナーの女性が陰謀によってゾンビウイルスを打ち込まれてそれを助けたり、と大筋のなかにいろんな物語が入っている。
なんかなー。リアリティないなー。
だいたい、ゾンビに銃を撃ちまくるのが楽しい、というコンセプト自体も不純じゃないか。それってつまり、人型のものに罪悪感なく銃を撃ちまくりたい、という願望がねじれて現れたものにすぎないんじゃない? ゾンビだから死んでる、死んでるから撃ってもオーケー、という……。
……などと最初は思っていたのだけど。
「きゃあっ、ゾンビきたー! 死ね死ね死ねー!」
「やばいっ、ライフがピンチ! 岡部回復アイテムちょうだい早く!」
最初は操作方法さえよく分からなかったけど、慣れてしまえば簡単。むしろ岡部なんかより上達は早かったんじゃないかと思う。
わたしは連射性の高いショットガンやサブマシンガンで敵陣に突っ込み、それを後方の岡部がスナイパーで援護する、というスタイル。
性格なのか何なのかこのスタイルがうまくハマって、サクサクとストーリーが進む。
何時間もプレイしてさすがに目と腕が疲れてきたので、買い込んだ食料をラボで食べながら作戦会議。手榴弾なんかのサブ武器を使うタイミングと役割を確認。食べ終わったら続きをプレイ。
一日ずーっとやって、頭がぐらぐらしてきたので倒れるように仮眠。
夢の中でもゾンビを撃ってた。
どちらともなく起きると、無言でゲームの電源をオン。
ゾンビの街に軍が介入してきてこれで解決か、と思われたら敵の陰謀で軍の兵士がゾンビ化して、銃で完全武装したゾンビと戦わないといけなくなる。ストーリーもいよいよ佳境。
もうここまできたら休憩なんてしていられない。許された残り時間も10時間を切った。というわけでコーヒーを何杯も飲んで休まずプレイ。
その間ラボには誰も来ない。ふたりだけの48時間。
最後のボスは因縁のライバルであるテロリストのリーダー、かと思ったらそれを倒しても続きがあって、実は主人公がかつて開発したバイオコンピュータの人工知能がすべての黒幕。わぁお。倒したゾンビの肉体を吸収してそいつが巨大化、それを倒すのが最後の戦いらしい。
こいつがまあ強い強い。
銃はほとんど効かないし、でかいくせに動きが素早い。
眼が弱点みたいなんだけど、それを撃つには敵の触手をぜんぶ倒す必要があるみたい。
作戦会議。
役割を交代してわたしがスナイパー、岡部がマシンガンで突撃。
最後にはわたしが敵の動きを引きつけているあいだに、岡部がスティンガーミサイルで敵の顔面を破壊。
「よっしゃあ!」
エンドロール。
つ……疲れた……。
わたしも岡部もばったり倒れる。
さすがにやりすぎだ。
時計を見ると、タイムリープまで残り3時間。
ぐったり床にのびたまま、その3時間を過ごす。
ぽつりぽつりと、ゲームの感想を語りながら。
やがてその時が来る。
風景が歪んで、時間が巻き戻る。わたしたちは再びUPXのレストランにいる。
頭の疲れはほとんど消えている。
時間が巻き戻ったせいだろう。
岡部がほがらかに訊ねる。
「さあ、次はどのゲームにするか?」
「えええ、まだやるの? 無理よさすがに。っていうか、当分ゲームはしたくないわ」
……まあ、またいつか、似たようなことをする事になる気はしてるけど。


それから、また図書館に戻って勉強の日々は続いた。
わたしも岡部も、学ばなければならないことは無限にあったし、時間はいくらあっても足りなかった。
当たり前のことだけど、図書館はいつ行っても開いていたし、司書の人も来館者も、いつ行っても同じだった。借りていく本もタイミングも同じだったから、ときどき先回りして借りて来館者を困らせたりした。
日々は変わりなく続いた。
どこをどう探しても、変調のきざしや、いつもと違う驚異的ななにかなんて来なかった。
勉強する。ときどき休む。
日々はいつも予定調和的に続く。
終わらない48時間はひとつのメッセージを持っていた――つまり、『これまで変わりなく続いてきたし、これからも変わりなく続いていく』ってこと。
そして、ひとつの予想が裏切られた。
わたしは自分がきっと、似たような日々の繰り返しにいつか飽きて耐えられなくなるだろうと思っていた。
けど、そんなことはなかった。
毎日が違っている必要なんてどこにもなかった。
それでもまあ、ときどき突拍子もないことを言い出すやつが、わたしの隣にはいるわけで。
「旅行に行きたいぞ」
と岡部は言った。
図書館でラプラシアン方程式を教えているときだった。
「はあぁ?」
思わず間抜けな声が出た。
いや、だって、突然だったんだもの。
岡部が主張するには、若者の勉学にはたまには息抜きが必要であり、いくら散財しても構わない以上、どこか豪華な旅行に行ったってぜんぜん問題ない、むしろ頭のリフレッシュになってとても良いのでは、ということだった。
はあ、まあ、言わんとすることは分かりますが。
「どうせ勉強に飽きたんだろ」
「その通りなのだ!」
まったく、やれやれ。
わたしは窓の外を見る。
いい天気。
これまでもずっといい天気だったし、これからもずっといい天気だ。
わたしたちを脅かすものなんて現れてこない。
岡部が7000回以上のタイムリープをしたときとは、状況が違う。この48時間のループのなかに、まゆりの死は含まれない。
まゆりは死なないのだ。
一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、背筋が凍るようなぞっとした恐怖に包まれる。
でもその理由はわからない。恐怖の正体をつかみとろうとした瞬間に、それは消えてしまう。
はじめからそんな気持ちなんてなかったみたいに。
「いいわよ」
気づいたらそう言っていた。
「どこに行きたい?」
「む、こういうのは婦女子の主張をまず聞いてやるのが男というものだ――と、なにかの本で読んだ」
「はぁ。――じゃ、なに、行きたい所とか別にないのに旅行を発案したの?」
「特にない。ただあえて言えば、男は黙って甲州街道」
――駄目だこいつ、早くなんとかしないと。
「そうねえ」
旅行か。
わたしたちに許された工程は48時間しかない。それでも48時間あれば、世界のどこにだって行ける。お金はあるんだから、個人用ジェットをチャーターして南極にだって行ける。
でもまあ、そんなことしてたら48時間のほとんどを行きの道で使い切ってしまうことになるし、たぶん移動時間だけでへとへとになってしまうだろう。
とすると、やっぱり日本の中かな。
いわゆるお盆のこの時期、観光地はどこも混んでるだろう。わたしはあんまり人ごみが好きなほうじゃない。そうでなければ暑さをふきとばすために『海に行く』というのはアリな選択肢なんだけど……。
そうだなあ、田舎に行きたい、とぼんやりと思った。
ここしばらくの間ずっと人の多い秋葉原で過ごしたせいか、なんだか無性に森と川と静かな昼下がりが恋しかった。
静かな川べりで涼みながら、おさしみとか食べたかった。
今とはぜんぜん違う場所で、ただ自然の音を聞いていたかった。
それは毎日同じものばかり見る生活の裏返しかもしれない。
そのような意味のことを言うと、岡部は一言、
「おばあちゃんみたいな奴だな」
と言った。
死なす。
「では温泉旅館などはどうか」
岡部の発案にしては珍しくわたしの思考にヒットした。
1泊2日の休日。温泉旅行。
なんとなく今のわたしたちにピッタリくる気がした。
まあ、ひとつ問題があるとすると……
「…………泊まりか」
「な、なんだその人を疑うような目は」
「じゃあ教えてあげると、これは人を疑うような目よ、HENTAI岡部」
一泊旅行。
岡部とふたりで。
うーん。
…………。
………………。
「ま、いいか」
あっさりと気が決まった。
「い、いいのか?」
「ええ。どうせ岡部に、わたしを襲おうなんていう度胸、あるわけないし」
「な、何だとうっ! お、俺のどこを見てど、度胸がないなどと言うのだ」
「そのにじみでる童貞臭からよ」
「ど、どどどどど童貞ちゃうわ!」
まあ何でもいい。
とにかく、そんなふうにして温泉旅行は取り決まった。
場所は兵庫の山奥にある古い温泉街。
そのなかでも特に小さくて、宿泊客もほとんどいないような小さな民宿を選んだ。そのほうが空いてるだろうからと思ったのだ。
『巻き戻り』を待って、片道のバスチケットを購入した(帰りのチケットはいらないのである)。民宿に予約を取る。
で、なんというか当たり前のようにごく自然に、わたしたちは旅行に出かけた。
――旅行に行く前の48時間はソワソワして、勉強もろくに手につかなかった。準備するものは何かとか、どういう旅行プランで行こうかとか、何度も頭の中で確認した(なにしろメモに書き出しても“巻き戻って”しまうので、記憶するしかない)。
でもバスに乗ったあたりから、どうやら様子が変わりはじめた。
変化その1。まず空模様がだんだん悪くなってきた。バスが高速道路に乗り、目的地に向かって走り始めるにつれ、空が曇ってきた。いかにも雨の前に空を覆っているかんじの、灰色で分厚い雲が、青空をさえぎりはじめた。そういえば東京はずっと晴れだったけど、旅行先でも晴れてるとは限らないんだった。事前にちゃんとチェックしておけばよかった、と後悔してもすでに遅い。もういつ降り始めてもおかしくない――空はそんなふうに見えた。
変化その2。岡部が妙に無口になりはじめた。これは変化というより、もう異常事態だ。いったいこの男、ここにきて何だというのか。人目を気にしないいつもの奇人変人っぷりはどこに行ったんだ。何かを考え込むように、重く曇った窓の外を眺めている。なんだなんだ。どうしたの、と訊くと、いやあ何でもない、なんて上の空で答える。そして視線をまた窓の外に戻す。そんなことを繰り返した。
わたしには岡部が『何か』を悩んでいるのが分かった。でもそれが何かまでは分からなかった。そりゃそうだ、岡部の考えることが分かるわけなんてない。
だからわたしも仕方なく黙っていた。
いつもの癖で素粒子物理系の論文集を持ってきてしまっていたので、バスの中でそれをぺらぺらとめくった。でも内容がぜんぜん頭に入ってこない。ふうん、で、それがどうしたの、という感じの内容ばかりだった。いや、内容はすごく中身のある論文ばかりなんだけど、わたしの頭のほうがそれを吸収する準備ができてなかった。仕方なく論文集を読むのをあきらめて、わたしも窓の外を見た。バスは山奥のインターチェンジにさしかかっていた。観光スポットから少しはずれた場所にあるおかげで、道路は意外なほどすいていた。
バス停を降りると、送迎の乗用車が待っていた。
旅館に着いたころ、とうとう我慢しきれなくなったのか、ぽつぽつと雨が降り始めた。
ありゃりゃ。
仕方がないから、民宿の雨のしのげるベランダで、何をするでもなくぼーっと雨を眺めてすごした。
岡部ととりとめのない話をした。
本当にとりとめのない話だ。最初に出会ったときの話、わたしのタイムマシン講演会で岡部がイチャモンをつけてきた時の話、電話レンジがバナナをゲル状にしたときの話。
よく電話レンジがタイムマシンだって気づいたな、とか、なんでSERNにハッキングなんてかけようとしたの? とか。これまでの思い出を振り返る、どうってことはない世間話だった。
雨はしとしと、やむ気配もなかった。
雨を眺めていると時間の感覚がだんだんなくなってくる。
民宿のおばちゃんが気をつかったのか、コーヒーをふたつ持ってきてくれた。宿についた途端雨に降られて観光がおじゃんになった旅行客を見て、気の毒になったのだろう。
わたしと岡部はコーヒーをすすりながら、会ってからこれまでの話をし続けた。
未来の話は、まったくしなかった。
これから先の話――ループをどうやって脱出するかとか、脱出したらまずどうするかとか、そういう話は一切出てこなかった。
なんだかそれは、わたしたちの間でタブーのようなものになっていた。
どうしてだか全くわからないけど、いつの間にかそうなっていた。
日が落ちても雨はまったくやむ気配がなかった。
さすがにちょっと冷えてきたので、わたしたちは部屋に戻ることにした。
部屋に入って、わたしたちはテレビを見た。日本全国どこでもやっている、バラエティ番組だ。
テレビではお笑い芸人とアイドルグループがチームになって、スタジオでいろんなゲームの得点を競っていた。
新人のお笑い芸人が(たぶんわざとだろう)問題に間違えて落とし穴に落ちて、下で真っ白な粉まみれになっていた。「勘弁してくださいよー!」とその芸人はカメラに向かって叫んでいた。
わたしと岡部はそれを見て笑った。
たぶんわたしたちが何度も何度も48時間を繰り返すあいだ、その新人お笑い芸人は何度も同じ問題で間違え、落とし穴の下で粉まみれになっていたのだろう。そしてこれからもなっていくのだろう。永遠に同じ調子で繰り返し「勘弁してくださいよー!」とカメラに向かって呼びかけているのだろう。
わたしはそれを、まるで世界の反対側の出来事のように感じていた。
どこか宇宙の遠いところにある、地球にそっくりの星にそなえつけられたテレビカメラが映している映像みたいだった。
番組が終わると、わたしたちは自分の部屋に戻った。
いちおう岡部とわたしはべつべつの部屋をとっていたのだ。岡部が気をつかってそうしてくれた。わたしもとくにそれに反対はしなかった。
ひとりになったわたしは、民宿の露天風呂に入って汗を洗い落とした。
なんだか体が妙に熱くて重かった。
うまく寝つける気がしなかった。
仕方ないから布団に入って(畳の部屋に和式の布団! 久しぶりだ)、論文のつづきを読んだ。
やっぱり頭に入ってこなかった。
しょうがないから、この48時間ループのことについて考えることにした。
わたしたちは何回ループしたんだろう?
数えてみようとしたけど、うまく時間の感覚がはたらいてくれなかった。昨日と今日と明日が妙に不連続で、ひとつひとつの出来事は思い出せるのだけど、その出来事がひとつながりの流れをもって思い出せなかった。
そういうものなのかもしれない。

それから――唐突に、ほんとうに何の前ぶれもなく唐突に、わたしは全ての真相に気がついた。

愕然とした。
ものすごくショックを受けた。
あまりの衝撃に頭がくらくらした。
全身の毛穴が開き、寒気がした。
わたしは思わず周囲を見た。
民宿の古い部屋。和式の古い布団。脱臭剤の匂い。外では鈴虫が鳴いている。なんの変哲もない、ただの民宿の部屋だ。
でもわたしはそこで気がついてしまった。
何かがあったわけでもないのに、パズルのピースがひとりでにカチッとはまるみたいに、真相に気がついた。
全ての真実がわたしの目の前に提示されてしまった。
「そんな……まさか……」
そういうことなのか、と思った。
そういうことなのか。
だったら――全て、納得がいく。
――それから、牧瀬紅莉栖のことを考えた。
大人になった天王寺綯と、その頭の中にインストールされている、未来の牧瀬紅莉栖。
そうか。
考えてみれば当たり前の話だ。
もし。
もし、未来の自分と話をして、そいつがすごく嫌なやつだったとしたら、人はどうする?
自分は決して将来そうなるまい、と思って努力するだろう。
じっさい、あの牧瀬紅莉栖もそうしたはずなんだ。彼女が2010年の頃、未来から来た自分に会って、ショックを受けたはずなんだ。
そしてそうなるまいと努力した。――でも無理だった。
彼女は記憶を過去に飛ばし、岡部を記憶死状態にして、過去の自分にふたたび干渉してきた。
目的は、もちろん――わたしをこの終わりなきエンドレスナインの世界線に閉じ込めるため。
いや――
それは本当に、閉じ込めるためだったのだろうか?
だって、今のわたしは、むしろ――

答えははじめからそこにあった。
何のことはない、わたしの望みは最初からそれだったのだ。

わたしは風呂上りの浴衣姿のまま、岡部の部屋に向かった。


†  †  †


「岡部」
「うわおぅっ!」
部屋の襖を開けると、岡部が変な声を出した。
「な……く、クリスティーナよ、夜中に突然どうしたのだ。ひとの部屋をノックもせずに開けたりして」
「あら、開けたらまずかった?」
「い、いや、それは、その……そうだ、今から備え付けのテレビでエロい有料チャンネルを見ようとしていたのだ!」
「………………………………」
ほんとにアホだな、こいつは……。
アホで、しかも自覚のないアホだ。
岡部の言葉が『嘘』だってことくらい、わたしにだって分かる。
岡部は嘘をついている。
「ちょっと、今、いい?」
「え? あ、ああ……か構わんが」
わたしは浴衣を押さえて、布団の端に腰掛けた。
岡部の顔が妙に赤くなっている。
なに考えてんだか。
わたしは気にせず、ねえ岡部、と話しかける。
「まゆりを助けたいと、今でも思ってる?」
「もちろんだ」
0.1秒のためらいもなく、岡部はそう答えた。
…………。
そりゃ、そうだよな。
「ちょっと前の話をしてもいい?」
「ああ……構わんが」
許可が出たので、わたしは語り始めた。
「いちばん最初のこと。あのね、岡部から『俺はタイムリープしている』っていう話を聞かされたときは……正直、何言ってんのコイツ、って思ったわ。まゆりが死ぬとか、助けるためにはβ世界線に移動しなくちゃならないとか、厨二病のこじらせすぎだろって思った。でもそれは、厨二病でも、冗談でもなかったんだよね」
冗談だったらどれだけ良かったか。
「あんたは悩んでた。α世界線にいる限り、まゆりは死ぬ。でもβ世界線では、わたしは殺される。どちらの世界線を選ぶ限り、どちらかの命しか助けられない。あんたはわたしにそう言った。そして岡部は――わたしにそのことを教えるとき、すでにどっちを助けるかを決めていた。『まゆりを助ける』って――わたしを見殺しにするって」
「紅莉栖、俺は、そんな」
「いいの。黙って聞いてて。どちらか一方の命しか救えないなら、救うのはまゆり。当たり前よね。それはね、わたしもいいと思うんだ。本当に選ぶべき道はそっちだと思う。まゆりを死なせたくない。助けてほしい。それは本当。だからわたしは、岡部の選択になにも言わなかった。口をはさまなかった。それでもね――」
わたしは黙った。
言葉が詰まってうまく出てこない。
岡部はわたしの次の言葉を、辛抱強く待っていた。
「それでも――わたしは、死ぬのが、怖かった」
死ぬのは怖い。
それは当たり前のこと。
誰にだってある感情。
でも――
「その怖さが――死ぬことへの怖さが、わたしにひとつのプランを思いつかせた。第3のプラン。そのプランに従えば――」
わたしは唾をのみこむ。
言っていいのか。
その言葉を。
「――そのプランに従えば、ふたりとも、助かる」
「なっ――!」
岡部の顔色が変わる。
当然だろう。
これまで絶対前提だった、わたしとまゆり、どちらかしか助けられないという前提が、ひっくり返るのだ。
「そ、そのプランとは何だ! 教えろ、紅莉栖!」
「…………」
岡部がわたしの肩を両手でつかむ。
動転しているのか、力の加減を忘れてる、容赦なく力をかけてつかんでいる。
わたしはその痛みに耐える。
耐えなくてはならない。
「……ホントはね、このプランは数秒で思いついてたの。いちばん最初、岡部からこれまでの話を聞いたとき、すぐに思いついた。でも……言わなかった」
言わなかった。
言えなかった。
あのラジ館の屋上で、岡部に最初のノイズメモリー着信が入ってくる直前まで、言うつもりはなかった。
何度そのプランが口からこぼれそうになったか。
でもそのたびに、わたしは口に封をして耐えた。
岡部だって耐えてるんだから、耐えなくちゃ駄目だと思った。
「その方法とは何だ! 教えてくれ紅莉栖、頼む!」
「……あんたはその方法をもう知ってる」
「……何?」
「もう知ってるだけじゃない。もう実践してるわ。そして成功させている」
「俺が……もう、成功させている……だと? しかし……」
わたしたちは、それをもうやっている。
岡部の気づかないうちに。
それは巧妙に張り巡らされた罠。
そして何十年ものあいだ、綿密に考え抜かれた計略。
そして、希望。
牧瀬紅莉栖。
あんたは、はじめから、このつもりで――
「ふたりとも助かる方法を、教えるわ。いい、よく聞いてね? それはね――」

岡部とわたしが、タイムリープを繰り返すこと。

永遠に。

わたしは、そう言った。
「…………なんだと?」
岡部はそう言ったきり、沈黙した。
考え込んでいる。
構わず、わたしは続ける。
「方法は簡単よ。まずまゆりが死ぬ前に、岡部がタイムリープして時間を遡る。そうしたらほぼ同時にわたしがタイムリープして、岡部と同じ時間に戻る。これを繰り返すだけ。これを繰り返す限り、まゆりは決して死なない。まゆりが死ぬという未来に到達しないから。そしてわたしも死なない。わたしはずっと岡部の隣にいる。わたしたちが望む限り――ずっと、永遠に」
永遠にふたり。
巻き戻る世界のなかで、永遠にふたり。
「そんな、それは、まるで……」
「気づいた? そうよ」

「それは、今の状況そのものなの」

岡部の顔色が変わる。
表情に理解の色が広がっていく。
「だとすると……まさか、お前、最初から……」
「そう。最初にわたし、岡部にお願いしたわよね? もう一度デートをやり直したい、って。実は……実は、あれは岡部とデートをするのが目的じゃなかった。あれは――実証実験だったの」
2人同時にタイムリープすることは可能か。
終わりないループは成立するのか。
そのために、わたしは岡部にいろいろと理由をつけて、2人同時タイムリープという方法を『実験』した。
デートをやり直す、という理由をつけて、岡部を実証実験の実験台にした。
結果は、成功。
2人でタイムリープを繰り返すことは可能だと証明された。
「おい、待てよ、じゃあまさか、お前、このループする世界は」
「そうよ。そうとしか考えられない。わたしの考えたプランをより完璧にしたもの。自発的にタイムリープマシンを使わなくちゃ成立しないわたしのプランよりもっと完璧。強制的にタイムリープさせて、無理矢理にでも48時間を繰り返す」
今なら分かる。
すべてのことが。
未来の牧瀬紅莉栖の目的。
彼女は狂ってなんかいなかった。
彼女は過去に対して裏切りを行ったわけでもなかった。
むしろ、その逆。
18歳のわたしが考えていたプランを、より完璧に実行するため、ただただ冷徹に、地道に、当初の計画通り動いていただけ――
「この48時間のループ、エンドレスナインの世界線はね、わたしが今まさに計画して、実行しようとしている計画の、最終成果なの」
「そ、それはどういうことだ……分からない、紅莉栖。教えろ」
「いいえ、あんたは理解しているわ」
「嫌だ、分からない……理解できない、できるわけない」
「もう、受け入れたら? わたしはさっきから、こう言ってるの」

「わたしは、岡部、あなたを、この世界から逃がさない」

岡部から顔色が消える。
理解してしまったのだ。
まゆりを救ううえで、最大の障害が誰かを。
α世界線から脱出してβ世界線に行くという目的を、妨害する最大の敵は、誰かを。
それは天王寺綯ではない。
ラウンダーではない。
桐生萌郁でも、FBでもない。

最大の敵は、牧瀬紅莉栖。

わたしがいる限り、岡部はこの世界線から、脱出できない――

「たぶん、未来のわたしは試したんでしょう。プランを。タイムリープマシンによる永遠の繰り返しを。そして一度失敗した」
わたしは淡々と語る。
黒幕としての台詞を。
「失敗した理由は簡単に想像がつくわ。それは繰り返す世界のどこかの地点で、岡部、あんたがタイムリープマシンを使うことを拒否したのよ。理由はなにか知らない。けど、あんたはわたしのプラン――永遠にループする世界を嫌がった。たぶん『閉じ込められてる』と感じたんでしょう。そしてわたしの説得を振り切って身を隠し、SERNに反抗する活動に入った。そしてわたしの前から姿を消した」
「……やめて、くれ……聞きたく、ない」
「いいえ、聞いてもらうわ。だからわたしは、より完璧なプランを練り直した。岡部がどう拒否しようと無駄な、鉄壁の時間ループ世界を構築した。それは困難を極めたはずよ。その理論を完成させるために、わたしは少なくとも15年と、2000年から今までの10年、合計25年を費やしている。そして最終的に、牧瀬紅莉栖は理論を完成させた。永遠に同じ時間が続く不連続の世界線、“エンドレスナイン”を発見し、そこにわたしと岡部の記憶だけが更新され続けるよう手を加えた」
「…………」
「あとは、なにも知らないわたしを誘導して天王寺綯との戦いに参加させ、追い込み、自らタイムリープマシンを使うよう仕向ける。そのマシンは調整されていて、自動的にこの“エンドレスナイン”の世界線に飛ぶように設定されていた」
はじめから、牧瀬紅莉栖の計画通りだったのだ。
岡部も、天王寺綯も、みんな牧瀬紅莉栖の――いえ、わたしの手の上で踊らされていたのだ。
完璧な計画。
最高の完成度を誇る、絶対の策略。
計画を完成させるために、なにも知らない過去の自分さえ利用するという、完成された冷徹性。
――まちがいなく、わたしのプランだ。
その完璧さ、不確定要素をいっさい許さない計算されつくした計画のスタイルは、どう考えてもわたしのものだ。
過去のわたしと、未来のわたし。2人の天才が組み立てた、完全無欠のプラン。
さらに背筋を悪寒が走る。
牧瀬紅莉栖は、このループ世界のどこかで、わたしがそれに気づくことさえ計算に入れていた。
わたしがその計画に賛成し、加担することも。
そうなれば岡部に逃げ道はない。
たとえループから抜け出したいと思っても、唯一のパートナーであるわたしは、岡部の敵なのだ。
パートナーであり、監視者であり、計画の首謀者。
牧瀬紅莉栖は、過去の自分をひとり3役の演者として選んだ。
これ以上ない人選だ。
どう転んでも岡部に勝ち目はない。
そしてその目的は、わたしと同じ――いえ、25年の時間を経たぶん、今のわたしよりずっと純度の高い、絶対零度の想い。
『岡部と一緒にいたい』
『ずっと一緒にいたい』
それだけ。
ただ、それだけ。
ただそれだけのために、策略を練り、計算を尽くし、天王寺綯もSERNも自分さえも利用し、完璧な世界を作り上げた。
この世界がゴール地点。
この世界が完成形。
まゆりも、SERNも、神でさえも入り込めない、完結した世界。

「ねえ……岡部」
わたしは彼に語りかける。
わたしのパートナーに。
永遠の時間を一緒に過ごす、絶対的な配偶者に。
「岡部は、この繰り返す時間の中で、何を考えてた?」
岡部は答えない。
その表情はこちらからは見えない。
「わたしはね……、楽しかったよ」
言葉が部屋に落ちる。
わたしと岡部のあいだの空間に、ぼつり、ぼつりと落ちていく。
「岡部と一緒に大学に行ったり、図書館に行ったり、街に出たり、ゲームしたり……すごく楽しかった。この世界がずっと続けばいいのに、って何度も思った。でも、言わなかった」
「…………」
「言わなかったんだよ、ねぇ、岡部……一度だって、わたし、楽しい、って言わなかった。そうでしょう? あれはね、我慢してたの。あなたの前では絶対に言わないようにしようって、耐えてたの……ねえ、岡部、どうしてだか分かる?」
「…………紅莉栖…………」
「それはね、悪いな、って思ったからなの。岡部はまゆりを助けるために必死に戦ってる。それなのに、閉じ込められたこの世界で、わたしが楽しそうにしてたら、悪いな、って思ったからなの。でも……もう、いいよね。いいでしょ?」
「……紅莉栖、お前は……」
「いいでしょう? もう耐えなくても。もう頑張らなくても。ここは終わりのない世界よ、岡部。ここには永遠があるの。ドラマや唄の歌詞で“永遠”って言葉が出るたびに、うさんくさいな、って思ったこと、ない? 永遠なんてしょせん言葉のうえだけでの遊びだもの。普通の人には、けっして永遠なんて手に入らない。ものごとはいつか変わる。大事なひとはいつか必ず去っていく。でもね、ここにはあるの。比喩や擬似的じゃない、ほんものの永遠があるの。それって、ねえ、素晴らしいことじゃ、ない?」
「……それは、紅莉栖……」
「わたしが全てを与えてあげるわ、岡部。あなたの欲しいものすべてあげる。終わりのないループとタイムリープマシンがあれば、何だってできる。永遠に変わらないでいることも――」
「……だったら、紅莉栖、なぜ」
「これはわたしの、望み。未来の誰かなんて関係、ない。だって、わたしは、あなたのことが」

「あなたのことが、好、き、なんだもの……」

「だったら……紅莉栖」
岡部の瞳がわたしを見つめる。
「紅莉栖……だったらどうして、お前は今、泣いているんだ……」

「…………っ」
頬を手で触れる。
濡れている。
はじめて、自分が泣いていることに気づく。
「そっ、れ、は……っ」
喉が震える。
嗚咽が止まらない。
頭の中が真っ白になる。
「……紅莉栖」
岡部がそっと手を伸ばす。
わたしの頬に。
全身に電気が走ったみたいに、わたしは硬直する。
「っ……! あ、っ」
わたしの望み。
わたしの願い。
わたしがほんとうになりたかったもの。
わたしがほんとうにしたかったこと。
言葉がぐるぐると巡る。
「…………っ!!」
「あ、紅莉栖!」
わたしは走り出していた。
岡部の手を振りほどいて、旅館の外に駆け出す。
「待て、紅莉栖!」
岡部の制止の声にも、立ち止まることはない。
わたしは走る。
心臓が爆発しそうに鳴っている。
頭の中が閃光のように白く染まっている。
立ち止まらない。
立ち止まれない!
わたしは裸足のまま、浴衣のまま、旅館の外へ、雨の降る山の奥へ、走り出していく――


†  †  †


――どこをどう走っただろうか。
わたしは雨の降る山奥を、ひとり駆けていた。
夜の山道は真っ黒だった。
唯一の光源である月光も、今はぶ厚い雲に隠れている。
細い木々が、薄い霧雨の紫色のにぶい明かりのなかの黒いシルエットとなって浮かび上がっている。
合理的な自分が悲鳴をあげる。
わたしは一体何なんだ。
何がしたいんだ。
岡部に真実を告げて、告白して、泣いて、逃げて――
ぜんぜん合理的じゃない。
わたしは一体、何が望みなんだ。
裸足の足の裏に小石が刺さるたびに、鋭い痛みが走る。
でもわたしは走る足を止めない。
どうにもならない。
自分の気持ちは、自分ではどうにもならない。
黒い蟲のような節くれだった木の根に足がひっかかるたび、転びそうになる。
鋭い小枝に引っかかれて、浴衣のあちこちが裂けている。
そうでなくとも旅館の宿泊用浴衣だ。生地の丈夫さなんてないに等しい。
薄い浴衣は雨に濡れて、ぴったり肌に張り付いている。それが体から熱をどんどん奪っていく。
足が止まらない。
とにかく、走る。
獣道を、人の通らない山奥の道を、ただひたすらに、走る。
でもついには、わたしの脚にも限界が来る。
走りすぎて硬くなった足は、満足に上がらなくなる。
暗闇に隠れていた、人の頭ほどもある大きな石くれに思い切り裸足のつま先をぶつけて――わたしは、転んだ。
激痛が足の先から全身に奔る。
「…………っっ!!」
声にならない。
ただ息を噛み殺して耐える。
転んだ先の地面にも石があったのか、ばりっ、と嫌な音がして、浴衣が大きく裂けた。
たぶん全身泥だらけだろう。
真っ暗で自分の体も見えないのが、せめてもの幸いだ。
ああ――
一体なんだ。
一体なんなんだ。
どうしてこんな知らない土地の山奥で倒れてるんだ。
わたしの行動は矛盾だらけだ。
わたしは一体、何がしたいんだ。
岡部と一緒に過ごしたいのなら、そうすればいい。
永遠の繰り返しのなかで彼を手に入れて、思うままにすればいい。
逃げる必要なんてない。
恥じる必要なんてない。
「――――――ぁああああ」
わたしは、叫んでいた。
叫んでいると意識さえしないうちに。
「――――――ああああ、ああ、ぁああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!」
慟哭。
涙があとからあとからあふれ出る。
涙が、雨が、頬のうえを泥といっしょに流れ落ちていく。
なぜわたしは、こんなにも汚いんだ。
なぜわたしは、こんなにも岡部を苦しめるんだ。
どうしてこんな、岡部に嫌われるようなことを――
世界を捻じ曲げてまで――
合理性。
わたしを苦しめているものは、まさにそれだった。
どんなに合理的な道があることを知っていても、心はどうにもならない。
心は自動的だ。
それは合理性よりも上位に、わたしたちよりも上位に存在していて、わたしたちの自由にならない。
誰も自分の心を自由にはできない。

――雨に打たれながら、ふと、このまま死んだらどうなるんだろう、と考える。
記憶は脳に定着した時点で電気的ではなく化学的な存在になるので、死体にも記憶データは残っている。
でもそれを読み取れるか?
そんなわけない、と思う。
だったらここでわたしが死ねば、わたしのループは断ち切られ、世界は元に戻るのだろうか。
それとも、そうならないように世界線収束が働くのだろうか。
試してみてもいいと思った。
むしろどうでもいい。
わたしは岡部に、最悪の裏切り行為をはたらいたのだ。
それだけが事実だ。
本来は岡部はまゆりを助けるはずだった。わたしはそれを阻み、岡部を終わりのないループ世界に閉じ込め、自分だけのものにしようとした。
SERNを裏切り、天王寺綯を利用して殺し、世界を騙してまで、ふたりの永遠の時間を手に入れようとした。
そんな人間が生きていていいのか。
世界線収束が邪魔しようとするなら――この手で、いっそ――
わたしの手が鋭い石に触れる。
さっき浴衣を引き裂いた石だ。
その石は冷たく濡れ、先端は固く尖っている。
わたしはそれを握りしめ、そっと喉に持っていく。
さくり、と先端が刺さる感触。
少し刺さっただけなのに、鋭く冷たい痛みが走る。
石を握る手に力がこもる。
「っ……く、ぐうっ……!」
石を押し込んで、右に引いていく。
皮膚が裂けていく感触。痛み。冷たさ。喉の骨が、歪んで音をたてる。
「ぐ……っ、う……!」
皮膚と肉が裂ける。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
「…………っ、……!」
あまりの痛みに、石を握る手から力が失われる。
喉にぬるりとした血の感触。
「……っ! ごほっ、ごほっ!」
痛みのあまり咳き込むと、いっしょにまた涙が流れた。
――わたしは、中途半端だ。
死ぬこともできない。
きっと岡部は呆れているだろう。
わたしはきっと、嫌われた。
だって、わたしは岡部の敵なのだ。
それだけじゃない。
わたしは今まで岡部を騙していた。
欺いていた。
岡部の計画に協力するふりをして、『まゆりを助けてやって』なんて言っておいて、裏では自分が死なないための計略をめぐらしていた。
このループ世界から抜け出す努力をするふりをしていて、実際はループを作り出した首謀者だった。
そもそものはじめから、わたしは本気じゃなかった。
本気で岡部を助ける気なんかなかったし、ループ世界から抜け出す気なんてなかった。
そう。
本気で自分の命を捨ててまゆりを助けるつもりだったら、方法なんていくらでもあった。
方法は無数にあった。
いくら相手が“タイムマスター”でも、わたしが本気を出せば、やれたはずなのだ。
例えば、タイムリープ可能限界の8月11日に跳び、なにも知らない岡部と橋田に無理矢理SERNへのハッキングをさせる。その時点では岡部は記憶死していないし、タイムリープマシンは完成さえしていないからラウンダーの脅威はない。
そこでIBN5100を使えば、β世界線への移動が完了し、まゆりは助かる。
――本気で岡部のためになると思うのなら、それくらいすべきだったんだ。
ひょっとしたら未来から牧瀬紅莉栖の妨害が入るかもしれない。だけど試す価値はある。
――でも、わたしは試そうとさえしなかった。考えつきもしなかった。無意識のうちに、自分が死ぬ案を切り捨てていたんだ。
――なんて、卑怯。
口では岡部を助ける、まゆりを助けると言っておいて……
それに、このループ世界だって。

このループ世界だって、脱出する方法に、わたしはとっくに気がついているのに。

やっぱりわたしは世界の敵なんだ。
いちゃいけない存在なんだ。
橋田鈴教授の言葉が蘇る。
『この世界のあなたは、きっとタイムマシンなんかに留まらない、もっととんでもないものを発明してしまうでしょう。あなたが人間らしく生きられることを祈るわ』
わたしの頭脳は、世界にあっちゃならないんだ。
いろんな人を不幸にして、災厄をまき散らす。
わたしさえいなければ、タイムマシンは発明されることもなく、岡部が苦しむこともなく、SERNは支配者にならず、世界は普通でいられた。正常でいられた。
わたしが変えてしまったんだ。
――なにが天才少女だ。
こんな頭脳なんか、いらない。
父さんの言うとおりだ。
わたしは生まれてきちゃいけなかったんだ。
それが真実だ。
誰のせいでもない、わたしのせいで、わたしは世界を不幸にする――
「……て」
誰かの声が、耳に届いた。
「……けて」
それは今にも消え入りそうで、儚い、誰かの声。
「だれか……けて……」
耳のすぐ近くで聞こえる声。
聞きなれた声。
それは、わたしの声だった。
「だれか……助けて……」
悲痛なSOS。誰にも届かない、消えるために発せられる救難信号。
「だれか……助けて……」
「だれか……助けて……」
「だれか……助けて……」
「だれか……助けて……」
「お願い……、だれか……助けてよ…………!」

「クゥックックック……誰かとは、この世界に混沌をもたらすマッド・サイエンティィイイストのことかな、クリス、ティ――――ナよっ!」

体に電気が走る。
心臓が跳ね上がる。
いちばん欲しかった声。
わたしは恐る恐る振り返る。
幻聴だったらどうしよう。
誰もいなかったらどうしよう。
顔をあげる。
そこには、彼が立っている。
紫色に光る霧雨を背負って、彼が立っている。
ずぶ濡れの白衣。
ぼさぼさの頭髪。
無精髭。
似合ってない悪役スマイル。
両手を組んで足を開いたキメポーズをばっちり決めたつもりでいるのだろうけど、足は急いで出てきたからか、旅館のスリッパを履いている。
「……岡部……」
岡部倫太郎が、そこにいた。

「クックック、お前は実に愚かだな、クリスティーナ! 実に愚かだ! オロカ・セブンティーンと呼んでやりたいくらいだ! こんな所で何をしている? しかもそんな格好で。裸足に浴衣ではないか。いまどき夏休みの小学生だってそんな格好で外に出たりしないぞ!」

岡部……
岡部、どうして……

「何だ、転んだのか? あちこち浴衣が裂けているぞ。あー、こりゃ弁償かもしれんな。全く……うお、しかもかなり避けているではないか、って、ちょ、お前、見えてるぞ! 浴衣の下に下着、つけてないのか? え? 女性の浴衣ってそういうの、アリなのか? ほ……ほとんど見えかけているぞ!」
岡部は一人でぎゃあぎゃあ騒ぎ出す。
「卑怯だぞクリスティーナ、これは、その、凶器だぞちょっとした! 視覚凶器である! ええい仕方ない、これを着ろ! ってお前……よく見たら、喉から血が出てるじゃないか! しかもけっこう深いぞ! うわ、これは洒落にならん。やばいちちちちち血だ! フゥハハーこんなときこそ冷静にー深呼吸ー深呼吸ー」
ばたばたする岡部。
「立てるか紅莉栖? 足をくじいているのか? 仕方ない、おぶってやる。ほら、手を出せ、紅莉栖」
「どうして……岡部、わたしは……」
「どうした? 手を出さないか、ん? それとも何か、新手の美容健康法か? 天然の泥パックとかそういう奴なのか?」
「だって、岡部を、わたしは裏切って……だから、怒って、切り捨てられて、当然だと……」
「そうだな」
岡部はふぅ、と息をついた。
「お前はそれだけのことをしたかもしれん。天才のお前が言うんだからな、きっとそうなのだろう。俺は怒るべきなのかもしれん。嫌いになるべきなのかもしれん」
岡部がしゃがみこむ。
指先が、わたしの頬に触れる。
「だが何故だろうな紅莉栖。不思議なことに、俺は少しも怒るような気持ちにならん」
顔が近づいたおかげで、岡部の表情が見えるようになった。
優しい表情。
父親が子どもに見せるような、包み込む笑顔だった。
「お前がどんな悪さをたくらもうと、どんなに俺の邪魔をしようと、なぜかな、少しも怒る気になれん。むしろ応援さえしてやりたくなる。なんとかして助けてやろうとすら思える。不思議だなあ、実に不思議だ」
岡部の指が涙の跡をなぞる。
頬はやっぱり泥だらけだ。岡部はそれを少し寂しそうに眺める。
「もちろん、いろいろ理由は考えられる。――たとえばお前は我がラボメンだ。ラボメンは守らねばならん。たとえばお前にはタイムリープマシンを作ってもらった借りがある。べつの世界線で、何度も助言をもらった恩もある。嘘かもしれんが、お前はまゆりを助けろと言ってくれた。そのときの感謝は本物だ」
岡部は顔を近づけて続ける。
「だがなクリスティーナ。お前が許されるのは、今言ったモロモロのせいではない。違うんだ。そうではないのだ。俺がお前を許すのはな、クリスティーナ、お前が牧瀬紅莉栖だからだ」
「…………」
わたしは何も言うことができない。
黙って岡部の言葉に耳を傾ける。
「牧瀬紅莉栖。お前は最高だ。その知能、その態度、全てが完璧だ。どこぞの教授が束になっても敵わないその知識、自信たっぷりのその態度。お前は――俺にとっての憧れなんだ。理想の科学者なんだ。その姿にいつも憧れてた。いつもシビれていた。そして、そんな素晴らしい力で俺を何度も窮地から救ってくれた――かけがえのない、パートナーなんだ」
岡部の指がわたしの頬をなぞっていく。
涙の跡を。
目の下から、頬、それから顎に。
どこも涙と雨と泥で濡れている。
「なあ、紅莉栖」
岡部が真剣な目でわたしを見る。
「キス、してもいいか」
「…………!?」
わたしの脳が一瞬にして許容範囲を超えた。
脳が瞬間オーバーヒートを起こす。
「え、っちょ、待っ、な、にゃあ!?」
「断るつもりなのだろうが知らん。後で怒れ」
「何言っ、んむ…………」

「………………………………」
「………………………………」

どちらかの歯が震えてカチカチ鳴っていた。
どちらかの鼓動が緊張でドクドク鳴っていた。

雨で、夜だった。
月なんて出てなかった。
山奥で、あらゆる音は木々のざわめきの中に吸い込まれていった。
足の痛みも、喉の痛みも、寒さも、何もかも吸い込まれていった。
ただ、わたしたちだけがいた。
それだけは確かだった。
ただ、わたしたちだけがいた。

わたしはそれから、岡部の背中におぶさって、民宿まで帰った。
体じゅうまんべんなく泥だらけだったし、足はどこで捻ったのか歩けないくらい痛かったから、泥を落とすのから着替えるのからぜんぶ手伝ってもらわなくてはならなかった。
怪我の手当てをして、体を洗った。
その間、わたしはずっと考えていた。
なにか大事なことが分かりかけようとしていた。
もう少しでそれは理解できるはずだった。
今までのどんな物理理論より、大切なこと。
わたしが絶対に知らなくてはいけないこと。
それが分かりかけている気がした。
「岡部……ねえ」
「……なんだ?」
「そばにいても……いい?」
岡部はなんと答えたのか。声が小さくて聞き取れなかった。
わたしは微笑んだ。
この夜は“なかったこと”にはならない。
それだけが嬉しかった。

それから、わたしたちは――――


†  †  †


8月14日、晴れ。
秋葉原は今日もよく晴れている。
観光客や地元のメイド喫茶の呼び込み、外国人も目立つ。
空はとてもとても高く澄んでいて、手を伸ばしたら伸ばしただけ遠ざかってしまうみたいだ。
わたしはもう秋葉原の裏道まで知り尽くしている。
どこをどう進んだら何の店があって、近道はどこか、どのお店のランチが美味しいか、知り尽くしている。
わたしの街。
わたしたちの街だ。
岡部とわたしは、ランチを食べてから秋葉原をぶらぶら歩いた。
本屋の新刊コーナーをひやかし、ラジ館のトイカプセルでオレンジの『うーぱ』を当て、メイド喫茶で一休みした。
それからUPX4階にある3Dアニメシアターで、新しいCGアニメ映画を観た。
外に出るとすっかり暗くなっていたので、近くのバーで早めの夕食を取った。
それからわたしの宿泊先のホテルに戻って、岡部オススメとかいうアニメを夜遅くまで観た。
――次の朝は、図書館に行った。
いつもの図書館だ。
いつもと同じ、岡部の自転車の後部座席に乗って、図書館までの坂道を走った。
正面から吹いてくる風が、わたしの髪を夢の中のようになびかせた。
「そりゃあー、いけいけ岡部ー! 風になれー!」
「くっ……ぬ、っ……相変わらず、好きなこと、言いおってからに……!」
汗だくの岡部と、後部座席ではしゃぐわたし。
いつもと同じ。
図書館に着くと、早速へたばった岡部を尻目に、わたしは本棚から目当ての科学書を何冊も引っ張り出す。
今日のテーマは、ひも理論。スティーヴン・ホーキングがひも理論を使って研究したという、ちょっと異色の取り合わせ論文に、ブラックホールのエントロピーをひも理論で記述した論文。
わたしは白いカーテンのそばの涼しい一角に腰を下ろすと(わたしのお気に入りの席だ)、本の世界に没頭した。
一冊目の本を読み終わる頃、ようやく岡部が復活して勉強を――せずにマンガ本を読み出した。
耳を引っ張って、大学の講義書籍を出させる。
いつもと同じ。
それからわたしは岡部の勉強を見てやった。
その代わりに岡部は、大学のいろんな変な人たちの話をしてくれた。
大学で研究をしたいけど親が反対するからと留年を繰り返し、助教授レベルの知識を身につけてしまっている先輩の話。実験用のバイオ微生物を、冷蔵庫でおつまみと勘違いしてビールで食べちゃった学生の話。食べると精力がつくという虫の研究をしている研究室で、いつも飼育カゴから虫がちょっとづついなくなるという話。その虫がたまにネットオークションで売られているという話。
わたしたちはいろんな話をした。
いつもと同じ。
勉強したくないから身近な変人の話をする岡部と、それに気づいてるけど聞いてやるわたし。
そしてほどほどのところで勉強に戻らせる。
いつもと同じ。
岡部はもともと才能があるのか、ぐんぐん実力をつけていく。
このままだったら、将来ほんとうにタイムマシンを開発しちゃうかもしれないな……。
昼過ぎになると、図書館の前のベンチで買ってきていたサンドイッチをふたりで食べる。
鳩が寄ってきたので、パンのかけらを投げてやる。
鳩はパン屑を不思議なものを見るような目で眺めて、そのまわりを2、3週まわってから、ひょいとついばみ、飛び去っていった。
いつもと同じ。
それから図書館に戻り、勉強の続き。
わたしは論文読書の続き。
いつもと同じ。
どこまでも続きそうな、日常のまんなか。
だけど。
図書館が夕暮れに包まれ、閉館時間のアナウンスが流れ始めたとき、わたしは岡部にお別れを告げる。
「じゃあ、わたし――そろそろ、行くね」
「ああ、うん。……………………………………………………………………………………え?」
何でもない言葉だと間違えた岡部が、思わず返事をしたあと、しばらくして振り返る。
わたしは微笑む。
「決めたんだ。そろそろいかなくちゃ、って」
わたしは告げる。
さよならの言葉を。
「ありがとう岡部、あなたのことは、一生忘れない」
「ちょ…………ま、待てよ紅莉栖。いきなり何を言ってるんだ。意味がわからないぞ。ほら、いいから準備をして帰るぞ。明日もまた、図書館に来るのだろう?」
「いいえ」
わたしは首を横に振る。
「考えたの。岡部のために、何ができるのか。何をすればいいのか」
わたしの大切なものって何だろう?
わたしがしたいことって何だろう?
旅行のあと、山の中から岡部におぶられて帰ってきたあと、わたしはずっと考えていた。
わたしは牧瀬紅莉栖。科学者の卵。
タイムリープマシンを開発した人間。タイムリープを繰り返す岡部を支える人間。
岡部の記憶死を回避するために戦った人間。
そして――岡部を愛している人間。
わたしはわたし。
わたしが何者であるかは、わたしが決めることができる。

「ねえ岡部」
「…………何だ」
「わたし……岡部の敵に、なりたくない」

それが答え。
それが本当の気持ち。
どこへも持ち去りようのない、どこへも隠しようのない、わたしの中の真実。

死ぬのは怖い。
どうしようもなく怖い。
死ぬのは、嫌。
死ぬのは、嫌。
死ぬのは、嫌。

――でも、岡部のために、わたしは行く。
自分が死ぬ宿命の世界線へ。
自分の意思で。
合理的に考えれば、そんなのは間違ってる。
合理的であろうとするならば、48時間の世界線から出てはいけない。
それが未来の牧瀬紅莉栖の狙いで、願いだった。

でも、わたしは合理的な判断はしない。
わたしは合理性を裏切る。
論理的な正しさを裏切る。

わたしはようやく理解した。
この世界の本当の仕組みを。
アトラクタフィールド理論によれば、タイムマシンで『今』を変えた瞬間、未来のすべてが根こそぎ別の未来に変わるのだという。
それは言い方を変えれば、『未来がどうなるかは、今の自分の心が決定できる』ということ。
未来は、自分で決めることができる。
それは合理的なコンピュータにはできない、人間だけが持つ強み。
人は、理由はどうあれ、『なりたい』と思う自分になることができる。
幸せを選ぶことも、夢を選ぶことも、名誉を選ぶこともできる。
それだけがアトラクタフィールドの“因果の鎖”を超えるもの。

わたしは何になりたい?

因果も合理性もなく、ただ自分の心のままに選ぶとしたら、何になりたい?

岡部と永遠に過ごす、終わりのない未来か?
タイムマシンの母として世界に君臨する未来か?
ラジ館の通路で誰かに刺されて殺される未来か?

わたしは――

「わたしは、岡部の望む未来を、見せてあげたい」

それが答え。
岡部の望みを叶えてあげたい。
岡部が『タイムマシンなんていらない』と言うのなら、それはきっと、本当のことなのだ。
岡部が『β世界線に行くべき』と言うのなら、それはきっと、本当のことなのだ。

わたしの頭の中の計算機が同時にいくつもの代案を立案する。
もっと合理的で、リスクが小さく、得になる方法をいくつも提示する。
けれどわたしはそれらをすべて却下する。
そんなものはゴミだ。
岡部の望む世界を、わたしは選ぶ。
あらゆる論理的正しさをぶち壊して、岡部を選ぶ。

だから、さよなら。
終わりの来ない幸せな、ふたりの日常。
さよなら、醒めない永遠の夢《エンドレスデイドリーム》。

「わたし、行くわ」
岡部に告げる。
「お前――死ぬ気、なのか。自分の死を選ぶのか」
「今さら誤魔化してもしょうがないわね。――そうよ。わたしは消える。わたしがそれを選んだから」
「だが、紅莉栖、このループの中にさえいれば、お前は――」
「言わないで!」
はねつける。
「お願い、岡部――その言葉は、今だけは言わないで。分かってる。ぜんぶ分かったうえで、わたしは選んだの。だから言わないで。決心が――鈍るから」
「……紅莉栖…………」
つとめて明るい声を出す。
「さあ、ラボに行きましょう! タイムリープマシンを使って、この大騒ぎの始末をつけなくちゃね!」


ラボに移動し、電話レンジの起動準備をする。
PCの設定を完了させ、レンジの出力を調整する。
と同時に、発信装置のケータイにも、設定を組み替える。
「――何をやっているのだ?」
「ねえ岡部、モスキート音って知ってる?」
「モスキート……? 蚊?」
「じゃなくって、人間の可聴域である20,000ヘルツぎりぎりの音のことよ。鼓膜は皮膚と同じ皮質細胞だから、加齢の影響を受けやすいの。だから17,000ヘルツ近くの高周波は、未成年にしか聞こえないのよ。試してみる?」
設定したケータイから、モスキート音を流してみる。
甲高い、脳の中心に響くような音だ。
「……! すごい音だな……っ」
「これで岡部がちゃんと未成年だってことが証明されたわね」
「い、いったい何の実験だったのだ、今のは」
「いや、岡部が実はおっさんじゃないか試そうと思って」
「な……何なのだその理由は。というか俺は何でおっさん容疑をかけられている? 俺何かしたか?」
「いやー、あはは」
ごまかしておく。
「さあ、笑ってるあいだに準備ができたわ」
PCのセッティングをチェックする。
この設定で、狙った世界線へのDメール送信が成功するはずだ。
わたしはこの世界線で、任意の世界線へ情報を送る方法をマスターしていた。
それはケータイの周波数とレンジの周波数干渉に依存する。詳細は省くけど、岡部のダイバージェンスメーター、そしてSERN製のカード型ダイバージェンス測定装置の原理を応用した結果だ。
これで、Dメールは自在に狙った世界線変動を起こせる、無敵の装置と化す。

送るDメールは、ぜんぶで3通。
ひとつめのメールを作る。

[Date] 8/13 17:11 [To]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]岡部の圧縮記憶データバックアップ取れ

8月13日――タイムリープマシンが完成した日。
これでいい。
このメールを受け取って、わたしの過去の行動は変化するか。
おそらくしないだろう――このDメール単体では。
だから、次のメールが生きてくる。

[Date] 8/13 17:11 [To]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]f(t)+=exp^ΣGc^4t+di/dt*dy/dt*2kr


――これでよし。
この数式はそれ自体に意味はない。アインシュタインテンソルとカルツァ=クライン理論を組み合わせた、単なる現象を表現する凡庸な一般式に過ぎない。
けれど、わたしはこの式を導き出すためにこのループにおけるほとんどの時間を費やした。
その結果が、この数式。
この数式を解くと、過去のわたしへの膨大なメッセージになっている。
いわゆる『暗号』だ。
この数式はわたし以外には解けない。けど、わたしならこの数式を解き、展開された膨大な情報量を読み解くことができるだろう。
Dメールの欠点は『メールを受け取った過去の自分がどう行動するか分からない』という点にあるのだけど、このメールを見ればわたしは必ず解く。そして必ずその意味に気づく。
これには絶対の自信があった。
そうなるように、この天才のわたしが、全知力を結集して数式を作ったのだ。
うまくいかないわけがない。
「さて、準備できたわ。岡部、起動準備、してくれない?」
「紅莉栖――本当に、行くのか」
岡部は暗い顔でうなだれている。
「大丈夫よ。ホラ、ここからが本番。メールを3通と、わたし自身のタイムリープがあるんだから。いいからこっち来て、手伝って!」
「だが、このタイムリープが成功してしまえば、お前はまた地獄に戻ることになる――未来から来たタイムマスターとの戦い、何人も死ぬ、誰も助けのない、孤独の世界に――俺は、そんな悪夢の世界に、お前を戻したくない」
消え入りそうな声でつぶやく岡部。
――しょうがないやつだなあ。
「いいのよ。わたしが蒔いた種は、わたしがケリをつけなくちゃね」
わたしの弱い心が生み出した悪魔。
タイムマスター。
あいつは、わたしが倒さなくちゃならない。
「そういえば知ってる? 今ここにいるわたしは、いろんな世界線のバリエーションのある牧瀬紅莉栖のなかでも、特に頭がいいんだって――だからかもしれないけど、わたしね、あることが分かったの」
「……? あるものって、それは……」
「――リーディング・シュタイナーの正体」
「……!?」
驚く岡部。
「な、お前、リーディング・シュタイナーは確かにアトラクタフィールド理論最大の謎だが――お前、本当にその正体が分かったのか? 確か、2036年の未来でもリーディング・シュタイナーの謎は解明されていないのではなかったか?」
「そーれーが、分かっちゃったんだなあ。キーポイントは記憶というより認識。観測と言い換えてもいいかな。つまりリーディング・シュタイナーは、量子実験でも有名な、観測効果の一種なのよ」
「観測、効果……? 何だそれは」
「おいおい、昨日教えたばっかりでしょう」
「……そうだっけ」
「あー、いい。これ以上は自分で考えなさい」
「なっ……! お、教えてくれないのか?」
「ふふふ、科学者のささやかな秘密よ」
唇に人差し指をあてる。
岡部はぽかんとしていたが、やがて仕方なさそうに笑った。
「まったく、お前って奴は……」
この終わりのない夏のループを一緒にすごした岡部。
わたしと岡部の距離は、ずいぶん縮まったように思える。
「ねえ、だから心配することなんてないんだぞ。わたしはリーディング・シュタイナーの能力を理解した。それって、どういうことだと思う? わたしが、原理を理解しただけで満足すると思う?」
「だけ、って、お前ひょっとして」
「そう。わたしはリーディング・シュタイナーを再現することができる。機械の補助を使ってね。だからわたしは、今すぐにでも能力者になれる。岡部と同じ能力者に。どんな世界線に行っても、わたしは記憶を継続できる。だからね、ほら、心配する必要なんてないんだから。リーディング・シュタイナーがあれば、β世界線に戻ってからタイムマシンを開発して、わたしの死を回避することだって、不可能じゃない」
「なっ……お前、そんな大事なこと、今までどうして言わなかったんだ!」
ふふん。
理由は簡単。
――嘘だから。
――リーディング・シュタイナーの原理なんて解明できてないから。
できるわけがない。
リーディング・シュタイナーは観測できない物理現象だ。
岡部の脳の中にしかなく、機械を使って客観的に計測できない。
そんなものの原理が分かるわけがない。
それでもわたしは、語り続ける。騙り続ける。
「だから心配せず送り出して。次に会うときは、SERNもラウンダーもいない、平和な秋葉原でね。そしたらもう一度――普通の、デートをしましょ」
「……紅莉栖」
岡部がわたしに手を伸ばしてくる。
いまその手に触れるわけにはいかない。
わたしは気づかないふりをして、ヘッドギアをかぶった。
「さあ、起動して岡部。スイッチを押せばいいだけにしてあるから」
岡部は、ためらいながら電話レンジを起動する。
紫電があふれ、床がミシミシと音をたてはじめる。
「じゃあ、まずメールを送るわ」
手元のケータイを操作して、3通のメールを送る。
1通は過去のわたしへの日本語での指示。
1通は暗号化された数式。
そして、もう1通は――
「岡部」
送信完了、の画面を見ながら、わたしは岡部に話しかける。
「お別れの言葉は言わないでおくわ。そのかわり、あとでメールの受信履歴をちゃんと見ておいて」
「メールの、受信履歴……?」
岡部がなにかに気づいたのか、慌ててケータイのメール画面を開いている。
今なら、岡部に気づかれない。
わたしはPCの『タイムリープ開始』ボタンに手を伸ばす。
あとはこのキーを押すだけ。
岡部が自分のケータイに、見覚えのないメールを発見するとき。
今わたしが送った、3通目のDメールを確認するとき。
わたしはもうこの世界にいないだろう。
この世界は存在しないだろう。
わたしが送ったメール。

[Date] 8/13 17:11 [To]chris-m@docono.ne.jp
[Sub] [Temp]
[Main]この世界の誰よりも、あなたを愛してる


「――紅莉栖、このメール――!」
岡部が何かを言う前に、わたしはキーを押す。
タイムリープマシンが起動。
脳の意識と記憶が読み取られ、ブラックホールを通過し、べつの世界線、べつの時間へと跳躍する。
世界がゆがむ。
涙目の岡部の顔も。
見慣れたラボも。
秋葉原の空気も。
遠い世界線の彼方、時間の彼方、認識の彼方へと、無限後退していく――

歪んで消えていく世界に向かって、わたしはつぶやく。
――ありがとう岡部。
――わたし、戦います。

岡部が何か叫んでいるのが見えた。
その声がわたしの聴覚に届く前に。
世界は裏返り、時間は吹き飛び、そして――


†  †  †


凾cIVERGENCE=0.99999999999032%


†  †  †


戻った感覚が最初に捉えたのは、血の匂い。
粘っこく錆びた、誰かの血液の匂い。
それから硝煙。銃の匂い。電離した空気の焦げた匂い。
視覚が続いて戻ってくる。
皮膚がちりちりする。
暗い部屋。
くすんだ黄色の照明が、部屋の壁に反射して目に刺さる。
意識が戻る。
わたしは咳き込んだ。

「――ど、どうして――!?」

誰かの声。
ほんものの驚愕に震える声。
その声には、聞き覚えがある。
もうずっと昔に聞いた声だ。

わたしは目を開ける。
天王寺家の地下室。
部屋の中を、薄い煙が漂っている。
ジャズの音は、もうしない。
――わたしは戻ってきた。
地獄に。
決戦の場所に。

「どうして戻ってきたの、あなた――!」

悲痛な声。
わたしは痛む頭を押さえ、その声の主を見る。
モデルのような長身。流れる栗色の髪。体にはりつくアーミージャケット。
――牧瀬紅莉栖。
「どうして、どうして、どうして! 全てがそこにあったはず。あなたが望んだ世界線があったはずよ! なのにどうして戻ってきたの! し……信じられない、わたしはこの計画に、25年を費やしたのよ!」
そこにいるのは、たくらみの失敗した、敗残者だった。
わたしは、吸い込んだ煙に咳き込みながら、答えてやる。
「――ただいま」
「ただいまじゃ、ないっ!」
牧瀬紅莉栖が机に拳を叩きつける。
「分からない。論理的にありえない! あなたは自分が望み、世界が望んだ結末を否定するの? そんなことはできっこない。不可能よ!」
「でもわたしは戻ってきたわ。それが真実」
「どうして……」
顔を歪ませる牧瀬紅莉栖。
「さあね。あなたの用意したエンターテイメントが、退屈だったからじゃないかしら?」
「……っ、馬鹿にするな……!」
牧瀬紅莉栖は自動小銃を構える。
天王寺綯の生命を奪った、フルオート連射式の自動小銃だ。
「なぜ? どうして? あなたが欲しいものは、すべてそこにあったでしょう? あなたの欲しいものは、未来なんかじゃなかったはずでしょう?」
心が冷えていくのが分かる。
――この女は、なにも分かっちゃいないんだ。
わたしが学んだこと。
ほんとうに大切なこと。
エンドレスナインの世界線で手に入れたもの。
この女は何ひとつ手に入れられないまま、理解できないまま、大人になってしまったんだ。
それは、とても――
「哀れね、あなた」
牧瀬紅莉栖の顔色が変わった。
「いい加減にしなさいっ!」
銃を突きつける。
「小娘の分際で、未来の自分に説教するつもり!?」
「いいえ。あなたは未来のわたしじゃない。別の世界線の、別の牧瀬紅莉栖。なぜならあなたは分かっちゃいない。大切なのは合理性じゃない。論理性じゃないのよ。大切なのは自分の意思で選ぶこと。自分の足で前に進むこと」
「私だって自分の意思で選んでいるわ!」
わたしは首を横に振る。
やっぱり、何も分かっちゃいない。
「それは選んでるんじゃない。情報に流されているだけ。そういう意味じゃないの。そんな生易しいものじゃない。その証拠に、本当の意味で選択することができるようになれば、世界はまるで違って見える」
岡部との絆。
世界との絆。
決してもう間違えない。
今のわたしには、すべてが見渡せる。
「今のわたしなら、何もかもが分かるわ。タイムマスター――あなたがなぜ間違えたか、その理由も。ひとつひとつ指摘してあげましょうか?」
「小娘――! あんまり大人を舐めるんじゃないわよ!」
牧瀬紅莉栖の顔は、歪んでいた。
怒りに。
当惑に。
自分の目の前で起こっている事象が、理解できない悔しさに。
指摘してやるべきだろう。
未来のわたしへ。
わたしがなるかもしれなかった、死産した可能性の自分へ。
「あなたの敗因その1。ひとりで行動したこと。誰も信用しなかったこと。もしあなたに、ラウンダーや傭兵の部下なんかじゃない、本当に信頼できる味方がいれば、結末は違ったかもしれない。もっといろんな手が打てたかもしれない。でもしょせんあなたの望みは、他人と共有できないもの。ひとりで行動するしかなかった。それがあなたを追いつめ、誤らせた」
「その口を閉じなさいっ!」
牧瀬紅莉栖の手が振られた。
わたしの頬に当たり、鋭い音がする。
唇の端が切れて、血がにじんだ。
それでもわたしの心は静かなまま。
表情を変えずに続ける。
「――あなたの敗因、その2。わたしの武器をタイムリープマシンだけだと思い込んだこと。電話レンジを押さえれば、わたしが何もできないと思ったんでしょう? でも違う。過去に戻ることを武器とできるのは、この世でただ一人、岡部倫太郎だけ。わたしの武器はタイムリープじゃない。もっと違うところにある。あなたは、わたしの武器の本質を見抜けなかった」
牧瀬紅莉栖の――表情が変わる。
悪鬼の顔に。
殺人者の顔に。
「いいわ――大した自信じゃない。じゃあわたしがこんなことをしても、ひとつの敗因につながるのかしら?」

そう言うと牧瀬紅莉栖は、銃を持ち上げて。
撃った。
わたしの脚がはじけ飛ぶ。

「…………っ!!」
吐き出された3発の弾丸のうち、2発がわたしの右の太ももに刺さり、貫通した。
脊髄が痙攣する。
視界が真っ赤に染まるほどの激痛。
「あ……、っ……!!」
床に倒れる。
弾丸が抜けていった傷口から、おびただしい血液が流れ出ていく。
両手で足の付け根を押さえつけ、血流を少しでも止める。
それでも、激痛に指が震えて、満足に力が入らない。
「さあさあ、ここからどういう大逆転劇を見せてくれるのかしら、天才少女さん?」
「っ…………」
瞬間的に血圧が下がって、意識がブラックアウトしそうになる。
――知識としては知っていたけど、実際撃たれるのはこうも違うものか。
脳で暴れる激痛に、一瞬すべてを投げ出して喚き出したくなる衝動にかられる。
――それでも。
「それでも……何も、変わら、ないっ……」
わたしは撃たれた右足を庇って、這っていく。
部屋の隅へ。
牧瀬紅莉栖から距離をとるように。
息があがる。
冷たい汗が額に浮かぶ。
それでも、何も変わらない。
すべてが計画通り。
「あなたに、過去は、操れ、ないっ……」
激痛に歯をくいしばりながら、それでもわたしは語り続ける。
それが使命だから。
わたしが生まれてきた理由だから。
「あなたは、自分さえも、操れない、から……」
時計を見る。
午後18時19分。
――すべて予定通り。
「自分さえ、操れない、世界線の、奴隷、だから……っ」
牧瀬紅莉栖の銃口が揺れる。
迷ってる。
彼女は、その気になればいつだってわたしを撃ち殺すことができる。
けれどそれがどういう結果を生むのか読みきれていない。
『過去の自分』殺し――
それは最大のパラドックス。
殺した未来の自分がいないのなら、過去の自分は殺されない。過去の自分が殺されないなら、未来の自分はいる。
終わりのない無限自己撞着。
だから、わたしは負けない。
それが、過去が未来に対して持つ、唯一のアドバンテージ。
わたしは這って、壁際に背をつく。
横には、タイムリープマシン。
何度もお世話になった、古ぼけた電話レンジ。
わたしはその横に座り込む。
「……いい加減諦めなさい、クリスティーナ。銃はこっち。タイムリープマシンの起動スイッチもこっち。そして相手はこの私。さあ、どうする? キャンセルDメールも送れないわよ? ――あなたには何ひとつ手札がない。いくらあなたでも、この状態から逆転はできないわ」
「ふふ、うふふ……」
「……何がおかしいの?」
「あなたは、わたしを、恐れてる。なにかしてくるんじゃないかって、この状況から逆転してくるんじゃないかって、恐れてる。だから銃を下ろせない。意味がないと分かっていても、銃口で脅すのをやめられない。――これが滑稽じゃなくて何だって言うの?」
「黙れ、この小娘!」
牧瀬紅莉栖の銃が再び吼える。
弾丸がわたしの顔のすぐ横の壁にめり込み、粉塵をまき散らす。
そのとき、耳の奥で鈍い痛み。
銃で撃たれたからじゃない、まったく別種の痛み――音から来る痛みだ。
その痛みは、鈍く低く、わたしの鼓膜を振動させる。
わたしは牧瀬紅莉栖を見る。
牧瀬紅莉栖は変わらず、わたしに銃口を突きつけて睨んでいる。
気づいていない。
わたしはポケットの中を確かめる。
白衣の中に入っている、携帯電話を。
「――あなたの敗因、その3。それは、あなたが過去に記憶を送って、天王寺綯を乗っ取ったこと。それ自体が最大の失策よ。乗っ取ったのが小学生の天王寺綯だったら、話は違ったかもしれない。けどあなたはその体を選んだ。22歳の、成人になった天王寺綯の体を。そのほうが体格的に有利だから選んだのだろうけど……それが最大の敗因」
「…………」
もはや牧瀬紅莉栖は返事をしない。
理解できないのだろう。
『銃をつきつけられた状態で逆転なんてできるわけがない』、そう思っているのだろう。
だが、彼女は勝利条件を間違えている。
だからこそ、これから起こることを理解できない。
「Dメールなんて必要ない」
わたしは言い放った。
Dメールなんて必要ない。そんなことをしなくても、未来は変えられる。
――そうでしょう、岡部?
わたしの隣で目を閉じている岡部を見る。
岡部は電話レンジの上に座り、背中側で手を縛られている。
意識を奪われ、昏睡してから数日。
だいぶ憔悴しているようだ。顔色も悪い。
わたしが選んだもの。
わたしが進むべき道。
岡部。

わたしの戦いの前提、勝利条件は、『岡部へのノイズメモリー攻撃を、Dメールを使ってキャンセルする』ということだった。
でも、それは最初から困難な道。
Dメールで過去に『送信取り消し』の命令を出したところで、過去の天王寺綯がそれに従うわけがない。
だからずっと考えていた。
どこかで『道筋を外れる』必要があるってこと。
天王寺綯の仕組んだゲームのルールから、逸脱する必要があるってこと。
それが、今。

「聞こえるかしら、この音が」
「……何? 音? なんのことを言っているの?」
携帯の着信音を変えておいた。
この世界線に戻ってすぐ、牧瀬紅莉栖と会話をして、注意をそらしている間に。
大人には聞こえない音。
牧瀬紅莉栖には気づくことのできない着信音――モスキート音に。
いま、それが鳴っている。
『わたしのケータイに着信がある』――それが意味することはひとつ。
残念よ、牧瀬紅莉栖。
あなたは勝利条件を間違えた。
わたしにとっての勝利条件は、岡部を復活させること。
生き残ることじゃ、ない。

「いつまで寝てるの、岡部倫太郎!」
わたしは叫ぶ。
「あんたもう起きる時間でしょ! いいかげん起きなさい! 起きて、着替えて! それからさっさと、世界を救いなさい!!」
叫ぶ。
同時にケータイをポケットから取り出す。
牧瀬紅莉栖がわたしの動きに反応して、銃口を上げる。
遅い。
わたしの動きのほうが、一瞬早い。

わたしはケータイを開き、
岡部の耳に押し当て、
『通話』ボタンを、

押した。


†  †  †


わたしの戦略は、こうだった。
過去の自分にDメールを送り、岡部がタイムリープしたときの記憶情報を、ハードディスクにバックアップしておくよう指示。
記憶はわずか36バイト+αの情報データだから、保存しておくのはもちろん、持ち運ぶのだって簡単。
そしてそのデータを、タイムリープマシンを使って、『未来に向かって』送信する。
そもそもタイムリープマシンを『未来に向かって』使うなんて、誰もやらない。
今の情報を未来に飛ばしたところで、意味がないからだ。
――普通なら。
わたしはその裏をかいた。
岡部がなにかのタイミングで記憶をデータ化したとき、わたしはそれを保存・未来へと送信する。
この時間にいる、記憶死した岡部に送るために。
ノイズ化した岡部の脳の中、海馬C3に、正しい記憶情報を注入するために。
これが『奥の手』。
Dメールを使わない、岡部復活法。
ゲームの『抜け穴』。
過去のわたしを説得し、納得させ、未来に向かって記憶データを発信させる――
それだけのことを実行させるために、暗号メールを作ったのだ。


†  †  †


地下室に、見えない衝撃が走る。
電波がわたしの携帯を通り抜け、微細な電流となって走る。
それは極微量のパルス電流。
数値にして0.02アンペアほどの微弱電流。冬場のセーター以下。
でも電流が流れる場所は。
岡部の――脳の中――!

「帰ってこい、岡部ええええええええぇぇぇぇっ!!」

「っ……く、させるか!」
牧瀬紅莉栖が引き金を引く。
ばら撒かれる銃弾。
狙いが外れたのか、天井や壁に次々に着弾。弾痕の列を描いていく。
弾丸のひとつが証明に当たり、砂埃といっしょに落ちてくる。
ガラスが割れ、破片となってわたしたちの上に降り注ぐ。
いくつかの棚が倒れ、中のガラス瓶が割れる音。
なにが壊れたのか、灰色の砂のような粒子が舞い上がる。
視界が隠れる。
岡部も、牧瀬紅莉栖も。
なにも見えない。

岡部――岡部は!?

岡部の姿を探す。
うまくいった?
岡部は無事?
舞い上がる粒子を手で払いのけながら、なんとか視界を確保しようともがく。
手がタイムリープマシンに当たる。
岡部の体を手で探す。
岡部、岡部の体が――――――ない。
いない。
岡部は、どこ?
岡部は、どこに行ったの?

「よく頑張ったな、紅莉栖」

どこからか声がした。
優しい声。
ついさっきまで、ずっと隣にいた声。
そして、ずっとずっと聞けなかった声。
「お……かべ……っ!」
背後から、そっと肩に手が回される。
その手が触れたところから、電流のようなものが走る。
「あ……っ」
反射的に声が漏れる。
「俺が来た。もう大丈夫だ。心配かけたな」
振り返る。

その男は白衣を翻して。
すべてを見通したような瞳を前に向け。
暗い地下室のなか、まるで舞台の上に立っているように。
その男は立っている。

能力者。
この世の観測者。
神に最も近い男。

「岡部――倫太郎――っ!」

その声は誰の声だったか。
白衣の男の前に、ひとりの女が立っている。
銃を向けて。
今にも泣き出しそうな顔で。

「どうして……」
その女は、震える声で叫んだ。
「どうして、私の邪魔をするの、岡部倫太郎……っ!」
その指先が、震えている。
トリガーにかけた指に、力が入っている。

やばい。
この女、撃つ気だ。

指が痙攣し、銃口が持ち上げられる。
岡部の額に向けて、銃が――
時間がスローモーションになる。
なにか役に立つ動作をする暇は、まったくない――
「駄目!」
わたしは叫ぶ。
「逃げて、岡部っ!!」

トリガーが引き絞られる。
銃が震える。
弾丸が、吐き出される――

「そんなもので俺を殺せるとでも思っているのか?」

岡部は、涼しい顔で歩き始める。
首を少しだけ、右に傾けながら。
なにごともなかったかのように。
銃なんて発射されなかったかのように。

でも、わたしは見た。
銃声は、した。
弾丸は発射された。
そして、岡部が首を傾けた瞬間と、銃声がしたのがほぼ同時だった。
わたしが見たものが、見間違いでなかったなら――

岡部が――弾丸を――避けた。

「な、……っ……!?」
驚愕に目を見開いた牧瀬紅莉栖も、同じものを見たらしい。
さらに銃を構える。
セミオートで、弾丸が、3発。
今度こそ、顔面を狙って発射される。

「無駄だ」

岡部が体を横にそらす。
避けた場所を、忠実に弾丸がなぞっていく。
岡部には当たらない。

「うっ、……くっ!」
自動小銃のレバーをセミオートからフルオートに変え、さらに銃を構える。
「無駄な抵抗はやめたほうがいい。どうせ、弾切れだよ」
岡部が指を指す。
牧瀬紅莉栖がトリガーを引く。
撃鉄を叩く軽い音。弾丸は発射されない。弾切れ。
「な……こ、こんなことが……!」
牧瀬紅莉栖は腰のハンドガンに持ち替え、さらに銃を撃つ。
撃つ。
撃つ。
撃つ。
そのどれもが岡部には当たらない。
当たらない。
当たらない!
岡部は涼しい顔。
「これが『タイムマスター』? この程度の力が『タイムマスター』なのか? ぬるい、ぬるいぞ。『時間を操る』というのはな、こういうことを言うのだ」
岡部が足元の石ころを拾い上げる。
石ころを無造作に投げた。
その石に、牧瀬紅莉栖の放った弾丸が当たる。
石がはじけ、破片が飛び散る。
破片になった小さな石粒が、『偶然』牧瀬紅莉栖の目に入る。
「あ……っ! 痛っ……!」
目の痛みに怯んで、一瞬だけ牧瀬紅莉栖が銃口を下ろす。
その隙に、飛び込むように。
岡部が、牧瀬紅莉栖の懐に入る。銃を持つ手を、そっと押さえる。
それだけで、牧瀬紅莉栖は弾かれたように硬直した。
「あ……っ」
「理解したか? お前では、俺に、勝てない。なぜならお前と俺では『時間使い』としての、格が違うからだ」
「ま……さ、か……岡部倫太郎、あなたは」
「そうだ。俺の能力――『リーディング・シュタイナー』を使わせてもらった。この銃撃戦を経験したうえで、世界線を変え、お前から記憶を奪った。覚えていないだろう? お前は何度も銃を撃ち、俺はそれを経験したうえで『やり直し』ている」
「馬鹿なっ……! そんな、この世界で、世界線の大変動を、記憶を吹き飛ばすほどの変動値を出せるはずが……!」
「そう思うか?」
岡部は牧瀬紅莉栖から銃を奪う。
弾倉を抜き、銃を解体してから床に投げ捨てる。
「ならば聞こう。『俺を誰だと思っている?』」
――そうか。
そういうことか!
わたしの頭の中で、理論がつながる。
「ラボに捨ててあった、外れ宝くじ……!」
「ご名答。やるではないか。さすがは我が助手」
この地下室に来る前、ラボでわたしと橋田は、ゴミ箱に捨てられた外れ宝くじを見た。
あの時はなんのことか分からなかったけど。
あれは、世界線の『遠距離』変動――リーディング・シュタイナーを発動させた、痕跡だったのか!
どういう行動がどのくらい世界線を変動させるのか、というのは様々な要素がある。
だから、わたしやタイムマスターは、自分の記憶を飛ばしてしまわないよう、Dメールやタイムリープには細心の注意を払う必要があった。
でも岡部にはそんな注意は必要ない。
遠慮なく世界線を『遠距離』変動させて、わたしたちの記憶を消し去ってしまえばいい。
そして、今までのDメール実験のなかで、最も効率的に“リーディング・シュタイナー”を発動させることができたのは――
「宝くじ……そうか、宝くじなら、リーディング・シュタイナーが発動することが確認されてる。さらに外れ宝くじなら、他の要因に波及して過去を大きく変えることもない」
ラボに捨ててあった宝くじは、世界線を大変動させるための“エンジン”だったんだ!
「そういうことだ。能力も持たずに俺に勝つなど、千年早いよ、レディー」
「くっ……!」
牧瀬紅莉栖が、最後の手段に、腰のアーミーナイフに手を伸ばし――
「やめておけ」
そっと、その手を押さえた。
あくまで優しく。
レディをエスコートする紳士のように。
アーミーナイフの上に、手を置いた。
「その行動も『知って』いる」
岡部の顔が、タイムマスターのすぐ傍まで来ている。
もう少し近づけば、鼻が触れ合うほどの至近距離。
岡部の目が、タイムマスターの瞳を間近でのぞき込む。
「あ……っ」
タイムマスターの瞳から、力が失われる。
「岡部……倫太郎……っ」
タイムマスターの体から力が消え、ゆっくりと膝をつく。
その体を、岡部が優しく抱きとめる。
壊れやすいものでも扱うように。
「岡部っ……! その女から、離れて!」
わたしは反射的に、自分の拳銃を構えていた。
両手でグリップを握り締め、タイムマスターに狙いをつける。
「離れて岡部! そいつは危険よ! なにをするか分からない!」
「いいんだ、紅莉栖。こいつにはもう、戦う理由がない。――そうだろう?」
最後の台詞は、腕の中のタイムマスターに向けて発せられていた。
「おか、べ……私は……」
タイムマスターの、クオーターの美しい髪が流れる。
「疲れただろう。……もう、休め」
「岡部! そいつから離れて!」
わたしは拳銃を離せない。トリガーにかかった指に力が入る。
「銃を下ろせよ、紅莉栖。どうせこの女はもうすぐ消えるんだ」
「え――?」
消える――?
どうして?
タイムマスターが、消える?
「タイムマスターの過去である紅莉栖、お前の意識が変わったことで、世界が大きな影響を受けている。もうすぐこの世界は、アトラクタフィールドを飛び越える、世界線の大移動を起こすだろう。そうすれば、牧瀬紅莉栖が過去にタイムリープする因果が消え、タイムマスターとして起こした出来事自体が“なかったこと”になる」
「ど……どういうこと? 岡部はその世界を見てきたの?」
「そうだ。分かりやすく言うとだな――お前の『勝ち』だ。お前は未来の自分に勝ったんだ、紅莉栖」
『勝ち』。
わたしの。
でも、それは――
「岡部倫太郎……やっぱり……私は、消えるのね……?」
岡部の手の中で、消え入りそうな声で、女が言う。
「ああ。そうだ。もう苦しまなくていい。過去の自分を欺くような真似は、もうよせ」
「ああ……何もかも、お見通しなのね、あなたは……」
女の顔が、歪む。
女は何かに耐えている。
耐える。
耐える。
耐える。
耐えられない。
「ああ、岡部……! 岡部、岡部、岡部……っ!」
女はついに決壊したように叫んだ。
長い睫毛に、涙の滴が散る。
「岡部……会いたかった、会いたかったよう……!」
女の腕が白衣を握り締める。
岡部の胸に、額をうずめる。
「ホントは、他のことなんてどうだってよかった。どうだってよかったの! ただもう一度、あなたに会えれば……」
牧瀬紅莉栖は、子どものように泣きじゃくる。
大粒の涙がぽろぽろと頬を流れ落ちる。
それでも牧瀬紅莉栖は目を見開き続ける。
大切な人を、一秒でも長く見ようとでもしているみたいに。
「2025年に、あなたは死んだ! テロリストとして狙われ、わたしと一度も会えないままに……! 私は、なんとかしようと思った! 岡部、あなたの死を回避するために、何度も何度もタイムリープした! けど……無駄だった……!」
それは――岡部がまゆりに対してしたことと同じ。
岡部も同じように戦い――そして世界線収束の壁に阻まれた。
「岡部、あなたの死を変えるには、この時代から変えるしかなかった。岡部も、私も、そしてまゆりも、誰ひとり死なない世界を、私の手で作り出すしかなかった……」
牧瀬紅莉栖の指が、透けてきている。
まるで存在そのものが透明になっていくように――
岡部の白衣を握る指先から、徐々に、消えていく。
「でも今……ようやく、気がついたわ。そんなものはどうだってよかった。私はただ、もう一度、あなたに会いたかったんだわ。会って、触れて、名前を呼んでもらいたかっただけだったの。だってあなた――15年も会わずに、ひとりで、死んじゃうんですもの――!」
「……すまない」
岡部はそれしか言えない。
牧瀬紅莉栖の体がどんどん透けていく。
肩のあたりまで半透明になっている。
「ねえ、岡部――あなたから、わたしは何に見える? 教えて……最後に。ねぇ、岡部」
「お前は――」
岡部の顔が歪む。
「お前は、紅莉栖だ」
その言葉を聞いて、牧瀬紅莉栖の瞳から、また一粒の涙が流れ落ちる。
涙は地面に着く前に消えていく。
「もっと、もっと呼んで……わたしの名前を」
「紅莉栖。お前は紅莉栖だ。たったひとりでよく頑張ったな、紅莉栖」
「ああ、岡部、岡部……っ」
子どものように泣きじゃくる。
「お願い、もう体の感覚がないわ――最後に、抱きしめて、岡部――」
岡部は無言で両腕をまわし、強く腕の中に抱き寄せる。
最後に牧瀬紅莉栖がどんな表情をしていたのか、わたしのほうからは見えなかった。
彼女は、岡部の名前を呼びながら、岡部の腕の中で消えていった。
岡部は何もない空間を抱き続けた。
そこには何も残らなかった。
ただ彼女のいた場所の砂埃だけが、彼女の倒れていた形の輪郭にそって、薄い跡をつくり――そしてすぐに、崩れて消えた。


こうして――わたしの戦いは、終わった。

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